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Ⅸ 満ちる月に白き淡雪
17 宵月夜
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トゥーイはシオンが居る寝室の入り口で、中の様子を伺っていた。昨日の夜明け前、いきなり産気付いたからだ。
検査を一通り終え、問題がないと判断され、フィネイと明日、白薔薇に帰ると話している最中だった。
トゥーイがアレンに助けられ、館に連れて来られたときは八ヶ月だったと言うから、今思えば、相当、迷惑を掛けていたことになる。
伺うように覗き込むトゥーイに気が付いたシオンが、満面の笑みを向けた。その姿は最初に見た女性の姿ではなく、短くなった髪の、男性の姿に変わっていた。
「そんなとこに居ないで、入っといでよ」
シオンは笑いながら体を起こした。トゥーイは躊躇いがちにシオンの前まで歩いて行く。
「……大丈夫だったのか」
トゥーイにとって、妊娠、出産は未知の世界だ。
「平気。二回目だし」
ただ、初乳を与えてしまった後、いきなり変化が始まるのが辛いのだと、屈託なく言ってのける。
「そうなのか」
「うん。まあ、トゥーイも直ぐ体験出来るよ」
明るく、当たり前のように言われ、トゥーイは黙り込んでしまった。
黙り込んでしまったトゥーイに、シオンは下から顔を覗き込む。フィネイがトゥーイは一杯一杯になると黙り込んでしまうのだと、そう、笑いながら言っていたのを思い出す。
トゥーイは話題を変えようと、辺りを見渡す。そして、室内にシオンしか居ないことに気が付いた。キョロキョロと辺りを見渡しているトゥーイに、シオンは笑い出した。
「赤ちゃんはアレンが連れて行ったんだ。直ぐ、戻ってくるよ」
医者故なのか、アレンとファジールは無駄に心配する。つまり、何事もないかを調べずには居られないらしい。
「今日、帰るのかな」
シオンの問いに、トゥーイは首を横に振る。
「明日、帰るんだ」
シオンが出産したことで、慌ただしくなってしまった。結果、薬師であるフィネイが手伝うことになり、予定が変わったのだ。
トゥーイも薬師の知識はあるが、破壊的に繊細な仕事に向かないことはフィネイがよく判っている。そのため、トゥーイはただ、落ち着かない状態のまま、ジゼルと共に待っていることしか出来なかった。
「赤ちゃんに会っていってね」
シオンはいきなりきた陣痛は、トゥーイ達が帰るからなのだと判っていた。
「会いたくって出てきたと思うから」
シオンはクスクスと笑った。トゥーイは固まる。
「そんな事ってあるのか」
素直に疑問を口にした。
「どうかなあ。でも、会いたかったんだよ」
シオンは確信しているように言う。
「此処に居たのか」
背後からの声に、トゥーイは振り返った。其処に居たのは赤子を抱いたアレンとフィネイ。
「大丈夫だったでしょ」
シオンはアレンに問い掛ける。アレンは頷くとシオンに赤子を抱かせた。シオンの腕の中の赤子をトゥーイは覗き込む。
まだ薄い髪の毛は金色の巻き髪。瞼には短いまでも、きちんと睫毛があり、指にも小さな爪がある。
トゥーイは思わず見入っていた。自分の右手の親指をおしゃぶり代わりにしている。
「まだ、目が開かないから、色は判らないね」
「そうだな。まあ、視力も問題無さそうだから、無事なら何色でもいいだろう」
アレンも赤子をのぞき込む。
「抱いてみる」
トゥーイはシオンの言葉に首を振った。いくらおくるみに包まれていても、産まれて間もない赤子の首がすわっていないことくらい知っている。
「それはやめといた方がいい」
苦笑混じりに言ったのはフィネイだ。シオンは目を瞬かせ、驚いたようにフィネイに顔を向けた。
「おそらく、トゥーイが赤子を産んだとしても、母さんは抱かせたがらないな」
トゥーイは固まった状態で、首だけ動かしフィネイを見た。
「どうしてさ」
「トゥーイの場合、破壊的過ぎる不器用さで、どうなるか予測不可能だから」
シオンの問いに、フィネイは淀みなく答えた。
「そんなに酷いのか」
アレンは呆れ気味に呟く。
「見たら、有り得ないと絶対に誰もが思う」
フィネイはきっぱり、はっきり言い切った。
「カイファスから聞いたんだけど、本当なの」
シオンは訝し気に問い掛けた。二人が完全に意識を手放した一ヶ月、その間に三人で話した内容をシオンは聞いたのだ。
「……乳鉢が飛んで、薬草が散乱するって」
アレンはシオンの言葉に、素っ頓狂な声を発した。アレンは聞いていなかったからだ。
「普通、飛ぶようなもんじゃないだろう。結構な重さがあるんだぞ」
アレンは目を見開く。
「僕もさ、何回も聞いたんだけど、二人はそう聞いたって」
本人が言っていたのだから、間違いないのだろうとカイファスは言っていたが、聞いた本人が信じられない様子だった。
「その乳鉢が飛ぶんだ。しかも、最大サイズのが」
フィネイは腕を組み、笑いを含んだ声音で肯定した。
「それは不器用とかの次元じゃないような気がするぞ」
アレンは呆れたように両手を腰に当て、トゥーイを見下ろした。トゥーイはといえば、恥ずかしさと情けなさで黙り込んでいる。
「此奴、頭は俺より良いと思うんだ。ただ、技術が破壊的に身に付かない。介助しながらしても、半分も残らないからなぁ」
わざとらしく溜め息を吐く。トゥーイはフィネイの物言いにカチンときたのか、勢い良く反論するために顔を上げた。視界に入って来た表情に、思わず脱力する。
フィネイは明らかにトゥーイをからかっていた。その場にしゃがみ込み、唸り声を上げる。
「もしかして、遊んでたりする」
シオンは首を傾げ、フィネイを見た。フィネイの表情は訊くまでもなく、雄弁に語っていた。
「今までの仕返しか」
アレンはそう問い掛けた。
「隠す必要も無くなったし、本性を現しても咎められないだろう」
満面の笑みを二人に向けた。
「つまり、偽ってた分、正直にトゥーイで遊ぶってことかな」
シオンは納得したように頷いた。気持ちを隠すために、かなり偽りの仮面を被っていたに違いない。今のフィネイは吹っ切れたように、爽やかでさえある。
