水面に流れる星明り

善奈美

文字の大きさ
上 下
7 / 12

陸章

しおりを挟む
 頗梨は玉響の部屋に向かう前に千樹の元を訪れた。
 
「千樹様」
 
 寝ているかもしれないと思い、控え目に声を掛ける。
 
「家主は此処に居ないぞ」
 
 頗梨はその声に驚き、思いっきり襖を横へと引いた。かなりいい音をさせた襖の先に居るのは灯璃だ。彼が居る事自体は驚く事もない。最近は千樹と共に酒を酌み交わす事も多い。
 
「血相を変える必要もないだろう? 千樹はチビのところだ」
「どう言う事です?」
「昨日、チビ妖狐達が千樹を呼びに来たんだよ」
 
 灯璃は隠す事なく真実を口にする。呆けている頗梨を見、灯璃はニヤリと口を歪め笑った。徐に立ち上がると頗梨を促す。
 
「面白そうな事になってると思うからな。行ってみよう」
 
 灯璃は面っと言い切ると、頗梨の横を通り過ぎる。それに慌てたのは頗梨だ。灯璃が面白がっているという事が危険なのだ。何がと問われれば、それは千樹が、という意味で。
 
「お待ち下さい! 私が確認をして来ます!」
 
 頗梨の叫びに灯璃は意に介さず、背を向けたまま右手を上げると振る。
 
「そんな必要はない。こっそり行くから楽しいんだよ」
 
 少し体を後ろに向け、灯璃は楽し気な表情を頗梨に向ける。頗梨はと言えば、千樹の一大事だと更に慌てるが相手が悪かった。灯璃はさっさと歩いて行ってしまう。頗梨は襖を閉め慌てて後を追った。部屋に辿り着く前に灯璃を止めるつもりだった。だが、時すでに遅しだ。灯璃の手が玉響の部屋の襖に伸び、ゆっくりと引かれた。
 
「親子だな」
 
 灯璃は苦笑いを浮かべ腕を組む。その言葉に頗梨は室内に視線を向けた。幼い妖狐が二匹、玉響と共に就寝するのは何時もの事だ。だが、玉響に添い寝をしている千樹を認め頗梨は驚いた。よくよく観察すれば、千樹の着物の袂を玉響が握り締めている。察するに千樹は側を離れられなかったのだろう。
 
「何があったのでしょう?」
 
 頗梨の問いに灯璃は考える。普通に考えて、寝付けなかったからだとは考えにくい。それくらいなら、幼い妖狐が二匹して千樹を呼びには来ない。灯璃は玉響の顔に視線を向け、その答えが分かった。玉響の目蓋と頰は赤く腫れていた。
 
「やっと、受け入れたか?」
「どういう事です?」
「両親が本当の意味で亡くなったと納得したんだろうな」
 
 時刻的に深夜に差し掛かっていた。普通の子供なら夢の中だ。玉響は今までの事を夢に見たのだろう。それは頭が整理を始めた証拠だ。そして、目覚め泣いていたのだろう。その場に千樹が現れたのならこうなっても仕方ない。
 
 灯璃は音を立てないように近付き、二人の横にしゃがみ込んだ。千樹はと言えば、普通に眠っている。玉響の体温のせいで眠気に襲われたのだろう。子供の体温は高い。逆に千樹の体温は低い方だ。
 
「気持ち良さそうに眠っていますし、どうしたものでしょう?」
 
 灯璃は二人を確認した後、頗梨を伴い部屋を出た。静かに襖を閉めると頗梨と向き合う。
 
「このまま寝せておけ。俺は取り敢えず住処に戻る。千樹にそう伝えておいてくれ」
「朝餉は?」
「いい。適当に何処かで取る」
 
 灯璃はそう言うと、足を外へと向ける。そして、何かを思い出したように、頗梨を振り返る。
 
「チビの婚礼衣装でも用意したらどうだ? 本人達は否定するだろうが、周りはそうじゃない。成人していないとかの問題じゃない」
 
 灯璃はそう言うと千樹の屋敷を後にする。それを見送った頗梨は、灯璃の言葉にうまく反応が出来なかった。意識を戻した時には、灯璃の姿は視界から消え失せていた。慌てて灯璃の姿を探しても、千樹の結界内に灯璃の気配はなかった。

 
 頗梨は立ち尽くし、ある事に気が付き大いに慌てた。千樹は灯璃にこのような姿を見せたくはなかった筈だ。一人あたふたしていると、背後に人が動く気配を感じた。ゆっくり振り返るとそこに居たのは不機嫌な表情の千樹だ。頗梨の背を自然と冷や汗が流れる。
 
「……灯璃は?」
「お、お帰りになられました」
 
 頗梨は千樹の表情を伺う。どうやら千樹は灯璃がこの部屋を訪れた事を知っているようだ。千樹は忌々しそうに舌打ちをする。
 
「また、揶揄われる材料を与えたな……」
 
 千樹は右手で髪を掻き揚げた。
 
「あの、玉響様は?」
 
 頗梨は元々、玉響の部屋を訪れる予定であった。何か用事があるかもしれないと、千樹の元を訪れたに過ぎないのだ。
 
「目を覚ました。支度を手伝ってやってくれ」
「左様ですか?」
 
 頗梨はそれを聞くと部屋へと姿を消した。それを見送った千樹は思案する。千樹は灯璃に玉響と寝ている場面を見られたのは心外だが仕方がない。ただ、灯璃が帰ったと言う事は、当分大きな出来事が起こらないと判断しての事だろう。千樹にしてももう少し落ち着くまでは、何事も起こってもらいたくなかった。
 
 しかし、魔や神、妖が大人しくしてくれる筈もない。玉響はこれを期に変化していくだろう。両親の死を受け入れ、玉響が置かれた状況を今まで以上に察するだろう。玉響の身を守るためには四精霊と二匹の幼い妖狐に名を与える事だ。それをすれば少しではあるだろうが、状況を改善出来る。そして、灯璃が言うように玉響が身に付けている首飾りの勾玉に千樹の妖力を込める。
 
