浅い夜・薔薇編

善奈美

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Ⅸ 満ちる月に白き淡雪

14 更待月

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 トゥーイは消えた気配に安堵の息を吐き出し、へたり込んだ。久々に感じた鋭い気配に体が自然と震えた。

 フィネイと違うと認識したからこそ、その恐怖は計り知れなかった。何故、違うのだと気が付かなかったのだろうか。

「……トゥーイ」

 頭上から降ってきた声に、咄嗟に顔を上げた。忘れていたわけではなかった。だが、いきなり目の前に飛び込んできた存在に、体が竦んだ。

「大丈夫か」

 何時もと変わらない、トゥーイを心配するその様子に俯き、唇を噛み締めた。

 屈み込み、トゥーイの様子を伺うフィネイを鋭く睨み付ける。

「俺に構うなっ」

 フィネイはトゥーイの様子に体が固まった。もう一人に向けていた拒絶とは違う種類の拒絶が、トゥーイの身に纏わり付いていた。

「言っただろう。消えてやるって」
「……」

 フィネイは困り果てた。目の前に居るのはトゥーイの筈なのに、ほんの少し違う姿がフィネイを戸惑わせた。

「……何故、長様の所にお前の《眠りの薔薇》があるんだ」

 トゥーイは更にきつくフィネイを睨み付ける。

「訊かなくても判るだろう。俺が望んだからだ」

 トゥーイは視線をフィネイから外し、そっぽを向いた。

「いきなり女になって、訳判んないのに、どうやって生きてくんだよ……」

 それが正直な気持ちだった。黒薔薇の部族に迷い込んで、運良くアレンに助けられた。だから、女性化する者がいる事実を知ったのだが、また別の問題が出たのだ。

 変化するための条件を聞いたとき、はっきりと血の気が引いた。フィネイには婚約者が居た。無意識に望んでいた《眠りの薔薇》が目の前に突きつけられたとき、安堵感が身を包んだ。

「どうやって此処へ来た」

 更に問い掛けられ、トゥーイは固まった。帰り方が全く判らなかったのだ。確かに意識を手放し、自分の中に隠った。だが、トゥーイを此処に連れてきたのはもう一人のトゥーイで、どういった方法で渡ってきたのか知らなかったのだ。

