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Ⅹ 双月の奏
05 第四楽章
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黄の長に誘われ、黄薔薇の部族長の館を訪れたファジュラとアーネストは、直ぐに執務室と思しき部屋に通された。
ファジュラは部族長の館を訪れたことはない。強いて用事があったわけでも、必要に駆られる用件もなかったのだから来ることもなかった。
「お前は何故、息子を連れてきたのか判っているな」
黄の長はアーネストにそう話しを切り出した。アーネストは頷く。
「覚えているか。お前の願いを受け入れるための条件を」
「ファジュラが身を固めるのを見届けてからだと」
黄の長は目を細めた。
「お前達の一族は特殊だ。今でこそただの楽師でしかないが、宮廷楽師の流れをくんでいる。血筋を絶やすことは、一つの歴史を終わらせることになる」
「判っています。だから、歪んでいると判っていて、結婚を受け入れました。何時かは歪みが正しい方向に修正しようとすることは判っていましたし、彼女が歪みの中心になることも判っていました」
アーネストは悲し気に淡々とした口調で、言葉を紡いだ。
「お前達だけではないのだよ。歪みを修正したのは黒薔薇の主治医だ。それまでは、当たり前だったのだからな」
黄の長は深い溜め息を吐いた。
ファジュラは胸騒ぎが更に強くなった。二人の話しの内容について行けない。口元を引き結び、両手を強く握り締めた。
「ですが、ファジュラには婚約者はおろか、候補になる女性はいない筈」
黄の長は架空に視線を走らせた。目を閉じれば、一つの姿が思い浮かぶ。
綺麗な青銀髪と紫水晶の瞳。
銀狼の始祖は間違ったことは言わない。何より、薔薇達が間違える筈がない。特にシオンは、誰よりも聡く、誰よりも恐ろしい。
強い部分と、弱い部分を合わせ持ち、澄んだ琥珀の瞳で、全てを見透かしている。
「詳しい話しは出来ない。それは、許されていないからな。明日、お前は詳しい事を訊くことになる」
黄の長は一拍後、ファジュラに視線を向けた。
「どう言うことですか」
アーネストは困惑した。黄の長だけではない。五部族長皆が、意味不明なことを言っているように感じた。特に黒の長がティファレトに問い掛けていた言葉が気になる。
「……何かがあったのですか」
アーネストは少しだけ声音が低くなった。黄の長は軽く目を瞑り、直ぐにアーネストを凝視した。その瞳に宿るのは、複雑な感情だった。
「あったが、一つだけ告げておく。お前達の一族は少し事情が違うな。花嫁の声は夫となる者の奏でる音に合わねばならない。だが、ファジュラ、お前の相手はそんな上辺だけの存在ではない。声が合うなどと言う選択では選ばれない」
「判らないのですが……」
アーネストは完全に混乱していた。
「全部族長公認で決定済みだ。だが、少しばかり普通ではない」
ファジュラは固まった。自分の預かり知らないところで話が進んでいる。渦中にいる筈の本人が、完全に蚊帳の外に追いやられている。
納得出来ない上に、反論も出来ない。何故なら、何一つ判らないからだ。
「……それでは、実質、婚約者がいると言うことですか」
アーネストは呆然と呟く。
「居るという言葉は不適切だな。今日、現れた、と言った方がいいだろう」
黄の長の言葉は難解だった。事情が判っていないのだから、当たり前と言えば当たり前だった。
「明日、黒薔薇に行けば、謎は解けますか」
ファジュラは静かに問い掛けた。元々、感情を表に表すことが苦手だった。音楽にどっぷりと浸かった状態で育ったせいなのかもしれない。
「判る。もしかしたら、当分、帰して貰えないかもしれないからな。覚悟して向かうことだ。その前に、話して置かなくてはいけないことがある」
アーネストは無表情になった。成人しているファジュラに、何かを求める気はなかった。ただ、全てを押し付けることになる。
「決心は鈍らないようだからな。不本意だが、認めないわけにはいかなくなった」
黄の長は諦めたような声音で言葉を発した。
「昔ならば認めないが、今は違う。吸血族が犯し続けた過ちが全ての原因だからな」
黄の長は眉を顰めた。
「……過ち」
ファジュラは小さく呟く。それに気が付いた黄の長は頷いた。
「お前は詳しく知ることになるだろう」
ファジュラは目を瞬かせた。やはり、理解出来ない。
「長様、認めて貰えると」
「認めよう。だが、先も言ったように、ファジュラの婚儀が決まってからだ。これだけは譲れない」
「判っています」
「もう一つの願いも、認めるとしよう。お前の妻を自由にすると言う、その願いを」
黄の長の言葉に、アーネストは微笑んだ。ファジュラは驚き、アーネストを凝視した。
「だが、そうなれば、お前達の一族から離れることになる。本人が納得するのか」
「彼女は、我が一族から離れるべきです。今は、周りが見えていない。誤った想いに身を焦がしていることにも気が付いていません」
「お前は、納得しているのか」
黄の長は息を吐き出す。
「私は幸せでしたよ。息子も授かりましたし、これ以上を望むのは過ぎたことです」
アーネストは穏やかに言ってのけた。
「言っておくが、元々、成就することのなかった想いだぞ」
黄の長は確認するように言ってきた。
「それでも、彼女はその想いを終わらせる前に、私の元に嫁いでしまったのです。生まれた息子を代わりにするほど、強い想いだったのですから」
「判っていたのか」
「ええ。私は愛していますから。だからこそ、はっきりと認識出来ました」
ファジュラはただ、驚くことしか出来なかった。確かに両親は特別、仲が良かったようには見えなかったが、悪くもなかった筈だ。
ティファレトがやたらにファジュラに干渉してきたが、アーネストはやんわりと窘めていた。それに、不自然な感じを受けなかった。