「お前、両親も戸惑うんじゃないか。かなり、変わったって言うか、元に戻ったのか」
アレンは腕を組むと、首を傾げた。
「俺的には元に戻ったになるのかな」
フィネイは笑いながら、答えた。
「生まれたんだって」
いきなり飛び込んで来たのはルビィだった。
「ルビィだ」
シオンはその姿にルーチェンを見た。やはり、親子なのだと納得出来る。トゥーイはその声に顔を上げた。
「あれ。トゥーイ、どうしたの」
ルビィは近付いて初めて、しゃがみ込んでいるトゥーイに気が付いた。
「遊ばれてたの」
シオンは面白そうに、笑みを見せながら、さらりと言ってのけた。
ルビィはきょとんとした表情を見せ、振り返りフィネイを見た。
「って、フィネイが」
「他に誰が居るのさ。僕とアレンが遊ぶわけ無いじゃない」
ルビィはそんなことは無いのでは、と内心思ったのだが、その言葉を飲み込む。
「エンヴィはどうした」
アレンは何時も一緒に現れるエンヴィの姿がないことに、首を傾げた。
「実はルーが来たがっちゃって、エンヴィは誤魔化すために、来なかったんだ」
ルーチェンのベンジャミンに対する執着心は並ではないようだ。
「それより、その子だね」
ルビィはシオンの腕に抱かれ、この騒ぎの中でも眠り続けている赤ちゃんを覗き込む。
「髪の毛はシオンに似たんだね」
「みたい。僕的には癖っ毛は似て貰いたくなかったんだけど」
「どうして」
癖一つ無い直毛のルビィにしてみれば、柔らかい癖毛はある意味、羨ましかった。
「僕も髪が長くなる前は気にもしなかったんだけどさ、絡まるんだよね」
大変なのだと、嘆息する。
「あれ、ジゼルさんも癖毛だよね」
シオンとアレンは頷いた。
「お袋も、髪には困ってるみたいだな」
アレンは思い出す。幼いとき、ジゼルはアレンの真っ直ぐな髪が羨ましいと漏らしていた。アレンの髪を女の子のように結い上げながらだったが……。
「抱かせて貰っても良い」
「いいよ」
ルビィは赤ちゃんを抱き上げる。その重さに懐かしさが込み上げる。ルーチェンを初めて抱き上げたときのことが、まざまざと思い出された。
「トゥーイは抱っこしたの」
不意にルビィはシオンに問い掛けた。シオンとアレンは苦笑いを浮かべ、トゥーイは唸り声を上げる。
そして、フィネイは意地の悪い笑みを浮かべた。
「それがね。遊ばれてる原因なんだよね」
シオンは困ったようにルビィを見上げた。
「破壊的に不器用なんでしょ」
ルビィは目を見開いた。ただ、抱っこするだけなのに、不器用は関係ないのではないか。
「……不器用と抱っこは違うと思うんだけど」
ルビィは尤もなことを言った。ただ、抱き上げるだけだ。何か、難しいことをするわけではない。
「何だけどね」
ルビィはしゃがみ込んでいるトゥーイを見下ろす。
ルビィは少し考えるような仕草をした後、トゥーイに立つように促した。トゥーイは首を傾げながら、渋々、立ち上がる。
「はい」
ルビィは満面の笑みで、赤子をトゥーイの腕に抱かせた。慌てたのはトゥーイだ。親であるシオンとアレンは平然としていた。フィネイはルビィの行動に咄嗟に体が動いた。
「ほら、何ともない」
ルビィは赤子の顔を覗き込む。安らかな寝顔は変わらない。
「美人さんだね」
ルビィはアレンに女の子、と訊いていたのだが、トゥーイはそれどころではない。
体が固まり、動けない状態になった。変に力が入っているのか、緊張しすぎている為なのか、背中を冷たい汗が伝う。
フィネイはゆっくり近付くと、下から覗き込むように見上げた。表情が強張り、まさに一杯一杯なのが手に取るように判る。
「体の力を抜いたらどうなんだ」
流石のフィネイも少し呆れ気味だ。トゥーイはぎこちない動きでフィネイを見やり、小さく首を振る。首を振るだけで、精一杯だった。
「……無理……動いたら、絶対、落とすから……」
何とか言葉を口にした。
そのトゥーイの様子に気が付いた三人は、言葉を失った。トゥーイの姿は完全に固まり、置物状態になっていた。
「落ちても大丈夫だって」
シオンは冗談混じりに笑った。
「まあ、下は絨毯だしな。しっかり、おくるみに包んであるし、平気だろう」
アレンも平然と言ってのける。
「僕も最初の頃、ルーを落としちゃったことあってさ」
ルビィは思い出すように呟いた。
「そうなの」
「慣れてなかったし、ベッドの上だったんだけど」
ルビィは頷いて見せた。
「今思うと緊張しすぎて、パニクっちゃってたんだって判るけどさ、ベンジャミンは儀式の時に抱かせて貰ったけど、自分の子だと思ったら緊張しちゃって」
つまり、失敗を恐れていたために、逆に失敗したのだ。
「エンヴィの方が、実は上手だったんだよね」
荒んでいて、その手の経験は皆無だった筈のエンヴィは、何故か平気であやしていたのだ。
「意外だな」
「でも、エンヴィって、昔はあんなだったけど、根は優しかったんじゃないかなぁ」
シオンは人差し指を顎に持って行く。
シオンはトゥーイに何とも言えない笑みを向けた。
「僕達の子でそんなんだったら、自分の子の時はどうするのさ。帰るまで、その子よろしくね」
トゥーイは更に固まる。
「そうだ。フィネイもね。その子、肝がすわってるみたいだし、温和しいと思うから。それに、二人のために少し早く生まれたんだし、帰るまで一緒にいてあげてね」
シオンは更に微笑みを浮かべた。確かに、シオンが産気付いたとき、予定より少し早かったため、アレンとファジールは慌てたのだ。
「やっぱり、そうなるのか」
アレンはシオンを見下ろす。
「だと思うけど。臨月だったのは確かだけどさ」
シオンは首を傾げながら、確信しているようだ。
フィネイはいきなり自分に矛先が向いたことに、困惑した。恐る恐るシオンとアレンの様子を伺う。
「俺も」
小さく問う声にシオンははっきり頷いた。
「そうだ」
シオンは何かを思い出したように、両手を打つ。これには流石のアレンとルビィも驚きを隠せなかった。
「その子に花嫁の祝福を頂戴」
シオンはうっとりと呟いた。
「なんだ、それ」
アレンはルビィの《婚礼の儀》の女性達の会話を知らない。だからの問いだった。
