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Ⅴ 月虹蝶
三章
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セイラは窓の外を眺めていた。
あの日、帰ってきたセイラに、アレンは何も言いはしなかった。ただ、何も言わずに頭に右手を乗せた。子供ではないと反論するために顔を上げたのだが、言いかけた言葉は、喉元で止まった。
父親の特殊な能力をセイラは知っている。口止めはされているが、家族には隠してはいない。例外はルーチェンくらいではないだろうか。その、ルーチェンにしても、近いうちに教えてもらうことになるだろう。
アレンはただ、こう言ったのだ。
「焦ると良くないことになる。慎重にな」
言いたいことは判るが、焦るなと言うほうが無理な話だ。
「そのうち、本当のことが判る」
「知っているなら、教えてっ」
セイラの言葉に、アレンは苦笑いを浮かべた。言いたくないのだ。
「俺が言ったとして、本当の事かと、お前は疑うだろうな。知りたければ、ヒューに訊け」
セイラは口を噤む。ヒューラに啖呵を切った手前、期間内はどうしても自分から会いに行く気にはなれなかった。
「確かに、お前は姉妹の中では大人しいかもしれないが、吸血族、と言う括りでは、どう考えたって気が強いんだ。それに、ヒューと一緒に育ったお前が、何かを見落としていると、そう考えたことはなかったのか」
アレンの問い掛けに、セイラは目を見開いた。
「切っ掛けは何だったのか。それを考えないと、教えてもらったとしても、混乱するだけだ」
「切っ掛け」
「そうだ」
ヒューラに変化が起こる切っ掛けとは何なのか。確かに、少しおかしいとは思っていた。だが、他の姉妹に訊いても、セイラと同じ考えが返ってきた。だから、疑問にも思わなかったのだ。
「私達以外、に訊いたら何かが判るの」
「どうだろうな」
「判ってるくせにはぐらかさないでよっ」
アレンはあからさまに息を吐き出した。
「忘れたのか。知りたければ、自分で調べるんだ」
父親の何時もの言葉に、セイラは落胆したように肩を落とした。
「意地悪で言っているんじゃない。お前のためを思ってのことだ。支障がなければ教えている」
セイラはアレンを見上げた。
「つまり、ヒューだけに関したことじゃないって言うの」
「それも、答えられないな。自分で調べろ」
セイラは爪を噛む。
アレンは確かに何も答えてはくれていない。だが、完全にではない。問い掛けをはぐらかしているようで、そうではない。アレンの口からは答えられないと言っているだけで、調べれば答えは得られると言っているのだ。
セイラはこのとき、あることに気が付いた。
どうして今まで、調べようとしなかったのだろうか。何時もなら、おかしいと思った時点で行動を起こしている。それなのに、動こうと言う意識が働かなかった。どうしてなのか。
最初、諦めるように言ってきたのは、双子の姉のアーダ。実家に帰って行ったヒューラの様子に、そう言われたのだ。
自分の意志をなくした様な者と一緒になったとしても、良いことなどないと。そう言われたときの違和感。
アーダだけではない。アンジュも似たようなことを言ったのだ。では、他の幼馴染み達はどうだっただろうか。
血族ではないし、二人ほどはっきりとは言ってはくれないが、何か言い淀んではいなかっただろうか。
つまり、アーダとアンジュは知らないが、ファーダとセルジュは何かを知っているのだ。巧みに姉妹には知られないように、口裏を合わせていたのではないだろうか。
そこまで考え、セイラは表情を歪めた。それを認めたアレンは、何も言わずに、セイラの元から立ち去ったのだ。
二人に訊こうと思ったが、二人は心身ともに疲れた状態で、訊くのを躊躇わせた。
あの日から一週間。まだ、本調子ではないだろうが、訊いてみることにしたのだ。二人は自宅に帰っているが、そんなことは問題ではない。
セイラにとって必要なのは真実なのだ。誰に責められても、責任は取るつもりだ。
思い立った次の日、セイラは出掛ける旨をアレンに伝えた。勝手に居なくなるのは心配を掛けることになるし、何より、何かがあったときに困るのは彼女だからだ。
「行くのは構わないが、先方に迷惑は掛けないこと。二人はまだ本調子ではないし、家業を本格的に学び始めたんだ。忙しいと判断したら、すぐに帰ってくるんだ」
アレンの忠告にセイラは素直に頷いた。迷惑を掛けてまで、知るつもりはないし、何より、焦っても仕方がないことも理解していたからだ。
セイラが知りたいことを二人が素直に話してくれる確率は低いだろう。何故なら、ヒューラに口止めされていたと考えて、今まで知りえないほどに秘密にされていたのだ。
それも、セイラ姉妹に対して。ならば、期待するだけ無理な話だ。運が良ければ話してくれる程度にしか期待はしていない。
「お父さん」
アレンはどうしたのかと、セイラを見下ろした。
「まだ、はっきりはしていないから、決定じゃないんだけど、もし、ヒューが何も言ってこなかったら、私は……」
アレンはセイラが言い切る前に、深い溜め息を吐いた。
「言いたいことは判ってる。最後まで言うな」
セイラは父親の言葉に俯いた。
「判ってるの。叔父さんにも言われたし、お父さんが私の名前に込めた願いも判ってるの。それでも、自分の意に沿わない結婚はしたくないの」
アレンはセイラの言葉に、小さく肩を揺らした。確かに、セイラの名前には願いが込められているが、それに縛られることはないのだ。
「確かに願いを込めたことは否定しないが、お前の重荷になるようなことは求めていない。お前はお前がしたいように行動したらいい。それで何かがあったとしても、出来る範囲で手を貸してやる。だが、これだけは覚えておくんだ」