「ファジュラ」
いきなり名を呼ばれ、ファジュラは慌てて黄の長に顔を向けた。その表情に黄の長は苦笑いを浮かべる。
「判らないだろう」
そう問い掛けられ、素直に頷くしかなかった。
「お前の婚姻が決まったら、私は眠りに就きます」
アーネストは静かで穏やかな瞳で、息子を見た。ファジュラは目を見開く。
「母さんもですか」
「私だけです。彼女は新たな相手を見つけることになるでしょう」
「じゃあ、さっきの話しはっ」
ティファレトが一族から離れると言うことの意味を、ファジュラは漸く理解する。
吸血族は血に縛られる。どちらかが眠りに就けば、必然的に眠りに就かなかった方は相手を探さなくてはいけない。
「大丈夫ですよ。女性は大切にされます。相手などすぐに見つかります。ですが、彼女には私達の一族から離れて貰いたい。それはお前のためでもあるのですから」
アーネストは淡々と言葉を紡ぐ。
「直ぐに互いの血を絶つつもりか」
黄の長は確認した。もし、絶つつもりなら、許可を与えなければいけない。
「身の回りの整理が着くまで、彼女には告げません」
アーネストは感情のこもらない固い声を発した。
「待って下さいっ」
ファジュラは珍しく慌てた。黄の長が言っていた説明が今のことであるのは判るが、あまりにも唐突すぎる。理解は出来ても、納得が出来ない。
「私には、いきなりすぎてついて行けませんっ」
「いきなりではありません。前から、お願いしていたのですよ」
アーネストは苦笑いを浮かべる。ファジュラは呆然となった。前からとは、何時頃からなのだろうか。
「お前が成人して直ぐ、申請したのですよ。一人で眠りに就くことを」
ファジュラは目の前が暗くなった。
代々、楽師の家系であるファジュラの一族は、ピアノを習得する。何故なのかは判らないが、ファジュラが習得したのはヴァイオリンだ。だから、少しずつでもアーネストから習うつもりでいたのだ。
それが、叶わなくなる。楽譜は読めるし、習得に必要な書物なども確かにあるが、生で聞く音と技術はかけがえのないものだ。それが奪われてしまう。
「私は父さんからピアノを習うつもりだったんですっ」
ファジュラは切羽詰まったように訴えた。
「お前にはヴァイオリンがあるでしょう」
アーネストは諭すように呟いた。
「我が一族が扱う楽器はピアノでしょうっ。もし、幸運にも子供が授かったなら、ヴァイオリンではなくピアノを習得させたいんですっ」
ファジュラは自分ではなく、次の代のことを考えていた。一族で極めた技術を、ファジュラの代で台無しにするつもりはないのだ。
両親が眠りに就くのは、まだ先だと思っていた。ティファレトが異常にヴァイオリンに拘るので、言い出せずにいただけなのだ。
それを奪われる恐怖に、ファジュラはアーネストに訴えるように小さく叫んだ。
アーネストは眉を顰める。
「何故、息子にヴァイオリンを奨めたんだ」
黄の長は疑問に思っていたことを口に出した。本来なら、親と同じ楽器を扱う。代々、そうしてきたのだから、ごく当たり前に、ファジュラが扱う楽器もピアノだった筈なのだ。
アーネストは黄の長に寂し気な表情を見せた。黄の長は眉間に皺を寄せる。
「……そこまで、代わりにしたのか……。一族の技術を廃れさせるかもしれないと言うのに……」
「音楽は楽器で決まるのではありませんから」
アーネストは瞳を伏せた。零れ落ちた言葉に宿っていたのは、諦めの音。
ファジュラは更にきつく両手を握り締めた。そして、認めたくなかった、見て見ぬ振りをしていた事実を認める決心がついた。
気が付いたのはほんのちょっとの違和感だった。異常に干渉してくる母親に、暇さえあれば祖父母がファジュラを連れ出していたことに、疑問がなかったわけではない。
その理由に、ファジュラの心が冷めていく。
黒の長が言っていた真の意味を、ファジュラは受け入れる。ティファレトがファジュラに求めていたものは、息子としての愛情ではない。
「……私は、代わりですか……」
低く呟かれた言葉に、黄の長とアーネストは息をのむ。
「……母の勝手な感情で、本来、与えられる筈だったものを、奪われたのですか……」
表情を無くした顔に、ファジュラの感情は伺えない。
「……ファジュラ」
アーネストは小さく名を呼ぶ。ファジュラは鋭い視線をアーネストに向けた。
「私としてではなく、別の誰かの代わりに、育てたということですか」
冷たくなるくらい、ファジュラの気配は凍えていた。元々、感情を露わにするタイプではない。
「それは、仕方のなかったことだろう」
黄の長はただ、ファジュラを見詰めた。
「全ては吸血族の過ちだ。その全てが、お前の親の代で顕著になった。歪み、修正するためには、絶対的に必要な存在が欠けていたのだ」
黄の長の言葉に、二人は口を噤んだ。
「お前とは違うが、似たような思いをした者を知っている。拒絶され、否定され、今も傷ついたままだ」
黄の長が思い出していたのはシオンとエンヴィ。エンヴィは結果的に両親を拒絶したのは本人だ。だが、シオンは違う。
エンヴィは少なくとも、ある一定の年齢まで疑うことのない愛情の中にいた。
シオンは誕生したときからだったようだ。虐待の事実を知ったファジールが動いたのだ。両親を問い詰めたのだが、答えは得られなかった。だから、古株の使用人に直接話しを聞いたのだ。
シオンを実質育てたのは、その古株の使用人だった。シオンの父方の祖父母は既に眠りに就いており、母方の祖父母は少し離れた場所に住んでいた。
そのため、母方の祖父母は虐待の事実を全く知らないのだ。
「少なくともお前は愛されていただろう。その愛情の種類は別にしても、苦痛を与えられたことはなかっただろう。確かに、間違えた感情であることは否定しない。与えられる筈であったものを奪われたのも事実かもしれないが、幼子に必要だったものは与えられていたのだからな」
黄の長は憂いを帯びた表情を見せた。
