浅い夜・薔薇編

善奈美

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Ⅹ 双月の奏

12 第十一楽章

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 三人の長はアーネストと対峙していた。部屋の入り口付近にファジールが壁にもたれ掛かり、その様子を眺めていた。
 
「それでは……」
「不本意だが、明日にでも実行する。ファジュラの意識は戻っていないが、仕方ない。早めに手を打たなければ、取り返しがつかないからな」
 
 黄の長は渋々といった様子だった。
 
「お前には、辛い思いをさせた」
「昨日も言いましたが、辛い思いなどしていませんよ。ただ、時代が悪かっただけです」
 
 アーネストはただ、穏やかな笑みを見せた。

「それに、前々から準備はしていました。彼女の実家の館は何時でも使えるように手入れはしてあります。昨日、使いの者を頼み、昔から仕えていた者達も呼び戻しました。後は私が彼女の両親から託された護りの徴を渡せば、全て終わります」
 
 アーネストは何時、どうなっても良いように準備を怠ってはいなかった。ティファレトの実家の館と、仕えていた使用人達と連絡を取り合い、何時でも対応出来るようにしていたのだ。
 
 必要な物を用意し、普段と同じ生活が送れるように心を砕いたつもりだ。

「貴方の館の護りの徴はどうなっているのです」
 
 黒の長は疑問を口にした。アーネストは黒の長に穏やかに微笑んだ。
 
「ファジュラが成人して直ぐに渡してあります。問題有りません。館の者達にも、当分、私達が戻らないことは知らせました」
 
 黙って聞いていたファジールは眉間に皺を寄せた。《永遠の眠り》を望んだ者は、残された者達に迷惑が掛からないように準備はするが、アーネストのそれは、あまりに周到すぎる。
 
 脳裏に浮かんだのは、結婚当初から決めていたのではないかという疑問だ。

 だが、今、口を挟むわけにはいかない。あくまでファジールは外野なのだ。大人しくしているしかない。
 
「そうですか……」
 
 黒の長も気が付いたのか、複雑な表情を見せた。
 
「私は二人から幸せを貰いました。それは十分すぎるほどに。これ以上を望むつもりはありません」
 
 アーネストはきっぱりと言い切った。
 
「……ですから、徴を彼女に渡したら、姿を消します。私が望んでいたように」
 
 三人の長は同時に表情を歪めた。消えることを望など、普通なら有り得ない。

 だが、薔薇の前の代、薔薇の夫婦の両親達は尤も歪みの中にいるのかもしれない。アーネストとティファレト、ヴェルディラの両親がその中で、更に顕著なのかもしれない。
 
「では行きましょうか。決定事項を宣告するために」
 
 黒の長は溜め息混じりに呟いた。どう考え思おうと、何かが変わるわけではない。ただ、先延ばしにするだけだ。今、先延ばしにしている暇はない。
 
 黒の長の言葉に、二人の長は頷き、アーネストはただ微笑むだけだ。ただ一人、ファジールだけが納得出来ない表情を見せていた。

 
 
      †††
 
 
 レイと別れ、一階に降りたアレンは居間へ向かった。シアンはそのままレイに預けてきた。何故なら、嬉しそうにシアンに触れている姿を見ると、預けた方が良いのではないかと思ったからだ。
 
 居間に行くとそこにゼロス達の姿は既になかった。楽しそうに談笑しているカイファス達の姿が目に入る。
 
「どうかしたのか」
 
 カイファスが入ってきたアレンに首を傾げ問い掛けてきた。アレンは、小さく息を吐き出し、昨日、中断した話しを持ち出した。

 昨日、シオンの話しになり、トゥーイが思った疑問を、アレンにも話して聞かせた。アレンはと言えば、驚いたように目を見開くだけだ。
 
「エンヴィのお母さんの例もあるし、どうなのかなぁ、って僕は思ってるんだけど、もし、そうなら、ファジールさんに当時のシオンの怪我の具合を訊くべきだと思うんだ」
 
 ルビィは人差し指を立て、そう言った。
 
「確かに、吸血族は結婚相手を親が決める場合が多いし、心の問題もあるから、何とも言えないんだけど」
 
 カイファスが膝枕をしているシオンの頭を撫でる。

「今の考えが間違えていないのなら、そのままにしておくのは、後々、シオンの為にはならない。ジュディにも訊く必要があるかもしれないが、当時、尤も深く関わったのはファジールさんとジゼルさんの筈だ」
「見た目に反して、シオンの怪我が軽傷だった場合、トゥーイが言っていたことが肯定されたことになると思うんだよね」
 
