3 / 19
一章
第2話:守りたいものを、守るために
しおりを挟む
カルマシティは、夜ごと深まる闇が街の隅々まで覆い尽くし、重苦しい静寂に沈んでいた。かつては笑い声や足音が絶えなかったこの街も、影獣の脅威が増す中、人々は灯りを消し、息を潜めるようになっていた。
「影の守り人」という存在の噂が囁かれる。無明《むみょう》の力を操り、影獣に立ち向かう彼ら。しかし、その力は影獣を討つたびに使用者の心を蝕み、やがて守り人自身が影獣と化す宿命を抱えていた。守護者でありながら破滅を内包する彼らは、孤独にその運命を歩むしかなかった。
凛は暗い路地の奥で、眼前にいる影獣を睨みつけていた。妹・香奈を影獣に奪われた彼は、その仇を討つという目的のみに生きる理由を見出している。復讐のために手にした黒い刀には冷たい光が宿り、漆黒の翼を背に広げた凛の姿は、まるで闇そのもののようだった。
「これが終われば、次はどこへ……?」
彼の独り言に答えるように、黒猫の姿をした結女《ゆめ》が静かに声をかけた。
「凛、これ以上その力を使い続けるのは危険よ。無明の力は、あなたを影獣に近づけるだけだわ」
凛は一瞥だけ結女に視線を向けたが、すぐに冷たく影獣の残骸に戻した。
「どうなろうと構わない。俺の目的は香奈の仇を討つこと。それ以上でも、それ以下でもない」
結女は凛の返答に悲しげに目を伏せた。彼が無明の力を使うたび、その瞳には赤い輝きが増し、身体には黒い模様が広がっていた。それでも彼を止める術を持たない自分がもどかしかった。
「それでも、凛が壊れてしまうのを見ているだけなんて……」
結女の呟きに応えることなく、凛は刀を背負い歩き出した。その背中は冷たく硬い壁のようで、彼女の思いを受け止める余地を持たないかのようだった。
影獣を討ち続ける日々。凛は疲労すら感じず、ただ復讐を遂行する刃として闇を歩んでいた。しかしその夜、彼の前に新たな影が立ちはだかった。冷ややかな瞳の女性、黒華《くろか》だった。
「君が噂の黒い影か。なるほど、その姿は影獣と何も変わらないな」
冷静な声が闇に響く。凛はその言葉に反応し、黒華を冷たく睨みつけた。視界に映るその姿は、夜闇のような黒髪が滑らかに背中まで伸び、鋭い眼差しがまるで矢のように射抜く。身体にぴたりとフィットした黒い軽装アーマーは、動きやすさを重視した設計で、緊張感漂う戦闘の準備を物語っている。
「俺に何か用か?」
「無明の力を使い続ける先に何が待っているのか、君も知っているはずだ。それを理解してなお、その道を進むつもりか?」
凛は鼻で笑った。
「どうなるかなんてどうでもいい。香奈の仇を討つ。それだけだ」
黒華は鋭い眼差しで彼を見据えたまま、冷たく言い放った。
「その力でどれだけの影獣を討とうと、君自身が影獣になる未来からは逃れられない」
凛は黒華の言葉を聞き流すように刀を構えたが、その表情にはかすかな苛立ちが浮かんでいた。
「俺のやり方に文句があるなら、お前も討つか?」
黒華はわずかに笑みを浮かべた。
「いずれ君が影獣と化した時は、私が君を討つ。それが私の使命だ」
彼女の言葉は冷たく突き刺さり、凛の心にわずかな揺らぎを生じさせた。しかし彼はその動揺を押し殺し、冷たく答えた。
「ならばその時まで待て。今は俺のやるべきことを邪魔するな」
黒華はその答えに満足したのか、刀を鞘に収めて背を向けた。
「君がその道を選ぶなら、それを止める権利はない。ただし、いずれ選択を迫られることを忘れるな」
彼女の背中が闇に消えた後も、凛はその場に立ち尽くしていた。影獣を討つたびに深まる自身の闇と、無明の力がもたらすリスク。その代償を理解しつつも、彼は再び歩き出した。