アレンは、少しきつい口調で、言った。
「自分を偽るようなことは絶対にするな」
セイラは驚いたようにアレンを凝視した。
「偽れば、その分だけ苦痛を強いることになる。判っていて偽った場合、苦痛は何も知らないものと違って強いものになるだろう。だから、後悔をしたとしても、偽ることだけは絶対に避けるんだ」
自分を貫いての後悔なら、納得も出来るだろう。しかし、意に沿わない、偽りを自身に科した場合、後悔だけではない、苦い思いも味わうことになる。
「それで出した結論なら、仕方ないと、そう思える」
「……それは、経験から」
セイラの切り返しに、アレンは目を見開いた。
「そうだな。俺は後悔ばかりの生を生きてきた。若いときに犯した罪を今でも悔いている」
アレンはそう言うと、右手の甲に視線を落とした。
あのときの後悔を、今更、塗り替えることは出来ない。後悔は後悔のまま、アレンを苛んでいる。
「そうだな、これだけは教えてやる」
アレンはそう言うと、一旦、言葉を切った。
「お前達は薔薇の子供として生まれた。吸血族の中では異質な存在と言えるだろう。そして、お前の母親は男だ。満月の光で女になる、稀な存在だ。そのことを良く考えるんだ」
セイラは改めて言われた事実に、息を呑む。何故、このタイミングで、アレンはそんなことを言ったのだろうか。それは暗に、薔薇、の血筋であることが、原因であるのだと言っている様に感じたのだ。
アレンは意味なく、あの言葉を言ったわけではないだろう。薔薇の血筋であることが、今回の問題の発端だと、遠回しに言っている。
セイラはそのことを考えながら、同じ部族内にいるセルジュの元へ向かった。その後、ファーダの元にも赴くつもりだ。
セイラが訪ねて行くと、応対に現われたのは当然、ルビィだった。驚かれたのは言うまでもない。
「セルは今、勉強中だよ」
ルビィは何時ものおっとりさで、そう言った。言われることは判っていたので、落胆はしない。ただ、訊きたいことがあるので、待たせてくれないかと、頼み込んでみた。
ルビィは訝し気に首を傾げたが、快く頷いてくれた。
「アンはどうしてるの」
セルジュが調香師の本格的な勉強を始めたので、アンジュは遠慮してか、あまり館に近付かないからだ。
「元気にしています。会いたそうにはしているけど」
アンジュだけではない。アーダも、あの件を切っ掛けに、落ち着いた雰囲気を醸し出すようになっていた。不安材料がなくなったのだから、当然と言えば、当然だった。
それなのに、セイラは立ち止まったまま、前に進むための切っ掛けすら、失ってしまったのだ。
セイラの様子に、ルビィは首を傾げた。何時もと違い、何かに焦っているように見えたのだ。ルビィが気が付くのだから、セイラは相当、追い詰められている。
居間で待つこと数時間。区切りがついたのか、セルジュとエンヴィが姿を現した。事前にルビィが知らせていたので驚かれはしなかったが、セイラの質問に、セルジュは口を噤んだ。
「やっぱり、教えてはくれないの」
「そうじゃないんだけど、どうして、そんな質問を」
セイラはヒューラのことを素直に訊いたのだ。何時から、気が弱くなったのか。セイラが知る限り、黒薔薇の主治医の館に居る間は、そんな素振りは見られなかった。
アレンに言われ、漸く、気が付いたのだ。それまで、疑うことすらしなかったし、調べようとも考えなかった。その理由は、ヒューラ本人にあるのだ。
「本当に、本人に啖呵を切ったの」
一部始終を素直に話し、セルジュはそう、セイラに問い掛けた。セイラは素直に頷く。
「じゃあ、ヒューの思い通りになったわけだ」
セルジュの一言に、疑問を持ったのはセイラだけではない。エンヴィとルビィも疑問を顔に貼り付けた。
「……どう言うこと」
セイラは動揺を隠せなかった。
「口止めされていたけど、啖呵を切ったんなら、解禁だな」
セルジュは溜め息混じりに言葉を吐き出した。
「……口止め」
「そう。セイラは知っている。俺達を見る同性の、って言っても、俺は特殊だったから、ヒューとはまた違うけどね」
セルジュは素直に話してくれた。それは、ヒューラが望んだようにセイラが動いた後だったからだ。
「吸血族の男達は、俺達が薔薇になるという、幻想を抱いたんだ」
セルジュは簡潔に言った。その事実に、セイラは息を呑んだ。そんなことになっているなど、知らなかったのだ。
†††
ヒューラは今、曽祖父と兄の前に居た。その二人だが、完全に困惑を顔に刻み付けている。それもそうだろう。今まで、気が弱いと認識していたヒューラが、全く違う気配をさせ、しかも、顔に浮かんでいるのは、寸分互いのない、黒の長そのものの表情だったのだ。
「……どうなっているんです」
黒の長は呆然と呟いた。カルヴァスに至っては、言葉も出ない。
「どうなってるって、こうなってるんだけど」
ヒューラはただ、笑みを見せた。
「説明しなさい」
黒の長は溜め息混じりに、言葉を吐き出した。まさか、曾孫にまんまとしてやられるなど、黒の長にあってはならないことだからだ。
「簡単だよ」
ヒューラは、微笑んでいた表情が一変する。それは、何とも表現しにくいものだった。
「どうして、ああも、愚かしい考えが浮かぶのか、頭をカチ割って見てやりたいくらいだ」
ヒューラの辛辣な一言に、黒の長とカルヴァスは眉を顰めた。明らかにヒューラは吸血族を莫迦にしている。それは言葉だけではなく、態度でも窺い知れた。
薔薇となる条件は公にはされていない。それは危険を伴うからだ。ただでさえ少ない吸血族が更に少なくなる原因になりかねない。
