浅い夜・薔薇編

善奈美

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Ⅹ 双月の奏

20 第十九楽章

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 あの日から二ヶ月ほどたった。ティファレトは黄の長の館の前で、扉が開くのを待っていた。
 
 薔薇達に関わらなければ、今も止まった時の中にいられたのだろうか。その問いに出る答えは否だった。
 
「何時までも、変化のない時の中にはいられない」
 
 ティファレトは小さく呟く。と同時に、静かに扉が開かれた。顔を出したのは執事。ティファレトの姿に軽く目を見開きはしたが、直ぐに中に入るよう態度で示し、ティファレトが入るのを確認すると扉は閉められた。

 執事に案内されながら、長い廊下を歩く。
 
「答えは出たのか」
 
 案内された室内に入るなり、質問が投げつけられた。ティファレトはしっかりと前を見据え、黄の長を見詰める。大きく息を吸い、吐き出した。
 
「はい。私がすべきことを、何が必要なのかを。そのために必要なことは全て済ませてきました」
 
 ティファレトははっきりとした声で答えた。
 
「では、答えを聞こう」
「私に《永遠の眠り》の許可を下さい。そして、アーネストを目覚めさせる許可を」
 
 黄の長は口を噤むと、探るような視線をティファレトへ向けた。

「つまり、アーネストと同じ時間を共有するつもりがないと言うことか」
 
 ティファレトは憂いを秘めた笑みを浮かべた。
 
「私では、彼の癒しにはなれません。ましてや、息子の負担でしかありません。自覚がなかったとはいえ、私は振り回すだけ、振り回したのです」
「だからか。その姿は」
 
 黄の長は痛ましい者でも見るように、目を細めた。
 
 ティファレトは結婚前と同じ姿で現れたのだ。長かった髪は肩の辺りで切り揃えられ、服も結婚前のそれだった。

 ティファレトの一族は裕福ではなかった。爵位を持つ一族ではあったが、ティファレトの父親に、抜きん出た才能がなかったのが理由だった。
 
 貧しくはあっても、ティファレトは不自由を感じたことはなかったのだ。金銭的に恵まれていなくても、心は何時も豊かだった。
 
 両親の仲も良く、使用人達も少ない給料に文句一つ言わない。
 
 愛され、伸び伸びとティファレトは育ったのだ。だから、結婚後の変貌に、黄の長は驚いていた。ティファレトに何があったのか。当時の身近にい居た大人達は困惑した。

「言い分は判る」
「ならば……っ」
 
 黄の長は改めて、ティファレトに向き直る。
 
「一つ理由を訊きたい」
 
 ティファレトは黄の長の言葉に首を傾げた。必要なことは言った筈だ。
 
「お前は何故、結婚後に変わってしまったんだ」
 
 ティファレトは軽く目を見張り、直ぐ、寂し気な表情になった。
 
「あれは私なりの抵抗だったんです」
 
 ティファレトはそう言った。アーネストの一族に続く、特殊な決まり事。それは直系だけに課せられた義務同然であることを、結婚直前に聞いた。

 衝撃的だった。確かに正式な婚約が決まったのは、アーネストが奏でるピアノの音で歌った後だった。そのときは、何の疑問も持たなかったのだ。
 
「私に求められたのは声と、吸血族の女性に課せられた子孫を残すという義務だけ。アーネストが真に私を求めた訳ではありません」
 
 聞いた後、ティファレトは気が狂いそうになった。儀式が近付くにつれ、このままでは壊れてしまうと感じたのだ。だから、想いを上書きした。無意識に自分の心を護ろうとしたのだ。ファジュラに対して過剰に干渉したのも、その延長線上だった。

