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Ⅹ 双月の奏
25 第二十四楽章
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頭が上手く回らない。ぼんやりと感じるのは、疼く首筋の感覚。ぬめりを帯びた感触に、ゆっくりと瞼を開いた。目を刺すのは光。白く霞み、視界ははっきりとしなかった。
「……ぶだ。……め」
「……は、だい……」
耳元で声が聞こえるが、はっきりと聞き取れない。目を細め、やっとの思いで焦点を合わせる。最初に認識したのは、波打つ黒髪。見知った横顔。
「……ジュラ」
耳に届いた自分の声は、酷く掠れていた。その声に気が付いたのか、覗き込んでくるのは四つの顔。
一人はファジュラ。
だが、三人の顔が誰なのか思い出せない。確かに視界におさめたことはあるが、はっきりとしない頭では、それ以上を認識するのは無理だった。
「……が判るか」
茶髪で赤茶の瞳の男が問い掛けてきたのだが、はっきりと聞き取れない。
赤茶の瞳の男が同じ茶髪に菫の瞳の男に何やら話している。
「……ェル。……が判りますか」
ファジュラが語り掛けてくる。内容までは判らなくても、話し掛けてきているのは理解出来る。
そして、体が何かを訴える。奥底から沸き起こったのは、間違いなく渇きだった。重い右腕を緩慢な動作で持ち上げ、喉元を押さえた。何故、こんなに喉が渇くのだろうか。
「やはり、少し早かったな」
菫の瞳の男、ファジールがヴェルディラを覗き込み、ぽつりと呟いた。
「ああ。だが、悠長に構えていられない。此奴の両親が重い腰を上げたんだ。直ぐに見付け出すだろう」
赤茶の瞳の男、アレンが眉間に皺を寄せ、事実を口にした。癖のない少し長めの黒髪の男、フィネイがファジュラに何かを差し出す。
「自力で飲み込むのは無理だ。口移しで飲ませてくれ。通常の毒とは違うから」
ファジュラが口に含んだのは小さな錠剤だった。次いで水を含むと、ヴェルディラの口に触れ唇を押し開き、水と共に何かを流し込まれた。
ヴェルディラは反射的に、それを飲み込んでしまう。
「これもだが、後でもいい」
フィネイは何かをファジュラに手渡した。
「僕達は此処を離れる。血を飲ませるんだ」
「此奴が動けるようになったら、薔薇園へ来い」
ファジールが言った後、アレンが言葉を続けた。
三人は次々に部屋を出て行った。ファジュラは改めてヴェルディラに視線を向ける。
今居る場所は浴室だった。《眠りの薔薇》を引き抜く前に爪で抉った首筋の傷に薬を塗り込め、暫く置いた後、綺麗に薬を拭い取った。
薬そのものの毒素は完全に除去出来ない。だから、拭い取り、浴室でよく洗浄したのだ。
「……ファジュラ……」
ヴェルディラはタイルに大きめのタオルを敷いた上にファジュラに支えられ座っている状態だった。身に着けているのはバスローブ一枚だ。
何があったのか、ヴェルディラの記憶から抜け落ちていた。ただ、異常に体が怠い。
「血を飲めますか」
ファジュラは慎重に問い掛けた。ヴェルディラはどうしてだと、疑問を張り付けた表情をファジュラに向けた。
「喉が渇いているでしょう。血が足りないんです」
まだ、自力で飲めないようなら、口移しで飲ませなくてはならない。アレンとファジールの話しでは、自力で飲めるようなら、その方が効果が高いのだと言った。
ヴェルディラは少しだけ、顔を歪めた。
「……分、飲めると思う」
体を動かすのは億劫だが、喉の渇きが強くなっている。ファジュラは首筋を露わにし、ヴェルディラを柔らかく抱き締めた。
ヴェルディラには判っている。ファジュラは負担を軽くするために、体を支えるために抱き締めたのだ。
ゆっくりとファジュラの首筋を舐める。それは本能だった。知らなくとも、唾液が麻酔の代わりをはたす。そして、ゆっくりと牙を立てた。溢れ出た血が口内を満たす。甘く滑らかな舌触りの血を、ヴェルディラは久し振りに味わったような気がした。
時間を掛けて、味わうように喉を鳴らした。
血が全てを教えてくれた。
何故、こんな場所にいるのか。どうして、バスローブ姿なのか。何より、喉の渇きがどういった理由でもたらされたのか。
首筋から牙を抜き、ゆっくりと二つの傷口を舐めた。そのままファジュラに抱き付き、全てを理解した。
飢餓感があったのは、自分で首を抉ったからだ。大量の出血が、喉の渇きの最大の原因だ。
「……俺はどうして無事だったんだ」
抱きついたまま、小さく呟いた。
「此処はお医者様の館ですよ。薬師の方も居て、私達はあのとき、素早く処置を受けたんです」
ぼんやりと、ファジュラの言葉を聞いた。少しずつ鮮明になっていく記憶。そして、望んでいたこと。
「……俺は消えたかったんだ……」
ファジュラは軽く眉間に皺を寄せた。
「どうして、思い通りにならないんだ。生きていたって、無意味じゃないか」
「……長様達が、ヴェルの両親を牽制しているそうです」
ヴェルディラは驚いたように体を離し、ファジュラを凝視した。
「全ては長様達の間で明るみになったんですよ。ヴェルが父親の犠牲になっていたことも。何故、姿を消していたのかも」
「俺は話していないっ」
ヴェルディラはファジュラに縋りつくように、小さく叫び声を上げた。
「月読み、と言う魔族の方が居るそうです。その魔族は過去も未来も、何より現在のありようも、全て判るのだそうです」
ヴェルディラは紫水晶の瞳を、見開いた。
「隠し事は無理、何だそうです。特に薔薇は」
ファジュラはゆっくりと、薔薇を強調した。
「……薔薇」
ファジュラは頷いた。ヴェルディラはこうなる前のことを思い出す。シオンとアレンに捕まり、黒薔薇の主治医の館に半ば強引に連れてこられた。全部族長の言葉に、ヴェルディラは逆らえなかったからだ。
そして、自分が如何に無知で、何も知らなかったのか、知らしめられたのだ。莫迦な振りでもしなければ、どうなってしまったか判らなかった。
「ヴェルは薔薇、なのでしょう」
ファジュラは呟くように問い掛けた。ヴェルディラはついっと、視線を反らせた。
両手で頭を抱えた。どうしてこんなことになったのか。ファジールから聞いた話しで、はっきりと間違いを犯したことに気が付いた。ファジュラが何故、はっきりと言ってくれなかったのか理解した。
もし、あのとき真実を聞いていたら、現実から逃げただろう。ファジュラを置き去りにして、自分だけ安全な所に逃げようとしただろう。
今だって、この手を振り払い、闇の淵に堕ちてしまいたい。
「女性に変化するのでしょう」
ファジュラは追い討ちをかけるように訊いてきた。
「アレン達から詳しく聞きました」
薔薇と言う存在は罪を具現化した現象だ。だが、それは種族を維持するための本能に違いない。変化には特定の条件が揃わなくてはならない。