「薔薇を母親に持つことで、特別視されるのは仕方ない。だからといって、薔薇の血筋の男子が、薔薇に成りえるという考えが、どうして浮かんだのか、こっちが知りたいくらいだ」
ヒューラは成人する少し前から、アジルと行動を共にするようになり、そのことに気が付いた。気が付いたからこそ、自分の本来の姿を捻じ曲げたのだ。
彼本人があずかり知らないところで、変な話が進まないように、態度で、そして、そうとは判らないように言葉で誘導した。気が弱いと思われるように、言いなりになる人形だと思われるように、努力したのだ。
「そんなことをする必要があったのですか」
カルヴァスは疑問を投げかけた。
「必要だったから、したんだ。どうしても、私ではない第三者で、しかも、私が気が弱いと思い込んでいる者の言葉が必要だったんだ。それも、女性の立場を改善出来る存在に」
黒の長は目を見開いた。確かに、女性の境遇が改善されてるとは言い切れない。昔と変わらず、雁字搦めの硬い考えで育てている者が多数だ。
「今、本性を現した理由は何故です」
ヒューラは黒の長の言葉に、嫌な笑みを浮かべた。
「知ってる筈だけど」
それは暗に、セイラが若い薬師の前で啖呵を切った事実を知っているだろうと言っているのだ。
黒の長は溜め息を隠しもしなかった。どうも、ヒューラにしてやられたことは確かだ。
成人してから、ヒューラは黒の長と次兄であるカルヴァスに、会わないように注意していた。それと同じくらい、長兄のゼインにも、意図して接触をしなかった。
母親であるカイファスならば、容易に騙すことは出来ても、父親のゼロスには隠し通せないことも判っていたが、父親は余程でない限り、口出ししてこないことも計算済みだ。
「……知っています。セイラを誘導したのですね」
ヒューラは黒の長の言葉に黒い微笑を浮かべた。
「私の口から言ったとして、頭の固い吸血族では理解出来ない。だから……」
「効率を考えたのですか」
ヒューラは頷いた。
「では、今日此処に来たのは何のためです」
「セイラを逃がさないため」
ヒューラは淀みなく言い切った。おそらくセイラは、今回のことが切っ掛けで、ヒューラの事を調べる筈だ。セイラは黒薔薇の主治医の血筋で、あのアレンとシオンの娘だ。判らないことをそのままにしておくことはない。
幼馴染みのセルジュとファーダに接触し、訊き出そうとするだろ。そして、二人は、セイラが啖呵を切ったことを聞き、今回のことを話す筈だ。
「セルとファーは今回の出来事を知っているから、セイラに話すだろうと思う。確かに、私達は特殊な存在だと認識はしているし、理解もしている。でも、それだけだ。異性が側にいて、好意を持っているのに、好き好んで同性を対象と考えようなんて思わない」
黒の長はヒューラの言葉に、こめかみを押さえた。吸血族内でおかしな考えが蔓延していることは知っていた。だが、対策を打とうとしても、何が効果的なのか、考えあぐねていたのだ。
薔薇は単純であり、また、難しい存在だ。そうなるには禁忌を犯す必要があり、むやみやたらに話すわけにはいかない。
だからこそ、判っていても、対応することが出来なかったのだ。
「セイラを逃がさないとは、どう言うことです」
「セイラを誘導出来たのは、セイラの性格を熟知してたからだ。そこまでの行動は想像出来ても、この後が判らない。アンやアーダなら、確実に見限ると思うけど、セイラは違う。でも、騙していたと判った後の、行動までは判らない」
おそらく知った後、セイラを悩むだろう。そして、セイラらしい決断をする筈である。その過程で、ヒューラに嫌気が差してしまった場合、思い通りに誘導出来たが、望まぬ結果が待っているかもしれない。
「言って置きますが、セイラがお前を信用出来ないと言ってきて、婚姻を望まないと言ってきたとしたら、無理強いは出来ませんよ」
それに、アレンが黙ってはいないだろう。
「判ってる。最悪、セイラが誰のものにもならなければいい」
黒の長は目を見開いた。ヒューラは、セイラが誰かに嫁ぐことを認めさせないように、この場に来たようだ。
「それはセイラ次第でしょう」
「だとしても、それが望みなんだ」
「では、そうなった場合、お前はどうするつもりです」
黒の長はきつい口調で詰問した。
「誰とも一緒になるつもりはないよ。誰の息子だと思ってるの」
それを聞いた黒の長は更に深い溜め息を吐き出した。カルヴァスはと言えば、変に納得しているようだ。確かにヒューラはゼロスの息子だ。
†††
「どうして……」
「理由は判らないけど、俺は医者でも薬師でもないし。でも、問題は吸血族そのものの現状なんだと思う」
セルジュはそう言った。
最初、ヒューラに告げられたことに、困惑したのだと言う。ファーダも同様であったようだ。しかし、話を聞くうちに、ファーダがヒューラの言っている言葉の意味を理解したのだ。
薔薇の子供達は基本的に男女均等の取れた環境で育った。それは吸血族の中では異例のことなのだ。
恵まれた環境で育ったために、吸血族の置かれた状況を理解出来ていなかったのだ。
そんな環境で育ったヒューラが、最初に薬師の会合に参加した。ファーダは存在そのものが特殊であったため、未だに参加は見合わせている。もしもの時に、大変な事態になりかねないからだ。
「最初薔薇の子だからの視線だと思ったらしい」
だが、ヒューラは気が付いてしまった。母親はボケボケと評されるカイファスだが、父親は勘の鋭いゼロスだ。しかも、黒薔薇の部族長の血筋であるヒューラが、気が付かないのはおかしかった。
そう、彼等が望んだのは、薔薇の子であるヒューラの女性化だったのだ。
ヒューラは自分に起こった事態に困惑し、そして、この事態はセルジュとファーダにも起こりうると考えた。