「香奈のためだ。それ以上の理由なんて必要ない」
その言葉を心に繰り返しながら、凛は次の影獣を求め、夜の闇へと足を進めていった。
凛は次の影獣を求め、廃墟となった街を歩いていた。足音だけが冷たい夜風に溶ける中、結女が再びその影に寄り添うように現れた。
「凛……また何も食べてないのね」
彼女の静かな声は、夜の静けさに溶け込むようだった。
「戦いに余計なものは必要ない」
凛は短く言い捨てると、結女の存在すら意識しないかのように歩みを続けた。
結女はふっと溜息をつくと、彼の隣を並んで歩く。
「無明の力が、あなたを少しずつ蝕んでいるのを感じるわ。それでも、私はあなたを信じてる。凛、あなたは影獣になんてならない」
凛は一瞬だけ足を止め、結女を振り返った。その瞳には、赤い光がかすかに浮かんでいる。
「……どうしてそう思う?」
「だって、あなたは香奈を守ろうとしたじゃない」
結女の言葉には、彼女自身が抱える迷いすら込められていた。
「俺は守れなかった」
凛は短くそう言い捨て、再び前を向いた。
「守れなかったから、今こうして戦っている。それだけの話だ」
結女はその背中を見つめ、彼の心に深く根付いた痛みに気づきながらも、それを癒す術を持たない自分に苛立ちを覚えた。
その夜、凛は廃墟の広場で影獣と対峙していた。無明の力を解放した彼の一撃は影獣を圧倒し、黒い刀が空を裂いた。影獣の断末魔が響くと同時に、その血の霧が凛の周囲に広がる。
「まだ足りない……」
呟くように言葉を漏らす凛の瞳には、赤い輝きが増していた。彼は無明の力を限界まで引き出し、影獣を斬り伏せるたびに、自分の内側に芽生える異常な感覚を押し殺していた。
その異常を察知したのは黒華だった。
「また会ったな、黒い影」
彼女の冷静な声が闇を裂くように響く。
「お前か」
凛は刀を構えたまま、彼女を睨みつけた。
「影獣を討つたびに君の力が増しているのは事実だ。だが、同時に君の心が影獣に近づいていることもな」
凛は黒華の言葉に反応せず、無言で刀を鞘に収めた。
「俺には時間がない。話をするつもりなら手短にしろ」
黒華はわずかに目を細め、彼に一歩近づいた。
「君が影獣になったとき、それを討つのはこの私だ」
その言葉には、黒華自身の覚悟が滲んでいた。かつて彼女も無明の力に囚われた弟を討たねばならなかった。その記憶が、今目の前の凛と重なって見えたのだ。
「影獣になる気はない」
凛は静かに答えた。
「だが、香奈の仇を討つためならば、どうなろうと構わない。それだけだ」
黒華はしばし沈黙した後、背を向けて言い捨てた。
「その覚悟が本物なら、最後まで貫くがいい。だが、その先で自分を見失うな。お前は私が討つ価値のある男だ」
その後、凛は影獣討伐を続けていたが、結女は彼の変化に気づいていた。無明の力を使い続けるたびに、彼の身体を覆う黒い模様が広がり、彼の瞳が時折獣のような輝きを帯びているのを目にしていた。
「凛、このままでは……あなたが壊れてしまう」
その呟きには、結女の焦りと決意が込められていた。彼女は凛を止めることはできない。それでも彼のそばで、彼を見守ることが自分の役目だと信じていた。
数日後、凛が次の影獣を追っている中、新たな気配が彼の前に立ちはだかった。その影は、凛がかつて対峙した影獣よりもはるかに強大なオーラを放っていた。
「……これは?」
凛の瞳が赤く輝き、刀を握る手に力が入る。
影獣はゆっくりと口を開き、低い声で語りかける。
「お前もいずれ、俺たちの一部になる」
その言葉が凛の胸に不快感をもたらし、無言で刀を構える。
「俺が進む道は一つだ。貴様を討つ。それ以上はない」