 灯璃はただ、玉響に千樹の妖力を込めた物を持たせるように言ったのではない。玉響が千樹の妖力を込めた物を持つ事で、低級の妖に対する牽制となる。千樹は妖の中では上位に位置する。灯璃も同様だ。余程でなければ手を出してくる輩はいない。だが、玉響に関しては余程以上の存在だ。玉響を手中に収めれば、持つ力を飛躍的に増強出来る。中途半端に強い力を持つ者は喉から手が出るほど欲しいに違いない。
 
 しかも、玉響はまだ、何者にも染まっていない。真っ新の存在なのだ。全くもって、上手い事事が運ばない。千樹は基本的に争いを好まない。穏やかに日々を過ごす事を望んでいる。かと言って、これだけ事情を知ってしまった玉響を投げ出す事は無責任だ。
 
 するりと足に触れたモノに千樹は視線を向ける。そこに居るのは二匹の幼い妖狐だ。二匹の妖狐も玉響同様手に余る。この二匹も成長すれば大きな力を持つ事になる。魂は強い力を持っていた妖狐と陰陽師だ。しかも、魂を入れる器は何もない場所から四精霊の力を桜が借りて作り出している。ある意味、この二匹も特殊な存在と言えるだろう。
 
 玉響同様、神はこの二匹を欲する可能性もある。何せ、二匹は肉の衣から生まれていない。全く血という穢れに触れていないのだ。千樹は膝を付くと、二匹の頭に手を置く。この二匹は離れる事はないだろう。記憶がなかったとしても、本能で互いを求め合う。離れ離れになろうと、どんな手を使っても引き合う事になる。厄介だと言えばそうなのだが、強い絆は護りにも繋がる。
 
「お前達の名も、玉響に考えてもらわなければな」
 
 千樹の言葉に二匹は首を傾げた。千樹が名を与える事も確かに出来る。だが、安全を考えるなら、使役出来るように玉響が与えた方が良いのだ。まだ、幼い玉響では自分の身を自分で守るのは不可能だ。四精霊と二匹の妖狐に護られても、安全だとは言い難い。
 
「千樹様」
 
 二匹の妖狐の相手をしていた千樹は、背後から掛かった声に顔だけ向けた。姿を確認せずとも声が玉響のものであると千樹は分かっている。その背後に頗梨が控えている事もだ。
 
「昨晩はご迷惑をお掛けしました」
 
 身なりを整えた玉響は勢いよく千樹に頭を下げる。千樹は立ち上がると、乱暴に玉響の髪の毛を掻き回した。少し長めの髪は、まだ結い上げるには短すぎる。玉響の髪は頗梨に綺麗に櫛で梳かされているので、サラサラとした触り心地だ。着ている着物も水干で色合いは淡い。これは頗梨が千樹の好みを考慮して選んでいるのだろう。いくら、策略を巡らせようと、千樹の気持ちが簡単に揺らぐとは考え難いのだが。
 
「迷惑ではない。すっきりしたか?」
 
 玉響は少しの躊躇いを見せ、だが、はっきりと頷いた。目の周りはまだ、泣いた為に赤味を帯びているが、表情は何か吹っ切れたような感じだ。
 
「話がある」
 
 千樹は玉響を真剣な眼差しで見詰め、玉響の首からか掛けられている首飾りの一番大きな勾玉に手を伸ばした。玉響は少しの首を傾げた。
 
「何でしょうか? 大切なお話なのですか?」
「そうだ」
 
 千樹はそう言うと、頗梨に朝餉の用意を頼み玉響を伴い歩き出す。当然、二匹の妖狐も後を付いて来た。千樹が向かった先は北側の部屋の庭先だ。玉響の両親を埋葬した場所だった。
 
「千樹様?」
 
 玉響は首を傾げた。千樹は何故、この場所に来たのだろうか。
 
「聞こえているな? ここまで勝手に関わったんだ。手を貸してもらうぞ」
 
 千樹は桜の若芽に向かって話し掛けた。当然、玉響は更に首を傾げる。確かに力を持つ桜の若芽だろう。しかし、手を貸すも何も、結界の強化を手伝っているのだ。これ以上、千樹は何を求めているのだろうか。
 
「さっさと妖桜に伝えろ。お前の体内に力を溜め込んだ石が有るだろう。それをさっさと寄越せ」
 
 千樹の物言いに、玉響は目を見開いた。何を言っているのか分からなかったからだ。
 
「千樹様?!」
 
 玉響は慌てて千樹の着物の袂に手を伸ばす。普通に考えるなら無理難題を桜の若芽に吹っかけているからだ。
 
「……ったく。勿体つけずにさっさと出せば良いものを」
 
 千樹の唸り声に視線を向ければ、桜の若芽の上に淡い光が灯っている。
 
「手を出せ」
 
 玉響は千樹に声を掛けられ、更に困惑する。
 
「はい?」
 
 玉響の反応に千樹は大きく息を吐き出した。千樹は着物の袂を掴んでいる玉響の手を桜の若芽の上に持って行く。驚き顔を上げた玉響は千樹の顔を仰ぎ見た。千樹の表情は真剣で、玉響は視線を再び桜の若芽に向けた。
 
 淡い光が玉響の手の上で静止する。千樹はそれを確認すると、玉響の首に掛けられている首飾りを手に取った。一番大きな中央に配置されている勾玉を右手で握り込む。千樹は瞳を閉じ勾玉に意識を集中した。玉響は千樹の行動に息を呑み、そして、何をしているのか察した。勾玉に千樹の妖力が込められたのを感じたからだ。
 
 千樹は瞳を開き、握り込んでいた勾玉を妖桜の力の塊の上に乗せると、右手の人差し指で押し付ける。本来なら玉響は手の平に抵抗を感じるだろう。だが、玉響が感じたのは勾玉のひんやりとした感触だけだった。
 
