浅い夜・薔薇編

善奈美

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Ⅹ 双月の奏

14 第十三楽章

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 アレンは言い放ったカイファスを凝視する。自分自身を犠牲にするつもりなどない。それほど、自虐的ではないのだ。
 
「……判ったよ」
「本当に判っているのか」
 
 カイファスは半眼で不審そうな視線を向けた。
 
「ああ。お前の婆さんと同じになるつもりはない。はっきり言えば、月読みの力は生理的に受け付けないんだよ」
 
 アレンは大袈裟に肩を竦めた。
 
「お前達が出した結論が間違っていないか、親父とお袋に訊いてみるさ」
 
 シオンはじっと、アレンを見詰めていた。

 アレンは少し思案する仕草をした後、シオンに視線を向けた。

「思い出したくないのは判るんだけどな」
 
 そう前置きの言葉を口にし、アレンはすっと、真剣な表情を見せた。
 
「親父さんに手を上げられたことはないのか」
 
 シオンはその質問に俯き、小刻みに体を震わせた。四人はシオンの様子に顔を見合わせる。
 
「……何回か……」
 
 シオンはぽつりと呟き、痛みを堪えるように、眉を顰めた。体に体罰による傷も痛みも消え去って久しいが、感覚はしっかりと残っている。

 シオンが記憶していると言うことは、記憶出来る年齢の時にも父親は手を出していたことになる。だが、絶対数、手を出していたのが母親なら、確かに理由がありそうだ。
 
 だが、そこで沸き起こった一つの疑問。
 
「……どうして、そこまで嫌ったんだ」
 
 アレンの呟きに、三人は目を見開いた。シオンはただ、震えている。
 
「エンヴィは母親の言葉を聞くまで、知らないくらいには親は気を使っていたんだ」
 
 シオンを嫌った、絶対的理由があるのだ。しかも、シオンは二人姉弟。吸血族の中では稀だ。

「二人の子供を授かって、母親は無事だったのなら、父親が関わっている。じゃあ、妊娠期間中は嫌っていなかった」
 
 アレンはトゥーイの言っていたことを前提に、組み立てていく。
 
 ジゼルは確実に例外だが、兄弟がいる吸血族は少ない。実際、薔薇と夫の中で、兄弟がいるのはシオンとアレンだけだ。
 
 普通なら、二人の子を授かれば、吸血族の皆から祝福されることはあっても、疎まれることはない。では、何故、あそこまで、シオンを嫌ったのか。絶対的な何かがあった筈だ。

 アレンは行き着いた結論に、眉間に皺を寄せた。理由はジュディだったのではないか。
 
「考えたくないが、最初の子が女児だったからなのかもしれない……」
「意味が判らない」
 
 アレンの呟きに、カイファスは首を傾げた。
 
「親父達の時代から、女児の出生率が著しく落ちたんだ。だから、俺達の親の代で結婚したのは一握りなんだよ」
 
 つまり、その時代背景が、シオンを嫌った原因なのではないか。
 
「女児が生まれると、騒ぎになるくらいだったらしい」
 
 ファジールが言っていたので間違いないだろう。

 実際、アレンの双子の妹が生まれたときは、凄かったことは記憶している。
 
 だが、ジゼルとファジールは頑として、仮の婚約者を選ばなかった。それは、ファジール自身が身に染みて判っていたからだ。幼いとき、ましてや、新生児の時点で相手を決めるのは、本人に良い影響を与えない。
 
