浅い夜・薔薇編

善奈美

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Ⅴ 十六夜月

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 ジゼルはファジールが出掛けるのを待ってからレイスにレイチェルに会いに行くことを告げた。そのときレイスにファジールに一言言ったのかと訊かれたが嘘をついた。

 今からジゼルがしようとしていることは誰にも知られてはならない。少なくともはっきりと判り実行するまでは。

 軽く身支度をしレイチェルの元に向かった。

 結婚してから二年の歳月はジゼルには長い年月だった。振り向いて貰えない相手が夫なのだから尚更だったのかもしれない。

 エントランスから外へ出た後、振り返り館を見上げた。初めて見たのはファジールに助けられたときだ。

 もしかしたら最後かもしれない。そう思うと自然と振り返っていた。今はあのときのようにひっそりとはしていなかった。

 暇を出していた者達を呼び戻したのだとレイスが言っていたのを思い出す。

 目を細め、この館での二年間を思う。鼻に痛みが走り、慌てて目を閉じた。今、泣くわけにはいかない。

 上空を見上げ、軽く大地を蹴った。

 ファジールの館からレイチェルの住むアジルの館はそれほど遠くない。月を見上げ、ジゼルは目的の場所に降り立った。

 身なりを整え、扉をノックする。館の中から足音が近付いてきた。聞き覚えのある足音だった。

「どなたかしら」

 顔を出したのはレイチェルだった。

「ジゼル」

 目の前に立つジゼルを見るなりレイチェルは困惑した。何故なら表情が遊びに来た者のそれではなかったからだ。

 思い詰めた表情に嫌な予感がした。

「訊きたいことがあって……」

 ジゼルは俯き小声で呟くように言った。

「とりあえずお入り下さいな」

 ジゼルの手を取り館の中に誘った。居間にはアジルがいたが、構わず椅子を勧めた。

 ジゼルはレイチェルだけに訊きたかったのだが、何かを察したのかレイチェルは出て行こうとしたアジルを止めた。

「何を訊きたいのかしら」
「それは……」

 ジゼルはスカートを握り締めた。その行動は思い詰めたときに彼女がとるものだった。

 レイチェルは目を細めた。

 ジゼルは意を決したように口を開いた。

「血の契約を白紙に戻す方法はあるの」

 真剣な表情で単刀直入に聞いた。のらりくらりしたところで、無為に時間が過ぎるだけだ。

「……何を仰っているの」

 レイチェルは完全に困惑した。アジルも目を見開き息を飲む。

「ファジールを自由にしてあげたいの……」

 ジゼルは両手に力を込め唇を噛み締めた。俯くと瞳に涙が溢れてくる。

「何かあったのか」

 アジルはたまらず問い掛けた。レイチェルも頷く。

「血の契約は白紙に戻すことは出来ない」

 ジゼルはその言葉に眉間に皺を寄せた。

「ええ。たった一つの方法を除いては」

 レイチェルの言葉に勢いよく顔を上げた。

「だが、よほどでなければ認められない。今まで認められた者はいない筈だ」

 アジルは溜め息混じりに言葉を吐き出した。

「何があったのか教えて下さいな。そうでなければ教えることは出来なくってよ」

 ジゼルは苦痛を顔に貼り付けた。語ることでファジールが責められやしないかと危惧したのだ。

 二人の視線はジゼルに注がれ、噤み続けるのは困難だった。何より理由を言わなければ教えてはくれない。

 何となくではあるが思い当たることはあるが、確信が欲しかった。小さく息を飲み、観念したように体の力を抜いた。

「私達、夫婦とは名ばかりなの。今までそういう関係になったことはないわ」

 その告白に二人は顔を見合わせた。

「それに……最近は顔すら合わせないのよ。満月のときだけ……」

 事実を口にするのは苦痛だった。現実であることは判っている。

 判っているが辛いことに違いなかった。

「教えてくれる」

 ジゼルは二人に問い掛けた。

「判りましたわ」

 レイチェルはあっさりと了承した。アジルは驚きを顔に貼り付ける。

 一通り説明し、それを聞いたジゼルはお礼の言葉を残し目的地に向かった。

「いいのか」
「お兄様にはきつい薬が必要ですわ」

 レイチェルはきっぱりと言い切り、身支度を始めた。

「出掛けますわよ」

 その表情は険しく、明らかに怒りが表れていた。

 
 