 目を背けていたことに気が付けば、理由など直ぐに判った。だが、当時のティファレトは己を護るのに必死だった。正気で居るためには、何かを忘れ続けなくてはいけなかった。
 
「私は彼にとって、仕方なく妻にした者。愛情など得られるわけではありません。私はあの瞬間、幼馴染みを失ったんです」
 
 黄の長はティファレトの告白に驚愕した。アーネストが告げた言と、ティファレトの告げた言は噛み合っていない。それどころか、周りが如何にティファレトに目を向けていなかったのか、突きつけられたのだ。

「願わくば、ファジュラには心が伴った婚姻でありますよう。アーネストには、今度こそ、本当に望む女性との縁がありますことを、切に願います」
 
 ティファレトはそこまで言い終わると、息を吐き出す。黄の長は黒の長に言われていたことを実行しなくてはならない。
 
 それは、ティファレトの望みを叶えるように、というものだった。おそらく、黒の長はアリスから聞いていたに違いない。
 
「……それと、これをアーネストへ渡して下さい。館の護りの徴を宿してあります」
 
 ティファレトが差し出したのは、徴が浮かぶ掌に収まる大きさの水晶球だった。黄の長はそれを受け取る。

「両親や祖先の痕跡を消すことは出来ませんでしたが、私の物は全て処分しました。それと、アーネストの館にある、私が使用した物も、使用人達にお願いし、処分してもらっています」
 
 黄の長は最初に聞いた、必要なことはしてきた、の言葉の意味を漸く理解した。ティファレトは己を思い出すであろう全ての物を処分したのだ。
 
「お前はファジュラから、母親を奪ったのか」
「ファジュラに母親は必要ありません。言われたではないですか。成人した者に母親の勝手な愛情は必要ないと」
 
 ティファレトは無表情に、ただ、言葉を紡いだ。

「二つの館にあるのは、勝手に押し付け、偽り続けた母親と言う名の虚像です。本来の私を殺し、偽り続けた愚かな母親という名の幻です。そんなもの、ファジュラには必要ありません」
 
 ティファレトは静かだった。静かすぎて、何一つ、読めなかった。黄の長は目の前にいるのが、本来のティファレトであると確信した。
 
 ファジュラに干渉し、違う者を愛していると偽り続け、繋がっている筈のアーネストにすら悟らせなかった。
 
 それは、すなわち、ティファレト自身が自分自身を偽り続けていたからだ。

 そして、本来の自分を取り戻したティファレトは全てに対して容赦がなかった。
 
「全ては次代の者のために。それが、吸血族が長年、課してきた義務でしょう。私はその次代の者を苦しめた存在。本当なら、《太陽の審判》を願いたいところです」
 
 ティファレトは何の感情も宿さない瞳を黄の長に向けた。黄の長は嘆息する。ティファレトは答えを出したのだ。次に答えを出すのはアーネストになる。
 
『彼女だけに答えを求めるのは愚かですよ』
 
 黒の長はそう、呟くように言った。

『似ていると言っても、ファジール達とは状況が違います。どうあっても、二人には本来の姿に戻ってもらわなくてはいけません』
 
 全部族長を呼び出した黒の長は、きっぱりと言い切った。薔薇の夫婦には守るべき者が必要だ。
 
 いくら、全部族長が認めたと言っても、納得しない者もいる。更に、過去の彼等の扱いを知った者が、どんな暴挙に出るか、想像も出来ない。
 
「《太陽の審判》は認めるわけにはいかない。お前の《眠りの薔薇》は手元に届いている」
 
 黄の長の言葉に、ティファレトは初めて緊張を解いた。

 
 