 勾玉には薄っすらと二本の線が見て取れる。淡い桜色と白色の線だ。
 
「千樹様?」
「玉響がいくら危険を回避しようと注意したところで絶対ではないからな。それに、俺の結界内だったとしても、夢を渡って来られたら意味がない」
「はい」
 
 千樹は勾玉から指を離す。玉響はその勾玉を見詰めた。確かに千樹の妖力を込めたのに、その力を感じない。妖桜の妖力もだ。
 
「俺の妖力だけを込めてしまえば直ぐに知れてしまう。妖桜の妖力を媒介に玉響の力で包み込んだ。もし、玉響の身に何かがあれば、その勾玉が居場所を教えてくれる。絶対に肌身から離すな」
 
 玉響は千樹の言葉は頷く。つまり、何らかの理由で玉響が誘い出されたり、攫われたりした時の保険なのだろう。
 
「後は四精霊と二匹に名を与えろ。此奴等は無意識で玉響の場所を探し出すからな」
 
 千樹はそう言うと、玉響の頭を手で掻き混ぜる。玉響は素直に頷くと、ぎゅっと勾玉を握り締めた。
 
 千樹と共に自室に戻った玉響は、机の前の茵に座り筆を手に取った。千樹は玉響の前に胡座をかく。
 
 玉響の知識はそれなりのものだ。貴彬に記憶を封じられていなければ、読み書きも出来た。貴族の子息としての教育も受けている。そして、千樹が所蔵している書物は人のそれとは量も質も違うものだ。
 
 何かを察したらしい四精霊が勾玉から飛び出してくる。わらわらと千樹の前の机の上に整列した。そして、二匹の妖狐は千樹の横に鎮座する。それを視界に収めた玉響は小さな笑みを見せた。
 
 名を持たぬ者に名を与える。力ある者がそれをすれば、名によって与えた者を縛り付ける事に繋がる。慎重に扱わなくてはならないが、灯璃が言っている事も理解しているのだ。
 
 四精霊は玉響が生まれる前から憑いていた。芙蓉が玉響に可笑しそうに笑いながら言っていた。つまり、生まれてからではなく、生まれる前から四精霊は玉響に憑いていたのだ。ならば、縛ることになろうと、四精霊は意を唱えないだろう。
 
 玉響はゆっくりと息を吸い吐き出した。筆に意識を集中し紙に筆を走らせる。その文字に千樹は目を細めた。こんとは地の意味だろう。れいの意味は涙だ。水を表す精霊に人に使うべき涙の文字を当てたのはどういう意味なのか。千樹は首を傾げた。ようは火の意味だ。火の強い光の意味で決めたのだろう。そうは風の音という意味がある。
 
 書き上げた玉響は筆を置いた。そして、文字が正面に見えるように、四精霊の前に置き直した。文字は力を持ち、音は更にその力を強くさせる。
 
「意味を聞こう」
 
 千樹はそう言うと、泪の文字を指差した。
 
「他の文字が指し示すのは其々の意味だ。だが、これは涙の意だな?」
「はい」
 
 玉響はしっかりと頷いた。
 
「では、何故、その字を使う?」
「僕は今、妖の領分にいます。でも、この体に流れる半分は人のものです」
 
 千樹はスッと目を細める。
 
「忘れない為か?」
「それもありますけど……」
 
 玉響は口籠もった。泪と付けたのは、両親を忘れたくなかったのだ。やっと流すことが出来た涙を玉響は忘れてはならないと思ったのだ。
 
「気持ちの整理の意味もあります。僕は昨日やっと、両親が本当の意味で亡くなっているって認めることが出来たんです」
「気持ちの整理の為か?」
「はい。後は、その力を無闇に使ってもらいたくない。他の子達もそうだけど」
 
 玉響はしっかりと顔を上げ千樹を見据えた。人が捉える涙と、妖のそれは違う。
 
「読み方を教えてやれ」
 
 千樹はそう言うと、文字の書かれた紙を右手の人差し指で数度打った。文字の読み方は様々だ。漢字だけでは名にならない。音も必要なのだ。玉響は一文字ずつ指差し、其々の精霊に音を伝える。ピギャピギャと嬉しそう? に囀り四精霊は其々の文字を喰べた。これには流石の玉響も目を見開く。
 
「玉響は無意識に力を込めただろう。それが分かってるから、文字を喰べた・・・・・・
 
 千樹の説明に納得するも、紙には何一つ変化はない。ただ、墨で書かれた文字だけを吸収したのだ。
 
「まあ、問題は精霊は精霊だが、完全に末端だって事だな。人語を操れないとなると、元々は名もない精霊だろう。ただ、玉響と接点を持った事で自我を得たんだろうな」
「僕とですか?」
「そうだ。自分の持つ力が俺達や神、魔、人のモノと違うのは理解しているな?」
 
 玉響は素直に頷いた。
 
「言うなれば自然そのものに近い力だ。それ故に誰もがその力を得たい。狙われている自覚はあるな?」
 
 千樹の言葉に玉響は首を横は振った。両親にも言われたが、玉響本人がそれに関する危機感を抱いたことがないのだ。
 
 千樹は玉響の様子に軽く驚きの表情を見せた。玉響はこれだけの力を内包していながら、危機感を全く感じていないと言うのだ。普通に考えて、それはかなりおかしい。現に、千樹の結界内では分からなくとも、外に出ればあからさまな気配を感じると灯璃は言っている。即ち、言い換えるなら、玉響の存在は知れていると言う事だ。
 
「感じていないのか?」
「はい。父上が出掛ける時は必ず母上と行動を共にするようにと言っていましたし。僕は未熟で力が弱いから、父上に迷惑がかからないようにと母上も言っていました」
 