      †††
 
 
 レイスは完全に困惑した。今、目の前にいるのはレイチェルであり、女主人であるジゼルが会いに行った人物だったからだ。その表情は怒りを表し、腕を組み立つ姿は鬼神を思わせた。

「ジゼル様が其方に伺っている筈なのですが」
「そうね。来ましたわ」

 間髪入れず答えが返ってきた。

「私はお兄様に会いに来ましたの。何時お帰りになりますの」

 有無を言わせぬ強い語尾でレイチェルは問い掛けた。

「ファジール様は先ほどお帰りに……」
「案内なさい」

 最後まで言わせずレイチェルは上から目線で命令した。レイスの顔が強張る。どうやら、何かが起こったようだった。

 女性の怒りを買うのは得策ではない。ましてやレイチェルは見た目とは裏腹に強情なところがある。レイチェルの怒りにまともに対応出来るのはおそらくファジール一人だけだろう。

 レイチェルの後ろに立つアジルの表情も硬い。やはり、ただ事ではなかった。レイスは目を細めジゼルの性格を考えた。

 一番最初に現れたジゼルは、吸血族ではまず考えられない、女性でありながら単身飛び出すということをやってのけている。

「此方です」

 二人を案内しながら、不安が過ぎった。

 ジゼルは隔離され育てられたせいか本来、吸血族が知っている知識を欠いている部分がある。もし、今日レイチェルに会いに行った理由が欠落部分なら大変なことになる。

 まだ、不安定なジゼルに無駄な情報を与えないように、館内の者は気を使っていた。折角、花嫁が主人に現れたのだ。

 失うことがないよう、細心の注意がはらわれていた。

「此方です」
「ありがとう」

 レイチェルは扉をノックもせず、いきなり開け放った。

 レイスはいよいよ確信する。レイチェルは大事になる前に来たのだ。何より、ファジールに対して怒りを持っているのは明らかであり、薄々感じていたことが現実なのだと知らしめているようだった。

