浅い夜・薔薇編

善奈美

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Ⅷ 月夜の小夜曲

02 引き裂かれる願い

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「伯母さんっ」

 アリスは精一杯体を伸ばし腕を伸ばし、必死で助けを求めた。

「アリスっ」

 ニーナは目を見開き声の限り叫んだ。だが、体を押さえつけられ、身動きが取れなかった。

「助けてっ」

 アリスは必死で助けを求めた。脳裏に浮かんだのは栗色の長い髪。人ならざる気配と、心を隠すように笑う顔。魔族である筈なのに血の香りを纏わず、のんびりとした気配をしていた。

 涙に濡れた空色の瞳が腹部の衝撃に閉ざされる。意識は途切れ、あるのは沈む暗闇だった。

      †††


 リムリスは胸騒ぎに飛び起きた。何があったのか、不意に思い浮かんだのは先日出会った二人だった。

 眉を顰めベッドから降り、身なりを整え部屋を出た。早足に廊下を歩いていると、父親の姿があった。今は相手をしている暇はない。だが、お構いなしで話しかけてくると判っていた。

「行くのか」

 一言言った父親にリムリスは目を見開く。

「何があったのかは知らないが、お前のそんな顔は見たことがない」

 リムリスは目を細める。

「厄介事を持ち込むかもしれませんよ」
「厄介事など、お前くらい厄介事はないだろうに」

 父親は苦笑した。

「人間とのいざこざは避けねばならないが、病む終えない場合は仕方あるまい」

 リムリスはただ、父親を見詰めた。人間の世界であった出来事は誰にも話していない。

 不思議顔のリムリスに父親は笑みを見せる。

「今まで無関心だったお前が動く。それは吸血族のことではあるまい」

 一族に全く関心がなかったリムリスが、吸血族のことで動揺する筈がないのだ。

 一族を守るためなら責務を果たすだろうが、それ以外は無関心だ。父親は判っていた。

 リムリスはただ、部族長の後継者として生きてきた。それ以外のことは無関心だった。その心を動かした者が居る。同族でないことが悔やまれるが、仕方のないことだ。

「姿を見せることになるかもしれません。厄介事とは、そう言う種類のものですよ」
「どこまでだ」
「命を奪うかもしれません」

 リムリスはきっぱりと言い切った。父親は眉を顰める。つまり、血を見ることになる可能性があるということだ。

「耐えられる自信があるか」
「どうでしょうね。突き付けられて初めて判るものでしょうに」

 確かにそうだろう。だが、これは確認し、約束させなくてはいけない。

「正気で戻るんだ。いいな」
「努力はしますよ」

 リムリスはそうとしか言えなかった。絶対などは有り得ないからだ。

「結界を強化する。他部族の長達にも知らせる。そうなれば、流石のお前でも辿り着けないかもしれないぞ」
「ご心配なく。感で辿り着きますから」

 しれっとリムリスは言った。

「お前は」

 父親は溜め息を吐いた。

「こう言う性格なんです。判っているでしょう」

 リムリスは言うなり歩き出した。父親は止めなかった。今まで女性に関してのみ問題はあったが、我が儘を言ったことがない。そのリムリスが初めて自分の意志を見せたように感じたからだ。

