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Ⅹ 双月の奏
07 第六楽章
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「判ったか」
ファジールはヴェルディラの顔を覗き込むように、強い視線を投げかける。ヴェルディラはと言えば、やはり、判らないというように首を傾げた。
「普通なら両親なり、祖父母なりから、自然と知るものなんだが」
ファジールは参った、と言わんばかりに、頭を掻く。その様子を見ているのは、妊婦三人だ。
「疑問なんだけど」
ルビィは首を傾げつつ、思ったことを口にする。
「エンヴィも両親から教わってない筈だけど、ちゃんと知ってたよ」
つまり、ヴェルディラの知識の無さは、特出しているのだ。
「ゼロスは銀狼だが、その手の知識はきちんと持っていたな」
カイファスも首を傾げる。つまり、吸血族でなくとも、種族の特性として、他種族の魔族も知っていておかしくない知識なのだ。
「もしかして、絵画の知識ばっか、与えられてたのか」
トゥーイは腕を組みつつ、首を傾げ、そんなことを言った。
「でもさ。女性にならなくたって、その知識は必要でしょう。死活問題だよ」
ルビィはやはり、納得出来なかった。
「シオンなら、判るのかな」
それは、素直な気持ちの吐露だった。
「シオンに訊くまでもないだろう。両親にとって、子孫云々より、目の前の欲だったんだろうな」
だが、とファジールは腕を組み、右手で顎をさすった。
「祖父母が近くに居なかったのか」
「蒼の長様が眠りに就くときに、って言っていたから、近くに居た筈だ」
カイファスはファジールに視線を向けた。
「両親が駄目だったとしても、祖父母から学習出来る筈なんだが……」
「……だったから」
ヴェルディラはぼそっと、何かを呟く。皆はヴェルディラに注目した。
「何だ」
ファジールは首を傾げつつ、問い掛ける。
「爺様も婆様も絵ばっかだったから……」
絶句、とは正にこのことだろう。
「ちょっと待て。両親も祖父母も血の食事をしていただろう。見たことなり、覗き見るなりしなかったのか」
ヴェルディラは首を横に振った。ファジールは右手で顔を覆い、盛大な溜め息を吐いた。
つまり、いくら本能であろうと、見ていないのでは話しにならない。視界におさめたことがないなら、訊くこともなかった筈だ。
そして、血に依存してしまうのを感覚で判ったとしても、大人からそれなりに教わらなければ判らないこともある。
その一つが妊娠したら、毎日の血の食事が必要だという事実だ。だが、ヴェルディラはファジュラの血を口にしている。
其処でファジールは有り得ない考えに行き着いた。普通ならば有り得ないことなのだが、ヴェルディラとファジュラが吸血族の事情を理解していなかった場合、容易に有り得る事実だったのだ。
つまり、二人は興味本位で互いの血を口にした。
三人はファジールの表情が強ばったことに、首を傾げ、顔を見合わせた。
「……まさか、興味本位で血を口にしたわけではないよな……」
ファジールは探るように、低く唸るような声で問い掛けた。その問いにヴェルディラは小さく頭を揺らし、にっこりと微笑んだ。ファジールは脱力したように、肩を落とした。
「どう言う意味だ」
カイファスは困惑したのか、ヴェルディラを凝視し、そんな言葉が口を吐いた。今のヴェルディラの態度を素直に解釈するなら、ファジールの言葉を肯定したことになる。
人との接触が殆どなかったヴェルディラは、何にでも興味を持った。祖父母に連れられ、黄薔薇の楽師の館をよく訪れ、そのときに友人になったファジュラとよくいけない遊びをしたものだ。
ファジュラは楽師なのだから、手を大切にしなければいけなかったが、如何せん、二人はまだ子供で、良いことも悪いことも、身に付けていかなければならない課程の中にいた。
血に興味を持ったのはほんの偶然だった。二人で何時ものように外で遊び、ちょっとしたことで擦り傷を作ってしまったのだ。
本来なら許されない行為だろう。だが、外界から隔離されたように、家業を修得していた二人は、まだ、その知識が無かったのだ。
確かにある程度、成人に近い年齢だったが、少なくともヴェルディラにその知識はなかった。だから、咄嗟にファジュラの傷口を舐めてしまったのだ。
そのときに感じた体が震えるほどの甘美な感覚を、もう一度味わいたくなった。だから、ファジュラに素直にそのことを口にしたのだ。
ファジュラは少し思案し、二人は互いの血を交換してしまった。
その話しを聞いた面々は、絶句した。確かに家業は大切だろう。芸術関係の一族は保守的であることは知っていたが、そこまで極端なものなのだろうか。
ファジールはこめかみに痛みが走った。教えなさすぎにも程があるだろう。しかも、血に関する知識は吸血族にとって必要不可欠なのだ。
その知識を与えずに、他人と接する危険を、祖父母と両親は考えなかったのだろうか。
「つまり、今、教えたことは、聞いたことがないということか」
疲れたように右手で額を覆い問い掛けてきたファジールに、ヴェルディラは素直に頷いた。
「ファジュラが血を口にしてから、大変なことをしたって気が付いたんだ。で、調べたみたいで」
調べた内容は教えて貰えなかったらしい。そのかわり、毎月、血を口にするために会うことを約束した。何故、教えなかったのかは謎だが、ヴェルディラの様子から、ファジュラの気持ちが判らなくもない。
最初はそんな感じはしなかったのだが、ヴェルディラは無邪気な子供を大人にしたような感じだ。世間を全く知らずに成長し、今に至った感じなのだ。
ファジールは更に頭痛に襲われたのか、近くの椅子に腰掛けた。
「ジゼルの再来か……。勘弁してくれ」
ファジールの呟きに、三人は顔を見合わせた。
「ジゼルさんがそうだったのか」
カイファスは首を傾げつつ問い掛けた。ファジールは視線だけを三人に向け、ジゼルが月華であることを知っていることに思い当たったのか、溜め息と共に頷いた。
「ジゼルが特殊な生まれなのは知っていると思うが、彼奴は隔離されて育っていて、僕のところに嫁いできた後、大変な目にあったんだ」
あまりに世間知らずだったジゼルに、館の者だけではなく、黒の長からレイチェルまで振り回されたのだ。
幸い血に関する知識はもっていたのだが、それ以外の、吸血族なら知っていておかしくない知識が欠落していた。
