浅い夜・薔薇編

善奈美

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Ⅹ 双月の奏

04 第三楽章

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 ファジュラはヴァイオリンを手に控え室に向かっていた。会場に元々備え付けられているピアノと違い、ヴァイオリンはファジュラの私物であるため、貴賓席に向かう前に、置きに戻ったのだ。
 
「……」
 
 控え室の前に何時ものように置かれている花束を持ち上げる。ふわりと舞う淡い香りに、ファジュラは薔薇を凝視した。
 
 その薔薇は綺麗な青の色。人工的に着色した違和感が全くない。一輪手に取りよくよく見れば、薔薇は全体的に青っぽい色合いだった。それは天然の色。

 花束とヴァイオリンを手に、控え室に入る。机の上に花束と、一輪抜き取った薔薇を置き、ケースにヴァイオリンを戻した。
 
 改めて見る薔薇は静かに何かを語りかけているようだった。
 
 はっきり感じたのは、嫌な予感だった。青薔薇の花束を置いていくのはヴェルディラだ。両親には言ってはいないが、それはヴェルディラが決めたことだった。
 
 姿を見せない代わりに、薔薇を置いていく。互いの祖父母が眠りに就くと、ヴェルディラは隠れるように会いに来る。
 
 ただ、罪を償うように。

 ヴェルディラだけの罪ではない。罰があるなら、ファジュラも同様に受けるべきなのだ。
 
「……今、何処にいるんです」
 
 無意識に言葉が口を吐く。
 
 ヴェルディラは最近、何かに怯えていた。必死に取り繕っていたが、幼いときから一緒の時を過ごしたのだ。
 
 何かを隠そうとしていることは直ぐに判ったのだが、それを問い質すことが出来ない。
 
 小さく息を吐き出し、青薔薇に視線を走らせ、控え室を後にした。重くなっていく足に、知らず表情が曇る。嫌な予感が強くなっていった。

 
 
