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Ⅸ 満ちる月に白き淡雪
09 望月
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アレンはいきなり弾き出され困惑していた。だが、何も見えなくとも、苦痛を宿す声は聞こえていた。
自由になるために全てを投げ出す選択をし、散っていくことを望んだ。その切ないくらいの痛みが、胸を貫く。
自分の想いではない。今まで生きてきた中で、これほどの切なさは知らない。
不意に前方に視線を向けると、憂いを秘めた瞳が見返していた。同じ茶色の髪、だが、瞳は夜空の色だった。
――スマナイ……
ただ、一言告げられた言葉。そうなのか、と何かがアレンの中に落ちてきた。
フィネイと同じことが起こったのだと、納得した。
――我々ノ間違イダッタノダロウカ……
「後悔……しているのか」
アレンは落ち着いている自分に驚いていた。目の前に現れても動揺しない。
――後悔ハシテイナイ……アノ状態デ生キテイクノハ無理ダッタ……
後悔よりも、全てを奪われた痛みの方が強かった。
性別など関係ない。ただ愛し、ただ互いを労った結果の女性化。それが生み出した痛みは切なすぎた。
口を噤み、全てに目を背けることも確かに出来た。
最初は黙っていた。同じ境遇の者達と、隠れるように息を潜めた。
息絶えていく女性達。幼い命すら消えていく現実。目を背けるには無理があった。
――オ前達は幸セカ……
その問いに、アレンは微笑んだ。言葉など必要ではないと感じた。だから、微笑んで見せた。
――……ソウカ……ナラバ、俺達ハユックリト眠リ二ツケル……
憂いを帯びた表情が軟らかい微笑みを浮かべる。
――俺達ガ真二目覚メタ理由ハ黒薔薇二訊ケ……
「どう言うことだ」
目の前の存在は微笑みを浮かべたまま、霧散した。
アレンはゆっくりと目蓋を開く。一瞬、何処にいるのか判らなかった。規則正しい寝息が聞こえ視線を向ける。その先に居たのはシオンだった。
そこでようやく寝室のベッドであると認識した。体を起こし、シオンの頬に触れる。身じろぎしたシオンの顔をよく見ると、顔色が異常に悪かった。
アレンは慌てて、シオンを凝視し、間違えでないことを確認する。その微かな振動にシオンの意識が覚醒した。
目をこすり、片肘で少し身を起こす。見上げた先に目覚めたアレンが居た。
「良かった」
安堵したように息を吐き出し、シオンは呟いた。
「俺は良くないぞ。その顔色は何だ」
低く唸るような問い掛けに、シオンは素直に話した。口を噤んだところで、誰かに言われるのだ。正直に言ってしまった方がましだった。
「無茶しやがって……」
溜め息のように呟き、両手で顔を覆った。
「……怒らないの」
シオンは探るように訊いた。何時もなら、怒られるからだ。
「お前を怒っても意味ないからなぁ」
体験したアレンには判る。頼まれたら嫌とは言えなかっただろう。
アレンは顔を覆っていた両手をシオンに向けた。抱き上げ、優しく抱き締める。
自分の中に居た、切ない想いを抱き、散っていった者のことを思った。全てを受け入れるには辛すぎた現実。
「……アレン」
シオンはいきなり抱き締めてきたアレンに戸惑った。
「食事しろ」
アレンは思い直すようにシオンの耳元で言った。しかし、シオンは小さく首を振る。アレンの顔色も決して良いとは言えなかったからだ。
シオンが何を思い首を振るのかは判っていたが、引くつもりはなかった。
「お前は一人の体じゃないだろう。お前が栄養をとらないと、お腹の子に影響があるんだぞ」
耳元で諭すように言われ、だが、シオンは納得出来なかった。窓に視線を向ければ、カーテンの隙間から光が零れている。まだ、日が高い証拠だ。
アレンから血を貰ってから一日経っていない。妊娠中は毎日血を摂取しなくてはならない。それは、相手に無理を強いる行為だ。
「いいか。俺にも責任があるんだ。お前は命を育んでる。お腹の子はお前の血で成長してるんだ」
アレンは前方を見据える。
「貧血症状が出れば、辛いのはお前だけじゃない。俺は日が落ちたら食事に行く。気にする必要はない」
アレンの言葉にシオンは渋々頷いた。これ以上の拒絶は迷惑にしかならない。
「ごめんなさい」
消え入りそうなほど小さな声を漏らし、シオンはアレンに縋りつく。
「違うだろ」
「うん。ありがと」
シオンはアレンの首筋に顔を埋めた。一瞬きた痛みにアレンは愛おしい思いになった。
シオンを優しく抱き締め、その痛みを受け入れた。
†††
夜着に着替え、トゥーイを中心にベッドに横になる。
「小さいとき以来だ」
トゥーイは懐かしそうに呟いた。
「何がだ」
カイファスは首を傾げた。
「誰かと一緒に寝るの」
吸血族が一緒にベッドを共にするのは夫婦か家族だ。今回のようなことは珍しかった。
「旦那はいいのか」
トゥーイはカイファスとルビィに問い掛けた。
「子供じゃあるまいし、これくらいで拗ねたら終わってるだろう」
カイファスの言葉にルビィは苦笑する。
「俺、訊きたいことがあったんだ」
頭はまだ混乱しているし、整理も出来ていないが、トゥーイは短い時間で次々と知らされる事実に一杯一杯だった。
「何を訊きたいの」
ルビィは問い掛ける。
「名前。みんなは俺の名前を知ってるし、今までは知る必要もなかったから訊いたことがなかったんだよ」
トゥーイはアルビノであるため、よく、色々な所に父親が連れて歩いた。当然、フィネイも一緒だったが、ひっきりなしに多くの吸血族と顔を合わせるため、名前を訊いても意味がなかったのだ。
「助けてくれたのがアレンさんで、シオンさんが奥さんだろ」
この二人は最初に会って、名前を呼び合っていたので正確に判った。問題は他の者達だった。