 カイファスとルビィはアレンに視線を向ける。
 
「多分、俺も妊娠しなきゃ気が付かなかったと思うんだよな」
 
 トゥーイは首を傾げ、腕を組む。

「どう言うことだ」
 
 アレンは首を傾げた。
 
「子供を宿すとさ、結構、行動を制限されるだろう。でもさ、日に日に育っていくのが感覚で判って、愛おしいって思うようになるんだけど、じゃあさ、シオンさんの母さんって、その感覚がなかったのかって考えると、違うんじゃないかと思うんだ」
 
 トゥーイは思っていることを口にする。稀に嫌悪感を抱く者はいるのかもしれないが、吸血族の特殊性はそれを補うのに十分すぎる理由がある。命を繋ぐのは吸血族の尤も大切な義務だからだ。

「じゃあさ、どうして嫌っていたのかって考えるとさ、最大の理由が父親何じゃないかって思うんだ。吸血族は血に依存してるだろう。シオンさんを愛していたとしても、そうしなきゃいけない理由があったと思うんだ」
 
 血に依存している種族でなければ、離れてしまえばいい。だが、一度、血の味を覚えてしまうと離れられなくなる。しかも、レイの時代ならば、多数の血を口にしても違和感はなかったのだろうが、今は違う。
 
 確かに部族長の許可を得れば、新たな相手が見つかるまで、不特定多数の血を口にしても罪にはならない。

 だが、当時の母親は若かった。若い故に、思い切ったことが出来なかったのではないか。女性は守られ育てられる。相手以外の血を口にするのは罪なのだと、教え込まれている筈だ。
 
 離婚という考えにならないのは、教育の賜物なのだろうが、凝り固まった考えで雁字搦めになってしまっている可能性は否定出来ない。
 
「俺ってさ、こんなことになって、みんなと仲良くなっただろう。シオンさんの情報なんてなかったしさ。でさ、色々話し聞いてて、違和感が強くてさ」
 
 トゥーイはアレンの瞳の中を覗き込んだ。

「シオンさんって両親の話しはしないだろう。まあ、みんなから色々聞いて、納得はしてるんだけど、でもさ、他のみんなに比べて両親の影が異常に薄いんだよな」
 
 シオンの肉親としてはっきり認識されているのは姉のジュディだ。だが、両親の話しになると、ただ、シオンを嫌っている、と言う説明だけだ。
 
 エンヴィの両親の話しも聞いたが、人物像がきちんと把握出来た。確かに母親に拒絶はされたようだが、その後、きちんと関係を修復しようとしている。エンヴィが頑なにならなければ、それなりの関係が築けた筈なのだ。

「それで、さっきの話しに戻るんだけど、今の話しを踏まえて考えると、シオンさんを守るために手を上げていたって結論になる」
 
 父親では手加減なしに体罰を行った筈だ。母親なら女なのだから男よりも力が弱い。それに、判らないように手加減し、痛みはあっても体に害がないように手を上げていたなら、母親は内心、苦悩していた筈だ。
 
「あくまで仮説だし、本人じゃないし、はっきりとは言いきれないけど、シオンさんを見てると、体罰に対しての後遺症は見られないし」
 
 いくら吸血族でも、同族の攻撃には無傷では済まない。

 アレンは右手で口を覆った。
 
 幼いときのシオンはどうだっただろうか。何時からファジールの元に身を寄せたのかは判らない。だが、幼いアレンは普通にシオンと遊んでいたのだ。シオンが怪我の治療のためにファジールの元に来たのを知ったのは、随分後だった。
 