      †††
 
 
「アレン」
 
 仕事部屋の扉を開け、ノックをしながら名前を呼んだのはフィネイだった。アレンはフィネイを見やり、ゆっくりと体を起こす。
 
「今、大丈夫か」
「どうかしたのか」
 
 アレンはゆっくりと、フィネイに歩み寄る。
 
「薬が出来た。成功しているかは、実験してみないと判らない」
「トゥーイには」
「彼奴にはまだ、出来ていないと言ってある」
 
 いくら、関わるなと言ったところで、言うことを聞かないことはフィネイ自身がよく判っている。

「それに最近はファジュラが薔薇園でヴァイオリンを奏でてるだろう。胎教にいいとか言って、そっちに行ってるから、実は助かってる」
 
 フィネイは軽く肩を竦めた。カイファスが臨月に入り、母親であるレイチェルも滞在している。そこにジゼルも加わり、ファジュラの周りはある意味、異様な光景だ。
 
 吸血族の女性人口は少ない筈だが、薔薇園の一角だけ、女性が集まっている状態になっている。
 
「ファジュラが気の毒だな」
 
 アレンは息を吐き出しながら、フィネイの仕事部屋に向かう。

「まあ、他人との接触が少なかったんだから、いい経験だろうな」
 
 アレンはそう言ったが、経験になるのだろうかとフィネイは首を傾げた。この館に集まっている者達は灰汁が強い。
 
 慣れてきたとは言え、フィネイも驚くことが多い。そんな中に、実質一人で放り込まれたのだ。
 
「二ヶ月か……」
「ファジュラの体調はいいのか」
 
 フィネイは問い掛けた。
 
「良好だな。もうそろそろ、いい頃かも知れない」
 
 ファジュラは言われたことに忠実に従ってくれた。無駄に体力を使わず、薔薇園で薔薇の生気を喰らい、休憩時間はヴァイオリンを奏でる。

 おそらく、ヴェルディラ以外の血を口にするのは苦痛だろうに、それでも一週間に一回は血を口にした。
 
「もう少し時間が掛かると思っていたんだが、回復が早い。思ったより太陽に灼かれなかったんだと思うんだが」
 
 アレンは半年はかかると思っていたのだ。ファジールもファジュラの驚異的な回復力に驚いていた。
 
「目的がはっきりしているからじゃないか」
 
 フィネイは仕事部屋の扉を開く。瞬間、鼻孔をくすぐるのは、濃厚な草の香り。天井一面に、薬草が干されている。

「増えたな」
 
 アレンは天井を見詰め、呟いた。
 
「ゼロスが譲ってくれるんだ。珍しい物も多いし、有り難いんだけど、申し訳なくて」
「気にすることはないだろう。どうせ、親父さんの使いのついでに、多めに採集してきているだけだろうし」
 
