浅い夜・薔薇編

善奈美

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Ⅹ 双月の奏

09 第八楽章

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 フィネイが血の香りを辿り、行き着いたのは二階に上がって直ぐ近くの客室だった。
 
 開け放たれた扉から、中の声が聞こえてくる。何かがあったのだと、直ぐに気が付いた。
 
 浴室に飛び込むと、アレンは既にヴェルディラを洗い、バスローブを着せていた。首にきつくタオルを巻き付け、その視線の先にいるのはエンヴィだった。
 
「長がか」
「お前に見せたら判ると言われた」
 
 エンヴィの手の中にある透明な薔薇に、フィネイは息をのむ。それは、吸血族が眠りに就くときに現れるものだ。

 アレンは少し顔を上げ、フィネイを見上げた。
 
「移動する。別の部屋で此奴の傷の具合を見るから、薬の調合を頼む」
 
 アレンはそこまで言い、浴槽に視線を向けた。その浴槽に腰掛けているのはゼロスだ。ゼロスは血に濡れたタオルで、ファジュラの顔をしきりに濡らしていた。
 
「処置が終わったら戻ってくる。その間、其奴の様子をよく見ていてくれ」
 
 ゼロスは判ったと、小さく頷いた。
 
「二人はついて来てくれ」
 
 アレンは言うなり、ヴェルディラを横抱きにし、歩き出す。二人は頷き合い、アレンの後に続いた。

 客室を出ると、アレンは三階に足を向けた。そのまま、階段を上がり始める。
 
「《眠りの薔薇》をどうするんだ」
 
 フィネイは疑問を口にした。
 
「使うんだよ。本来の目的に」
「眠りに就かせるわけにはいかねぇだろう」
 
 エンヴィは尤もなことを言った。
 
「仮死状態にするんだよ。このままだと、目覚めと同時に人を襲う。それも、手当たり次第にだ」
 
 《眠りの薔薇》は永遠の眠りに就く時以外に使うものではない。眠りに就き、すぐ目覚めさせると、体にかかる負担が半端ではないのだ。

 だが、今のヴェルディラの状態のまま放置すれば、悲劇しか生まない。本人は咄嗟にとった行動なのだろう。しかし、それはある意味、してはいけない行動だったのだ。
 
「此奴は眠るつもりだったんだろう。だから、無茶なことをしたんだ。確かに、太陽の光で灼けた肌を再生させるのは血液だけだ」
 
 ただ、とアレンは続けた。
 
「あの無知っぷりから考えて、本能のまま動いたんだろうな」
 
 アレンは嘆息した。面倒になるとは思っていたが、面倒の種類が最悪すぎる。

「無知だと判るのか」
 
 あのとき、アレンはその現場に居なかったのだ。
 
「お袋に聞いた。注意するようにってな」
 
 注意しようにも、事が起こった後では全く意味はない。
 
「……やっぱり、何かが起こってしまったのね」
 
 三階の踊場にジゼルの姿があった。穏やかな表情は、どこか憂いを秘めていた。
 
「シオンが飛び出して行ったから、そんなことだろうとは思っていたわ」
 
 アレンはゆっくりと三階に足を踏み入れた。
 
「部屋は」
 
 簡単な問い掛けに、ジゼルは視線をアレン達の部屋の隣に向けた。

 トゥーイ達の部屋の逆側になる。ジゼルは先導するように歩き出した。
 
「服のサイズは判らなかったから、用意のしようが無かったけど、夜着なら問題ないわね」
 
 ジゼルは室内に入るなり寝室に向かい、クローゼットを開け放った。
 
「これからどうするのかは判らないけど、ベッドに寝かせるのでしょう。そのままでは問題があるわよ」
 
 それはヴェルディラの格好を言っているようだ。
 
「後でシアンをゼロスの元に行かせるわ。何が起こったのかは判らないけど、凄い血臭ね」
 
 ジゼルは少し眉を顰めた。

 その臭いだけで、血が流れたのだと判る。
 
「私は行くわ。邪魔になるだろうし」
 
 ジゼルは必要なことをやり終えると、部屋を出て行った。三人は手早くヴェルディラを着替えさせ、掛布を捲るとベッドの上に横たえた。
 