セルジュは性別を確定させていなかったので、ヒューラとファーダとはまた違うが、ヒューラはセルジュが男性になると疑っていなかった。だから、忠告してきたのだ。
そう、ある口止めを二人にして……。
「……っ」
「セイラ達に知られないように、って」
セイラは目を見開いた。何故、そんなことをしたのだろうが。
「彼奴は言ったんだ。全てを変えるって」
その言葉に、セイラだけではない、エンヴィとルビィも息を呑んだ。
「全てを変える……、どう言うこと」
「セイラは五人姉妹で、まあ、言い換えれば、吸血族の男性と大差ない環境で育てられた。それはある意味、特異なことなんだよ」
セルジュは姉のルーチェンを見ているので知っている。一言で言えば、大切に育てられる。ルーチェンはそれほどでもなかったが、他の女性達はそれこそ度が過ぎるほど、大切と言う名の籠に入れられているのだ。
「情報を知ろうとすれば妨害を受け、当然、世間知らずで成長する」
セルジュの言葉に呆然となる。ヒューラが望んだこと。その意味を、セイラは漠然と理解した。
「セイラなら、これだけ言えば判ると思うんだけど」
セルジュは首を傾げ、そう言った。
「……私に言わせたかったの……。あの言葉を……」
セイラは言ったのだ。ヒューラだけにではなく、周りに居る吸血族の男性達に。何時までも、女性を甘く見るなと。だが、それは同時に、吸血族そのものに向けられた言葉だったのだ。
「長様は知っていて、どうすることも出来なかったんだと思うんだ。いくら言ったところで、理解などしない。だから、ヒューはセイラに言わせようと考えたんだよ」
女性本人が、男性の前で啖呵を切る。それは今までの吸血族では有り得ないことだ。だからこそ、効果がある。しかも、セイラは薔薇の娘で、黒薔薇の主治医一族の者だ。そうなれば、言っていることを無碍には出来ない。
「ヒューは気が弱いわけじゃないよ。下手をしたら、長様より性質が悪い」
一回行った会合で瞬時に悟る感性を持ち、尚且つ、直ぐに行動に移すだけの瞬発力もある。セイラ達が勘違いをするように仕向け、しかも、疑問に思われないように細心の注意を払った。
ヒューラは徹底的に自分を偽ったのだ。
「ヒューの性格を真に知っていたのは俺達だけだ。まあ、ゼロスさんとアレンさんは気が付いていたとは思うんだけど」
「長様はっ」
「騙しきったんだと思うよ。一番の難関だって言ってたし」
ヒューラは必要以上に曽祖父である黒の長に接触しなかった。偽りを知られないために。
セルジュは表情を引き締め、セイラを見詰めた。
「これを聞いた後、セイラがどう行動するか、ヒューには読めないって言ってた。だから、あえて問うよ。ヒューをどう思ってる」
セイラは固まった。まさか、こんな答えが飛び出してくるなど、想像すらしていなかった。
父親が含みのある言を言っていたから、ある程度の覚悟はしていた。だが、覚悟の種類が違う。セイラは教えてもらえないという覚悟をしただけで、真実を知ったときの覚悟は決めていなかったのだ。
確かに騙されたことは許せないと思う。それが自分勝手な理由なら、決断は早かった。
しかし、ヒューラが考えたのは吸血族全体のことだ。一向に変わらない現状を変えるために、セイラ達を騙したのだ。ならば、セイラがしなくてはならないことは、直接本人に問うことだ。
セイラは大きく息を吸い、同じだけ吐き出した。そして、セルジュを凝視する。
「本人に訊くわ。セルの言葉ではなく本人の声で。疑ってはいないけど、ヒュー本人の言葉を聞きたいわ」
セイラのはっきりとした答えに、セルジュは微笑んだ。
「仕事も大事だけど、アンを寂しがらせたら承知しないわよ」
セイラは去り際に、そんな言葉を残し、館を後にした。
セルジュの元を後にしたセイラは、次の日にファーダの元を訪れた。ヒューラに訊く前に、どうしても、確かめたかったのだ。セルジュが言っていたことが本当なのか、再確認をしに行ったと言った方が正確なのかもしれない。
ファーダの口から語られた事実は、セルジュの言っていることと寸分の違いもなかった。
吸血族に蔓延した困った事実が、セイラには理解出来なかったが、アレンにそのことを言うと、女性の少ない吸血族では仕方のない事実なのだと言われた。
家族の中で、男性よりも女性の多いセイラは、吸血族の感覚とはかけ離れている。それ故に、納得出来ない部分も多いが、確かに、女性の友人はベンジャミンの花嫁であるルーチェンだけしかいない。
ヒューラは必ずセイラの元に現れる。それは、期限を突きつけたので、どんな結果であろうと、一度は訪れると確信しているからだ。
自室の窓から外を眺める。視線の先にあるのは、色とりどりの薔薇達。風に身を委ね香りを運び、月の光の下淡い光を放っている。
「何時まで待つつもり」
そんな声が掛けられた。セイラは声の主に体ごと視線を向ける。其処に居たのは双子の姉のアーダ。
「もう少し」
「もう少しって」
アーダはイラついた様に訊いてきた。セイラは苦笑いを浮かべる。
「ヒューは必ず来るから」
アーダは呆れたように息を吐き出した。セイラがヒューラのことを調べたことは本人から聞いている。
吸血族内で、どういったことが起こっているのかも確かに聞いたが、だからといって、セイラを悩ませた理由にはならないとアーダは考えている。
「その後は」
「どうしようかと思ってて……」
問題はヒューラは単にセイラを利用しただけなのか、それとも、セイラを信用し、想ってくれているからの行動なのか。
「どうしても、ヒューが読めないの」
それは素直な心の吐露だった。
「……流石に長様の曾孫よね」
アーダがポツリと呟いた。セイラは目を見開く。