 何だったら、契約したらどうだ、とアレンは悪びれた様子もなく言ってのける。
 
「流石に、そこまで迷惑は……」
「迷惑なら、彼奴は最初から持ってきたりしない。そのつもりなんだよ」
 
 アレンは室内に似つかわしくない簡素な机に首を傾げた。

 机の下にはシートが敷かれている。元々は、ラグが敷いてあった筈だ。
 
「この机は」
 
 アレンは扉を閉めてから入ってきたフィネイに問い掛ける。
 
「レイスさんに頼んで見付けてもらったんだ。薬と言っても強力な毒には違いないから。調合の時に着ていた服も靴も処分する予定なんだ」
「そんなにか」
 
 フィネイは頷いた。そして、机の上に出来た染みを指差した。
 
「ほんの少しこぼしただけでも、染みになった。染みというより、変色したんだ」
 
 アレンは眉間に皺を寄せる。

「毒で薬か……」
 
 アレンは小さく呟く。
 
「今も昔も、吸血族は自身が作り出す毒に無頓着だからな」
 
 フィネイは嘆息した。
 
「調べようがないしな」
 
 爪に毒があることは判っていても、調べるためには攻撃を仕掛けなくてはいけない。故意に採集するのは無理なのだ。
 
「まあ、自分から採集して調べる」
 
 フィネイはすっと、目を細めた。
 
「薬の実験ついでに、毒を採集するのか」
 
 アレンはじっと、フィネイを見詰めた。フィネイは頷くと、出来たばかりの薬を取り出した。

 少し大きめの小瓶に詰められているのは、ペースト状の物。とても、薬とは思えない色をしていた。
 
「凄い色だな」
「レイが渡してくれた本に、変色することで完成する、と記されていた。最初は緑色だったんだ」
「熟成させて、この色か」
 
 フィネイは頷いた。出来上がった薬の色は、どす黒い紫色。
 
「そう言えば、シオンはどうなったんだ」
 
 フィネイは気になっていたことを切り出した。前回の満月の日、二人は部屋から出て来なかった。次の日、アレンは出て来たが、シオンが姿を現したのは、更に次の日だった。

「どうとは」
 
 アレンは探るようにフィネイを見詰める。
 
「否、その……」
 
 フィネイも流石に、面と向かっては訊けなかった。それは、個人的なことだ。言いよどんだフィネイに、アレンは腕を組んだ。
 
「満月を待ってるんだよ」
 
 フィネイは驚いたように目を見開いた。
 
「家には今、薔薇の妊婦が三人もいる。シオンが妊娠したのは直ぐに判ったが、彼奴等をよく知らない者は、それでは納得しない」
 
 つまり、満月を迎え、月が隠れても女性のままの姿をしていなくては意味がないのだ。

「まあ、俺自身も、信じられないと思う部分もあるからな」
 
 薔薇達は嗅覚が鋭いのか、やたらと匂いに敏感だ。調香師のエンヴィとは、また、別の感覚みたいなのだが、薔薇同士の香りに、特に敏感だった。
 
「香りで判るというやつか」
「そうだ」
 
 フィネイは言いながら、小さな包み紙と、何処から取り出したのか、水の入ったコップを差し出した。
 
「服用してくれ」
 
 アレンは頷くと中和薬を水で流し込んだ。
 
「味はないな」
「エンヴィも言ってた」
 
 フィネイは苦笑いを浮かべた。

「副作用とかも、なかったみたいだな」
「ああ。エンヴィには実験体になってもらったみたいで、心苦しかったんだ」
 
 毒草を採集するのは、エンヴィにしか出来ない。何故なら、生息地に張られた結界は古く、しかも、精巧に張られたものだった。
 
 エンヴィの一族の誰かが張ったものではなく、結界師と呼ばれる魔族に頼んだことが、エンヴィの一族の古い記録で判ったのだ。
 
「結界師の結界は俺達の創るものとは、訳が違う。仕方ないだろう」
 
 アレンは事実を口にした。

「それだけ危険だと、判っていたからわざわざ頼んだんだ。それに、一族の誰かが触れることが判っていたから、大量の花を保管していたんだ。そうじゃないと説明がつかないだろう」
 