罪であり、禁忌であり、奇跡なのだ。
「……俺は」
「私に黙って姿を消そうとしたことは知っています。聞きましたから」
ヴェルディラは小さく体を震わせた。
「ヴェルまで、離れていくんですか。両親のように、私一人を残して」
ヴェルディラは小さく息をのんだ。ファジュラは今、重大な何かを言わなかっただろうか。
「最初は父が。次いで母が眠りに就きました。今、どうなっているのか、私は知りません。アレンに連絡が来ているようですが、私には詳しく教えてくれません」
理由は判っている。いくら両親でも、今のファジュラには自分自身のことで精一杯であることが判っているからだ。
だから、負担になるようなことは教えてくれない。最低限の情報だけを与えてくれる。それは、知らなすぎるという負担を感じない程度の事実のみを与えられているのだ。判ってはいるが、知らないことがこんなに不安を煽ることを初めて知った。
ファジュラはヴェルディラの頭にあった両手に手を伸ばし、自身の両頬に当てた。
短い間に起こった出来事に、ファジュラはついていけなかった。音楽漬けの静かな日々から、慌ただしく性急に過ぎていく時間。毎日ではなくても、何かしらの慌ただしさがある。
多くの人の気配は、ファジュラを知らず知らずのうちに、疲れさせていた。親しい者がいない現実。ヴェルディラはファジュラを助けるためだけに、本能のまま首を抉り、代償のように記憶はバラバラになった。
「もう、何かを失うのは嫌です。それが例え偽りであったとしても、私にとっては現実で真実なんです。両親もヴェルも私自身も、欠けてよいモノなど、一つもないんです」
ファジュラは縋るように、ヴェルディラの両手を自分の頬に押し当てる。置き去りにされてもいい。ただ、失いたくないのだと、切実に訴えている。
「小父さんと小母さんが眠りに就いたのか」
ファジュラは頷き、だが、直ぐに首を横に振った。ヴェルディラは首を傾げ、怪訝な表情を見せた。
「どっちなんだ」
「最初に父が眠りに就いて、母が父を目覚めさせ、眠りに就いたそうなんです。何故、そんなことになっているのか、私には判らないんです」
ヴェルディラは黙り込んだ。ファジュラの両親が一緒にいるところを、ヴェルディラはあまり見たことがなかった。
祖父とファジュラの館に訪れても、二人で顔を見せたことがなかったのだ。
一つだけはっきりしていることはある。それは、ヴェルディラが感じた小さな違和感。祖父もぽつりと呟いたことがあったのだ。
二人は互いを見てはいない。それと同様に、自身にも目を背けている。そうなると、心に余裕がなくなる。見えて当たり前のモノが見えなくなる。
「……限界に達したのか」
ヴェルディラはしっかりとファジュラを見詰め、呟くように問い掛けた。ファジュラは顔を歪める。
「……ヴェルは何かを感じていたのですか」
ヴェルディラは頷いた。
「爺さんも言ってた。背けたままでは無理が出る」
ファジュラはゆっくりと瞳を閉じた。溢れ出しそうになった涙を抑えるためだ。
「俺は小母さんに嫌われてたから、漠然と感じただけなんだ」
ティファレトにとって、ファジュラは拠り所だったのだろう。判っていたから、こっそり会いに行った。会う必要がなければ、疎遠になっていただろう。
「……私は気が付きませんでした」
この状況に置かれて、初めて気が付いたことも多い。
「気が付くわけがないだろう。守られていたんだから」
ファジュラは驚いたように、目を開いた。目の前にある紫水晶の瞳は、呆れたような光を宿していた。
「……守られて」
ファジュラの問いにヴェルディラは頷いた。
「大切な孫息子を、折角授かった跡取りを、無碍にするわけがないだろう」
それに、ファジュラには才能があった。両親の資質をしっかりと受け継いでいた。アーネストも、何よりティファレトが音楽に対する才能に恵まれていた。
「俺の場合は、爺さんと婆さんに言われてたから、父さんが俺の描いた物を自分の物のように扱っても、驚かなかったんだ」
ただ、幻滅をしたのは事実だ。自己中心的で、最初こそ経済的理由で言いなりになっていた。
問題は、ヴェルディラが描いた絵が、好評価を得たことだ。それを勘違いした父親が有頂天になった。このままでは父親の陰になり、両親が眠りに就いた後の身の振り方に不安を感じた。
何故なら、本来ヴェルディラの手による物だったとしても、世間では父親の作品だと認識されている。描いた物を自分の作品だと言ったところで、正当に評価はされないだろう。
父親に似せて描いた紛い物扱いになるのは目に見えていた。だから、姿を消した。ほとぼりが冷めるまで、姿を現すつもりはなかったのだ。
「何を言っても現実は変わらないし」
「……だから、眠りに就くんですか」
ファジュラの問いにヴェルディラは口を噤んだ。
「私はヴェル以外の血を口にしたくはないんですよ。今回は仕方ないと諦めました。他人の血がどれほど苦痛か、考えたことがありますか」
ヴェルディラは驚いたように目を見開いた。
「三ヶ月です。言われたように、指示に従いました。そうしなくては、ヴェルを失うことになるからです」
アレンには判っていた筈だ。心に決めた相手以外から提供される血が、苦痛をもたらすことを。
ヴェルディラはただ、呆然となった。そんな風に考えたことは一度もなかったのだ。
「今なら判ります。母はだから眠りに就いたんです」
アーネストはティファレトが新たな相手を見付けることを望んだ。だが、ティファレトは探すことをしなかったのではないだろうか。《血の契約》をしていないファジュラでさえ、苦痛を感じたのだ。魔術による契約をしていたティファレトは、アーネスト以外の血を口には出来なかったに違いない。
「……どうして血を」
ヴェルディラは問い掛けた。
「私もですが、ヴェルも絶対的に血が足りなかったんです。しかも、ヴェルはよりによって、爪で首筋を抉ってしまっていました」
ヴェルディラは首を傾げた。爪と血液が繋がらない。確かに抉ったために、大量に出血したのは確かだろう。
「ヴェルは知っていましたか。吸血族の爪には毒があることを」
ヴェルディラは反射的に首を横に振った。知る筈がない。
「私も知りませんでした。しかも、その毒は出血が止まらない作用があるのだそうです」
傷口を強く押さえても出血は止まらない。
普通であれば、吸血族の誰かが中和すればいい。吸血族の唾液には中和作用があり、傷口を塞ぐ強い治癒能力がある。
「アレンが一か八か試したそうです。でも、ヴェルの血は強い苦みと拒絶する為なのか、毒素も感じたそうです」
だから、眠らせたのだ。体の機能を停止させ、ファジュラの回復を待つより手がなかった。
「……俺の血は毒だって言うのか」
「私以外は口に出来なくなったのだと言っていました」
