浅い夜・薔薇編

善奈美

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Ⅶ 眠らない月

05 深淵

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「構わないが、無理はするなよ」

 ファジールは四人にそう言った。アレンが動くということは、医者としての仕事を放り出す結果になる。その負担をファジールが担う形になるからだ。

「親父もお袋を大人しくさせておけよ」

 腕を組み半眼でアレンは凄みをきかせた。

「何を言っている。ジゼルを大人しくさせるのは無理なことぐらい知っているだろう」
「流産させたくなきゃ、安定期まで大人しくさせろよ」

 アレンの言葉にファジールは目を見開いた。

「流産って。何のことだ」

 ファジールは明らかに動揺していた。

「お祖母様が昨日、言っていたんだ」

 カイファスは微笑みながらファジールに告げた。

「やることやったんだろ。長も知ってる。流産なんてことになったら、嫌味を言われるだろうが」

 ファジールは壁に縋りついた。確かにジゼルに襲われたのは事実だったが、まさか、本当に妊娠するなど思っていなかったのだ。

「お袋に言っとけよ」

 アレンは捨て台詞を吐くと三人を伴い館を後にした。

「今言うことか」

 ゼロスが疑問を口にした。

「これから色々ありそうだからな。忘れる前に言っただけだ」

 アレンは悪びれた様子もなく言ってのけた。それに、早めに言っておかないと、ジゼルは普通以上に動き回る。

「気になってたんだが、カイファスは仕事に支障はないのか」

 アレンの問いにカイファスは微笑んだ。

「こんなことになったし、何時、妊娠するかも判らないから、父上に仕事の殆どを渡したんだ」

 だから、自由の身だとカイファスは言った。

「じゃあ、僕と一緒だね」

 シオンは嬉しそうに両手を組んだ。

「お喋りとか出来るんだよね」
「そうだよ」

 アレンとゼロスは二人を見下ろす。そして、同時に同じことを考えた。互いに顔を見合わせ、溜め息を吐く。

 二人は日に日に女性と同じになっていっているように感じてはいたが、今ので確信に変わった。体だけでなく、心も女性化しているようだ。

「時間がないね」

 カイファスは表情を改める。ルビィの症状の進行が二人より早い。

「アレン、医者として、ルビィの状態をどう見る」

 カイファスの質問にアレンは目を細めた。

「多分だが、血の摂取量が二人より多い。カイファスは何時口にしたか判らないんだよな」

 カイファスは頷いた。

「シオンは舐めただけだろう」
「そうだよ」

 シオンもアレンの言葉に頷く。

「どう言うことだ」

 ゼロスは首を捻る。銀狼のゼロスは血に依存していない。カイファスの血を口にしたのは、あくまで儀式だったからだ。

「見てないから何とも言えないが、ルビィは直接、首筋から血を飲んだんじゃないだろうか。だとするなら、二人より鮮度の良い血を取り込んだことになる」

 シオンとカイファスは目を見開いた。広間で会ったルビィは濃く甘い血の香りを纏っていた。

「つまり、あの時点で変化が始まっていたことになる。ルビィはエンヴィを好き何だよな」

 アレンは疑問に思いつつ二人に訊いた。

「間違いないよ」
「ルビィはエンヴィを慕ってる」

 シオンとカイファスは確信したように、きっぱりと言い切った。

 アレンとゼロスはいまだに信じられないが、二人が言い切るのだから間違えないのだろう。

「エンヴィは知らない。おそらく、長達は教えてないだろう。ルビィだけに教えて、エンヴィは長の館に連行されたんだと思うんだが、何故、教えなかったのかが謎だよな」

 アレンはゼロスに視線を向けた。

「暴れるからじゃないか」

 ゼロスは更に首を傾げた。

「教えなくても暴れたんじゃないか。まあ、押さえつけられて意識を飛ばした可能性はあるけどな」

 アレンは言った後、間違えないと確信した。

       †††


「待っていたわ」