 エンヴィが持ってきた花は、かなりの量なんてものではなかった。大瓶に入るだけ入れたという感じだったのだ。
 
 それも、一回で採集されたものではない。それは、瓶のなかの花の色で知ることは可能だった。花は、層のように折り重なるように納められていたからだ。
 
「エンヴィの祖先にとって、使うことが前提だったんだよ」
 
 だから、一人分ではなく、大量の花だったのだ。

「エンヴィは暇だからと、その記録を隅々まで読んだらしい。結界師に頼んだのは確かに先祖だが、毒草が敷地内の森に在る理由は判らなかった」
 
 レイとゼロスの話しで、毒草は元々、魔界の植物であることが判っている。つまり、故意に植えられたのだ。
 
「月読みが関わってるのかもしれない。ただ、エンヴィの先祖が選ばれた理由は、遠い未来に、夫となる存在があることを知っていたからだ」
 
 アレンは自身の力を認識してから、偶然はないのだと確信した。確かに、現在のありようで、未来は刻々と変化するが、絶対的に変わらないものもあるのだ。

「薬師ではなく、調香師である一族を選んだのは、意外性が強いからだ。そして、ある程度、植物に詳しいからだよ」
 
 アレンは机の上の染みに視線を向けた。
 
「そして、花を大量に保存していたのは子孫のためと、おそらく、指示されたからだ。中和薬を手渡され、薬があるうちは、花の季節に採集していたんだろうな」
 
 理由を知らされていたのかは疑問だが、薔薇の件が記憶に新しかった筈だ。だから、指示されたことを、実行したのだろう。
 
 吸血族が犯してしまった罪を、認識していたのかもしれない。

「始めるか……」
 
 アレンはぽつりと呟く。フィネイは頷いた。
 
「ちょっと、待っててくれ。レイスに誰も近づけさせないように言ってくる」
 
 女性陣は薔薇園にいるので大丈夫だろうが、他の者は違う。使用人達が入ってきては一大事だ。
 
「準備をしている」
 
 フィネイの返事に、アレンは一度、部屋を出て行った。その間に、自分用の中和薬と、毒を採取するための小さな小瓶。数枚の布を机の上に用意した。
 
 本当に効果があるのかは謎だ。だが、吸血族の毒に侵された魔族が考え出した薬方だ。

 それは、毒に侵された者の体内から、毒を取り出して調べた筈だ。だから、間違えない。
 
 扉が開き、閉まる音に、フィネイは顔を上げた。其処にはアレンが立っており、扉に何やら紋様を刻んでいた。
 
 淡い光が生まれ、すっと、扉に吸収された。
 
「結界か」
 
 フィネイは問い掛ける。
 
「気休めだけどな。やらないよりマシだ」
 
 アレンはフィネイの元に戻ると、机の上を見下ろした。
 
「これをはめてくれないか」
 
 フィネイはゴム製のグローブをアレンに手渡す。

「そして、これで、俺の傷口から血液を採取してくれ。多分、俺にそんな余裕はない」
 
 アレンは頷くと、袖を捲り、手早くグローブを身に着け、小瓶を受け取った。
 
「緊張するもんだな」
「普通は自分に爪を立てることもないからな」
 
 フィネイはゆっくりと息を吸い、吐き出した。左腕のシャツを肘まで捲り、きつく左手を握り締めた。
 
 一度、アレンを見詰め、頷いたのを確認すると、腕に右手の爪を軽く立てる。軽く目を瞑り、気持ちと息を整えると目を開き、自分の左手腕を凝視した。
 
 そして、躊躇いを振り切るように、一気に自分の肌を爪で抉った。

 
 