 互いの性別を確認したときに、シオンの肌には痣などの痕はなかった。成人した吸血族とは違い、血を口にしない子供は、やはり、傷や痣の治りが遅い。
 
 黙り込んだアレンに、三人は首を傾げた。

「心当たりがあるのか」
 
 カイファスが探るようにアレンに声を掛けた。アレンはゆっくりと、顔を上げる。
 
「……幼いときの記憶だし、はっきりとは覚えていないが、俺と遊ぶようになったときには、シオンは痛みを感じてはいなかったと思う」
「何時から、此処に居たか記憶していないのか」
「俺がシオンと会ったのは遊んでるときだ。もし、治療していたのなら、親父のことだ。完治してから外に出した筈だ」
 
 ファジールはあの当時、忙しかった筈だ。助手のレイスはいたが、一人で往診に対応していた。

「仕事で忙しかった親父ではシオンを看きれない。おそらく、お袋がシオンの世話をしていたんじゃないかと思う」
 
 アレンは必死で、過去の記憶を引っ張り出す。記憶力に自信はあっても、如何せん、幼いときの記憶だ。
 
 そうだと、アレンは思い出す。ジゼルはある時期、アレンにかまわなくなった時がある。極端ではなく、忙しくなったために、手が回らないと言った感じだった。
 
 だが、元来ジゼルは愛情深い。だから、気にもならなかった。幼いなりに忙しいのだろうと思った。

「ファジールさんとジゼルさんは話したがらないと思うが、シオンにとって、過去の事実は今、必要だ。だから、私達が訊くより、息子であり、夫であり、医者であるアレンが訊く方がいいに決まっている」
 
 カイファスは穏やかに言った。
 
「僕達にとってシオンは大切な家族だよ。仲間なんて軽い存在じゃない」
 
 ルビィはキュッと唇を噛み締める。
 
「俺とフィネイは沢山お世話になったし、ルビィさんが言ったように、大切な存在なんだ」
 
 トゥーイはシオンに視線を向けた。

 アレンは息を吐き出した。レイが言った言葉が木霊する。
 
「……シオンはルーと一緒らしい……」
 
 アレンの呟きに三人は顔を見合わせた。
 
「さっき、レイから聞いた。シアンがそう言っていたと」
「意味が判らないんだが」
 
 カイファスは疑問を口にする。
 
「シアンは俺達の娘であると同時に、過去の俺達の娘でもあったみたいだ」
 
 シアンはシオンの中で全てを見ていた。しかも、ただ見ていただけではない。入り込める場所なら何処にでも移動していたらしかった。

「ルーと一緒って、どう言うこと」
 
 ルビィは困惑を口から吐き出した。アレンは脱力したように長椅子の肘掛けに腰掛けた。
 
「……体の成長を止めてしまったらしい……」
 
 シオンは意識してしたわけではない筈だ。ただ、強く思ったのだろう。しかし、一人孤独を抱え生きていかなくてはいけない現実も理解していたのだ。
 
「ルーの場合と決定的に違うのは、環境だろう。シオンは生きていくために、ある程度、体を成長させた状態で、時を止めたんだ」
 
 アレンは盛大に息を吐き出した。

 考えてみれば判ったのだ。シオンの両親も姉であるジュディも、幼い容姿はしていない。シオンだけ、異質なのだ。
 
「でもさ。そうなると体に負担が掛かってるだろう」
 
 トゥーイは眉間に皺を寄せる。
 
「そうなるな。満月の度に変化し、妊娠、出産に伴う体を酷使する行為は、更に負担を大きくしている。体の成長を止めた事例はおそらく、過去のルー以外ではいない筈だ。一応、調べてはみるが……」
 
 アレンは架空に視線を走らせた。レイはルーチェンの末路を正確には知らない。

 唯一、レイが見送らなかった者。これは、黒の長に記録を調べてもらうしかない。地下廟で眠りに就いた者は記録されている筈だ。レイは黒薔薇で生き、と言っていたから、間違い無く部族長の館の地下に居る筈だ。
 