逆に、ヴェルディラはファジュラ以外の血は口に出来ない。
「他のみんなもなのか」
「そうらしいです」
ファジュラは握っていたヴェルディラの手を離した。ヴェルディラは少し温かくなった両の手の平を見詰める。
「俺達、何にも知らないのな」
「そうですね。教えてもらえなかった、と言うよりも、知らなくても害がない環境にいましたから」
ヴェルディラは頷いた。確かに、他者との関わりが少ないと言うことは、それだけ、吸血族の事情を知らなくとも、生きていけるという事だ。
「今回のことで、それを痛感させられました」
ファジュラは小さく息を吐き出した。
演奏旅行に行っている間は、確かに沢山の吸血族と関わることになるが、それは、舞台と客席という隔たりがある。直接、関わってこようとする者もいるが、関わっていてはキリがない。だから、上手くやり過ごす。
ヴェルディラに至っては、室内に籠もってしまえば、誰とも関わることがない。
「子供よりも劣る知識、だそうです」
「反論出来ない」
それは、的を得た言葉だ。
「これは、アレン達に言われたのですが」
ヴェルディラが薔薇となった今、干渉は避けられなくなる。
他の薔薇や夫達には、ひっきりなしに招待状が届くらしい。ファジュラは楽師だから、招待状を送る立場だが、これからは、招待を受け、演奏することになるだろうと言われたのだ。
ヴェルディラは驚いたように顔を上げ、ファジュラを凝視した。
「私達の意志に関係なく、干渉を受けるだろうと」
「冗談だろう」
ファジュラはゆっくりと首を横に振った。アレン達でさえ、うんざりするらしい。それなのに、二人は他者との関わりが極端に少なく、ファジュラはこの館の人口数で音を上げていた。
皆は親切で、気遣ってくれるのだが、判っていても気疲れが出るのは仕方のないことだった。
それに、ジゼルとレイチェルが赤子を腕に、干渉してくる。どうやら、ファジュラを環境に慣らすために行動しているようだ。
ルビィとトゥーイは体が重いのか、四阿に座っていることが多いが、やはり、ファジュラの側に居続けた。
「慣れろ、と言われました」
ファジュラは脱力し、諦めたような声音で言われた事実を口にした。
「……慣れなかったら」
ヴェルディラは怖々と訊いてきた。
「大変な思いをするのは私達だと言われました」
特にトゥーイとフィネイは慣れているのか、鈍感にならなければやっていられないと、笑いながら言ったのだ。
「私達に鈍感になれというのは無理ですと言ったのですが、神経や精神がおかしくなりたくなかったら、身に付けろと……」
芸術関係を職業にしている二人は、感性が鋭い。ある意味、拷問のような要求だ。
「……隠れたりは」
「出来ないでしょうね。長様達が許さないと思います」
ヴェルディラは固まった。
「取り敢えず、着替えましょう。いくら寒くないとはいえ、その姿は良いとは言えませんから」
ファジュラはヴェルディラの姿を見て、微笑んだ。
「まあ、ヴェルは女性のようで、見ている分には目の保養ですけど」
ヴェルディラはファジュラの言葉に、慌てて姿を確認する。身に着けているのはバスローブ。感覚的に下着を身に着けてはいない。剥き出しの素足が、ファジュラに晒されていた。
慌てて足を引っ込めるが、散々、晒したのだ。絶対に観察しているに違いない。
「……どうして、こんな格好なんだよ」
ヴェルディラは真っ赤に頬を染め、ファジュラを睨み付けた。
「洗浄したからですよ」
そして、更に気が付いた。目覚めたとき、此処にいたのはファジュラだけではない。
「まさか、此処にいたみんなが見たのか……」
「当たり前でしょう。二人はお医者様で一人は薬師です。専門家が診なくては判らないじゃないですか」
確かに言っていることは尤もだ。非もヴェルディラにあるのは判っている。それでも、多くの目に素肌を晒したことに、羞恥心を覚えない訳はない。
「そうです。これを飲めますか。飲めないようなら、口移しで飲ませますけど」
手を出すように態度で示され、ヴェルディラは素直に右手を差し出した。手の平に乗せられたのは、一つの錠剤。
「これ、何だ」
「解毒薬だそうです。私も飲みました」
解毒薬、の言葉に怪訝な表情を見せた。
「さっき言ったでしょう。ヴェルは爪で首筋を抉って、中和は私にしか出来ないと」
ヴェルディラは小さく頷く。
「眠らせたので出血は止まっていましたが、目覚めさせたら、直ぐに出血が始まるのは判っていたそうです」
だから、材料を集めて、危険な止血薬を調合したのだ。
「止血薬自体が猛毒で、その薬に使われた毒草の毒は、ヴェルが意識を戻す前に口移しで中和薬を飲ませました」
そうだと思い出す。目覚め、意識が朦朧としているときに、口に何かを含まされたのだ。
「それだけじゃ、駄目なのか」
「毒草の毒は中和薬で良いそうですが、調合したことで、別の毒が発生するようなのです」
体が怠くないかと問われ、ヴェルディラは自分を振り返る。怠いのかそうでないかの判断が出来ない。目覚めたばかりの体が、まだ、馴染んでいない。
「完全に目覚めるまでに、一週間近く経っています。そのせいで、認識しないかもしれないとは言われています」
判らないかと、更に訊かれ、素直に頷いた。
ヴェルディラの傷に止血薬を塗布し、時間をある程度置いて、薬は直ぐにぬぐい取り、ベッドの上で出来る限りの洗浄を施した。
目覚める兆しがあったため、バスルームにヴェルディラを移動させ、念入りに洗浄をしたために、ヴェルディラはバスローブ姿だったのだ。
「……じゃあ」
ファジュラは中和薬を飲み、ヴェルディラの毒を中和したあと、直ぐに解毒薬を服用した。
「私は判らないですが、フィネイが自分で実験したそうです。そこで初めて、調合することで、新たな毒が発生することを知ったそうです」
本来なら、直ぐに薬を飲ませるのが普通だが、ヴェルディラは体の機能を停止させた。《眠りの薔薇》を取り除いて直ぐに中和薬と解毒薬を飲ませるのは、危険だと三人は判断したのだ。
毒素が強ければ、中和薬と解毒薬の作用も強いものになる。体が目覚めたばかりのヴェルディラに、服用させるのは危険だったのだ。幸い、体の機能が低下しているので、毒の周りが遅いだろう事が予測出来た。
《眠りの薔薇》を抜いて直ぐ、ファジュラが中和を行う筈だったが、ヴェルディラの体力が落ちており、意識が戻ってからの方が、傷の塞がりが早いとアレンとファジールは言ったのだ。
だから、意識が戻るのを待った。ただ、完全に目覚めてからでは、出血量が増える。ギリギリまで待ち、あのタイミングでファジュラが中和をしたのだ。
「本来なら、もう少し後に目覚めさせるつもりだったようです」
薔薇を抜き取る数日前、アレンが慌てた様子でファジールと共にヴェルディラの体を調べに来た。