 玉響の両親はかなり警戒していたのだろう。それは、玉響の価値を分かっての行動だ。良からぬ輩に攫われないようにとの配慮だろう。
 
 力のある者から、権力絡みの輩まで、玉響を狙う者は其れこそ数えきれない。分かっていたからこその警戒だ。そして、玉響の成長の妨げにならないようにとの配慮に違いない。
 
「では、今は危険であると認識しているな?」
 
 千樹はそう、問い掛けた。両親が揃っている時に危険を感じなかったのは仕方がない。その様な場所を用意され、大切に育まれたからに他ならないからだ。だが、今は違うのである。
 
「分かっています」
「四精霊には名を与えた」
 
 千樹はそう言いつつ、未だ勾玉の中に戻らない四精霊に視線を向ける。そして、千樹の左右に鎮座する幼い妖狐に視線を投げ掛けた。四精霊だけではない。二匹の妖狐にも名は必要だ。其れは、玉響の安全ばかりではなく、二匹の素性を真に隠す事にも繋がる。
 
 名は本質を表す。
 名は与えた者が与えられた者を縛る。
 名は魂の拠り所となり、彷徨う事なく留める力を持つ。
 
 千樹は玉響に視線を戻す。
 
「チビ二匹にも名は必要だ」
「僕ではなく千樹様がっ」
「駄目だ。玉響は本当に両親の死を納得したのだろう。ならば、玉響が二匹にも名を与えるんだ。分かるか? 俺は使役する存在を必要としていない。する必要もない。だが、玉響は違う。本当に術を極めたいのなら、二匹に名を与え使役するんだ」
 
 千樹の言葉に玉響は息を呑んだ。四精霊はずっと一緒に育った。名を与える事に抵抗は全くない。だが、二匹の幼い妖狐は違う。器は変われど、強い力を持っていた両親の魂を持つ存在だ。其れを使役するなど、考え及ばなかったからだ。
 
「二匹の魂は玉響に近い。使役と聞くと使役された者が苦痛を感じると思うだろうが、此奴等は違うだろう。使役しなくとも、玉響の側を離れない」
「だったら……っ」
「だからだ。玉響が二匹を従えれば、もし、互いに何かがあった時、知る事が出来る。根本的なところで繋がるのだ。俺が玉響に渡した勾玉の様に物理的な物とは全く違う」
 
 玉響は千樹の言葉にキュッと唇を噛み締めた。千樹の言い方は二匹を縛る為のものではない。
 
「其れは、信頼関係があってこそ、と言う事ですか?」
「そうだ。二匹にとって玉響は従うべき者だろう。この場にいるのは俺に従ってのことではなく、玉響が居るからだろう」
 
 千樹は再び二匹を見た。二匹はそうだと、視線で訴えている。もし、使役される事に異論があるなら、大人しくはしていないだろう。
 
「僕が付けてもいいの?」
 
 玉響は二匹に伺う様に問い掛けた。二匹は小さく頷く。玉響は肺から息を吐き出した。二匹は新たな体を与えられたとはいえ、元は玉響の両親の魂だ。だから、玉響とかけ離れた名にはしたくない。
 
「千樹様は僕に玉響と名付けて下さいました」
「ああ。あの当時は芙蓉の子とは知らなかったからな」
「儚い命の人だからと」
「そうだ。玉響は音だ。玉が奏でる儚い微かな、な」
 
 玉響は千樹の言葉に頷く。
 
 玉響は改めて筆を取り墨を含ませ、紙と向かい合った。千樹が与えてくれた名は玉が奏でる微かな音だ。妖にとって人の命など儚いものだ。だからこそ、そう名付けたのだろう。
 
 玉響はゆっくりと紙に筆を走らせる。玉響の名が音なら、二匹にも音の意味を持つ名をと。玉響が書き留めた名は音の意を持つ文字だった。
 
 一つは玉音ぎょくいん。玉が触れ合う清らかな音を意味する。もう一つは瓊音ぬなと。此方は玉が擦れ合う音の意味だ。
 
 貴彬の魂を宿す妖狐に玉音と。芙蓉の魂を宿す妖狐に瓊音と玉響は名を贈ったのだ。その文字を書いた紙を二匹に見えるように差し出した。その文字を見た千樹は目を細める。
 
「何方も玉が奏でる音の意味だな」
 
 千樹の言葉に玉響は顔を上げる。
 
「はい」
「二匹の魂を護る意味もあるな」
「はい。玉の奏でる音は邪気を祓います」
 
 玉響は二匹の妖狐に視線を向ける。貴彬の兄により、二人はある意味、呪詛を受けたのだ。其れは言い換えるなら、玉響に向けられる筈であった呪詛も、二人は受けた事になる。今の妖狐の体には呪詛の痕跡はない。四精霊と妖桜の祝福を受けている。おそらく、前の体よりも、強い護りを授かっているだろう。それでも、玉響は更なる護りを贈りたかった。何より、玉響の名と似たような名にしたのは、繋がりを強固にする為でもあるのだ。
 
「よく、似たような言葉を見つけ出したな」
「……本当は前の名前の方が良かったんです。でも、それでは不都合だから、僕に名を与えるように言ったんですよね?」
「そうだ。二人はあまりに知られている。父親は力の質が変わっているが、母親は前と同じ質の力だ。ある程度の力を持つ者なら、名前と力ですぐに知れてしまうからな」
 
 玉響は頷く。千樹は袂から二本の組紐を取り出した。玉響が書いた文字を切り取り、妖力を使い組紐にその文字を織り込む。そして、その組紐を妖狐の首に結び付けた。四精霊と違い、二匹の妖狐はまだ、力が安定していない。その為だ。
 
「千樹様?」
 
 玉響は不思議そうに首を傾げる。
 
「玉響が書いた文字は力を宿している。持っているだけで護りになるだろう。繋がりが強い名を与えられたからな。それ程時をかけず人型にもなれる」
「本当ですか?」
「ああ。元々、芙蓉は人型になっていたからな」
 