      †††
 
 
 貴賓席に向かうと、そこに薔薇の夫婦達と、銀狼の始祖の姿はなかった。両親、と言うよりもティファレトの表情があからさまに歪んだ。
 
 その表情を見ても長達の表情は変わらない。特に黒の長は穏やかな微笑みを浮かべていて、ファジュラはぞくりと背中を冷たい何かが這い上がった。
 
 一言で言えば、恐ろしいだった。
 
「薔薇の三人は妊娠中です。急に具合が悪くなりましてね。主治医が早々に帰る方が良いと判断したのですよ」
 
 黒の長は淀みなく言葉を口にした。

「薔薇達は大切な存在ですから。何かがあっては大変です」
 
 黒の長は、大切な存在、の部分を強調した。それは意図して言ったのだと、ファジュラは直ぐに気が付いた。ファジュラの様子に、黒の長は内心笑みを零した。
 
 ティファレトに目線を向けると、その様子に長達は眉を顰めた。薔薇達は間違った判断をしていない筈だ。
 
「ファジュラ」
 
 黄の長は静かに名前を呼んだ。ファジュラは我に帰ったように黄の長に視線を向ける。
 
「薔薇の主治医からの伝言だ」
 
 ファジュラは瞳を瞬かせた。

「伝言……ですか」
「そうだ。彼等は部族を超越している。例え我々部族長が反対をしたとしても、彼等の決定事項は絶対の力を持つ」
 
 黄の長はきっぱり言い切った。
 
「明日、夜の訪れと共に黒薔薇の主治医の館に一人で行くんだ。判ったな」
 
 はっきり告げられた言に、少し息をのみ、素直に言葉を受けた。もとより反抗するつもりはない。
 
 黄の長はアーネストに視線を向ける。
 
「それと、お前が望んでいたことだが、あれは本心か」
 
 黄の長の問い掛けに、アーネストは寂し気な笑みを向けた。

「偽りなく……、後悔しないのか」
 
 黄の長は再度、問い掛けた。
 
「前々から決めていたことです。偽りなく、私の心のままに」
 
 アーネストは穏やかに言った。ファジュラはその様子に、嫌な予感がした。何故、黄の長は今、此処でアーネストに、何か、を訊いているのだろうか。
 
「歪んでいたことは最初から判っていました。歪みを歪みのままに放置は出来ませんから」
 
 悲し気な表情が、言葉と共に更に顕著になる。
 
「決心は変わらないのか」
「変わりません」
 
 しっかりと顔を上げ、アーネストは黄の長を見据えた。

「……父さん」
 
 ファジュラはアーネストに疑問の視線を投げかけた。
 
「ならば、このまま私と共に来るんだ。ファジュラ、お前も一緒にだ」
 
 黄の長の言葉に難色を示したのはティファレトだった。夫だけならば文句は無かったのだろう。しかし、ファジュラも一緒となれば話しは別だ。
 
「何故、この子までっ」
「お前は何者なんですか」
 
 黒の長は微笑んだまま、鋭い質問を投げかけた。ティファレトは小さく息をのむ。
 
「私は……っ」
「母親だから、という下らない言葉は必要ありませんよ」
 
 黒の長は最初に言葉を遮った。

 ティファレトは唇を噛み締める。
 
「成人した者に、母親の勝手な愛情は必要ありませんよ。本心の親心ならまだしも、お前のは全く種類の違うものでしょう」
 
 判らないとでも思っているのか、と黒の長は言い切った。
 
「何故、薔薇達が具合を悪くしたと思っているんですか」
 
 その言葉はティファレトのせいなのだと、遠回しに言っていた。
 
「はっきり言いましょうか。幸い、此の場所にいるのは私達とお前達だけですしね」
 
 黒の長は黄の長に視線を向けた。黄の長は小さく息を吐き出し、頷いた。

「何のことなのか、私には……」
「誤魔化せるとでも。薔薇達は莫迦にされたものですね。一人など、気持ち悪かったのか、飛び出したのですよ」
 
 黒の長は容赦なかった。
 
「親子の婚姻は認めません。同様に恋情を抱くなどあってはならないことです。お前は息子を何だと思っているんです」
 
 辛辣な言葉に、ティファレトの顔から色が消えた。驚いたように目を見開き、ファジュラはティファレトを凝視した。
 
「血が濃くなるという以前に、道徳的に問題があると思いませんか」
 
 黒の長はすっと目を細めた。

「私にそんな感情はありませんっ。息子の結婚を切に望んでるんですっ」
「それは本心ですか。もし、彼に運命の花嫁が既ににいると言われたら、心から祝福出来ますか」
 
 黒の長は探るように目を細めた。
 
「それは、どう言うことですか」
「例え話ですよ。祝福出来るのですか」
 
 黒の長は再度、問い掛けた。
 
「……当たり前です」
「それが、もし、嫌っている者でも、変わりない気持ちでいられますか」
 
 ファジュラは黒の長が何を言いたいのか判らなかった。

 母親は口を噤んだ。
 
「それくらいにして貰えませんか」
 
 アーネストは穏やかに口を挟んだ。黒の長は初めてアーネストに視線を向けた。
 
「彼女に自覚はありませんから」
 
 アーネストの言葉にファジュラばかりでなく、ティファレトも目を見開いた。
 
「判っていると」
 
 黒の長の問いに、アーネストは浅く息を吐き出した。
 
「判っています。判っているからこそ、私は望んだんです。全ての歪みは私に。そして、我が一族に」
 