「ヴェルの両親が疑問を持ち始めたようなんです。蒼の長様は知らない振りを決め込んでいたようなんですが……」
ヴェルディラは眉間に皺を寄せた。両親に見付かる訳にはいかない。見付かれば、閉じ込められ、監禁状態になってしまう。両親はヴェルディラが血に触れてしまったことを知らない。
ヴェルディラは手渡された錠剤を凝視し、こくりと唾を飲み込んだ。本来なら、まだ、眠りに誘われたままだったのだろう。多少のリスクを負っても、ヴェルディラを目覚めさせるより手がなかったに違いない。
錠剤を口に含み、ヴェルディラは水無しで飲み込んだ。異物が喉を通っていく、不快な感覚が肌を粟立たせた。
ファジュラは慌てて、グラスに水を入れ、ヴェルディラに手渡した。ヴェルディラは受け取ると、一気に水を飲み干す。
「大丈夫ですか」
「意地でも慣らす。あの人達に見付かりたくない」
ヴェルディラはファジュラの手を借り、ゆっくりと立ち上がった。絶対に思い通りにさせない。だが、目の前にして、果たして、自分の意志を通せるだろうか。ヴェルディラは焦りが心を支配していることが判った。
†††
「それは何なの」
ルビィは四阿のベンチに座るアレンの横に置かれている二冊の本を指差した。アレンは読んでいた本から顔を上げ、ルビィが指し示している本に視線を向ける。
「これか」
ルビィと隣に座っていたトゥーイが頷いた。アレンは本を読むために掛けていた眼鏡を外すと一冊持ち上げる。
「彼奴等に読ませるために用意した」
ルビィとトゥーイは顔を見合わせる。彼奴等とはヴェルディラとファジュラのことだろう。
「その本って、何が書いてあるんだ」
トゥーイは興味津々で訊いてきた。
「面白いもんじゃないぞ。俺達、医者が専門知識を学ぶ前に、必ず読む本なんだよ。この一冊に、吸血族の大抵のことなら載っている」
二人は目を瞬いた。
「教えるのを拒絶するって意味」
ルビィはこてんと首を傾げた。
「違う。俺が教えても良いが、必ず抜ける部分がある」
アレンは呆れたように、溜め息を吐いた。どうして、そんな考えに至るのだろうか。謎である。
「それに、普通なら自然に学ぶもんだ。俺達みたいな特殊な職業なら、知識として叩き込むが、専門的に必要なものじゃあ、ないからな」
だが、二人は成人の吸血族だ。今更、大人から学ぶなんて事は、実質不可能なのだ。それに、子供に見られるのと、大人とでは感じ方が違う。何より、誰も見せたがらないだろう。
「まあ、俺がガキのときに理解出来たんだ。簡単だろう」
アレンはさらりと言ったのだが、簡単という厚さではない。二人は一冊借りると、内容を確認してみる。
確かに項目毎に、掲載されているが、内容は子供が読むようなものではない。二人は目を見開いた。この内容を、幼い子供の時点で理解したアレンが普通ではない。
ルビィは恐々顔を上げる。
「ベンジャミンもなの」
「当たり前だろうが。そうじゃなかったら、専門の勉強を親父がさせるわけがないだろう」
トゥーイもゆっくりと視線を本からアレンに移す。有り得なかった。二人はそれなりに知識があるから、読んでも理解出来るが、子供では事前の知識などない筈だ。
「……医者の後継者って、みんなこれを読むのか」
アレンは再び眼鏡を掛けると、読んでいた本に視線を戻した。
「どうだろうな。少なくとも、俺達の一族は専門知識を学ぶ前に、吸血族について学ぶ。医術は生きている者全てに有効だ。それに、俺達は吸血族でほかの何者でもない」
医者が自分の一族の特徴に精通していないなど、あってはならないのだ。トゥーイはルビィと開いた本に視線を走らせる。薬師も学ぶことは学ぶが、ここまで徹底はしていない。頁をめくると、びっしりと文字で埋め尽くされていた。
「これ、俺が読んでも支障ないのか」
トゥーイの言葉に、アレンは顔を上げ怪訝な表情を見せた。今更、トゥーイが読む必要はないのではないか。ルビィも感じたのか、不思議顔だ。
「面白そうだから」
「面白みはないぞ。さっきも言っただろう」
アレンは呆れ気味だ。
「うん。でも、詳しく知らないしさ。フィネイは吸血族の毒の研究してるし。関わらせて貰えないからさ」
トゥーイは少し拗ねているようだった。フィネイは体に悪いだろうことは、一切、トゥーイから遠ざけてしまっているようだ。
元々、丈夫でない上、本人に自覚がないから、周りが必要以上に過保護になる。しかも、おっちょこちょいで、少しでも目を離すと、どうなっているのか判ったものではない。
女性化するようになると、更に顕著になったようで、フィネイなど、しょちゅう、他の夫達に愚痴っている始末だ。
「仕方ないだろうが。お前に自覚がなさすぎなんだよ」
「自覚って言うけどさ。俺は生まれたときからこれなんだよ。どう注意しろって言うんだ」
トゥーイは不機嫌に眉を寄せた。
「……あっ」
本館に視線を走らせたルビィが、此方に歩いてくる人影を見付けた。波打つ黒髪の横に綺麗な青銀髪が視界に入る。
「来たみたいだよ」
ルビィののほほんとした声に、二人も視線を向けた。
「後でもう一冊持ってきてやる」
アレンはトゥーイから本を奪い取った。
「本当か」
「ああ。親父のを借りてきてやる」
トゥーイは子供のように瞳を輝かせた。ルビィはトゥーイの様子に苦笑が漏れた。
「本が好きなの」
ルビィの問い掛けに、トゥーイは素直に頷いた。
「体は」
目の前まで歩いて来た二人に、アレンは質問した。歩いて来た様子を見る限り、動けないという事はなさそうだ。
「私は大丈夫です。ヴェルは少し怠そうですが」
ファジュラは数ヶ月の間に、ある程度、慣れることが出来たので、普通に受け答えたが、ヴェルディラはそうはいかない。
連れてこられた次の日に、意識を失ったのだから、仕方がないのかも知れない。アレンも判っているのか、追求しては来なかった。
「この本は何でしょうか」
いきなり一人に一冊ずつの本を差し出され、二人は受け取りはしても首を傾げることしか出来なかった。
「まず、吸血族について知ることが先決だ。かといって、俺や親父が口で説明したところで、理解するのは無理だろう」
アレンは下から二人を見上げ、目を細めた。
「読んでみて、判らないところはそのままにせず、誰かに聞け」
アレンは言うなり、空いているベンチを指差した。
「取り敢えず座って読め」
二人は顔を見合わせ、素直に従い、本の表紙を捲った。そして、黙々と読み始める。
「読めそう」
ルビィが首を傾げ二人に問い掛けた。ファジュラは顔を上げると、小さく頷く。
本を読むのは嫌いではない。だが、二人は直ぐに眉間に皺を寄せる。
「……やっぱり、難しそうだね」
ルビィは小声でトゥーイに囁きかける。トゥーイは頷いた。もしかしたら、その辺の吸血族より、詳しくなってしまうのではないだろうか。何も知らない分、余計な知識がないおかげで、素直に内容を吸収するだろう。