 玉響は芙蓉の魂を宿す妖狐を凝視する。
 
「千樹様はいつぐらいから人型に?」
「俺か?」
 
 千樹は考え込む。気が付いた時には人型になっていた。だが、最初に人型になった時、体は玉響より少し年上だったと記憶している。
 
「百歳は超えていたと思うが……」
「それでは、この子達も人型になるのにそれだけの時が必要なのでは?」
 
 玉響は千樹の答えに気落ちする。実質、生まれ変わったのだ。直ぐに人型になり、人語を操るのは無理だろう。焦れば陸な事になりはしない。
 
「焦る必要はない」
「でも、もし僕の寿命が人のように短ければ、僕は二匹と話す事も出来ぬままですよね」
 
 玉響はきゅっと唇を引き結ぶ。玉響の命の長さは未知数だ。妖は一度、命を終えた動物や虫などだ。魂という概念はない。それでも、芙蓉は新たな命を四精霊と妖桜から授かった。
 
「はっきりとは言ってやれん。俺も混血は玉響しか知らん。だからこそ、未知数だとしか言えん。ただ、玉響は俺の縄張り内に居ても体の不調を見せん」
「どういう事ですか?」
「玉響は妖に近く、そして、人にも近い。おそらくだが、玉響の意思が全ての鍵だろう」
「僕の?」
「そうだ。俺がどうこうする訳じゃない。玉響の中の血が何方かを選ぶだろう。それも、玉響の意思で決まる」
 
 玉響の中にある人としての感覚。生まれ育った環境だからこそ、染み付いているのだ。それを変えろとは、流石の千樹にも言えない。ただ、玉響がどう納得するかなのだ。
 
 玉響は思案する。だが、まだ、年端もいかない子供でしかない。将来のことすら漠然としている。その中で、何かを決めるのは無謀であり、自分を追い込む事にもなりかねない。
 
「まず、勉強をして、遊ぶ事からだな。結界の外には出してはやれないが、屋敷の庭なら何処でも遊び場にしたらいい。二匹も遊びたいだろう」
 
 千樹はそう言うと、左右にいる二匹の頭に手を乗せた。魂は玉響の両親でも、実際はまだまだ、幼い妖狐でしかない。
 
「いいんですか?」
「構わない。だが、屋敷内の妖が誰かしら玉響を見張る事になる。自由ではないかもしれないが、解決しているわけでは無いからな」
 
 玉響は小さく頷いた。千樹は自由を与えようとしてくれている。だが、状況がそれを許してはくれない。もし、このような事がなければ、自由に森の中を走り回れただろう。だが、言い換えるなら、このような事態になったからこそ、玉響は千樹の元に来れたのだ。
 
「首飾りは絶対に外すな。それがあれば、何かがあった時、四精霊が玉響を守るだろう。それに、俺と妖桜が感知出来る」
「はい」
「玉響を狙う人間達が命を失えば、少しだが、危険も減る。それまでは、安心出来ん」
「でも、他の……」
「そうだな。妖や神、魔は何時迄も玉響を追いかけ回すだろう。それも、何時かは解決する。玉響が成長し、自分自身で此れからを決めた時にな」
 
 千樹はそこまで言い、左足の膝を立てた。そして、其処に左肘を立て、手を顎に持っていくと考えを巡らせる。灯璃が言っていたように、玉響だけに覚悟や、全てを決めさせる訳にはいかない。千樹が囲い守っている以上、勘ぐる者も出て来るのだ。
 
 玉響の両親に託されたからだけでは、誰も納得しない。必ず誰かしらが千樹に覚悟を促すだろう。
 
「千樹様?」
「もし……」
「はい?」
「もし、玉響が誰かに攫われたら、こう言え。白狐の九尾狐が保護者で番いだと」
 
 玉響は千樹の言葉に目を見開いた。千樹は今までは、その事について否定していた。それをいきなり、何を言いだすのだろうか。
 
「千樹様っ」
 
 玉響は驚きに大声を上げた。玉響は千樹を慕っている。其れこそ、貴彬と同じような感覚だ。妖であるにも関わらず、人間より常識的である。
 
「誰も彼も俺に覚悟を促す。確かに俺が玉響に名を与え、結界内で守っているからな。そして、ただ、守っているだけだと言ったところで、周りはそうではない」
「でも、千樹様の意に反するのでは?」
「そう言う訳じゃない。俺が拘っているのは、玉響の年齢だ。まだまだ子供の域を脱していない。確かに、人からすれば成人年齢になるだろう。早い者なら、もうそろそろ、成人するだろうな。だが、そうも言っていられん」
 
 灯璃が促した事が、事態が簡単なものではいと言っている。おそらく、半分は冗談で言っているだろうが、半分は確実に本気だ。何より、玉響の両親が妖の千樹に子供を託した事が決定的だ。妖に性別は関係ない。加えて、玉響の性はどちらも内包している。
 
 何より、人間の帝が口を出してきている。あそこの血筋は神の血筋だ。下手な事をすると、後々、面倒な事になりかねない。何より、面倒事を最小限にする為には、千樹が受け入れるのが最善なのだ。
 
「覚悟を決めるしかない」
「でも、千樹様のご迷惑に」
「まあ、周りが五月蝿いからな。早く嫁を決めろと」
 
 千樹はそう言うと喉の奥で笑う。何も、子が欲しいわけではない。屋敷の妖達は千樹の妻が欲しいのだ。そうすれば、手を必要としない千樹の世話は出来なくとも、妻の世話が出来る。
 
「覚えておけ。もし、玉響が決めたなら、俺の妻となる。ただ、これはあくまで俺の考えだ。玉響は玉響の思いに素直になるといい。だが、危険が及んだら、さっき言ったように言え。そうすれば、いくばくかは躊躇いを見せる。これでも恐れられているからな」
 