 小さく頭を振り、執事を呼ぶ。大変な事態になる前に、対処しなくてはならなかったからだ。一通り説明し、執事に指示を出す。

 更に強固な結界を張るために館の中心部に足を向けた。

      †††


 リムリスは二人の家屋に向かった。辺りは薄暗く人気も無かったため、直接、玄関先に着地する。微かに見える灯りが中に人が居ることを伝えていた。

 軽くノックすると刺々しい返事が返ってきた。

「用はないだろうっ」
「何があったんです」

 それに構わず戸口で、リムリスは問い掛けた。その声に勢い良く扉が開く。外に開く扉であったため、リムリスは軽く身をかわした。

「あんた……」

 リムリスの姿を確認するなり、ニーナは咽び泣いた。

 リムリスは取り敢えず室内に入り、扉を閉める。幾ら人気が無くとも、見ている者はいるのだ。

「アリスは」
「連れていかれちまった。若いとばれていたのさ」

 リムリスは嫌な予感が的中したことが判った。

「助けてやっておくれ」
「貴女にも危害がありますよ。私が助けると言うことは、魔族と繋がりがあると思われますから」

 ニーナは頷く。そんなことは言われなくとも判っていた。

「あたしはどうなったっていい。ただ、あの娘は幸せにならなきゃ駄目なんだよ」

 ニーナは両手で口を押さえ、泣きながら訴えた。

「彼女は貴女の不幸は望みませんよ。連れて行かれたのは領主の館ですね」

 その問いにニーナは頷いた。

「アリスを助けた後、ほとぼりがさめるまで私が預かります。貴女は闇に乗じて街を離れて下さい」

 街の外が危ないことは判っていたが、リムリスがアリスを助けた後、ニーナは必ず魔女として捕まるだろう。ならば、少し危険でも逃げるべきだ。

「これを渡しておきます」

 リムリスは言うなり指先で何かを描いた。微かな光が小さな鳥を描き、彼の指先に不思議な色合いの小鳥がとまっていた。

「使い魔なのですが、普通に使うものでは目立つので、小鳥の姿にしました」

 使い魔はリムリスの分身だ。弱い魔物ならば近寄っては来られない。

「貴女の場所が判らなくなっては困りますので」

 リムリスの言葉にニーナは小鳥を見詰めた。小鳥は羽ばたくとニーナの肩に羽根を落ち着ける。

「必要な物を持って、行って下さい。必ず助けますから」

 ニーナは泣きながら頷いた。街の外まで付き添い、見送った後、リムリスは軽く大地を蹴った。上空で停止すると、ある場所を凝視する。

 炎で浮かび上がる館の姿が確認出来た。眼下に広がる街並みは暗く沈んでいるのに、其処だけが異様に明るく感じた。

 街の外に視線を向ければ、遠く微かに荒んだ場所があった。その上空に目を向ければ、暗い影が無数に飛び回っていた。

「また、沢山、亡くなられたようですね」

 小さく嘆息すると、目的地に向かって体を飛ばした。姿を隠すことはあえてしなかった。どのみち、騒動を起こすのだから、隠れても意味はない。

 近付くにつれ、領主の館が異常であることに気が付いた。

「庭で宴会……、違いますか……」

 男女入り乱れるその姿は、小さな魔物にも劣る。ただ、女性達は悲痛な表情で酒の相手をしているのが判る。年の頃も、少女といっていいほどあどけなさが残る顔だ。

「呆れますね」

 戦場では、命を削っている者達が居るのに、この場所は戦時中とは思えない。

「この状態では、勝てる戦も勝てないでしょうに」

 あまりの哀れさに、浮かんだ感情は嫌悪感だけだった。そのまま、通り過ぎ、華美すぎる館の前で着地した。

「そして、誰もいない、ですか」

 完全に無法地帯だ。リムリスにとっては都合は良かったが、領主と言うのは無能なのかと疑いたくなる。

 部族長の後継者として育てられ、そうなるよう求められ教育されたリムリスには考えられなかった。

 意識を集中させ見知った気配を探る。館の二階に視線を向け、目を細める。館の中は静まり返り、はっきりと認識出来る気配は二つだけ。一つは知っている気配だった。もう一つは、生理的に受け付けない感じの、吐き気が出る位の禍々しい、私利私欲にまみれた救いがたい気配だった。

      †††


「これほどとは」

 上擦った声がアリスの耳に届いた。目覚めると信じられない趣味の悪い装飾で彩られた部屋のベッドの上にいた。

 衣服を身に着けていることに安堵したが、直ぐに置かれた状況が窮地に立っていると判った。

 頭の中に絶えず流れてくる意識と、過去と未来の映像に吐き気がした。更に見下ろしてくる男に恐怖と嫌悪が生まれた。

 無数の思いを身に纏い、本人は全く気が付いていない。恨み辛みは恐ろしい。それを無数に受け、平気でいる男が信じられなかった。

  伸ばされる腕に後ずさる。所詮は狭いベッドの上だ。逃げるのにも限界がある。

「……でっ」

 声が喉に張り付き出てこない。自分の身のことより、吐き気を伴う感情や思いが頭の中を駆け巡る。

「お前なら、王も喜ばれるだろう」

 言われた言葉に息をのむ。頭にいきなり入り込んだ情報に体が震えた。無体を強いるのではなく、献上品として王の元に送ろうとしているようだった。戦場での手柄は期待出来ない。ならば、別の方法で取り入ろうとしているようだった。

