浅い夜・薔薇編

善奈美

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Ⅴ 十六夜月

03 昔語り

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 黒の長とジゼルは長く続く螺旋階段を下りていた。そこは深く、そして冷たかった。

「ジゼル、一つ昔語りをしましょうか」

 黒の長は立ち止まると振り返りそう切り出した。ジゼルは驚き瞬きを繰り返す。

「まあ、昔と言っても百年前ほどの話ですから、昔とは言い切れないですが」

 再び前を向き 歩を進めた。

「一人の吸血族の若者が一人の人間の娘に恋をしました」

 黒の長は語り始めた。いきなり始まった話にジゼルは困惑する。何の意味があるのだろうか。

「若者には決まった婚約者がいましたが一目見て惹かれ、近付き逢瀬を重ねました」

 黒の長は静かに淡々と語る。

 若者は知らなかった。婚約者がある身で別の者を好きになる危険を。吸血族であったがための不運だった。別に恋愛自体は禁止されてはいないし、娘が吸血族になることを認めれば結婚も出来る。

 しかし、若者には婚約者がおり一人の考えで覆すことは困難だった。ましてや、吸血族で婚約者がいる若者は数が少ない。当然、妬みの対象になったのだ。

「若者は吸血族の中でも屈指の魔力の持ち主でした。そのためかどうかは判りませんが、若者本人ではなく娘に妬んだ者達が手を出したのですよ」

 若者が駆けつけたときには既に遅すぎた。茂みの中に倒れていた娘は見るも無惨な姿だった。一目見て何が起こり何をされたのか判った。

 医者であった若者は瞬時に全てを悟り、娘を部族長の元に連れ帰った。

「妊娠しもし、宿した子が吸血族なら大変なことになります」

 黒の長の声が少し低くなったことにジゼルは気が付いた。

 話の内容もだが、若者が誰を指すのかジゼルは気が付いた。

 吸血族屈指の魔力と医者。

 この二つでファジールのことだとはっきり認識出来た。

「結果、娘は妊娠していました。部族長の屋敷の離れに身を隠し、出産したのです」

 産まれた子は吸血族で女児だった。このとき娘は少しおかしくなっていたのである。

「若者は娘が自分と関わってからの数年分の記憶を封じました。そして、両親の元に返したのです」

 ジゼルは胸が詰まった。あまりに酷い話だったからだ。

「若者はそれ以後、無機質で無表情な仮面を被るようになりました」

 婚約者が別の者を愛してしまったのを知ると、進んで部族長に進言し仲を取り持つまでした。

「若者は……」
「そう、ファジールです」

 黒の長は哀しげな瞳で振り返った。目の前に黒く大きな扉があり、そこが目的地なのだと判った。

「ファジールの心の時はあのときに止まり、まだ、止まり続けたままです」

 ジゼルは俯きスカートを握り締めた。結局、自分は迷惑をかけたまま 、心を癒すことも出来なかったのである。

 黒の長が軽く扉に触れると重い音を立て開かれた。

「風の噂で娘は人間の若者と結婚し幸せな一生を生きたようです」

 二人は更に奥へと向かった。内部は幾つもの部屋に分かれていた。無数の扉が壁に並んでいる。

「果たして若者は悪いことをしたのか。その答えを求められたら、否です」

 足音が反響する中二人は進む。一つ一つの扉には紋様が刻み込まれ、一族ごとの部屋になっていることが判った。

 初めて踏み行った地下廟は冷たくしっとりとした湿気があり静寂に包まれていた。

「心は自由です。一族の存続のため無理を強いることはありますが」

 若者は心を閉ざしたまま、永い時を生きてきた。両親が眠りにつくと、館内の者達さえも遠ざけた。

 黒の長が一つの扉の前で立ち止まる。小さく溜め息を吐くと扉を内側に開いた。

「昨日、私の元にこれが届きました」

 振り返るといつの間にか一輪の薔薇が握られていた。不思議な薔薇だった。その花弁は透明で、何の色も宿してはいない。

 命を吸い取る薔薇。それは、そう呼ばれていた。吸血族が眠りにつくときに花を咲かせる。