 千樹は大人しくしているが、何も力がないわけではない。ただ、穏やかに過ごしたいだけなのだ。
 
 玉響はキュッと唇を噛み締め、膝の上で両手を握り締めた。千樹は意に沿わぬ決断をしたのではないか。玉響はそう感じていた。一度、懐に入れてしまった玉響を、放り出せない為に決断したのだと。
 
「おかしな事を考えているようだが、嫌々ではない。安心しろ」
 
 玉響は千樹が軽く言った事に何故か苛立ちを覚えた。おそらく、千樹はそう言いながら、今までも厄介事を背負ってきたのではないだろうか。それを考えると、玉響は自身の存在が疎ましく思えた。
 
「俺は言ったな。子供は子供らしくあればいい。今の玉響は子供の思考ではないだろう」
「ですが!」
「いいか。子供は大人を振り回すものだ。特権でもあるだろう。その代わり、大人と認識されれば我が儘は許されない。それなのに、子供の特権を放棄するのか?」
「……それは両親あってのことだと思います」
 
 玉響の言葉に千樹は肩を竦める。
 
「親のいない子供などそれこそ、数え切れない程いる。この屋敷にいる妖とて親などいない。俺や灯璃、玉響の母親の芙蓉にもだ。親ではなくとも、大人の庇護下にいることが出来るのは幸運だ」
 
 千樹はそう言うと遠い目をした。妖は親が妖である場合もあるが、多くは命を失ったモノ達がなる。亡くなった時の思いなど覚えてはいない。それでも、妖に転じたのには訳があるのだ。
 
「千樹様?」
 
 いきなり様子の変わった千樹に、玉響は不安になった。急に気配が変化したからだ。そんな千樹の袂を瓊音が口で咥えて引っ張った。千樹は驚き、瓊音に視線を向ける。瓊音は真摯に千樹を見上げていた。
 
「記憶など失せていよう。どうしてそう気を使う」
 
 千樹は瓊音の頭に手を置いた。過去を振り返って何になるだろうか。千樹は極端に人との関わりを絶っていた。それは幼い時分からだ。灯璃や芙蓉は人に興味を持ったが、千樹はそうではなかった。妖狐となる前、千樹は人に何かをされたのだろう。その記憶は幸か不幸か持ち合わせていない。
 
 人は弱い。だが、知恵を持っている。道具を工夫し、出来なかった事を出来るように考え出す。力を持たないからこそ、協力する事もする。
 
「大丈夫だ。嫌なら対策を講じたりはしない」
 
 瓊音に千樹はそう声を掛け、玉響と向き合う。
 
「子供は子供らしく。決断は速やかにだ」
「……ですが、僕はどうして良いのか分かっていません。勉強をして、父上のように陰陽師の術は習得したいけれど」
「今はそれで良いだろう。漠然としていようと、玉響は先を見ている。俺に迷惑をかけたくないのなら、まず、己の中の力を理解する事だ」
 
 玉響は千樹の言葉に頷く。だが、誰もがどの力に属さないと言う。そうなれば、どう考えれば良いのか。悩み始めた玉響に千樹はそっと息を吐いた。
 
「玉響の力は自然だ」
「え?」
「玉響がいるだけで、周りは同調する。言い換えるなら、四精霊のように勝手に従う者もいるだろう」
 
 玉響が世話になった里は異常気象とはいえ、少ないまでも実りはあった。それは、玉響が関係している。玉響は知らず知らずのうちに周りの環境に影響を与えている。その力が狙われる最大の理由なのだ。悪影響を与えずに、良い方へと導く。
 
「それは……」
「言いたくはなかったが、俺の縄張りの森が変化し始めている。元々、豊かな森だったが、更なる恵みをもたらし始めた。土地も動植物もだ」
 
 千樹が最も危惧しているのは、玉響を利用し千樹の縄張りを狙う輩が現れる事だ。森は千樹の庇護下で人間の手が入らなかった。深く侵入してきた者は千樹が追い出していた。だからこそ、森は荒らされていなかったのだ。そこへ来て、玉響の力が森を豊かにし始めた。微々たる変化はそのうち、目に見えるものに変わるだろう。
 
「変化……」
「そうだ。玉響は此処に来てから外に出たのは妖桜の元に行った時だけだ。あの時は秋から冬に向かう時期だったからな。何も感じなかっただろうが」
「それは千樹様にとって良いことではないでしょう?」
 
 まだ幼い玉響であっても、森が豊かになれば危険が増すことを知っている。千樹が縄張りにしている森は元々、実り豊かな森だ。多くの動植物が生息し、人にも多くの恵みをもたらしている。それは、言い換えるなら千樹が守っているからこそだ。森深くまで干渉すれば神隠しに合う。森近くの里で短いまでも生活していた玉響の耳にも入っていた。
 
 屋敷に多くの妖が居るにも関わらず、里人は妖が居ることを知らなかった。知っていたとしても、悪さをしない妖に関心など持たない。千樹の庇護下で危険もなく住処の心配もない妖は人を襲わないのだ。
 
 そんな森が変化を始めた。更に豊かになれば人だけではなく、多くのモノが関心を寄せる事になる。つまりは厄介事が増える結果になるのだ。妖桜の力もあり、直ぐにどうこうなる訳ではないだろうが、必ず良からぬことが起こる。
 
「……正直に言えば、歓迎される変化ではないな。ただでさえ、この森は利用価値があると手を出す輩が多い。だが、森の住人達は喜んで居るだろう。植物が育まれ草食動物が育ち、それを捕食する肉食動物が森を育てる。俺達も森の恩恵にあやかって居るからな」
 
 千樹は苦笑いを浮かべる。玉響が好き好んで周りに影響を与えている訳ではない。勝手に周りが同調しているのだ。だから、玉響が力を制御出来るようになれば、力の放出を抑えることが出来る。極端な話、上手く制御出来れば泉の結界内だけに影響を止めることが出来るだろう。
 
