愛の重さは人知れず

ゆきの(リンドウ)

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 それから、詩音の保険証を取りに部屋へと戻った。戻る間際、心配そうな惣一郎に看護師が何かあったら連絡すると言ってくれて、少しだけ気苦労が減った。

 部屋へ戻ると、なんだかすごく久しぶりに帰って来たような気がした。最後に家を出たのが一時、今は午前十時。たった九時間しか経っていない。
 これが安心感というものだろうか。入った瞬間に香る慣れ親しんだ匂いに、そんなことを思い、自然と涙腺が緩みそうになる。

 泣いている場合じゃない、今、一番苦しいのは詩音なんだぞ。

 そう言い聞かせ、緩みそうな涙腺を引き締め直す。
 テレビ台の横のチェスト、その一番上。詩音はそこに大事なものを入れてあると言っていた。ふと、そんなことを思い出し、開けた。いつもは開けない、小さな引き出し。
 綺麗に小さな篭で区分けされているそこに、保険証の入ったポーチがあった。ポーチを取ると、下に何か入っている。手帳らしく、小振りでシンプルな表紙だ。

 詩音はここを絶対に開けるなとは言わなかった。年に一度ほど、高熱を出した時にしか使わない、惣一郎の薬手帳もそこには入っている。
 見てはいけないような気になりながら、そっと、ゆっくり手帳のページを捲る。
 そこには、日付と何行かの文章が書かれていた。

『二月一日 天気は晴れ
 今日は惣が早く帰ってきてくれた。嬉しい。だから今日は惣の好きな夕飯にした。惣、喜んでくれるかな?最近、残業ばかりで疲れてるみたいだから、食べて元気になってほしい』

『二月十日 天気は雨
 昨日、惣と喧嘩した。僕が小さなことを気にしたのがいけなかった。けど、気になる。惣は格好いいから、他の子を好きにならないか気になる。出会った頃より年も取ったし、若くて素敵な子に目移りしたらどうしよう』

 それは詩音の日記だった。日記の下に、写真が小さく貼られている。
 几帳面な字にまっすぐ貼られた写真が、詩音らしくてふと、笑みが零れる。読み進めていると、ある時から詩音の日記には今まで語られなかった詩音の内心が見え隠れし始めた。

『六月二十三日 天気は晴れ
 惣が何かを隠している気がする。僕には言えない何か。昨日も誰かと会ってたみたい。浮気じゃないって信じてるけど、惣じゃなくてその人が惣を好きになったらって気が気じゃない』

『七月三日 天気は曇り
 惣に言いたい。でも、言ったらきっと、惣は心配するかな。これ以上、惣の負担になりたくない。上手く、隠し通せたらいいな』

 本気で自分が情けなく、そして小さな男に思えた。

 惣一郎が三月に会い、詩音の笑顔を想像し、楽し気に計画を練っていた時も詩音は、不安に駆られていた。
 浮気するのではなく、好きになられるのではと。惣一郎の負担にならないようにと、何かを一人で抱え込んでいた。そのことに今、ようやく気が付けた。

 泣く資格なんかない。なのに、頬を流れる涙は惣一郎の意志とは関係なく、流れ落ちていく。
 頬を伝い、カーペットへ染み込み、跡形もなく消えていく。まるで、もう、その想いが詩音には届かない。そう言われているような気がして、涙は止まることを知らない。

「くそ…くそッ!」

 吐き捨てられた言葉の中、どうしても拭えない後悔が込められる。
 どうして気が付けなかったんだ。詩音の何を見てきたんだ。

 きっと気が付けた。ふいに、詩音が何か言いたそうに、けれど言葉を呑み込んだ瞬間が目に浮かんだ。
 あの時、少しでもその変化を口に出来ていれば。一歩、詩音の心に踏み込む勇気があればもしかしたら、詩音が一人で抱えることはなかったかもしれない。

 人は後悔した瞬間、あり得ない『たられば』を、思い浮かべるという。今まで、仕事でミスをした時でさえ、そんなことを思いもしなかったのに、今は強くそう思っているし、願いすらしている。
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