 アーネストは穏やかに言ってのけた。黒の長は口を閉ざし、黄の長に視線を向けた。

「……なるほど……認めるつもりですか」
 
 黒の長の問いに、黄の長は深い溜め息を吐いた。
 
「昔なら認めなかったが、今はそうも言っていられない」
「確かに、そうかもしれませんね」
 
 ファジュラはアーネストと長達を交互に見詰めた。会話の内容もだが、嫌な予感ばかりが募っていく。
 
「お前には説明しなくてはいけない」
 
 黄の長は視線をファジュラに向けた。
 
「父親と共に、ついてくるんだ」
 
 黄の長は他の長達に軽く挨拶を交わすと、さっさと歩き出した。

 アーネストが次いで歩き出し、ファジュラも後に続いた。ついて行こうとしたティファレトに黒の長が声を掛ける。ティファレトは立ち止まり、振り返った。
 
「お前は必要ありませんよ。邪魔なだけです」
 
 微笑みを貼り付けたまま、黒の長は毒吐く。
 
「まず、お前自身が何者で、どう言った位置にいるのか、認識したらどうです。今と昔は違いますよ。女性だからと、許されると思っていたら大間違いです」
 
 ティファレトは目を見開き息をのんだ。ティファレト達の時代、女性が何より大切にされた時代だ。それは、ある程度の我が儘なら許されるほどに。

「それに……お前が本当に目を向けなくてはいけない相手が違いますよ。目の前から消えて初めて気が付いても、遅いことになります」
 
 黒の長はそう言うと振り返った。
 
「私も帰ります」
 
 長達にそう声を掛ける。
 
「明日、間違えなく届けよう」
「待っていますよ」
 
 蒼の長の言葉に返事をし、歩き出した。ティファレトの横を通り過ぎるとき、黒の長は小さく囁く。
 
「お前も病んでしまった一人なのでしょうが、それの犠牲になったのが誰であるのか、しっかり考えなさい」
 
 ティファレトは目を見開き、固まった。

 次々と横を通り過ぎていく長達に、ティファレトは挨拶することすら忘れた。
 
 直ぐに心に浮かんだのは、否定する言葉。だが、直ぐに先話されていた内容を思い出す。
 
 夫である男が発した言葉。あれは、何を意味しているのだろうか。そして、黄の長はファジュラに説明しなければいけないと言った。
 
 だが、心の中に渦巻く思いはどす黒かった。自分でも嫌悪するほどに、暗く、汚い感情の渦だった。焦がれ、得ることが出来ず、押し殺し続けた思いが牙を剥こうとしていた。

 
 
      †††
 
 
 シオンは三階まで一気に駆け上がった。そして、その場でへたり込んだ。言わないと決めていた。口にしてしまったら、取り返しがつかないことを知っていたからだ。
 
 けれど、限界だった。幸せを感じれば感じるほど、無条件の愛情を向けられるほど、臆病になっていくのが判っていたからだ。
 
 幼いときに受けた仕打ちは、確実にシオンを蝕んでいた。本来与えられる筈だったものを奪われ成長したシオンは、ある意味、成長が止まっていたのだ。

 心の中に、幼いシオンがいる。硝子玉のような瞳で、じっとシオンを見ている。病的なまでの青白い顔が、無表情に見詰めていた。
 
 感情を表さないのは痛みや苦しみを感じないようにするため。きつく口を引き結ぶのは、苦痛の声を漏らさないようにするため。何時も強張った体は緊張していた。
 
「……シオン」
 
 微かに聞こえてきた声に、シオンは何かのスイッチが入ったことに気が付いた。それは悟られないように、気が付かれないようにする、シオンの防衛本能だった。

 顔を上げたシオンは小さく息をのむ。思いの外近くにカイファスの顔があったからだ。覗き込む顔に刻まれたのは、心配気な表情。
 
「大丈夫か」
 
 囁くくらいの声音で問い掛けられ、大丈夫だと言いたかったのだが、喉から声が出てこなかった。驚いたように顔を強ばらせ、無意識に喉を両手で抑えた。
 
「……無理をするんじゃない。判ってるんだからな」
 
 カイファスは仕方ないと言わんばかりに息を吐き出した。
 
「取り敢えず、着替えないと」
 
 月が隠れれば、シオンは変化してしまう。

 シオンは俯き、唇を噛み締める。促されるまま立ち上がり、カイファスの手に導かれるように部屋に戻った。
 
 されるがままに服を着替える。何時も着ている服だが、女性の体のときには少し大きかった。
 
 カイファスに両肩を掴まれ、自然と見上げる形になった。
 
「シオン。判っていないと思っているなら、心外だぞ」
 
 カイファスの言葉に素直に目を見開いた。
 
「みんな、黙っていただけだ。隠したがってるのが判っていたから」
 
 シオンは表情を歪ませ、カイファスに縋りついた。

 知らず、涙が溢れてくる。止めようと思っていても、体は正直だった。
 
「……どうしよう」
 
 微かな呟きが、カイファスの耳に届く。カイファスはシオンを宥めるように、軽く背中を叩いた。そして、寝室の隣の部屋に移動し、長椅子に腰を落ち着けた。
 
 シオンは落ち着かないのか、カイファスを見下ろし、両手を前で握り締めていた。
 
「ここに座って」
 
 長椅子を左手で軽く叩くと、座るように促した。シオンは少し躊躇い、ゆっくりと腰を下ろす。座ったのを確認したカイファスは、前触れもなくシオンの頭に手を伸ばし、自分の膝にのせた。

