浅い夜・薔薇編

善奈美

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Ⅷ 月夜の小夜曲

06 月夜小夜曲

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 目の前にあるのは冷たい石の墓標だった。アリスは跪き石に刻まれた文字に指を走らせた。

「気が付きませんでした」

 リムリスはアリスを見下ろし、後悔の滲む言葉を吐き出した。だが、アリスは首を横に振った。

「知っていたから。お医者様にかかるお金も無かったし、そんな余裕は無かったから」

 アリスはニーナが病魔に侵されていたことを知っていた。勿論、ニーナも判っていたのだ。気が付いたとしてもアリスが保つ力は癒やしの力ではない。

 度重なる心労と世情のせいで、振り回され続けた。決定的だったのが、夫と息子の死だったのだ。アリスという存在が、ニーナの命をつなぎ止めていたに過ぎなかった。

「最期は穏やかに笑っていたもの」

 アリスは呟くように言った。

「ありがとう。お墓を用意してくれて」

 人の世でまともに埋葬出来たかは謎だった。何処でも戦いが行われ、安らかに眠りにつくのは無理だ。

 ニーナの墓の横にアリスの墓もあった。

 アリスが目覚めた後、ニーナが唯一望んだのは、妹の隣で眠りたいだったからだ。

「許可を得ず、勝手にお母様の墓を移動させてしまいました。人の世は安まらないと思ったので」

 リムリスは申し訳無さそうに呟く。墓を移動させるためには、暴かなくてはならない。眠りについている死者を目覚めさせる行為だ。

 アリスはニーナの横にある墓標に視線を向ける。母の墓標に手を伸ばし触れた。

「ありがとう。伯母さんもお母さんも喜んでくれてると思うから」

 アリスは小さく笑った。

 だが、リムリスは痛まし気にアリスを見る。ニーナが逝った日からアリスは泣いていない。涙一つ流していない。

「でも……」

 アリスは振り返りリムリスを見上げた。

「お母さんのお墓の場所を良く知っていたなぁって」

 アリスの疑問はもっともだった。魔族だからだといって、万能な訳ではない。

「貴女が目覚めてから、一度、伯母さんと人の世に戻ったのですよ」

 ニーナは渋々ながらも一緒に住むことを承諾してくれた。今思えば、病気だったからなのだろう。そのニーナがリムリスに一度だけと、妹の墓参りを望んだのだ。

 あれは確認だったのだと、今なら判る。

「正直、驚きましたけどね」

 アリスは目を見開く。

「墓地とは名ばかり。荒れ地に埋葬されているだけで、誰が葬られているのかもよく判らなかったですからね」

 ニーナが居たからその場所だと判ったくらいだ。近くで戦でもあったのか、荒み方が半端ではなかったのだ。

 上空を見上げれば黒い影が覆っていた。夜に出掛けたのだから暗いのは判るが、その暗さではない。ニーナを取り込もうと降りてきた者を避けるため、咄嗟に結界を張ったくらいだ。