集まった状態で名前を呼んでいたり、トゥーイが混乱状態で耳にしていたりで認識出来ていなかったのだ。
「さん付けはシオンが嫌がるよ」
ルビィは笑いながら言った。
「僕はルビィだよ。一応、赤薔薇。髪の毛が赤いからだって。夫はエンヴィで調香師をしてるんだ」
ルビィはトゥーイに視線を向けた。
「私はカイファスだ。結婚する前は薬師をしていたんだが、今は父に仕事を渡したんだ。銀の髪した不貞不貞しいのが旦那のゼロス」
トゥーイは名前を反芻しながら、カイファスの薬師に反応した。
「薬師なのか」
「家業だ」
「兄さんも薬師なんだ」
トゥーイは遠い目をした。
「お前も何じゃないか」
「俺、細かいことが苦手で、向いてないんだよな」
父親に匙を投げられた、と笑いながら言った。カイファスは薬師の仕事が細かいことだとは思わなかった。
カイファスの問いた気な気配に、トゥーイは小さく息を吐き出す。
「俺の不器用さをなめるなよ」
トゥーイは顔をカイファスに向けた。カイファスとルビィは顔を見合わせる。
「調合する前に、乾燥させた薬草を乳鉢を使ってすり潰すだろう」
カイファスは頷く。薬師の基本だった。
「乳鉢が跳ぶんだ」
二人は今の言葉に動きが止まった。
「乳鉢は生き物じゃない」
カイファスは困惑したように呟く。
「判ってる。でも、跳ぶんだ。勿論、薬草は散乱するし、運良く粉末状になっても飛ばしちゃうし」
それは不器用と言う次元ではないのではないか。
「難しい作業じゃないだろう」
カイファスは呆れたように声を吐き出した。
「俺にしたら神業だ。しかも、粉末状にしたのを合わせるんだぞ。出来るわけがないだろう」
薬師の仕事内容を知らないルビィでも、今の話しで何となく理解出来る。トゥーイの場合、不器用云々ではないようだった。
「習い始めた時からなのか」
トゥーイは頷く。父親の元でフィネイと共に勉強するようになり、初めて判ったことだった。
トゥーイが破壊的に繊細な作業が合わないという事に。
「勉強は楽しかったんだ。理解も出来たし。でもさ、いざ作業ってなると、知識があったって、調合出来なきゃ意味ないだろう」
トゥーイは不貞腐れたように頬を膨らませた。
「つまり……」
「一人じゃ、まともに仕事が出来ないんだ。兄さんの手を借りてやっと……」
一言で言えば足手纏いだろう。それでも付き合っていたフィネイは気が長いのか、相手がトゥーイだったからなのか、呆れることもなく作業をしていた。
父親が諦めてしまっても、根気よく手伝っていた。
一瞬の沈黙。
それを破ったのは二人の笑い声だった。トゥーイにしてみれば面白くない。
「笑うことないだろう」
「いやあ、愛されてるな」
「だよね」
カイファスとルビィの言葉に、トゥーイの動きが止まった。
「何だって……」
「普通、兄弟でもそこまで破壊的に出来なかったら、辞めろと言うだろうな。私なら確実に言う」
薬草が無限に存在しているわけではない。珍しい物も多数ある。無駄なことをしていては、薬草が幾らあっても足りない。
「シオンにどっちのフィネイが好きかって訊かれたんだろう」
カイファスは身を起こすとトゥーイを覗き込む。トゥーイは戸惑いがちに頷いた。
「お前の中での兄はどっちの兄で、変化をするための心を育んだのはどっちの兄なんだ。答えは出てるんじゃないか」
トゥーイは小さく息をのんだ。思い出せるのは穏やかな微笑みだけ。襲われたときの狂気の表情は浮かんではこない。
「今、思い浮かぶのはどっちのお兄さんなの」
ルビィの問いに、はっきり自覚する。
家族としてではなく、兄としてではなく、一人の個として愛していると。他人だと聞いて動揺したのは、繋がりが消えてしまうと無意識に思ったからだ。
身を起こし、二人を交互に見詰めた。その表情に、二人は安堵の息を吐き出す。
「自覚したみたいだな」
カイファスの言葉に小さく頷いた。
「問題はフィネイだ」
「どう言うこと」
ルビィも体を起こすと、問い掛けた。
「トゥーイが変化をしたのがフィネイだけの存在じゃなかったってことだ」
ルビィは目を見開く。
「フィネイの中のもう一人は確実にフィネイの想いを体現したんだろう。ずっと、秘めていた気持ちだ。本人も私達に諭されて自覚症状が現れてるかもしれないが、それが、悪い方に向かった場合、面倒なことになる」
カイファスは真剣な表情でトゥーイを見詰めた。
「勘違いしていた場合、フィネイはお前の前から消えるかもしれない」
「消えるって、トゥーイはお兄さんの血じゃなきゃ生きていけないんだよっ」
ルビィは慌てたように、小さな叫び声を上げる。
「そういう意味じゃない。体は残る。中身の話しだ」
ルビィは驚きに言葉を失った。
「アレンもシオンも体を貸した後、疲労で体の自由がきいていなかっただろう。フィネイはそんな感じを受けなかった。完全に同化している証拠だ」
もし、フィネイがトゥーイの変化が、自身の中のもう一人に反応していると判断していたら、消えるのは確実に彼本人だ。
主導権は体の主であるフィネイなのだから、本人が望めば残るのはもう一人のフィネイということになる。
トゥーイは強く掛布を握り締めた。カイファスが言っていることが事実であった場合、どうすればいいのか。自然と体が小刻みに震えた。
「フィネイと面と向かって話したのはゼロスとエンヴィだ。私は言いたいだけ言って出てきたから、あの後、どう言った話しをしたかは判らない」
ゼロスは必要なことは話したと言った。だが、シオンが語った話しを聞いたのはその後だ。
トゥーイの中の一番が誰であるのか、あの時点では判っていなかった。本人も自覚していなかったのだから、知りようがない。
カイファスはもう一つの可能性を切り捨てるつもりはなかった。一番最悪な事態になった場合、苦しむのはトゥーイだけではない。両親も苦しむことになる。
