愛の重さは人知れず

ゆきの(リンドウ)

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「詩音ッッ!」

 お願いだから俺の前で作り笑いはしないでくれ。

 そう願いを込めて、詩音の名前を呼んだ。さきほどより強い口調のそれは、もしかしたら古いアパートに響き渡っているかもしれない。
 思いながらも、張り上げる声を小さくすることはできない。

「なんでお前は、言いたいことを言わない?」
「…言いたいことなんか、ないよ」
「じゃあ、最近、何か言いたそうにしてたのはなんなんだ?」

 ついに、言ってしまった。だが、もう後には引けない。
 見える詩音の背中は、力が入り、強張っている。

「ずっと、気になってた。今まで聞けなくて悪かった」
 言うと、詩音は首を横に振る。

「聞かせてくれるか?お前が悩んでる原因」

 俺にも分けてくれないか―。

 喉元まで出かかった言葉、けれども声にはならず。しばらく、詩音が口を開くまで沈黙を守っていると、ふいに、目に震えだす背中が映る。

 泣いている、声も出さずに。そう思うと、途端に抱きしめたくなった。
 抱きしめて、震える背中を撫でて、優しく、俺の全てで包み込みたい。そうすれば詩音を震わせている原因の少しでも、俺に移りはしないか。

 そうだったら、いいのに。

 そっと、詩音がまた、逃げ出さないように惣一郎は詩音へと近づく。
 決して、おごっているつもりなどなかった。自分が詩音の全てを優しく、まるで聖母か神のように包み込んで、その不安を消し去る力があるとも思っていない。
 ただ、少しだけでいい。ほんの少しだけの愛でも、詩音に届けばいい。俺がいる、だから大丈夫。そう、わかってほしくて、その肩に触れようとした。

 すると、詩音が小さく何かを呟いている声が聞こえ、けれど聞き取れなくてもう一度、聞き返す。

「惣にだけは、絶対、知られたくない…ッ!」

 ソウニダケハゼッタイシラレタクナイ

 生まれてからずっと、よちよち歩きの赤ん坊の頃から聞いてきたはずの日本語がふいに、外国の聞いたこともない国の言葉に聞こえ、脳内で変換できずにいた。

 今、詩音はなんて言ったんだ?

 認めたくない、理解したくない。理解してしまえば、認めざるを得ない。認めてしまえば、存在価値すら危うくなる。
 惣一郎が詩音の恋人である存在価値。決して誰にも、その価値は揺るがせられないと思っていた価値が今、目の前で音を立てて崩れていく。

 崖っぷちに立っていたその崖が、ガラガラと音を立てて崩れていく。必死で掴もうとしても掴めず、助けてくれる腕も見えない。

 恋人ですらなかったのか。

 名前だけの恋人で、真の恋人ではなかったと、そう言われているようで惣一郎はただ、行き場を失った手をだらりと下げ、立ち尽くした。

「惣!違う、今のはッ…!」

 詩音が遠くで何かを言っている気がする。が、もう聞こえる声は遠すぎて、耳には届かない。
 けれど、どうしても。耳が声を遠ざける前に、聞きたかった。たとえ、詩音が惣一郎のことを心から頼れる恋人だと思えなくても、聞きたかったことがある。

 勢いよく振り向いたのか、服が擦れる音が聞こえ、詩音が惣一郎の方を向いてくれたのだとわかった。けれど、惣一郎は俯いてしまった顔を上げることはできず、ありったけの力を込めた拳を握りしめ、たった一言を詩音に問いかけた。

「俺って、詩音にとっての何?」
「惣?」
「俺はずっと、詩音の恋人だって思ってた。仕事で辛いことがあっても、何があっても、帰る場所は詩音、お前のとこだってずっと思ってたよ」

 声は震え、けれど一度紡ぎ始めた気持ちは留まることを知らない。

「詩音の顔見たら安心できた。詩音がおかえりって言ってくれるから、また明日も頑張ろうって思えた。けど、詩音は違うのか?」
「…違うわけ、ないよ」
「じゃあどうして、俺には笑ってくれないんだ」

 俯き、流れる髪の隙間から見えた詩音の手が、色を変えてきつく握られている。

 意地悪なことだったのかもしれないな、とどこか冷静な頭が思う。詩音自身、気が付いているかわからない笑い方を問うなんて、卑怯かもしれない。
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