「……もしかして、シオンが成長を始めたら、ルーの体を成長させる方法が判るの……」
 
 ルビィは両手を組み、祈るようにアレンを見詰めた。アレンは顔を上げると、目を細めて見返す。
 
「理論上はな。ただ、シオンとルーでは状況が違う」
 
 アレンは髪を掻き上げる。

 魔族は元々、体の成長がある外見年齢に達すると止まる。それは、体が最も充実している年齢だ。だから、二十代前半から三十代中盤辺りの外見年齢の者が多い。
 
 だが、シオンの外見年齢は十代中盤辺りだ。思考が大人以上に大人であるため、気にもしていなかった。
 
「……止めた理由は両親か」
 
 カイファスはぽつりと呟く。
 
「疑いようもなくな。だが……」
 
 シアンはレイとゼロスに最後に告げた言葉。みんなが結論付けたことを踏まえると、シオンの母親のことを指していることになる。

 そして、もう一つの事実。アレンは腕を組むと思案する。本当に月読みの能力があるのなら、意識して使うことも可能な筈だ。
 
「どうかしたのか」
 
 トゥーイはいきなり黙り込んだアレンに首を傾げた。
 
「……何でもない……」
 
 そう答えながら、アレンは自身の体内を探る。雲を掴むように頼りないが、シアンが言ったのなら信じたかった。
 
 無意識に結界を張り、無意識に力を引き出し使っていると言っていた。それは、アルビノが無意識に魔力で体を維持しているのと似ている。

 カイファスはいきなり魔力を帯びたアレンに、弾かれたように顔を向けた。二人も気が付いたのか、驚き、目を見開く。
 
「何をしてる」
「判らん」
 
 カイファスの問いに、アレンは簡潔に答えた。判らないのは三人だ。自分で魔力を使っていながら、判らないというのはおかしすぎる。
 
 アレンが強い魔力を放出したせいなのか、シオンがいきなり目を開いた。身を起こすと、驚いたように目を見開き、息をのんだ。
 
「駄目っ」
 
 シオンは鋭い叫び声を上げた。

 アレンは瞬きを繰り返し、シオンを見やる。
 
「それ以上は駄目だよっ」
「どうしてだ」
「判らない。判らないけど、アレンがアレンじゃなくなっちゃう」
 
 シオンは怯えたように訴えた。
 
「俺は俺だ」
「そんなんじゃない。アレンの中には何か得体の知れないものがある。僕は知っていたよ。でも、それを引き出すのは絶対に駄目だよっ」
 
 シオンの姿に、三人は顔を見合わせた。
 
「シオン」
 
 カイファスはシオンの顔を覗き込む。蒼白になった顔色は恐怖のためたのだろう。引きつっていた。

「どう言うことなんだ」
 
 シオンはカイファスを見上げ、小さく頭を振った。
 
「《血の契約》を結んで少したったころに気が付いたんだ」
 
 《血の契約》を結と、感覚のどこかが繋がる感覚を覚える。衝撃的な出来事や、感情の起伏が激しくなるとはっきりと感知出来る。最初、判らなかったのは、その場所に強い結界が張られていたからだ。
 
 では、何故、気が付いたのか。それは、アレンが無意識にその場所を開放するときがあったからだ。その時に感じたのは、はっきりとした悪寒だった。

「吸血族の能力じゃないよ。あんなおぞましい力……」
 
 シオンは唇を噛み締めた。
 
「……確かに、おぞましいかもな……でも、その力を使いたいって、心底思っているところだ」
 
 言われなければ、気が付くことは無かっただろう。だが、レイは認識していることが大切なのだと言った。
 
 他者に知らせる必要はない。自分が保つ能力を認識するのは大切なことだ。
 
「……長は気が付いたかもな」
 
 アレンは黒の長がアリスの力の質を認識していることを知っている。

「お祖父様が、どうして気が付くんだ」
 
 カイファスは困惑した。それは、ルビィとトゥーイも同じだ。
 
「何時も感じてるものだってことだ」
 
 カイファスは眉間に皺を寄せた。黒の長が何時も感じている異質な力。そんなものは一つしか思い当たらない。
 
「……まさか、お祖母様と……」
 
 アレンはカイファスに一瞬、視線を向け嘆息する。
 
「みたいだな。今まで知らなかったが」
 
 ルビィとトゥーイは顔を見合わせる。シオンはカイファスを見上げた。

「……でも、気が付くとは限らないじゃないか」
「今、少しだけ、閉じられている部分に触れた。俺自身も知らなかった場所だ。長は目聡いだろう」
 
 確かに、黒の長は抜け目なく、更に、やたらと勘がいい。しかも、主治医の館に滞在している。今まで黒の長が気が付かなかったのは、近間でアレンが能力を解放していなかったからだ。
 