 エンヴィがアレンに《眠りの薔薇》を手渡す。アレンは受け取るとヴェルディラの心臓の上に薔薇を置き、両手を薔薇の上で交差するように乗せた。
 
 すると、透明だった薔薇が色付き始める。最初、青だと思っていた。だが、その薔薇が宿したのは綺麗な緑の色だった。

 エンヴィとフィネイは首を傾げた。何故、《眠りの薔薇》が青ではないのか。
 
 二人の様子に気が付いたアレンは、小さく笑った。
 
「初めて見るのか」
 
 その問いに二人は頷いた。
 
「此奴の相手がファジュラだからだ。青と黄を混ぜると緑になるだろう」
 
 他部族間の婚姻は実質、認められてはいない。だから、二つの色を合わせた《眠りの薔薇》を目にすることは滅多にない。
 
「見たことがあるのは、親父と長くらいだ」
 
 アレンはぽつりと呟いた。

「どう言うことだ」
 
 エンヴィは首を傾げた。何故、ファジールと黒の長が見ているのだろうか。
 
「その前に、調合してくれないか」
「生命活動を停止させたのなら、必要ないんじゃないか」
 
 フィネイは尤もなことを言った。
 
「吸血族の凄いところは、例え、体の機能が停止していても、体に必要だと思えば吸収するんだよ」
 
 アレンは言いながら、首にきつく巻き付けていたタオルを慎重に外した。血が止まって初めて判る傷口の深さ。かなり、爪で抉ったことが判る。

「どうして、躊躇わずに体の機能を停止させたと思ってるんだ」
 
 大量の血液を失ったヴェルディラを《血の狂気》から守るためなのは理解出来る。だが、考え方を変えれば、一時的でしかない。永遠に眠らせておくなら問題ないが、ヴェルディラの場合は違うのだ。
 
「つまり……」
「ファジュラの回復を待って、口移しで血を飲ませるんだ。吸血族は血を与えれば、勝手に吸収する」
 
 フィネイは納得したように、調合の準備を始めた。
 
「よく、躊躇わずにここまで抉ったもんだ」
 
 アレンは眉を顰める。

「どうして、薬が必要なんだ」
 
 エンヴィはまだ、納得いかないようだ。
 
「傷自体は塞がりも、ましてや、血が止まったわけでもない。今は体の機能が停止しているから、出血が止まってるんだ」
 
 アレンは顔を上げ、エンヴィを見詰めた。
 
「必要な量の血を摂取した後、目覚めと同時に出血が始まる。直ぐにファジュラが中和したとしても、その間、少しでも抑えておいた方が利口だろう」
 
 エンヴィは軽く目を見開いた。
 
「ったく、無知って言うのは、時には凶器だな」
 
 アレンの吐き出した言葉に、二人の動きが止まった。

 二人の動きが止まったことに気が付いたアレンが、不思議そうに交互に視線を向けた。
 
「どうかしたのか」
 
 何でもないと、二人は首を振る。そこに、小さな影が視界に入る。
 
「兄さん。鞄を持ってきたよ」
 
 ベンジャミンが体に合わない大きな鞄を抱えて現れた。
 
「必要だよね」
 
 ベンジャミンは鞄をアレンの足元に下ろした。小さく息を吐き出し、アレンを見上げる。アレンは目を細めると、ベンジャミンに鞄の中から処置に必要な物を出すように言った。

「酷い傷だね」
「手加減なく爪を立てたみたいだからな」
 
 傷口を精製水で綺麗に拭う。血を洗い流したときに、傷口自体は清めていた。治癒力の強い吸血族は消毒液をあまり使わない。
 
「一応、普通の止血薬だが、問題ないか」
 
 フィネイは調合したばかりの薬を差し出す。
 
「構わない」
 
 アレンは一言言うと、傷口を埋めるように薬を塗り、ガーゼを当てると包帯で首を巻いた。
 
「一応、解毒薬を調べてはみるが、吸血族に伝わっているかは判らない」
 
 フィネイは目を細める。

「カイファスは何か言っていたか」
 
 カイファスは薬師だ。
 
「多分、伝わっていないんじゃないかと言っていた」
 
 薔薇が特殊な存在なのは判る。だが、此処まで血の主に依存しているとなれば、下手なことは出来ない。しかも、血の主以外の血は毒で、薔薇の血そのものも、血の主以外は口に出来ない。
 