「……知らない」

 呆然と呟いたトゥーイにフィネイは更に固まった。

「此処って何処だ……」

 トゥーイは根本的に何一つ判っていなかったのである。《永遠の眠り》に就くにしても、目を覚まさなくては意味がない。

 フィネイは深い溜め息を吐いた。トゥーイは抜けているところがある。

「色んな意味での狭間だよ」

 フィネイは身を起こすと、辺りに視線を走らせた。其処には何もない。確かに闇ではあるが、ただ暗いと言うだけだ。

 その闇に感情はない。ただ、何もない場所だった。

「色んな意味での狭間って……」

 トゥーイはフィネイを見上げた。それを見下ろし、フィネイは少しだけ目を細めた。

「ありとあらゆる道に繋がり、でも、繋がっていない」

 再び周りに視線を走らせた。

「魔族は基本的に転生しないからな。人であれば、あの世とこの世を繋ぐ場所で、新たな生を授かるとその場所へと導く場所」

 フィネイは一人で見続けた。そして、考えた。自分を消す道を。だが、此処に入り込んでくるのは、短い命を終えた種族だけだ。

 その者達にフィネイの姿は映らない。

「どうして、そんな場所に来てるんだよ……」

 トゥーイは見上げたまま、信じられないと言わんばかりに目を見開いた。フィネイとて好きで来たわけではない。気が付けば此の場所に居たのだ。

「……自分を消したかったからだろうな。必要とされていないなら、居ない方がいいだろう」
「父さんと母さんは兄さんを必要としてるだろうっ」

 トゥーイは両手をきつく握り締めた。フィネイはただ、悲しそうに微笑むと、唇が微かに震えた。

「お前にとって必要でなければ、居ても意味はない。両親には悪いとは思ってるさ。親不孝者だろうな」

 自虐的に自分を嘲笑った。トゥーイは小さく息をのむ。

「兄としてしか見られていないことは知っていた。無理強いはしたくないからな」

 もう一人の自分のようにはなれなかった。

 フィネイを見上げたまま、トゥーイは顔を歪めた。シオンが言っていた言葉は真実なのだろうか。

「取り敢えず、お前だけでも元の場所に戻さないとな」

 フィネイは髪を掻き揚げ嘆息する。おそらく、今の状態を考えるとかなりの迷惑を掛けている筈だ。一人でも厄介だろうに、二人では迷惑度合いは半端ではないだろう。

 トゥーイはその呟きに体が震えた。消えると豪語しておきながら、その実、離れたくないと言う感情が心を掠める。

「……兄さんは此の場所に留まるのか」

 小さな疑問を吐き出した。

 フィネイはトゥーイに視線を戻した。

「彼奴が消えたからな。体をそのまま放置するわけにもいかないから、何とか戻るさ」

 中身の無い体はただの器でしかない。今は黒の長が作り出した結界の中にいるため害はないが、あの場所に居続けるのは実質無理だ。

「……」
「どうかしたのか」
「言われたんだ……」

 初めて他の薔薇達を目の当たりにし、白の長と両親の前でアレンは絶望的な言葉を口にしていた。

「……俺は兄さん以外の血は口に出来ないって……」

 トゥーイは呆然と呟いた。

「……」
「俺は結局、迷惑しか掛けてない。本当の両親にも、父さんや母さんにも、兄さんにすら迷惑ばっかり掛けて」

 トゥーイは俯き唇を噛み締めた。今まで鈍感すぎて気が付かなかった。シオンの吐き出す言葉に驚愕した。

 ほんの少しの情報でありとあらゆることを考察し、突きつけたシオンの言葉に動揺した。

 そして、カイファスとルビィとの会話で漸く気持ちに気が付いた。如何に自分が鈍感であるのかを認識した。

「……俺」

 フィネイは目を細めた。

「お前はお前のままでいい。誰も迷惑だなんて思っていない」

 静かに降ってきた声にトゥーイは涙が溢れそうになった。