 心の自由を奪う結果になってしまう。
 
「どうして、女児だったからなんだ」
「簡単に考えるなら、ジュディが生まれたとき、周りはほめそやした筈だ」
 
 つまり、父親は天狗になってしまったのだ。

 当然、次に授かった子も女児だと思ったに違いない。だが、実際に生まれてきたのは男児。
 
「カイファスの婆さんの話じゃ、お前等は本来女として生まれてくる筈だったって言っていたからな」
 
 つまり、シオンの両親は、実際授かった二人の子は女児だったのだ。だが、シオンは薔薇の呪詛で男として誕生した。
 
「シオンが本来の性で生まれていれば、受けなかった体罰だ。でも、吸血族の事情を、シオンは身に宿して生まれてしまったんだよ」
 
 アレンは腕を組んで、更に考えた。

「もしもの話しになるけどな。ジュディとシオンが逆に生まれていれば、問題なかったのかもしれない」
 
 だが、とアレンは目を細めた。そうなった場合、アレンの相手はジュディになったのかもしれない。ただ、生まれが逆になったところで、性別は変わらなかっただろう。
 
「そう考えたらさ、父親がシオンさんを嫌ったのは、女児として生まれてこなかったからなのか。でもさ、家業があるなら、男児は必要じゃないのか」
 
 トゥーイは当然のことを言ってきた。アレンは小さく息を吐き出す。

「シオンの前では言いにくいんだけどな。あの人は家業なんてどうでもいいんだよ。折角、立て直したものを、また、傾けてる。目前のことばかりに目を向けるような輩だ」
 
 ルビィがエンヴィに聞いていた。シオンの一族の家業は、本当に傾いていたようだった。
 
「好きで知った訳じゃない。嫌でも耳に入っていたんだ。息子が必死で立て直した家業を、一瞬で破壊した、とな」
 
 シオンが薔薇として黒薔薇の主治医の後継者に嫁いだことは、黒薔薇の部族だけではなく、吸血族に知れ渡っている。

「えっ……」
 
 シオンは驚いたように目を見開いた。家業が傾き始めていたことなど、知らなかったのだ。アレンからではなくても、ジュディから聞くことも出来た筈だ。それなのに、そんな話しは一度も聞いたことがない。
 
「どう言うこと……」
 
 アレンは髪を掻き上げる。この話しはシオンの耳に入れない約束だった。ジュディが夫から聞いていたのだ。同業であるジュディの嫁ぎ先で、シオンが嫁いだ後から、顕著に業績が悪化を始めた。
 
 嫌っていても親であることに変わりはない。最初気に掛けていたジュディだが、よくよく話しを聞いた後、その思いすらなくなったらしい。

 シオンとジュディの祖父の代は傾くような業績ではなかったのだ。同業者はライバルになるが、互いの商品の品質向上には、刺激し合うのが一番だ。
 
 だが、二人の父親の代に変わると、急に傾き始めたらしい。つまり、事業に対して、父親は全く関心を示さなかったのだ。ただ、生きていくためには、いくら魔族と言えど財産は必要なのだ。
 
「この話しはお前には秘密にする約束だった。ジュディが耳に入れないようにと口止めしてきたからな」
 
 ジュディは知っていたのだ。シオンがショックを受けることを。

 シオンはきゅっと唇を引き結び、俯いた。結局、自分がしたことは意味がなかったのだ。
 
「まあ、お前の所に居た職人はジュディが旦那の所で雇ってくれるように計らった筈だから、会いたかったら会える筈だ」
 
 アレンの言葉に、シオンは弾かれたように顔を上げた。
 
「お前が橋渡し役の人間に頼んで、捜して貰った職人の一族なんだろう。ジュディはお前が奔走していたのを知っていたからな」
 
 アレンも知っていた。資金繰りもだが、関係そのものが崩壊していた。吸血族では太陽の下で作業は出来ない。

 ワインを作るのには葡萄が必要だ。その葡萄は人間界の空気と土と水が最適だった。吸血族の住処では、最上級の葡萄は育たない。それは、気候に変化がないからだ。
 
 アレンとカイファスはシオンから資金を貸してくれないかと頼まれた。勿論、拒絶する理由はなかった。還ってこなくても良いという気持ちで資金提供したのだが、シオンは倍以上にして返してきたのだ。
 
 アレンとカイファスはワインだけでよいと言ったのだが、シオンは借りたのだから、利子を付けて返すと言い切った。実際、事業は五十年足らずで軌道に乗ったのだ。

「今じゃあ、親父はジュディの旦那の所からワインを購入してるしな」
 
 シオンが家業を継いだことは、アレンが資金提供したことでファジールの耳にも入った。当然、ファジールにしてみれば、一時的とはいえ、面倒を見たのだ。助けたいと思うのが普通だろう。
 