「言いたくはないが、最悪な事態にならないことを祈るしかない」
ルビィは眉を顰める。
「最悪な事態って」
低く唸るように問い掛けた。
「フィネイが知らなくても、もう一人は女性化した者が摂取出来る血が変化を担った者だけなのを知っている筈だ」
カイファスは落ち着いた声音で事実を告げた。
「もし、二人が互いの存在を否定した場合、体だけが残り……」
カイファスは目を細め、トゥーイを見た。
「……中身がいない状態になる可能性がある」
トゥーイは今の言葉にシオンの言葉を思い出した。
手遅れになるかもしれない……。
シオンが言っていたことが今のカイファスの言葉だったら、トゥーイは兄であった存在も、やっと気付いた想いも失うことになる。
「人形のような存在になる。意志がなくなるのだから、ただ、生きているだけだ」
トゥーイの体から血の気が引いていく。
唇を噛み締め、更にきつく掛布を握り締めた。
「……でも、それじゃあ、トゥーイは幸せになれないよ」
「結果論だ。フィネイはトゥーイの幸せに自分が必要ないと判断したとして、もう一人はその後、どう判断するかだ」
カイファスは痛まし気にトゥーイを見詰めた。
「実際、私達は少しずつ過去を知り始めてはいるが、どう言うことになっているのか判っていない」
代わりだと言われ、幸せにならなければならないとアリスは言っていたが、核心の情報を何一つ話してはくれない。
「アレンはフィネイには足枷が必要だと判断した。多分、ゼロスもエンヴィも同じ結論を出しただろう。あれはトゥーイを守ることを前提にしているんだろうが、本当に守りたいのはフィネイだろう」
トゥーイは弾かれたようにカイファスを見た。少し潤み始めた瞳を見せたトゥーイを、カイファスは目を細めて見やる。
「フィネイに自由はなかった。思考すら自由じゃなかったんじゃないだろうか。それを与えるために足枷を使ったんだ」
ずっと、仄暗い闇に捕らわれていたフィネイ。
「足枷がもう一人を拘束するってこと」
ルビィが首を傾げた。
「正確には違うな。フィネイはアルビノじゃない。魔力を使わなければ単なる装飾品みたいなものだろう」
「じゃあ……」
「もう一人はその足枷で酷い思いを味わっている。気持ちの問題だろう」
思考を封じ、考えることで疑問を持つことをさせないようにしていたのだろう。元々が穏やかだったと言うから、考えることが出来るようになると、周りのことを考えるのではないか。
総合的に判断をし、何が最善が考えるようになる。
「今回の場合、トゥーイが中心だ。そうなれば、フィネイは第一にお前のことを考える筈なんだ」
トゥーイは怯えたような表情を見せた。フィネイを誰よりも知っているのは近くにいたトゥーイだ。
変わる前のフィネイなら、カイファスが言っていた考えを持つだろう。合理的ではないが、必要でないと判断すれば、躊躇うことなく自分を切り捨てる。
「……判ってるんだな」
カイファスの問い掛けにトゥーイは頷いた。
「どうすれば良いと思う」
ルビィはカイファスに問い掛ける。
「アレンの中に居た者は黒薔薇に聞け、とお祖父様に言ったらしい。シオンが言っていたのを覚えていないか」
ルビィは目を瞬かせる。
「確か、ゼロスの祖先だよね」
「そうだ。ゼロスは唯一、本当の意味での代わりなんだ。当事者は墓所内にいる。吸血族と同じ存在らしいから、ただ眠っているだけだ」
ルビィはさっきのゼロスとエンヴィの会話を思い出す。
「……目覚めさせるつもりなの」
「認められればな。今のゼロスは私の元に婿養子に来た形になってる」
吸血族と婚姻したゼロスは銀狼族から離れているのだ。
「元族長の後継者でも、今は他種族だ。族長は弟が継いだから、どうなるかは判らない」
カイファスは小さく溜め息を吐いた。
「……兄さんの何かが判るのか……」
弱々しい声音でトゥーイは聞いた。
「正確には違うな。こうなってしまった過去を知ることが出来る。銀狼の始祖は黒薔薇の夫で生き証人だ」
過去を知れば、白薔薇がどうなってしまったのかが正確に判るだろう。それが辛い現実でも受け入れるしかない。
何時までも過去に目を背けていては、前に進めない。
「今まではお祖母様の話しと、私達自身が感じたことばかりで、真実は判っていないんだと思う」
「でも、カイファスのお祖母様の先見は絶対なんでしょう」
ルビィは更に首を傾げた。
「お祖母様は月読みと言う魔族の血を引いてるんだ。結構、特殊な一族で、特性なのか、必要だと感じた情報しか語らない」
つまり、アリスが必要ないと判断した場合、何も語らないという事だ。
「……だから、言葉が足りない。何時も遠回しに言うから、全てが終わってから判る場合が多いんだ」
カイファスは諦めたように息を吐き出した。
「多分、はっきりと事実を言ったのはお前の時くらいかもしれないな」
カイファスはルビィを見詰める。ルビィはきょとんとした表情を見せた。
「あの短い時間で血を飲むように強要されただろう」
カイファスの問い掛けにルビィは固まった。トゥーイはルビィに視線を向ける。四阿で聞いてはいたが、そのときと様子が違った。
「自分の意志で血を取り込んだんじゃない。全部族の族長に命令された」
カイファスは直接聞いたわけではなかったが、あの場所に居たのは確かなのだ。
動揺していてアリスが来たことは判らなかったが、後からゼロスに聞いた。
あの場所にアリスが現れた理由は、ルビィを消さないためなのは判る。だが、シオンを攫い、無事でいられたのは特殊な状況だったからだ。
「お祖母様は全部族長の前でお前が女性化すると断言したんだ」
切羽詰まった状態であったために、直接的な言葉で語ったに違いない。
「……僕は……」
ルビィは動揺した。あの時のことは衝撃が強すぎて誰にも言ってはいない。ある意味、アリスはルビィを切り捨てるような言葉を使ったからだ。