「思いようがない。生まれ落ちたそのときから、お前をみんな愛していたさ。少し特殊に生まれただけで、誰もが誰かに迷惑を掛けながら生きている」

 確かにそうだろうが、迷惑の度合いが違うだろう。

「……兄さん」

 トゥーイは俯いたまま、玉砕覚悟で気持ちを口に出すことに決めた。たとえ、拒絶されたとしても、逃げ道は残されている。

 永い眠りに就くと心は決まっている。ならば、すっきりさせておいた方がいい。言ってしまった後悔より、言わずにいる後悔の方が辛い筈だ。

「迷惑なのは判ってるけどさ、聞いてくれるか」

 トゥーイの確認の言葉にフィネイは首を傾げながら、先を促した。

「みんなに言われてさ、やっと気が付いたんだけど、俺……」

 トゥーイは一旦、言葉を切った。口の中が渇いて仕方がない。気持ちを口に出すと決めたものの、羞恥心が頭をもたげた。汗ばむ両手をきつく握り締め、次の言葉を絞り出す。

「……き」

 小さく呟いた声はあまりに小さかった。トゥーイはこれでは伝わっていないと判っていたが、顔を上げ告げるほどの勇気はなかった。

「トゥーイ……」

 訝し気に呼ばれた名に、聞き取れていないことが、はっきりと伝わってきた。こくりと唾を飲み込み、ありったけの勇気をかき集める。

「……俺、兄さんが……好きみたいだ……兄とかじゃなくてさ……」

 やはり小さい声に変わりはなかったが、フィネイの耳にはしっかり届いた。俯き、フィネイの視界に入るのはトゥーイの頭の旋毛だけ。

 元々、色素の無いトゥーイは髪越しであったとしても、羞恥の為なのか真っ赤になっているのが判った。

 しかし、そんなことよりも、トゥーイの口から漏れた微かな告白はフィネイの動きを完全に止めた。

 身動ぎ一つしない、言葉さえ掛けて貰えない現実にトゥーイは強く拳を握り締める。覚悟はしていた。だからこそ、目を合わせて告げられなかった。

 フィネイを見ないようにゆっくりと立ち上がり、小さく頭を下げた。

「聞いてくれて、ありがとう。何も返せないけどさ、幸せになってくれよな」

 下を向いていることで、涙が溢れてきた。

 そして、微かに香る薔薇の香りに気が付いた。本能的に自分の体がある場所なのだと認識した。

 ゆっくりと香りに向かって歩いて行こうとしたとき、いきなりフィネイに手を取られた。急に触れてきた感触に、反射的にフィネイに顔を向けてしまった。

 フィネイの視界に飛び込んできたトゥーイの顔は薔薇色に染まり、瞳に涙を溜めていた。触れた肌の感触は今までと違い柔らかく、フィネイは先とは別の意味で固まった。

 トゥーイは目を見開き、慌てて顔を反らせようとしたが、少しだけ反応が遅かった。

 固まっていたフィネイだが、トゥーイが顔を反らせようとしているのに気が付き、掴んでいない方の手で頬に手を添えた。
 
 何時見ても白いトゥーイの姿。雪のようだと賞される姿は、太陽に灼かれることがないせいか染み一つ無い。その肌が赤みを帯びるのは羞恥と怒りに染まるときだけだ。

「……っ」

 フィネイはきつくトゥーイを抱き締める。確かに精神体で、体の触れ合いではないが、確かな感触が体を満たした。

 トゥーイは訳が判らないまま困惑する。鈍感故なのか、フィネイの行動が理解出来なかった。

 生身の肉体では無いのだから、温かく感じる筈がない。それであるのに、信じられないくらい温かかった。耳元で苦し気に名前を呼ばれ、トゥーイは心臓が跳ね上がった。

 そして、絞り出すように零れ落ちた言葉に、目を見開いた。それは、得られないと思っていた心を宿した言葉。

「……兄さん……」

 ただ、信じられず、呆然と問いかけるように呼んだ。フィネイは更に腕に力を込める。