 毎年、相当量のワインをシオンが経営するワイナリーから購入していたのだ。
 
「シオン」
 
 アレンは改まったように、真剣な表情を見せた。
 
「親父とお袋からお前の幼少期のことを訊いてくる」
 
 シオンは表情を歪め、だが、小さく頷いた。

 カイファスはゆっくりとした動作で立ち上がり、ルビィとトゥーイが居る長椅子に移動した。ルビィはカイファスの意図を察し、横に移動し間を詰めた。
 
 シオンは不安気にカイファスを見、次いでアレンに視線を向けた。
 
「お前達は幸せにならないとな」
 
 ルビィの横に腰を落ち着けたカイファスが呟くように言った。
 
 アレンは立ち上がると、シオンに歩み寄り、柔らかく抱き締める。シオンは縋り付くように抱き付いた。
 
 三人はそんな二人をただ、優しい眼差しで見詰めていた。

 
 
      †††
 
 
 扉が開く音にティファレトは顔を上げた。そこに立っているのは一人の女性。腕に独特の金の巻き髪の赤子を抱いている。
 
「部屋の結界が解かれたみたいね」
 
 黒髪の女性、ジゼルが呟くように室内を見渡した。
 
「食事に行きましょう」
 
 ジゼルはティファレトに、立つように促した。何時までもこの部屋にいる必要はない。ティファレトは少し躊躇い、ゆっくりと立ち上がった。そして、促されるまま、後をついて行く。
 
 昨日、全く目に入らなかった館の廊下は、手入れが行き届いていた。

「……貴女は」
「一応、この館の主の妻よ」
 
 ティファレトの問い掛けに、ジゼルは少し笑い声混じりで答えた。
 
 ジゼルは振り返ると、微笑みを浮かべた。
 
「ジゼルよ」
 
 よろしくね、とジゼルは言うと、再び歩き出す。
 
「ティファレトです」
 
 ティファレトも非礼にならないように名を告げた。
 
「此処は……」
 
 ティファレトはファジュラの気配と魔力を頼りにこの館に来た。だから、この館の主の職業は判らない。ただ、館の規模と、何より、室内を飾る調度品の質の良さに、普通の職業ではないと感じ取っていた。