 おそらく、体内で育まれている命のみが、正常に育つのだろう。その命も、誕生と同時に母親の血は毒に変化する可能性がある。
 
「きちんと調べる必要がありそうだ」
 
 アレンは髪を掻き上げ、難しい表情を見せた。

「ベンジャミン」
 
 アレンは弟の頭に右手を乗せ、優しい視線を投げかける。
 
「お前は部屋に戻れ」
「でもっ」
「血の匂いが充満している。お前はまだ、血は口に出来ない。この中に居続ければ確実に酔う」
 
 アレンにしても、エンヴィとフィネイにしても、この中に居続けるのは結構、きついのだ。
 
 だから、ゼロスにファジュラを託した。血臭の中に居て、平気でいられるのは吸血族以外の種族だ。

「必要なら呼ぶ。いくら、気が利くとは言っても、子供なんだ。親父とお袋のことを思うなら、言うことを聞くんだ」
 
 アレンは目を合わせ、きっぱり言い切った。

 ベンジャミンも両親のことを持ち出されたら、我が儘は言えなかった。アレンは意地悪をしているわけではない。ベンジャミンを思って言っているのだ。
 
 一度、唇を噛み締め、だが、小さく頷いた。
 
「下には降りるなよ。真っ直ぐ自室に戻れ」
 
 ベンジャミンは素直に頷き、エンヴィとフィネイに挨拶をし、部屋を出て行った。
 
「特殊な環境で育ったからだな」
 
 身を起こし、髪を掻き上げると、アレンは嘆息した。普通なら、あそこまで気が付かないだろう。

「本当にお前の弟か」
 
 エンヴィはじっ、とアレンを見詰め、思ったことを口にした。
 
「息子よりマシだろうが。子供らしく育ってもらいたかったんだけどな」
 
 アレンにしてみれば、複雑な思いだ。こればかりは、いくら思い、嘆いたところで、何かが変わるわけではない。
 
 ヴェルディラにきちんと掛布を掛け、アレンは二人を見詰めた。
 
「ゼロスの所に行ってくる。お前等は部屋に戻ってもいいぞ」
 
 だが、エンヴィは首を振った。
 
「俺は役にたたないからな。此奴を見ている」
 
 エンヴィは静かに言ってのけた。

 アレンは目を見開く。
 
「そんなことはないだろう」
「俺は医者じゃねぇし、薬師でもない。付き添うくらいしか、できねぇからな」
 
 アレンとフィネイは顔を見合わせる。
 
「無茶はするなよ」
 
 アレンは一言言いおき、出て行こうとしたのだが、何故か、エンヴィが引き止めた。不思議そうに首を傾げたアレンにエンヴィは気になることを口にする。
 
「どうして、ファジールさんと長様が二色の《眠りの薔薇》を見ているんだ」
 
 エンヴィの問いに、アレンは驚いたように目を見張ったが、直ぐに先の話しを思い出した。

 アレンは小さく息を吐き出す。この話しを聞いたのは、シオンと結婚してからだった。ファジールにしてみれば、両親が結婚当初、ごたごたしていたことは話したくなかったに違いない。
 
 だが、《眠りの薔薇》の話をするためには、避けられないことだったのだ。他部族婚は今の吸血族では非常に珍しい。一度見ているから確信が持てるし、伝えることが出来る。
 
「お袋が黒薔薇出身じゃないことは知っているだろう」
 
 アレンの問いに、二人は素直に頷き、そして疑問が頭を擡げた。

 何故、ここでジゼルが出てくるのだろうか。
 
「お袋は一度《永遠の眠り》を体験しているんだ」
 
 二人は目を見開いた。今のジゼルとファジールは誰が見ても判るほど愛し合っている。その二人に、何があったと言うのだろうか。
 
「俺は当然、当時のことは知らないし、どう言った状況だったか想像出来たとしても、心情までが判る訳じゃない」
 
 ただ、とアレンは言葉を切った。
 
「事実は事実だって事だ」
 
 アレンはヴェルディラの首に巻かれていたタオルと、ベンジャミンが持ってきた鞄を手に部屋を出て行った。

 
 