女性の一人歩きは危険だとか、吸血族が離婚するための知識も全てが中途半端な知識で、間違った覚え方をしているものまであったのだ。
吸血族でなくとも、当たり前に知っていることさえ曖昧だったのだから、当時のファジールの苦労は並ではなかった。
「母上から聞いてはいたけど、そんなに酷かったのか……」
カイファスが聞いたのは、あくまでレイチェルの笑い話だ。
「ある意味、小さな子供より質が悪かったんだ」
本人が聞いたら不貞腐れそうだが、ジゼルと接したことのある者なら、事実であると判る。
「問題は君だな。聞いた話では両親に知らせるわけにはいかないみたいだし、かといって、相手の家庭にも問題があるみたいだしな」
ファジールは手を口元で組むと思案するように架空に視線を走らせた。
「ここで面倒をみてもらう訳にはいかないの」
ルビィは首を傾げながら言った。ファジールはルビィに顔を向ける。
「みる分には問題ない。今更、一人二人増えたところで、どうってことはない。問題は他部族だと言うことだ」
「ヴェルディラは薔薇だ。それで問題解決じゃないのか」
カイファスが事実を口にする。
「その点が問題なんじゃない。実質、実家の家業を支えていたのが彼だ。そうなると、いくら全部族長が認めていても、黙ってはいないだろう」
ファジールはその点が気になったのだ。いくら口を噤み秘密にしたところで、知る者が必ず現れる。それは、諍いの原因になりかねない。
「黒の長が圧力をかけて黙らせるだろうが、彼の両親が騒ぎ立てる輩だった場合、手に負えないだろうな」
ファジールは考えた。各部族の主治医に協力を求めるしかない。ヴェルディラが薔薇であることを説明すれば、彼等は素直に身を引くだろう。
昔からの決まり事で、薔薇に関する情報は主治医達に報告している。薔薇の夫の一人が、黒薔薇の主治医の後継者である事実が、彼等を納得させる最大の理由だった。
何かあれば協力を惜しまないのは、暗黙の了解なのだ。
それに、敢えて薔薇のことを一つの主治医に委ねるのには訳があることも知っていた。確かに複数人に頼む方が安全だろう。しかし、別の観点から見ると、彼等を危険に晒すことになる。
薔薇は特殊な存在故に、実験でもされたら、それこそ目も当てられない。
「全く知らせていない、そうなんだな」
「お祖父様達は両親より、ヴェルディラの安全をとったんだ。不測の事態にならない限り、知らせることはない筈だ」
カイファスはきっぱりと言い切った。ファジールは思案し、ヴェルディラに視線を戻す。
「此処に滞在する間は指示に従って貰う。必要な物があるなら揃えよう。だが、君の安全と諍いを避けるために、なるべく敷地内から出ないでくれ」
ファジールは少し疲れたように、ヴェルディラに釘を差した。
「でもさ。此処の敷地って何処までなんだ」
トゥーイは首を傾げ、問い掛けた。確かに、何処までなのか見当もつかない。
「薔薇が咲いている場所は敷地内だ」
「それは判ってる」
ファジールの言葉にカイファスは即答する。だが、その薔薇の咲いている場所の面積が判らないのだ。
「遠くに見える山の裾辺りまで薔薇があるように見えるんだけど」
ルビィは小首を傾げる。ファジールは「ああ……」と、漸く三人が言わんとしていることを理解した。
「此処の敷地には三カ所離れの館があって、其処が敷地の端になる」
「離れっ」
カイファスは驚いたように小さく叫んだ。
「今は使われていないというか、使える状態じゃなくてな」
ファジールが言うには、完全に物置状態なのだそうだ。では、何故、使えるようにしないのかという疑問が生まれる。
理由は片付けたくても片付けられない、だった。
「どう言うこと」
ルビィの言葉に二人は頷いた。
「僕に価値は全く判らないが、何となく高価なものだとは判るんだ。処分していいものなのか、考え倦ねているうちに、そのままの状態と言うわけだ」
ファジールとアレンにしてみれば、片付けたいのが正直な気持ちだ。段々と人口密度が高くなってきている上に、小さな子供が増え始めている。館内で遊ばせるのは、ある意味危険なのだ。大人が常時側に居られれば問題がないが、そういう訳にもいかない。
「何が置いてあるんだ」
トゥーイは疑問に思い、そう口走った。
「アレンが言うには、一つには大量に楽器やら、楽譜やらが放り込んであるみたいなんだが……」
アレンが言っていたと言うことは、ファジールは目にしていないということになる。詳しく聞いてみると、アレンが幼少の頃に探検していて見つけたらしい。
「それって、つまり」
ルビィは更に首を傾げた。
「離れがあることは知っていたんだが、物置だと言われていたんで、僕は確認したことがないんだ」
確かに、古い物を放り込んである館にわざわざ足は運ばないだろう。
「アレンは探求心の塊だったからな。危険だと言い聞かせてあったんだが、そんなことは無視して、離れの館全部に入り込んだみたいだな」
ある程度成長した頃、アレンがぽつりと言ったのだ。「家は医者の家系だよな」と。
「最初、何を言っているのか判らなくて、詳しく訊いたんだ」
三つの館の内、二つは芸術関係の物置になっているようだと。いくつかの絵画は今、館の中で飾ってあるのだが、無意味に道具が散乱しているらしい。
楽器や楽譜に至っては、興味もなければ扱い方も知らない。
「我が家系は多趣味だったらしくてな。アレンも趣味と実益を兼ねて薔薇の品種改良をしているし、父は何やら書き物をしていた記憶がある」
ただ、ファジールの趣味は医学そのものだったため、何かが増えると言うことは無かったらしい。
「まあ、薔薇が咲いている場所は敷地内だ。その中なら、自由にしていて構わない」
ファジールはヴェルディラに視線を戻す。ヴェルディラはと言えば、今の話しに呆然としていた。主治医と言えば、魔力が強い一族であり、王家の末裔である部族長一族に匹敵する財力を持つことは、流石のヴェルディラも知っていた。
「呆けてるな」
「だね。判らなくもないけど」
カイファスが呆れたように肩を竦め、ルビィが苦笑いしながらも、ヴェルディラの気持ちが理解出来た。
「俺、驚くの疲れたから止めたんだよな。此処の規模って、他部族の主治医宅より大きいしさ」
トゥーイの言葉に、二人は驚いたように一斉に顔を向けた。
「どう言うことっ」
カイファスは思わず問い掛けた。
「最初、気が付かなかったって言うか、行ったことが無かったから知らなかったんだけどさ」
フィネイと結婚の挨拶周りで訪れた白薔薇の主治医の敷地は、黒薔薇の主治医の敷地の足下にも及ばなかったらしい。