「その質問は、ファジールの職業を聞いているのかしら」
 
 ファジールの名前に、ティファレトは弾かれたように目を見開いた。
 
 知らない筈がない。
 
 黒薔薇の主治医だ。では、この館の主は黒薔薇の部族の中で、黒の長に次ぐ魔力を持つ一族の館と言うことになる。
 
 黄薔薇の夫を息子にもち、黄薔薇を花嫁に迎えた。知らない筈がない。詳しく調べたのはティファレト本人なのだ。
 
「ファジールは黒薔薇の主治医よ」
 
 ジゼルの言葉が、ティファレトの中の答えを肯定した。

 では、あの時、ヴェルディラを庇っていた男性がファジールなのだろう。
 
 一緒にいた三人の妊婦と、まだ、幼いと言っていい少年は違うと判断出来る。
 
 黄薔薇の夫と言う可能性もあるが、薔薇の夫達はファジュラと共にあった気配を覚えている。
 
「今は医者としては働いていなかったのだけど、今回の件で一時的に戻るみたいだわ。アレンが主治医の代わりを勤められないのだから、仕方がないわね」
 
 ジゼルは歩きながら、世間話でもするように、軽い調子で言葉を紡ぐ。

 長い廊下を歩き、ジゼルはエントランス正面の階段の裏に回り込む。そして、その裏にある観音扉を躊躇うことなく開け放った。
 
 瞬間、鼻孔を擽る、薔薇の甘い香りが風に運ばれ館内に入り込む。ティファレトは呆然となった。
 
 目の前に広がるのは、見渡す限りの薔薇の園。色とりどりの薔薇達が、その美しさを競い合うように咲き誇っていた。
 
 ジゼルはさっさと歩き出す。ティファレトは慌てて、後を追った。
 
「殆どは食用何だけど、あっちにあるのは調香用の薔薇なのよ」
 
 ジゼルは右手側の薔薇達を指差した。

 そして、左手側の薔薇達を指差す。
 
「こっちは観賞用よ。どちらも、食用には向かない薔薇なのよ」
 
 よく見ると薔薇達の間に四阿が目に入る。右を見ても、左を見ても、薔薇以外の植物も、四阿以外の建物も見当たらない。
 
 前方に目を向ければ、山の裾の辺りまで薔薇が咲き誇っているように見えた。
 
「奥の方には薔薇の原種が植わっているようなんだけど、遠すぎて見に行ったことはないわ」
 
 ジゼルもファジールも知らなかったのだが、アレンがそのことを知っていた。

 伊達に薔薇の品種改良を趣味にしているわけではない。品種改良には原種の存在が不可欠なのだと、アレンは力説していた。
 
 薔薇に囲まれるように移動し、ジゼルが立ち止まった場所は、今までの薔薇達に比べると、花が大きな品種だった。
 
「この辺りはアレンが品種改良した薔薇よ。みんなが美味しいと言っているから、問題ない筈だわ」
 
 後は好みの問題ね、とジゼルは微笑んだ。
 
 この辺りの薔薇は全体的に淡い色合いの物が多い。特に目を引くのは、薄い花弁を幾重にも纏う、淡い黄色の薔薇だった。

 ティファレトの視線の先にある薔薇に、ジゼルは微笑んだ。
 
「それは、《シオン》と言うのよ。アレンはまだ、イメージが違うって唸ってるけど」
 
 ジゼルは可笑しそうに笑いながら、アンジュをその薔薇の元まで連れて行く。
 
「さあ、お母さんの薔薇よ」
 
 アンジュは菫の瞳を輝かせ、笑い声を上げた。
 
「……あの」
「この子は息子夫婦の二番目の娘なのよ」
 
 ジゼルは顔を上げる。
 
「黄薔薇の娘よ」
 
 ティファレトは驚いたように、アンジュを凝視した。

「大変だったみたいね」
 
 ジゼルは四阿にティファレトを誘い、腰を落ち着けると、そう切り出した。ティファレトはただ、俯く。
 
「私はあの子達のように責めるつもりはないわ。心は自由だものね」
 
 ティファレトは弾かれたように顔を上げる。ジゼルの表情は穏やかだった。
 
「私はっ……」
「ただ、想いの方向を間違えてしまっただけ」
 
 ティファレトの表情が歪んだ。
 
「私にしてみれば、自由に誰かを想うことが出来る環境に居たことが羨ましいわね」
 
 ジゼルは苦笑した。

 ジゼルは四阿の外に視線を向ける。そこにあるのは、一面の薔薇達。色とりどりに咲き誇る、美しい姿だった。
 
「若いときの私に、自由はなかったから」
 
 ジゼルの零した言葉に、ティファレトは目を見開いた。黒の長の言葉が、脳裏を掠める。
 
「私にはファジールだけ。彼以外、私を救うことが出来なかった。でも、私の望みは《太陽の審判》だったわ」
 
 ティファレトは穏やかな表情の横顔に困惑する。何故、そこまで穏やかでいられるのだろうか。選択肢がない状態で選び取った未来に、不安や憤りは無かったのだろうか。

 ジゼルの腕の中で、先の淡い黄色の薔薇を手に、うとうとし始めたアンジュが目に入る。
 
「……でも、思うのよね。出会う者同士は、どんな事があっても出会うようになってるって。特に今の吸血族では、その出会いの範囲は限られているわ」
 
 ジゼルはただ、薔薇達を見詰めた。この、薔薇達は長い時の中の吸血族を見詰めてきた。過去の出来事も、そして、これからの出来事も刻みつけていく。
 
「貴女が本当に得たかったモノは何だったのかしら」
 
 ジゼルが発した疑問に、ティファレトは唇を噛み締める。

「決まった未来はないわ。過去はどうやっても変えられない。だったら、自分で選び取れる未来に何が出来るのか。決められた扉しか用意されていないのなら、どうやって流されないように自分らしく生きていくのか。それを考えず、ただ漠然と時を喰い潰していては、何にもならないのよ」
 