 アリスはベッドの上でクッションを背に座っていた。

「判っていたみたいだな」
「言わせてもらうと、昨日、教えてくれた方が早かったんじゃないか」

 ゼロスとアレンは囁き合った。

「無理じゃないかなぁ」

 シオンはアリスの姿に、無理をしていたことを痛感した。ベッドの上にいるアリスは昨日より穏やかだった。

「リムリスが渋ったんじゃないかしら」

 確かに、カイファスが会わせろと言うと難色を示した。

「言って於いたのだけど」

 アリスは判っていた。四人は必ずやってくる。その前に、この場所で暗い気配を探り読み取ることに神経を使っていた。

「それに、昨日の時点では彼の過去は見えていなかったわ」
「どういうこと」

 カイファスは驚きに目を見開いた。

「彼は暗い闇を纏っていて、ルビィからの情報でしか判らなかったのよ。幼いときは穏やかで優しい少年だったみたいね」

 つまり、ルビィが最初に出会ったときのエンヴィは冷たくなかった。穏やかで優しかった少年に何があったのか。

「リムリスも彼に関しては情報を持っていなかったわ。何故か、記憶にないらしいのよ」

 黒の長の記憶力は尋常ではない。そのことを良く知るカイファスは更に驚いた。

「確かに会っている筈なのに。あれだけ印象的な気配を持っているのに」

 アリスはシオンに視線を向けた。微笑まれ、シオンは思わず俯いてしまう。

「貴方が一番知っているんじゃないかしら。彼の深淵を」

 シオンは弾かれたよう顔を上げた。

「一度、襲われているでしょう」

 小さく息をのみ、アレンの服の裾を強く握り締めた。

 三人はシオンを見詰めた。

「確かに未遂だった。ルビィが貴方を助けたわ。だからこそ、貴方は見たわね。その瞳の奥の闇を」

 シオンはしゃがみ込み、頭を抱えた。忘れた筈だ。忘れ去った筈だ。

「シオン」

 アレンはシオンの肩に手を置いた。シオンは怯えた顔を向ける。

「……っ、思い出したくないっ」

 それは拒絶だった。小柄で力も魔力も勝てる筈がなかった。ルビィが来なければ、どうなっていたか判らない。両の目から涙が溢れ出す。

 アレンはシオンを抱き締める。

「何があった」

 アレンはシオンを宥めるように背を撫でた。そして、眉を顰める。

「アレン」

 アリスは目を細め、首を振る。

「貴方は違うでしょう。二人は、否、三人は判っているわ。だから、此処にいる」

 アリスの言葉にカイファスとゼロスは息をのんだ。今の言い方ではシオンが知っているような感じだったからだ。

 しかし、アレンは更に苦痛を顔に貼り付けた。あのことは、後悔してもしたりない。

「……エンヴィは怖い。恐ろしくて、仄暗い……」

 シオンはアレンにすがりついた。

「お祖母様」

 カイファスは険しい表情になった。

「彼はエンヴィは他を憎んでる。幼いときに与えられた痛みをまだ、抱えている。正気を保てていたのはルビィのおかげよ」

 アリスは目を細めた。アレンは目を見開き、有り得ない考えが脳裏を掠めた。

「待ってくれ。今の話しだと、ルビィが消えたらエンヴィはおかしくなるってことじゃないか」

 アリスはアレンを見詰めた。

「そうなるわね。けれど、エンヴィは気が付いていない。ルビィが要るからこそ存在出来たことに」

 アリスは目を閉じた。この館の地下にある牢屋に意識を向けた。窓一つない牢屋にある小さなベッドに座り、エンヴィは前を睨みつけていた。

「何時まで保つかしら。一人で居ることに耐えられるかしら」

 目を開き、四人を見詰めた。

「何があったんだ」

 ゼロスは素直な疑問をぶつけた。

「吸血族は誕生と同時に婚約者が決まることが多かったわね」

 確認するようにアリスは言葉を紡ぐ。

「大抵はそれなりに諦め、心を通わせる努力をするわ。長い時の中でいがみ合うのは愚かで疲れる行為よ」

 だが、エンヴィの両親は冷めた心のまま婚姻し、その中でエンヴィは誕生した。最初は良い夫婦、良い親になろうとしたようだ。しかし、元々、そりが合わず相手を尊敬も出来なければ愛することも出来なかった。