 全てを諦め、捨てるつもりでいた。ただ、トゥーイの幸せだけを願い、消えることで叶うことだと思っていた。

「……本当に」

 信じられないのか、トゥーイは何度もフィネイに問い掛ける。

「……幼いときからお前だけだ……お前しか見ていない」

 上擦ったように掠れた声が響く。

「……愛している……弟なんかじゃない。トゥーイだけだ……」

 トゥーイはフィネイの背に腕を回し、その胸に顔を埋めた。涙が止まらなかった。そして、二人を包んだのは甘い薔薇の香り。

 フィネイは驚いたように顔を上げた。鼻孔を擽る香りを辿り、行き着いた先はトゥーイだった。

 トゥーイは体から放たれる芳香に更に強くフィネイに抱き付いた。そして、思い出した言葉は、最初にシオンに言われたことだ。

 普段は薔薇同士でしか感じることが叶わない香り。では、違う状況になったとき、香ると言うことなのだろうか。

「……この香り……」

 先とは違う意味でトゥーイは恥ずかしくなった。判らないが、何となく強い香りを放つ理由が理解出来た。

 トゥーイはもう一人のフィネイに快楽を植え付けられている。体に触れれば、嫌でも反応するのだ。

「お前なのか……」

 フィネイは疑問を口にした。トゥーイは観念したようにフィネイの胸に顔を埋めたまま、小さく頷いた。

 そして、いきなりきた体の痛みに眉間に皺を寄せ、更に強くフィネイにしがみついた。その痛みは変化の兆し。

「……っ……くっ……」

 フィネイはトゥーイの体が急に強張ったことに慌てた。浅い息を繰り返していたトゥーイの体が、微かな変化を始める。

 長かった白い髪が元の長さに戻ったとき、トゥーイは躊躇いがちに顔を上げた。

 フィネイはその光景に不思議な気持ちになった。この変化を知らない筈なのに、知っている感じがしたからだ。それは、もう一人が持っていた記憶だろう。

「もう、月が眠りに就いたんだな」

 トゥーイはそう、呟いた。

「満月のときだけなんだな」
「女になるのは一ヶ月に一回だ。まだ、慣れないんだけどさ」

 トゥーイはゆっくりとフィネイから体を離した。どう反応していいか判らず、俯いてしまう。

「眠りに就くのか」

 少し沈んだ声音でフィネイが問い掛けた。

 トゥーイは黙り込んだ。眠ると言い切ったものの、フィネイに囁かれた言葉で揺らいでしまった。困り果て、上目使いでフィネイを見上げれば、意地の悪い笑みが目に飛び込んできた。

 それを視界におさめると、からかわれているのだと認識した。

 トゥーイが小さく呻いていると、フィネイがいきなり喉の奥で笑った。

「相変わらずだな」

 トゥーイは一杯一杯になると、黙り込む傾向があった。

「お前が眠るのは俺の隣だろう」

 笑いを含んだ声に、トゥーイは更に黙り込む。

「……嫌じゃないのかよ」

 トゥーイは不安になった。唯でさえ特別視され、見せ物状態だった。当然、一緒に行動していたフィネイも同じ目にあっていたのだ。

 アルビノで女性化までするようになれば、更に見せ物になる。いくら慣れたとはいえ、苦痛を感じないわけではない。

 白の長は当然のようにフィネイと結婚させようとした。しかも、婚約破棄まで実行したのだから、目覚め、互いの気持ちを知ったと知られれば、眠りに就きたいと言ったところで認めてはくれないだろう。

「どうしてだ」
「どうしてってっ」

 トゥーイは勢い良く顔を上げた。

「俺、アルビノなんだぞっ。しかも、女になるんだぞっ。今まで以上に見せ物になるんだっ」

 フィネイは小さく息を吐き出した。トゥーイの叫びに否定はしない。だが、トゥーイが好きなのがもう一人であると勘違いをし、諦めていたフィネイにとって、トゥーイの告白は心を満たした。