「そんな力、何故、使いたいんだ」
 
 アレンはカイファスの問いに、シオンに視線を向けた。アレンが力を使いたい最大の理由だ。

 カイファスは大袈裟に息を吐き出す。もし、閉じられている場所を無理矢理開けば、どのような弊害が出るのか判ったものではない。
 
 ある意味、無意識だったから害がなかったのだ。下手をすれば、アリスと同じことになりかねない。カイファスとしては、意味不明な言動をするのは、アリスだけで十分なのだ。
 
「言わせてもらうが、おかしなのはお祖母様だけでいい。今まで、普通の思考回路だったお前が、第二のお祖母様になるなど、願い下げだっ」
 
 カイファスはアレンを睨み付け、きっぱりと言い切った。

「シオンのことを何とかしたいのは判るが、何一つ手がないわけじゃない。少なくとも、ファジールさんとジゼルさん、ジュディに聞けば、当時のシオンの状態は判るんだ」
 
 それに、とカイファスは腕を組み、半眼になる。
 
「レイがわざわざシアンの言葉を教えてくれたのは、力を使えと言う意味じゃないだろう」
「……シアン」
 
 シオンは訝し気にカイファスを見上げ、問いた気な視線を投げかける。
 
「どう言うことなの……シアンがなんなの……」
 
 シオンの声は震えていた。
 カイファスは一度、シオンに微笑みかけたのだが、直ぐにアレンに顔を戻す。
 
「それに、聞くまで気が付かなかったということは、お前の中で、その力は本当に必要ではないということだ」
 
 確かにカイファスの言う通り、必要だと思ったことはない。どちらかと言うと、アリスの訳の判らない恐怖感は今でも持っている。常時、色々な情報を頭に叩き込まれれば、感情が麻痺してしまうのは理解出来る。
 
「シオンを本当に救いたいなら、まず、自分の身の安全を第一に考えろ」
 
 カイファスはアレンを再び睨み付けた。

 
 
      †††
 
 
「本当に一人で大丈夫なのか」
 
 黄の長は心配気に問い掛けた。アーネストはただ、穏やかな微笑みを浮かべている。
 
「いくら長様でも、護りの徴の受け渡しを見せるわけにはいきませんから」
 
 アーネストが言っていることは間違えていない。判っていても、心配であることに変わりはない。ティファレトがどういった状態であるのか、中に入って確認していないのだ。
 
「それに、彼女は長様達が考えているような、愚か者ではなありませんよ」
 
 アーネストは何処までも穏やかだった。

「ただ、周りが見えなくなっているだけです。冷静になれば、今の状態も、現状も理解するでしょう」
「……理解した後、貴方が必要だと、気が付いたらどうするんだ」
 
 ずっと口を噤んでいたファジールがぽつりと呟く。その言葉に、長達は振り返りファジールを見た。
 
「それは有り得ないでしょうね」
「何故そう思う。僕の妻も同じことを言って眠りに就いたが、僕は必要だと目覚めさせた。その僕に言わせてもらえば、僕達同様、二人で話し合っていないんじゃないか」
 
 ファジールの視線は鋭くアーネストを射た。

 アーネストは驚いたように目を見開き、仮面のように貼り付いていた微笑みが消えた。
 
「他人の心など、真に判りはしない。本人ですら判らなかったりする。失って初めて気が付くときだってある。過去がこうだったから、今でも同じだと思っていたら、後悔することになりはしないか」
 
 ファジールの言葉には重みがあった。少なくとも黒の長はその言葉の重みを知っていた。ジゼルが自分勝手な解釈でファジールの元を去ったのは随分昔のことだ。
 
「私は彼女と出会ってから、ずっと見続けてきたのです」
 
 アーネストは表情を無くした。

「それは幼いときから。彼女が誰を見詰め、誰を欲し、そして、今でも誰を求めているのか、ちゃんと判っていますよ」
「それが偽りだったとしたら、どうするつもりだと訊いているんだ」
 