 まだ、蕾の薔薇が吸血族の命で花開き、一族の色を宿す。

 黒の長はその薔薇をジゼルに差し出す。ジゼルはぎこちない動きで受け取ると、薔薇に見入った。

「行きましょうか」

 黒の長は静かに部屋に足を踏み入れる。ジゼルも後に続いた。

「この事件は封印されました。レイチェルは知りません。ただ、お前には知っておいて貰いたかった」

 黒の長は沈んだ声音で続けた。

「これは過去だと言い切ることは簡単です」

 確かに過去だろう。だが、当人には悪夢が永遠に続く。

 ジゼルは立ち止まる。それに気が付いた黒の長が振り返った。

「……ファジールは傷付いたままなんですね……」

 俯き手渡された薔薇を握り締めジゼルは呟いた。

「それなのに、私を助けてくれたんですね……」

 黒の長は目を細めた。ジゼルは隔離されていたせいなのか純粋だった。裏表がなく、素直に受け取る。今の話に感じる痛みを隠そうともしない。

 そんなジゼルだからこそ、ファジールを癒せると思っていた。しかし、結果はジゼルが傷付いただけだった。

「起こってしまったことです。過去は戻ってはこない。ファジールの中で解決するより方法はないのですよ」

 そんなことは言われなくとも判っていた。ただ、吸血族の結婚が如何に重要でまた、足枷であるか如実に表した事件だったのではないだろうか。

「ファジールはレイチェルの件で私の元を訪れたとき、こう言ったのですよ」

 黒の長は一旦言葉を切る。

「何時までも今のままではいけないとね。歪みが生まれ、取り返しが付かない事態になると」

 ジゼルは聞き覚えのある言葉に顔を上げた。

「結婚には心が伴います。婚約者と恋愛感情を共有できれば問題はないでしょう」

 黒の長は苦痛を顔に貼り付ける。

「ですが、苦痛だけだとしたら。お前なら判るでしょう。我が部落に逃げてきたお前なら」

 ジゼルは頷いた。

「今更ですが、一つ問います」

 黒の長は諦めにも似た溜め息を漏らす。

「ファジールをどう思っていますか」

 問われた問いにジゼルは小さく息を飲んだ。口にすることに躊躇いが生まれた。言ってしまったら決心が鈍ってしまいそうだった。

 だが、穏やかに見詰められ一度、目を閉じた。

 思い出せるファジールの姿に笑顔はない。無表情で無機質な表情はよほどでない限り変化することはなかった。その仮面の下の感情をジゼルは読めなかったのだ。

「……好きです。愛していると……」

 そこまで口にしたジゼルの両目から涙が溢れた。今更、言っても意味がない言葉だ。本人に言えず飲み込み続けた言葉だ。こんな形で口にすることになるなど想像もしていなかった。

 黒の長は痛ましい者を見るように目を細めた。

 いくら想っても決して報われない。重荷でしかないことも判っていた。特殊な生まれだったからの出会いだ。普通なら出会うことはなかった。

「……なさい……」

 ジゼルは涙を拭い黒の長に謝った。黒の長はただ訊いただけだ。その問いに答え、涙が溢れたのは完全に不覚だった。

「謝る必要はないですよ」

 黒の長は穏やかに言う。

「気が付いているとは思いますが、此処はファジールの一族の地下廟です」

 ジゼルは改めて室内に目を向けた。部屋はそれほど広くはない。

 壁に沿うように並べられた柩は少し大きかった。ジゼルは首を傾げる。地下廟に入ったことがないのだから、実際、どのように眠りにつくのかも判っていなかった。

「吸血族は夫婦ならば必ず一緒の柩で眠りにつくのですよ」

 黒の長は言うなり歩き出す。ジゼルも後に続いた。

 歩を進めるうちに柩の大きさにばらつきがあることに気が付いた。全てが石造りで色は漆黒だった。そして、細かい細工がされていることが見て取れた。奥へと進むうち目に飛び込んできたのは異質な柩だった。

「そして、これがお前達の柩です」

 ファジールの一族の地下廟にある異質な柩に黒の長が触れた。

 お前達と言われジゼルは泣きたくなった。柩が漆黒なのは同じだった。異質な理由は施されている飾りだった。黒の中に赤い色が混じる。黒はファジールの、赤はジゼルの部族の色だ。