闇がさらに深まる中、凛の復讐の旅は新たな局面を迎えようとしていた。
凛が立ち向かった影獣は、今までのどの影獣よりも強大だった。その巨大な体は闇そのものと化し、動くたびに周囲の空気が歪むような感覚を覚える。影獣の禍々しい咆哮が廃墟の街に響き渡る中、凛は黒い刀を構え、冷徹な声で呟いた。
「どれだけ強かろうと関係ない。すべて斬る。それだけだ」
影獣が繰り出した禍々しい黒い爪の一撃を、凛は一瞬でかわし、刀を振り抜いた。その一撃は影獣の巨体を切り裂き、黒い霧を吹き出させた。しかし、影獣はその傷口を即座に再生し、不敵な笑みを浮かべる。
「お前の力……まさに影獣そのものだな」
影獣の言葉に、凛は苛立ちを覚えながらも動じることなく再び間合いを詰める。無明の力を解放した彼の動きは人間離れしており、影獣の猛攻をかわしながら鋭い一撃を叩き込む。そのたびに影獣の体は削られていくが、凛の身体にも異変が起こり始めていた。
彼の瞳は完全に赤く染まり、手には不自然に鋭い爪が浮かび上がる。背中から伸びる漆黒の翼が、まるで影獣と一体化したかのような異形の姿を形作り始めていた。
戦闘の場から少し離れた場所で、その様子を見ていた結女は、凛の姿に胸が締め付けられるような痛みを覚えた。彼の背中に広がる黒い模様、赤く輝く瞳。それは、彼が影獣化に近づいている証拠だった。
「凛! もうやめて! それ以上その力を使ったら……!」
結女は涙ながらに叫び、凛のもとへ駆け寄ろうとするが、影獣が禍々しい笑みを浮かべて低く唸った。
「お前の友は必死に止めようとしているが……無駄だ。無明に飲まれた者は、二度と戻れない」
結女の足が止まり、震えた声で呟く。
「そんなことはない……凛は、絶対に戻れる……私は、彼を信じてる!」
その時、闇の中からもう一つの影が現れた。黒華だった。月明かりに照らされたその姿は冷静そのもので、彼女はゆっくりと戦場に歩み寄ると、凛と影獣の間に割って入った。
「凛、これ以上はやめるんだ」
冷静な声が、しかしどこか切実に響く。
「邪魔をする気か?」
凛は黒華を睨みつけた。瞳の赤い輝きが増し、彼の声には獣のような唸りが混じり始めていた。
黒華は一歩も引かず、凛を見据えた。
「私はお前を止めるつもりはない。ただ、お前がこのまま堕ちるなら、私が討つ。それだけだ」
その言葉にはかつて自らの手で弟を討った経験が滲んでいた。彼女の瞳は揺るぎなく、どこか寂しげだった。
「その覚悟があるなら、勝手にしろ」
凛は冷たく言い放ち、再び影獣に向き直った。
凛と黒華が共闘する形で影獣に挑む。黒華の精確な剣技と、凛の無明の力による猛攻。二人の攻撃が影獣を追い詰めるが、そのたびに凛の身体はさらに闇に染まり、獣のような姿へと変貌していく。
影獣が倒れる寸前、凛の身体から黒いオーラが一層強く吹き出した。その場に膝をつくと、彼の背中から黒い翼が広がり、赤い瞳がさらに輝きを増す。
「凛! お願い、やめて!」
結女の声が響く中、凛は身体を震わせながらも、徐々に獣の唸り声を上げ始めた。
凛の身体が完全に影獣化しつつある中、結女は震える手で彼に向かって一歩踏み出した。
「凛……私を思い出して!」
結女の言葉が、彼の中に残された人間らしさにかすかに響いた。その瞬間、凛の動きが止まり、赤い瞳がわずかに揺らいだ。
「結女……俺は……」
凛の声が震え、理性を取り戻しかけていた。
黒華がその様子を見て、刀を構え直した。
「戻れるのか? それとも――」
結女が振り向き、黒華に鋭く叫んだ。
「待って! 彼は、まだ戻れる!」
凛は結女の声に応えるように、ゆっくりと立ち上がった。赤い瞳の輝きが次第に弱まり、彼の身体を覆う黒い模様がわずかに後退し始める。