「俺も絶対、借りるんだ」
「物好きだよね」
トゥーイの言葉にルビィは苦笑いを浮かべた。最初に見た文字量でルビィは読む気にすらならなかったからだ。
「……ぶだ。……め」
「……は、だい……」
耳元で声が聞こえるが、はっきりと聞き取れない。目を細め、やっとの思いで焦点を合わせる。最初に認識したのは、波打つ黒髪。見知った横顔。
「……ジュラ」
耳に届いた自分の声は、酷く掠れていた。その声に気が付いたのか、覗き込んでくるのは四つの顔。
一人はファジュラ。
だが、三人の顔が誰なのか思い出せない。確かに視界におさめたことはあるが、はっきりとしない頭では、それ以上を認識するのは無理だった。
「……が判るか」
茶髪で赤茶の瞳の男が問い掛けてきたのだが、はっきりと聞き取れない。
赤茶の瞳の男が同じ茶髪に菫の瞳の男に何やら話している。
「……ェル。……が判りますか」
ファジュラが語り掛けてくる。内容までは判らなくても、話し掛けてきているのは理解出来る。
そして、体が何かを訴える。奥底から沸き起こったのは、間違いなく渇きだった。重い右腕を緩慢な動作で持ち上げ、喉元を押さえた。何故、こんなに喉が渇くのだろうか。
「やはり、少し早かったな」
菫の瞳の男、ファジールがヴェルディラを覗き込み、ぽつりと呟いた。
「ああ。だが、悠長に構えていられない。此奴の両親が重い腰を上げたんだ。直ぐに見付け出すだろう」
赤茶の瞳の男、アレンが眉間に皺を寄せ、事実を口にした。癖のない少し長めの黒髪の男、フィネイがファジュラに何かを差し出す。
「自力で飲み込むのは無理だ。口移しで飲ませてくれ。通常の毒とは違うから」
ファジュラが口に含んだのは小さな錠剤だった。次いで水を含むと、ヴェルディラの口に触れ唇を押し開き、水と共に何かを流し込まれた。
ヴェルディラは反射的に、それを飲み込んでしまう。
「これもだが、後でもいい」
フィネイは何かをファジュラに手渡した。
「僕達は此処を離れる。血を飲ませるんだ」
「此奴が動けるようになったら、薔薇園へ来い」
ファジールが言った後、アレンが言葉を続けた。
三人は次々に部屋を出て行った。ファジュラは改めてヴェルディラに視線を向ける。
今居る場所は浴室だった。《眠りの薔薇》を引き抜く前に爪で抉った首筋の傷に薬を塗り込め、暫く置いた後、綺麗に薬を拭い取った。
薬そのものの毒素は完全に除去出来ない。だから、拭い取り、浴室でよく洗浄したのだ。
「……ファジュラ……」
ヴェルディラはタイルに大きめのタオルを敷いた上にファジュラに支えられ座っている状態だった。身に着けているのはバスローブ一枚だ。
何があったのか、ヴェルディラの記憶から抜け落ちていた。ただ、異常に体が怠い。
「血を飲めますか」
ファジュラは慎重に問い掛けた。ヴェルディラはどうしてだと、疑問を張り付けた表情をファジュラに向けた。
「喉が渇いているでしょう。血が足りないんです」
まだ、自力で飲めないようなら、口移しで飲ませなくてはならない。アレンとファジールの話しでは、自力で飲めるようなら、その方が効果が高いのだと言った。
ヴェルディラは少しだけ、顔を歪めた。
「……分、飲めると思う」
体を動かすのは億劫だが、喉の渇きが強くなっている。ファジュラは首筋を露わにし、ヴェルディラを柔らかく抱き締めた。
ヴェルディラには判っている。ファジュラは負担を軽くするために、体を支えるために抱き締めたのだ。
ゆっくりとファジュラの首筋を舐める。それは本能だった。知らなくとも、唾液が麻酔の代わりをはたす。そして、ゆっくりと牙を立てた。溢れ出た血が口内を満たす。甘く滑らかな舌触りの血を、ヴェルディラは久し振りに味わったような気がした。
時間を掛けて、味わうように喉を鳴らした。
血が全てを教えてくれた。
何故、こんな場所にいるのか。どうして、バスローブ姿なのか。何より、喉の渇きがどういった理由でもたらされたのか。
首筋から牙を抜き、ゆっくりと二つの傷口を舐めた。そのままファジュラに抱き付き、全てを理解した。
飢餓感があったのは、自分で首を抉ったからだ。大量の出血が、喉の渇きの最大の原因だ。
「……俺はどうして無事だったんだ」
抱きついたまま、小さく呟いた。
「此処はお医者様の館ですよ。薬師の方も居て、私達はあのとき、素早く処置を受けたんです」
ぼんやりと、ファジュラの言葉を聞いた。少しずつ鮮明になっていく記憶。そして、望んでいたこと。
「……俺は消えたかったんだ……」
ファジュラは軽く眉間に皺を寄せた。
「どうして、思い通りにならないんだ。生きていたって、無意味じゃないか」
「……長様達が、ヴェルの両親を牽制しているそうです」
ヴェルディラは驚いたように体を離し、ファジュラを凝視した。
「全ては長様達の間で明るみになったんですよ。ヴェルが父親の犠牲になっていたことも。何故、姿を消していたのかも」
「俺は話していないっ」
ヴェルディラはファジュラに縋りつくように、小さく叫び声を上げた。
「月読み、と言う魔族の方が居るそうです。その魔族は過去も未来も、何より現在のありようも、全て判るのだそうです」
ヴェルディラは紫水晶の瞳を、見開いた。
「隠し事は無理、何だそうです。特に薔薇は」
ファジュラはゆっくりと、薔薇を強調した。
「……薔薇」
ファジュラは頷いた。ヴェルディラはこうなる前のことを思い出す。シオンとアレンに捕まり、黒薔薇の主治医の館に半ば強引に連れてこられた。全部族長の言葉に、ヴェルディラは逆らえなかったからだ。
そして、自分が如何に無知で、何も知らなかったのか、知らしめられたのだ。莫迦な振りでもしなければ、どうなってしまったか判らなかった。
「ヴェルは薔薇、なのでしょう」
ファジュラは呟くように問い掛けた。ヴェルディラはついっと、視線を反らせた。
両手で頭を抱えた。どうしてこんなことになったのか。ファジールから聞いた話しで、はっきりと間違いを犯したことに気が付いた。ファジュラが何故、はっきりと言ってくれなかったのか理解した。
もし、あのとき真実を聞いていたら、現実から逃げただろう。ファジュラを置き去りにして、自分だけ安全な所に逃げようとしただろう。
今だって、この手を振り払い、闇の淵に堕ちてしまいたい。
「女性に変化するのでしょう」
ファジュラは追い討ちをかけるように訊いてきた。
「アレン達から詳しく聞きました」
薔薇と言う存在は罪を具現化した現象だ。だが、それは種族を維持するための本能に違いない。変化には特定の条件が揃わなくてはならない。
罪であり、禁忌であり、奇跡なのだ。
「……俺は」
「私に黙って姿を消そうとしたことは知っています。聞きましたから」
ヴェルディラは小さく体を震わせた。
「ヴェルまで、離れていくんですか。両親のように、私一人を残して」