「シオンも拘るね」
ルビィは苦笑を漏らした。
「だってさ。二人の儀式って二ヶ月後でしょ。絶対、連れて行くのを反対されるもの」
折角、花嫁と赤子が出会ったのだ。祝福して貰いたい。
「シアンの時はルビィだったし。この子はトゥーイだよ。こんな巡り合わせないじゃない」
アレンはシオンがあまりに悦に浸っているので、呆然となった。そんなに重要なのかと、疑っているように見える。
「重要な事なのか」
アレンは素直に疑問を口にする。
「重要だよ。吸血族が結婚するのは珍しいんだから。それと同じくらい出産も珍しいでしょ。その二つが同時期に出会うなんて奇跡なんだよ」
アレンは感動が薄いと、シオンは不貞腐れたように頬を膨らませる。
「まあ、確かに珍しいのは判るけどな」
「でしょ。しかも、薔薇の祝福だよ。効果ありそうじゃない」
ルビィはシオンが更にうっとりとしているのを見て、小さく吹き出した。本気で言っているところがシオンらしい。
「そこ、笑うとこじゃないと思うんだけど」
シオンはルビィを見上げる。
「カイファスも同じ反応示すと思うんだけど」
「そんなことない。カイファスだって祝福して欲しい筈」
両手を組み合わせ、更に暴走したようにまくし立てる。
「あれ、カイファス達にも知らせたんだよね」
「ゼロスが仕事で不在だからな。帰ってきてから来るように伝えた。妊婦が空を翔るなんて考えたくもない」
アレンはうんざりしたように吐き捨てた。三人はアレンの様子に、シオンが異常に大人しくしている理由が判るような気がした。
シオンだけを基準にしてだが、普通の妊婦より動き回っていることは否定しない。お手本がジゼルなのだから、仕方ないと言えば仕方ない。
「祝福って」
トゥーイは固まったまま、問い掛けた。
「トゥーイがこの子のおでこにキスすればいいだけ。頬でもいいけど」
ルビィはトゥーイに近付き、赤子の頬をつついた。それでもピクリともしないのだから、ある意味、大物だ。
「シオンのお腹の中で、大変な目にあったからかなぁ」
この、落ち着き方は、とルビィは微笑んだ。
大変な目に合わせた張本人達は黙り込む。
「そうだ。花婿の祝福も頂戴」
シオンのこの言葉に、ルビィは固まった。
「聞いたこと無いけど」
「僕も無いけど、二人から貰ったら、祝福二倍」
シオンは本当に嬉しそうだ。アレンは諦めたように、二人に顔を向けた。
「言う通りにしてもらえるか。言い出したら聞かないんだ」
盛大に溜め息を吐き出し、アレンは申し訳無さそうに肩を落とす。
トゥーイとフィネイは顔を見合わせ、赤子を見やり、頷いた。
†††
「アレン、この包み何」
シオンはアレンが抱えている少し大きめの包みを指差す。
「これか。お袋に、二人の母親に渡すように言われた。渡せば判るんだと」
シオンは首を傾げた。
「で、ベンジャミンは何で、そんなに緊張してるの」
ベンジャミンは泣きそうな顔でシオンを見上げた。本来なら、黒薔薇の主治医であるファジールが出席するのが筋なのだが、アレンも出席するため、ベンジャミンが代理で儀式に参加することになったのだ。
成人前に儀式に出席するのは異例だが、ベンジャミンは二人と面識がある。黒の長と白の長に許可を貰っているので、問題はないのだが、ベンジャミンにしてみれば一杯一杯になるのは仕方ない。
「お前は楽しんだらいい。各部族の主治医には俺が挨拶する」
アレンはベンジャミンの頭に手を乗せた。ベンジャミンはアレンを見上げ、小さく首を横に振る。
「僕は父さんの代理なんでしょう」
「そんなの、表向きだ」
アレンは呆れたように言葉を吐き出した。誰もベンジャミンに一人前の行動を求めているわけではない。
アレンだけでも問題なかった。だが、アレンは薔薇の関係者として出席するため、体面が必要だったに過ぎない。
ファジールが出席出来れば問題ないのだが、アレンも不在になると、黒薔薇で何かあったとき対応出来ないからだ。
「本来なら俺だけでも十分なんだ。お前は儀式がどんなものか、体験するだけだ。まだ、子供なんだから、変に大人ぶるのはよせ」
わかったな、と言われ、ベンジャミンは頷くと同時に体から力が抜けたようだった。
「みんなはまだかなぁ」
三人は二人の住む館のエントランスに立っていた。
シオンは辺りを見渡す。儀式当日だと言うのに、人影はまばらだった。それが、妙に気になった。
「参加者って少ないの」
シオンは首を傾げる。
「出席者は各部族長に、各主治医、薔薇の夫婦だけなのですよ」
背後から聞こえてきた声に、三人は振り返った。そこに居たのは黒の長、カイファスとゼロスだ。
「先に来てたんだね」
シオンはカイファスに抱き付く。
「お前は相変わらずだな」
ゼロスは苦笑混じりにシオンを見下ろした。シオンは満面の笑みを向け、更にカイファスに抱き付いた。
「ベンジャミン、確かに代理ですが、アレンの言う通り、子供らしくしていなさい。面倒なことはアレンに任せればよいのですよ」
黒の長に微笑まれ、ベンジャミンは素直に頷いた。
「エンヴィ達はまだなのか」
ゼロスはてっきり、一緒に来ると思っていた。だが、姿が見えない。
「最初、その予定だったんだけどな。後から来るって言ってたんだが」
アレンは首を傾げつつ、入り口に視線を向けた。館の敷地の外、つまり、柵の前には人集りが出来ていた。白の長に締め出された、野次馬達だ。
「こうなることは予測済みでしたが、ここまでとは」
黒の長は呆れたように呟いた。
トゥーイとフィネイは幼いときから、好奇の目に晒されて育った。《婚礼の儀》は二人が一緒に生きていくための神聖な儀式なのだ。
カイファスとシオンのときは仕方がなかったが、四組目の薔薇の《婚礼の儀》を、部族長達は汚されたくなかったに違いない。
そんな中、扉が開かれ、ルビィとエンヴィが飛び込んできた。二人は驚いたように外を見、慌てて扉を閉めた。
「吃驚した。二人の儀式のときも凄かったけど、今回はもっと凄いんだもん」
ルビィは荒い息を吐き出した。
「遅かったな」
「調香していたのが出来上がったから、それの仕上げをしてたんだ」
エンヴィは動じる風もなく、淡々と語る。
「出来たのか」