その時、影獣が最後の力を振り絞り、凛に向かって猛然と襲いかかった。凛はその攻撃を受け止め、全力の一撃を繰り出した。影獣の身体が裂け、闇が霧散する。
静寂が訪れる中、凛は刀を収め、膝をついた。
「……俺は負けなかったのか……?」
結女が駆け寄り、そっと彼の肩に手を置いた。
「負けてないわ。あなたは、ちゃんと戻ってきた」
黒華は二人を見つめながら刀を鞘に収め、静かに呟いた。
「無明をここまで抑え込めるとは……だが、次も同じとは限らない」
凛は結女と共に歪んだ鉄筋が見えるコンクリートの森を出た。影獣の脅威は一旦去ったものの、彼の身体にはまだ無明の力の痕跡が残っていた。
「まだ……終わらないのかもしれないな」
凛はそう呟き、夜空を見上げた。その目には、再び立ち上がる決意が宿っていた。
「影の守り人」という存在の噂が囁かれる。無明《むみょう》の力を操り、影獣に立ち向かう彼ら。しかし、その力は影獣を討つたびに使用者の心を蝕み、やがて守り人自身が影獣と化す宿命を抱えていた。守護者でありながら破滅を内包する彼らは、孤独にその運命を歩むしかなかった。
凛は暗い路地の奥で、眼前にいる影獣を睨みつけていた。妹・香奈を影獣に奪われた彼は、その仇を討つという目的のみに生きる理由を見出している。復讐のために手にした黒い刀には冷たい光が宿り、漆黒の翼を背に広げた凛の姿は、まるで闇そのもののようだった。
「これが終われば、次はどこへ……?」
彼の独り言に答えるように、黒猫の姿をした結女《ゆめ》が静かに声をかけた。
「凛、これ以上その力を使い続けるのは危険よ。無明の力は、あなたを影獣に近づけるだけだわ」
凛は一瞥だけ結女に視線を向けたが、すぐに冷たく影獣の残骸に戻した。
「どうなろうと構わない。俺の目的は香奈の仇を討つこと。それ以上でも、それ以下でもない」
結女は凛の返答に悲しげに目を伏せた。彼が無明の力を使うたび、その瞳には赤い輝きが増し、身体には黒い模様が広がっていた。それでも彼を止める術を持たない自分がもどかしかった。
「それでも、凛が壊れてしまうのを見ているだけなんて……」
結女の呟きに応えることなく、凛は刀を背負い歩き出した。その背中は冷たく硬い壁のようで、彼女の思いを受け止める余地を持たないかのようだった。
影獣を討ち続ける日々。凛は疲労すら感じず、ただ復讐を遂行する刃として闇を歩んでいた。しかしその夜、彼の前に新たな影が立ちはだかった。冷ややかな瞳の女性、黒華《くろか》だった。
「君が噂の黒い影か。なるほど、その姿は影獣と何も変わらないな」
冷静な声が闇に響く。凛はその言葉に反応し、黒華を冷たく睨みつけた。視界に映るその姿は、夜闇のような黒髪が滑らかに背中まで伸び、鋭い眼差しがまるで矢のように射抜く。身体にぴたりとフィットした黒い軽装アーマーは、動きやすさを重視した設計で、緊張感漂う戦闘の準備を物語っている。
「俺に何か用か?」
「無明の力を使い続ける先に何が待っているのか、君も知っているはずだ。それを理解してなお、その道を進むつもりか?」
凛は鼻で笑った。
「どうなるかなんてどうでもいい。香奈の仇を討つ。それだけだ」
黒華は鋭い眼差しで彼を見据えたまま、冷たく言い放った。
「その力でどれだけの影獣を討とうと、君自身が影獣になる未来からは逃れられない」
凛は黒華の言葉を聞き流すように刀を構えたが、その表情にはかすかな苛立ちが浮かんでいた。
「俺のやり方に文句があるなら、お前も討つか?」
黒華はわずかに笑みを浮かべた。
「いずれ君が影獣と化した時は、私が君を討つ。それが私の使命だ」