「あれが全部演技だったとして、それをやりきるにはそれなりに計算高くなければ無理よ。カイファスさんとは確実に性質が違うし、ゼロスさんとも全く違うわ」
アーダはヒューラが両親ではなく、曽祖父の黒の長に似たのではないかと考えた。そう、部族長の後継者であるカルヴァスより、腹黒いのではないかと感じたのだ。
「そうだと思う。でも、それは必要なことだったんだと思ってるわ」
「だからよっ。黙って利用したことが許せないじゃないっ」
アーダは勢い込んで叫び、眩暈を起こしたように壁に凭れ掛かった。
「無理をしたらお父さんに怒られるわよ」
アーダはまだ、本調子ではない。当然、アレンに大人しくしているように言い渡されている。
「私のことはいいのよ。こんなのはそのうち治るんだから。問題はセイラでしょう」
確かにそうだが、無理をすれば自身に返って来るのだ。
「利用されたのは事実だけど、自分本位でのことではないし。責めるのはどうかなって」
セイラが困っているのはそこなのだ。何より、あの日から、ヒューラは沈黙を保ったままだからだ。どうするつもりなのか、セイラには全く判らなかった。
セイラが突きつけた期限は一ヶ月だ。もし、ヒューラが黒の長並みに一癖二癖あるのなら、必ず、沈黙している期間に何かをしているのだ。
その何かについて、セイラでは知りようがない。ただ、セルジュとファーダは口を揃えて言っていたことがある。それは、ヒューラは黒の長より性質が悪い、と言うものだった。
セルジュは性別が確定していなかったが、両親には後継者として、男の子として育てられていた。当然、黒薔薇の主治医宅で育てられていたときも、両親の意向を尊重していた。
そのせいだろうか。どうしても、ファーダとヒューラの二人と居ることが必然的に多かったのだ。そうなると、セイラ達には判らない繋がりが出来て当然なのだ。
「……ヒューがもし、私を必要としていなかったら……」
セイラはそこまで言うと口を閉ざした。アーダは優れない顔色で、セイラに言葉の先を促す。
「誰とも一緒になるつもりはないわ」
「やっぱり、そうなるのね」
アーダは確認するような視線をセイラへ向ける。セイラは小さく頷いた。
セイラは良くも悪くもアレンとシオンの娘だ。仲の良い両親と祖父母を見て育ち、当然、心に住まわせた者意外との婚姻は良しとはしない。それは、心を無視することで生まれる不幸を、無意識に避けていることに他ならない。
それは、セイラの名を持っていた母方の祖母が受けた苦痛を、知っているせいでもあったのだ。
あの日、帰ってきたセイラに、アレンは何も言いはしなかった。ただ、何も言わずに頭に右手を乗せた。子供ではないと反論するために顔を上げたのだが、言いかけた言葉は、喉元で止まった。
父親の特殊な能力をセイラは知っている。口止めはされているが、家族には隠してはいない。例外はルーチェンくらいではないだろうか。その、ルーチェンにしても、近いうちに教えてもらうことになるだろう。
アレンはただ、こう言ったのだ。
「焦ると良くないことになる。慎重にな」
言いたいことは判るが、焦るなと言うほうが無理な話だ。
「そのうち、本当のことが判る」
「知っているなら、教えてっ」
セイラの言葉に、アレンは苦笑いを浮かべた。言いたくないのだ。
「俺が言ったとして、本当の事かと、お前は疑うだろうな。知りたければ、ヒューに訊け」
セイラは口を噤む。ヒューラに啖呵を切った手前、期間内はどうしても自分から会いに行く気にはなれなかった。
「確かに、お前は姉妹の中では大人しいかもしれないが、吸血族、と言う括りでは、どう考えたって気が強いんだ。それに、ヒューと一緒に育ったお前が、何かを見落としていると、そう考えたことはなかったのか」
アレンの問い掛けに、セイラは目を見開いた。
「切っ掛けは何だったのか。それを考えないと、教えてもらったとしても、混乱するだけだ」
「切っ掛け」
「そうだ」
ヒューラに変化が起こる切っ掛けとは何なのか。確かに、少しおかしいとは思っていた。だが、他の姉妹に訊いても、セイラと同じ考えが返ってきた。だから、疑問にも思わなかったのだ。
「私達以外、に訊いたら何かが判るの」
「どうだろうな」
「判ってるくせにはぐらかさないでよっ」
アレンはあからさまに息を吐き出した。
「忘れたのか。知りたければ、自分で調べるんだ」
父親の何時もの言葉に、セイラは落胆したように肩を落とした。
「意地悪で言っているんじゃない。お前のためを思ってのことだ。支障がなければ教えている」
セイラはアレンを見上げた。
「つまり、ヒューだけに関したことじゃないって言うの」
「それも、答えられないな。自分で調べろ」
セイラは爪を噛む。
アレンは確かに何も答えてはくれていない。だが、完全にではない。問い掛けをはぐらかしているようで、そうではない。アレンの口からは答えられないと言っているだけで、調べれば答えは得られると言っているのだ。
セイラはこのとき、あることに気が付いた。
どうして今まで、調べようとしなかったのだろうか。何時もなら、おかしいと思った時点で行動を起こしている。それなのに、動こうと言う意識が働かなかった。どうしてなのか。
最初、諦めるように言ってきたのは、双子の姉のアーダ。実家に帰って行ったヒューラの様子に、そう言われたのだ。
自分の意志をなくした様な者と一緒になったとしても、良いことなどないと。そう言われたときの違和感。
アーダだけではない。アンジュも似たようなことを言ったのだ。では、他の幼馴染み達はどうだっただろうか。
血族ではないし、二人ほどはっきりとは言ってはくれないが、何か言い淀んではいなかっただろうか。