アレンの問いに、エンヴィは頷いた。
「出来たって、白姫の香水のこと」
シオンはカイファスから体を離し、エンヴィを見やる。
「白姫って何だ」
ゼロスは疑問を口にした。
「白姫は薔薇だよ。花もだけど、葉も茎も真っ白なの。僕も見たとき吃驚してさ。良い香りがするの。でも、増えなくって、香水の材料には向かなかったんだけど」
「祝い用に作ってみたってことか」
エンヴィは頷いた。
「聞いてみてもえるか。出来は悪くないと思う」
エンヴィはアレンに小さな香水瓶を差し出した。
「ルビィ、どうしたのさ」
エンヴィがアレンに香水瓶を渡しているのを見ていたルビィが、真っ赤に顔を染めていた。シオンはルビィに近付き、顔を覗き込む。
「あの時のこと、覚えてる」
ルビィは口ごもりながら、小さな声で訊いてきた。
「あの時って」
「トゥーイが目を覚ましたとき」
シオンは部屋の中に広がった香りを思い出す。甘く、そして、切ない薔薇の香り。
「それが、何」
ルビィは恥ずかしいのか、俯いてしまう。
「……エンヴィが白姫を摘んできたときに気が付いたんだけど、あの薔薇、トゥーイの香りに近いんだよ」
両頬を両手で包み込み、ルビィは更に恥じらう。シオンは白姫の香りとトゥーイの香りを思い出してみた。
「そんなに似てるかなぁ」
シオンは首を傾げた。アレンとエンヴィに視線を向けると、真剣に香水について話しているようだ。ゼロスは近付いていったが、香水の強い香りに眉を顰めている。その様子に、アレンは笑い、エンヴィは複雑な表情を見せる。
「摘んだら似てる感じになるのかも」
ルビィは頬を染めたまま、シオンを見た。
「何の話しをしてるんだ」
カイファスは興味深々で二人に歩み寄る。
「香水の話しなんだけど、白姫がトゥーイの香りに似てるって」
シオンはそこまで言い、何かを思い付いたように、三人に駆け寄る。
カイファスとルビィは顔を見合わせた。
「ねえ、三人に訊きたいことがあるんだけど」
シオンが満面の笑みで、三人に問い掛ける。
「どうかしたのか」
アレンは不思議そうにシオンを見下ろす。
「僕達の香りって興奮するんでしょ。それって、自分の奥さん限定」
シオンは小首を傾げ、更に笑みを見せる。そのとんでもない問い掛けに、三人は見事に固まった。
「その香水で興奮したりする」
シオンはアレンが手にしている香水瓶を指差す。
アレンは香水瓶に視線を落とし、更に判らないという表情を見せた。
「香水とお前達の香りは質が全く違う。興奮するわけないじゃねぇか」
エンヴィは困惑したようにシオンを見た。
「じゃあ、エンヴィは僕の香りで興奮したりする」
エンヴィは大きな溜め息を吐いた。
「俺達は多分、お前達の香りに耐性がある。自分の相手の香り以外では興奮しねぇだろうな」
つまり、夫以外なら興奮すると言っているようだ。
「じゃあ、フィネイも同じだよね」
シオンは目を輝かせ、何かとんでもないことを思い付いたようだ。
「その香水、貸してもらえる」
シオンは有無を言わせない表情で両手を差し出す。それに危険信号を受けとったのはアレンだ。よからぬことを考えていると、直感的に察した。
「何をする気なんだ」
「フィネイを興奮させる」
シオンはとんでもないことをサラリと言ってのけた。更に三人は困惑したように、互いの顔を見合わせる。
「ルビィがね、白姫がトゥーイの香りに似てるって言うから、フィネイには効果あるかもだし」
シオンは楽しそうに、クスクスと笑った。
エンヴィは軽く目を見張る。そう言えば、ルビィは白姫の香水の香りが漂うと、頬を染めていた。
「何時、嗅いだんだ」
アレンはシオンの顔を覗き込む。
「トゥーイが目を覚ましたとき。凄く芳香したの」
でもね、とシオンは首を傾げた。確かに凄い香りだったのだが、直ぐに霧散したのだ。アレンが来たときには、微かに香る程度だった。
「消えただって」
「そう。だから、僕とルビィだけが、直接、香りに触れたんだよ」
だからと、シオンは再び手を差し出す。
「何か、いっつも僕達薔薇ばっかり求めちゃうじゃない。だからね、フィネイにトゥーイを襲ってもらいたいんだ」
三人は更に更に固まった。つまりは、興奮させるのに、香水を使うと言っているのだ。
「可能なのか」
「判んないけど、僕達って興奮しないと香らないし。それに、フィネイはトゥーイの香りを知ってるから、効果は絶対にある筈」
シオンは右手の人差し指を立て、確信に満ちた言葉を吐き出す。その姿に、アレンはあからさまに溜め息を吐いた。
「どうしてそう、かき回したがるんだ」
シオンはアレンに邪気のない笑みを見せた。
「幸せなら良いじゃない」
シオンは手を体の後ろで組みながら、言ってのける。
「こうなったら、止まらないだろう」
ゼロスはアレンに諦めるように言った。シオンが邪気のない笑顔を向けるとき、それは明らかに何かを企んでいるときだ。そうなると、誰にも止められなかった。
黒の長とベンジャミンはいきなりの展開に、目を見開く。滅多に驚くことのない黒の長を以てしても、シオンの言動は驚きしか浮かばない。
ベンジャミンは子供故に判らなかったが、シオンがあの表情を見せると、兄が困り果てるのを知っていた。
カイファスとルビィは苦笑いしていた。確かに、自分達は、夫を襲ってしまっていた。結果がカイファスの妊娠であり、シオンは最近出産し、ルーチェンが生まれたのも実質、ルビィがエンヴィを襲ったのだ。
「効果が無くても、だだをこねないと約束しろ」
アレンはきっぱりと釘を差す。シオンは少し不満を表情に見せたのだが、渋々頷いた。そして、香水瓶と共に、ジゼルから預かっていた包みを一緒に手渡す。
「その様子だと、トゥーイの居る所に直行だろう」
アレンは呆れたように両手を腰に当てた。
「俺は挨拶にまわらないといけないからな」
それにと、花婿より先に花嫁を見るのは失礼だと、嘆息する。それには、ゼロスとエンヴィも頷いた。
「お前達は行ってこい。多分、時間は少ないだろうから、手短にしろよ」
シオンは手渡された包みが、思いの外、重たいことに驚いていた。アレンが軽々と扱っていたからだ。