彼女の言葉は冷たく突き刺さり、凛の心にわずかな揺らぎを生じさせた。しかし彼はその動揺を押し殺し、冷たく答えた。
「ならばその時まで待て。今は俺のやるべきことを邪魔するな」
黒華はその答えに満足したのか、刀を鞘に収めて背を向けた。
「君がその道を選ぶなら、それを止める権利はない。ただし、いずれ選択を迫られることを忘れるな」
彼女の背中が闇に消えた後も、凛はその場に立ち尽くしていた。影獣を討つたびに深まる自身の闇と、無明の力がもたらすリスク。その代償を理解しつつも、彼は再び歩き出した。
「香奈のためだ。それ以上の理由なんて必要ない」
その言葉を心に繰り返しながら、凛は次の影獣を求め、夜の闇へと足を進めていった。
凛は次の影獣を求め、廃墟となった街を歩いていた。足音だけが冷たい夜風に溶ける中、結女が再びその影に寄り添うように現れた。
「凛……また何も食べてないのね」
彼女の静かな声は、夜の静けさに溶け込むようだった。
「戦いに余計なものは必要ない」
凛は短く言い捨てると、結女の存在すら意識しないかのように歩みを続けた。
結女はふっと溜息をつくと、彼の隣を並んで歩く。
「無明の力が、あなたを少しずつ蝕んでいるのを感じるわ。それでも、私はあなたを信じてる。凛、あなたは影獣になんてならない」
凛は一瞬だけ足を止め、結女を振り返った。その瞳には、赤い光がかすかに浮かんでいる。
「……どうしてそう思う?」
「だって、あなたは香奈を守ろうとしたじゃない」
結女の言葉には、彼女自身が抱える迷いすら込められていた。
「俺は守れなかった」
凛は短くそう言い捨て、再び前を向いた。
「守れなかったから、今こうして戦っている。それだけの話だ」
結女はその背中を見つめ、彼の心に深く根付いた痛みに気づきながらも、それを癒す術を持たない自分に苛立ちを覚えた。
その夜、凛は廃墟の広場で影獣と対峙していた。無明の力を解放した彼の一撃は影獣を圧倒し、黒い刀が空を裂いた。影獣の断末魔が響くと同時に、その血の霧が凛の周囲に広がる。
「まだ足りない……」
呟くように言葉を漏らす凛の瞳には、赤い輝きが増していた。彼は無明の力を限界まで引き出し、影獣を斬り伏せるたびに、自分の内側に芽生える異常な感覚を押し殺していた。
その異常を察知したのは黒華だった。
「また会ったな、黒い影」
彼女の冷静な声が闇を裂くように響く。
「お前か」
凛は刀を構えたまま、彼女を睨みつけた。
「影獣を討つたびに君の力が増しているのは事実だ。だが、同時に君の心が影獣に近づいていることもな」
凛は黒華の言葉に反応せず、無言で刀を鞘に収めた。
「俺には時間がない。話をするつもりなら手短にしろ」
黒華はわずかに目を細め、彼に一歩近づいた。
「君が影獣になったとき、それを討つのはこの私だ」
その言葉には、黒華自身の覚悟が滲んでいた。かつて彼女も無明の力に囚われた弟を討たねばならなかった。その記憶が、今目の前の凛と重なって見えたのだ。
「影獣になる気はない」
凛は静かに答えた。
「だが、香奈の仇を討つためならば、どうなろうと構わない。それだけだ」
黒華はしばし沈黙した後、背を向けて言い捨てた。
「その覚悟が本物なら、最後まで貫くがいい。だが、その先で自分を見失うな。お前は私が討つ価値のある男だ」
その後、凛は影獣討伐を続けていたが、結女は彼の変化に気づいていた。無明の力を使い続けるたびに、彼の身体を覆う黒い模様が広がり、彼の瞳が時折獣のような輝きを帯びているのを目にしていた。
「凛、このままでは……あなたが壊れてしまう」
その呟きには、結女の焦りと決意が込められていた。彼女は凛を止めることはできない。それでも彼のそばで、彼を見守ることが自分の役目だと信じていた。