薔薇の関係者で、まともな者は少ない。何かしらの傷を負っている。それでも、幸せそうにしている。そう、たった一人を除いては。
思い浮かぶ、独特の金の巻き髪と、硝子のように澄んだ琥珀の瞳。
誰よりも鋭い感性と洞察力。悟られないように、先を読み、そして今、崩れていこうとしている。
「お前の父親は眠ることで、お前と母親を救おうと考えた。夫婦となった者は、余ほどでなければ離縁出来ない。それは、血で縛られているからだ。それをしようとするなら、眠りに就くしかない。《太陽の審判》で完全に消え去ることも方法の一つだが、認めることはないからな」
黄の長はファジュラに諭すように語り掛ける。納得出来ないのは理解出来るが、此処で取り乱されては、迷惑を掛けることになる。
「お前にはお前がしなければいけない役目がある。その役目を知ることも、必要なことだ」
黄の長はすっと目を細めた。
「今日はこのまま、私の館で休むがいい。お前は母親から少し離れた方がいい」
ファジュラは素直に頷いた。今、ティファレトの顔を見ることは避けたかった。黄の長が扉の横に静かに佇んでいた存在に声を掛ける。そこに居たのは黄の長の執事。
「部屋へ。明日、陽が隠れたら起こし、送り出すように」
執事は、御意と頭を垂れ、ファジュラを促した。
ファジュラが部屋から出て行くそのとき、黄の長は思い出したように声を掛けた。
「青薔薇は受け取ったのか」
ファジュラは目を見開き、固まった。アーネストは驚いたように、ファジュラを凝視する。
「あの薔薇は特別なものだ。黒薔薇の主治医の後継者であり、黄薔薇の夫が品種改良した。誰から受け取った」
その問いに、ファジュラは息をのむ。青薔薇が黄薔薇の夫が作り上げたものならば、あそこに置いたのは誰なのか。
だが、今までの経験で、控え室の前に置くのはヴェルディラだけだ。
ファジュラは息を吐き出し、一度、瞳を閉じると、黄の長に視線を戻した。
「直接は受け取っていません。何時ものように控え室の扉の前に置かれていました」
「誰であるか、判らないと」
黄の長の言葉に、ファジュラは首を振った。
「どのような経緯で手に入れたのかは、本人でないので判りませんが、扉の前に置くのはヴェルディラだけです」
黄の長は納得したように頷いた。
「休むんだ」
ファジュラは小さく頭を下げると、執事の後に続き静かに扉を閉め、部屋を後にした。
アーネストは疑問を顔に貼り付けた。
「判らないようだな」
黄の長は可笑しそうに笑った。
「確かに、公演の度に青薔薇は届いていましたが」
それはあくまで人工的に着色されたものだ。何より、ファジュラが贈り主を認識していたことに驚いていた。
「お前には伝えるべきかもしれないな。ただ、此処での話しは他言無用だ。心の中に留めておくことが条件になる」
黄の長は真剣な表情を見せ、きっぱりと言い切った。
「どう言うことでしょうか」
アーネストは首を捻る。
「ファジュラの相手は普通の者ではない。薔薇、と言う存在だ」
アーネストは驚愕に目を見開いた。
「間違いないのですか」
「白薔薇が現れたとき、薔薇の夫婦達は過去を知るために、銀狼の始祖を目覚めさせた」
黄の長は淡々と言葉を紡ぐ。
「その始祖から聞いた話しの中に、過去の薔薇の夫婦と、今回、現れる薔薇の夫婦の名前が全く同じであると言う事実を聞いたのだ」
そして、今回、シオンとアレンが連れてきたのはヴェルディラだった。そして、シオンは訊いたのだ。
相手の名前はファジュラなのかと。
「今の吸血族に、ヴェルディラとファジュラと言う名を持つのは一人だけだ」
「……ヴェルディラ」
アーネストはその名前を、存在を知っていた。両親が懇意にしていた蒼薔薇の部族の絵師の孫息子だ。男の子だったが、愛らしい少年だった。
「どう言った理由でそうなったのかは知らないが、間違えなく、ファジュラの相手はヴェルディラだ。その姿を、私は目にした」
そこには全部族長が揃っており、蒼の長が自部族の者を間違える筈はない。
「どういった方法で変化するのですか」
アーネストは疑問を投げかけた。黄の長はその質問に苦笑いを浮かべる。シオンが言ったように、罪による産物に違いない。
だが、その罪を犯し、尚且つ、偶然と運命に導かれた者のみ、変化を担う。
「何故、変化する方法を公にしないと思う」
黄の長は逆に質問を返した。アーネストは目を瞬かせる。
「変化は罪だ。罪であり、拘束であり、また、体の変化は唯一意外は害を為す」
黄の長は鋭い視線を投げかけた。アーネストは困惑する。
「吸血族は何によって束縛される」
アーネストは小さく息をのんだ。
「お前の中にあることが答えだ。だが、問題はそうなった者は、変化の切欠になった者以外を受け付けないことだ」
黄の長は息を吐き出す。
「ヴェルディラの変化が真にファジュラであるなら、ヴェルディラのためであり、吸血族のために、二人には一緒になってもらう」
親の意見や勝手な思惑など、この際は無用なのだと、きっぱり言い切った。
「ですが、互いの気持ちはどうなのです」
アーネストは更なる疑問を口に出す。
「ファジュラの気持ちは判らないが、ヴェルディラはファジュラを好いていることは確かだ」
きっぱりと言い切った黄の長に、父親は目を見開いた。
「変化に必要なものは、縛り付ける絶対のものと想いだそうだ」
黄の長はそう、言葉を続けた。
「……想い」
「そうだ。ただ、命を取り込めば良いというわけではない。二つの絶対的要素が必要なのだ」
血を取り込めば変化するというわけではない。気持ちが伴って初めて、満月の魔力で女性になれるのだ。だからこそ、神秘の存在に違いない。
アーネストは息を吐き出した。何故、黄の長が願いを聞き入れてくれたのか、漠然と理解した。
ファジュラの相手が、噂の的である薔薇ならば、婚姻が破談になることはないだろう。今の話しで、それは確信ですらある。
「……相手が薔薇であるから、聞き入れてくれたのですね」