「僕は無意識に力を使っていると言う事ですか?」
「そうなるな。ただ、悪影響が無かった為に、誰にも気が付かれなかった。両親が玉響の力を利用し、上手く隠してもいただろう。そうでなくては、今頃、都の術者達が玉響を捕まえ利用し、とんでも無い事になってただろうからな」
 
 貴彬が玉響に芙蓉と共に行動するように言っていたのは、ただ、心配だったからではない。玉響だけの問題ではなかったからだ。力の増幅器になりうる玉響は、都の力の均衡を崩す。探り合い、牽制し合っているからこそ、都は表面上平和なのだ。もし、四方を護る術者の力の均衡が崩れれば何かしらの騒動が起こる。上を目指し、結果、力無い者達を犠牲にしても気にもしないのだ。
 
「力を完璧に抑える事は無理だ。俺とて完全には抑えきれていない。ただ、影響を与える範囲を狭める事は出来る」
「それでは……」
「まず、四精霊が玉響の力をある程度利用しているだろう。それだけで、少しは力を抑えられる。それに、玉音と瓊音が更に玉響から力を奪う役目を担う。その理由は分かるな?」
 
 玉響は小さく頷く。名を与え繋がりを持ったのだ。玉響が使役するからにはそれなりに二匹も利益を得なくてはならない。一方的では駄目なのだ。二匹は名を受け入れ使役される事を納得し、その見返りに玉響から力を貰う。口から摂取する食物から得る力とは格段の違いがあるのだ。
 
「それだけの力を提供していても、玉響はまだ、森に影響を与えるだろう。二匹が成長すれば更に力を吸収するだろうが、後は玉響が力を抑える事を身につける必要がある」
「はい」
「今の言で分かっただろう、玉響が狙われるのは力が自然のそれと酷似しているからだ。強い力ある者が同じ場所で生活をすると反発を生む時があるが、玉響の力は反発をしない。懐に収め利用するには適した力だと言う事だ」
 
 玉響は千樹を凝視し、小さく頷いた。漠然としていたものが、はっきりと形を見せ始める。両親が玉響を守り、隠していたからこそ安全であったのだ。否、正確には未発達の力だったからこそ隠しおおせていた。これからはそうはいかない。玉響は確実に成長し、力は成熟していく。今までは運が良かっただけなのだ。
 
 だからこその安全で、だからこその安心だったのだ。
 
「陰陽師の術については俺は詳しくない。頗梨に書物を集めさせよう」
 
 玉響は千樹の言葉に腰を浮かせた。
 
「駄目です! 迷惑を掛けてしまいます!」
「俺達の安全にも繋がる。大丈夫だ。幾許の妖とは旧知にしている。灯璃もある程度の書物を所蔵しているだろう。彼奴は人に興味を持っていた。俺はあいにく興味すらなかったからな。陰陽師の関係書物を持ち合わせていない」
 
 千樹は目を細め玉響を見詰める。
 
「それと、此奴がある程度、教えてくれるだろう。記憶はなくとも知識は残っているだろうからな」
 
 千樹はそう言うと玉音の頭を無造作に撫でた。玉音は驚いたように耳をパシパシと動かす。
 
「え?」
「言葉はまだ話せないだろうが、知識はそのままだろう。記憶は危険を伴うが知識はただの知識だ。妖桜も使える知識を奪ってはいまい」
 
 玉音の瞳の奥にあるのは確かな知識だ。ただ、人であった時と妖狐の体では違いがある。力の質も変わってしまった。力のそのものを扱えるようになれば陰陽師のような術も使えるだろう。
 
 人であった時のような柵はない。それでも、人であった貴彬の本質は変わらないだろう。完全に生まれ変わったわけではなく、器が変わっただけなのだ。
 
「迷惑をかけたくないなら、世話をされていろ。申し訳ないと思うなら、身に付けた知識で屋敷に住む者達を守れるようになれ」
「そこには千樹様も含まれるのですか?」
 
 玉響の素直な質問に千樹の体の力が抜けた。千樹は今まで誰かに守ってもらった記憶はない。灯璃と芙蓉と出会った時でさえ、二人を守らなくてはと奮闘した。どうしてそのような気持ちになったのかは分からない。おそらく、千樹が妖になる前の生で何かがあったのだろう。千樹にしてみれば今更、知りたいとは考えていない。知ったところでどうにかなるものでもない。それに千年以上前の事なのだ。
 
「俺は自分の身くらい自分で守れる」
「千樹様も含まれなくては意味がありません!」
 
 玉響はきっぱりと言い切った。千樹は確かに玉響では足元にも及ばない強い妖力を持っているだろう。だが、強いからといって絶対ではないのだ。貴彬と芙蓉がいい証拠だ。貴彬と芙蓉は強い霊力と妖力を持っていた。それでも結局、大きな力に負けたのだ。個人の能力が強いからといって過信すればよくない事が起こる。
 
「千樹様が強い事は分かっています。でも、それは絶対ではないんです」
 
 玉響はそこまで言うと唇を噛み締め俯いた。玉響が何を言いたいのか千樹にも痛いほど分かっている。力が全てではないのだ。力など手段に過ぎない。力がなくとも強いものに勝つ者はいる。どれだけ危機感があるかなのだ。
 
「……そうだな。何かがあった時はお互いがお互いを守れればいい」
 
 千樹は諦めたように、言葉を息と共に吐き出した。結局、何かがあり千樹が窮地に立てば玉響だけではなく、屋敷にいる妖達も動くだろう。それを否定は出来ないし、禁止することも出来ないのだ。
 
 千樹はただ、誰の手も借りたいとは思わない。それは千樹の考えであって、他に押し付けて良いものではないのだ。
 
「ただ、約束しろ。もし、俺の身に何かあり、玉響の身にも何かがあった時、自分を優先するんだ。分かったな」
 
 玉響は千樹の言葉に目を見開く。約束出来ないからだ。その時にならなければ分からないと言うこともある。
 
「忘れるな。第一は自分だ。人であれ妖であれ、それは変わらない。それに、俺はよほどでなければ命を落とすことはない」
「でも、母上はっ」
「芙蓉はお前を守るために無理をした。術の媒介なったからな。そうなれば妖とて無事では済まない。芙蓉もそれは分かっていただろう」
 