ヴェルディラは小さく息をのんだ。ファジュラは今、重大な何かを言わなかっただろうか。
「最初は父が。次いで母が眠りに就きました。今、どうなっているのか、私は知りません。アレンに連絡が来ているようですが、私には詳しく教えてくれません」
理由は判っている。いくら両親でも、今のファジュラには自分自身のことで精一杯であることが判っているからだ。
だから、負担になるようなことは教えてくれない。最低限の情報だけを与えてくれる。それは、知らなすぎるという負担を感じない程度の事実のみを与えられているのだ。判ってはいるが、知らないことがこんなに不安を煽ることを初めて知った。
ファジュラはヴェルディラの頭にあった両手に手を伸ばし、自身の両頬に当てた。
短い間に起こった出来事に、ファジュラはついていけなかった。音楽漬けの静かな日々から、慌ただしく性急に過ぎていく時間。毎日ではなくても、何かしらの慌ただしさがある。
多くの人の気配は、ファジュラを知らず知らずのうちに、疲れさせていた。親しい者がいない現実。ヴェルディラはファジュラを助けるためだけに、本能のまま首を抉り、代償のように記憶はバラバラになった。
「もう、何かを失うのは嫌です。それが例え偽りであったとしても、私にとっては現実で真実なんです。両親もヴェルも私自身も、欠けてよいモノなど、一つもないんです」
ファジュラは縋るように、ヴェルディラの両手を自分の頬に押し当てる。置き去りにされてもいい。ただ、失いたくないのだと、切実に訴えている。
「小父さんと小母さんが眠りに就いたのか」
ファジュラは頷き、だが、直ぐに首を横に振った。ヴェルディラは首を傾げ、怪訝な表情を見せた。
「どっちなんだ」
「最初に父が眠りに就いて、母が父を目覚めさせ、眠りに就いたそうなんです。何故、そんなことになっているのか、私には判らないんです」
ヴェルディラは黙り込んだ。ファジュラの両親が一緒にいるところを、ヴェルディラはあまり見たことがなかった。
祖父とファジュラの館に訪れても、二人で顔を見せたことがなかったのだ。
一つだけはっきりしていることはある。それは、ヴェルディラが感じた小さな違和感。祖父もぽつりと呟いたことがあったのだ。
二人は互いを見てはいない。それと同様に、自身にも目を背けている。そうなると、心に余裕がなくなる。見えて当たり前のモノが見えなくなる。
「……限界に達したのか」
ヴェルディラはしっかりとファジュラを見詰め、呟くように問い掛けた。ファジュラは顔を歪める。
「……ヴェルは何かを感じていたのですか」
ヴェルディラは頷いた。
「爺さんも言ってた。背けたままでは無理が出る」
ファジュラはゆっくりと瞳を閉じた。溢れ出しそうになった涙を抑えるためだ。
「俺は小母さんに嫌われてたから、漠然と感じただけなんだ」
ティファレトにとって、ファジュラは拠り所だったのだろう。判っていたから、こっそり会いに行った。会う必要がなければ、疎遠になっていただろう。
「……私は気が付きませんでした」
この状況に置かれて、初めて気が付いたことも多い。
「気が付くわけがないだろう。守られていたんだから」
ファジュラは驚いたように、目を開いた。目の前にある紫水晶の瞳は、呆れたような光を宿していた。
「……守られて」
ファジュラの問いにヴェルディラは頷いた。
「大切な孫息子を、折角授かった跡取りを、無碍にするわけがないだろう」
それに、ファジュラには才能があった。両親の資質をしっかりと受け継いでいた。アーネストも、何よりティファレトが音楽に対する才能に恵まれていた。
「俺の場合は、爺さんと婆さんに言われてたから、父さんが俺の描いた物を自分の物のように扱っても、驚かなかったんだ」
ただ、幻滅をしたのは事実だ。自己中心的で、最初こそ経済的理由で言いなりになっていた。
問題は、ヴェルディラが描いた絵が、好評価を得たことだ。それを勘違いした父親が有頂天になった。このままでは父親の陰になり、両親が眠りに就いた後の身の振り方に不安を感じた。
何故なら、本来ヴェルディラの手による物だったとしても、世間では父親の作品だと認識されている。描いた物を自分の作品だと言ったところで、正当に評価はされないだろう。
父親に似せて描いた紛い物扱いになるのは目に見えていた。だから、姿を消した。ほとぼりが冷めるまで、姿を現すつもりはなかったのだ。
「何を言っても現実は変わらないし」
「……だから、眠りに就くんですか」
ファジュラの問いにヴェルディラは口を噤んだ。
「私はヴェル以外の血を口にしたくはないんですよ。今回は仕方ないと諦めました。他人の血がどれほど苦痛か、考えたことがありますか」
ヴェルディラは驚いたように目を見開いた。
「三ヶ月です。言われたように、指示に従いました。そうしなくては、ヴェルを失うことになるからです」
アレンには判っていた筈だ。心に決めた相手以外から提供される血が、苦痛をもたらすことを。
ヴェルディラはただ、呆然となった。そんな風に考えたことは一度もなかったのだ。
「今なら判ります。母はだから眠りに就いたんです」
アーネストはティファレトが新たな相手を見付けることを望んだ。だが、ティファレトは探すことをしなかったのではないだろうか。《血の契約》をしていないファジュラでさえ、苦痛を感じたのだ。魔術による契約をしていたティファレトは、アーネスト以外の血を口には出来なかったに違いない。
「……どうして血を」
ヴェルディラは問い掛けた。
「私もですが、ヴェルも絶対的に血が足りなかったんです。しかも、ヴェルはよりによって、爪で首筋を抉ってしまっていました」
ヴェルディラは首を傾げた。爪と血液が繋がらない。確かに抉ったために、大量に出血したのは確かだろう。
「ヴェルは知っていましたか。吸血族の爪には毒があることを」
ヴェルディラは反射的に首を横に振った。知る筈がない。
「私も知りませんでした。しかも、その毒は出血が止まらない作用があるのだそうです」
傷口を強く押さえても出血は止まらない。
普通であれば、吸血族の誰かが中和すればいい。吸血族の唾液には中和作用があり、傷口を塞ぐ強い治癒能力がある。
「アレンが一か八か試したそうです。でも、ヴェルの血は強い苦みと拒絶する為なのか、毒素も感じたそうです」
だから、眠らせたのだ。体の機能を停止させ、ファジュラの回復を待つより手がなかった。
「……俺の血は毒だって言うのか」
「私以外は口に出来なくなったのだと言っていました」
逆に、ヴェルディラはファジュラ以外の血は口に出来ない。
「他のみんなもなのか」
「そうらしいです」
ファジュラは握っていたヴェルディラの手を離した。ヴェルディラは少し温かくなった両の手の平を見詰める。
「俺達、何にも知らないのな」