「此処の敷地が広すぎんだよ。何処の主治医の館も黒薔薇の主治医の館の敷地に比べたら、狭いんだってさ」
よくよく話しを訊くと、白薔薇の主治医に遠慮なく訊いたと言うから、トゥーイはある意味最強だった。
「流石、トゥーイだ」
カイファスはがくりと、肩を落とした。普通なら、そう言う切り込んだ話しは避ける話題の筈なのだが、トゥーイはそういうところに頓着しない。
理由は簡単で、根掘り葉掘り訊いてくるのは向こうも同じ。ならば、こっちから訊いても文句は言えないだろう。
「自分が普通だとは思ってないけどさ、呆れられると、流石の俺も気分が悪いんだけど」
トゥーイにしてみれば、ごく当たり前のことらしい。
「訊けるのが凄いよ」
ルビィも呆然と呟いた。其処に聞こえてきたのは喉の奥で笑うくぐもった声だった。
「黒薔薇の主治医の敷地が広いのは、多分、レイの影響だろう」
ファジールが笑いながら、そんなことを言った。ファジール自身も、レイに会うまで判らなかったらしい。異常に広いのは、此の場所にレイが滞在していた時期があったかららしかった。
正確には、敷地の半分はレイが所有していたのだ。吸血族から訣別するときに、当時の黒薔薇の主治医が譲り受けた。
その当時から、敷地内は薔薇で埋め尽くされていたらしい。
「敷地の半分は銀狼族のものになるのかな」
ルビィがぽつりと呟いた。
「僕も聞いたんだが、譲ったものに執着心はないから、このままで良いと言われたんだが」
ファジール自身も気が引けたらしい。真の所有者が存在しているのだ。普通なら戻すなり、後継者に引き継ぐなりするのが筋だ。
「まあ、それで、ゼロスに訊いてみたんだが」
ファジールとしては、子孫であり、銀狼族であるゼロスに訊くのが当たり前だと感じた。そのため、ゼロスが何時ものように館を訪れたときに訊いてみたのだが、あからさまに嫌な顔をされたのだ。
そして、言われた一言に、ファジールは固まった。
「彼奴はなんて言ったんだ」
カイファスは予想がつくのか、呆れたように息を吐き出し、問い掛けた。
「そんな、面倒なもの、願い下げだと、きっぱり言い切られた」
カイファスは予想通りの言葉に脱力した。
「流石、ゼロス」
ルビィはゼロスらしい答えに笑うしかない。
「その場にアレンも居たんだが、二人で押し問答していたな」
アレンにしてみれば、半分は銀狼族であるレイの所有地なら、その子孫で代わりとして存在しているゼロスが所有するのが当然だと思ったらしい。
「だがな……」
ゼロスは、こんなに大量の薔薇の世話は願い下げだ、と大きな声で言ったのだ。当然、アレンにしてみれば引き下がるわけにはいかない。
どうあっても、ゼロスに押し付けようとしていた。
「押し付けるって、どう言うことだ」
トゥーイは首を捻った。
「これだけ土地が広大になると、面倒事も多いからな。分割すれば、その分、目が行き届くようになる」
「ゼロスの奴、こう言ったんじゃないか」
カイファスは笑いを押し殺す。
「お前の所は大家族なんだ。何とかなるだろう、みたいなことを言っていただろう」
ファジールは肩を竦める。まさに、カイファスが言った通りだったからだ。そして、良いことを思いついたと言わんばかりに、手を打った。
その様子に、カイファスは嫌な予感がした。この手の予感で間違ったことはない。
「何ならカイファスが引き受けてくれても構わない。レイの血筋だしな」
「丁重にお断りします」
カイファスは黒い笑みを顔に貼り付けた。
「多分、お祖父様も無理だ。同じことを言う筈だからな」
ファジールは落胆したように肩を落とした。何故なら、敷地だけなら部族長の敷地より広いのだ。
跡目を継ぐ者が何より嫌がるのが、この広大すぎる土地なのだ。ファジールも主治医になるのに異論はなかったが、敷地だけは別問題だった。
ヴェルディラは小さく頭を振った。世の中がどうなっているかなど興味がなく、ましてや、他部族ともなれば尚更に知りたいとも思わなかった。
祖父母が《永遠の眠り》に就くと、両親はヴェルディラが他と接触することを極端に嫌った。理由は簡単で、ヴェルディラが描いた作品には父親のサインが書き込まれる。
最初の頃は抵抗したのだが、最終的に諦めてしまったのだ。いくら言ったところで、父親は取り合ってはくれない。だが、最後の抵抗に自分が手掛けた作品には小さなサインを紛れ込ませていた。
目の前に居る者達に見えるのは、心からの幸福だったが、何かしら翳りのようなものが見え隠れしていた。
会話の内容を詳しく知りたいとは思わない。込み入った話しなのは、直ぐに判った。
「大丈夫」
ルビィが心配そうに、ヴェルディラを覗き込んでいた。何時、椅子から立ち上がり、目の前まで来ていたのか。赤い長い髪が、さらりと流れる。
「一遍に聞かされても判らないのは理解出来るけど、生きていくのに必要な知識だよ」
ルビィの言葉に、ヴェルディラは頭を振った。
「……俺、眠るつもりだから……」
ヴェルディラの言葉に、四人は顔を見合わせた。
「昨日、薔薇を受け取ったのは、最後だって思っていたからなんだ」
アレンが小脇に抱えていた薔薇が欲しかった。そう、最後の証にするために。
「僕の経験を言わせて貰って良いかな」
ルビィはかがめていた体を起こし、右手で腰をさすった。あの態勢は体に少しきつかった。
ヴェルディラはルビィを凝視する。ルビィの経験とは、どう言うことなのだろうか。
「長様達はありとあらゆる手を使って、阻止してくるよ。それに、黒の長様の奥さんが黙ってないだろうし、何より、シオンがそうさせないって思うよ」
ルビィは嘆息混じりに言い切った。
「……っ、でもさっ」
ヴェルディラが何を言おうとしているのか、ルビィには判った。昨日のシオンの様子で有り得ないと思っているのだろう。
「言っておくけど、シオンを侮らない方がいいよ。極端な話し、黒の長様より質が悪いんだ」
カイファスは思わず頷いた。ファジールは何とも言えない表情を見せ、トゥーイはと言えば両手を握り締めている。
「確かに情緒不安定だし、特に最近顕著になってきてるけど、それとこれは別問題」
ルビィは淡々と言い切った。
そのとき、ファジールは何かの違和感を感じた。最近、人の出入りが激しいので慣れてしまったのだが、見知った気配ではない。しかも、許可なく入り込んできた。
眉を顰め、ゆっくりと立ち上がったファジールに、四人は訝しんだ。ファジールの表情が険しいからだ。そこに、遠慮がちに扉を開いた者が居る。
黒髪に菫の瞳の少年だ。不安気に父親に視線を向けた。