つまり、アーダとアンジュは知らないが、ファーダとセルジュは何かを知っているのだ。巧みに姉妹には知られないように、口裏を合わせていたのではないだろうか。
そこまで考え、セイラは表情を歪めた。それを認めたアレンは、何も言わずに、セイラの元から立ち去ったのだ。
二人に訊こうと思ったが、二人は心身ともに疲れた状態で、訊くのを躊躇わせた。
あの日から一週間。まだ、本調子ではないだろうが、訊いてみることにしたのだ。二人は自宅に帰っているが、そんなことは問題ではない。
セイラにとって必要なのは真実なのだ。誰に責められても、責任は取るつもりだ。
思い立った次の日、セイラは出掛ける旨をアレンに伝えた。勝手に居なくなるのは心配を掛けることになるし、何より、何かがあったときに困るのは彼女だからだ。
「行くのは構わないが、先方に迷惑は掛けないこと。二人はまだ本調子ではないし、家業を本格的に学び始めたんだ。忙しいと判断したら、すぐに帰ってくるんだ」
アレンの忠告にセイラは素直に頷いた。迷惑を掛けてまで、知るつもりはないし、何より、焦っても仕方がないことも理解していたからだ。
セイラが知りたいことを二人が素直に話してくれる確率は低いだろう。何故なら、ヒューラに口止めされていたと考えて、今まで知りえないほどに秘密にされていたのだ。
それも、セイラ姉妹に対して。ならば、期待するだけ無理な話だ。運が良ければ話してくれる程度にしか期待はしていない。
「お父さん」
アレンはどうしたのかと、セイラを見下ろした。
「まだ、はっきりはしていないから、決定じゃないんだけど、もし、ヒューが何も言ってこなかったら、私は……」
アレンはセイラが言い切る前に、深い溜め息を吐いた。
「言いたいことは判ってる。最後まで言うな」
セイラは父親の言葉に俯いた。
「判ってるの。叔父さんにも言われたし、お父さんが私の名前に込めた願いも判ってるの。それでも、自分の意に沿わない結婚はしたくないの」
アレンはセイラの言葉に、小さく肩を揺らした。確かに、セイラの名前には願いが込められているが、それに縛られることはないのだ。
「確かに願いを込めたことは否定しないが、お前の重荷になるようなことは求めていない。お前はお前がしたいように行動したらいい。それで何かがあったとしても、出来る範囲で手を貸してやる。だが、これだけは覚えておくんだ」
アレンは、少しきつい口調で、言った。
「自分を偽るようなことは絶対にするな」
セイラは驚いたようにアレンを凝視した。
「偽れば、その分だけ苦痛を強いることになる。判っていて偽った場合、苦痛は何も知らないものと違って強いものになるだろう。だから、後悔をしたとしても、偽ることだけは絶対に避けるんだ」
自分を貫いての後悔なら、納得も出来るだろう。しかし、意に沿わない、偽りを自身に科した場合、後悔だけではない、苦い思いも味わうことになる。
「それで出した結論なら、仕方ないと、そう思える」
「……それは、経験から」
セイラの切り返しに、アレンは目を見開いた。
「そうだな。俺は後悔ばかりの生を生きてきた。若いときに犯した罪を今でも悔いている」
アレンはそう言うと、右手の甲に視線を落とした。
あのときの後悔を、今更、塗り替えることは出来ない。後悔は後悔のまま、アレンを苛んでいる。
「そうだな、これだけは教えてやる」
アレンはそう言うと、一旦、言葉を切った。
「お前達は薔薇の子供として生まれた。吸血族の中では異質な存在と言えるだろう。そして、お前の母親は男だ。満月の光で女になる、稀な存在だ。そのことを良く考えるんだ」
セイラは改めて言われた事実に、息を呑む。何故、このタイミングで、アレンはそんなことを言ったのだろうか。それは暗に、薔薇、の血筋であることが、原因であるのだと言っている様に感じたのだ。
アレンは意味なく、あの言葉を言ったわけではないだろう。薔薇の血筋であることが、今回の問題の発端だと、遠回しに言っている。
セイラはそのことを考えながら、同じ部族内にいるセルジュの元へ向かった。その後、ファーダの元にも赴くつもりだ。
セイラが訪ねて行くと、応対に現われたのは当然、ルビィだった。驚かれたのは言うまでもない。
「セルは今、勉強中だよ」
ルビィは何時ものおっとりさで、そう言った。言われることは判っていたので、落胆はしない。ただ、訊きたいことがあるので、待たせてくれないかと、頼み込んでみた。
ルビィは訝し気に首を傾げたが、快く頷いてくれた。
「アンはどうしてるの」
セルジュが調香師の本格的な勉強を始めたので、アンジュは遠慮してか、あまり館に近付かないからだ。
「元気にしています。会いたそうにはしているけど」
アンジュだけではない。アーダも、あの件を切っ掛けに、落ち着いた雰囲気を醸し出すようになっていた。不安材料がなくなったのだから、当然と言えば、当然だった。
それなのに、セイラは立ち止まったまま、前に進むための切っ掛けすら、失ってしまったのだ。
セイラの様子に、ルビィは首を傾げた。何時もと違い、何かに焦っているように見えたのだ。ルビィが気が付くのだから、セイラは相当、追い詰められている。
居間で待つこと数時間。区切りがついたのか、セルジュとエンヴィが姿を現した。事前にルビィが知らせていたので驚かれはしなかったが、セイラの質問に、セルジュは口を噤んだ。
「やっぱり、教えてはくれないの」
「そうじゃないんだけど、どうして、そんな質問を」
セイラはヒューラのことを素直に訊いたのだ。何時から、気が弱くなったのか。セイラが知る限り、黒薔薇の主治医の館に居る間は、そんな素振りは見られなかった。
アレンに言われ、漸く、気が付いたのだ。それまで、疑うことすらしなかったし、調べようとも考えなかった。その理由は、ヒューラ本人にあるのだ。