 後宮になど送り込まれたら、先は見えていた。アリスの先見の力など王には必要ない筈だ。

「独創性がないのはいただけませんね」

 いきなりのんびりとした声が聞こえてきた。体を強ばらせたのは領主だった。館は人払いしてある。

 有り得ない場所が開かれる。ベランダの無い部屋に、窓から平然と入り込んできた影に領主は息をのんだ。

「もっとましな考えは浮かばないのですか」

 ゆっくりと歩を進めてくる存在に、アリスは信じられない思いで見詰めた。

 揺れる栗色の髪が、薄闇の中でもはっきりと見える金緑の瞳が領主を射る。

「権力を持つなら、下の者を守るのが義務でしょう」

 リムリスの辛辣な言葉に領主は顔の色を無くした。

「何者だ」
「本当に、お決まりのことしか言いませんね。張り合いがありませんよ」

 リムリスは目の前まで来ると領主を見下ろし、次いでアリスに視線を向けた。

 アリスはリムリスを凝視し、無意識に訴えていた。助けてと。

「お前は」

 領主の声は震えていた。リムリスの姿に腰を抜かしたように動かなかった。

 人間の世界に来るときに、耳と瞳の中を見せないようにするのが当たり前だった。だが、リムリスはあえてそのままの姿を晒していた。

 先の尖った耳と猫のような瞳。明らかに人と違う特徴に、領主は目を見開くことしか出来なかった。

「アリス、私と共に来ますか。来るのなら、人の世に戻れなくなりますよ。その覚悟はありますか」

 落ち着いた声音にアリスは頷いた。領主にいいように利用されるなら、魔族であるリムリスと共に行く方がいい。少なくとも、リムリスは無理強いをしない。

「伯母さんと会えなくなりますよ」

 言われた言に息をのむ。

「それでも、私と共に来ますか」

 再度問いかけられ、少しの沈黙の後アリスは口を開く。

「……連れて行って……っ」

 絞り出すように言葉を零した。

 アリスは自分の存在がニーナの重荷であることは判っていた。体が弱いせいで街から離れられず、戦時中とはいえアリスの存在が職を失わせていた。

 アリスの力を知っていて尚、心を偽らずに生きるのは辛かった筈だ。ならば、魔力を保つリムリスと共にあるのが相応しいと感じた。

「判りました」

 リムリスは言うなり領主の首を締め上げる。驚いたのは領主だった。動かない体にただ、震えることしか出来ない。

「彼女は私が連れて行きます。貴方は貴方の仕事をしたらどうです」

 少し手に力を込めると領主は息が出来ずもがいた。徐に領主の首から手を離し、アリスに右手を差し出す。

「いらっしゃい」

 促されアリスはその手にすがりついた。そのまま片手で抱き上げられ、振り返らず入ってきた窓に足を向ける。

 領主は呆然と二人を見送り、急に我に返る。

「こんなことが許されると思っているのかっ」

 上がった叫び声に、リムリスは振り返る。

「貴方がしたことは許されるのですか。彼女もですが、年端もいかない少女達に酒の相手をさせるのが人の理ですか。権力者が何をしても許されると思っていることが、許せませんよ」

 睨み付けられ、領主は口を噤む。

「貴方が仕える王がこのようなことを許す輩なのなら、先は見えていますね」

 捨て台詞のように言葉を吐き出し、窓から体を踊らせた。アリスは思わずリムリスにしがみつく。

 リムリスはそのまま上空で体を停止させた。

 アリスはいきなり頭に入り込んできた悲鳴に目を見開いた。外の空間に満ちる苦痛の言葉。思わず頭を抱える。

「貴女は力を制御することを身に付けなくてはいけませんね」

 溜め息のように耳元で囁かれたことに、涙目でリムリスの顔に視線を向けた。

「流石に兵を動かしましたね」

 のんびりと言われ、足下に視線を移す。

「でも、あれでは戦えない」

 アリスは小さく呟く。見るだけで判る。足がおぼついていない。

「伯母さんは逃がしました」

 リムリスは足下に視線を向けつつ、アリスに告げた。

「私が貴女を助け出せば、魔女として捕まりますからね。魔女は火炙り、それが今の人の世でしょう」

 リムリスは言った後、アリスに視線を向けた。

「貴女もです。ほとぼりが冷めるまで私の館に身を置くことになります」
「……でも、さっきは」
「あれは方便ですよ。ああ言わなければ、貴女は何時までもあの領主に狙われますよ」