「本当なら、お母様だけではなく、そのご両親も引き取りたかったのですけどね」

 リムリスは溜め息混じりに言った。アリスは驚いたようにただ、リムリスを見上げた。

「ですが、何処に在るのか判らなくなってしまったと言っていましたからね」

 リムリスがニーナに訊いたとき、悲しそうに言った言葉を思い出していた。

 墓所があった場所で戦が行われた、と。

 本来なら、死者が眠る場所で戦などしないだろう。戦いが激しくなり、戦火が広がり、墓所にまで至ったのだと険しい表情で吐き捨てるように言っていた。

 アリスは唇を噛み締めた。結局、酷い目に遭うのは弱者だ。権力者は弱い存在を省みない。

「泣いてもいいんですよ」

 いきなり言われ、アリスは目を見開いた。

「我慢していたら、涙に溺れてしまいますから」

 リムリスの意外な言葉に、アリスの思考が停止した。

 泣くって、涙って、どうやって流すんだったっけと、アリスは必死に考える。感情が麻痺し、何も思い浮かばない。

 この場所に不安はない。今までのように、他人の感情に振り回されることもない。

 そして、考える。

 自分の意志で泣いたことがあっただろうか。他人の感情に感化され泣いていただけだったのではないだろうか。

「気が付きましたか。貴女は自分の意思で泣いたことがない筈ですよ」

 リムリスは跪き、アリスに視線を合わせる。

「他人の感情と自分の感情を混同してはいけませんよ。泣きたかったら泣いていいんです。我慢する必要はないのですから」

 諭すように言われ、アリスは息をのむ。我慢しているつもりはなかった。ただ、感情を表に出さないようにしていた。

 そうしなければ、引き摺られ、戻ってこれなくなる。

「ここは人の世ではありません。泣こうが喚こうが、理由があるなら、誰も貴女を咎めたりしません」

 アリスの中で今の言葉が硬い壁を叩いた。殻に閉じこもり、必死で築き上げた壁が震えるのを感じた。

 自然と瞳に涙が溢れ出し、頬を伝う。感情を殺し、封じていたアリス自身が涙を流す。それは、アリスが初めて感情に従ったことだった。

 リムリスは目を細めアリスの頬に触れる。止まることを忘れたように涙を流し、嗚咽が微かに聞こえる。

 静かに泣くアリスに、リムリスはただ見守った。

 アリスは優しく触れているリムリスの手にすがりつく。全てを失い、残ったのは生まれ変わったアリス自身だけ。ニーナもアリスが大丈夫だと判ったのか、急に体調を悪化させた。