「お前も感じたのか」
「うん。嫌な気配を纏ってる感じがする」
カイファスとルビィは顔を見合わせた。
「ベンジャミンが感じるなら間違い無い。勘違いだと思いたかったが」
「誰かが来たのか」
カイファスはファジールとベンジャミンに問い掛けた。
「来たな。ただ、無許可だ。この館に許可無く出入り出来るのは君達夫婦と長くらいだ。レイチェルであっても、そんなことはしない」
ファジールは眉間に皺を寄せる。酷い違和感を感じる気配。思い詰めた、何かを抱えている。
探るように歩を進めているのが判った。ファジールは立ち上がると、咄嗟にヴェルディラの腕を取り、背後に庇った。それは、直感に過ぎなかったが、間違えてはいない筈だ。
ゆっくりと開かれた扉の前にいたのは、ヴェルディラがよく見知った者だった。
緩く波打つ長い黒髪、黒曜石の瞳。鋭く睨み付ける瞳は、ヴェルディラを射抜いていた。その瞳の奥に垣間見える感情が、ヴェルディラを竦み上がらせた。
疎まれていることも、嫌われていることも知っていた。だが、ここまであからさまに感情を向けられたことはなかった。
「君は誰だ」
ファジールは少し表情を険しくさせた。問わなくとも判っていたが、確認の意味合いが強かった。ベンジャミンはゆっくりと父親に近付く。
ティファレトはその他大勢は目に入っていなかった。勿論、掛けられた言葉も耳には入っていなかった。
目に入っていたのは、昔から気に食わなかった者。その綺麗な青銀髪も、澄んだ紫水晶を思わせる瞳も、自分が持ち得なかった美しい声も。
何もかもが、許せなかった。理由など無い。強いて言うならば、大切に慈しんでいた存在を奪っていく者だと、無意識に認識していた。
ヴェルディラはゆっくりと後退る。ティファレトが放つ、強烈な拒絶の感情が痛かった。言葉など必要ない。その気配だけで、ティファレトが語っているようだった。
ファジュラに近付く者は許さないのだと、例え友人であろうと、奪う者は許さない。
絵師として研いてきた感性が、全てを読み取ってしまった。
コツンと何かが踵に当たる。ゆっくりと振り返ると其処にあったのは壁。横に視線を走らせると、目に入ったのは窓を覆う厚めのカーテンだった。下の隙間から、白み始めた光が微かに漏れ出ていた。
心を占めたのは許されない感情だった。
何を躊躇う必要があるのだろうか。両親に利用され、ティファレトに憎まれて、自分に存在価値があるのだろうか。
ただ、他人に振り回され、自分の意志も何もかも踏みにじられて、そんな状態で生きていて意味があるのだろうか。
床に広がる強まっていく光が、ヴェルディラを誘惑していた。その強烈な光に身を晒せば全てが終わる。体を焼き尽くし、魂も、ヴェルディラを構成する全てが無に帰す。
ヴェルディラはゆっくりと顔を上げた。
幸い、自分以外は窓から遠い位置にいた。全員がティファレトに注目している。ヴェルディラにまで意識を向けている者はいない。
ヴェルディラは更に強くなった光に、カーテンを掴んだ。その気配に気が付いたのは、まだ、年若い少年。菫の瞳を見開き、鋭い叫び声を上げた。
ヴェルディラは強くカーテンを握る手に力を込めた。そして、耳に入ってくる激しい複数の足音。何もかもが静寂を破っていた。
ヴェルディラは一斉に向けられた視線に悲しく微笑んだ。思いを断ち切るように、手にした物を力任せに開け放った。
†††
黒の長は呆れたように息を吐き出した。目の前に居るのは、蒼の長だった。
「何も、夜明け前ぎりぎりに来る必要はなかったでしょうに」
確かに《眠りの薔薇》を預かりたいとは言ったが、本人が来る必要もない。
「つれないことを」
「私は貴方の恋人ではありませんよ」
「そんなことは言われなくても判っている」
蒼の長は小さく笑った。
「見せて貰えますか」
黒の長は蒼の長を促した。蒼の長は腕に抱えていた物を包んでいた布を解く。
円柱形の硝子ケースに入れられているのは、透明な蕾の一輪の薔薇。
「確かに《眠りの薔薇》に間違えありませんね」
「何を持ってくると思っていたんだ」
黒の長は曖昧な笑みを向けた。やはり、ヴェルディラは《眠りの薔薇》を求めたのだろう。薔薇は眠りを求める者が現れると蕾をつける。
透明ではあっても、うっすら、色がのっている薔薇も存在する。蒼の長が腕に抱える薔薇は確かに透明ではあったが、青の色が微かだが確認出来た。
トゥーイも薔薇を求めた一人だ。
あのときの薔薇は、既に砕け散ったのだと白の長から聞いている。
「どうしてなんでしょうね」
黒の長はいたたまれない思いを、言葉と共に吐き出した。
「幸せになるために生まれてくる筈なのに、不幸を刻みつけるように生を受けるなんて」
蒼の長はその言葉に溜め息を吐いた。薔薇達は何かしらの業を背負い生まれてきている。概ね解決しているが、一人だけ、まだ、完全に解決していない。
シオンが昨晩吐露した言葉は、長達にとって酷く重い内容だった。
そんな話しの最中、いきなり凄い勢いで扉が開いた。二人の長は驚き、音の発生源である扉に反射的に顔を向けた。其処にいたのは、金の髪を振り乱し、荒い息を吐き出しているアリスだった。
誰よりも驚いたのは黒の長だ。アリスがここまで取り乱す姿を見たことがなかった。
「どうしたのです」
「その薔薇を持って、今直ぐにファジールの元へ行ってっ」
二人の長は顔を見合わせた。出掛けるのはいいのだが、今は夜明け前で、下手をしたら、太陽に身を晒すことになる。
「待って下さい。今は夜明け前ですよ」
「間に合うからっ。それよりも、もっと大変なことになるっ。早くしないと、取り返しがつかなくなるっ」
黒の長は困惑した。《眠りの薔薇》を求めたのはアリスだ。蒼の長から、預かるように言われ、その薔薇は今、目の前にある。
自身で出した結論は、蒼薔薇が使うために必要だと言うことだ。ならば、今、黒薔薇の主治医の館で何かが起こっているか、何かが起こる前なのかもしれない。
「太陽が顔を出す前に、私達が辿り着ける保証があるのですね」
黒の長はアリスに真剣な眼差しを向けた。
アリスは頷いた。
「カルヴァスと結界を頼みましたよ。戻って来れませんから」
「判っているわ。早く行ってっ」
黒の長は立ち上がると、蒼の長の腕を掴み、強引に立たせるとベランダへ向かった。
いきなり腕を取られ、蒼の長は困惑した。
「ヴェルディラが危ないようです。一か八か、主治医の館に向かいますよ」
「待て。空が白み始めているんだぞ」
「判っていますよ。それでも、行くんです」