 シオンは驚き、カイファスを見上げる。優しく髪を撫でると、小さく息を吐き出した。
 
「我慢はいけないな」
 
 シオンは唇を噛み絞めると、カイファスの膝に顔を埋めた。涙が止まらなかった。
 
「言っておくが、私が気が付いてるんだから、アレンなら、ずっと前から判っている筈だぞ」
 
 シオンはびくりと体を震わせた。
 
「一緒にいるんだ。鍛えられているだろうし、お前に対する甘やかし方は尋常じゃないからな」
 
 カイファスは呆れたように言葉を紡いだ。

「……限界、なんだろう」
 
 伺うようにカイファスはシオンに問い掛けた。シオンは小さく頷く。
 
「カイファスは怖くないの」
 
 その問い掛けに、カイファスは苦笑を浮かべた。そして、廊下に続く扉に視線を向けた。覗き込んでいるのは三人だ。
 
 ルビィとトゥーイ、そして、戸惑いを顔に貼り付けたヴェルディラ。
 
「怖くはないな。私はお前のような仕打ちを受けた記憶はないからな」
「……そうだよね。やっぱり、僕って異質だよね……」
 
 シオンは諦めたような声音で言った。

「だからこそ、誰よりも幸せになる権利があるんじゃないか」
 
 シオンは驚いたように顔を上げた。そこにあるカイファスの顔にあるのは、優し気な微笑み。
 
「間違っていないだろう」
 
 だが、シオンは力無く首を振る。
 
「闇が迫ってくるんだ。あの場所に戻そうとしてるんだよ。幸せの分だけ、不幸を感じていた僕が責めるんだ」
 
 カイファスはシオンの様子に、アレンの苦悩を見た感じがした。銀狼のコロニーに行く前にシオンに諭され、その後にアレンと目があった。

 アレンは知っていたのだ。シオンが何に対して不安を感じているのかを。
 
「お休み、シオン」
 
 シオンはいきなりカイファスの手に視界を遮られた。
 
「カイファ……」
 
 急に襲ってきた睡魔に、シオンは抗えなかった。
 
「夢も見ないほど、深い眠りを」
 
 囁かれた言葉を最後まで聞かず、カイファスの膝に少しの重さが加わった。シオンの呼吸が規則正しいものに変わり、カイファスは振り返る。
 
 心配気に覗き込む三人を見やり、入ってくるように促した。

「眠らせちゃったの」
 
 ルビィはシオンを覗き込むと、カイファスに視線を向けた。
 
「多分、お祖父様が何かを訊いたんだろうな。少し、戻って来るのが遅かっただろう」
 
 ルビィとトゥーイは頷く。
 
「そして、アレンがシオンに何かを訊いたんだろうな。限界に達していることは、彼奴なら判っていただろうし」
 
 限界の言葉にルビィは眉を顰めた。よく判らないのはトゥーイと、今日、初めて顔を合わせたヴェルディラだ。二人は他部族だ。トゥーイにしても、シオンのことを聞いたのはほんの少しのことなのだろう。