「命令されて血を取り込んだことは知っている。だが、無謀な賭を長様達が受け入れたのはお祖母様の言葉だろう」
ルビィは俯き唇を噛み締めた。
「……確かに僕は消える理由が欲しかった……でも、切り捨てられたように感じたんだ……」
カイファスは目を見開いた。
「……失敗しても、本来の刑罰が与えられるだけだって言われて……」
アリスにしてみれば、実行するために言葉を選んでいられなかったのだろう。ルビィとエンヴィはよりによって、全部族長が一堂に会して居るときに行動してしまったのだ。
カイファスは俯き唇を噛み締めているルビィを見やる。心配そうにルビィの顔をトゥーイは覗き込んだ。
「お祖父様は躊躇わなかったか」
カイファスの問いに、ルビィは顔を上げる。確かに部族長達は一瞬、躊躇ったのだ。
「あの場所で実行しなければ、エンヴィが暴れた。魔力で抑え付けていたから上手くいったんだ」
あの当時のエンヴィは荒んでいた。周りが一切、見えていなかった。ルビィが自分の血を取り込んだ意味さえ理解していなかった。血に触れた吸血族が血に縛られることを忘れ去っていた。
「お祖母様は言葉に対する配慮が足りない。直接的か、とてつもなく間接的か。孫の私だけじゃなく、娘である母上さえ困惑することがあるくらいだ。息子も時々、考え込んでるしな」
溜め息を吐きつつ、肩を竦めカイファスは諦めたように言った。
「……それって……」
「母上曰わく、産んでは貰ったが、育ててくれたのは祖母と館で働いている者達だったそうだ。お祖父様は忙しかったしな」
ありとあらゆるものに振り回されていたアリスは、少しばかり普通と違っていたのだ。
「あの人の言動を深く考えない方がいい。自分で判断して、必要だと感じたものだけを聞いていたらいいんだ」
カイファスの物言いは、とても孫のものだとは思えなかった。長く関わっていたからの言葉だろうが、アリスとは相当特殊な存在のようだ。
「言っちゃあ悪いと思うが、意味不明な言葉が多いんだ。お祖父様ですら困惑するときがあるんだから」
二人は完全に固まった。
「ゼロスとアレンなんて、お祖母様が出てきたら身構えるんだぞ」
カイファスは思い出したように笑い出す。
「そうなの」
ルビィは目を見開き、驚きを露わにした。あの二人が動じることが信じられなかったようだ。
「お前の二人に関する認識はかなり誤ってるぞ。落ち着いてるように見えるだろうが、単なる莫迦だ」
カイファスがあまりにきっぱりと言い切ったので、ルビィばかりではなく、トゥーイも目を見開いた。
「偉そうなこと言ってたって、私やシオンに頭が上がらないんだ。莫迦以外に何て呼んだらいいんだ」
仮にも旦那を莫迦呼ばわりするカイファスに、開いた口が塞がらない。
「……それ、本人に言ったのか」
トゥーイは疑問を素直に口にした。
「言うわけないだろう。あれでも自尊心はあるんだ。上手く利用するんだよ」
カイファスは黒い笑みを見せた。二人は思わず竦み上がる。
「お前達も旦那を上手く操るんだな」
ルビィは納得出来ない部分もあったが、素直に頷いた。一方、トゥーイは複雑な表情を見せた。旦那になるかは、まだ、判らないのだ。
「弱気になるなっ。お前は兄貴を捕まえるんだっ」
強い口調で言い切られ、トゥーイは思わず頷いていた。
†††
ゼロスはあの後、直ぐに黒薔薇を発った。上手く行けば、日が沖天に達する前に銀狼のコロニーに辿り着ける。
深い青の森を抜け、視界に広がるのは岩と砂の世界。夜は冷え込み、昼は灼熱になる土地を銀狼の始祖はあえて選んだ。
軽く太陽を見上げ、眉間に皺を寄せる。長居をするつもりはなかった。集落が視界に入り、目的の場所に着地する。
いきなり現れたゼロスに、銀狼達はざわめいた。そんなことには頓着せず、ゼロスは父親のテントに足を踏み入れる。
いきなり目の前に現れたゼロスに父親は目を見開いた。
「ゼインとシアンはどうした」
ゼロスが来るときには必ず二人が一緒に来る。父親はいくら見渡しても視界に入ってこない存在に首を傾げた。
「あの二人を連れて来るときは連絡を入れるだろうが」
腕を組み、横柄な態度のゼロスに、父親は溜め息を吐いた。
「何の用で来た」
ゼロスはすっと目を細めた。父親は嫌な予感に眉を顰める。ゼロスはよほどでないかぎり、銀狼のコロニーには寄り付かない。それは、混乱を避けるためだ。
「始祖を目覚めさせたい」
ゼロスは簡潔に言った。父親は更に目を見開く。
「無理な相談だ」
「そんなことは言われなくても判ってる。それでも、目覚めさせたい」
ゼロスの言葉に父親は吸血族で何かがあったのだと察した。
「何があった」
その問いに、ゼロスは今、吸血族内で起こっていることを簡単に説明した。
「始祖が黒薔薇」
「みたいだな。俺としては、目覚めさせたくないのが正直な気持ちだ」
ゼロスは吐き捨てるように言った。その態度に嫌々来たことが伺える。
「言っておくが、いまの族長はバルドだ」
「判ってる」
「決定権を持つのは実は族長でないことを知っているか」
父親の言葉にゼロスは軽く目を見開いた。
「始祖を目覚めさせる資格を持つ者は族長にあらず」
「誰なんだ」
ゼロスは少し苛立ちながら、気持ちを落ち着けようと努力する。
「お前だ」
一瞬、何を言われたのか判らなかった。
「判らないと言う表情だな」
銀狼族でありながら、吸血族の者と婚姻したゼロスが資格を持つなど、本来なら信じられない。
「始祖を目覚めさせるのは満月の日でなくてはいけない。そして、もう一つの条件が、薔薇を得た者だ」
父親は苦笑いを浮かべた。
カイファスが黒薔薇と呼ばれるようになったのは婚姻した後だった。
始祖を目覚めさせる条件の薔薇の意味が判っていなかったのだ。銀狼も《永遠の眠り》に就くときには透明な薔薇を抱く。