「それもあるが、それだけではない」
アーネストは今の言葉に困惑した。他に理由があるのだろうか。
「私はファジュラに言っただろう。親の代が一番、歪んでいると」
黄の長は架空を見詰め、遠い目をした。
「断定は出来ないが、薔薇が現れる前兆だったのではないだろうか」
最初こそ、女性達は受け入れていただろう。吸血族の現状を理解し、自分達の役割を判っていたに違いない。
だが、月日を重ね、必要以上に守られ育てられた女性達は、吸血族が置かれている現状を理解出来なくなっていた。
「薔薇は修正するための存在なのだそうだ。本来なら、彼等は最初に現れた彼等だけで、その後に続く者は現れる必要などなかった筈なのだ」
黄の長は居たたまれない思いに苛まれた。
薔薇は苦痛の中で現れる。決して、幸せだけを感じている存在ではない。
それと同様に、彼等の両親も又、苦痛を強いられた存在だ。女性の出生率が最も低かった時代だ。其れだけに、立場を忘れた女性達にとって、苦痛でしか無かったのだろう。
気が付く切欠を与えたのが、薔薇に一番近く、そして、一番憂いていた者だ。医者は一番、吸血族の現状を理解していた。
どの部族の主治医も、多かれ少なかれ絶望を抱いていた。生まれてくるのは男児ばかりで、女児は稀にしか生まれてこない。
そうなれば、当然、女児に与えられるのは生まれながらの義務だ。ただ、血筋を残すためだけの存在。
心など、必要ではないとでも言うような対応。幾ら、大切にされようと、強いるのは明らかに心に暴力を与える無体だ。
「確かに女性は苦痛を強いられただろうが、その夫となった者も、ある意味、不幸だった筈だ」
幼い時から家族ぐるみで交流を深め、自然に惹かれ合うように仕向けられたのなら、まだ、良かっただろう。だが、アーネストとティファレトは違っていた。
「お前達は特殊すぎた。お前の一族が特殊であったせいなのだろうが、それでも、二人には無理を強いた」
「……そんなことは、ありませんよ」
アーネストは自虐的な笑みを見せた。ティファレトは確かに、心を無視された形になるのかもしれない。だが、アーネストは違っていたのだ。
「どう言うことだ」
「私はあの当時も、そして今も、彼女を愛しています」
その顔に刻まれたのは、表現出来ない感情だった。悲しいのか、嬉しいのか、判断出来ない、複雑な表情だった。
†††
ティファレトは唇を噛み締めた。目の前で交わされた会話に、夫であるアーネストが黄の長に何を願っていたのか。
誰も居なくなった室内に、遠く聞こえてくるざわめきに、神経が苛立つ。
黒の長が痛烈に言い放った言葉が、耳の奥に残っていた。ファジュラを誰かの代わりにしたつもりなどないのだ。そう、意識しては。
ただ、ファジュラを見ていると、過去、愛した者を思い出す。否、正確には過去などではなく、今も心は彼を求めている。
求めてはいるが、それを得ることは無理であることも判っているのだ。
ファジュラが誰かと会話するだけで苛立った。あの姿が、否が応でも彼の者を思い出させる。
ティファレトが若い頃、恋い慕ったのはアーネストの従兄弟。そして、ファジュラは実父ではなく、従兄弟であるティファレトの想い人の姿を写し取ってしまった。
従兄弟なのだから、当然、アーネストは彼と面影が似通っている。だが、ファジュラは有り得ないくらい、親子と言っても疑わないほどに、彼に似ていたのだ。
指摘されるまで、見て見ぬ振りを決め込んでいた自分を省みなかった。
五部族長は皆、知っているような表情だった。何より、黒の長は微笑んではいたが、瞳は一つも笑ってはいなかったのだ。凍てつくような、氷のように冷たい光を宿していた。
母親としての矜持は持っている。一方、焦がれてはいけない想いも確かに持っていたのだ。
「……私は……」
ティファレトは途方に暮れた。夫と息子は黄の長と共に行ってしまった。本来なら、一緒に行ってもおかしくはない。
黄の長は何も言わなかったが、黒の長がティファレトの足を止めさせた。言われた言葉と、小さく囁かれた言葉。
五部族長の中で一番恐ろしく、何もかも見透かすように射抜いた瞳に、ティファレトは動くことが出来なかった。
やんわりと、黒の長はティファレトに何かを促したのだ。見ていなかったものを、見るようにと。
ティファレトにしてみれば、きちんと物事を見ているつもりだった。だが、何かが、ティファレトの中の狂気を助長する。それが、若いときからあった、淡い恋心だ。
「……あの人は、何を願ったのかしら……」
このとき、漸くティファレトはアーネストの望んでいた願いに引っかかるものを感じた。
アーネストは余程でなければ、ティファレトが嫌がることを求めることはない。何時も、一歩引いた場所に居り、決して前に出ようとはしない。
物足りなく感じることもあったが、取り立てて気にしたこともなかった。何より、アーネストはティファレトに隠し事をしない。元々が穏やかで、強制するような言動も、行動も取ることはなかった。なのに、引っ掛かった。黄の長は前々からアーネストが願い出ていたような口振りだった。穏やかに微笑んだその姿に、何かを感じたわけではない。
次々と投げつけられる言葉に対応するだけで精一杯だった。
何故、こんなことになったのか。芸術家の一族はある意味、他の家業よりも才能がものをいう。引き付けるだけの何かを持っていなければ潰されてしまう。
多少のリスクを背負っても、薔薇の夫婦と銀狼の始祖を招待し、了承してくれたことに有頂天になっていたことは事実だ。
黒の長がはっきりと言い切った言葉を、ティファレトは否定出来なかった。確かにファジュラに彼の人の面影を重ねていた。
過ぎた態度を取っていたのも事実だったのだろう。それでも、こんな現実を望んでいたわけではない。
ファジュラの結婚を望んでいるのは本心だ。だが、花嫁になる者が現れたら、平常心でいられるだろうか。