「本当に、本人に啖呵を切ったの」
一部始終を素直に話し、セルジュはそう、セイラに問い掛けた。セイラは素直に頷く。
「じゃあ、ヒューの思い通りになったわけだ」
セルジュの一言に、疑問を持ったのはセイラだけではない。エンヴィとルビィも疑問を顔に貼り付けた。
「……どう言うこと」
セイラは動揺を隠せなかった。
「口止めされていたけど、啖呵を切ったんなら、解禁だな」
セルジュは溜め息混じりに言葉を吐き出した。
「……口止め」
「そう。セイラは知っている。俺達を見る同性の、って言っても、俺は特殊だったから、ヒューとはまた違うけどね」
セルジュは素直に話してくれた。それは、ヒューラが望んだようにセイラが動いた後だったからだ。
「吸血族の男達は、俺達が薔薇になるという、幻想を抱いたんだ」
セルジュは簡潔に言った。その事実に、セイラは息を呑んだ。そんなことになっているなど、知らなかったのだ。
†††
ヒューラは今、曽祖父と兄の前に居た。その二人だが、完全に困惑を顔に刻み付けている。それもそうだろう。今まで、気が弱いと認識していたヒューラが、全く違う気配をさせ、しかも、顔に浮かんでいるのは、寸分互いのない、黒の長そのものの表情だったのだ。
「……どうなっているんです」
黒の長は呆然と呟いた。カルヴァスに至っては、言葉も出ない。
「どうなってるって、こうなってるんだけど」
ヒューラはただ、笑みを見せた。
「説明しなさい」
黒の長は溜め息混じりに、言葉を吐き出した。まさか、曾孫にまんまとしてやられるなど、黒の長にあってはならないことだからだ。
「簡単だよ」
ヒューラは、微笑んでいた表情が一変する。それは、何とも表現しにくいものだった。
「どうして、ああも、愚かしい考えが浮かぶのか、頭をカチ割って見てやりたいくらいだ」
ヒューラの辛辣な一言に、黒の長とカルヴァスは眉を顰めた。明らかにヒューラは吸血族を莫迦にしている。それは言葉だけではなく、態度でも窺い知れた。
薔薇となる条件は公にはされていない。それは危険を伴うからだ。ただでさえ少ない吸血族が更に少なくなる原因になりかねない。
「薔薇を母親に持つことで、特別視されるのは仕方ない。だからといって、薔薇の血筋の男子が、薔薇に成りえるという考えが、どうして浮かんだのか、こっちが知りたいくらいだ」
ヒューラは成人する少し前から、アジルと行動を共にするようになり、そのことに気が付いた。気が付いたからこそ、自分の本来の姿を捻じ曲げたのだ。
彼本人があずかり知らないところで、変な話が進まないように、態度で、そして、そうとは判らないように言葉で誘導した。気が弱いと思われるように、言いなりになる人形だと思われるように、努力したのだ。
「そんなことをする必要があったのですか」
カルヴァスは疑問を投げかけた。
「必要だったから、したんだ。どうしても、私ではない第三者で、しかも、私が気が弱いと思い込んでいる者の言葉が必要だったんだ。それも、女性の立場を改善出来る存在に」
黒の長は目を見開いた。確かに、女性の境遇が改善されてるとは言い切れない。昔と変わらず、雁字搦めの硬い考えで育てている者が多数だ。
「今、本性を現した理由は何故です」
ヒューラは黒の長の言葉に、嫌な笑みを浮かべた。
「知ってる筈だけど」
それは暗に、セイラが若い薬師の前で啖呵を切った事実を知っているだろうと言っているのだ。
黒の長は溜め息を隠しもしなかった。どうも、ヒューラにしてやられたことは確かだ。
成人してから、ヒューラは黒の長と次兄であるカルヴァスに、会わないように注意していた。それと同じくらい、長兄のゼインにも、意図して接触をしなかった。
母親であるカイファスならば、容易に騙すことは出来ても、父親のゼロスには隠し通せないことも判っていたが、父親は余程でない限り、口出ししてこないことも計算済みだ。
「……知っています。セイラを誘導したのですね」
ヒューラは黒の長の言葉に黒い微笑を浮かべた。
「私の口から言ったとして、頭の固い吸血族では理解出来ない。だから……」
「効率を考えたのですか」
ヒューラは頷いた。
「では、今日此処に来たのは何のためです」
「セイラを逃がさないため」
ヒューラは淀みなく言い切った。おそらくセイラは、今回のことが切っ掛けで、ヒューラの事を調べる筈だ。セイラは黒薔薇の主治医の血筋で、あのアレンとシオンの娘だ。判らないことをそのままにしておくことはない。
幼馴染みのセルジュとファーダに接触し、訊き出そうとするだろ。そして、二人は、セイラが啖呵を切ったことを聞き、今回のことを話す筈だ。
「セルとファーは今回の出来事を知っているから、セイラに話すだろうと思う。確かに、私達は特殊な存在だと認識はしているし、理解もしている。でも、それだけだ。異性が側にいて、好意を持っているのに、好き好んで同性を対象と考えようなんて思わない」
黒の長はヒューラの言葉に、こめかみを押さえた。吸血族内でおかしな考えが蔓延していることは知っていた。だが、対策を打とうとしても、何が効果的なのか、考えあぐねていたのだ。
薔薇は単純であり、また、難しい存在だ。そうなるには禁忌を犯す必要があり、むやみやたらに話すわけにはいかない。
だからこそ、判っていても、対応することが出来なかったのだ。
「セイラを逃がさないとは、どう言うことです」
「セイラを誘導出来たのは、セイラの性格を熟知してたからだ。そこまでの行動は想像出来ても、この後が判らない。アンやアーダなら、確実に見限ると思うけど、セイラは違う。でも、騙していたと判った後の、行動までは判らない」