黒の長はベランダの窓を開け放ち、蒼の長の腕を取ったまま床を軽く蹴った。
ファジールはヴェルディラの顔を覗き込むように、強い視線を投げかける。ヴェルディラはと言えば、やはり、判らないというように首を傾げた。
「普通なら両親なり、祖父母なりから、自然と知るものなんだが」
ファジールは参った、と言わんばかりに、頭を掻く。その様子を見ているのは、妊婦三人だ。
「疑問なんだけど」
ルビィは首を傾げつつ、思ったことを口にする。
「エンヴィも両親から教わってない筈だけど、ちゃんと知ってたよ」
つまり、ヴェルディラの知識の無さは、特出しているのだ。
「ゼロスは銀狼だが、その手の知識はきちんと持っていたな」
カイファスも首を傾げる。つまり、吸血族でなくとも、種族の特性として、他種族の魔族も知っていておかしくない知識なのだ。
「もしかして、絵画の知識ばっか、与えられてたのか」
トゥーイは腕を組みつつ、首を傾げ、そんなことを言った。
「でもさ。女性にならなくたって、その知識は必要でしょう。死活問題だよ」
ルビィはやはり、納得出来なかった。
「シオンなら、判るのかな」
それは、素直な気持ちの吐露だった。
「シオンに訊くまでもないだろう。両親にとって、子孫云々より、目の前の欲だったんだろうな」
だが、とファジールは腕を組み、右手で顎をさすった。
「祖父母が近くに居なかったのか」
「蒼の長様が眠りに就くときに、って言っていたから、近くに居た筈だ」
カイファスはファジールに視線を向けた。
「両親が駄目だったとしても、祖父母から学習出来る筈なんだが……」
「……だったから」
ヴェルディラはぼそっと、何かを呟く。皆はヴェルディラに注目した。
「何だ」
ファジールは首を傾げつつ、問い掛ける。
「爺様も婆様も絵ばっかだったから……」
絶句、とは正にこのことだろう。
「ちょっと待て。両親も祖父母も血の食事をしていただろう。見たことなり、覗き見るなりしなかったのか」
ヴェルディラは首を横に振った。ファジールは右手で顔を覆い、盛大な溜め息を吐いた。
つまり、いくら本能であろうと、見ていないのでは話しにならない。視界におさめたことがないなら、訊くこともなかった筈だ。
そして、血に依存してしまうのを感覚で判ったとしても、大人からそれなりに教わらなければ判らないこともある。
その一つが妊娠したら、毎日の血の食事が必要だという事実だ。だが、ヴェルディラはファジュラの血を口にしている。
其処でファジールは有り得ない考えに行き着いた。普通ならば有り得ないことなのだが、ヴェルディラとファジュラが吸血族の事情を理解していなかった場合、容易に有り得る事実だったのだ。
つまり、二人は興味本位で互いの血を口にした。
三人はファジールの表情が強ばったことに、首を傾げ、顔を見合わせた。
「……まさか、興味本位で血を口にしたわけではないよな……」
ファジールは探るように、低く唸るような声で問い掛けた。その問いにヴェルディラは小さく頭を揺らし、にっこりと微笑んだ。ファジールは脱力したように、肩を落とした。
「どう言う意味だ」
カイファスは困惑したのか、ヴェルディラを凝視し、そんな言葉が口を吐いた。今のヴェルディラの態度を素直に解釈するなら、ファジールの言葉を肯定したことになる。
人との接触が殆どなかったヴェルディラは、何にでも興味を持った。祖父母に連れられ、黄薔薇の楽師の館をよく訪れ、そのときに友人になったファジュラとよくいけない遊びをしたものだ。
ファジュラは楽師なのだから、手を大切にしなければいけなかったが、如何せん、二人はまだ子供で、良いことも悪いことも、身に付けていかなければならない課程の中にいた。
血に興味を持ったのはほんの偶然だった。二人で何時ものように外で遊び、ちょっとしたことで擦り傷を作ってしまったのだ。
本来なら許されない行為だろう。だが、外界から隔離されたように、家業を修得していた二人は、まだ、その知識が無かったのだ。
確かにある程度、成人に近い年齢だったが、少なくともヴェルディラにその知識はなかった。だから、咄嗟にファジュラの傷口を舐めてしまったのだ。
そのときに感じた体が震えるほどの甘美な感覚を、もう一度味わいたくなった。だから、ファジュラに素直にそのことを口にしたのだ。
ファジュラは少し思案し、二人は互いの血を交換してしまった。
その話しを聞いた面々は、絶句した。確かに家業は大切だろう。芸術関係の一族は保守的であることは知っていたが、そこまで極端なものなのだろうか。
ファジールはこめかみに痛みが走った。教えなさすぎにも程があるだろう。しかも、血に関する知識は吸血族にとって必要不可欠なのだ。
その知識を与えずに、他人と接する危険を、祖父母と両親は考えなかったのだろうか。
「つまり、今、教えたことは、聞いたことがないということか」
疲れたように右手で額を覆い問い掛けてきたファジールに、ヴェルディラは素直に頷いた。
「ファジュラが血を口にしてから、大変なことをしたって気が付いたんだ。で、調べたみたいで」
調べた内容は教えて貰えなかったらしい。そのかわり、毎月、血を口にするために会うことを約束した。何故、教えなかったのかは謎だが、ヴェルディラの様子から、ファジュラの気持ちが判らなくもない。
最初はそんな感じはしなかったのだが、ヴェルディラは無邪気な子供を大人にしたような感じだ。世間を全く知らずに成長し、今に至った感じなのだ。
ファジールは更に頭痛に襲われたのか、近くの椅子に腰掛けた。
「ジゼルの再来か……。勘弁してくれ」
ファジールの呟きに、三人は顔を見合わせた。
「ジゼルさんがそうだったのか」
カイファスは首を傾げつつ問い掛けた。ファジールは視線だけを三人に向け、ジゼルが月華であることを知っていることに思い当たったのか、溜め息と共に頷いた。
「ジゼルが特殊な生まれなのは知っていると思うが、彼奴は隔離されて育っていて、僕のところに嫁いできた後、大変な目にあったんだ」
あまりに世間知らずだったジゼルに、館の者だけではなく、黒の長からレイチェルまで振り回されたのだ。
幸い血に関する知識はもっていたのだが、それ以外の、吸血族なら知っていておかしくない知識が欠落していた。
女性の一人歩きは危険だとか、吸血族が離婚するための知識も全てが中途半端な知識で、間違った覚え方をしているものまであったのだ。
吸血族でなくとも、当たり前に知っていることさえ曖昧だったのだから、当時のファジールの苦労は並ではなかった。