 現金だと言われようと、身勝手だと言われようと、今更手放す気は更々なかったのだ。気持ちを押し殺していた分、たがが外れることは判っている。

「両親に帰ってきて欲しいって言われなかったか」

 いきなり両親のことを持ち出され、トゥーイは口を噤んだ。

 両親が白の長に呼び出されたのは婚約解消のためだと言われたが、実際は違うことには気が付いている。

 あの日、両親はトゥーイに会いに白の長と共に黒薔薇に来たのだ。そして、満月であったあの日、トゥーイの姿を見、白の長はフィネイと結婚させようとしたのだろう。

 女性化した者がどう言った存在であるのかは理解していない。銀髪と黒髪の二人の男に突き付けられた言葉は衝撃的だった。

 思い出せと言われ、だが、去り際に無理矢理血を飲ませたのだと突き付けられた。

 もう一人の自分がやったことだったが、フィネイはきちんと見ていたのだ。ただ、目を瞑り背けてしまった。吸血族は血に縛らる。判っていたのに、目を背けてしまった。

 そして、先トゥーイはフィネイの血しか口に出来ないのだと呆然と呟くように告げた。そうなれば、眠りに就くか、太陽に身を晒すか、フィネイと共に生きていくしかないのだ。

 三つの選択肢を提示されれば、迷いなく最後の選択を受け入れる。

「……嫌なのか」

 トゥーイが使った同じ言葉をフィネイは投げつけた。黙り込んでいたトゥーイが、更に口を引き結ぶ。

 確かに好きだと言ってはくれたが、焦がれる想いの強さが違う。フィネイは俯き、口を噤んでしまったトゥーイを見下ろした。

「嫌なら、俺は離れた方がいいのかもな」

 溜め息混じりに呟く。無理強いをする気は最初から無い。手放したくはないが、苦痛を強いるつもりもない。

 トゥーイはびくりと体を震わせ、フィネイの服の裾を両手で握り締めた。

 トゥーイは戸惑いを隠せなかった。強引だったり、優しかったりと、何時もとフィネイが違う。

「……して」

 フィネイはトゥーイが微かに発した声に首を傾げた。

「今までと全然違う。どう反応していいか、判らない」

 途方に暮れた声にフィネイは苦笑した。それは違うだろうと、言ってやりたかった。

「いい兄を必死で演じていたからなぁ」

 根本は変わらないだろう。ただ、心を偽るために必死で作り上げた部分があった。知られないように、気が付かれないように。

 トゥーイは驚いたようにフィネイを見上げた。

「俺はお前が双子だと疑っていなかったときから、弟として見ていなかった」

 トゥーイの体が強張った。フィネイの言葉が信じられなかったからだ。

「……何時から……」

 フィネイは目を細める。

「物心つく頃にはお前しか見えていなかった」

 フィネイにとって幸運だったのは、トゥーイが無頓着で鈍感だったことだ。もし、鋭い感覚を持っていたら気が付かれただろう。いい兄を演じ、両親にも気が付かれないように細心の注意をはらっていたのだ。

 焦がれる想いを、眠りに就くそのときまで胸にしまい込むと決めていた。婚約が決まったときも、諦めることが出来る切っ掛けになるとそう思った。

 誰と結婚しようとトゥーイでないのだから、同じだった。ただ、吸血族の義務を果たせばいい。結婚すると言うことは、子孫を遺す義務を負う。

「全然、判らなかった……」
「だろうな。知られないようにしていたからな」

 トゥーイが鈍感になった理由をフィネイは理解していたし、判ってもいた。見せ物状態で育ったトゥーイは敏感になるのではなく、鈍感になることで精神を守っていたのだ。

 諦めたことで、身の内に居たもう一人を自由にする切欠になってしまった。

 何とかしようと最初はもがいたが、もう一人の方が上手だったのだ。狂ったようにトゥーイを求めたもう一人の妄執のような強い想い。

 それが真にトゥーイに向けられていた想いでなかったのは、先見た光景で判った。トゥーイの中にももう一人が居た。それは純粋な驚きであったと同時に、納得出来ることでもあったのだ。

「一緒に居てもいいのかな」

 トゥーイは不意に三人の薔薇達を思い出した。

 それは不安の吐露だった。黒薔薇で初めて会った同じ存在。既に婚姻し、子供まで成している。その存在に純粋に驚いたと同時に、心に浮かんだのは疑問と不安だった。

「俺、莫迦だし、鈍感だし、何も知らないけどさ、これだけは判る」

 女性化とは特異な現象だろう。三組の夫婦は結婚しているのだから、全部族長が認めたのは判る。

「今以上に好奇の目に晒されるんだ」

 ぽつりと零した言葉にフィネイは嘆息する。

「安心しろ。誰にも見せるつもりはないから」

 耳元で囁かれた言葉にトゥーイは敏感に反応してしまった。

 見せるつもりがないと言われても、あっちからやって来たらどうしようもないではないか。

 トゥーイは困惑し、途方に暮れる。

「結婚すれば公式の場に出なきゃならないし、今以上に招待状も届くだろうし、無理だろう」

 トゥーイの言っていることは正しい。だが、トゥーイが結婚と言う言葉を使ったことに、フィネイは純粋に嬉しかった。受け入れてくれているのだと、自然に口を吐いた言葉で理解出来た。