「お兄様、呆れますわ」

 レイチェルは開口一番、椅子に座るファジールを見下ろし腰に両手を当てて言い切った。

 ファジールはいきなり夫を伴い現れたレイチェルに困惑した。レイスの報告でジゼルが彼女の元に出向いたことを知っていたので尚更だった。

「ジゼルは」
「あら、心配ですの。意外ですわね」

 ファジールはレイチェルの棘のある言葉に眉間に皺を寄せた。

「何が言いたい」

 低く唸るように言葉を吐き出した。

「彼女のお話しでは放っておいたのではなかったの」

 ファジールは嫌な予感がした。レイチェルがこれほど怒りに満ちた表情で、しかも言動が今まで受けたことがないほど辛辣だったからだ。

「まあ、いいですわ。私が来たのはジゼルの最後の言葉を伝えるためですわ」
「……最後だって」

 レイスは息をのんだ。本来なら立ち去らなければいけない。だが、動けなかった。知らなければいけないと感じたことも事実だ。

「お兄様に自由になって欲しいそうよ。良かったですわね」

 ファジールは目を見開いた。レイチェルの言葉は鈍器で殴られたぐらいの衝撃があった。

「本当の夫婦でなかったのですもの。仕方ないですわよね」

 長と同じ金緑の瞳が鋭い光を宿した。

 ファジールはレイチェルが何を言いたいのか判った。溜め息を吐き手を組んだ。

 アジルはファジールの様子に嫌なことを思い出していた。レイチェルも知らないファジールの過去だ。

「……まだ、忘れていないのか」

 アジルの呟きのような問いにファジールは弾かれたように彼を見た。レイチェルは夫の問い掛けに驚き振り返る。アジルが言った忘れられないの言葉に疑問が生まれる。

「彼女はもう居ないんだ。未来を見たらどうだ」

 アジルの言葉にファジールは辛そうに顔を歪めた。

「……忘れられるわけがないだろう……」
「ジゼルは同族だ。人間じゃない」
「判ってる」

 ファジールは頭を抱えた。判っている。ジゼルは人間ではなく、同じ時間の流れの中にいる。だが、そんなに簡単に割り切れるものじゃない。

「……お兄様の過去に何かありましたの」

 アジルは目を細め妻を見た。表情は完全に困惑していた。

「それは言えない。たとえ妻だとしても」

 アジルはレイチェルに向けた視線を再びファジールに戻した。

「大切なんだろう」

 ファジールはきつく目を瞑った。

「大切になりすぎて、どうしてよいか判らなくなってるんだろう」

 違うのかとアジルは訊いた。

 ファジールは絶望的な表情を見せた。吸血族の未来を憂い、希望を失ったのは何も出生率だけではなかった。過去、レイチェルという婚約者がありながらファジールは人間の娘に恋をした。それは、禁止されたことではなかったが、娘に危険を近付ける行為だったのだ。

 後悔したところで過去は戻ってはこない。ジゼルは違うと判っている。だが、ファジールは一度味わった恐怖から抜け出していなかったのである。

 レイチェルはファジールのその様子に一瞬、たじろいだが気を取り直した。過去にこだわり、大切な者を見失うのは利口ではない。

「お兄様、一刻を争いますのよ。父は多分、彼女の願いを許可しますわ」

 三人の男達はレイチェルの言葉を疑った。

「必ずです」
「他部族出身だからか」

 ファジールは力無く問い掛けていた。

「違いますわ。ジゼルがどれほど追い詰められているかご存知。負い目すら感じていた彼女がお兄様の態度を勘違いする事は決しておかしなことではなくってよ」

 レイチェルは両手を組み握り締めた。

「いくら自分一人が想い続けたところで、振り向いてくれない相手を待ち続けるのは辛いんですのよ」

 レイチェルは知っていた。ジゼルは最初からファジールを見ていた。特殊な生い立ちであったために、最初に出会い助けてくれた者を慕うのはよくあることだ。

 ましてや、ジゼルのそれは命そのものが懸かっていた。ファジールは医者として助けたのかもしれないが、ジゼルにとって決定的な出来事だったに違いない。

「この言葉をもう一度彼女のために使いますわ」

 レイチェルは一旦、言葉を切った。

「ジゼルを助けて。どうすればよいか判っていますわよね」

 レイチェルは目を細め、哀願した。ファジールはその聞き覚えのある言葉に口を噤んだ。

「あのときと一緒なの。切羽詰まらなくては行動出来ないの」

 レイチェルは哀し気に呟いた。元婚約者だったが、如何にファジールを知らなかったかを実感した。どうしていいか判らず、アジルにすがりついた。

「ファジール、無理強いはしない。だが、このままでは後悔する結果になるんじゃないのか」

 アジルは諭すように言葉を紡いだ。

      †††
 
 

 黒の長は溜め息を吐いた。目の前に座るジゼルは愁いを帯びた瞳で長を見詰めていた。

 何時かは来ると判っていた。何故なら二人の出会いは特殊であり、後戻りできない状態で結婚まで来てしまった。

 ファジールが煮え切らない理由も判っていた。

「私が楽になりたいだけなのかもしれない。それでも、この気持ちは本当なんです」
「判っていますよ。疑ってはいません」

 ジゼルが願い出たことに反対する理由がなかった。

 反対をすればジゼルの心が病んでしまう。冷却期間が必要なのかもしれないが、血の味を覚えた吸血族は最低でも一ヶ月に一回は血の食事を取らなければいけない。

「いいでしょう」

 黒の長は決断した。ジゼルはこの方法をレイチェルから聞いてきている。おそらく、レイチェルはファジールに会いに行っている筈だ。

 ファジールにまた、選択し決断を迫る結果になるが、一か八かだった。

「この方法で目覚めさせるときは繋がりがある者でなければいけません」

 黒の長は説明を始めた。

「お前の場合、この部族内でそれを出来るのはファジールだけです」

 ジゼルは頷いた。永遠に眠り続けるために来た。目覚めるつもりはなかった。月華であるジゼルの眠りは別の視点から見ても歓迎される筈だ。

「私はお前には幸せになって欲しかったのですよ」

 ジゼルはスカートを握り締め、唇を噛み締めた。

「責めているわけではないですよ。勘違いしないで下さい」

 黒の長は大きな溜め息を吐いた。全く想像していなかったわけではないが、現実に起こると虚しさがこみ上げてきた。
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