それのことだと思っていたのだが、ゼロスがカイファスと結婚したことで、薔薇の意味を知ることになったのだ。
「何時かは来ると思っていた」
父親は諦めたように呟いた。
自由になるために全てを投げ出す選択をし、散っていくことを望んだ。その切ないくらいの痛みが、胸を貫く。
自分の想いではない。今まで生きてきた中で、これほどの切なさは知らない。
不意に前方に視線を向けると、憂いを秘めた瞳が見返していた。同じ茶色の髪、だが、瞳は夜空の色だった。
――スマナイ……
ただ、一言告げられた言葉。そうなのか、と何かがアレンの中に落ちてきた。
フィネイと同じことが起こったのだと、納得した。
――我々ノ間違イダッタノダロウカ……
「後悔……しているのか」
アレンは落ち着いている自分に驚いていた。目の前に現れても動揺しない。
――後悔ハシテイナイ……アノ状態デ生キテイクノハ無理ダッタ……
後悔よりも、全てを奪われた痛みの方が強かった。
性別など関係ない。ただ愛し、ただ互いを労った結果の女性化。それが生み出した痛みは切なすぎた。
口を噤み、全てに目を背けることも確かに出来た。
最初は黙っていた。同じ境遇の者達と、隠れるように息を潜めた。
息絶えていく女性達。幼い命すら消えていく現実。目を背けるには無理があった。
――オ前達は幸セカ……
その問いに、アレンは微笑んだ。言葉など必要ではないと感じた。だから、微笑んで見せた。
――……ソウカ……ナラバ、俺達ハユックリト眠リ二ツケル……
憂いを帯びた表情が軟らかい微笑みを浮かべる。
――俺達ガ真二目覚メタ理由ハ黒薔薇二訊ケ……
「どう言うことだ」
目の前の存在は微笑みを浮かべたまま、霧散した。
アレンはゆっくりと目蓋を開く。一瞬、何処にいるのか判らなかった。規則正しい寝息が聞こえ視線を向ける。その先に居たのはシオンだった。
そこでようやく寝室のベッドであると認識した。体を起こし、シオンの頬に触れる。身じろぎしたシオンの顔をよく見ると、顔色が異常に悪かった。
アレンは慌てて、シオンを凝視し、間違えでないことを確認する。その微かな振動にシオンの意識が覚醒した。
目をこすり、片肘で少し身を起こす。見上げた先に目覚めたアレンが居た。
「良かった」
安堵したように息を吐き出し、シオンは呟いた。
「俺は良くないぞ。その顔色は何だ」
低く唸るような問い掛けに、シオンは素直に話した。口を噤んだところで、誰かに言われるのだ。正直に言ってしまった方がましだった。
「無茶しやがって……」
溜め息のように呟き、両手で顔を覆った。
「……怒らないの」
シオンは探るように訊いた。何時もなら、怒られるからだ。
「お前を怒っても意味ないからなぁ」
体験したアレンには判る。頼まれたら嫌とは言えなかっただろう。
アレンは顔を覆っていた両手をシオンに向けた。抱き上げ、優しく抱き締める。
自分の中に居た、切ない想いを抱き、散っていった者のことを思った。全てを受け入れるには辛すぎた現実。
「……アレン」
シオンはいきなり抱き締めてきたアレンに戸惑った。
「食事しろ」
アレンは思い直すようにシオンの耳元で言った。しかし、シオンは小さく首を振る。アレンの顔色も決して良いとは言えなかったからだ。
シオンが何を思い首を振るのかは判っていたが、引くつもりはなかった。
「お前は一人の体じゃないだろう。お前が栄養をとらないと、お腹の子に影響があるんだぞ」
耳元で諭すように言われ、だが、シオンは納得出来なかった。窓に視線を向ければ、カーテンの隙間から光が零れている。まだ、日が高い証拠だ。
アレンから血を貰ってから一日経っていない。妊娠中は毎日血を摂取しなくてはならない。それは、相手に無理を強いる行為だ。
「いいか。俺にも責任があるんだ。お前は命を育んでる。お腹の子はお前の血で成長してるんだ」
アレンは前方を見据える。
「貧血症状が出れば、辛いのはお前だけじゃない。俺は日が落ちたら食事に行く。気にする必要はない」
アレンの言葉にシオンは渋々頷いた。これ以上の拒絶は迷惑にしかならない。
「ごめんなさい」
消え入りそうなほど小さな声を漏らし、シオンはアレンに縋りつく。
「違うだろ」
「うん。ありがと」
シオンはアレンの首筋に顔を埋めた。一瞬きた痛みにアレンは愛おしい思いになった。
シオンを優しく抱き締め、その痛みを受け入れた。
†††
夜着に着替え、トゥーイを中心にベッドに横になる。
「小さいとき以来だ」
トゥーイは懐かしそうに呟いた。
「何がだ」
カイファスは首を傾げた。
「誰かと一緒に寝るの」
吸血族が一緒にベッドを共にするのは夫婦か家族だ。今回のようなことは珍しかった。
「旦那はいいのか」
トゥーイはカイファスとルビィに問い掛けた。
「子供じゃあるまいし、これくらいで拗ねたら終わってるだろう」
カイファスの言葉にルビィは苦笑する。
「俺、訊きたいことがあったんだ」
頭はまだ混乱しているし、整理も出来ていないが、トゥーイは短い時間で次々と知らされる事実に一杯一杯だった。
「何を訊きたいの」
ルビィは問い掛ける。
「名前。みんなは俺の名前を知ってるし、今までは知る必要もなかったから訊いたことがなかったんだよ」
トゥーイはアルビノであるため、よく、色々な所に父親が連れて歩いた。当然、フィネイも一緒だったが、ひっきりなしに多くの吸血族と顔を合わせるため、名前を訊いても意味がなかったのだ。
「助けてくれたのがアレンさんで、シオンさんが奥さんだろ」
この二人は最初に会って、名前を呼び合っていたので正確に判った。問題は他の者達だった。
集まった状態で名前を呼んでいたり、トゥーイが混乱状態で耳にしていたりで認識出来ていなかったのだ。
「さん付けはシオンが嫌がるよ」
ルビィは笑いながら言った。
「僕はルビィだよ。一応、赤薔薇。髪の毛が赤いからだって。夫はエンヴィで調香師をしてるんだ」