 ジゼルは視線をティファレトに戻す。
 
「……旦那様が眠りに就くのですって」
 
 ティファレトは小さく頷く。
 
「そのとき、貴女が感じたモノは何だったのかしら」
 
 ジゼルはただ、穏やかに微笑んだ。

「私は何も知らなかったわ。吸血族の事情も、吸血族の常識も。ましてや、自分の中の魔力の質にさえ」
 
 ジゼルはそう言った後、小さく首を横に振った。
 
「違うわね……」
 
 ジゼルは溜め息のような息を吐き出す。
 
「知らなかったんじゃないわ。知ろうとしていなかったの」
 
 ティファレトはジゼルを凝視する。意味が判らなかったからだ。
 
「私は護られていたの。ありとあらゆるモノから。それは、言葉通りに」
 
 護られ、育てられたジゼルは、自身の魔力のことすら、知らなかったのだ。

「どう言うことですか……」
「正確には、吸血族を護るために隔離されていたって言うのが、より正確かもしれないわね」
 
 ティファレトに月華の話しは出来ない。それは、ジゼルだけの問題ではないからだ。
 
「下手をすれば、私が吸血族を滅ぼす。それが、私という存在なのよ」
 
 ティファレトは呆然となった。ティファレトの様子に、ジゼルは目を細め微笑んだ。
 
「今はファジールが私を封印しているわ。もし、私が暴走すればファジールが一番に害を負うことになる」
 
 それは事実だった。

「周りから見たら、当時の私達は特殊だったでしょうね。ファジールは黒薔薇で、私は紅薔薇だったのだもの」
 
 他部族間の婚姻をほぼ、認めていない吸血族では異例だ。だが、ティファレトは黒の長が独り言、と言い語った言葉を思い出す。
 
「……二日で婚約したと……」
「正確には婚約ではなくて、私の中のモノを抑え込むのに、ファジールの血が必要だったの。そして、ファジールは私の代わりを務めるために私の血が必要だった。それだけよ」
 
 月華の治療法など、ジゼルは知らなかった。

「私は当時、確かに助かったし、自由に好きなことが出来るようになったけど、同時に罪悪感も持っていたわ」
 
 ファジールは命と生を天秤に掛け、命をとったのだ。その選択は、自分自身の命と生を差し出す、言わば自己犠牲を意味している。成功すればよいが、失敗すれば二人は消滅したのだ。
 
「私は一度、ファジールから逃げたのよ。そんな自覚も意識もなかったけど、結果、逃げたことになったの」
 
 ファジールが心に傷を持っていることを、当時のジゼルは知らなかった。

「ただ、私から自由になって貰いたかったの。ファジールは医者のせいなのか、結婚に消極的で、結婚をしても意味はないと思っていたわ」
 
 出会って直ぐに知ったファジールの考えは、今でも耳に残っている。自虐的とも取れる、殺伐とした言葉。婚約者の心を優先し、自分という存在を否定するように言葉が零れ落ちた。
 
「私は貴女の事情を詳しくは知らないし、知る必要もないと思っているわ。勘違いしないでね。詮索は必要なときにすればよいし、私は今はそのときではないと思っているだけ」
 
 ジゼルは憔悴した様子のティファレトをただ、見詰めていた。

「ただ、これだけは言わせて貰うわ」
 
 ジゼルは小さく息を吐き出す。
 
「黒の長様は貴女を責めたと思うわ。でもね、それは、珍しいことなのよ」
 
 ジゼルの言葉に、ティファレトは困惑した。
 
「黒の長様はとても合理的なの。必要ないと思えば、たとえ、相手が傷つこうが気にはしないのよ。一番に考えるのは、部族の、ひいては吸血族のため。もし、少しでも害を与える存在だと思えば、容赦ないわ」
 
 ティファレトは背中を冷たい何かが這い上がった。黒薔薇の部族長の恐ろしさは知っていた筈だ。

「そして、今の吸血族にとって、五人の薔薇は必要不可欠なのよ。吸血族は呪われているのだそうよ。それも、過去、吸血族が薔薇の夫婦達を苦しめたせい」
「……過去」
 
 ジゼルは頷いた。
 
「ファジールには婚約者がいたわ。今は私の一番大切な友人なんだけど。彼女はファジールのおかげで、吸血族の呪縛から離れたのよ」
 
 もし、あのまま、ファジールと結婚していたら、カイファスは生まれなかった。そして、アレンも誕生しなかったのだ。アリスは知っていた筈だ。レイチェルがファジールの元に嫁いではならないと。