「俺、判らないんだけど」
 
 トゥーイは困惑したように、交互に二人を見た。
 
 カイファスは小さく息を吐き出し、三人に椅子に座るように促した。
 
「シオンは吸血族では珍しい、親に体罰を受けて育ったんだ」
 
 三人が腰を落ち着けてから、カイファスは静かに話し出した。
 
 トゥーイは目を見開き、ヴェルディラは固まった。
 
「姉が一人居る。その姉がファジールさんの元にシオンを連れてきたらしい」
 
 カイファスの知識はあくまで又聞きだ。だから、真実を知っているのはジュディ、ファジールとジゼルの三人だ。

「今でこそこんな感じだけど、アレンと婚約する前は結構、暗かったんだよ」
 
 ルビィがトゥーイとヴェルディラに視線を向けた。
 
「それは、お前もだろう」
 
 カイファスは呆れたように息を吐き出した。
 
「僕のは違うから。あれはエンヴィ絡みだもの」
「暗さの度合いは張り合うくらいだったぞ」
 
 ルビィは肩を竦める。
 
「……本当の両親なんだよな」
 
 トゥーイはやっと現実に戻ってきた。カイファスとルビィはトゥーイの呟きに頷いた。トゥーイは唇を噛み締める。

「……全然、判らなかった……」
「まあ、知っている私達ですら、普段のシオンを見ていたら忘れるくらいだからな」
 
 トゥーイの暗い声に、カイファスは溜め息混じりに言葉を吐き出した。
 
「薬師だったお前なら、その手の知識もあるだろうが、心の傷は体の傷とは違う。いくら取り繕っても、根本的な部分がそのまま放置された状態なんだ。これで、両親が眠っていればまた、違ったのかもしれないが、しっかり目覚めてるからな」
 
 トゥーイはカイファスの言葉に頷くしかなかった。

「でもさ。普通、そういう目に遭うと、子供にも同じことしちゃうんじゃないか」
 
 トゥーイの疑問はもっともだった。育った環境は、大人になっても影を落とす。
 
「シオンはね、一時期、この館で過ごしてたんだって。短い期間だったけど、ファジールさんとジゼルさんに育てられてるんだ」
 
 その話しを聞いたのは結婚してからだ。シオンがファジールとジゼルに対して、あまり遠慮しているようには見えなかった。
 
 不思議に思ったルビィがシオンに訊いたのだ。シオンは複雑な表情で話してくれた。

「でも、アリス様はどうして、放置してたんだろう」
 
 ルビィは首を捻った。アリスならば、シオンが薔薇であり、虐待を受けていたことが判っていた筈だ。
 
「答えは簡単だな」
 
 カイファスは嘆息する。アリスが薔薇と吸血族のために動くことが判った今、知らせなかった理由は簡単だった。
 
「アレンと逢わせるためだろうな。普通の状態では二人は出会ってないだろう」
 
 あのままでは接点が無かったのだ。親同士で顔見知りであるならまだしも、二人に出会う切っ掛けなど、あの時点では無かったのだ。

「……出会い……」
 
 ヴェルディラはぽつりと呟いた。その声に、三人はヴェルディラに視線を向ける。
 
「まあ、お前に比べたら、二人は出会おうと思えば、出会えただろうな。お前の相手は他部族だろう」
 
 カイファスは目を細める。ヴェルディラはきゅっと、唇を噛み締めた。
 
「相手は黄薔薇の楽師だろう。そして、お前は蒼薔薇の絵師だ」
 
 ヴェルディラは両手をきつく握り締めた。此処に連れてこられてから、三人が離れてくれない。服を貸してくれたことには感謝するが、早く身を隠したかった。

 いくら、全部族長命令であったとしても、それがヴェルディラの本音だった。
 
「言わせて貰うけど、黒の長様が関わっちゃったから、逃がして貰えないだろうし、今はこんな状態だけど、シオンが逃がしてくれないよ」
 
 ルビィはヴェルディラの顔を覗き込む。ヴェルディラは怯えた表情を見せた。
 
「それにさ。ずっと逃げ続けるのは無理じゃないか」
 
 トゥーイも顔を覗き込んできた。
 
「もしかして、《永遠の眠り》に就こうとか考えてるんじゃないか」
 
 カイファスは静かにヴェルディラを見詰めていた。

 三人は口々に言葉を紡ぐ。ヴェルディラは反論することが出来なかった。
 
 元々、一人で居ることに慣れており、逆に言えば他人と関わることに慣れていない。ましてや、どう見ても特殊と言っても過言ではない存在の中に自分が居ることに落ち着かない。
 
「……他人と関わるのが苦手そうだな」
 
 カイファスは呆れたように息を吐き出した。
 
「蒼の長様が、相変わらずと言ったのは、世情どころか、全く周りが見えないタイプじゃないのか」
 
 ヴェルディラは眉を顰めた。

「何故、自分を知ろうとしない。シオンに捕獲されたと判ってないんだろう」
 
 カイファスの膝の上で、穏やかな寝息をたてているシオンを、ヴェルディラは見詰めた。頬に残る涙の跡。ほんのり赤味の差した瞼。不安を吐露していた姿と、初めて目の前に現れたときの姿の違いに、ヴェルディラは戸惑っていた。
 