「そうですね。教えてもらえなかった、と言うよりも、知らなくても害がない環境にいましたから」
ヴェルディラは頷いた。確かに、他者との関わりが少ないと言うことは、それだけ、吸血族の事情を知らなくとも、生きていけるという事だ。
「今回のことで、それを痛感させられました」
ファジュラは小さく息を吐き出した。
演奏旅行に行っている間は、確かに沢山の吸血族と関わることになるが、それは、舞台と客席という隔たりがある。直接、関わってこようとする者もいるが、関わっていてはキリがない。だから、上手くやり過ごす。
ヴェルディラに至っては、室内に籠もってしまえば、誰とも関わることがない。
「子供よりも劣る知識、だそうです」
「反論出来ない」
それは、的を得た言葉だ。
「これは、アレン達に言われたのですが」
ヴェルディラが薔薇となった今、干渉は避けられなくなる。
他の薔薇や夫達には、ひっきりなしに招待状が届くらしい。ファジュラは楽師だから、招待状を送る立場だが、これからは、招待を受け、演奏することになるだろうと言われたのだ。
ヴェルディラは驚いたように顔を上げ、ファジュラを凝視した。
「私達の意志に関係なく、干渉を受けるだろうと」
「冗談だろう」
ファジュラはゆっくりと首を横に振った。アレン達でさえ、うんざりするらしい。それなのに、二人は他者との関わりが極端に少なく、ファジュラはこの館の人口数で音を上げていた。
皆は親切で、気遣ってくれるのだが、判っていても気疲れが出るのは仕方のないことだった。
それに、ジゼルとレイチェルが赤子を腕に、干渉してくる。どうやら、ファジュラを環境に慣らすために行動しているようだ。
ルビィとトゥーイは体が重いのか、四阿に座っていることが多いが、やはり、ファジュラの側に居続けた。
「慣れろ、と言われました」
ファジュラは脱力し、諦めたような声音で言われた事実を口にした。
「……慣れなかったら」
ヴェルディラは怖々と訊いてきた。
「大変な思いをするのは私達だと言われました」
特にトゥーイとフィネイは慣れているのか、鈍感にならなければやっていられないと、笑いながら言ったのだ。
「私達に鈍感になれというのは無理ですと言ったのですが、神経や精神がおかしくなりたくなかったら、身に付けろと……」
芸術関係を職業にしている二人は、感性が鋭い。ある意味、拷問のような要求だ。
「……隠れたりは」
「出来ないでしょうね。長様達が許さないと思います」
ヴェルディラは固まった。
「取り敢えず、着替えましょう。いくら寒くないとはいえ、その姿は良いとは言えませんから」
ファジュラはヴェルディラの姿を見て、微笑んだ。
「まあ、ヴェルは女性のようで、見ている分には目の保養ですけど」
ヴェルディラはファジュラの言葉に、慌てて姿を確認する。身に着けているのはバスローブ。感覚的に下着を身に着けてはいない。剥き出しの素足が、ファジュラに晒されていた。
慌てて足を引っ込めるが、散々、晒したのだ。絶対に観察しているに違いない。
「……どうして、こんな格好なんだよ」
ヴェルディラは真っ赤に頬を染め、ファジュラを睨み付けた。
「洗浄したからですよ」
そして、更に気が付いた。目覚めたとき、此処にいたのはファジュラだけではない。
「まさか、此処にいたみんなが見たのか……」
「当たり前でしょう。二人はお医者様で一人は薬師です。専門家が診なくては判らないじゃないですか」
確かに言っていることは尤もだ。非もヴェルディラにあるのは判っている。それでも、多くの目に素肌を晒したことに、羞恥心を覚えない訳はない。
「そうです。これを飲めますか。飲めないようなら、口移しで飲ませますけど」
手を出すように態度で示され、ヴェルディラは素直に右手を差し出した。手の平に乗せられたのは、一つの錠剤。
「これ、何だ」
「解毒薬だそうです。私も飲みました」
解毒薬、の言葉に怪訝な表情を見せた。
「さっき言ったでしょう。ヴェルは爪で首筋を抉って、中和は私にしか出来ないと」
ヴェルディラは小さく頷く。
「眠らせたので出血は止まっていましたが、目覚めさせたら、直ぐに出血が始まるのは判っていたそうです」
だから、材料を集めて、危険な止血薬を調合したのだ。
「止血薬自体が猛毒で、その薬に使われた毒草の毒は、ヴェルが意識を戻す前に口移しで中和薬を飲ませました」
そうだと思い出す。目覚め、意識が朦朧としているときに、口に何かを含まされたのだ。
「それだけじゃ、駄目なのか」
「毒草の毒は中和薬で良いそうですが、調合したことで、別の毒が発生するようなのです」
体が怠くないかと問われ、ヴェルディラは自分を振り返る。怠いのかそうでないかの判断が出来ない。目覚めたばかりの体が、まだ、馴染んでいない。
「完全に目覚めるまでに、一週間近く経っています。そのせいで、認識しないかもしれないとは言われています」
判らないかと、更に訊かれ、素直に頷いた。
ヴェルディラの傷に止血薬を塗布し、時間をある程度置いて、薬は直ぐにぬぐい取り、ベッドの上で出来る限りの洗浄を施した。
目覚める兆しがあったため、バスルームにヴェルディラを移動させ、念入りに洗浄をしたために、ヴェルディラはバスローブ姿だったのだ。
「……じゃあ」
ファジュラは中和薬を飲み、ヴェルディラの毒を中和したあと、直ぐに解毒薬を服用した。
「私は判らないですが、フィネイが自分で実験したそうです。そこで初めて、調合することで、新たな毒が発生することを知ったそうです」
本来なら、直ぐに薬を飲ませるのが普通だが、ヴェルディラは体の機能を停止させた。《眠りの薔薇》を取り除いて直ぐに中和薬と解毒薬を飲ませるのは、危険だと三人は判断したのだ。
毒素が強ければ、中和薬と解毒薬の作用も強いものになる。体が目覚めたばかりのヴェルディラに、服用させるのは危険だったのだ。幸い、体の機能が低下しているので、毒の周りが遅いだろう事が予測出来た。
《眠りの薔薇》を抜いて直ぐ、ファジュラが中和を行う筈だったが、ヴェルディラの体力が落ちており、意識が戻ってからの方が、傷の塞がりが早いとアレンとファジールは言ったのだ。
だから、意識が戻るのを待った。ただ、完全に目覚めてからでは、出血量が増える。ギリギリまで待ち、あのタイミングでファジュラが中和をしたのだ。
「本来なら、もう少し後に目覚めさせるつもりだったようです」
薔薇を抜き取る数日前、アレンが慌てた様子でファジールと共にヴェルディラの体を調べに来た。
「ヴェルの両親が疑問を持ち始めたようなんです。蒼の長様は知らない振りを決め込んでいたようなんですが……」
ヴェルディラは眉間に皺を寄せた。両親に見付かる訳にはいかない。見付かれば、閉じ込められ、監禁状態になってしまう。両親はヴェルディラが血に触れてしまったことを知らない。