      †††
 
 
 ヴェルディラの血臭に満ちた部屋を後にし、二人の長とファジール、そして、ティファレトが向かったのは意外な場所だった。
 
 扉を開き視界に入るのはベッドと、一脚の椅子。
 
 そこは、フィネイがもう一人と一つであるときに、閉じ込められた場所だった。
 
「此処は」
 
 蒼の長は首を捻る。室内に入るとき、一瞬肌を掠めた違和感が気になった。
 
「フィネイを監禁するのに使った部屋ですよ」
 
 黒の長は感情の籠もらない、堅い声音で簡潔に答えた。

「ファジール。あれを」
 
 ファジールは目を細めると、椅子の上に置いてあった物を手に取る。それは、純銀製の透明な石を宿した足枷。
 
 蒼の長は目を見開いた。同じ物が蒼の部族長一族に伝わっていたからだ。
 
「そう言えば、これについては話していませんでしたね」
 
 黒の長はしれっと言った。ファジールから足枷を受け取ると、ティファレトに歩み寄る。
 
「右足を出しなさい」
 
 有無を言わせない声が、ティファレトを従わせる。緩慢な動きでスカートの裾を上げ、右足を差し出した。

 黒の長は跪くと、ティファレトの右足首に足枷を嵌めた。すると、透明だった石が淡い黄色に変化する。
 
 黒の長は立ち上がり、ティファレトを凝視した。
 
「ふらふら出歩かれては迷惑です。今は二人のことで皆は手一杯ですから」
 
 ティファレトは唇を噛み締めた。
 
「今からその足枷について説明します。よくお聞きなさい」
 
 黒の長から紡がれた真実に、ティファレトは顔から色が無くなっていった。此処から出るためには、足枷を外してもらうしかない。自力で出ることが出来ない事実に、自然と体が震えた。

「恐ろしいですか。ですが、その足枷は過去、銀狼の始祖殿に使用されたものですよ」
 
 黒の長は淡々としている。すっ、と細められた目に優しさは微塵もない。
 
「罪人ですらなかった彼等に、吸血族の都合を押し付けるために、無慈悲に使われたのですよ」
 
 ティファレトの行動の意味を判っていたとしても、黒の長にしてみれば許されることではない。苦痛を味わった前世を、彼等は無意識に感じ取っている。
 
 だから、今、新たな生を生きていても、翳りがあるのだ。

「ヴェルディラの存在はお前など足元にも及ばない。もし、このまま、眠り続けることになったとしたら、お前はどう責任を取りますか。ヴェルディラが眠り続けることは、吸血族に掛けられている呪を解除出来ないと言うことです」
 
 ティファレトは更に目を見開いた。黒の長は今、とんでもないことを言ったのではないか。吸血族は呪われているのだと、言っているのではないか。
 
「ファジュラの相手はヴェルディラですよ。蒼薔薇であるヴェルディラは、ファジュラの血しか受け付けません」
 
 ティファレトは喉の奥に苦い味が広がった。

「お前がどんなに想おうと、それは許しません。減り続けている吸血族にとって、血が濃くなることは、避けねばなりません」
「リムリス」
 
 黒の長は名を呼ばれ、訝し気に振り返る。
 
「何です」
「本当にヴェルディラは助かるのか」
 
 蒼の長は眉間に皺を寄せていた。確かに、壮絶な光景を目の当たりにしたのだ。助かると思う方がおかしい。
 
 相手であるファジュラの意識もなく、しかも、ファジュラはヴェルディラの血を浴びたのだ。つまり、ファジュラ自身も、ヴェルディラの血液が必要な立場になった。

「助かると思いますよ」
 
 そう言いながら、ファジールに視線を向けた。ファジールは小さく息を吐き出し、その視線が問うていることを理解した。
 
「……吸血族は体の機能が停止していても、与えられれば体は無条件に血を吸収する。ファジュラの回復をまって、彼の血をヴェルディラに与えればいい。ただ……」
「ファジュラですか」
 
 ファジールは頷いた。
 
「特例が必要ですね。一度、ジゼルに許したように」
 
 黒の長は次々と襲い来る面倒に辟易していた。

「あれだけの血を浴びたのなら、血の味を覚えたのと同じですからね」
「ファジュラはヴェルディラの血を既に口にしている」
 
 黒の長の言葉を遮るように、ファジールは事実を口にした。二人の長と、ティファレトは固まった。
 
「どう言うことです」
「はっきり言おう。これは、二人の周りにいた大人達の責任だ」
 
 ファジールはティファレトを睨み付けた。
 
「二人は悪くない。血に対する知識を一切与えずに育てた結果だ」
 
 ファジールの声は憤り、無責任な大人達に怒りを露わにしていた。

 ティファレトが現れるまで、ヴェルディラに説明していた旨を、ファジールは二人の長に告げた。
 
 ファジュラがどの程度の知識を持っているのかは判らないが、ヴェルディラの知識はジゼルがファジールに出会った頃と匹敵するか、それ以下である事実を突き付けた。
 
「今は生気が主食になっているが、基本的に血液依存が強いんだ。家族以外の他人と、しかも、知識を持たない子供同士の接触は危険なんだ。怪我をしたなら、血に触れず、大人に知らせるくらい、言い含められた筈だ」
 