「お前が俺の側を離れなきゃ問題ないだろう」

 低い唸り声を上げたトゥーイに、また、一杯一杯になったのだとフィネイは理解する。

「取り敢えず、元の場所に戻らないとな」

 何時までも、此の場所に留まるのは得策ではない。おそらくだが、この場所に時間という概念はない。

 フィネイがもう一人に体を渡そうと考えたのが満月の二日後だ。そして、トゥーイは満月の日に女性化すると言ったのだから、少なくとも一ヶ月近い日が過ぎている。

 体と精神は切り離されていないのだから、体が飢餓を訴えれば自然と感知出来る筈だ。飢餓感が一つもないという事は、それなりの処置をしてくれているという証拠だ。

「お前は何時、意識を手放したんだ」

 フィネイは真剣な表情で問い掛けた。

「え……」
「何時から、体を放棄したんだ」

 トゥーイはフィネイが何を言っているのか理解出来なかった。だが、意識を手放した日ははっきりと覚えている。

「満月の二日後……」

 フィネイは右手で顔を覆った。つまりは、二人で思いっきり迷惑を掛けまくっていることになる。

「兄さん……」

 トゥーイは判らないと、フィネイを呼んだ。

「体の位置は判ってるんだろう」

 その問いに、トゥーイは素直に頷いた。

 ずっと薔薇の香りが背後から流れてくる。体が精神を呼んでいるのが判った。

「お前だけでも戻るんだ。判るな」

 トゥーイはフィネイを見上げ、驚愕に目を見開いた。

「兄さんはどうするんだよっ」
「何とかする。これ以上、二人で迷惑を掛けるわけにはいかない」

 トゥーイは小さく息をのんだ。今、体があるのは黒薔薇の主治医の館だ。自宅に居るわけではない。フィネイが言わんとしていることを、トゥーイはやっと理解した。

 同じ立場の者達に手間を掛けさせている事実に。

 いくら鈍感なトゥーイでも、それくらいは判る。

「判るな」

 フィネイに諭されるように言われ、小さく頷いた。

「行くんだ」

 体を反転させられ、軽く背中を押される。前のめりになり、数歩前へ足が反射的に動いた。

「あっちで会おう」

 フィネイは穏やかな笑みを見せた。トゥーイは少し表情を歪ませ、振り切るように走り出した。そして、忽然と姿が消えた。

 フィネイは小さく息を吐き出し、辺りを観察する。トゥーイに言ったはいいが、本当の所、戻る方法など判らなかった。

 おそらく、勝手に入り込んだのはフィネイ本人だ。最初は自身の一番深い場所に居た筈なのだが、何らかの理由で導かれた。

――行ッタミタイダナ……

 いきなり目の前に現れたもう一人に、フィネイは体を無意識に引いていた。消えたのだと感じたのは間違いだったのだろうか。

――俺ガ連レテキタ……

 言われた内容にフィネイは目を見開いた。

――コレクライシナイト、寝覚メガ悪イ……

 もう一人はある場所を指差した。暗闇に向けられた指先に、自然と視線が向く。

――オ前ノ中二導クコトモ可能ダッタガ、互イガ受ケル、リスクガ大キイ……

 もう一人は小さく笑った。

「俺の体はあの方向にあるのか」
――近クマデ行ケバ引カレル……

 その言葉を最後に、気配がぷっつりと途絶えた。何もない暗闇がフィネイを包み込み、導かれた方角に足を向けた。

 本当かどうかは判らなかったが、穏やかだった顔を信じることに決めた。ゆっくりと足を進め、その空間からフィネイの姿が忽然と消えた。

 闇は静かにそれを見送り、音すらない元の静寂に包まれた。

 