 リムリスは嘆息する。何時までも足下の人間に構っている暇はない。

「行きましょうか。しばらく此方に来られませんが、ほとぼりが冷めた頃に、伯母さんの元に連れて行って差し上げます」

 アリスは目を見開く。そして、入り込んできた過去に納得した。ニーナの側に力を保つ小鳥がいる。リムリスの気配をはらみ、守るように存在している。

「……ありがとうございます……」

 アリスが言える言葉はそれしかなかった。リムリスが来たのはニーナに頼まれ、同情したからだ。魔族にもその感情があるのだと、アリスは初めて知った。

「とは、言ったものの……」

 父親が結界を強化するとは言っていたが、まさか、ここまでするとは思っていなかった。何時もの感覚で大まかな場所は判るものの、入り口が見付けられない。

 アリスは首を傾げた。街外れにある森の上空で、リムリスは静止していた。辺りを見渡し、何かを探している。

「本気だったみたいですね」

 嘆息したリムリスに、アリスは彼が向けている架空に視線を走らせた。あるのは何処までも続く空。ぽっかりと浮かんでいる月と星々。他には何もない。

「そこ」

 アリスは空にある蜃気楼のような場所を指差した。夜空の星々と同じくらいの大きさの、まさに点とも言える小さい綻び。

 リムリスはアリスが指差す方向に視線を向けた。揺らめく小さな入り口。躊躇うことなく、その場所に向かった。近付けば確かに判る。

 触れれば微かに何かが揺らめいた。リムリスはアリスを抱えたまま飛び込む。懐かしい感覚が肌に触れてきた。

 アリスはいきなり変わった感覚に戸惑う。何かを通り抜け、違う場所に出たことが判った。

      †††


 父親は顔を上げた。何かが入り込んだことを確認し、わざと綻ばせておいた場所を閉じる。

 よく知った気配と、もう一つ。吸血族とは違う気配。だが、人間というには何かが違った。微かに感じ取れる魔力は、人が保つものではない。

 足早にエントランスに向かう。扉を開け上空を見上げた。何かが此方に向かってくる。近付くにつれ、その姿がはっきりと認識出来た。栗色の長い髪を靡かせ、腕に一人の娘を抱えている。

「あの子が関心を持ったのが人間なんて」

 いきなり隣から聞こえてきた声に、父親は視線を向けた。そこにあったのは妻の姿だ。

「仕方あるまい。リムリスにとって、何か感じるものがあったんだろう」
「そうですね」

 二人で近付いてくる影を見詰め続けた。ややしばらくたってから、目の前にリムリスが着地する。

「無事だったみたいだな」
「ええ。領主が思いの外、無能でしたので」

 何時もの調子でリムリスは響くように答えた。父親はいつもの様子に呆れかえる。

 リムリスはアリスを立たせた。アリスは二人の視線を受け萎縮する。何かが聞こえてくるのではと身構えた。しかし、何も流れ込んで来ない。

 リムリスを見上げ、そう言えばと思い出す。

 気配は判る。人間ではないと認識出来た。だが、心の内が聞こえてきたことはなかった。

 閉ざされた空間なのは判っていた。だからなのか、今まで居た場所のように無差別に情報が頭に入り込んでこなかった。

「アリスです」

 リムリスが目の前の男性にそう告げた。いきなり入り込んできた情報に戸惑う。

 リムリスから、目の前の男女が両親であると、流れ込んできた。

 アリスは小さく頭を下げる。

 館に身を置くと言うことは、お世話になることになる。おそらく、迷惑な筈だ。

「まあ、可愛らしいわ」

 母親は胸の前で両手を組み、アリスを覗き込んだ。

「でも、髪が短いのが不満だわ」

 はっきりと言われ、アリスは固まった。確かに短く切りそろえていた。長くては不便だったからだ。生きていくのに髪の毛は必要ない。長く伸ばせば、手入れをしなくてはならない。

 そんな暇も余裕もなかった。

「いらっしゃい。まず、汗を流しましょう」

 母親は言うなりアリスを強引に連れて行った。二人はそれをただ見送る。

「あの娘はただの人間ではないな」
「判りますか」

 父親はリムリスを見詰めた。

「普通の力じゃない」
「そのことでお願いがあるのですよ」

 リムリスは改まったように言った。何時もと違う様子に、父親は次の言葉を待った。

「一部屋、結界を張りたいのですよ」

 父親は目を細める。館は結界の中心だ。

「それが、どれだけ危険か判っていってるんだな」
「判っていますよ。ですが、彼女は何時も情報に振り回されていましたから」

 父親は考えを巡らせる。黒薔薇の一族を護るための結界を危険に晒してまで、結界の中心に新たな結界を張るという。

 父親は小さく嘆息した。

「一つ、条件がある」
「何でしょうか」

 父親はリムリスに向き直り、条件を口に出した。リムリスは目を見開く。

「絶対ですか」
「そうだ」

 リムリスは小さく息を吐き出し、頷いた。
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