 ファジールは少し苛立ったように、吐き捨てた。
 
「長年感じ見続けていた。間違える筈が無いっ」
 
 アーネストの口調がはっきりと変わった。ファジールは目を細める。
 
「僕の息子は最初、黒薔薇を愛していると思っていた」
 
 ファジールはいきなりそんなことを言い始めた。それには、長達も困惑する。

「そう、思っていたんだ。思い込んでいたために、失う一歩手前まで行った。いいか、自分自身ですら、心は判らないし、自由にもならない。頭と感情は違うんだ」
 
 ファジールの訴えに、アーネストは悲し気な笑みを浮かべた。
 
「……私は疲れたんだ。何もかも……」
 
 自分ではない者に心を預けている妻に、何より、従兄弟の姿を写し取ってしまった息子に。嫌でも毎日目にする姿。日に日に成長していく息子は、確実にティファレトの思い人に姿が似ていく現実。心に蓋をしても、感情を殺しても、溢れてくるのははっきりと認識出来る嫉妬と言う感情。

 それでも、ファジュラに対する感情は、愛情以外にはなかった。ファジュラはティファレトの心の闇を知らない。それ以上にアーネストの心の深淵を知りはしない。微笑みと言う仮面を貼り付け、やり過ごすより無かった。
 
 愛してもらえないのは仕方のないこと。ただ、側にいてくれるだけでいい。
 
 確かにファジールの言う通り、頭では判っていても感情は別だ。しかし、ティファレトの心は、感情は正直だった。見ているだけで手に取るように感情の起伏が理解出来た。《血の契約》を結んでからは顕著に理解出来るようになった。

 《血の契約》で結ばれることは知っていた。実際にその状況になったとき、アーネストは決めたのだ。絶対に心の内を知られてはならない。少しずつ、心に壁を作る術を身に付けた。
 
 なるべく、感情を表さないように必死で制御した。そうなると、表情は乏しくなる。ただ、微笑みを絶やさないように心掛けた。
 
「……もう、解放されても許される筈だ。彼女も、息子も幸せになるのなら、そして、私自身が解放されるなら、眠りに就くのが最善なのだと判ってもらえる筈だ……」
 
 アーネストは両手を握り締め、床に言葉を吐き捨てた。

「それが、本来のお前の言葉遣いか」
 
 黄の長は驚いたように訊いてきた。アーネストは丁寧な言葉遣いをしていた。それは、家族の前でもだ。
 
「そうだ。全てを隠すと決めたとき、本来の自分の全てを塗り替えた。他人を偽るなら、自分自身をも偽る必要があったから……」
 
 アーネストはこのとき気が付いた。確かに幸せを貰ったのかもしれないが、それと同じくらいの苦痛も確かに感じていたのだ。
 
「……息子にも、本来の自分を偽ったのか」
 
 ファジールは痛ましい者を見るように、顔を歪めた。

 ファジールは黒の長に視線を向けた。黒の長は首を横に力無く振った。長い間、心に決め、そうすると頑なに凝り固まってしまった。おそらく、よほどでなければ、その氷は融けないのだろう。
 
「眠ることは認めました。今更、覆すことはしませんよ。ですが、これだけは覚えておきなさい」
 
 黒の長はアーネストに向き直る。
 
「もし、お前の妻がお前を目覚めさせたら、次は二人で眠りに就くまで認めません。勿論、《太陽の審判》もです」
 
 黄の長と蒼の長は驚いたように目を見開いた。
「そして、これが重要なのですが、眠りに就いて、直ぐ目覚めさせられた場合、体にかかる負担はかなりのものです。経験者が居ますから、間違えありませんよ。その覚悟をもって、眠りに就きなさい」
 