 あえて口を挟まなかったのは、ファジールが絡まり合った呪縛から、離れるだけの力を持っていることを知っていたからだ。
 
 アレンの前のアレン。ファジールはアレンの兄だった。そして、二人の祖先だ。願いを身の内に宿し、長いときを願いと共に血脈として継承していったのだ。
 
「おそらくだけど、薔薇に関わりのある者達は、過去に何らかの因縁がある者達なのだと思うわ。それは、意志なのだと私は思っているの」
 
 魔族は基本的に命に限りはない。自分の意思で眠りに就くことで、次代に全てを託す。

「長様は何故、貴女を責め、何故、考えさせようとしたのかしら」
 
 ティファレトはジゼルの問いに、黒の長の言葉を思い出す。
 
「……あの子の両親はあの子を物としか思っていないと……」
「その話しは聞いたのね」
 
 ジゼルの問いに、ティファレトは弱々しく首を横に振った。詳しくは聞いていない。ただ、物、と聞いただけなのだ。
 
「……詳しくは聞いていません……」
 
 ジゼルは俯いたティファレトに、その心情を考えた。おそらく、消化出来ずにいるのだろう。

「私が聞いたのは又聞きだから、間違えている部分があるかもしれないんだけど……」
 
 ジゼルはそう、前置きをした。
 
「その前に、この話しをしておくわね」
 
 ヴェルディラの話しをするのなら、アリスの話しを先にしなくてはならない。どうやら、情報源はアリスらしいからだ。
 
「黒の長様の奥様は少し特殊な方で、人間で月読みで吸血族なのよ」
 
 ジゼルの説明にティファレトは困惑し、勢い良く顔を上げた。ジゼルはティファレトの前で右手の人差し指を立てていた。

「……えっ……」
「今は吸血族なんだけど、人間として生まれた月読みと言う魔族で、《血の洗礼》で吸血族になられた方なのよ」
 
 ティファレトは完全に固まった。
 
「アリス様と言う名前なんだけど、月読みの能力を持った方で、過去も未来も視えてしまうのよ」
 
 ジゼルはそこまで言うと、一端、言葉を切った。ティファレトは明らかに、困惑を通り越し、思考が停止しているように見えた。
 
「信じられないのは判るんだけど、無理矢理、理解して貰わないと、説明のしようがないのよ」
 
 ジゼルは肩を竦め、溜め息を吐いた。

 ジゼルは本格的に眠りの世界に旅立ったアンジュを抱き直した。
 
「月読みは特殊な魔族だから、魔族とは言え、吸血族の女性で知る者は少ない筈だわ」
 
 ティファレトは頷いた。月読みという魔族を、ティファレトは知らない。
 
「アリス様は月読みの中でも特に特殊な方で、薔薇達のためだけに此方側に来られた方みたいなのよね」
 
 ジゼルはそう言うと、急に表情を引き締めた。
 
「もし、貴女が自分の両親に才能を喰い物にされたら、どう思うかしら」
 
 ティファレトは一瞬、虚を突かれたように目を見開いた。少なくともティファレトの両親はそのような輩ではない。

「ヴェルディラを捕まえたのはシオンよ。あの子は敏感だから。誰もが気が付かないような些細なことにも気が付いてしまう」
 
 ジゼルがヴェルディラの話しを聞いたのは、レイから話しを聞いたファジールからの又聞きになる。少なくとも昨日の夜の始まりまでは、穏やかな時の流れの中にいたのだから、夫婦で話すことは容易だった。
 
「ヴェルディラは両親から逃げていたようなのよ」
 
 黒の長がアリスから託された事実に、それを聞いた一同は動揺を隠せなかったようだ。

 当たり前だろう。父親が描いていると疑われていなかった依頼品は、全て、ヴェルディラが描いた物だった。息子が手掛けた作品に、父親は平気で自分のサインを書き、平然と依頼主に納品していたのだ。
 