「……私はっ」
ティファレトは唇を噛み絞め、きつく目を瞑った。両手で顔を覆い、口から零れて来るのは苦痛を宿す嗚咽だけだった。
ファジュラは部族長の館を訪れたことはない。強いて用事があったわけでも、必要に駆られる用件もなかったのだから来ることもなかった。
「お前は何故、息子を連れてきたのか判っているな」
黄の長はアーネストにそう話しを切り出した。アーネストは頷く。
「覚えているか。お前の願いを受け入れるための条件を」
「ファジュラが身を固めるのを見届けてからだと」
黄の長は目を細めた。
「お前達の一族は特殊だ。今でこそただの楽師でしかないが、宮廷楽師の流れをくんでいる。血筋を絶やすことは、一つの歴史を終わらせることになる」
「判っています。だから、歪んでいると判っていて、結婚を受け入れました。何時かは歪みが正しい方向に修正しようとすることは判っていましたし、彼女が歪みの中心になることも判っていました」
アーネストは悲し気に淡々とした口調で、言葉を紡いだ。
「お前達だけではないのだよ。歪みを修正したのは黒薔薇の主治医だ。それまでは、当たり前だったのだからな」
黄の長は深い溜め息を吐いた。
ファジュラは胸騒ぎが更に強くなった。二人の話しの内容について行けない。口元を引き結び、両手を強く握り締めた。
「ですが、ファジュラには婚約者はおろか、候補になる女性はいない筈」
黄の長は架空に視線を走らせた。目を閉じれば、一つの姿が思い浮かぶ。
綺麗な青銀髪と紫水晶の瞳。
銀狼の始祖は間違ったことは言わない。何より、薔薇達が間違える筈がない。特にシオンは、誰よりも聡く、誰よりも恐ろしい。
強い部分と、弱い部分を合わせ持ち、澄んだ琥珀の瞳で、全てを見透かしている。
「詳しい話しは出来ない。それは、許されていないからな。明日、お前は詳しい事を訊くことになる」
黄の長は一拍後、ファジュラに視線を向けた。
「どう言うことですか」
アーネストは困惑した。黄の長だけではない。五部族長皆が、意味不明なことを言っているように感じた。特に黒の長がティファレトに問い掛けていた言葉が気になる。
「……何かがあったのですか」
アーネストは少しだけ声音が低くなった。黄の長は軽く目を瞑り、直ぐにアーネストを凝視した。その瞳に宿るのは、複雑な感情だった。
「あったが、一つだけ告げておく。お前達の一族は少し事情が違うな。花嫁の声は夫となる者の奏でる音に合わねばならない。だが、ファジュラ、お前の相手はそんな上辺だけの存在ではない。声が合うなどと言う選択では選ばれない」
「判らないのですが……」
アーネストは完全に混乱していた。
「全部族長公認で決定済みだ。だが、少しばかり普通ではない」
ファジュラは固まった。自分の預かり知らないところで話が進んでいる。渦中にいる筈の本人が、完全に蚊帳の外に追いやられている。
納得出来ない上に、反論も出来ない。何故なら、何一つ判らないからだ。
「……それでは、実質、婚約者がいると言うことですか」
アーネストは呆然と呟く。
「居るという言葉は不適切だな。今日、現れた、と言った方がいいだろう」
黄の長の言葉は難解だった。事情が判っていないのだから、当たり前と言えば当たり前だった。
「明日、黒薔薇に行けば、謎は解けますか」
ファジュラは静かに問い掛けた。元々、感情を表に表すことが苦手だった。音楽にどっぷりと浸かった状態で育ったせいなのかもしれない。
「判る。もしかしたら、当分、帰して貰えないかもしれないからな。覚悟して向かうことだ。その前に、話して置かなくてはいけないことがある」
アーネストは無表情になった。成人しているファジュラに、何かを求める気はなかった。ただ、全てを押し付けることになる。
「決心は鈍らないようだからな。不本意だが、認めないわけにはいかなくなった」
黄の長は諦めたような声音で言葉を発した。
「昔ならば認めないが、今は違う。吸血族が犯し続けた過ちが全ての原因だからな」
黄の長は眉を顰めた。
「……過ち」
ファジュラは小さく呟く。それに気が付いた黄の長は頷いた。
「お前は詳しく知ることになるだろう」
ファジュラは目を瞬かせた。やはり、理解出来ない。
「長様、認めて貰えると」
「認めよう。だが、先も言ったように、ファジュラの婚儀が決まってからだ。これだけは譲れない」
「判っています」
「もう一つの願いも、認めるとしよう。お前の妻を自由にすると言う、その願いを」
黄の長の言葉に、アーネストは微笑んだ。ファジュラは驚き、アーネストを凝視した。
「だが、そうなれば、お前達の一族から離れることになる。本人が納得するのか」
「彼女は、我が一族から離れるべきです。今は、周りが見えていない。誤った想いに身を焦がしていることにも気が付いていません」
「お前は、納得しているのか」
黄の長は息を吐き出す。
「私は幸せでしたよ。息子も授かりましたし、これ以上を望むのは過ぎたことです」
アーネストは穏やかに言ってのけた。
「言っておくが、元々、成就することのなかった想いだぞ」
黄の長は確認するように言ってきた。
「それでも、彼女はその想いを終わらせる前に、私の元に嫁いでしまったのです。生まれた息子を代わりにするほど、強い想いだったのですから」
「判っていたのか」
「ええ。私は愛していますから。だからこそ、はっきりと認識出来ました」
ファジュラはただ、驚くことしか出来なかった。確かに両親は特別、仲が良かったようには見えなかったが、悪くもなかった筈だ。
ティファレトがやたらにファジュラに干渉してきたが、アーネストはやんわりと窘めていた。それに、不自然な感じを受けなかった。
「ファジュラ」
いきなり名を呼ばれ、ファジュラは慌てて黄の長に顔を向けた。その表情に黄の長は苦笑いを浮かべる。
「判らないだろう」
そう問い掛けられ、素直に頷くしかなかった。
「お前の婚姻が決まったら、私は眠りに就きます」