「母上から聞いてはいたけど、そんなに酷かったのか……」
カイファスが聞いたのは、あくまでレイチェルの笑い話だ。
「ある意味、小さな子供より質が悪かったんだ」
本人が聞いたら不貞腐れそうだが、ジゼルと接したことのある者なら、事実であると判る。
「問題は君だな。聞いた話では両親に知らせるわけにはいかないみたいだし、かといって、相手の家庭にも問題があるみたいだしな」
ファジールは手を口元で組むと思案するように架空に視線を走らせた。
「ここで面倒をみてもらう訳にはいかないの」
ルビィは首を傾げながら言った。ファジールはルビィに顔を向ける。
「みる分には問題ない。今更、一人二人増えたところで、どうってことはない。問題は他部族だと言うことだ」
「ヴェルディラは薔薇だ。それで問題解決じゃないのか」
カイファスが事実を口にする。
「その点が問題なんじゃない。実質、実家の家業を支えていたのが彼だ。そうなると、いくら全部族長が認めていても、黙ってはいないだろう」
ファジールはその点が気になったのだ。いくら口を噤み秘密にしたところで、知る者が必ず現れる。それは、諍いの原因になりかねない。
「黒の長が圧力をかけて黙らせるだろうが、彼の両親が騒ぎ立てる輩だった場合、手に負えないだろうな」
ファジールは考えた。各部族の主治医に協力を求めるしかない。ヴェルディラが薔薇であることを説明すれば、彼等は素直に身を引くだろう。
昔からの決まり事で、薔薇に関する情報は主治医達に報告している。薔薇の夫の一人が、黒薔薇の主治医の後継者である事実が、彼等を納得させる最大の理由だった。
何かあれば協力を惜しまないのは、暗黙の了解なのだ。
それに、敢えて薔薇のことを一つの主治医に委ねるのには訳があることも知っていた。確かに複数人に頼む方が安全だろう。しかし、別の観点から見ると、彼等を危険に晒すことになる。
薔薇は特殊な存在故に、実験でもされたら、それこそ目も当てられない。
「全く知らせていない、そうなんだな」
「お祖父様達は両親より、ヴェルディラの安全をとったんだ。不測の事態にならない限り、知らせることはない筈だ」
カイファスはきっぱりと言い切った。ファジールは思案し、ヴェルディラに視線を戻す。
「此処に滞在する間は指示に従って貰う。必要な物があるなら揃えよう。だが、君の安全と諍いを避けるために、なるべく敷地内から出ないでくれ」
ファジールは少し疲れたように、ヴェルディラに釘を差した。
「でもさ。此処の敷地って何処までなんだ」
トゥーイは首を傾げ、問い掛けた。確かに、何処までなのか見当もつかない。
「薔薇が咲いている場所は敷地内だ」
「それは判ってる」
ファジールの言葉にカイファスは即答する。だが、その薔薇の咲いている場所の面積が判らないのだ。
「遠くに見える山の裾辺りまで薔薇があるように見えるんだけど」
ルビィは小首を傾げる。ファジールは「ああ……」と、漸く三人が言わんとしていることを理解した。
「此処の敷地には三カ所離れの館があって、其処が敷地の端になる」
「離れっ」
カイファスは驚いたように小さく叫んだ。
「今は使われていないというか、使える状態じゃなくてな」
ファジールが言うには、完全に物置状態なのだそうだ。では、何故、使えるようにしないのかという疑問が生まれる。
理由は片付けたくても片付けられない、だった。
「どう言うこと」
ルビィの言葉に二人は頷いた。
「僕に価値は全く判らないが、何となく高価なものだとは判るんだ。処分していいものなのか、考え倦ねているうちに、そのままの状態と言うわけだ」
ファジールとアレンにしてみれば、片付けたいのが正直な気持ちだ。段々と人口密度が高くなってきている上に、小さな子供が増え始めている。館内で遊ばせるのは、ある意味危険なのだ。大人が常時側に居られれば問題がないが、そういう訳にもいかない。
「何が置いてあるんだ」
トゥーイは疑問に思い、そう口走った。
「アレンが言うには、一つには大量に楽器やら、楽譜やらが放り込んであるみたいなんだが……」
アレンが言っていたと言うことは、ファジールは目にしていないということになる。詳しく聞いてみると、アレンが幼少の頃に探検していて見つけたらしい。
「それって、つまり」
ルビィは更に首を傾げた。
「離れがあることは知っていたんだが、物置だと言われていたんで、僕は確認したことがないんだ」
確かに、古い物を放り込んである館にわざわざ足は運ばないだろう。
「アレンは探求心の塊だったからな。危険だと言い聞かせてあったんだが、そんなことは無視して、離れの館全部に入り込んだみたいだな」
ある程度成長した頃、アレンがぽつりと言ったのだ。「家は医者の家系だよな」と。
「最初、何を言っているのか判らなくて、詳しく訊いたんだ」
三つの館の内、二つは芸術関係の物置になっているようだと。いくつかの絵画は今、館の中で飾ってあるのだが、無意味に道具が散乱しているらしい。
楽器や楽譜に至っては、興味もなければ扱い方も知らない。
「我が家系は多趣味だったらしくてな。アレンも趣味と実益を兼ねて薔薇の品種改良をしているし、父は何やら書き物をしていた記憶がある」
ただ、ファジールの趣味は医学そのものだったため、何かが増えると言うことは無かったらしい。
「まあ、薔薇が咲いている場所は敷地内だ。その中なら、自由にしていて構わない」
ファジールはヴェルディラに視線を戻す。ヴェルディラはと言えば、今の話しに呆然としていた。主治医と言えば、魔力が強い一族であり、王家の末裔である部族長一族に匹敵する財力を持つことは、流石のヴェルディラも知っていた。
「呆けてるな」
「だね。判らなくもないけど」
カイファスが呆れたように肩を竦め、ルビィが苦笑いしながらも、ヴェルディラの気持ちが理解出来た。
「俺、驚くの疲れたから止めたんだよな。此処の規模って、他部族の主治医宅より大きいしさ」
トゥーイの言葉に、二人は驚いたように一斉に顔を向けた。
「どう言うことっ」
カイファスは思わず問い掛けた。
「最初、気が付かなかったって言うか、行ったことが無かったから知らなかったんだけどさ」
フィネイと結婚の挨拶周りで訪れた白薔薇の主治医の敷地は、黒薔薇の主治医の敷地の足下にも及ばなかったらしい。
「此処の敷地が広すぎんだよ。何処の主治医の館も黒薔薇の主治医の館の敷地に比べたら、狭いんだってさ」
よくよく話しを訊くと、白薔薇の主治医に遠慮なく訊いたと言うから、トゥーイはある意味最強だった。