黒の長は苦笑しながら、トゥーイが居る部屋を教えてくれた。何故知っているのかとカイファスが問うと、母親が三人に知らせてほしいと頼んだようだった。
検査を一通り終え、問題がないと判断され、フィネイと明日、白薔薇に帰ると話している最中だった。
トゥーイがアレンに助けられ、館に連れて来られたときは八ヶ月だったと言うから、今思えば、相当、迷惑を掛けていたことになる。
伺うように覗き込むトゥーイに気が付いたシオンが、満面の笑みを向けた。その姿は最初に見た女性の姿ではなく、短くなった髪の、男性の姿に変わっていた。
「そんなとこに居ないで、入っといでよ」
シオンは笑いながら体を起こした。トゥーイは躊躇いがちにシオンの前まで歩いて行く。
「……大丈夫だったのか」
トゥーイにとって、妊娠、出産は未知の世界だ。
「平気。二回目だし」
ただ、初乳を与えてしまった後、いきなり変化が始まるのが辛いのだと、屈託なく言ってのける。
「そうなのか」
「うん。まあ、トゥーイも直ぐ体験出来るよ」
明るく、当たり前のように言われ、トゥーイは黙り込んでしまった。
黙り込んでしまったトゥーイに、シオンは下から顔を覗き込む。フィネイがトゥーイは一杯一杯になると黙り込んでしまうのだと、そう、笑いながら言っていたのを思い出す。
トゥーイは話題を変えようと、辺りを見渡す。そして、室内にシオンしか居ないことに気が付いた。キョロキョロと辺りを見渡しているトゥーイに、シオンは笑い出した。
「赤ちゃんはアレンが連れて行ったんだ。直ぐ、戻ってくるよ」
医者故なのか、アレンとファジールは無駄に心配する。つまり、何事もないかを調べずには居られないらしい。
「今日、帰るのかな」
シオンの問いに、トゥーイは首を横に振る。
「明日、帰るんだ」
シオンが出産したことで、慌ただしくなってしまった。結果、薬師であるフィネイが手伝うことになり、予定が変わったのだ。
トゥーイも薬師の知識はあるが、破壊的に繊細な仕事に向かないことはフィネイがよく判っている。そのため、トゥーイはただ、落ち着かない状態のまま、ジゼルと共に待っていることしか出来なかった。
「赤ちゃんに会っていってね」
シオンはいきなりきた陣痛は、トゥーイ達が帰るからなのだと判っていた。
「会いたくって出てきたと思うから」
シオンはクスクスと笑った。トゥーイは固まる。
「そんな事ってあるのか」
素直に疑問を口にした。
「どうかなあ。でも、会いたかったんだよ」
シオンは確信しているように言う。
「此処に居たのか」
背後からの声に、トゥーイは振り返った。其処に居たのは赤子を抱いたアレンとフィネイ。
「大丈夫だったでしょ」
シオンはアレンに問い掛ける。アレンは頷くとシオンに赤子を抱かせた。シオンの腕の中の赤子をトゥーイは覗き込む。
まだ薄い髪の毛は金色の巻き髪。瞼には短いまでも、きちんと睫毛があり、指にも小さな爪がある。
トゥーイは思わず見入っていた。自分の右手の親指をおしゃぶり代わりにしている。
「まだ、目が開かないから、色は判らないね」
「そうだな。まあ、視力も問題無さそうだから、無事なら何色でもいいだろう」
アレンも赤子をのぞき込む。
「抱いてみる」
トゥーイはシオンの言葉に首を振った。いくらおくるみに包まれていても、産まれて間もない赤子の首がすわっていないことくらい知っている。
「それはやめといた方がいい」
苦笑混じりに言ったのはフィネイだ。シオンは目を瞬かせ、驚いたようにフィネイに顔を向けた。
「おそらく、トゥーイが赤子を産んだとしても、母さんは抱かせたがらないな」
トゥーイは固まった状態で、首だけ動かしフィネイを見た。
「どうしてさ」
「トゥーイの場合、破壊的過ぎる不器用さで、どうなるか予測不可能だから」
シオンの問いに、フィネイは淀みなく答えた。
「そんなに酷いのか」
アレンは呆れ気味に呟く。
「見たら、有り得ないと絶対に誰もが思う」
フィネイはきっぱり、はっきり言い切った。
「カイファスから聞いたんだけど、本当なの」
シオンは訝し気に問い掛けた。二人が完全に意識を手放した一ヶ月、その間に三人で話した内容をシオンは聞いたのだ。
「……乳鉢が飛んで、薬草が散乱するって」
アレンはシオンの言葉に、素っ頓狂な声を発した。アレンは聞いていなかったからだ。
「普通、飛ぶようなもんじゃないだろう。結構な重さがあるんだぞ」
アレンは目を見開く。
「僕もさ、何回も聞いたんだけど、二人はそう聞いたって」
本人が言っていたのだから、間違いないのだろうとカイファスは言っていたが、聞いた本人が信じられない様子だった。
「その乳鉢が飛ぶんだ。しかも、最大サイズのが」
フィネイは腕を組み、笑いを含んだ声音で肯定した。
「それは不器用とかの次元じゃないような気がするぞ」
アレンは呆れたように両手を腰に当て、トゥーイを見下ろした。トゥーイはといえば、恥ずかしさと情けなさで黙り込んでいる。
「此奴、頭は俺より良いと思うんだ。ただ、技術が破壊的に身に付かない。介助しながらしても、半分も残らないからなぁ」
わざとらしく溜め息を吐く。トゥーイはフィネイの物言いにカチンときたのか、勢い良く反論するために顔を上げた。視界に入って来た表情に、思わず脱力する。
フィネイは明らかにトゥーイをからかっていた。その場にしゃがみ込み、唸り声を上げる。
「もしかして、遊んでたりする」
シオンは首を傾げ、フィネイを見た。フィネイの表情は訊くまでもなく、雄弁に語っていた。
「今までの仕返しか」
アレンはそう問い掛けた。
「隠す必要も無くなったし、本性を現しても咎められないだろう」
満面の笑みを二人に向けた。
「つまり、偽ってた分、正直にトゥーイで遊ぶってことかな」
シオンは納得したように頷いた。気持ちを隠すために、かなり偽りの仮面を被っていたに違いない。今のフィネイは吹っ切れたように、爽やかでさえある。
「お前、両親も戸惑うんじゃないか。かなり、変わったって言うか、元に戻ったのか」
アレンは腕を組むと、首を傾げた。
「俺的には元に戻ったになるのかな」
フィネイは笑いながら、答えた。
「生まれたんだって」