ルビィはトゥーイに視線を向けた。
「私はカイファスだ。結婚する前は薬師をしていたんだが、今は父に仕事を渡したんだ。銀の髪した不貞不貞しいのが旦那のゼロス」
トゥーイは名前を反芻しながら、カイファスの薬師に反応した。
「薬師なのか」
「家業だ」
「兄さんも薬師なんだ」
トゥーイは遠い目をした。
「お前も何じゃないか」
「俺、細かいことが苦手で、向いてないんだよな」
父親に匙を投げられた、と笑いながら言った。カイファスは薬師の仕事が細かいことだとは思わなかった。
カイファスの問いた気な気配に、トゥーイは小さく息を吐き出す。
「俺の不器用さをなめるなよ」
トゥーイは顔をカイファスに向けた。カイファスとルビィは顔を見合わせる。
「調合する前に、乾燥させた薬草を乳鉢を使ってすり潰すだろう」
カイファスは頷く。薬師の基本だった。
「乳鉢が跳ぶんだ」
二人は今の言葉に動きが止まった。
「乳鉢は生き物じゃない」
カイファスは困惑したように呟く。
「判ってる。でも、跳ぶんだ。勿論、薬草は散乱するし、運良く粉末状になっても飛ばしちゃうし」
それは不器用と言う次元ではないのではないか。
「難しい作業じゃないだろう」
カイファスは呆れたように声を吐き出した。
「俺にしたら神業だ。しかも、粉末状にしたのを合わせるんだぞ。出来るわけがないだろう」
薬師の仕事内容を知らないルビィでも、今の話しで何となく理解出来る。トゥーイの場合、不器用云々ではないようだった。
「習い始めた時からなのか」
トゥーイは頷く。父親の元でフィネイと共に勉強するようになり、初めて判ったことだった。
トゥーイが破壊的に繊細な作業が合わないという事に。
「勉強は楽しかったんだ。理解も出来たし。でもさ、いざ作業ってなると、知識があったって、調合出来なきゃ意味ないだろう」
トゥーイは不貞腐れたように頬を膨らませた。
「つまり……」
「一人じゃ、まともに仕事が出来ないんだ。兄さんの手を借りてやっと……」
一言で言えば足手纏いだろう。それでも付き合っていたフィネイは気が長いのか、相手がトゥーイだったからなのか、呆れることもなく作業をしていた。
父親が諦めてしまっても、根気よく手伝っていた。
一瞬の沈黙。
それを破ったのは二人の笑い声だった。トゥーイにしてみれば面白くない。
「笑うことないだろう」
「いやあ、愛されてるな」
「だよね」
カイファスとルビィの言葉に、トゥーイの動きが止まった。
「何だって……」
「普通、兄弟でもそこまで破壊的に出来なかったら、辞めろと言うだろうな。私なら確実に言う」
薬草が無限に存在しているわけではない。珍しい物も多数ある。無駄なことをしていては、薬草が幾らあっても足りない。
「シオンにどっちのフィネイが好きかって訊かれたんだろう」
カイファスは身を起こすとトゥーイを覗き込む。トゥーイは戸惑いがちに頷いた。
「お前の中での兄はどっちの兄で、変化をするための心を育んだのはどっちの兄なんだ。答えは出てるんじゃないか」
トゥーイは小さく息をのんだ。思い出せるのは穏やかな微笑みだけ。襲われたときの狂気の表情は浮かんではこない。
「今、思い浮かぶのはどっちのお兄さんなの」
ルビィの問いに、はっきり自覚する。
家族としてではなく、兄としてではなく、一人の個として愛していると。他人だと聞いて動揺したのは、繋がりが消えてしまうと無意識に思ったからだ。
身を起こし、二人を交互に見詰めた。その表情に、二人は安堵の息を吐き出す。
「自覚したみたいだな」
カイファスの言葉に小さく頷いた。
「問題はフィネイだ」
「どう言うこと」
ルビィも体を起こすと、問い掛けた。
「トゥーイが変化をしたのがフィネイだけの存在じゃなかったってことだ」
ルビィは目を見開く。
「フィネイの中のもう一人は確実にフィネイの想いを体現したんだろう。ずっと、秘めていた気持ちだ。本人も私達に諭されて自覚症状が現れてるかもしれないが、それが、悪い方に向かった場合、面倒なことになる」
カイファスは真剣な表情でトゥーイを見詰めた。
「勘違いしていた場合、フィネイはお前の前から消えるかもしれない」
「消えるって、トゥーイはお兄さんの血じゃなきゃ生きていけないんだよっ」
ルビィは慌てたように、小さな叫び声を上げる。
「そういう意味じゃない。体は残る。中身の話しだ」
ルビィは驚きに言葉を失った。
「アレンもシオンも体を貸した後、疲労で体の自由がきいていなかっただろう。フィネイはそんな感じを受けなかった。完全に同化している証拠だ」
もし、フィネイがトゥーイの変化が、自身の中のもう一人に反応していると判断していたら、消えるのは確実に彼本人だ。
主導権は体の主であるフィネイなのだから、本人が望めば残るのはもう一人のフィネイということになる。
トゥーイは強く掛布を握り締めた。カイファスが言っていることが事実であった場合、どうすればいいのか。自然と体が小刻みに震えた。
「フィネイと面と向かって話したのはゼロスとエンヴィだ。私は言いたいだけ言って出てきたから、あの後、どう言った話しをしたかは判らない」
ゼロスは必要なことは話したと言った。だが、シオンが語った話しを聞いたのはその後だ。
トゥーイの中の一番が誰であるのか、あの時点では判っていなかった。本人も自覚していなかったのだから、知りようがない。
カイファスはもう一つの可能性を切り捨てるつもりはなかった。一番最悪な事態になった場合、苦しむのはトゥーイだけではない。両親も苦しむことになる。
「言いたくはないが、最悪な事態にならないことを祈るしかない」
ルビィは眉を顰める。
「最悪な事態って」
低く唸るように問い掛けた。
「フィネイが知らなくても、もう一人は女性化した者が摂取出来る血が変化を担った者だけなのを知っている筈だ」