 他人と関わることは苦手でも、観察眼は誰よりも優れていた。絵師は外見だけを写し取るのではない。そう、祖父に叩き込まれていたからだ。
 
 だが、こと、自分のことに関しては、鈍感どころの騒ぎではない。

 体が変化をしても、何処か他人事だった。ただ、普通と違う、誰にも会いたくないとは思ったが、それ以上の感情は無かったのである。
 
「シオンは境遇のせいなのか、必要以上に自分以外を幸せにしようとする。自分以外を、だ。それは、お前とて例外じゃない。シオンにとって薔薇とは、兄弟に近い存在なんだろうな」
 
 カイファスは静かに、凪いだ海のように、淡々としている。冷淡な訳ではなく、ただ、事実を受け入れているようだった。
 
 ルビィはふるりと震えたシオンに気が付いた。

 カーテンが開け放たれた窓に視線を走らせる。空は白み始めていた。シオンとヴェルディラが変化をしないのは、まだ、白み始めた空に月が浮かんでいるからだろう。
 
 白く霞む空に、月が融けていこうとしている。ルビィはゆっくりと腰を上げ、徐に手を伸ばすと、カーテンを閉めた。
 
「……シオンは幸せにならなきゃ駄目なのに、気が付いてないもんね」
 
 ルビィは振り返ると悲し気な表情を顔に刻み込んだ。
 
 カイファスはシオンの体が強ばったことに気が付いた。ゆっくりと、シオンの姿が解けていく。

「……っ」
 
 ヴェルディラはいきなり襲ってきた痛みに、自身の体を抱き締めた。眉間に皺を寄せ、きつく目を瞑る。
 
「月が隠れたな」
 
 カイファスはシオンを見下ろす。変化が終わっても、シオンの姿は幼い。
 
「……慣れない」
 
 ヴェルディラはぽつりと呟く。初めて変化したときに比べれば幾分痛みは弱いが、痛いものは痛い。体がひっくり返ったような感覚が、いまだに慣れなかった。
 
「今の声……」
 
 ヴェルディラの呟きに目を見開いたのはトゥーイだった。

 ヴェルディラは隣にいるトゥーイに顔を向けた。驚いたように目を見開いているトゥーイは、不思議な者でも見るように固まっている。
 
「どうかしたのか」
 
 カイファスは首を傾げる。ルビィもトゥーイの背後から、顔を覗き込んだ。
 
「いるってことは知ってはいたけど、本当に居るんだ」
 
 トゥーイは呆然と呟き、カイファスに顔だけを向けた。
 
「声変わりしてない。女性の時と声が同じだった」
 
 カイファスとルビィは驚いたように、ヴェルディラに注目した。

 ヴェルディラは口を噤み、俯いた。実はコンプレックスになっていたのだ。あまり話さないのは声を聞かれたくないからだ。
 
 男の身で女性のように澄んだ声をしていることに、嫌悪しか抱かなかった。喉を潰してしまおうかと、真剣に悩んだ時期があったくらいだ。
 
 だが、と、ヴェルディラはトゥーイを凝視する。声変わりしていないヴェルディラよりも、明らかにトゥーイの方が珍しいのではないか。
 
 純白の髪に、澄んだ透明な肌。相反するように、瞳は淡い紅の色を宿している。

 ヴェルディラはじとり、とトゥーイを睨み付ける。
 
「……俺より、あんたの方が珍しいんじゃないか……」
 
 いくら凄んだところで、声が裏切っていた。だが、ヴェルディラが言わんとしていることは、十分に伝わる。
 
「あたり前だろ。目覚めてて、アルビノなのは俺だけだし、見せ物になるのも慣れたものだし、今更だしさ。それより、綺麗な声してる」
 
 トゥーイはにっこりと微笑みを浮かべた。
 
「トゥーイは開き直っちゃってるから、反撃しても無駄だよ」
 
 ルビィは可笑しそうに笑った。

「逃げようなんて考えない方がいいぞ。この館に来た以上、逃げ道は無くなったと思った方がいい」
 
 カイファスは微笑みを浮かべ、さらりと凄いことを言った。ヴェルディラはこめかみがひくつく。
 