 黒の長は釘を差す。アーネストは口を噤んだ。黒の長は脅しで言っているのではない。それは、淡々とした表情で読み取れた。ただ、事実を語っているだけだ。
 
「我が部族には三組の薔薇の夫婦が居ます。そして、どちらかの両親は何らかの理由で、交流がありません」
 
 黒の長は目を細める。

「まあ、ゼロスは銀狼ですから、吸血族と事情が違いますがね。一組の夫婦は眠りに就いていますよ。息子を不幸にしたと思ったまま」
 
 二人の長は眉間に皺を寄せた。ファジールは無表情でアーネストを見詰める。
 
「お前だけが不幸を感じているわけではありませんよ。誰もが少なからず苦痛を感じているんです」
 
 黒の長の口調はあくまでのんびりとしていたが、言っていることは痛烈だった。
 
「お行きなさい。必要な事を終わらせていらっしゃい」
 
 黒の長は淡々とアーネストを促した。

 アーネストは軽く頭を下げると、ティファレトが居る部屋へ消えていった。それを見送った後、ファジールは息を吐き出す。
 
「……どうするつもりだ」
 
 ファジールは唸るように声を吐き出した。
 
「困ったことになりましたね。下手をしたら、ファジュラだけではなく、ヴェルディラもおかしなことになりかねませんね」
 
 黒の長はのんびりと言った。とても困っているようには見えない。
 
「まさか、偽っていたとは。それでは、疲れてしまうでしょうに」
 
 黒の長は軽く目を瞑った。

「どう言うことだ」
 
 黄の長は困惑した。二人の会話が見えないからだ。
 
「はっきりと言えば、家族の繋がりが薄すぎる。シオン程ではないが、父親が偽ったまま、本当の姿を見せていなかった。つまり、無理をしていたってことだ」
 
 ファジールは腕を組み、窓の外に視線を走らせた。
 
「ファジュラは本当の父親を知らないということになる。これで納得出来たよ」
 
 ファジールはファジュラもヴェルディラ同様、吸血族の事情に精通していない理由が理解出来た。

 必要以上に感情を押し殺し、妻に遠慮していたアーネストが、吸血行為を息子に晒す筈がない。吸血行動はある意味、無防備な状態なのだ。
 
「ヴェルディラの両親の事情は判らないが、ファジュラは故意に吸血族の食事事情を知らされていなかったんだ。だから、自分で調べたんだよ」
 
 ヴェルディラは互いが血を摂取した後 、ファジュラがわざわざ調べたのだと言っていた。つまり、その時点では、知識がなかったということになる。
 
「血の摂取に関する知識は、吸血族にとって必須だ。それが、不自然に知らなすぎる。ヴェルディラはただ、興味で血を口にしている」
 
 三人の長は驚愕に目を見開いた。

「エンヴィは両親からではない方法で、吸血族の事情を学習出来た。つまり、荒みながらでも、他人との接触があったんだ。だが……」
 
 ファジールは一旦、言葉を切った。そして、長達に視線を戻す。
 
「二人は異常なほど、他との接触が少なかったのかもしれない。だから、疑問に思うこともなかったんだ」
 
 しかし、ヴェルディラとファジュラの違いは、危機感だったのだろう。互いの血を交換した後、少なくともファジュラはいけないことなのだと漠然と思ったのだ。だから、吸血行動について調べたに違いない。

 調べ、行き着いた事実に驚愕した筈だ。勝手に血を交換するのは罪であり、一度、口にしてしまうと依存してしまう。苦痛を感じることなく生活出来る期間が約一ヶ月であり、三ヶ月を越えると喉の渇きを覚えるようになる。
 
「二人は一ヶ月に一回は会っていたようだ」
「なる程、だから、普通に生活出来たというわけですか」
 
 黒の長はファジールの言葉に納得した。
 
「不思議ですね」
 
 黒の長はある疑問に突き当たる。二人は部族が違う。蒼の長はヴェルディラが行方不明であると言っていた。

「何故、誰もヴェルディラの存在に気が付かなかったのでしょう」
「ベランダから出入りしていたんだろう」
 
 黒の長が口にした疑問に、蒼の長はそう答えた。
 
「そうだとは思いますが、不自然でしょう。一回、二回なら目に付かないかもしれませんが」
 
 確かにそうだ。ファジュラは演奏旅行に出ている場合が多い。そうなると、ヴェルディラも移動していることになる。
 
 四人は顔を見合わせた。
 
「……ヴェルディラは敢えて隠れていなかったのかもしれない」
 
 ファジールはヴェルディラの姿を思い出し、ポツリと呟いた。
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