いきなり飛び込んで来たのはルビィだった。
「ルビィだ」
シオンはその姿にルーチェンを見た。やはり、親子なのだと納得出来る。トゥーイはその声に顔を上げた。
「あれ。トゥーイ、どうしたの」
ルビィは近付いて初めて、しゃがみ込んでいるトゥーイに気が付いた。
「遊ばれてたの」
シオンは面白そうに、笑みを見せながら、さらりと言ってのけた。
ルビィはきょとんとした表情を見せ、振り返りフィネイを見た。
「って、フィネイが」
「他に誰が居るのさ。僕とアレンが遊ぶわけ無いじゃない」
ルビィはそんなことは無いのでは、と内心思ったのだが、その言葉を飲み込む。
「エンヴィはどうした」
アレンは何時も一緒に現れるエンヴィの姿がないことに、首を傾げた。
「実はルーが来たがっちゃって、エンヴィは誤魔化すために、来なかったんだ」
ルーチェンのベンジャミンに対する執着心は並ではないようだ。
「それより、その子だね」
ルビィはシオンの腕に抱かれ、この騒ぎの中でも眠り続けている赤ちゃんを覗き込む。
「髪の毛はシオンに似たんだね」
「みたい。僕的には癖っ毛は似て貰いたくなかったんだけど」
「どうして」
癖一つ無い直毛のルビィにしてみれば、柔らかい癖毛はある意味、羨ましかった。
「僕も髪が長くなる前は気にもしなかったんだけどさ、絡まるんだよね」
大変なのだと、嘆息する。
「あれ、ジゼルさんも癖毛だよね」
シオンとアレンは頷いた。
「お袋も、髪には困ってるみたいだな」
アレンは思い出す。幼いとき、ジゼルはアレンの真っ直ぐな髪が羨ましいと漏らしていた。アレンの髪を女の子のように結い上げながらだったが……。
「抱かせて貰っても良い」
「いいよ」
ルビィは赤ちゃんを抱き上げる。その重さに懐かしさが込み上げる。ルーチェンを初めて抱き上げたときのことが、まざまざと思い出された。
「トゥーイは抱っこしたの」
不意にルビィはシオンに問い掛けた。シオンとアレンは苦笑いを浮かべ、トゥーイは唸り声を上げる。
そして、フィネイは意地の悪い笑みを浮かべた。
「それがね。遊ばれてる原因なんだよね」
シオンは困ったようにルビィを見上げた。
「破壊的に不器用なんでしょ」
ルビィは目を見開いた。ただ、抱っこするだけなのに、不器用は関係ないのではないか。
「……不器用と抱っこは違うと思うんだけど」
ルビィは尤もなことを言った。ただ、抱き上げるだけだ。何か、難しいことをするわけではない。
「何だけどね」
ルビィはしゃがみ込んでいるトゥーイを見下ろす。
ルビィは少し考えるような仕草をした後、トゥーイに立つように促した。トゥーイは首を傾げながら、渋々、立ち上がる。
「はい」
ルビィは満面の笑みで、赤子をトゥーイの腕に抱かせた。慌てたのはトゥーイだ。親であるシオンとアレンは平然としていた。フィネイはルビィの行動に咄嗟に体が動いた。
「ほら、何ともない」
ルビィは赤子の顔を覗き込む。安らかな寝顔は変わらない。
「美人さんだね」
ルビィはアレンに女の子、と訊いていたのだが、トゥーイはそれどころではない。
体が固まり、動けない状態になった。変に力が入っているのか、緊張しすぎている為なのか、背中を冷たい汗が伝う。
フィネイはゆっくり近付くと、下から覗き込むように見上げた。表情が強張り、まさに一杯一杯なのが手に取るように判る。
「体の力を抜いたらどうなんだ」
流石のフィネイも少し呆れ気味だ。トゥーイはぎこちない動きでフィネイを見やり、小さく首を振る。首を振るだけで、精一杯だった。
「……無理……動いたら、絶対、落とすから……」
何とか言葉を口にした。
そのトゥーイの様子に気が付いた三人は、言葉を失った。トゥーイの姿は完全に固まり、置物状態になっていた。
「落ちても大丈夫だって」
シオンは冗談混じりに笑った。
「まあ、下は絨毯だしな。しっかり、おくるみに包んであるし、平気だろう」
アレンも平然と言ってのける。
「僕も最初の頃、ルーを落としちゃったことあってさ」
ルビィは思い出すように呟いた。
「そうなの」
「慣れてなかったし、ベッドの上だったんだけど」
ルビィは頷いて見せた。
「今思うと緊張しすぎて、パニクっちゃってたんだって判るけどさ、ベンジャミンは儀式の時に抱かせて貰ったけど、自分の子だと思ったら緊張しちゃって」
つまり、失敗を恐れていたために、逆に失敗したのだ。
「エンヴィの方が、実は上手だったんだよね」
荒んでいて、その手の経験は皆無だった筈のエンヴィは、何故か平気であやしていたのだ。
「意外だな」
「でも、エンヴィって、昔はあんなだったけど、根は優しかったんじゃないかなぁ」
シオンは人差し指を顎に持って行く。
シオンはトゥーイに何とも言えない笑みを向けた。
「僕達の子でそんなんだったら、自分の子の時はどうするのさ。帰るまで、その子よろしくね」
トゥーイは更に固まる。
「そうだ。フィネイもね。その子、肝がすわってるみたいだし、温和しいと思うから。それに、二人のために少し早く生まれたんだし、帰るまで一緒にいてあげてね」
シオンは更に微笑みを浮かべた。確かに、シオンが産気付いたとき、予定より少し早かったため、アレンとファジールは慌てたのだ。
「やっぱり、そうなるのか」
アレンはシオンを見下ろす。
「だと思うけど。臨月だったのは確かだけどさ」
シオンは首を傾げながら、確信しているようだ。
フィネイはいきなり自分に矛先が向いたことに、困惑した。恐る恐るシオンとアレンの様子を伺う。
「俺も」
小さく問う声にシオンははっきり頷いた。
「そうだ」
シオンは何かを思い出したように、両手を打つ。これには流石のアレンとルビィも驚きを隠せなかった。
「その子に花嫁の祝福を頂戴」
シオンはうっとりと呟いた。
「なんだ、それ」
アレンはルビィの《婚礼の儀》の女性達の会話を知らない。だからの問いだった。
「シオンも拘るね」
ルビィは苦笑を漏らした。
「だってさ。二人の儀式って二ヶ月後でしょ。絶対、連れて行くのを反対されるもの」
折角、花嫁と赤子が出会ったのだ。祝福して貰いたい。
「シアンの時はルビィだったし。この子はトゥーイだよ。こんな巡り合わせないじゃない」