「ジゼルさんとシオンが結託して、そこに、レイチェルさんが刺さり込んできたら、身動きとれなくなちゃうよ」
 
 ルビィも追い討ちをかけた。この三人はどうやら、ヴェルディラを挫けさせようとしているらしい。逃げるのは無駄な足掻きなのだと、諭しているようでもあった。

「……俺がそうだったんだ。それに、シオンさんに逆らわない方がいいよ。怖いから」
 
 トゥーイは思い出したのか、眉に皺が寄る。
 
 ヴェルディラは捕まった時のことを思い出す。逃げようと思ったのだ。だが、シオンの叫び声に逆らえなかった。素直に足が竦んだ。
 
 どうしてなのかなど判らない。強いて言うなら本能だった。逆らうことは愚かなことなのだと、誰かが囁いたのだ。ヴェルディラは途方にくれたような情けない表情をトゥーイに向けた。
 
「逃げたのか……」
 
 トゥーイは小さく首を横に振る。

「トゥーイの場合、少し事情が違うな。なんせ相手は双子の兄貴だ」
 
 カイファスは、双子、の部分を強調した。ヴェルディラは弾かれたように、驚きに目を見開き、カイファスに顔を向けた。
 
「……普通、認められないだろうっ」
「だから、普通じゃなかったんだ。双子として育ったんだよ。他人だけどな」
 
 カイファスはからかうように言葉を続けた。
 
「驚いた」
 
 ルビィがヴェルディラの背後から問い掛けた。ヴェルディラは素直に頷く。いくら特殊であったとしても、親、兄弟など、近しい者同士の婚姻は認められないだろう。

「特殊って意味においては、カイファスも特殊かも。旦那が銀狼だから」
 
 ルビィはヴェルディラを覗き込んで、微笑んだ。
 
 ヴェルディラは更に固まる。此処は特殊の大安売りなのか。突っ込みどころが多すぎてついて行けない。
 
「でもさ。俺のことにしてもそうだけど、普通の吸血族なら知ってる筈だけど」
 
 トゥーイは不思議そうに呟く。
 
「私達は有名人になってしまったからな」
 
 ヴェルディラは穴があったら入りたかった。絵師として作業に没頭してしまうと、時間を忘れた。

 最初は気にしていたと思うのだが、それが続くと、知らなくても支障がなく、無理をして世情に注目することも無くなったのだ。
 
 世の中のことを知らなくても、生きていけたからだ。そのことを今は痛烈に後悔していた。少しぐらいは、知っておくべきだったのだ。そうすれば、もしかしたら、望み通りになったのかもしれない。
 
 無知だったことを棚上げするつもりはない。調べようとすれば、知ろうとすれば、情報など手に入れることは容易なのだ。それをしなかったのは、明らかにヴェルディラの非だ。

「お前は薔薇だ。私達と同じな」
 
 ヴェルディラは弾かれたように顔を上げる。
 
「言っておいてやるが、私達だってすんなり夫婦になった訳じゃない。まあ、私はすんなりいきすぎたけど、シオンにしても、ルビィにしても、トゥーイにしても、一悶着あったんだ。苦しい思いも、痛い思いもした。だからこそ、長様達は神経質になってるんだ」
 
 ヴェルディラはその言葉を静かに聞いていた。だが、シオンは違うのではないか。その姿にヴェルディラは素直に疑問を持った。彼は自分の絵師としての直感を信じている。

 すんなり行かなかったことは確かなのだろう。しかし、シオンは幸せそうに見えてそうではないのだと感じた。
 
 今、シオンの肖像画を描けと言われたら、それが微笑みであったとしても、翳りのあるものだろう。
 
 他の三人は本当に幸せそうに見える。でも、シオンだけは何かが違う。はっきりは判らないが、直感だった。
 
「どうかしたのか」
 
 カイファスは首を傾げる。
 
「本当に幸せなのか。その……俺は違うと思う」
 
 ヴェルディラはシオンに視線を向け、きっぱりと言い切った。
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