 ファジールは腕を組み、半眼になる。

「言わせてもらえば、家業なんて言うのは、親を見て自然に身につけようって気になる。子供は好奇心の塊だからな。それよりも、存在そのものに関わる血の知識の方が重要なんだ」
 
 ファジールはきっぱりと言い切った。
 
「それとも、芸術家って言うのは、血で破滅するより、家業優先なのか」
 
 呆れたような声音に、黒の長は嘆息した。そんな筈はないのだ。血で破滅に導かれた者を、長い時を生きている黒の長は知っている。
 
 だから、シオンが《血の狂気》に苛まれている状態で、限界を測ることが出来たのだ。

「血の知識を伝えるのは当然の義務だ。一族の存亡に関わるからな。それを実質放棄し、自分達に都合がよいように育てる。それは、親であることを利用し、意のままに操ろうとしているように感じる」
 
 ファジールは昨日帰宅したレイに、ヴェルディラが両親から逃げ、その理由を聞いたとき、正直に吐き気がした。
 
 ヴェルディラは自身としての評価になっていないが、父親の作品として評価が高い。絵画に疎いファジールだが、蒼薔薇の絵師の評判は知っている。必ずしもヴェルディラの作品とは言えないが、今までの流れで間違えないだろう。

「親が子の才能を食い潰すのは間違っている。普通なら、子の才能を伸ばし、評価されるようにするだろう。どんなに頑張っても、子より先に《永遠の眠り》に就くんだ。将来を考えるなら、親は身を引き、子供を盛り立てる筈なんだ」
 
 ファジールが言っていることは尤もだった。
 
「確かに僕達の世代が一番歪んでいることは否定しない。だからと言って、やっていいことと悪いことがある」
 
 ファジールは盛大な溜め息を吐いた。小さく頭を振り、入口に向かって歩き出す。

 ノブに手を伸ばし、ファジールは振り返った。
 
「こんなことは言いたくなかったが、二人のそれぞれの両親が改心なり反省なりするまで帰すつもりはない。何を言われようが構わないからな。部族長だろう。何とかしてくれっ」
 
 ファジールは言いたいことを言いおき、ぞんざいに扉を開き、乱暴に閉めた。その盛大な音に、二人の長は眉を顰める。
 
「怒らせてしまいましたね」
 
 黒の長はファジールの怒りは尤もだと思った。薔薇の親として、また、関係者として関わり、吸血族の未来をずっと憂いていたのだ。

 ティファレトはただ、茫然としていた。自分では母親をしているつもりだった。義父母にたしなめられ、アーネストに忠告されても、間違ったことはしていないのだと、自負にも似た思いがあったのだ。
 