「エンヴィの母親が愛していたのは別の者だったのよ」

 アリスはアレンを見据えた。その瞳は語っていた。相手が誰であるのかを伝えていた。

「……まさか」
「そう、ファジールよ。けれど、ファジールには婚約者がいたわ」

 ファジール達の時代、好きな者と心を通わせるの無理だった。その枠を壊したのは他でもないファジール本人だったが、まだ、レイチェルは婚約者だったのだ。

「レイチェルがアジルと婚約した後、ファジールはジゼルと婚約した。彼女にしてみれば、諦めきれなかったでしょうね」

 我慢し、決められた者と婚姻しても、心が付いていかなかった。そして、ついに爆発してしまったのだ。

「子供が居ることに気が付かず、言ってはいけないことを口にしてしまった」

 最初は努力したのだろう。好きになろうと、愛そうとした筈だ。だが、耐えられなかった。いくら努力しても、夫を愛することは出来なかった。

 愛していない夫との間に生まれた子供も、愛することが出来なかったのだ。

「愛していないと、言ってしまったのよ」

 子供はその言葉に凍り付いた。愛されていると、愛情を向けられていると、疑っていなかったのだ。それを、いきなり否定された。

「一度口にした言葉は消えないわ。エンヴィの存在に気が付いたときには既に遅く、彼の心は砕け散ったわ」

 子供は考えた。そして、結論を出してしまった。唯一の拠り所であった両親は彼を否定した。ならば、愛など信じなければいい。

「少しずつ、壊れていき、でも、引き留めた者が居たの」
「……ルビィ」

 シオンはアレンに縋りついたまま、名前を口にした。

「そう。驚いたでしょうね。たった一日で変わってしまっていたのだから」

 ルビィは日に日に凶暴になり、表情も険しくなっていくエンヴィを放置出来なかった。

 皆が離れていく中、何をされても、何を言われても、決して見捨てなかった。ただ、ルビィの顔からは笑顔が消えた。

 エンヴィが同族を襲う度、必死で止めた。止めなくては、犯罪者になり、どうなるかなど目に見えていた。

「今回のことで、ルビィは疲れてしまったのでしょうね。抵抗もせず、私達に従ったわ」

 告げられ、命令された言葉を直ぐには理解しなかった。けれど、抵抗せず受け入れた。強要された血の摂取は命に関わる。それでも、ルビィは無表情に受け止めたのだ。

「見守ってくれていた者を失ったとき、彼は正気でいられるのかしらね。何時も一緒にいたから、見えていなかった。見ようとしていなかった。発した言葉が心を抉っていたのだと気が付いていない」

 アリスは小さく息を吐き出した。

「どう言うこと」

 シオンは不安になった。エンヴィはルビィに何を言ったのか。

「男同士で愛し合うなど無意味で不毛だと。そんなことは無いのに。好きになったり愛したりすることは心を豊かにするわ」

 言われ否定された想いが凍り付き、ルビィは悲鳴を上げた。

 必死に飲み込んだ言葉や悲鳴は心を蝕んでいく。少しずつ二人の歯車が狂い出す。噛み合っていた歯が少しずつ外れていく。

「最初に背を向けたのはエンヴィよ。けれど今回はルビィが彼に背を向けた。背けあった二人は互いが見えていない」

 ルビィはエンヴィを助けたいのだと、何時ものように考え実行しようとしている。必要とされていないのなら、役に立つ何かをしようとする。たとえ、見返りが無くても、それがルビィが選んだ道だった。誰にも理解されなくても、想いを貫こうとしている。

「私達ではどうすることも出来ない」

 カイファスは呆然と呟いた。あくまで二人の問題だ。

「問題が深刻すぎるな。エンヴィの両親はどうなってるんだ」
「リムリスが教えてくれたわ」

 アリスは前を見据えた。

「彼の両親は随分前に眠りについてしまっているのよ」

 それは完全な育児放棄だ。自分達で蒔いた種をそのまま放置した形ではないか。

「無責任じゃないのか」

 ゼロスは呆れたように言った。

「それだけ聞いたらね」

 アリスは溜め息を吐く。

 アレンはシオンを抱き締めながら、溜め息を吐いた。アリスが何を言いたいのか判ったからだ。

「親ではエンヴィを癒せなかったわけか」

 シオンは驚いたようにアレンを見上げた。

「そうよ。それどころか、更に悪くなった」

 アリスはアレンの言葉に安堵した。説明しなくとも察してくれたのが嬉しかった。

「意味が判らないんだけど」

 カイファスは首を捻る。アレンはカイファスに視線を向けた。

「心を閉ざした子供は両親を憎しみの対象にしたんだ」

 アレンは眉間に皺を寄せた。

「想像したくないが、暴力に走ったんだろうな」

 それは、今のエンヴィそのものだった。暗い闇を纏った心は霞がかかりアリスであったとしても、読み取るのが困難だった。地下で仄暗い焔をたぎらせ、何かを睨みつけている。

「発端は両親だった。けれど、こうなってしまったのは彼自身よ。きちんと周りを見ていたなら、慕ってくれていた者に目を向けていれば癒されたのに」

 アリスはアレンとゼロスを交互に見た。その瞳に二人は同時に溜め息を吐いた。アリスが言いたいことが手に取るように判ったからだ。

 ゼロスはカイファスの頬にキスを落とし、小さく囁いた。アレンもシオンを強く抱き締め立ち上がる。

「待って、私も……」

 カイファスは右手を上げた。

「駄目だ。エンヴィに会わせるわけにはいかない」
「シオンもだ。怖いんだろう」

 だが、シオンは首を横に振った。

「でも……っ」
「大人しく待ってろ」

 釘を刺され、口を噤むしかなかった。

「リムリスを連れて行くといいわ。役にたつから」

 アリスはのんびりと、当たり前のように言った。

 二人は苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。アリスにかかると黒の長もただの吸血族の男性になるようだ。