      †††


「シオン」

 声と共に薔薇を両手に抱えたルビィが顔を出した。

「持ってきたよ」
「ありがと」

 ルビィの姿を確認したシオンが椅子から腰を上げた。

「一ヶ月過ぎちゃったね」

 ルビィは少し表情を曇らせた。

「仕方ないよ。でも、もうそろそろ血の食事をしないとやばいんだけどね」

 シオンは困ったように眉を顰める。そんなとき、いきなり室内に薔薇の芳香が広がった。二人は顔を見合わせる。ルビィが持ってきた薔薇は香りがあまりしない種類の物だ。

 それに、この芳香の仕方に二人は覚えがあった。ルビィは頬を薔薇色に染めた。

「どうして、こんな香り方するの」

 薔薇に顔を埋め、ルビィは唸った。シオンはトゥーイを覗き込む。薔薇の香りを放っているのはトゥーイ自身だ。

 普通に考えたらおかしすぎる。何もない限り、薔薇である者が強い芳香を放つ訳がないのだ。

 シオンはトゥーイの瞼が震えていることに気が付いた。

「ルビィ、来てっ」

 ルビィに顔を向け、シオンは小さく叫んだ。ルビィは驚いたように、ベッドに近付く。

 ゆっくりと瞼が開き、薄い紅の瞳が現れる。意識がはっきりとしていないのか、目の焦点が合っていない。

「トゥーイ」

 シオンが驚かせないように、ゆっくりとした口調で名前を呼んだ。トゥーイは声に反応するように、シオンに顔を向ける。

「おかしなところはない」

 その問いに小さく頷くと、強張っている体をゆっくりと起こした。すると目の前に薔薇の花束が降ってきた。

「今日の分の食事だよ」

 ルビィはトゥーイの顔を覗き込むように微笑んで見せた。

 トゥーイは薔薇に向けた視線をルビィに移した。ほんのり赤く染まっている頬に、今の行動が照れ隠しなのだと判ったが、何に対してなのかが理解出来なかった。

「どうして、そんなにいい香りをさせてるの」

 シオンは恥ずかし気もなく単刀直入に訊いてきた。ルビィは流石に恥ずかしいのか、少し俯いている。

「……香り」

 トゥーイはまだ、完全に覚醒していない頭で考える。

「普通さ、此の香りを放つときって、情事のときだよ」

 シオンは満面の笑みをトゥーイに向けた。

 トゥーイは固まった。そして、フィネイのことを思い出す。

「俺、行かなきゃっ」

 ベッドから這い出そうとしたトゥーイをシオンは止めた。止めたのだが、トゥーイは床に立とうとした後、見事にへたり込んだ。

 足に力が入らないのだ。シオンとルビィは盛大に溜め息を吐いた。

「だから、止めたのに」

 上から降ってきた声に、トゥーイは見上げた。

「一ヶ月寝たきりで、足に力が入るわけ無いじゃない」

 呆れたようにシオンは腕を組んだ。

「待ってて。今、アレンを呼ぶから」

 シオンはそう言うと、ルビィに何やら囁く。ルビィは頷くと、ベッドの上に置き去りにされている薔薇を拾い上げ、トゥーイに差し出した。

「取り敢えず、これ食べて。空腹じゃ、考えがうまく纏まらないよ」

 ルビィに視線を向け、差し出された薔薇を見詰める。フィネイが言っていた言葉が甦る。迷惑を掛けていたのだと、情けない気分になった。

 差し出された薔薇を受け取り、小さくお礼を口にする。ルビィは目を細めて笑うと、シオンに顔を向けた。

「来るって」

 ルビィは首を傾げる。

「うん。何か、カイファス達が帰ってきたみたい」

 シオンは右手の人差し指を顎に持って行く。

「結構、長かったよね」
「だね。何事もなきゃいいんだけどさ」

 シオンの杞憂にルビィは目を瞬かせる。

「二人のこと」
「うん。行く前、結構、ナーバスになってたから」

 ルビィもそれは判っていた。ゼロスは普段あからさまにカイファスに愛情を向けているため、遠慮をすると直ぐ判るのだ。それにカイファスが無意識に気が付き、悪循環を繰り返していた。

「食事した」

 いきなりシオンに話しを振られ、トゥーイは固まる。これ以上、迷惑は掛けられないと、渡された薔薇にキスを落とした。

「後で薔薇園に行こうね。やっぱり、摘んだ薔薇より美味しいしさ」

 シオンは穏やかな微笑みをトゥーイに向けた。

「摘んじゃうと、生気が半減だもんね」
「そう。まあ、意識無いのに薔薇園に連れて行くのも大変だったし、仕方ないよ」

 トゥーイは久々に自分の意志で取り込んだ生気に、体が歓喜するのが判った。そのトゥーイの様子に二人は優しく微笑みを浮かべた。
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