カイファスは落ち着いた声音で事実を告げた。
「もし、二人が互いの存在を否定した場合、体だけが残り……」
カイファスは目を細め、トゥーイを見た。
「……中身がいない状態になる可能性がある」
トゥーイは今の言葉にシオンの言葉を思い出した。
手遅れになるかもしれない……。
シオンが言っていたことが今のカイファスの言葉だったら、トゥーイは兄であった存在も、やっと気付いた想いも失うことになる。
「人形のような存在になる。意志がなくなるのだから、ただ、生きているだけだ」
トゥーイの体から血の気が引いていく。
唇を噛み締め、更にきつく掛布を握り締めた。
「……でも、それじゃあ、トゥーイは幸せになれないよ」
「結果論だ。フィネイはトゥーイの幸せに自分が必要ないと判断したとして、もう一人はその後、どう判断するかだ」
カイファスは痛まし気にトゥーイを見詰めた。
「実際、私達は少しずつ過去を知り始めてはいるが、どう言うことになっているのか判っていない」
代わりだと言われ、幸せにならなければならないとアリスは言っていたが、核心の情報を何一つ話してはくれない。
「アレンはフィネイには足枷が必要だと判断した。多分、ゼロスもエンヴィも同じ結論を出しただろう。あれはトゥーイを守ることを前提にしているんだろうが、本当に守りたいのはフィネイだろう」
トゥーイは弾かれたようにカイファスを見た。少し潤み始めた瞳を見せたトゥーイを、カイファスは目を細めて見やる。
「フィネイに自由はなかった。思考すら自由じゃなかったんじゃないだろうか。それを与えるために足枷を使ったんだ」
ずっと、仄暗い闇に捕らわれていたフィネイ。
「足枷がもう一人を拘束するってこと」
ルビィが首を傾げた。
「正確には違うな。フィネイはアルビノじゃない。魔力を使わなければ単なる装飾品みたいなものだろう」
「じゃあ……」
「もう一人はその足枷で酷い思いを味わっている。気持ちの問題だろう」
思考を封じ、考えることで疑問を持つことをさせないようにしていたのだろう。元々が穏やかだったと言うから、考えることが出来るようになると、周りのことを考えるのではないか。
総合的に判断をし、何が最善が考えるようになる。
「今回の場合、トゥーイが中心だ。そうなれば、フィネイは第一にお前のことを考える筈なんだ」
トゥーイは怯えたような表情を見せた。フィネイを誰よりも知っているのは近くにいたトゥーイだ。
変わる前のフィネイなら、カイファスが言っていた考えを持つだろう。合理的ではないが、必要でないと判断すれば、躊躇うことなく自分を切り捨てる。
「……判ってるんだな」
カイファスの問い掛けにトゥーイは頷いた。
「どうすれば良いと思う」
ルビィはカイファスに問い掛ける。
「アレンの中に居た者は黒薔薇に聞け、とお祖父様に言ったらしい。シオンが言っていたのを覚えていないか」
ルビィは目を瞬かせる。
「確か、ゼロスの祖先だよね」
「そうだ。ゼロスは唯一、本当の意味での代わりなんだ。当事者は墓所内にいる。吸血族と同じ存在らしいから、ただ眠っているだけだ」
ルビィはさっきのゼロスとエンヴィの会話を思い出す。
「……目覚めさせるつもりなの」
「認められればな。今のゼロスは私の元に婿養子に来た形になってる」
吸血族と婚姻したゼロスは銀狼族から離れているのだ。
「元族長の後継者でも、今は他種族だ。族長は弟が継いだから、どうなるかは判らない」
カイファスは小さく溜め息を吐いた。
「……兄さんの何かが判るのか……」
弱々しい声音でトゥーイは聞いた。
「正確には違うな。こうなってしまった過去を知ることが出来る。銀狼の始祖は黒薔薇の夫で生き証人だ」
過去を知れば、白薔薇がどうなってしまったのかが正確に判るだろう。それが辛い現実でも受け入れるしかない。
何時までも過去に目を背けていては、前に進めない。
「今まではお祖母様の話しと、私達自身が感じたことばかりで、真実は判っていないんだと思う」
「でも、カイファスのお祖母様の先見は絶対なんでしょう」
ルビィは更に首を傾げた。
「お祖母様は月読みと言う魔族の血を引いてるんだ。結構、特殊な一族で、特性なのか、必要だと感じた情報しか語らない」
つまり、アリスが必要ないと判断した場合、何も語らないという事だ。
「……だから、言葉が足りない。何時も遠回しに言うから、全てが終わってから判る場合が多いんだ」
カイファスは諦めたように息を吐き出した。
「多分、はっきりと事実を言ったのはお前の時くらいかもしれないな」
カイファスはルビィを見詰める。ルビィはきょとんとした表情を見せた。
「あの短い時間で血を飲むように強要されただろう」
カイファスの問い掛けにルビィは固まった。トゥーイはルビィに視線を向ける。四阿で聞いてはいたが、そのときと様子が違った。
「自分の意志で血を取り込んだんじゃない。全部族の族長に命令された」
カイファスは直接聞いたわけではなかったが、あの場所に居たのは確かなのだ。
動揺していてアリスが来たことは判らなかったが、後からゼロスに聞いた。
あの場所にアリスが現れた理由は、ルビィを消さないためなのは判る。だが、シオンを攫い、無事でいられたのは特殊な状況だったからだ。
「お祖母様は全部族長の前でお前が女性化すると断言したんだ」
切羽詰まった状態であったために、直接的な言葉で語ったに違いない。
「……僕は……」
ルビィは動揺した。あの時のことは衝撃が強すぎて誰にも言ってはいない。ある意味、アリスはルビィを切り捨てるような言葉を使ったからだ。
「命令されて血を取り込んだことは知っている。だが、無謀な賭を長様達が受け入れたのはお祖母様の言葉だろう」
ルビィは俯き唇を噛み締めた。
「……確かに僕は消える理由が欲しかった……でも、切り捨てられたように感じたんだ……」
カイファスは目を見開いた。
「……失敗しても、本来の刑罰が与えられるだけだって言われて……」
アリスにしてみれば、実行するために言葉を選んでいられなかったのだろう。ルビィとエンヴィはよりによって、全部族長が一堂に会して居るときに行動してしまったのだ。
カイファスは俯き唇を噛み締めているルビィを見やる。心配そうにルビィの顔をトゥーイは覗き込んだ。
「お祖父様は躊躇わなかったか」
カイファスの問いに、ルビィは顔を上げる。確かに部族長達は一瞬、躊躇ったのだ。
「あの場所で実行しなければ、エンヴィが暴れた。魔力で抑え付けていたから上手くいったんだ」
あの当時のエンヴィは荒んでいた。周りが一切、見えていなかった。ルビィが自分の血を取り込んだ意味さえ理解していなかった。血に触れた吸血族が血に縛られることを忘れ去っていた。
「お祖母様は言葉に対する配慮が足りない。直接的か、とてつもなく間接的か。孫の私だけじゃなく、娘である母上さえ困惑することがあるくらいだ。息子も時々、考え込んでるしな」
溜め息を吐きつつ、肩を竦めカイファスは諦めたように言った。
「……それって……」
「母上曰わく、産んでは貰ったが、育ててくれたのは祖母と館で働いている者達だったそうだ。お祖父様は忙しかったしな」
ありとあらゆるものに振り回されていたアリスは、少しばかり普通と違っていたのだ。
「あの人の言動を深く考えない方がいい。自分で判断して、必要だと感じたものだけを聞いていたらいいんだ」
カイファスの物言いは、とても孫のものだとは思えなかった。長く関わっていたからの言葉だろうが、アリスとは相当特殊な存在のようだ。
「言っちゃあ悪いと思うが、意味不明な言葉が多いんだ。お祖父様ですら困惑するときがあるんだから」
二人は完全に固まった。
「ゼロスとアレンなんて、お祖母様が出てきたら身構えるんだぞ」
カイファスは思い出したように笑い出す。
「そうなの」
ルビィは目を見開き、驚きを露わにした。あの二人が動じることが信じられなかったようだ。
「お前の二人に関する認識はかなり誤ってるぞ。落ち着いてるように見えるだろうが、単なる莫迦だ」
カイファスがあまりにきっぱりと言い切ったので、ルビィばかりではなく、トゥーイも目を見開いた。
「偉そうなこと言ってたって、私やシオンに頭が上がらないんだ。莫迦以外に何て呼んだらいいんだ」
仮にも旦那を莫迦呼ばわりするカイファスに、開いた口が塞がらない。
「……それ、本人に言ったのか」
トゥーイは疑問を素直に口にした。
「言うわけないだろう。あれでも自尊心はあるんだ。上手く利用するんだよ」
カイファスは黒い笑みを見せた。二人は思わず竦み上がる。
「お前達も旦那を上手く操るんだな」
ルビィは納得出来ない部分もあったが、素直に頷いた。一方、トゥーイは複雑な表情を見せた。旦那になるかは、まだ、判らないのだ。
「弱気になるなっ。お前は兄貴を捕まえるんだっ」
強い口調で言い切られ、トゥーイは思わず頷いていた。
†††
ゼロスはあの後、直ぐに黒薔薇を発った。上手く行けば、日が沖天に達する前に銀狼のコロニーに辿り着ける。
深い青の森を抜け、視界に広がるのは岩と砂の世界。夜は冷え込み、昼は灼熱になる土地を銀狼の始祖はあえて選んだ。
軽く太陽を見上げ、眉間に皺を寄せる。長居をするつもりはなかった。集落が視界に入り、目的の場所に着地する。
いきなり現れたゼロスに、銀狼達はざわめいた。そんなことには頓着せず、ゼロスは父親のテントに足を踏み入れる。
いきなり目の前に現れたゼロスに父親は目を見開いた。
「ゼインとシアンはどうした」
ゼロスが来るときには必ず二人が一緒に来る。父親はいくら見渡しても視界に入ってこない存在に首を傾げた。
「あの二人を連れて来るときは連絡を入れるだろうが」
腕を組み、横柄な態度のゼロスに、父親は溜め息を吐いた。
「何の用で来た」
ゼロスはすっと目を細めた。父親は嫌な予感に眉を顰める。ゼロスはよほどでないかぎり、銀狼のコロニーには寄り付かない。それは、混乱を避けるためだ。
「始祖を目覚めさせたい」
ゼロスは簡潔に言った。父親は更に目を見開く。
「無理な相談だ」
「そんなことは言われなくても判ってる。それでも、目覚めさせたい」
ゼロスの言葉に父親は吸血族で何かがあったのだと察した。
「何があった」
その問いに、ゼロスは今、吸血族内で起こっていることを簡単に説明した。
「始祖が黒薔薇」
「みたいだな。俺としては、目覚めさせたくないのが正直な気持ちだ」
ゼロスは吐き捨てるように言った。その態度に嫌々来たことが伺える。
「言っておくが、いまの族長はバルドだ」
「判ってる」
「決定権を持つのは実は族長でないことを知っているか」
父親の言葉にゼロスは軽く目を見開いた。
「始祖を目覚めさせる資格を持つ者は族長にあらず」
「誰なんだ」
ゼロスは少し苛立ちながら、気持ちを落ち着けようと努力する。
「お前だ」
一瞬、何を言われたのか判らなかった。
「判らないと言う表情だな」
銀狼族でありながら、吸血族の者と婚姻したゼロスが資格を持つなど、本来なら信じられない。
「始祖を目覚めさせるのは満月の日でなくてはいけない。そして、もう一つの条件が、薔薇を得た者だ」
父親は苦笑いを浮かべた。
カイファスが黒薔薇と呼ばれるようになったのは婚姻した後だった。
始祖を目覚めさせる条件の薔薇の意味が判っていなかったのだ。銀狼も《永遠の眠り》に就くときには透明な薔薇を抱く。
それのことだと思っていたのだが、ゼロスがカイファスと結婚したことで、薔薇の意味を知ることになったのだ。
「何時かは来ると思っていた」
父親は諦めたように呟いた。
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