「此処で待っててくれ」
「直ぐ戻る」

 二人はそう言い残し、部屋を出て行った。

「大丈夫だろうか」

 カイファスは不安を口にした。黒の長が一緒であったとしても、不安は拭えない。

「大丈夫よ。三人にかかればエンヴィはただの子供よ」

 アリスは満面の笑みで言い切った。

「立てる」

 カイファスはシオンに近付き、手を差し伸べた。シオンは素直に差し出された手に縋った。

      †††


 アレン、ゼロス、黒の長の三人は地下牢に向かっていた。黒の長はアリスの指名だと二人が現れたとき嫌な予感がした。

「アリスが言ったんですよね」

 盛大な溜め息を吐いた。普段と違う様子の黒の長に二人は訝しむ。

「彼女が絡むとろくなことがないんですよ」

 それは、あまりにも現実味がありすぎた。二人も既にそう感じていたので、同時に溜め息を漏らす。

 エンヴィに会いたくないのが正直な気持ちなのだが、首を突っ込んでしまった以上、そうもいかない。

 牢屋と聞くと陰湿な感じを思い浮かべるがそうではなかった。

 地下ということもあり若干涼しいが、鉄格子がなければ、薄暗い小さめの部屋だった。

「反省の色無しですね」

 黒の長はエンヴィの前に来ると、何時もの調子に戻った。二人は心の中で、流石だと嘆息する。

 エンヴィは前を睨みつけていた。正確には三人を見据えている。

「どうしてこうなったか、全く判りませんか」

 呆れたように黒の長は首を振る。

「過去と今は違うんですよ」

 鋭い射るような視線を向けた。

「……何か言うことはないのかよ」

 ゼロスは仕方なく話し掛けた。

「お前達に何が判る」

 エンヴィは唸った。

「判る訳ないだろうが。それに、お前、一番窮地に立ってるのが誰か判ってるのかよ」

 腕を組みアレンは呆れた。エンヴィは全く判っていないばかりか、何一つ見ていない。

「アレン、ルビィはどうなってます」

 黒の長は振り返った。わざと問い掛けてきたのは表情で判った。

「昨日の今日だが、薔薇の香りがすると、しきりに言っている」

 これは間違いではない。

「薔薇……ですか」

 二人は頷いた。

「カイファスとシオンからも香りがしていることが判ったが、それを気にしてる」

 黒の長は目を見開いた。

「体臭が……と言うことですか」
「そうだ」

 ゼロスは頷く。

 アレンは表情を改めると、鉄格子の前でしゃがみ込んだ。そうすると、エンヴィと同じ目線になった。

「ルビィはお前の血を飲んだ。長達に強要されてな。どうしてだと思う」

 アレンは目を細める。エンヴィは押し黙った。ただ、睨みつけている。

「このままいけば血の狂気だ。それがどれだけ辛いか判るか。本来、刑罰を与えられるのはお前だ。でも、ここに放り込まれただけで、実質、刑罰を受けたのはルビィなんだよ。認識あるか」

 アレンは呆れたように言葉を吐き出す。

「はっきり言ってやるが、ルビィは変化を始めたよ。次の満月に女性になる。これは間違いないだろう。だがな……」

 アレンは一旦、言葉を切った。そして、エンヴィを観察した。暗い空気を纏い、全身で他を拒絶していることがありありと判る。

「……本当なんですか」

 驚きの声を上げたのはエンヴィではなく黒の長だった。

「本当だ」

 ゼロスは黒の長に顔を向け、頷く。アレンは二人を見上げたが、直ぐに視線を戻した。

「誰のために女性化すると思う。女性化の条件は単純だ。単純だが、難しい。だから、今まで現れなかった」

 アレンは諭すように言葉を続けた。

「ルビィはお前のために変化を始めたが、お前のために消えることを望んでる」
「……何だって……」

 エンヴィは初めて表情を変えた。
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