アーネストは静かで穏やかな瞳で、息子を見た。ファジュラは目を見開く。
「母さんもですか」
「私だけです。彼女は新たな相手を見つけることになるでしょう」
「じゃあ、さっきの話しはっ」
ティファレトが一族から離れると言うことの意味を、ファジュラは漸く理解する。
吸血族は血に縛られる。どちらかが眠りに就けば、必然的に眠りに就かなかった方は相手を探さなくてはいけない。
「大丈夫ですよ。女性は大切にされます。相手などすぐに見つかります。ですが、彼女には私達の一族から離れて貰いたい。それはお前のためでもあるのですから」
アーネストは淡々と言葉を紡ぐ。
「直ぐに互いの血を絶つつもりか」
黄の長は確認した。もし、絶つつもりなら、許可を与えなければいけない。
「身の回りの整理が着くまで、彼女には告げません」
アーネストは感情のこもらない固い声を発した。
「待って下さいっ」
ファジュラは珍しく慌てた。黄の長が言っていた説明が今のことであるのは判るが、あまりにも唐突すぎる。理解は出来ても、納得が出来ない。
「私には、いきなりすぎてついて行けませんっ」
「いきなりではありません。前から、お願いしていたのですよ」
アーネストは苦笑いを浮かべる。ファジュラは呆然となった。前からとは、何時頃からなのだろうか。
「お前が成人して直ぐ、申請したのですよ。一人で眠りに就くことを」
ファジュラは目の前が暗くなった。
代々、楽師の家系であるファジュラの一族は、ピアノを習得する。何故なのかは判らないが、ファジュラが習得したのはヴァイオリンだ。だから、少しずつでもアーネストから習うつもりでいたのだ。
それが、叶わなくなる。楽譜は読めるし、習得に必要な書物なども確かにあるが、生で聞く音と技術はかけがえのないものだ。それが奪われてしまう。
「私は父さんからピアノを習うつもりだったんですっ」
ファジュラは切羽詰まったように訴えた。
「お前にはヴァイオリンがあるでしょう」
アーネストは諭すように呟いた。
「我が一族が扱う楽器はピアノでしょうっ。もし、幸運にも子供が授かったなら、ヴァイオリンではなくピアノを習得させたいんですっ」
ファジュラは自分ではなく、次の代のことを考えていた。一族で極めた技術を、ファジュラの代で台無しにするつもりはないのだ。
両親が眠りに就くのは、まだ先だと思っていた。ティファレトが異常にヴァイオリンに拘るので、言い出せずにいただけなのだ。
それを奪われる恐怖に、ファジュラはアーネストに訴えるように小さく叫んだ。
アーネストは眉を顰める。
「何故、息子にヴァイオリンを奨めたんだ」
黄の長は疑問に思っていたことを口に出した。本来なら、親と同じ楽器を扱う。代々、そうしてきたのだから、ごく当たり前に、ファジュラが扱う楽器もピアノだった筈なのだ。
アーネストは黄の長に寂し気な表情を見せた。黄の長は眉間に皺を寄せる。
「……そこまで、代わりにしたのか……。一族の技術を廃れさせるかもしれないと言うのに……」
「音楽は楽器で決まるのではありませんから」
アーネストは瞳を伏せた。零れ落ちた言葉に宿っていたのは、諦めの音。
ファジュラは更にきつく両手を握り締めた。そして、認めたくなかった、見て見ぬ振りをしていた事実を認める決心がついた。
気が付いたのはほんのちょっとの違和感だった。異常に干渉してくる母親に、暇さえあれば祖父母がファジュラを連れ出していたことに、疑問がなかったわけではない。
その理由に、ファジュラの心が冷めていく。
黒の長が言っていた真の意味を、ファジュラは受け入れる。ティファレトがファジュラに求めていたものは、息子としての愛情ではない。
「……私は、代わりですか……」
低く呟かれた言葉に、黄の長とアーネストは息をのむ。
「……母の勝手な感情で、本来、与えられる筈だったものを、奪われたのですか……」
表情を無くした顔に、ファジュラの感情は伺えない。
「……ファジュラ」
アーネストは小さく名を呼ぶ。ファジュラは鋭い視線をアーネストに向けた。
「私としてではなく、別の誰かの代わりに、育てたということですか」
冷たくなるくらい、ファジュラの気配は凍えていた。元々、感情を露わにするタイプではない。
「それは、仕方のなかったことだろう」
黄の長はただ、ファジュラを見詰めた。
「全ては吸血族の過ちだ。その全てが、お前の親の代で顕著になった。歪み、修正するためには、絶対的に必要な存在が欠けていたのだ」
黄の長の言葉に、二人は口を噤んだ。
「お前とは違うが、似たような思いをした者を知っている。拒絶され、否定され、今も傷ついたままだ」
黄の長が思い出していたのはシオンとエンヴィ。エンヴィは結果的に両親を拒絶したのは本人だ。だが、シオンは違う。
エンヴィは少なくとも、ある一定の年齢まで疑うことのない愛情の中にいた。
シオンは誕生したときからだったようだ。虐待の事実を知ったファジールが動いたのだ。両親を問い詰めたのだが、答えは得られなかった。だから、古株の使用人に直接話しを聞いたのだ。
シオンを実質育てたのは、その古株の使用人だった。シオンの父方の祖父母は既に眠りに就いており、母方の祖父母は少し離れた場所に住んでいた。
そのため、母方の祖父母は虐待の事実を全く知らないのだ。
「少なくともお前は愛されていただろう。その愛情の種類は別にしても、苦痛を与えられたことはなかっただろう。確かに、間違えた感情であることは否定しない。与えられる筈であったものを奪われたのも事実かもしれないが、幼子に必要だったものは与えられていたのだからな」
黄の長は憂いを帯びた表情を見せた。
薔薇の関係者で、まともな者は少ない。何かしらの傷を負っている。それでも、幸せそうにしている。そう、たった一人を除いては。
思い浮かぶ、独特の金の巻き髪と、硝子のように澄んだ琥珀の瞳。