「お前達の柩は異例なほど早く届けられました。ドワーフは予知能力でもあるのでしょうか」

 黒の長は哀し気に呟いた。

「違うと思います。だって、この柩に入るのは私だけだもの」

 ジゼルはぽつりと呟くように言った。

 ジゼルは柩に近付くと両手を付いた。ひやりと冷たい石の感触が伝わってくる。

「これは二人用だもの。予知能力があるなら一人用の筈だもの」

 ジゼルは柩に視線を落としたまま、哀し気な声音で言った。

 哀しい現実。だが、命を助けてくれたことを恨んではいなかった。自由を奪われるように成長したジゼルに、自由に行動出来る時間を与えてくれたのはファジールだ。

 たとえ二年という短い時間であったとしても、貴重な時間だった。レイチェルという友人も出来た。

 これ以上を望むのは我が儘だ。

「長様」

 ジゼルは黒の長に向き直った。澄んだ瞳が涙の膜を張り黒の長を見詰めていた。

「お願いがあるのですが」
「何ですか」

 黒の長は首を傾げた。ジゼルは微かな笑みを浮かべる。

「ファジールに伝言を……」

 ジゼルはファジールに何も言わずに出てきた。勝手に行動したことは自覚がある。立場があるファジールに迷惑をかける行動であることも理解していた。

 判っていても、これが最善であるとジゼルは思っている。

「自由な時間を与えてくれて、恐怖を拭ってくれてありがとうって」

 ジゼルは瞳を伏せた。

「そして……」

 目を閉じ再び開かれた瞳は全てを昇華した者のそれだった。

「本当に好きな方と幸せになってって」

 黒の長は目を見開いた。ジゼルの中で全てが終わってしまったかのような穏やかさだった。

「私は眠りについた方がいいんです。月華は眠りの封印にある方が安全だもの」

 確かにそうかもしれない。ジゼルは魔力を抑えることに成功したが絶対ではない。

 黒の長は小さく首を振った。本人が決めたことにとやかくは言えない。止める力を持つのはあくまでファジール一人だけだ。

「離れて下さい」

 ジゼルは一歩後ろに後ずさった。黒の長が軽く柩の蓋に触れる。触れた場所は蓋の端に刻まれている薔薇の模様だった。

 立体的に彫られており、触れた瞬間、青白い光が生まれた。柩の蓋が少し蠢き、静かにスライドする。

 柩の中は天鵞絨で覆われていた。不思議な色合いだった。黒でもなければ赤でもない。深い色合いに黒の長は驚いた。

 他部族間での婚姻は経験したことがなかった。何もかもが二部族の色を反映していた。それを見詰めるジゼルは酷く哀しそうだった。

「今ならまだ、間に合いますよ」

 黒の長は思わず口走っていた。無意味だとは思っていても、本心が口をついた。

 ジゼルは少し驚いたように目を見開き黒の長を見た。だが、直ぐに力なく首を振る。考えを変えるつもりはなかった。

「これが最善なんです」

 静かな言葉は全てを覚悟している者のそれで、黒の長は次の言葉を失った。

 ジゼルは無言のまま柩に腰を下ろした。二人用のためか無駄に広く感じられた。黒の長に気付かれないように小さく息を吐き出す。

「横になったら薔薇を胸の上に」

 黒の長の指示にジゼルは頷いた。

「そして、薔薇の上に両手をのせて下さい」

 ジゼルは再び頷くと指示に従った。柩の中に横たわると不思議な気分になった。ある筈のないむせかえるような薔薇の香りがした。

「最後にこれだけは確認しますよ」

 黒の長は判っていた。ファジールは必ずジゼルの元に来る。

 理由までは把握出来ないが、間違いなく来る。ジゼルには事前に訊いておく必要があった。

 一度、眠りにつくと完全に体が機能するのに時間がかかる。気が付いたとき動揺しないようにしておかなくてはいけなかった。

 ジゼルは魔力を制御することを身に付けたばかりで、準備のないまま目覚めると大変な事態になりかねない。

 ファジールが抑えることが出来るだろうが、その後のジゼルの精神状態が心配だった。魔力が不安定だということは、心も不安定だということだ。

「もし、ファジールがお前を目覚めさせたら、どうしますか」

 黒の長の言葉にジゼルは沈黙し、綺麗な、そして哀し気な笑みを見せた。

 黒の長はその表情に目を伏せた。ジゼルの中で有り得ないと思っていることなのだろう。

 永遠に眠りにつく覚悟できた彼女に、黒の長の問いは完全に無意味だった。ファジールの幸せだけを望み、その幸せに足手纏いだと思い込んでしまった。

「安らかな眠りを……」

 黒の長は静かに告げた。ジゼルは小さく頷き、その瞳を閉じた。

 ジゼルの胸の上の薔薇が変化する。蕾がほころび、透明だった花弁が色を宿す。

 赤くそして、黒い薔薇。

 それは柩の中の天鵞絨と同じ色合いだった。その色はジゼルが二つの部族の中にいる存在であることを示していた。

 黒の長はジゼルが完全に生命活動を停止させたのを確認した。呼吸が止まり、肌から完全に赤味が消えた。一度、目を閉じると振り返る。

「お前はどうするつもりでここに来たのです」

 黒の長は目を開き、入り口に視線を向けた。そこにいたのは、ファジールだった。
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