「流石、トゥーイだ」
カイファスはがくりと、肩を落とした。普通なら、そう言う切り込んだ話しは避ける話題の筈なのだが、トゥーイはそういうところに頓着しない。
理由は簡単で、根掘り葉掘り訊いてくるのは向こうも同じ。ならば、こっちから訊いても文句は言えないだろう。
「自分が普通だとは思ってないけどさ、呆れられると、流石の俺も気分が悪いんだけど」
トゥーイにしてみれば、ごく当たり前のことらしい。
「訊けるのが凄いよ」
ルビィも呆然と呟いた。其処に聞こえてきたのは喉の奥で笑うくぐもった声だった。
「黒薔薇の主治医の敷地が広いのは、多分、レイの影響だろう」
ファジールが笑いながら、そんなことを言った。ファジール自身も、レイに会うまで判らなかったらしい。異常に広いのは、此の場所にレイが滞在していた時期があったかららしかった。
正確には、敷地の半分はレイが所有していたのだ。吸血族から訣別するときに、当時の黒薔薇の主治医が譲り受けた。
その当時から、敷地内は薔薇で埋め尽くされていたらしい。
「敷地の半分は銀狼族のものになるのかな」
ルビィがぽつりと呟いた。
「僕も聞いたんだが、譲ったものに執着心はないから、このままで良いと言われたんだが」
ファジール自身も気が引けたらしい。真の所有者が存在しているのだ。普通なら戻すなり、後継者に引き継ぐなりするのが筋だ。
「まあ、それで、ゼロスに訊いてみたんだが」
ファジールとしては、子孫であり、銀狼族であるゼロスに訊くのが当たり前だと感じた。そのため、ゼロスが何時ものように館を訪れたときに訊いてみたのだが、あからさまに嫌な顔をされたのだ。
そして、言われた一言に、ファジールは固まった。
「彼奴はなんて言ったんだ」
カイファスは予想がつくのか、呆れたように息を吐き出し、問い掛けた。
「そんな、面倒なもの、願い下げだと、きっぱり言い切られた」
カイファスは予想通りの言葉に脱力した。
「流石、ゼロス」
ルビィはゼロスらしい答えに笑うしかない。
「その場にアレンも居たんだが、二人で押し問答していたな」
アレンにしてみれば、半分は銀狼族であるレイの所有地なら、その子孫で代わりとして存在しているゼロスが所有するのが当然だと思ったらしい。
「だがな……」
ゼロスは、こんなに大量の薔薇の世話は願い下げだ、と大きな声で言ったのだ。当然、アレンにしてみれば引き下がるわけにはいかない。
どうあっても、ゼロスに押し付けようとしていた。
「押し付けるって、どう言うことだ」
トゥーイは首を捻った。
「これだけ土地が広大になると、面倒事も多いからな。分割すれば、その分、目が行き届くようになる」
「ゼロスの奴、こう言ったんじゃないか」
カイファスは笑いを押し殺す。
「お前の所は大家族なんだ。何とかなるだろう、みたいなことを言っていただろう」
ファジールは肩を竦める。まさに、カイファスが言った通りだったからだ。そして、良いことを思いついたと言わんばかりに、手を打った。
その様子に、カイファスは嫌な予感がした。この手の予感で間違ったことはない。
「何ならカイファスが引き受けてくれても構わない。レイの血筋だしな」
「丁重にお断りします」
カイファスは黒い笑みを顔に貼り付けた。
「多分、お祖父様も無理だ。同じことを言う筈だからな」
ファジールは落胆したように肩を落とした。何故なら、敷地だけなら部族長の敷地より広いのだ。
跡目を継ぐ者が何より嫌がるのが、この広大すぎる土地なのだ。ファジールも主治医になるのに異論はなかったが、敷地だけは別問題だった。
ヴェルディラは小さく頭を振った。世の中がどうなっているかなど興味がなく、ましてや、他部族ともなれば尚更に知りたいとも思わなかった。
祖父母が《永遠の眠り》に就くと、両親はヴェルディラが他と接触することを極端に嫌った。理由は簡単で、ヴェルディラが描いた作品には父親のサインが書き込まれる。
最初の頃は抵抗したのだが、最終的に諦めてしまったのだ。いくら言ったところで、父親は取り合ってはくれない。だが、最後の抵抗に自分が手掛けた作品には小さなサインを紛れ込ませていた。
目の前に居る者達に見えるのは、心からの幸福だったが、何かしら翳りのようなものが見え隠れしていた。
会話の内容を詳しく知りたいとは思わない。込み入った話しなのは、直ぐに判った。
「大丈夫」
ルビィが心配そうに、ヴェルディラを覗き込んでいた。何時、椅子から立ち上がり、目の前まで来ていたのか。赤い長い髪が、さらりと流れる。
「一遍に聞かされても判らないのは理解出来るけど、生きていくのに必要な知識だよ」
ルビィの言葉に、ヴェルディラは頭を振った。
「……俺、眠るつもりだから……」
ヴェルディラの言葉に、四人は顔を見合わせた。
「昨日、薔薇を受け取ったのは、最後だって思っていたからなんだ」
アレンが小脇に抱えていた薔薇が欲しかった。そう、最後の証にするために。
「僕の経験を言わせて貰って良いかな」
ルビィはかがめていた体を起こし、右手で腰をさすった。あの態勢は体に少しきつかった。
ヴェルディラはルビィを凝視する。ルビィの経験とは、どう言うことなのだろうか。
「長様達はありとあらゆる手を使って、阻止してくるよ。それに、黒の長様の奥さんが黙ってないだろうし、何より、シオンがそうさせないって思うよ」
ルビィは嘆息混じりに言い切った。
「……っ、でもさっ」
ヴェルディラが何を言おうとしているのか、ルビィには判った。昨日のシオンの様子で有り得ないと思っているのだろう。
「言っておくけど、シオンを侮らない方がいいよ。極端な話し、黒の長様より質が悪いんだ」
カイファスは思わず頷いた。ファジールは何とも言えない表情を見せ、トゥーイはと言えば両手を握り締めている。
「確かに情緒不安定だし、特に最近顕著になってきてるけど、それとこれは別問題」
ルビィは淡々と言い切った。
そのとき、ファジールは何かの違和感を感じた。最近、人の出入りが激しいので慣れてしまったのだが、見知った気配ではない。しかも、許可なく入り込んできた。
眉を顰め、ゆっくりと立ち上がったファジールに、四人は訝しんだ。ファジールの表情が険しいからだ。そこに、遠慮がちに扉を開いた者が居る。
黒髪に菫の瞳の少年だ。不安気に父親に視線を向けた。
「お前も感じたのか」
「うん。嫌な気配を纏ってる感じがする」
カイファスとルビィは顔を見合わせた。
「ベンジャミンが感じるなら間違い無い。勘違いだと思いたかったが」