アレンはシオンがあまりに悦に浸っているので、呆然となった。そんなに重要なのかと、疑っているように見える。
「重要な事なのか」
アレンは素直に疑問を口にする。
「重要だよ。吸血族が結婚するのは珍しいんだから。それと同じくらい出産も珍しいでしょ。その二つが同時期に出会うなんて奇跡なんだよ」
アレンは感動が薄いと、シオンは不貞腐れたように頬を膨らませる。
「まあ、確かに珍しいのは判るけどな」
「でしょ。しかも、薔薇の祝福だよ。効果ありそうじゃない」
ルビィはシオンが更にうっとりとしているのを見て、小さく吹き出した。本気で言っているところがシオンらしい。
「そこ、笑うとこじゃないと思うんだけど」
シオンはルビィを見上げる。
「カイファスも同じ反応示すと思うんだけど」
「そんなことない。カイファスだって祝福して欲しい筈」
両手を組み合わせ、更に暴走したようにまくし立てる。
「あれ、カイファス達にも知らせたんだよね」
「ゼロスが仕事で不在だからな。帰ってきてから来るように伝えた。妊婦が空を翔るなんて考えたくもない」
アレンはうんざりしたように吐き捨てた。三人はアレンの様子に、シオンが異常に大人しくしている理由が判るような気がした。
シオンだけを基準にしてだが、普通の妊婦より動き回っていることは否定しない。お手本がジゼルなのだから、仕方ないと言えば仕方ない。
「祝福って」
トゥーイは固まったまま、問い掛けた。
「トゥーイがこの子のおでこにキスすればいいだけ。頬でもいいけど」
ルビィはトゥーイに近付き、赤子の頬をつついた。それでもピクリともしないのだから、ある意味、大物だ。
「シオンのお腹の中で、大変な目にあったからかなぁ」
この、落ち着き方は、とルビィは微笑んだ。
大変な目に合わせた張本人達は黙り込む。
「そうだ。花婿の祝福も頂戴」
シオンのこの言葉に、ルビィは固まった。
「聞いたこと無いけど」
「僕も無いけど、二人から貰ったら、祝福二倍」
シオンは本当に嬉しそうだ。アレンは諦めたように、二人に顔を向けた。
「言う通りにしてもらえるか。言い出したら聞かないんだ」
盛大に溜め息を吐き出し、アレンは申し訳無さそうに肩を落とす。
トゥーイとフィネイは顔を見合わせ、赤子を見やり、頷いた。
†††
「アレン、この包み何」
シオンはアレンが抱えている少し大きめの包みを指差す。
「これか。お袋に、二人の母親に渡すように言われた。渡せば判るんだと」
シオンは首を傾げた。
「で、ベンジャミンは何で、そんなに緊張してるの」
ベンジャミンは泣きそうな顔でシオンを見上げた。本来なら、黒薔薇の主治医であるファジールが出席するのが筋なのだが、アレンも出席するため、ベンジャミンが代理で儀式に参加することになったのだ。
成人前に儀式に出席するのは異例だが、ベンジャミンは二人と面識がある。黒の長と白の長に許可を貰っているので、問題はないのだが、ベンジャミンにしてみれば一杯一杯になるのは仕方ない。
「お前は楽しんだらいい。各部族の主治医には俺が挨拶する」
アレンはベンジャミンの頭に手を乗せた。ベンジャミンはアレンを見上げ、小さく首を横に振る。
「僕は父さんの代理なんでしょう」
「そんなの、表向きだ」
アレンは呆れたように言葉を吐き出した。誰もベンジャミンに一人前の行動を求めているわけではない。
アレンだけでも問題なかった。だが、アレンは薔薇の関係者として出席するため、体面が必要だったに過ぎない。
ファジールが出席出来れば問題ないのだが、アレンも不在になると、黒薔薇で何かあったとき対応出来ないからだ。
「本来なら俺だけでも十分なんだ。お前は儀式がどんなものか、体験するだけだ。まだ、子供なんだから、変に大人ぶるのはよせ」
わかったな、と言われ、ベンジャミンは頷くと同時に体から力が抜けたようだった。
「みんなはまだかなぁ」
三人は二人の住む館のエントランスに立っていた。
シオンは辺りを見渡す。儀式当日だと言うのに、人影はまばらだった。それが、妙に気になった。
「参加者って少ないの」
シオンは首を傾げる。
「出席者は各部族長に、各主治医、薔薇の夫婦だけなのですよ」
背後から聞こえてきた声に、三人は振り返った。そこに居たのは黒の長、カイファスとゼロスだ。
「先に来てたんだね」
シオンはカイファスに抱き付く。
「お前は相変わらずだな」
ゼロスは苦笑混じりにシオンを見下ろした。シオンは満面の笑みを向け、更にカイファスに抱き付いた。
「ベンジャミン、確かに代理ですが、アレンの言う通り、子供らしくしていなさい。面倒なことはアレンに任せればよいのですよ」
黒の長に微笑まれ、ベンジャミンは素直に頷いた。
「エンヴィ達はまだなのか」
ゼロスはてっきり、一緒に来ると思っていた。だが、姿が見えない。
「最初、その予定だったんだけどな。後から来るって言ってたんだが」
アレンは首を傾げつつ、入り口に視線を向けた。館の敷地の外、つまり、柵の前には人集りが出来ていた。白の長に締め出された、野次馬達だ。
「こうなることは予測済みでしたが、ここまでとは」
黒の長は呆れたように呟いた。
トゥーイとフィネイは幼いときから、好奇の目に晒されて育った。《婚礼の儀》は二人が一緒に生きていくための神聖な儀式なのだ。
カイファスとシオンのときは仕方がなかったが、四組目の薔薇の《婚礼の儀》を、部族長達は汚されたくなかったに違いない。
そんな中、扉が開かれ、ルビィとエンヴィが飛び込んできた。二人は驚いたように外を見、慌てて扉を閉めた。
「吃驚した。二人の儀式のときも凄かったけど、今回はもっと凄いんだもん」
ルビィは荒い息を吐き出した。
「遅かったな」
「調香していたのが出来上がったから、それの仕上げをしてたんだ」
エンヴィは動じる風もなく、淡々と語る。
「出来たのか」
アレンの問いに、エンヴィは頷いた。
「出来たって、白姫の香水のこと」
シオンはカイファスから体を離し、エンヴィを見やる。
「白姫って何だ」
ゼロスは疑問を口にした。