誰よりも鋭い感性と洞察力。悟られないように、先を読み、そして今、崩れていこうとしている。
「お前の父親は眠ることで、お前と母親を救おうと考えた。夫婦となった者は、余ほどでなければ離縁出来ない。それは、血で縛られているからだ。それをしようとするなら、眠りに就くしかない。《太陽の審判》で完全に消え去ることも方法の一つだが、認めることはないからな」
黄の長はファジュラに諭すように語り掛ける。納得出来ないのは理解出来るが、此処で取り乱されては、迷惑を掛けることになる。
「お前にはお前がしなければいけない役目がある。その役目を知ることも、必要なことだ」
黄の長はすっと目を細めた。
「今日はこのまま、私の館で休むがいい。お前は母親から少し離れた方がいい」
ファジュラは素直に頷いた。今、ティファレトの顔を見ることは避けたかった。黄の長が扉の横に静かに佇んでいた存在に声を掛ける。そこに居たのは黄の長の執事。
「部屋へ。明日、陽が隠れたら起こし、送り出すように」
執事は、御意と頭を垂れ、ファジュラを促した。
ファジュラが部屋から出て行くそのとき、黄の長は思い出したように声を掛けた。
「青薔薇は受け取ったのか」
ファジュラは目を見開き、固まった。アーネストは驚いたように、ファジュラを凝視する。
「あの薔薇は特別なものだ。黒薔薇の主治医の後継者であり、黄薔薇の夫が品種改良した。誰から受け取った」
その問いに、ファジュラは息をのむ。青薔薇が黄薔薇の夫が作り上げたものならば、あそこに置いたのは誰なのか。
だが、今までの経験で、控え室の前に置くのはヴェルディラだけだ。
ファジュラは息を吐き出し、一度、瞳を閉じると、黄の長に視線を戻した。
「直接は受け取っていません。何時ものように控え室の扉の前に置かれていました」
「誰であるか、判らないと」
黄の長の言葉に、ファジュラは首を振った。
「どのような経緯で手に入れたのかは、本人でないので判りませんが、扉の前に置くのはヴェルディラだけです」
黄の長は納得したように頷いた。
「休むんだ」
ファジュラは小さく頭を下げると、執事の後に続き静かに扉を閉め、部屋を後にした。
アーネストは疑問を顔に貼り付けた。
「判らないようだな」
黄の長は可笑しそうに笑った。
「確かに、公演の度に青薔薇は届いていましたが」
それはあくまで人工的に着色されたものだ。何より、ファジュラが贈り主を認識していたことに驚いていた。
「お前には伝えるべきかもしれないな。ただ、此処での話しは他言無用だ。心の中に留めておくことが条件になる」
黄の長は真剣な表情を見せ、きっぱりと言い切った。
「どう言うことでしょうか」
アーネストは首を捻る。
「ファジュラの相手は普通の者ではない。薔薇、と言う存在だ」
アーネストは驚愕に目を見開いた。
「間違いないのですか」
「白薔薇が現れたとき、薔薇の夫婦達は過去を知るために、銀狼の始祖を目覚めさせた」
黄の長は淡々と言葉を紡ぐ。
「その始祖から聞いた話しの中に、過去の薔薇の夫婦と、今回、現れる薔薇の夫婦の名前が全く同じであると言う事実を聞いたのだ」
そして、今回、シオンとアレンが連れてきたのはヴェルディラだった。そして、シオンは訊いたのだ。
相手の名前はファジュラなのかと。
「今の吸血族に、ヴェルディラとファジュラと言う名を持つのは一人だけだ」
「……ヴェルディラ」
アーネストはその名前を、存在を知っていた。両親が懇意にしていた蒼薔薇の部族の絵師の孫息子だ。男の子だったが、愛らしい少年だった。
「どう言った理由でそうなったのかは知らないが、間違えなく、ファジュラの相手はヴェルディラだ。その姿を、私は目にした」
そこには全部族長が揃っており、蒼の長が自部族の者を間違える筈はない。
「どういった方法で変化するのですか」
アーネストは疑問を投げかけた。黄の長はその質問に苦笑いを浮かべる。シオンが言ったように、罪による産物に違いない。
だが、その罪を犯し、尚且つ、偶然と運命に導かれた者のみ、変化を担う。
「何故、変化する方法を公にしないと思う」
黄の長は逆に質問を返した。アーネストは目を瞬かせる。
「変化は罪だ。罪であり、拘束であり、また、体の変化は唯一意外は害を為す」
黄の長は鋭い視線を投げかけた。アーネストは困惑する。
「吸血族は何によって束縛される」
アーネストは小さく息をのんだ。
「お前の中にあることが答えだ。だが、問題はそうなった者は、変化の切欠になった者以外を受け付けないことだ」
黄の長は息を吐き出す。
「ヴェルディラの変化が真にファジュラであるなら、ヴェルディラのためであり、吸血族のために、二人には一緒になってもらう」
親の意見や勝手な思惑など、この際は無用なのだと、きっぱり言い切った。
「ですが、互いの気持ちはどうなのです」
アーネストは更なる疑問を口に出す。
「ファジュラの気持ちは判らないが、ヴェルディラはファジュラを好いていることは確かだ」
きっぱりと言い切った黄の長に、父親は目を見開いた。
「変化に必要なものは、縛り付ける絶対のものと想いだそうだ」
黄の長はそう、言葉を続けた。
「……想い」
「そうだ。ただ、命を取り込めば良いというわけではない。二つの絶対的要素が必要なのだ」
血を取り込めば変化するというわけではない。気持ちが伴って初めて、満月の魔力で女性になれるのだ。だからこそ、神秘の存在に違いない。
アーネストは息を吐き出した。何故、黄の長が願いを聞き入れてくれたのか、漠然と理解した。
ファジュラの相手が、噂の的である薔薇ならば、婚姻が破談になることはないだろう。今の話しで、それは確信ですらある。
「……相手が薔薇であるから、聞き入れてくれたのですね」
「それもあるが、それだけではない」
アーネストは今の言葉に困惑した。他に理由があるのだろうか。
「私はファジュラに言っただろう。親の代が一番、歪んでいると」
黄の長は架空を見詰め、遠い目をした。