 とうに無かった命はアリスを護るためだけにつなぎ止めていただけに過ぎなかったのだ。リムリスという存在がニーナを自由にした。

 それは疎ましかったのではなく、安心を得ることが出来たという意味だった。ニーナの死に顔は穏やかで、静かなものだった。

 色を変えたアリスの瞳が涙をはらみリムリスを見詰めた。涙が、何かを洗い流してくれているようだった。

「落ち着いたら、貴女の父親に会いに行きましょう」

 リムリスは穏やかに言った。驚いたのはアリスだった。

「……お父さん……」

 訝しむように呟かれた声にリムリスは頷いた。

「生きていますよ。貴女には会いに行く権利がありますから」

 ジェイファスは今も娘を視ている筈だ。変化し目覚めたアリスを、きちんと認識している筈である。

 リムリスはアリスをジェイファスに会わせることが必要だと判っていた。特殊な生い立ちと世情のせいでアリスの心は病んでいる。

 感情を表すことが難しかった娘が、直ぐに正常に戻る筈がないのだ。普通に与えられるものを奪われ、心の自由さえままならなかった。

「会いに行ってもいいの」

 その声は震えていた。

「会いに行くと宣言してありますから」

 リムリスの言葉にアリスは不思議に思った。まるで、会ったことがあるような口振りだったからだ。アリスの表情にリムリスは苦笑した。

「一度だけ、貴女に会いに来たのですよ」

 それはアリスを護るためだ。命の鼓動を止めたアリスを喪わないために会いに来た。

「一度、命を停止させた貴女を護るために」

 アリスは息をのむ。リムリスの血を口にした後、意識が完全に途切れた。その後の記憶は体から抜け出した意識としての状態だったのだ。

 死んでいないことは判っていた。大気に空気に流され、沢山のことを視、訊いていた。過去と未来を視ていた。

 吸血族の犯した罪と、自分の祖先が犯した罪。

 自分という存在の意味と、リムリスと出会わなくてはいけなかった意味。全てが決められ、二人が出会うことで動き出す。

 それは過去の清算。吸血族にかけられた呪縛を解き、月読みが関わったことで絡まってしまった全てを解き解すために。

「私が行っても迷惑じゃない」

 疑問を口にする。リムリスはただ、微笑みを浮かべた。

「親が子を疎ましく感じたら終わってますよ」

 何時ものように、少し判りにくい言い方で言うリムリスにアリスは泣き顔のまま笑った。

「……会いたい。でも……」

 アリスは一旦、言葉を切った。小さく息を吐き出し、息を吸い込む。

「子供が生まれてから、会いに行きたい」

 リムリスは固まった。

「視たから。リムリスを視たとき、赤ちゃんを視たの」

 アリスの言葉に、五年前の母親の言っていた言を思い出す。リムリスを視てしまったと。

「子供と一緒に、リムリスと一緒に会いに行きたい」

 それはアリスの小さな我が儘だった。おそらく、アリスは滅多に外には出られない。結界で護られた部屋に居ることになる。

「判ってるから。私はあの護られた部屋を出ない方がいいって」

 体に戻るまで沢山のことを知った。その中に力についても知ることが出来たのだ。

 アリスの力は月読みの魔力だ。月読みは力の制御が出来ない。個人的に結界を張ることも出来ない。

 月読みの部落に張られている結界は結界師と呼ばれる魔族が作り出したものだ。結界を張ることに特出した魔族。

 吸血族のように種族が結界を張れれば問題ないが、そうでない場合は結界師に頼むことになる。

「だから、一度だけ会いに行きたい」

 リムリスは目を細めた。アリスは目覚めと同時に、人であったときより強い力を宿し蘇った。強すぎる魔力は諸刃の剣だ。

 制御出来なければただの重荷でしかない。

「一度だけですか」

 リムリスにしてみれば、会いたければ会いに行けばいいのだと思っている。一緒に行くことになったとしても、大した負担ではない。

「一度だけ。それ以上は、父が困る筈だから」

 アリスは少し俯いた。月読みは殆ど出歩かず、他種族との接触も少ない。

 いくら娘であったとしても、別の魔族となったアリスは月読みにとって招かれざる客だ。

 一度、訪れるだけでも本来なら迷惑な筈である。それを認めてくれたのは、アリスを思ってのことに違いない。

 互いに負担を強いることになるなら、最良のときでありたい。月読みが望み、託された内の一つの願い。それは、月読みの力を宿し、吸血族の血を残すこと。

 それは、全てのことを清算するための始まりだからだ。だからこそ、生まれる子と三人で父親に会いに行きたい。

「それに、会おうと思えば会えるから」

 アリスはゆっくりと瞳を閉じる。本当に会えなくとも、感じることが出来る。垣間見る程度であったとしても、知ることは出来る。無理をする必要はないのだ。

「後悔はしないのですね」

 アリスは小さく頷く。後悔するくらいなら、リムリスの血には触れなかった。全てを切り捨てるつもりで決めたのだ。

「私は人であることより、父より貴方を取った。後悔はしてないし、してはいけないから」

 閉じられた瞳が開かれ、そこに映る色にリムリスは息を吐き出した。

 空の色に月の色が混じる。不思議な色合いの銀の瞳がリムリスを見詰めていた。

 リムリスはゆっくりと立ち上がるとアリスを促す。アリスは差し出された手に躊躇うことなくそれを重ねた。

 そして、歩き出す。

 少し歩いた後、アリスは一瞬、墓所を振り返る。

 吸血族と関わった人のための墓所。部族長の館の敷地内にあるその場所に、大切な二人が眠る。

 振り返ったアリスの瞳に映ったのは愛しい二人の女性。優しく微笑み、ただ、見詰めていた。アリスは微笑み返し、リムリスの腕に縋るように歩き出す。

 二人はそれを見届けると、静かに姿を解いた。柔らかい風が吹き、夜の闇の中に消えていった。

 リムリスはいきなり腕に縋り付いたアリスに怪訝な表情を見せた。その表情にアリスはただ、微笑む。

 訝しく思い、リムリスは墓所を振り返ったが、そこには気になるものは存在していなかった。首を捻り、だが、前に視線を向け歩を進めた。

 アリスは心の中で呟く。生み出し、育ててくれたことの感謝と、出会いを与えてくれた幸運に。

 それは、奇跡。

 たとえ、決まっていたことであったとしても、アリスにとっては掛け替えのない出来事だった。

 隣を歩くリムリスと、長い時を生きていく。

 それは、導くため。

 リムリスは知らず、ただ、アリスの中にある真実を伝えるために。

 空を見上げれば目に飛び込んでくるのは、淡い光を纏う月。

 アリスはただ、静かに見詰め、視ることの出来た未来を思う。何時か出会うであろう命を思い、起こるであろう出来事に息を吐き出した。

 人としての生を捨て、けれど、心の奥底に潜むただ人のアリス。自分に向き合い、呟く。

――本当に後悔していないのかと。

 ただ人のアリスは言う。

――それで、良いのだと。

 アリスはリムリスに縋り付きながら、穏やかに微笑んだ。
 
 
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