 少しずつ冷静になっていく頭。拘束され、動きを封じられ、漸くティファレトは己を振り返る。
 
 そして、思い浮かぶのは穏やかな表情を浮かべる者。
 
「夜の始まりと共に黄の長はお前の夫と共に此方に来ます。覚悟をしておきなさい」
 
 いきなり耳に入ってきた声に顔を上げるも、扉の閉まる小さな音と共に部屋にはティファレト独りが取り残されていた。

 部屋を見渡すと、本当に何もない部屋だった。
 
 部屋の中央に天蓋付きのベットがあり、その隣に鎮座する一脚の椅子が不自然に感じた。
 
 明かり取りの窓は一つだけだが、それで十分な大きさがあり、寂しげに感じる筈の室内が温かく感じるのは窓とベットに使われているカーテンの色だった。
 
 決して華美ではない。明るめの黄緑色の天鵞絨のカーテンに、深い色合いの緑の刺繍が施されている。そのおかげで、浮いて見えがちな黄緑色が落ち着いた色合いに変わる。
 
 ベットの下に敷かれた絨毯も落ち着いた物だった。壁も、全てにおいて趣味の良い者が選んでいることが窺える。

 先、目の前で起こった惨劇。ヴェルディラがとった行動が、その後の一連の出来事が信じられなかった。
 
 室内に広がった甘い血の香り。ファジュラを彩った深紅の色。全てが現実だとは思えなかった。
 
 切欠を、引き金を引いたのは間違いなくティファレトだ。あのときは何も考えられなかった。ファジュラ恋しさの行動だった。
 
 ただ、息子に会いたかった。それなのに、裏切ったかのような行動をしていた。ヴェルディラを睨み付け、何もかも読み取ったかのような表情をティファレトに見せた。

 悲し気に見返してきた表情。男性の筈なのに、その姿は儚げで、瞳に写り込んだ感情がティファレトを強ばらせた。
 
 無垢な白い光が降り注ぎ、それを浴びる筈だったヴェルディラが居た場所に、ファジュラの体があった。
 
 悲鳴すら上げられなかった。口から吐き出されたのは声にすらならなかった。
 
 折り重なるように倒れ込んだ姿を、一気に沢山の出来事が起こり、心が頭が考えることを放棄した。
 
 そして、残ったのは何故と言う感情。何を勘違いしていたのだろうか。

 判っていた。
 
 頭の片隅で、間違っているのだと、もう一人の自分が止めようとしていた。それを無視していたのは確かに彼女だ。
 
 この出来事を引き寄せたのは間違いなく。
 
 ファジールが鋭く投げつけた言葉に、反論など出来る筈はなかった。一番狂っていると言っていた。だからと言って許せることではないと、鋭く抉るように憤った声が責めていた。
 
 ティファレトは足から力が抜けていく。へたり込み、床に座り込んだ。目に飛び込んできた右足首に在る存在。それが、ティファレトを責めているようだった。

 
 
      †††
 
 
「待ってくれっ」
 
 鞄を手に、フィネイはアレンを呼び止めた。アレンは二階に戻るために、階段を降りようとしているところだった。驚き振り返ったアレンの側まで駆け寄り、フィネイは息を吐く。
 
「どうした」
 
 アレンは首を傾げた。
 
「太陽が眠りに就いたら、俺は一旦、自宅に戻る」
 
 アレンは軽く目を見開き、あることを思い出す。
 
「調べるつもりか」
 
 フィネイは頷いた。
 
「出来ることはしておきたいし、何かあったときにも必要な知識だろう」
 
 フィネイの言っていることに、間違えはなかった。

「迷惑かもしれないが、トゥーイは置いていくから。本人は帰りたがらないだろうし」
 
 確かに、今回の件が終わるまで、梃子でも動かなそうだ。
 
「今更だろう。お袋は嬉々として世話したがるだろうし。まあ、人口密度が更に上がりそうだが」
 
 アレンは言いながら、フィネイを促し階段を降り始める。フィネイも後に続いた。
 
「増えるって」
「レイチェルさんが来るだろうな。下手したら、ルビィのお袋さんも来るだろうし」
 
 何だったら、お前の母親も連れて来るか、と聞かれフィネイは正直に驚いた。

「そこまで迷惑はかけられない」
 
 フィネイは神妙な面もちで唸るように言葉を吐き出した。
 
「迷惑じゃないさ。お袋はあんな感じだし、俺達絡みで両親達は仲良くなったみたいだし。時々、集まってはお茶を飲んでるしな」
 
 フィネイは目を瞬かせた。
 
「そうなのか」
「シオンも一緒になってお喋りしたりしてるぞ。俺は流石にあの中に入る気にはなれないけどな」
 
 アレンは二階に着くと、さっきまで居た部屋に足を向けた。客室に入るとむせかえるような血の香りが纏わり付く。

「此処は凄いな」
「仕方ないさ。洗った場所だからな。一階の診察室の方がもっとだろう」
 
 アレンは鞄を部屋の中央の長椅子の上に置くと浴室へ向かった。
 
「お父さん」
 
 アレンの姿を見つけたシアンが駆け寄ってくる。
 
「お婆ちゃまに言われて来たの」

 アレンは頷くと、其処に居る存在に目を見開いた。
 
「命を凍結させたのか」
 
 レイの問い掛けに頷いた。
 
「これを渡そうと思ってな」
 
 レイが差し出したのは一冊の本だった。

「これは」
 
 アレンは本を受け取ると首を傾げ、レイを凝視した。
 
「お前達が知りたいことが書いてある。ただ、完全に解決に至るものではない」
「どう言うことだ」
「吸血族の毒は、どんな毒草だろうと、薬草だろうと真似出来ない複雑なものだそうだ」
 
 レイは月読みに調べる必要があると言われたのだそうだ。ならば、月読み自身に教えて貰えば良かったのではないかという疑問が生まれる。
 
「彼等に毒に関する知識はない。同様に、薬に対する知識もないのだ」
 
 レイはそう告げた。

「他種族に聞いたのか」
「そうだ。なかなか教えては貰えなかったが、彼等も完全に解毒出来なかったようだ。せいぜい、出血を抑えるので精一杯であったと言っていた」
 
 つまり、完璧な解毒は吸血族の唾液以外にないと言っているようなものだった。
 
「最終的に解毒するのはファジュラだ。出血を抑えるだけでもないよりマシだ」
 
 アレンは微笑むとフィネイにその本を手渡した。フィネイは大事な物を扱うように本を受け取った。
 
「五月蠅いから、カイファスとトゥーイの三人で読んだ方がいいぞ」
 
 アレンはからかうように軽口をたたいた。

「そうするよ」
 
 フィネイは笑みを見せた。
 
「お父さん」
 
 シアンはアレンを見上げていた。アレンはシアンの頭に右手を乗せ、目線を合わせた。
 
「服を用意してくれないか。ゼロスおじさんとフィネイおじさん、後は俺の分だ。それと、夜着を一着」
 
 シアンは頷くと、部屋を出て行った。流石に、今の異常さを察知しているようだ。普段なら、こんなに素直に動いてはくれない。
 
 アレンは浴室に顔を出す。血に濡れた服を浴槽の中に放り込み、ゼロスはバスローブ姿だった。

「どんな感じだ」
 
 ゼロスはその問い掛けに顔を上げた。
 
「焼け爛れた肌は薄い皮に被われた感じだな。後は医者じゃないから判るわけがない」
 
 アレンは苦笑を漏らしながら、浴槽に近付きファジュラを見下ろした。浴槽の中は血に染まっていた筈だが、殆ど赤い色は消えていた。
 
「どう言うことなんだ。見る見るうちに血の色が消えていったんだが」
「血を吸収したんだよ」
 
 アレンは顔を上げるとゼロスに視線を向けた。
 
「シオンが《血の狂気》一歩前まで行ったとき、生気を吸収しようとしなかったか」
 
 ゼロスは目を瞬かせた。

「原理はあれと一緒だ。ファジュラは太陽の光で肌だけではなく、体の機能そのものを損傷したんだ。俺達の治癒能力はかなりのものだが、太陽となれば話しは別だ。それを補うには血液に頼るしかない」
 
 少しでも手遅れになれば、血を吸収しない。つまり、ファジュラは間に合ったのだ。ヴェルディラの無茶は無駄にならなかったことになる。
 
「これでも足りないんじゃないか」
 
 上から覗き込んできたレイがぽつりと言葉を零す。アレンは眉間に皺を寄せた。確かに足りない。

 そこに慌ただしい足音が近付いてきた。客室に入ってきたのは手に血塗れた布を持った一団だった。
 
「アレン様、床に広がっていた血液を持ってきました」
 
 レイスが言うなり、浴槽に血を吸収した布を入れるように指示した。手に付着した血も浴槽の水で洗い流す。
 
「これで全部か」
「はい」
「後はファジュラ次第だ。回復力に賭けるしかない」
 
 アレンは顔を上げ、其処に居る者達に視線を向けた。入ってきた者達が退出する足音を聞きながら、改めてファジュラに視線を戻す。

「これで何事も起こらなければいいんだが」
 
 アレンは嘆息する。そして、脳裏を掠めたのはこれだけでは済まないだろうと言う考えだった。
 
 二人が回復したとしても、以前と同じ状態では意味がない。変化がなければ同じ事を繰り返す結果になる。
 
「黒の長は黄の長と父親を呼び出したぞ」
 
 レイはそう言葉を発した。アレンとゼロスは弾かれたようにレイに視線を向けた。
 
「先延ばしにしていたことを、先延ばし出来なくなったと言ってな」
 
 二人は眉間に皺を寄せた。
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