数日後、凛が次の影獣を追っている中、新たな気配が彼の前に立ちはだかった。その影は、凛がかつて対峙した影獣よりもはるかに強大なオーラを放っていた。
「……これは?」
凛の瞳が赤く輝き、刀を握る手に力が入る。
影獣はゆっくりと口を開き、低い声で語りかける。
「お前もいずれ、俺たちの一部になる」
その言葉が凛の胸に不快感をもたらし、無言で刀を構える。
「俺が進む道は一つだ。貴様を討つ。それ以上はない」
闇がさらに深まる中、凛の復讐の旅は新たな局面を迎えようとしていた。
凛が立ち向かった影獣は、今までのどの影獣よりも強大だった。その巨大な体は闇そのものと化し、動くたびに周囲の空気が歪むような感覚を覚える。影獣の禍々しい咆哮が廃墟の街に響き渡る中、凛は黒い刀を構え、冷徹な声で呟いた。
「どれだけ強かろうと関係ない。すべて斬る。それだけだ」
影獣が繰り出した禍々しい黒い爪の一撃を、凛は一瞬でかわし、刀を振り抜いた。その一撃は影獣の巨体を切り裂き、黒い霧を吹き出させた。しかし、影獣はその傷口を即座に再生し、不敵な笑みを浮かべる。
「お前の力……まさに影獣そのものだな」
影獣の言葉に、凛は苛立ちを覚えながらも動じることなく再び間合いを詰める。無明の力を解放した彼の動きは人間離れしており、影獣の猛攻をかわしながら鋭い一撃を叩き込む。そのたびに影獣の体は削られていくが、凛の身体にも異変が起こり始めていた。
彼の瞳は完全に赤く染まり、手には不自然に鋭い爪が浮かび上がる。背中から伸びる漆黒の翼が、まるで影獣と一体化したかのような異形の姿を形作り始めていた。
戦闘の場から少し離れた場所で、その様子を見ていた結女は、凛の姿に胸が締め付けられるような痛みを覚えた。彼の背中に広がる黒い模様、赤く輝く瞳。それは、彼が影獣化に近づいている証拠だった。
「凛! もうやめて! それ以上その力を使ったら……!」
結女は涙ながらに叫び、凛のもとへ駆け寄ろうとするが、影獣が禍々しい笑みを浮かべて低く唸った。
「お前の友は必死に止めようとしているが……無駄だ。無明に飲まれた者は、二度と戻れない」
結女の足が止まり、震えた声で呟く。
「そんなことはない……凛は、絶対に戻れる……私は、彼を信じてる!」
その時、闇の中からもう一つの影が現れた。黒華だった。月明かりに照らされたその姿は冷静そのもので、彼女はゆっくりと戦場に歩み寄ると、凛と影獣の間に割って入った。
「凛、これ以上はやめるんだ」
冷静な声が、しかしどこか切実に響く。
「邪魔をする気か?」
凛は黒華を睨みつけた。瞳の赤い輝きが増し、彼の声には獣のような唸りが混じり始めていた。
黒華は一歩も引かず、凛を見据えた。
「私はお前を止めるつもりはない。ただ、お前がこのまま堕ちるなら、私が討つ。それだけだ」
その言葉にはかつて自らの手で弟を討った経験が滲んでいた。彼女の瞳は揺るぎなく、どこか寂しげだった。
「その覚悟があるなら、勝手にしろ」
凛は冷たく言い放ち、再び影獣に向き直った。
凛と黒華が共闘する形で影獣に挑む。黒華の精確な剣技と、凛の無明の力による猛攻。二人の攻撃が影獣を追い詰めるが、そのたびに凛の身体はさらに闇に染まり、獣のような姿へと変貌していく。
影獣が倒れる寸前、凛の身体から黒いオーラが一層強く吹き出した。その場に膝をつくと、彼の背中から黒い翼が広がり、赤い瞳がさらに輝きを増す。
「凛! お願い、やめて!」
結女の声が響く中、凛は身体を震わせながらも、徐々に獣の唸り声を上げ始めた。
凛の身体が完全に影獣化しつつある中、結女は震える手で彼に向かって一歩踏み出した。