      †††
 
 
「……痛っ」
 
 トゥーイの軽い呻きに、ヴァイオリンを奏でていたファジュラの手が止まった。トゥーイは右手で左腕を押さえている。
 
「どうかしたのか」
 
 カイファスが首を傾げる。
 
「急に腕に痛みが走って……」
 
 トゥーイはそこまで言うと、目を見開き、勢い良く振り返る。視界に入ってくるのは本館だ。
 
「……まさかっ」
 
 軽く腰を上げたトゥーイを制したのはシオンだった。軽く首を横に振り、座るように態度で示した。

「兄さんは、まだ、出来てないってっ」
「落ち着いてよ。それに、兄さんじゃなくて、フィネイでしょ」
 
 トゥーイは眉間に皺を寄せる。
 
「それに、アレンが居るから大丈夫だよ」
 
 フィネイが実験するとき、アレンが立ち合ううことは知っている。当然、フィネイだけではなく、アレンも危険なのだ。
 
「出来上がってないって、目覚めたとき、言ってたんだ」
「そんなの、方便でしょ。フィネイはトゥーイをよく知ってるんだから」
 
 トゥーイはシオンの言葉に口を噤む。

「そう。出来たのね」
 
 ジゼルは本館を見詰め、呟いた。
 
「出来たって、何が出来たんですの」
 
 レイチェルは小首を傾げた。レイチェルが知らないのも、無理はない。
 
「蒼薔薇が自分の爪で、首を抉ったんだ」
 
 カイファスはレイチェルに説明を始めた。
 
 吸血族の爪には毒がある。それは事実として知ってはいても、今の時代、爪を武器として使用しないため、失念している部分が大きい。
 
 実際、ヴェルディラが爪を使ったとき、医術にそれなりに精通している者達は慌てたのだ。

「私達の爪の毒は血が止まらない作用がある。当然、傷口も塞がらない。しかも、私達薔薇は、特定の相手でなくては、解毒も出来ない」
 
 一時的に、ヴェルディラは《永遠の眠り》の処置がなされている。ファジュラの体力と体調が戻り、失った血液を補充した後、目覚めと同時に始まる出血を押さえるための薬をフィネイが調合しているのだと、カイファスはレイチェルに告げた。
 
「そうなんですの」
「ただ、使う薬草が、強烈に強い毒性の毒草なんだ」
 
 レイチェルは目を見開いた。

「そんな危険な植物を使わなくてはいけないんですの」
 
 レイチェルは呆然と呟いた。
 
「毒草も使い方で、よい薬になる。気付け薬にも少量の毒草を使うし、母上の薬にも微量の毒草が含まれてる」
 
 カイファスはレイチェルの次の反応が手に取るように判った。
 
「私、今まで、毒を服用していたんですのっ」
「毒を相殺する薬草を一緒に調合している。毒草の中にある特殊な成分が、母上の体に良いんだ」
 
 カイファスは小さく溜め息を吐く。そして、トゥーイに視線を向けた。

 トゥーイは諦めたように、ベンチに腰を下ろした。
 
「大丈夫だよ。薬が上手くいかなくっても、中和薬は成功しているんだし」
 
 シオンはトゥーイの顔を覗き込んだ後、ルビィに視線を向けた。ルビィは小さく頷く。
 
 中和薬を最初に服用したのはエンヴィだ。毒草を採集するために、どうしても必要だったからだ。
 
「それに、いざとなれば、アレンもお父さんも居るし、カイファスも、それに、トゥーイだって薬師でしょ」
 
 何とかなる、とシオンは微笑んだ。

「急遽、特殊な薬草が必要になってもゼロスが居るし、みんなで対応出来るよ」
「シオンさんは不安じゃないのか」
 
 トゥーイは俯いたまま、ぽつりと呟く。
 
「不安だよ。でも、僕はアレンより年上だし。不安ばかりを抱えていたら、僕自身が呑み込まれちゃうから」
 
 シオンは架空に視線を走らせた。一同は沈黙する。シオンは自分自身のことをきちんと理解している。
 
「それに、僕は一人じゃない」
 
 そう言うと、両手でお腹を軽くおさえた。そこには、新たな命が宿っている。

 ファジュラはシオンのその姿に不思議なものを感じた。今はまだ、男性の体で、女性とも男性とも言えない、曖昧な気配を宿している。
 
 だが、きっぱりと言い切った言葉は、母親の強さを宿していた。
 
「シオンの母親に妊娠したことは知らせたのか」
 
 カイファスは問い掛ける。
 
「まだだって。女性の体にならないと、信用してもらえないからって」
 
 ファジュラ以外の者達は納得した。いくら妊娠したと言っても、男性体のままでは、説得力がないからだ。

「……あの」
 
 ファジュラは控え目に声を出す。その声に、一斉に視線がファジュラに向けられた。流石にファジュラは体をびくつかせる。
 
「どうかしたの」
 
 ジゼルはファジュラのことを気遣い、優しく声を掛けた。
 
「まだ、よく判らないのですが、妊娠すると女性の姿のままなのですか」
 
 ファジュラにとって、妊婦の三人は女性の姿しか見ていない。一方、シオンは今の幼い姿の男性の姿しか見ていないのだ。前回の満月の時は、姿を現さなかったため、いまだに半信半疑だ。

「信じられないみたいだな」
 
 カイファスは嘆息し、眉間に皺を寄せた。
 
「シオンで確認する必要はない……っ。痛っ」
 
 カイファスがお腹を押さえ、額に脂汗をかき始めた。
 
「ファジールを呼ぶわっ」
 
 ジゼルは小さく叫ぶなり、目を閉じた。
 
「カイファス」
 
 レイチェルは気遣わし気にカイファスの腰をさすった。
 
「……目が覚めてから、違和感があったんだ」
 
 カイファスは大きく息を吐くと、体の力を抜いた。陣痛が始まったのだ。
「始まったの」
 
 シオンが腰を上げた。
 
「やっぱり痛いな。まあ、直ぐだし」
 
 カイファスは微笑んだ。
 
「頑張ってね」
「そんなに痛いのか」
 
 ルビィが両手を握り締め激励をおくった後、トゥーイが怖々と訊いてきた。
 
「そりゃあ、痛い。痛いけど、お腹の子だって頑張らないと出て来れない。だから、頑張らないと」
 
 ジゼルは本館から、駆けてくる姿を見つけた。此方に走ってくるのはファジールとレイスだ。
 
「来たわ」
 
 ジゼルはレイチェルに視線を向けた。

「歩けるかしら」
 
 レイチェルはカイファスの顔を覗き込む。カイファスはゆっくりと立ち上がった。
 
「歩く。病人じゃない」
 
 レイチェルに手をとられながら、カイファスは歩いて行った。ファジールと合流し、館の中に姿を消した。
 
「無事に産まれてくればよいけれど」
 
 ジゼルは静かに呟いた。
 
「大丈夫だよ。僕達には満月がついてるもの。体の中に、月が居て、助けてくれるから」
 
 シオンは当たり前のような口調で言った。ジゼルは驚いたようにシオンを凝視する。

「そうなの」
 
 ジゼルはルビィに視線を向ける。ルビィは頷いた。
 
「それに、痛みの半分は夫にいくみたいだしね」
 
 ジゼルは固まった。出産時の痛みに男性は耐えられない筈だ。
 
「……凄い痛みなのよ。男性が体験したら耐えられないわ」
「うん。だから半分。その半分も月が痛みを和らげてくれてるみたいで。だから、僕達って、普通の女性より、お産は楽だと思うんだ」
 
 シオンは右手の人差し指を顎に持って行く。
 
「そうなのかっ」
 
 初産のトゥーイは初めて知った事実に驚愕する。

「トゥーイは未体験だもんね」
 
 ルビィは首を傾げる。
 
「だから、過去の僕達は正気でいられたんだ。好きでもない男の子供を宿して、産み落として。その、繰り返し。でも、僕達だけが苦痛を味わっていたわけじゃない。過去のアレン達だって、苦痛を味わっていたんだよ」
 
 ジゼルは腕に抱くアンジュに視線を落とした。大人達の会話を、きょとんとした表情で聞いていた。幼い故に、内容は判っていないようだが、深刻な話しなのは薄々判っているのか、大人しくしている。 

「じゃあ、ゼロスには」
「知らせる必要はないよ。今頃、悶絶してるんじゃない」
 
 ジゼルは控え目に訊いたが、シオンはあっけらかんと言ってのけた。
 
「あら。でも、アレンは平気な顔でこの子を取り上げたんじゃないの」
 
 ジゼルはアンジュの柔らかい頬を右手の人差し指でつついた。アンジュはその刺激に反応し、パクリとジゼルの指を口に含んだ。
 
「アレン達って、僕達が気が付いてないと思ってるんだよね」
 
 ジゼルは首を傾げた。何に気が付いていないというのだろうか。

「僕達って、体が変化するとき、結構な痛みがあるんだけど、結婚後って言うか、初めての時の後、変化の痛みが半減したんだよね」
 
 シオンとルビィとカイファスは、ジゼルとファジールの話しを聞いていた。痛みを分かち合うと言うものだ。
 
「ええ。でも、私の時は、あの時だけの筈だわ」
「お母さんと僕達はちょっと違うのかも」
 
 シオンは首を傾げた。何故なら、ジゼルは扉を封印するため、そして、薔薇達は別の意味があるのか。ゼロスの話しで、アレン達は魔力の扉に干渉したことは知っている。

「考えられるのは、僕達の体を変化させる満月の魔力が、何らかの作用を及ぼしたんじゃないかってこと」
 
 薔薇達の体は満月の強い魔力で、強制的に性別を変化させる。満月の魔力のみの現象ではない。そこには、気持ちと血液が必要だ。
 
「多分だけど、血液と魔力が何らかの変化を与えて、更に《血の契約》の魔術と絡み合って、痛みを分かち合ってるのかも」
 
 シオンは腕を組んで考える。ファジュラはそんなシオンを凝視した。その、洞察力に。何より、頭の回転の早さに。

 ルビィとトゥーイはそんなファジュラの姿に苦笑した。初めて目の当たりにすれば、驚くのは判る。シオンは普通とは違うのだ。
 
 ジゼルと云々と話しているのを横目に、二人は囁き合う。
 
「毎回思うけど、シオンの頭の中ってどうなってるんだろ」
 
 ルビィは首をこてんと傾げた。
 
「俺、ついていけないや。シオンさんとまともに渡り合えるのって、アレンさんくらいじゃないか」
 
 トゥーイも腕を組んで、首を傾げた。
 
「何時もあんな感じなのですか」
 
 ファジュラは控え目に二人に問い掛けた。

「普段は違うんだけど、何かがあって、考えなきゃならないときとか」
「俺達じゃ、気が付かないことに、平気で指摘したりするんだよな」
 
 ルビィとトゥーイはファジュラを見詰めて、そう言った。ファジュラは不思議そうに、シオンを凝視する。
 
 見た目通りではないのだと、何より、恐ろしいものを感じだ。それは、本能に違いない。下手に逆らわない方がよいのだと、誰かが囁くのを聞いた。
 
「シオンって、何かが起こる前は、嫌な予感がするって言うんだよね」
 
 ルビィはトゥーイのときと、今回の件でも、シオンの口から同じ言葉を聞いたのだ。

「嫌な予感……ですか……」
「そう。ヴェルディラを見たときも言ってたし、トゥーイのときもそうだったよ」
 
 ルビィはこてんと首を傾げた。
 
「俺の時も……」
 
 トゥーイは不思議そうにルビィを見詰めた。
 
「もしかしたら、僕の時も言っていたのかも。あの言葉を聞くと、本当に嫌なことが起こりそうな気がするんだ」
 
 ルビィは眉間に皺を寄せた。シオンの予感は侮れないのだ。アレンとは別の意味で、シオンは体験から、全身で全てを読み取ろうとする。

「シオンって、アレンより年上なんだって」
 
 ルビィの言葉に、二人は先のシオンの言葉を思い出す。確かに、年上だと言っていた。
 
「確かアレンは僕より年が上だから、エンヴィと同じ年くらいかな。カイファスはアレンより上だし、ゼロスは判らないんだけど」
「じゃあ……」
 
 トゥーイは指を折ながら考える。つまり、一番年が上なのが、シオンと言うことになるのだろうか。
 
「トゥーイとフィネイは同い年でしょう」
 
 トゥーイは頷いた。だから、双子として育ったのだ。

「じゃあ、カイファスさんとシオンさんが一番年上ってことか」
「かな……。ゼロスが一番お兄さんかもしれないけどね」
 
 ファジュラは不思議そうに二人を交互に見詰めた。吸血族だけではなく、魔族は見た目と年齢が合わない。
 
 ホワホワしたルビィと、おっちょこちょいだと言うトゥーイ。
 
 シオンは見た目を裏切る鋭さを持ち、カイファスはどこか抜けている部分がある。
 
 ファジュラは個性的な面々に困惑しつつ、ヴェルディラのことを考えていた。自分の始まりを決めた者のことを。
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