 蒼薔薇の絵師に付いては、流石のジゼルも知らないが、絵画に興味がある者なら、知っているらしい。
 
「貴女なら知っているわよね。いくら、気に入らなかったからと言って、知らない仲ではないのだもの」
 
 ティファレトは動揺しながらも頷いた。憂いを秘めた紫水晶の瞳が脳裏を掠めた。

「私が何故、黒の長様の奥様の話しをしたか判る」
 
 ジゼルは小首を傾げ、ティファレトに問い掛けた。ティファレトは小さく首を横に振った。
 
「誰も知らなかったのよ。蒼の長様も」
 
 そう口にしたジゼルだったが、ヴェルディラの祖父母が懸念していたことを考えると、予感があったのかもしれない。
 
「この話しを持ってきたのは黒の長様で、聞いたときは驚いたそうよ。ヴェルディラは眠りに就くつもりで、あの場所に行ったみたいね」
 
 正確には毎回行っていたようなのだが、アレンが持っていた青薔薇に執着していたようだ。

「青薔薇を見なかったかしら」
 
 ティファレトは皆が去った後、控え室に戻った。会場は借り物だ。私物を片付けるために、気乗りしない気分のまま、扉を開くと飛び込んできたのは綺麗な青だった。
 
 淡い芳香を放ち、ファジュラのヴァイオリンの横に、静かに咲き誇っていた。一輪だけ抜き取られ、花束とヴァイオリンの間でティファレトに語りかけているように見えた。
 
「あの薔薇はこの庭の中にあるのよ。さっき、調香用の薔薇がある場所を教えたでしょう」
 
 ティファレトは素直に頷いた。

「あの薔薇を作ったのは私の息子なんだけど、持って行くように指示したのはアリス様なのよ」
 
 ティファレトは小さく息をのむ。
 
「もしかしたらだけど、アリス様は貴女についても、黒の長様に何かを話している筈だわ」
 
 黒の長は確かに抜け目なく聡いが、何時もなら容赦していない。つまり、アリスは黒の長にヴェルディラとは別に、何かを語った筈なのだ。
 
「黒の長様は恐ろしい方よ」
 
 ティファレトは小さく体を震わせる。世間知らずの女性達だが、黒の長の恐ろしさだけは、必ず教えられていたからだ。

「アリス様はあの子達のためにしか動かないのよ。そのために存在していらしてる方だから」
 
 黒の長は基本的に吸血族中心に行動するが、アリスは薔薇を中心に行動する。黒の長がアリスの言葉で動くのは、最終的に吸血族のためになるからだ。
 
「貴女は薔薇の夫を息子にもったわ。それは、吸血族の業を背負った者と言う意味よ」
 
 ティファレトは少しずつ、理解し始める。当たり前のように決められた女性達の義務は、義務などではない。ただ、苦痛を与えられるだけの行為だった。

「貴女は本当に苦痛を与えられたのかしら。私の見た感じでは、そんな印象は受けないわ」
 
 アーネストは決してティファレトに無理を強いることはなかった。ただ、微笑みを浮かべていた。ある意味、仮面を被ったように、表情に変化がなかったのだ。
 
 確かに無表情と言うわけではない。表情はあるのだが、読むことが出来ない、本当の意味で表情があったわけではなかった。
 
「私は今回のことに本当の意味で関わっている訳ではないから、何とも言えないのだけど、長様に話したい、と言ったのは私だから」
 
 ジゼルは黒の長と対面したとき、黒の長は悟ったような表情をしていた。

「だから、貴女には、あの子達を見守って貰いたいの。周りから向けられる悪意から」
 
 悪意、の言葉にティファレトは困惑する。その表情に、ジゼルは悲し気に顔を歪めた。
 
「薔薇達が本当に吸血族に受け入れられていると思うの。長様達の庇護と目があるから、黙っている者達もいるのよ。何故、爵位を持っていた家系に薔薇が生まれてくるのかしら。答えは簡単なのよ」
 
 ジゼルは一旦、言葉を切った。
 
「尤も薔薇に苦痛を与えたのが、爵位を持つ、高い魔力を有した吸血族だったからよ」
 
 ジゼルは真顔で、低い声で告げた。

「本当なら女性として生まれてくる筈だったのに、男性として生を受けたのは、私達、吸血族の罪なのよ。それなのに、罰を受けているのは、あの子達なの」
 
 ティファレトはジゼルが何を言おうとしているのか理解した。黒の長が言っていた、本当の意味を理解した。
 
 黒の長はティファレトとアーネストに、薔薇を悪意から守る盾になってもらいたいのだろう。ティファレトを諭したのは、頑なになり、真実に目を向けていなかったティファレトに、現実に目を向けて貰いたかったからだろう。

 だが、もう、遅いのだ。アーネストはティファレトに背を向けてしまった。一人、冷たい闇に身を置くことを決断してしまった。
 
 ティファレトは右手をきつく握り締める。手の平越しに受け渡された護りの徴が、今の現実なのだ。
 
 黙り込んだティファレトに、ジゼルは溜め息を吐く。
 
「《永遠の眠り》に就いても、絶対ではないのよ。貴女が、誰も受け入れなければ、離婚は成立しないのよ。だから、貴女が旦那様を目覚めさせる資格が消滅したわけではないの」
 
 ティファレトは泣きそうになるのを堪えるように、唇を噛み締めた。
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