 貴彬と芙蓉が守りたかったのは愛しい子供の命だったのだ。本来、貴彬は都の結界を第一に考えなくてはならなかった。貴彬はそれを放棄し、玉響の命を優先させたのだ。それを咎める事が果たして出来るだろうか。咎めなかったからこそ、帝が動いたのだろう。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ときはの代 陰陽師守護紀

naccchi
ファンタジー
記憶をなくした少女が出会ったのは、両親を妖に殺され復讐を誓った陰陽師の少年だった。 なぜ記憶がないのか、自分はいったい何者なのか。 自分を知るために、陰陽師たちと行動を共にするうち、人と妖のココロに触れていく。 ・・・人と妖のはざまで、少女の物語は途方もない長い時間、紡がれてきたことを知る。 ◆◆◆ 第零章は人物紹介、イラスト、設定等、本編開始前のプロローグです。 ちょこちょこ編集予定の倉庫のようなものだと思っていただければ。 ざっくり概要ですが、若干のネタバレあり、自前イラストを載せていますので、苦手な方はご注意ください。 本編自体は第一章から開始です。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

【完】BLゲームに転生した俺、クリアすれば転生し直せると言われたので、バッドエンドを目指します! 〜女神の嗜好でBLルートなんてまっぴらだ〜

とかげになりたい僕
ファンタジー
 不慮の事故で死んだ俺は、女神の力によって転生することになった。 「どんな感じで転生しますか?」 「モテモテな人生を送りたい! あとイケメンになりたい!」  そうして俺が転生したのは――  え、ここBLゲームの世界やん!?  タチがタチじゃなくてネコはネコじゃない!? オネェ担任にヤンキー保健医、双子の兄弟と巨人後輩。俺は男にモテたくない!  女神から「クリアすればもう一度転生出来ますよ」という暴言にも近い助言を信じ、俺は誰とも結ばれないバッドエンドをクリアしてみせる! 俺の操は誰にも奪わせはしない!  このお話は小説家になろうでも掲載しています。

命を狙われたお飾り妃の最後の願い

幌あきら
恋愛
【異世界恋愛・ざまぁ系・ハピエン】 重要な式典の真っ最中、いきなりシャンデリアが落ちた――。狙われたのは王妃イベリナ。 イベリナ妃の命を狙ったのは、国王の愛人ジャスミンだった。 短め連載・完結まで予約済みです。設定ゆるいです。 『ベビ待ち』の女性の心情がでてきます。『逆マタハラ』などの表現もあります。苦手な方はお控えください、すみません。

少年神官系勇者―異世界から帰還する―

mono-zo
ファンタジー
幼くして異世界に消えた主人公、帰ってきたがそこは日本、家なし・金なし・免許なし・職歴なし・常識なし・そもそも未成年、無い無い尽くしでどう生きる? 別サイトにて無名から投稿開始して100日以内に100万PV達成感謝✨ この作品は「カクヨム」にも掲載しています。(先行) この作品は「小説家になろう」にも掲載しています。 この作品は「ノベルアップ+」にも掲載しています。 この作品は「エブリスタ」にも掲載しています。 この作品は「pixiv」にも掲載しています。

裏公務の神様事件簿 ─神様のバディはじめました─

只深
ファンタジー
20xx年、日本は謎の天変地異に悩まされていた。 相次ぐ河川の氾濫、季節を無視した気温の変化、突然大地が隆起し、建物は倒壊。 全ての基礎が壊れ、人々の生活は自給自足の時代──まるで、時代が巻き戻ってしまったかのような貧困生活を余儀なくされていた。 クビにならないと言われていた公務員をクビになり、謎の力に目覚めた主人公はある日突然神様に出会う。 「そなたといたら、何か面白いことがあるのか?」 自分への問いかけと思わず適当に答えたが、それよって依代に選ばれ、見たことも聞いたこともない陰陽師…現代の陰陽寮、秘匿された存在の【裏公務員】として仕事をする事になった。 「恋してちゅーすると言ったのは嘘か」 「勘弁してくれ」 そんな二人のバディが織りなす和風ファンタジー、陰陽師の世直し事件簿が始まる。 優しさと悲しさと、切なさと暖かさ…そして心の中に大切な何かが生まれる物語。 ※BLに見える表現がありますがBLではありません。 ※現在一話から改稿中。毎日近況ノートにご報告しておりますので是非また一話からご覧ください♪

廃妃の再婚

束原ミヤコ
恋愛
伯爵家の令嬢としてうまれたフィアナは、母を亡くしてからというもの 父にも第二夫人にも、そして腹違いの妹にも邪険に扱われていた。 ある日フィアナは、川で倒れている青年を助ける。 それから四年後、フィアナの元に国王から結婚の申し込みがくる。 身分差を気にしながらも断ることができず、フィアナは王妃となった。 あの時助けた青年は、国王になっていたのである。 「君を永遠に愛する」と約束をした国王カトル・エスタニアは 結婚してすぐに辺境にて部族の反乱が起こり、平定戦に向かう。 帰還したカトルは、族長の娘であり『精霊の愛し子』と呼ばれている美しい女性イルサナを連れていた。 カトルはイルサナを寵愛しはじめる。 王城にて居場所を失ったフィアナは、聖騎士ユリシアスに下賜されることになる。 ユリシアスは先の戦いで怪我を負い、顔の半分を包帯で覆っている寡黙な男だった。 引け目を感じながらフィアナはユリシアスと過ごすことになる。 ユリシアスと過ごすうち、フィアナは彼と惹かれ合っていく。 だがユリシアスは何かを隠しているようだ。 それはカトルの抱える、真実だった──。

処理中です...