「凛……私を思い出して!」
結女の言葉が、彼の中に残された人間らしさにかすかに響いた。その瞬間、凛の動きが止まり、赤い瞳がわずかに揺らいだ。
「結女……俺は……」
凛の声が震え、理性を取り戻しかけていた。
黒華がその様子を見て、刀を構え直した。
「戻れるのか? それとも――」
結女が振り向き、黒華に鋭く叫んだ。
「待って! 彼は、まだ戻れる!」
凛は結女の声に応えるように、ゆっくりと立ち上がった。赤い瞳の輝きが次第に弱まり、彼の身体を覆う黒い模様がわずかに後退し始める。
その時、影獣が最後の力を振り絞り、凛に向かって猛然と襲いかかった。凛はその攻撃を受け止め、全力の一撃を繰り出した。影獣の身体が裂け、闇が霧散する。
静寂が訪れる中、凛は刀を収め、膝をついた。
「……俺は負けなかったのか……?」
結女が駆け寄り、そっと彼の肩に手を置いた。
「負けてないわ。あなたは、ちゃんと戻ってきた」
黒華は二人を見つめながら刀を鞘に収め、静かに呟いた。
「無明をここまで抑え込めるとは……だが、次も同じとは限らない」
凛は結女と共に歪んだ鉄筋が見えるコンクリートの森を出た。影獣の脅威は一旦去ったものの、彼の身体にはまだ無明の力の痕跡が残っていた。
「まだ……終わらないのかもしれないな」
凛はそう呟き、夜空を見上げた。その目には、再び立ち上がる決意が宿っていた。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
忌むべき番
藍田ひびき
恋愛
「メルヴィ・ハハリ。お前との婚姻は無効とし、国外追放に処す。その忌まわしい姿を、二度と俺に見せるな」
メルヴィはザブァヒワ皇国の皇太子ヴァルラムの番だと告げられ、強引に彼の後宮へ入れられた。しかしヴァルラムは他の妃のもとへ通うばかり。さらに、真の番が見つかったからとメルヴィへ追放を言い渡す。
彼は知らなかった。それこそがメルヴィの望みだということを――。
※ 8/4 誤字修正しました。
※ なろうにも投稿しています。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
好きな人に『その気持ちが迷惑だ』と言われたので、姿を消します【完結済み】
皇 翼
恋愛
「正直、貴女のその気持ちは迷惑なのですよ……この場だから言いますが、既に想い人が居るんです。諦めて頂けませんか?」
「っ――――!!」
「賢い貴女の事だ。地位も身分も財力も何もかもが貴女にとっては高嶺の花だと元々分かっていたのでしょう?そんな感情を持っているだけ時間が無駄だと思いませんか?」
クロエの気持ちなどお構いなしに、言葉は続けられる。既に想い人がいる。気持ちが迷惑。諦めろ。時間の無駄。彼は止まらず話し続ける。彼が口を開く度に、まるで弾丸のように心を抉っていった。
******
・執筆時間空けてしまった間に途中過程が気に食わなくなったので、設定などを少し変えて改稿しています。
五歳の時から、側にいた
田尾風香
恋愛
五歳。グレースは初めて国王の長男のグリフィンと出会った。
それからというもの、お互いにいがみ合いながらもグレースはグリフィンの側にいた。十六歳に婚約し、十九歳で結婚した。
グリフィンは、初めてグレースと会ってからずっとその姿を追い続けた。十九歳で結婚し、三十二歳で亡くして初めて、グリフィンはグレースへの想いに気付く。
前編グレース視点、後編グリフィン視点です。全二話。後編は来週木曜31日に投稿します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる