浅い夜・薔薇編

善奈美

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Ⅹ 双月の奏

08 第七楽章

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 アレンは肌が泡立つ感じに眉を顰めた。その様子に最初に気が付いたのはゼロスだ。
 
「どうかしたのか」
「……何かが入り込んだ」
 
 館の人口密度が増えるにつれて鈍感になっていたのだが、知らない気配に久し振りの感覚が体を満たす。
 
「館の護りの徴を継いだのはベンジャミンじゃなかったのか」
「継いだのは確かにベンジャミンだが、俺と親父にも多少、感覚が残ってるんだよ」
 
 今は夜明け前だ。この時間帯に訪れる者は余程込み入った用事があるか、招かれざる客ぐらいだろう。

 考えられるのはファジュラの関係者だ。稀にルビィとフィネイの両親が訪問するが、そのときには無断で入り込んだりはしない。何より、こんな時間帯に来る筈がない。
 
「……この感覚は女だな……」
 
 アレンはぽつりと呟く。レイはすっと、表情がなくなった。レイにも多少、感覚があった。古いものだが、一時期、徴を持っていた時期があったからだ。
 
「これは、昨日、感じたことのある気配だな」
「ああ、来て貰っては困る存在だ。ったく、次から次へと」
 
 アレンは面倒だと、髪を掻き上げた。

 そして、アレンとレイは顔を見合わせた。
 
「……どうして、こっちに来ないんだ」
「不味いな。寄りによって、あっちに向かったな」
 
 アレンはレイの言葉に眉間に皺が寄った。軽く舌打ちすると、慌てて部屋を出て行く。
 
「私達も行こう。嫌な予感がする」
 
 レイは皆を促し、アレンの後を追った。
 
「どう言うことだ」
「私とアレンはこっちに来ると思っていたんだが、何を考えているのか、向こう、つまり、お前達の妻が居る場所に足を向けたんだ」
 
 走りながら、息を切らせることなく、ゼロスとレイは話していた。

 その会話を聞いていたファジュラは、急に知った気配を察した。生まれてから、ずっと近くにあった者だ。
 
「息子に会いに来たんじゃないのかよ」
「最初はそうだったんだろう。だが、無断で入り込んだ館に、憎んでいた者の気配を感じたんだろうな」
 
 レイは低く唸るように言った。
 
「彼等が言っていたことが事実なら、完全に我を忘れていたら、とんでもない事態になる」
 
 彼等とは薔薇のことだ。ファジュラは昨日の話しを思い出していた。アーネストが全てを知っていて、全てを捨てる覚悟をしていた事実と、ティファレトの中の深い闇。

 気が付いていなかったわけではない。無意識に、気が付かない振りをしていたのだ。
 
 前方を走っていたアレンが部屋の入り口に手を掛けた。扉は開け放たれていた。全員が部屋に飛び込むのと、ヴェルディラがカーテンを開け放ったのは、ほぼ同時だった。
 
 目の前が窓の外に現れ始めた存在で白く霞む。山間から現れたのは無垢な存在。強烈でありながら、暖かく降り注ぐ光は、吸血族にとっては息の根だけてはなく、存在そのものを消し去る力を持っている。
 
 その前でヴェルディラは悲しげな微笑みを浮かべていた。

 時間が停止したように、皆が息をのんだ。足が竦み、たたらを踏むように踏み止まる。
 
 そこに一陣の風が走り抜けたのは、直ぐに気が付いた。
 
 ヴェルディラの腕を取り、強引に光の届かない場所に、乱暴に放り投げたのはファジュラ。そんなことをすれば、太陽にまともに身を晒すのは彼本人だ。
 
 ヴェルディラが床に叩きつけられ、ほぼ同時にファジュラが崩れ落ちた。慌てたように動き出したのはゼロスだ。走り出し、カーテンを元のように閉めたのだが、時既に遅すぎた。

 ゼロスは跪くと、ファジュラを仰向けに起こした。 肌が露出している部分が赤く焼け爛れている。しかも、徐々に範囲を広げていた。
 
 ゼロスは舌打ちすると、視線をアレンとフィネイに向けた。二人は頷くと、近付くために移動を始めようとしたのだが……。
 
「……止めろっ」
 
 ヴェルディラが這い蹲るようにファジュラに近付いて来たのに、ゼロスは気が付いていなかった。その行動に、気が付くのが遅過ぎた。
 
 震える手でファジュラの両頬を包み込んでいたヴェルディラが、次にとった行動が、その場を凍り付かせた。

 長く伸びた爪が、ヴェルディラの首を抉った。首筋から溢れ出す鮮血が、ファジュラを赤く染める。
 
 ファジールは目を見開き、ベンジャミンに妊婦三人を部屋から出すように指示した。このまま血臭に満ちた室内に居させるわけにはいかない。
 
 アレンとフィネイは慌てて駆け寄る。ヴェルディラは小さくファジュラに何かを囁き、崩れ落ちた。
 
 フィネイがファジュラの上に覆い被さるように倒れたヴェルディラを抱き起こす。アレンはヴェルディラの首筋の血を自身のシャツの袖で拭うと、傷口を確認した。

「莫迦なことをっ」
 
 アレンは眉間に皺を寄せる。
 
「毒を中和しないとやばいだろう」
 
 フィネイがアレンに視線を向け、早口で言った。
 
「毒、中和」
 
 ゼロスは首を傾げた。
 
「俺達の爪には毒がある。今じゃあ、使われることは皆無だが、昔は他種族とのいざこざの時に、武器として使用していたんだっ」
 
 アレンはゼロスを睨み付け叫んだ。
 
「どうすれば中和されるんだ」
「俺達の唾液だ」
 
 フィネイはゼロスの問いに答えた。ならば、誰かが傷口を舐めれば良いのではないか。

「此奴は薔薇なんだ。仮説だが、ヴェルディラの毒を中和出来るのはファジュラだけの筈だ」
 
 アレンは拭っても溢れ出てくる血に、一か八か唇を寄せ舐めてみた。瞬間、アレンは眉間に皺を寄せ、むせかえる。激しくせき込み、血を吐き出した。
 
「大丈夫かっ」
「にがっ」
 
 ゼロスの叫び声にアレンは手を上げて大丈夫だと態度で示した。
 
「血が止まらないな」
 
 フィネイはヴェルディラの傷口に視線を向け、事実を口にした。ファジールはベンジャミンが三人を連れ出したのを確認し、近付いてくる。

 レイとエンヴィも近付いて来た。
 
「ファジュラは」
 
 レイはファジールに問い掛ける。
 
「ファジュラに関しては問題ない。皮膚の再生が始まってる筈だ」
 
 ヴェルディラが首を抉ったのは、ファジュラを助けるために無意識にとった行動だろう。
 
「これだけ大量の血を浴びたんだ。意識が戻るのに時間は掛かるだろうが、大丈夫だ」
 
 問題はヴェルディラだ。これだけ大量の血液が失われたら、待っているのは《血の狂気》だ。しかし、回避する手だてがない。

「毒を中和出来ないのなら、止血だけでも何とかしないと」
 
 アレンはフィネイに視線を向けた。
 
「調合出来るか」
「仕事道具は持ってきたから、直ぐに」
「その前に、洗い清めるのが先だろう」
 
 ファジールの言葉に二人は頷いた。いくら、血を口にすることを許されているとはいえ、長い時間、血臭のする場所にいるのは良いことではない。
 
「二階の客間を使うんだ。ジゼルは確か、二人の部屋を用意してある筈だが、三階だからな」
 
 アレンは頷くと、ヴェルディラを横抱きに立ち上がろうとしたのだが……。

 室内に乾いた音が響き渡った。血に濡れた二人に注目していた一同は、その音に驚き、音の出所に顔を向けた。
 
 頬を押さえているのは忘れ去っていた存在だ。そして、その存在の前に居たのは、独特の金の巻き髪をもつ者。
 
「自分が何をしたのか判ってるの」
 
 低い唸り声のように、シオンは言葉を吐き出した。
 
「何をしに来たの。誰かに来るように指示されたわけ。それとも、母親は何をしても許されるとでも言いたいわけ」
 
 無表情に紡がれる言葉が、ティファレトの心臓に突き刺さる。

「ヴェルディラを追い詰めたのは貴女でしょ。どう責任をとるつもり。ヴェルディラは薔薇なんだよっ」
 
 シオンが悲鳴のように叫んだ一言に、ティファレトは色を無くした。
 
「シオン、それくらいにしておきなさい。いくら言ったところで、無意味ですから」
 
 穏やかに紡がれた声が、その場を満たした。現れたのは、長い栗色の髪の黒の長。
 
「やはり、そう言うことだったんですね」
 
 黒の長は振り返ると、蒼の長を見上げた。蒼の長は驚愕に目を見開き、壮絶な現実に息をのむ。

「早く処置をなさい」
 
 黒の長に促され、アレンはヴェルディラを抱え立ち上がり、走り出した。フィネイも後に続く。
 
「此奴はどうするんだ」
 
 ゼロスは途方に暮れたようにファジールを見上げた。
 
「皮膚の再生が終わるまでそのままだな。ただ、乾いてしまっては意味がない。おそらく、アレンは浴槽の中でヴェルディラを洗う筈だ。彼を連れて行って、その浴槽に浸すんだ」
 
 ゼロスは頷くと、ファジュラを横抱きに立ち上がり、後を追った。エンヴィは複雑な表情でそれを見送る。

「エンヴィ」
 
 黒の長はエンヴィの名を呼んだ。エンヴィは困惑したように首を傾げる。
 
「これを持ってお行きなさい。アレンに見せれば理解するでしょう」
 
 黒の長は振り返り、蒼の長から硝子ケースに収められた《眠りの薔薇》を取り出す。それを見たファジールは目を見開いた。
 
「……それはっ」
 
 ファジールは小さく叫び、光明を見出したように表情が変化した。
 
「お前は理解しましたね。エンヴィ、早くアレンを追いなさい」
 
 エンヴィは《眠りの薔薇》を受け取ると、駆け出した。

 だが、ファジールは腑に落ちなかった。何故、このタイミングで二人の長が現れたのか。この時間に現れたのなら、空が白み始めていた筈だ。
 
 黒の長は疑問を顔に貼り付けたファジールを見やり、苦笑を漏らした。
 
「アリスの指示ですよ。いくら私と言えど、太陽には恐怖を感じますからね。本当にギリギリで滑り込みましたから」
 
 アリスの指示とはいえ、捨て身の覚悟で空を駆けた。なりふり構っていられなかった。二人の長が何とか太陽が完全に姿を表す前に館に辿り着いたのは奇跡に近い。

「シオン」
 
 穏やかに名を呼ばれ、シオンは緩慢な動作で振り返る。その顔に表情は見出せない。能面のように無表情だった。
 
「カイファス達の元に行きなさい。お前が傷付く必要はありません」
 
 黒の長に促されたのだが、シオンは一瞬躊躇った。
 
「彼女のことは私達に任せて貰えませんか。お前は薔薇であり、吸血族にとって掛け替えのない存在です。その自覚を持ちなさい」
 
 シオンは黒の長を見詰め、次いで蒼の長を、ファジールとレイに視線を向けた。小さく頷き、ゆっくりと部屋を後にする。

 シオンが離れたのを確認すると、黒の長は蒼の長と共に部屋に入り、扉を閉めた。
 
「何故《眠りの薔薇》が手元にあったんだ」
 
 ファジールの問いに、黒の長は複雑な表情を見せた。
 
「トゥーイと同じですよ。多分、望んだのでしょうね。両親に利用され、性別が変化したことで、自分の存在そのものが無意味に感じたのでしょう」
 
 黒の長はティファレトの前まで歩を進め、目の前で立ち止まる。
 
「私は告げた筈ですよ。お前は何を考え、理解しましたか」
 
 黒の長は冷たい声音で、ティファレトに問い掛けた。

 ティファレトは唇を噛み締める。
 
「忠告を受け入れなかったのは、お前の責です。ならば、失うモノがどれほど大切であったのか判らなかったと言うことです。それに対して後悔をするのはお門違い。私達、全部族長の意思で、お前には決定事項を突きつけますよ」
 
 黒の長は右手を軽く上げ、指先から淡い光が生まれる。複雑な動きで紡ぎ出し、現れたのは漆黒の蝶。それは、黒の長の使い魔。
 
「黄薔薇の部族長を呼び出します。先延ばしにする筈だった事項を延ばせなくなりました」
 
 黒の長は冷たく言い放つ。

「それでは、日中の移動に無理があるんじゃないか」
 
 レイは黙って聞いていたのだが、黒の長が作り出した使い魔に、太陽の元での移動に制限があることに気が付いた。
 
「仕方ありませんよ。私は夜の住人です。使い魔とて同じです。けれど、事は一刻を争いますから」
 
 レイは目を細めると、黒の長の使い魔を渡すように態度で示した。黒の長は訝しみながらも、素直に従う。
 
「手をかそう」
 
 そう言うと、黒蝶を取り込むように光が紡がれる。黒蝶が淡い光に包まれた。現れたのは一回り大きな虹色をした鳥だった。

 長い尾羽根をした、美しい鳥だったが、その場に居る者達は背筋を冷たい何かが這い上がった。
 
 それは、太陽の魔力に匹敵する、陽の魔力そのものだったからだ。
 
「蝶は大丈夫なのか」
 
 ファジールは素直な疑問を口にした。
 
「使い魔はあくまで使い魔だ。私に触れなければ消えることはない」
 
 レイはきっぱりと言い切った。
 
「行け。目的地に着いたら姿を解くんだ」
 
 虹色の鳥は一鳴きすると、壁を通り抜けて行った。それを見送り、レイはティファレトに視線を戻す。

「血族での恋愛感情は、私の時は普通だったが、今の吸血族では致命傷だろう」
 
 レイは穏やかな口調で言った。
 
「その通りですよ。ただでさえ、濃くなっているのですから。最近では、他部族間の婚姻も認めようかと、話していたくらいですからね」
 
 黒の長は事実を口にする。尤も、その考えに至る過程で、ジゼルとファジールの二人は欠かせなかった。何故なら、二人の間には四人もの子供がいる。
 
 それを考えると、部族内だけに限っていた婚姻を、吸血族という枠に置き換えることが最善なのだとの結論に至るのだ。

「狭い世界に拘っていては、種としての存亡に拘わります。昔と今は違うのですよ」
 
 黒の長はティファレトを冷たく視線で射た。
 
「それが単なる身代わりとしての感情であったとしても、認めるわけにはいきません。全ては吸血族のためです。私達が部族長という責任ある立場にあるのはただ、それだけのためですからね」
 
 結界の要としての役目など、実際には大したことではないのだ。種として衰退してしまえば、結界など意味などないのだ。最悪、人間に頼らなければ、吸血族という種は消える可能性すらある。

 他種族との間に子を授かっても、必ず吸血族と言うわけではない。確率は半々だ。それを考えれば、同族間の婚姻が望ましい。
 
「明日、お前はある事実を突きつけられます。それは受け入れるとかの問題ではなく、決まりきった決定事項です。反論は許されません。それを選び取ったのはお前自身。意識していなかったとしても、私達はそう認識します」
 
 黒の長は先までヴェルディラ達が居た場所に視線を向ける。其処にあるのは赤黒い血の跡。出血が尋常な量で無かったことを裏付けていた。

 
 
      †††
 
 
 アレンはヴェルディラを横抱きに二階に駆け上がる。フィネイは鞄が置いてある先まで居た居間に駆け込んだ。そこには妊婦三人とベンジャミンがいた。
 
「どうなったんだっ」
 
 カイファスが軽く腰を上げ、問い掛けた。
 
「解毒が出来ない」
 
 フィネイがあわてた様子で、長椅子の横に置き去りにしていた鞄を持ち上げた。
 
「どう言うことだっ」
 
 トゥーイが慌てたように小さく叫ぶ。ヴェルディラが自分自身で首を爪で抉ったことは見ていたので判っている。

 吸血族の爪に毒があるのは知っている。しかも、その毒の厄介なところは、出血が止まらないことだ。中和出来なければ、血は流れ続けることになる。
 
「アレンが試しに舐めてみたんだが、凄い苦味があるみたいだな」
 
 トゥーイはその言葉に瞬時に状況を察知した。
 
「……中和出来るのは、ファジュラさんだけだってことか」
 
 低い声音で呟かれた言葉に、フィネイは頷いた。
 
 自分達の爪に毒があるなど、普段は気にしたこともない。必要もないのだから、考えることもないのだ。

 普通に考えて、今のファジュラの状態で、中和をするのは無理だ。トゥーイはフィネイが手にしている鞄が、仕事用であることを知っている。
 
「止血をするのか」
「一か八かだ。昔なら、解毒の方法があったかもしれないが、調べている時間はないし……」
 
 フィネイは思い出したように、カイファスに視線を向けた。
 
「あったとしても、調べないと判らない。それに、あったとしても、吸血族にその方法は伝わってない可能性がある」
 
 カイファスが告げた言にルビィは首を傾げた。

「どう言うこと」
 
 ルビィの疑問に、トゥーイが口を開いた。
 
「俺達の場合、自分達で中和出来るから、薬を調合する必要が無いじゃないか」
 
 呆れたようにトゥーイはルビィを見詰めた。ルビィはと言えば、その考えに至らなかった自分に思い当たり、顔を赤く染めた。
 
「取り敢えず、ヴェルディラを助けてくれ。私も手伝いたいけど、今回は仇になりかねないし」
 
 カイファスはフィネイを促した。フィネイは頷き、鞄を手に駆け出し、扉を勢い良く開いた。

 飛び出していこうとしたのだが、フィネイはつんのめりながら、立ち止まった。
 
「……シオンっ」
 
 無表情に見上げてくる姿に眉を顰め、フィネイは振り返った。
 
 いきなり立ち止まり振り返ったフィネイに、一同は首を傾げた。
 
「……早く行って。大丈夫、ヴェルディラは助かるから……」
 
 抑揚のない声が、フィネイの耳に届いた。何を根拠にシオンはそんなことを言うのだろうか。フィネイには判らなかったが、取り敢えず、アレンの元に向かうことを優先させることにした。

 フィネイが走り去った後、そこに現れた姿に皆の動きが止まった。様子があまりにもおかしすぎたからだ。
 
 昨日、カイファスはシオンを無理矢理眠らせた。答えの出ない問いを、シオンがし続けると判断したからだ。
 
 そして今日、シオンはアレンにも同じ様に眠らされていたに違いない。そのシオンが目の前にいる。魔力の強さを考えるなら、シオンの魔力では、アレンの魔力に勝てない筈だ。
 
 ジゼルが眠りを解いたとは考えにくい。ならば、シオンは自力で眠りの魔力をはね退けたことになる。

「シオン……」
「……して、どうして、こんなことになったの……」
 
 シオンの瞳が揺れていた。
 
「母親なら、何をしてもいいのっ」
 
 小さく叫んだシオンに、三人は動けなかった。
 
「違うって、姉さんは知ってるでしょう」
 
 ベンジャミンは穏やかに微笑んだ。
 
「どうして、無茶したの。兄さんに怒られるの、判ってるでしょう」
 
 呆れたように言われ、シオンは両手をきつく握り締めた。
 
「こっちに来て」
 
 ベンジャミンはシオンの目の前まで来ると手を取り、長椅子まで導いた。

「僕は行くけど、カイファスさん達の言うこと聞いてね。後で怒られるのは姉さん何だから」
 
 ベンジャミンは三人に視線を向けると、微笑んだ。そして、踵を返すとフィネイの後を追う。
 
「……参ったな」
 
 カイファスは小さく言葉を零す。ベンジャミンは生まれたときから特殊な環境で育った。そのせいなのだろうか。年の割に大人びたところがあった。
 
「僕達より大人だよね」
 
 ルビィはしみじみと言った。
 
「この環境下で育ったらさ、あんな風になっちゃうのは判る」
 
 トゥーイはベンジャミンが走り去った扉を凝視していた。

 カイファスは立ち上がると、シオンの隣に移動した。ゆっくりと腰を下ろし、シオンの顔を覗き込む。
 
「アレンの魔力をはね退けたのか」
 
 カイファスの問いにシオンは一瞬迷い、躊躇いがちに頷いた。
 
「無茶なことを。いくら薔薇だからって、アレンの魔力はシオンの魔力をはるかに上まるんだぞ」
 
 呆れたような声音に、シオンは唇を噛み締める。
 
「……だって、許せなかったんだ……」
 
 女性だと言うだけで、無条件に許されていると信じ切っている。それが、許せなかったのだ。

「シオン」
 
 改めて名を呼ばれ、シオンはカイファスを見上げた。
 
「私は冗談で言ってるんじゃない。無理をすれば、後でしっぺ返しが待ってるんだ。今は、緊張してるだろうし、気が張ってるから判らないかもしれないが、体が辛くなる。しかも、無理矢理引き出した魔力は、体に負担を強いる」
 
 シオンはぎゅっと、膝の上で両手を握り締めた。
 
「確かに許せないのは判る。でも、少しはアレンの気持ちも汲んでやれ」
 
 カイファスの言葉にシオンは息をのむ。

「私もやってしまった手前、偉そうには言えないが、魔力で眠らせるのは本来、してはいけないんだ。術で眠らせると、眠りを与えられた者は、意志とは関係無しに眠りの淵に落とされる。そうなれば、少なからず体の負担になるんだ」
 
 カイファスにしてもアレンにしても、そうせざる得なかった。昨日のシオンの状態で、薬を服用したとは考えにくい。
 
「お前は忘れてるんじゃないか」
 
 カイファスはシオンの右手を取って軽く揺らした。シオンは何を忘れているのだろうかと、小さく首を傾げる。

 カイファスは顔を上げると、ルビィとトゥーイを見詰めた。二人には判っていた。カイファスが何を言おうとしているのか。
 
「シオンはさ、自分が薔薇だって自覚ある」
 
 ルビィはシオンを見詰め、そう問い掛けた。シオンは弾かれたように顔を上げる。
 
「薔薇は幸せにならなきゃ駄目なんでしょう。でも、シオンは本当に幸せだって、大声で言えるの」
 
 シオンは動揺した。動機が激しくなり、息苦しさを感じた。
 
「無理をしていたら、壊れちゃうよ」
 
 ルビィは素直に思ったことを口にした。

「どうして自分を排除したように言うの。おかしいよね」
 
 シオンの根底にあるものが、どんなものなのか判っているつもりだ。だが、本当の意味で判っているわけではないことも理解している。
 
 傷付き、深い傷を負ったのはシオンだ。だからといって、過去に捕らわれ、今を失うのは愚かでしかない。
 
「シオンは努力したんでしょう。家業だって、聞いた話ではシオンが立て直したんでしょう。エンヴィの話しでは、傾き始めてるって言ってたけど」
 
 幼いなりにシオンは考え実行したのだ。

 無意味なことだとは判っていた。両親は根本的にシオンと言う存在を嫌っている。
 
「俺、一つだけ疑問があるんだけどさ」
 
 トゥーイは架空に視線を走らせた。
 
「お腹に命を宿して判ったって言った方が正確かな」
 
 トゥーイは小さく首を捻る。その言葉に、三人はトゥーイに注目した。
 
「短い期間だけど、母体と胎児って一つの命を共有してる感じだろう。まあ、それぞれの命だけどさ」
 
 吸血族はその命の質のせいなのか、極端に人口が減り、血が濃くなったからなのか、出生率が悪い。

「父親はどうか判らないけど、少なくとも母親はシオンさんを宿したときは嫌ってなかったんじゃないか」
 
 吸血族は妊娠すると堕胎するという考えを持たない。望んでいたからこそ、それなりの行為をした筈だ。ならば、別の意味があるのではないか。
 
「どう言う意味」
 
 ルビィは首を傾げた。
 
「吸血族って、妊娠出産に適した体型じゃないんだよな」
 
 女性にしても、男性にしても、他の種族に比べ華奢なのだ。妊娠という行為は命懸けになる。だから、女性は覚悟を決めて、夫を受け入れるのだ。

「でもさ、エンヴィのお母さんの例があるよ」
 
 ルビィは少しだけ、表情が暗くなった。
 
「それは違うだろう。エンヴィの場合、少なくとも両親は親になろうとしていたんだ。エンヴィがあの話しを耳にしなければ、偽りであったとしても、愛情はあったんだ。知ってしまった後だって、ルビィに頼むだけの良心はあった。でも、シオンの場合は根本的に違うんだ」
 
 カイファスは言ってしまった後で、シオンが居ることを忘れていたことに気が付いた。しかし、シオンは口を噤んだまま、カイファスを見上げている。

「そこなんだけどさ。シオンさんの手前、訊きにくいんだけど、……手を上げていたのって母親か」
 
 カイファスとルビィは顔を見合わせた。トゥーイは何を言いたいのだろうか。
 
 トゥーイはシオンを見詰める。シオンは少し躊躇った後、小さく頷いた。
 
「もしもの話しになるんだけど、父親が手を上げていたら、シオンさんは無事じゃなかったと思うんだよな」
 
 当時のシオンの怪我の具合を詳しく知っているのはファジールだ。だから、どの程度であったのか、アレンも詳しくは知らない。

「どう言うことだ」
「簡単に言うとさ、母親はシオンさんを愛していたとして、父親が蛇蝎の如く嫌っていた場合、庇えば庇うだけ、火に油を注ぐ結果になるだろう」
 
 シオンは目を見開いた。ならば、どうなるのだろうか。カイファスは思い至った考えに、思わず右手で口を覆った。
 
「ちょっと待ってくれ。素直にトゥーイの考えを解釈するなら、言っている仮説が合っていたら、大変なことにならないか」
 
 吸血族は血に縛られているため、簡単に離れることは出来ない。

 夫から離れられず、かと言ってシオンを庇うことも出来ない。その状況に立ったとき、母親は何を考え実行したのか。
 
「母親が手を上げていたってことは、見方を変えれば、守っていたってことだよな。手加減が出来るんだからさ」
 
 下手な庇いたてはシオンを更に窮地に立たせることになる。母親が選び取ったのは、究極の選択だったのではないか。
 
「敢えて悪者になる覚悟で手を上げていたのなら、状況が変わるよな」
 
 シオンは愕然とした。辛い記憶であるため、考えないようにしていた。

「じゃあ……」
 
 ルビィはシオンの両親を思い出そうとした。だが、あまり印象に残っていない。正確には、会ったのは数える程しかない。
 
 姉であるジュディなら判る。さばさばした性格をした、ジゼルに近い性格の持ち主だ。だが、両親となると、判らないことが多すぎた。
 
 ルビィは問いた気な視線をカイファスに投げかける。エンヴィのことがあったルビィは、頻繁にシオンに会っていたわけではない。
 
「私もシオンの両親には殆ど会ったことはないんだ」
 
 シオンは誰かを自宅に招待したことが無かったのだ。

 シオンと両親が一緒の場所に居るという印象が、あまりに無さ過ぎる。
 
「……会わせたくなかったのか」
 
 トゥーイはぽつりと呟いた。
 
 シオンはきゅっと、唇を噛み締める。トゥーイの言う通りだったからだ。
 
「トゥーイが言っていたことが間違えていないのら、ファジールさんに確認しないと、確信が持てないよね」
 
 ルビィは思案するように、架空に視線を走らせた。
 
「そうだな。でも、教えて貰えるだろうか」
 
 カイファスは首を捻る。ジゼルとファジールの二人は、シオンの幼少の頃の話題に対して、慎重だったからだ。

「シオンのためだよ。このままでいい筈がないんだし」
 
 ルビィは溜め息混じりに吐き出した。
 
「シオン」
 
 カイファスはシオンの顔を覗き込んだ。
 
「ヴェルディラのことに首を突っ込むんじゃない。彼奴等に任せておいたらいい。まずは自分の中を解決することが先決だ」
 
 判るな、とカイファスに言われ、シオンは口を引き結ぶ。そんなこと、出来る筈がない。シオンは協力したかったのだ。今、三人は妊娠している。自由に動けるのはシオンだけなのだ。

「……でもっ」
「今の状態では足手纏いなのは判っているだろう。人より自分だ。今まで、後回しにし過ぎてたんだ。考えたく無かったのかもしれないが、そんなことは言っていられないのは、自分自身で判ってるだろう」
 
 カイファスに諭され、シオンは口を閉ざした。
 
「アレンが悩んでないと思っている訳では無いだろう。安心させてやりたくないのか」
 
 シオンは目を見開いた。昨日のアレンの様子を思い出し、胸が苦しくなった。ずっと、見守ってくれていたのだ。その、アレンが敢えてシオンに問い掛けた理由。

 アレンは医者でシオンの夫だと言うだけではない。幼馴染みでもあるのだ。
 
「私達は血の契約で繋がっている。お前が目覚めたのも、アレンの動揺を感じ取ったからだろう」
 
 その通りだった。ジゼルとシアンを振り切り、あの場所まで行ったのだ。
 
「みんな、お前の幸せを願っているんだ。だから……」
 
 カイファスはシオンの耳元で囁く。他人だけではなく、自分の幸せも願って欲しいのだと。
 
 シオンは瞳に涙を浮かべ、カイファスに縋り付く。二人はそれをただ、見守っていた。
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