「白姫は薔薇だよ。花もだけど、葉も茎も真っ白なの。僕も見たとき吃驚してさ。良い香りがするの。でも、増えなくって、香水の材料には向かなかったんだけど」
「祝い用に作ってみたってことか」
エンヴィは頷いた。
「聞いてみてもえるか。出来は悪くないと思う」
エンヴィはアレンに小さな香水瓶を差し出した。
「ルビィ、どうしたのさ」
エンヴィがアレンに香水瓶を渡しているのを見ていたルビィが、真っ赤に顔を染めていた。シオンはルビィに近付き、顔を覗き込む。
「あの時のこと、覚えてる」
ルビィは口ごもりながら、小さな声で訊いてきた。
「あの時って」
「トゥーイが目を覚ましたとき」
シオンは部屋の中に広がった香りを思い出す。甘く、そして、切ない薔薇の香り。
「それが、何」
ルビィは恥ずかしいのか、俯いてしまう。
「……エンヴィが白姫を摘んできたときに気が付いたんだけど、あの薔薇、トゥーイの香りに近いんだよ」
両頬を両手で包み込み、ルビィは更に恥じらう。シオンは白姫の香りとトゥーイの香りを思い出してみた。
「そんなに似てるかなぁ」
シオンは首を傾げた。アレンとエンヴィに視線を向けると、真剣に香水について話しているようだ。ゼロスは近付いていったが、香水の強い香りに眉を顰めている。その様子に、アレンは笑い、エンヴィは複雑な表情を見せる。
「摘んだら似てる感じになるのかも」
ルビィは頬を染めたまま、シオンを見た。
「何の話しをしてるんだ」
カイファスは興味深々で二人に歩み寄る。
「香水の話しなんだけど、白姫がトゥーイの香りに似てるって」
シオンはそこまで言い、何かを思い付いたように、三人に駆け寄る。
カイファスとルビィは顔を見合わせた。
「ねえ、三人に訊きたいことがあるんだけど」
シオンが満面の笑みで、三人に問い掛ける。
「どうかしたのか」
アレンは不思議そうにシオンを見下ろす。
「僕達の香りって興奮するんでしょ。それって、自分の奥さん限定」
シオンは小首を傾げ、更に笑みを見せる。そのとんでもない問い掛けに、三人は見事に固まった。
「その香水で興奮したりする」
シオンはアレンが手にしている香水瓶を指差す。
アレンは香水瓶に視線を落とし、更に判らないという表情を見せた。
「香水とお前達の香りは質が全く違う。興奮するわけないじゃねぇか」
エンヴィは困惑したようにシオンを見た。
「じゃあ、エンヴィは僕の香りで興奮したりする」
エンヴィは大きな溜め息を吐いた。
「俺達は多分、お前達の香りに耐性がある。自分の相手の香り以外では興奮しねぇだろうな」
つまり、夫以外なら興奮すると言っているようだ。
「じゃあ、フィネイも同じだよね」
シオンは目を輝かせ、何かとんでもないことを思い付いたようだ。
「その香水、貸してもらえる」
シオンは有無を言わせない表情で両手を差し出す。それに危険信号を受けとったのはアレンだ。よからぬことを考えていると、直感的に察した。
「何をする気なんだ」
「フィネイを興奮させる」
シオンはとんでもないことをサラリと言ってのけた。更に三人は困惑したように、互いの顔を見合わせる。
「ルビィがね、白姫がトゥーイの香りに似てるって言うから、フィネイには効果あるかもだし」
シオンは楽しそうに、クスクスと笑った。
エンヴィは軽く目を見張る。そう言えば、ルビィは白姫の香水の香りが漂うと、頬を染めていた。
「何時、嗅いだんだ」
アレンはシオンの顔を覗き込む。
「トゥーイが目を覚ましたとき。凄く芳香したの」
でもね、とシオンは首を傾げた。確かに凄い香りだったのだが、直ぐに霧散したのだ。アレンが来たときには、微かに香る程度だった。
「消えただって」
「そう。だから、僕とルビィだけが、直接、香りに触れたんだよ」
だからと、シオンは再び手を差し出す。
「何か、いっつも僕達薔薇ばっかり求めちゃうじゃない。だからね、フィネイにトゥーイを襲ってもらいたいんだ」
三人は更に更に固まった。つまりは、興奮させるのに、香水を使うと言っているのだ。
「可能なのか」
「判んないけど、僕達って興奮しないと香らないし。それに、フィネイはトゥーイの香りを知ってるから、効果は絶対にある筈」
シオンは右手の人差し指を立て、確信に満ちた言葉を吐き出す。その姿に、アレンはあからさまに溜め息を吐いた。
「どうしてそう、かき回したがるんだ」
シオンはアレンに邪気のない笑みを見せた。
「幸せなら良いじゃない」
シオンは手を体の後ろで組みながら、言ってのける。
「こうなったら、止まらないだろう」
ゼロスはアレンに諦めるように言った。シオンが邪気のない笑顔を向けるとき、それは明らかに何かを企んでいるときだ。そうなると、誰にも止められなかった。
黒の長とベンジャミンはいきなりの展開に、目を見開く。滅多に驚くことのない黒の長を以てしても、シオンの言動は驚きしか浮かばない。
ベンジャミンは子供故に判らなかったが、シオンがあの表情を見せると、兄が困り果てるのを知っていた。
カイファスとルビィは苦笑いしていた。確かに、自分達は、夫を襲ってしまっていた。結果がカイファスの妊娠であり、シオンは最近出産し、ルーチェンが生まれたのも実質、ルビィがエンヴィを襲ったのだ。
「効果が無くても、だだをこねないと約束しろ」
アレンはきっぱりと釘を差す。シオンは少し不満を表情に見せたのだが、渋々頷いた。そして、香水瓶と共に、ジゼルから預かっていた包みを一緒に手渡す。
「その様子だと、トゥーイの居る所に直行だろう」
アレンは呆れたように両手を腰に当てた。
「俺は挨拶にまわらないといけないからな」
それにと、花婿より先に花嫁を見るのは失礼だと、嘆息する。それには、ゼロスとエンヴィも頷いた。
「お前達は行ってこい。多分、時間は少ないだろうから、手短にしろよ」
シオンは手渡された包みが、思いの外、重たいことに驚いていた。アレンが軽々と扱っていたからだ。
黒の長は苦笑しながら、トゥーイが居る部屋を教えてくれた。何故知っているのかとカイファスが問うと、母親が三人に知らせてほしいと頼んだようだった。
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