「誰かが来たのか」
カイファスはファジールとベンジャミンに問い掛けた。
「来たな。ただ、無許可だ。この館に許可無く出入り出来るのは君達夫婦と長くらいだ。レイチェルであっても、そんなことはしない」
ファジールは眉間に皺を寄せる。酷い違和感を感じる気配。思い詰めた、何かを抱えている。
探るように歩を進めているのが判った。ファジールは立ち上がると、咄嗟にヴェルディラの腕を取り、背後に庇った。それは、直感に過ぎなかったが、間違えてはいない筈だ。
ゆっくりと開かれた扉の前にいたのは、ヴェルディラがよく見知った者だった。
緩く波打つ長い黒髪、黒曜石の瞳。鋭く睨み付ける瞳は、ヴェルディラを射抜いていた。その瞳の奥に垣間見える感情が、ヴェルディラを竦み上がらせた。
疎まれていることも、嫌われていることも知っていた。だが、ここまであからさまに感情を向けられたことはなかった。
「君は誰だ」
ファジールは少し表情を険しくさせた。問わなくとも判っていたが、確認の意味合いが強かった。ベンジャミンはゆっくりと父親に近付く。
ティファレトはその他大勢は目に入っていなかった。勿論、掛けられた言葉も耳には入っていなかった。
目に入っていたのは、昔から気に食わなかった者。その綺麗な青銀髪も、澄んだ紫水晶を思わせる瞳も、自分が持ち得なかった美しい声も。
何もかもが、許せなかった。理由など無い。強いて言うならば、大切に慈しんでいた存在を奪っていく者だと、無意識に認識していた。
ヴェルディラはゆっくりと後退る。ティファレトが放つ、強烈な拒絶の感情が痛かった。言葉など必要ない。その気配だけで、ティファレトが語っているようだった。
ファジュラに近付く者は許さないのだと、例え友人であろうと、奪う者は許さない。
絵師として研いてきた感性が、全てを読み取ってしまった。
コツンと何かが踵に当たる。ゆっくりと振り返ると其処にあったのは壁。横に視線を走らせると、目に入ったのは窓を覆う厚めのカーテンだった。下の隙間から、白み始めた光が微かに漏れ出ていた。
心を占めたのは許されない感情だった。
何を躊躇う必要があるのだろうか。両親に利用され、ティファレトに憎まれて、自分に存在価値があるのだろうか。
ただ、他人に振り回され、自分の意志も何もかも踏みにじられて、そんな状態で生きていて意味があるのだろうか。
床に広がる強まっていく光が、ヴェルディラを誘惑していた。その強烈な光に身を晒せば全てが終わる。体を焼き尽くし、魂も、ヴェルディラを構成する全てが無に帰す。
ヴェルディラはゆっくりと顔を上げた。
幸い、自分以外は窓から遠い位置にいた。全員がティファレトに注目している。ヴェルディラにまで意識を向けている者はいない。
ヴェルディラは更に強くなった光に、カーテンを掴んだ。その気配に気が付いたのは、まだ、年若い少年。菫の瞳を見開き、鋭い叫び声を上げた。
ヴェルディラは強くカーテンを握る手に力を込めた。そして、耳に入ってくる激しい複数の足音。何もかもが静寂を破っていた。
ヴェルディラは一斉に向けられた視線に悲しく微笑んだ。思いを断ち切るように、手にした物を力任せに開け放った。
†††
黒の長は呆れたように息を吐き出した。目の前に居るのは、蒼の長だった。
「何も、夜明け前ぎりぎりに来る必要はなかったでしょうに」
確かに《眠りの薔薇》を預かりたいとは言ったが、本人が来る必要もない。
「つれないことを」
「私は貴方の恋人ではありませんよ」
「そんなことは言われなくても判っている」
蒼の長は小さく笑った。
「見せて貰えますか」
黒の長は蒼の長を促した。蒼の長は腕に抱えていた物を包んでいた布を解く。
円柱形の硝子ケースに入れられているのは、透明な蕾の一輪の薔薇。
「確かに《眠りの薔薇》に間違えありませんね」
「何を持ってくると思っていたんだ」
黒の長は曖昧な笑みを向けた。やはり、ヴェルディラは《眠りの薔薇》を求めたのだろう。薔薇は眠りを求める者が現れると蕾をつける。
透明ではあっても、うっすら、色がのっている薔薇も存在する。蒼の長が腕に抱える薔薇は確かに透明ではあったが、青の色が微かだが確認出来た。
トゥーイも薔薇を求めた一人だ。
あのときの薔薇は、既に砕け散ったのだと白の長から聞いている。
「どうしてなんでしょうね」
黒の長はいたたまれない思いを、言葉と共に吐き出した。
「幸せになるために生まれてくる筈なのに、不幸を刻みつけるように生を受けるなんて」
蒼の長はその言葉に溜め息を吐いた。薔薇達は何かしらの業を背負い生まれてきている。概ね解決しているが、一人だけ、まだ、完全に解決していない。
シオンが昨晩吐露した言葉は、長達にとって酷く重い内容だった。
そんな話しの最中、いきなり凄い勢いで扉が開いた。二人の長は驚き、音の発生源である扉に反射的に顔を向けた。其処にいたのは、金の髪を振り乱し、荒い息を吐き出しているアリスだった。
誰よりも驚いたのは黒の長だ。アリスがここまで取り乱す姿を見たことがなかった。
「どうしたのです」
「その薔薇を持って、今直ぐにファジールの元へ行ってっ」
二人の長は顔を見合わせた。出掛けるのはいいのだが、今は夜明け前で、下手をしたら、太陽に身を晒すことになる。
「待って下さい。今は夜明け前ですよ」
「間に合うからっ。それよりも、もっと大変なことになるっ。早くしないと、取り返しがつかなくなるっ」
黒の長は困惑した。《眠りの薔薇》を求めたのはアリスだ。蒼の長から、預かるように言われ、その薔薇は今、目の前にある。
自身で出した結論は、蒼薔薇が使うために必要だと言うことだ。ならば、今、黒薔薇の主治医の館で何かが起こっているか、何かが起こる前なのかもしれない。
「太陽が顔を出す前に、私達が辿り着ける保証があるのですね」
黒の長はアリスに真剣な眼差しを向けた。
アリスは頷いた。
「カルヴァスと結界を頼みましたよ。戻って来れませんから」
「判っているわ。早く行ってっ」
黒の長は立ち上がると、蒼の長の腕を掴み、強引に立たせるとベランダへ向かった。
いきなり腕を取られ、蒼の長は困惑した。
「ヴェルディラが危ないようです。一か八か、主治医の館に向かいますよ」
「待て。空が白み始めているんだぞ」
「判っていますよ。それでも、行くんです」
黒の長はベランダの窓を開け放ち、蒼の長の腕を取ったまま床を軽く蹴った。
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