ヴェルディラは手渡された錠剤を凝視し、こくりと唾を飲み込んだ。本来なら、まだ、眠りに誘われたままだったのだろう。多少のリスクを負っても、ヴェルディラを目覚めさせるより手がなかったに違いない。
錠剤を口に含み、ヴェルディラは水無しで飲み込んだ。異物が喉を通っていく、不快な感覚が肌を粟立たせた。
ファジュラは慌てて、グラスに水を入れ、ヴェルディラに手渡した。ヴェルディラは受け取ると、一気に水を飲み干す。
「大丈夫ですか」
「意地でも慣らす。あの人達に見付かりたくない」
ヴェルディラはファジュラの手を借り、ゆっくりと立ち上がった。絶対に思い通りにさせない。だが、目の前にして、果たして、自分の意志を通せるだろうか。ヴェルディラは焦りが心を支配していることが判った。
†††
「それは何なの」
ルビィは四阿のベンチに座るアレンの横に置かれている二冊の本を指差した。アレンは読んでいた本から顔を上げ、ルビィが指し示している本に視線を向ける。
「これか」
ルビィと隣に座っていたトゥーイが頷いた。アレンは本を読むために掛けていた眼鏡を外すと一冊持ち上げる。
「彼奴等に読ませるために用意した」
ルビィとトゥーイは顔を見合わせる。彼奴等とはヴェルディラとファジュラのことだろう。
「その本って、何が書いてあるんだ」
トゥーイは興味津々で訊いてきた。
「面白いもんじゃないぞ。俺達、医者が専門知識を学ぶ前に、必ず読む本なんだよ。この一冊に、吸血族の大抵のことなら載っている」
二人は目を瞬いた。
「教えるのを拒絶するって意味」
ルビィはこてんと首を傾げた。
「違う。俺が教えても良いが、必ず抜ける部分がある」
アレンは呆れたように、溜め息を吐いた。どうして、そんな考えに至るのだろうか。謎である。
「それに、普通なら自然に学ぶもんだ。俺達みたいな特殊な職業なら、知識として叩き込むが、専門的に必要なものじゃあ、ないからな」
だが、二人は成人の吸血族だ。今更、大人から学ぶなんて事は、実質不可能なのだ。それに、子供に見られるのと、大人とでは感じ方が違う。何より、誰も見せたがらないだろう。
「まあ、俺がガキのときに理解出来たんだ。簡単だろう」
アレンはさらりと言ったのだが、簡単という厚さではない。二人は一冊借りると、内容を確認してみる。
確かに項目毎に、掲載されているが、内容は子供が読むようなものではない。二人は目を見開いた。この内容を、幼い子供の時点で理解したアレンが普通ではない。
ルビィは恐々顔を上げる。
「ベンジャミンもなの」
「当たり前だろうが。そうじゃなかったら、専門の勉強を親父がさせるわけがないだろう」
トゥーイもゆっくりと視線を本からアレンに移す。有り得なかった。二人はそれなりに知識があるから、読んでも理解出来るが、子供では事前の知識などない筈だ。
「……医者の後継者って、みんなこれを読むのか」
アレンは再び眼鏡を掛けると、読んでいた本に視線を戻した。
「どうだろうな。少なくとも、俺達の一族は専門知識を学ぶ前に、吸血族について学ぶ。医術は生きている者全てに有効だ。それに、俺達は吸血族でほかの何者でもない」
医者が自分の一族の特徴に精通していないなど、あってはならないのだ。トゥーイはルビィと開いた本に視線を走らせる。薬師も学ぶことは学ぶが、ここまで徹底はしていない。頁をめくると、びっしりと文字で埋め尽くされていた。
「これ、俺が読んでも支障ないのか」
トゥーイの言葉に、アレンは顔を上げ怪訝な表情を見せた。今更、トゥーイが読む必要はないのではないか。ルビィも感じたのか、不思議顔だ。
「面白そうだから」
「面白みはないぞ。さっきも言っただろう」
アレンは呆れ気味だ。
「うん。でも、詳しく知らないしさ。フィネイは吸血族の毒の研究してるし。関わらせて貰えないからさ」
トゥーイは少し拗ねているようだった。フィネイは体に悪いだろうことは、一切、トゥーイから遠ざけてしまっているようだ。
元々、丈夫でない上、本人に自覚がないから、周りが必要以上に過保護になる。しかも、おっちょこちょいで、少しでも目を離すと、どうなっているのか判ったものではない。
女性化するようになると、更に顕著になったようで、フィネイなど、しょちゅう、他の夫達に愚痴っている始末だ。
「仕方ないだろうが。お前に自覚がなさすぎなんだよ」
「自覚って言うけどさ。俺は生まれたときからこれなんだよ。どう注意しろって言うんだ」
トゥーイは不機嫌に眉を寄せた。
「……あっ」
本館に視線を走らせたルビィが、此方に歩いてくる人影を見付けた。波打つ黒髪の横に綺麗な青銀髪が視界に入る。
「来たみたいだよ」
ルビィののほほんとした声に、二人も視線を向けた。
「後でもう一冊持ってきてやる」
アレンはトゥーイから本を奪い取った。
「本当か」
「ああ。親父のを借りてきてやる」
トゥーイは子供のように瞳を輝かせた。ルビィはトゥーイの様子に苦笑が漏れた。
「本が好きなの」
ルビィの問い掛けに、トゥーイは素直に頷いた。
「体は」
目の前まで歩いて来た二人に、アレンは質問した。歩いて来た様子を見る限り、動けないという事はなさそうだ。
「私は大丈夫です。ヴェルは少し怠そうですが」
ファジュラは数ヶ月の間に、ある程度、慣れることが出来たので、普通に受け答えたが、ヴェルディラはそうはいかない。
連れてこられた次の日に、意識を失ったのだから、仕方がないのかも知れない。アレンも判っているのか、追求しては来なかった。
「この本は何でしょうか」
いきなり一人に一冊ずつの本を差し出され、二人は受け取りはしても首を傾げることしか出来なかった。
「まず、吸血族について知ることが先決だ。かといって、俺や親父が口で説明したところで、理解するのは無理だろう」
アレンは下から二人を見上げ、目を細めた。
「読んでみて、判らないところはそのままにせず、誰かに聞け」
アレンは言うなり、空いているベンチを指差した。
「取り敢えず座って読め」
二人は顔を見合わせ、素直に従い、本の表紙を捲った。そして、黙々と読み始める。
「読めそう」
ルビィが首を傾げ二人に問い掛けた。ファジュラは顔を上げると、小さく頷く。
本を読むのは嫌いではない。だが、二人は直ぐに眉間に皺を寄せる。
「……やっぱり、難しそうだね」
ルビィは小声でトゥーイに囁きかける。トゥーイは頷いた。もしかしたら、その辺の吸血族より、詳しくなってしまうのではないだろうか。何も知らない分、余計な知識がないおかげで、素直に内容を吸収するだろう。
「俺も絶対、借りるんだ」
「物好きだよね」
トゥーイの言葉にルビィは苦笑いを浮かべた。最初に見た文字量でルビィは読む気にすらならなかったからだ。
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