「断定は出来ないが、薔薇が現れる前兆だったのではないだろうか」
最初こそ、女性達は受け入れていただろう。吸血族の現状を理解し、自分達の役割を判っていたに違いない。
だが、月日を重ね、必要以上に守られ育てられた女性達は、吸血族が置かれている現状を理解出来なくなっていた。
「薔薇は修正するための存在なのだそうだ。本来なら、彼等は最初に現れた彼等だけで、その後に続く者は現れる必要などなかった筈なのだ」
黄の長は居たたまれない思いに苛まれた。
薔薇は苦痛の中で現れる。決して、幸せだけを感じている存在ではない。
それと同様に、彼等の両親も又、苦痛を強いられた存在だ。女性の出生率が最も低かった時代だ。其れだけに、立場を忘れた女性達にとって、苦痛でしか無かったのだろう。
気が付く切欠を与えたのが、薔薇に一番近く、そして、一番憂いていた者だ。医者は一番、吸血族の現状を理解していた。
どの部族の主治医も、多かれ少なかれ絶望を抱いていた。生まれてくるのは男児ばかりで、女児は稀にしか生まれてこない。
そうなれば、当然、女児に与えられるのは生まれながらの義務だ。ただ、血筋を残すためだけの存在。
心など、必要ではないとでも言うような対応。幾ら、大切にされようと、強いるのは明らかに心に暴力を与える無体だ。
「確かに女性は苦痛を強いられただろうが、その夫となった者も、ある意味、不幸だった筈だ」
幼い時から家族ぐるみで交流を深め、自然に惹かれ合うように仕向けられたのなら、まだ、良かっただろう。だが、アーネストとティファレトは違っていた。
「お前達は特殊すぎた。お前の一族が特殊であったせいなのだろうが、それでも、二人には無理を強いた」
「……そんなことは、ありませんよ」
アーネストは自虐的な笑みを見せた。ティファレトは確かに、心を無視された形になるのかもしれない。だが、アーネストは違っていたのだ。
「どう言うことだ」
「私はあの当時も、そして今も、彼女を愛しています」
その顔に刻まれたのは、表現出来ない感情だった。悲しいのか、嬉しいのか、判断出来ない、複雑な表情だった。
†††
ティファレトは唇を噛み締めた。目の前で交わされた会話に、夫であるアーネストが黄の長に何を願っていたのか。
誰も居なくなった室内に、遠く聞こえてくるざわめきに、神経が苛立つ。
黒の長が痛烈に言い放った言葉が、耳の奥に残っていた。ファジュラを誰かの代わりにしたつもりなどないのだ。そう、意識しては。
ただ、ファジュラを見ていると、過去、愛した者を思い出す。否、正確には過去などではなく、今も心は彼を求めている。
求めてはいるが、それを得ることは無理であることも判っているのだ。
ファジュラが誰かと会話するだけで苛立った。あの姿が、否が応でも彼の者を思い出させる。
ティファレトが若い頃、恋い慕ったのはアーネストの従兄弟。そして、ファジュラは実父ではなく、従兄弟であるティファレトの想い人の姿を写し取ってしまった。
従兄弟なのだから、当然、アーネストは彼と面影が似通っている。だが、ファジュラは有り得ないくらい、親子と言っても疑わないほどに、彼に似ていたのだ。
指摘されるまで、見て見ぬ振りを決め込んでいた自分を省みなかった。
五部族長は皆、知っているような表情だった。何より、黒の長は微笑んではいたが、瞳は一つも笑ってはいなかったのだ。凍てつくような、氷のように冷たい光を宿していた。
母親としての矜持は持っている。一方、焦がれてはいけない想いも確かに持っていたのだ。
「……私は……」
ティファレトは途方に暮れた。夫と息子は黄の長と共に行ってしまった。本来なら、一緒に行ってもおかしくはない。
黄の長は何も言わなかったが、黒の長がティファレトの足を止めさせた。言われた言葉と、小さく囁かれた言葉。
五部族長の中で一番恐ろしく、何もかも見透かすように射抜いた瞳に、ティファレトは動くことが出来なかった。
やんわりと、黒の長はティファレトに何かを促したのだ。見ていなかったものを、見るようにと。
ティファレトにしてみれば、きちんと物事を見ているつもりだった。だが、何かが、ティファレトの中の狂気を助長する。それが、若いときからあった、淡い恋心だ。
「……あの人は、何を願ったのかしら……」
このとき、漸くティファレトはアーネストの望んでいた願いに引っかかるものを感じた。
アーネストは余程でなければ、ティファレトが嫌がることを求めることはない。何時も、一歩引いた場所に居り、決して前に出ようとはしない。
物足りなく感じることもあったが、取り立てて気にしたこともなかった。何より、アーネストはティファレトに隠し事をしない。元々が穏やかで、強制するような言動も、行動も取ることはなかった。なのに、引っ掛かった。黄の長は前々からアーネストが願い出ていたような口振りだった。穏やかに微笑んだその姿に、何かを感じたわけではない。
次々と投げつけられる言葉に対応するだけで精一杯だった。
何故、こんなことになったのか。芸術家の一族はある意味、他の家業よりも才能がものをいう。引き付けるだけの何かを持っていなければ潰されてしまう。
多少のリスクを背負っても、薔薇の夫婦と銀狼の始祖を招待し、了承してくれたことに有頂天になっていたことは事実だ。
黒の長がはっきりと言い切った言葉を、ティファレトは否定出来なかった。確かにファジュラに彼の人の面影を重ねていた。
過ぎた態度を取っていたのも事実だったのだろう。それでも、こんな現実を望んでいたわけではない。
ファジュラの結婚を望んでいるのは本心だ。だが、花嫁になる者が現れたら、平常心でいられるだろうか。
「……私はっ」
ティファレトは唇を噛み絞め、きつく目を瞑った。両手で顔を覆い、口から零れて来るのは苦痛を宿す嗚咽だけだった。
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