おそらく知った後、セイラを悩むだろう。そして、セイラらしい決断をする筈である。その過程で、ヒューラに嫌気が差してしまった場合、思い通りに誘導出来たが、望まぬ結果が待っているかもしれない。
「言って置きますが、セイラがお前を信用出来ないと言ってきて、婚姻を望まないと言ってきたとしたら、無理強いは出来ませんよ」
それに、アレンが黙ってはいないだろう。
「判ってる。最悪、セイラが誰のものにもならなければいい」
黒の長は目を見開いた。ヒューラは、セイラが誰かに嫁ぐことを認めさせないように、この場に来たようだ。
「それはセイラ次第でしょう」
「だとしても、それが望みなんだ」
「では、そうなった場合、お前はどうするつもりです」
黒の長はきつい口調で詰問した。
「誰とも一緒になるつもりはないよ。誰の息子だと思ってるの」
それを聞いた黒の長は更に深い溜め息を吐き出した。カルヴァスはと言えば、変に納得しているようだ。確かにヒューラはゼロスの息子だ。
†††
「どうして……」
「理由は判らないけど、俺は医者でも薬師でもないし。でも、問題は吸血族そのものの現状なんだと思う」
セルジュはそう言った。
最初、ヒューラに告げられたことに、困惑したのだと言う。ファーダも同様であったようだ。しかし、話を聞くうちに、ファーダがヒューラの言っている言葉の意味を理解したのだ。
薔薇の子供達は基本的に男女均等の取れた環境で育った。それは吸血族の中では異例のことなのだ。
恵まれた環境で育ったために、吸血族の置かれた状況を理解出来ていなかったのだ。
そんな環境で育ったヒューラが、最初に薬師の会合に参加した。ファーダは存在そのものが特殊であったため、未だに参加は見合わせている。もしもの時に、大変な事態になりかねないからだ。
「最初薔薇の子だからの視線だと思ったらしい」
だが、ヒューラは気が付いてしまった。母親はボケボケと評されるカイファスだが、父親は勘の鋭いゼロスだ。しかも、黒薔薇の部族長の血筋であるヒューラが、気が付かないのはおかしかった。
そう、彼等が望んだのは、薔薇の子であるヒューラの女性化だったのだ。
ヒューラは自分に起こった事態に困惑し、そして、この事態はセルジュとファーダにも起こりうると考えた。
セルジュは性別を確定させていなかったので、ヒューラとファーダとはまた違うが、ヒューラはセルジュが男性になると疑っていなかった。だから、忠告してきたのだ。
そう、ある口止めを二人にして……。
「……っ」
「セイラ達に知られないように、って」
セイラは目を見開いた。何故、そんなことをしたのだろうが。
「彼奴は言ったんだ。全てを変えるって」
その言葉に、セイラだけではない、エンヴィとルビィも息を呑んだ。
「全てを変える……、どう言うこと」
「セイラは五人姉妹で、まあ、言い換えれば、吸血族の男性と大差ない環境で育てられた。それはある意味、特異なことなんだよ」
セルジュは姉のルーチェンを見ているので知っている。一言で言えば、大切に育てられる。ルーチェンはそれほどでもなかったが、他の女性達はそれこそ度が過ぎるほど、大切と言う名の籠に入れられているのだ。
「情報を知ろうとすれば妨害を受け、当然、世間知らずで成長する」
セルジュの言葉に呆然となる。ヒューラが望んだこと。その意味を、セイラは漠然と理解した。
「セイラなら、これだけ言えば判ると思うんだけど」
セルジュは首を傾げ、そう言った。
「……私に言わせたかったの……。あの言葉を……」
セイラは言ったのだ。ヒューラだけにではなく、周りに居る吸血族の男性達に。何時までも、女性を甘く見るなと。だが、それは同時に、吸血族そのものに向けられた言葉だったのだ。
「長様は知っていて、どうすることも出来なかったんだと思うんだ。いくら言ったところで、理解などしない。だから、ヒューはセイラに言わせようと考えたんだよ」
女性本人が、男性の前で啖呵を切る。それは今までの吸血族では有り得ないことだ。だからこそ、効果がある。しかも、セイラは薔薇の娘で、黒薔薇の主治医一族の者だ。そうなれば、言っていることを無碍には出来ない。
「ヒューは気が弱いわけじゃないよ。下手をしたら、長様より性質が悪い」
一回行った会合で瞬時に悟る感性を持ち、尚且つ、直ぐに行動に移すだけの瞬発力もある。セイラ達が勘違いをするように仕向け、しかも、疑問に思われないように細心の注意を払った。
ヒューラは徹底的に自分を偽ったのだ。
「ヒューの性格を真に知っていたのは俺達だけだ。まあ、ゼロスさんとアレンさんは気が付いていたとは思うんだけど」
「長様はっ」
「騙しきったんだと思うよ。一番の難関だって言ってたし」
ヒューラは必要以上に曽祖父である黒の長に接触しなかった。偽りを知られないために。
セルジュは表情を引き締め、セイラを見詰めた。
「これを聞いた後、セイラがどう行動するか、ヒューには読めないって言ってた。だから、あえて問うよ。ヒューをどう思ってる」
セイラは固まった。まさか、こんな答えが飛び出してくるなど、想像すらしていなかった。
父親が含みのある言を言っていたから、ある程度の覚悟はしていた。だが、覚悟の種類が違う。セイラは教えてもらえないという覚悟をしただけで、真実を知ったときの覚悟は決めていなかったのだ。
確かに騙されたことは許せないと思う。それが自分勝手な理由なら、決断は早かった。
しかし、ヒューラが考えたのは吸血族全体のことだ。一向に変わらない現状を変えるために、セイラ達を騙したのだ。ならば、セイラがしなくてはならないことは、直接本人に問うことだ。
セイラは大きく息を吸い、同じだけ吐き出した。そして、セルジュを凝視する。
「本人に訊くわ。セルの言葉ではなく本人の声で。疑ってはいないけど、ヒュー本人の言葉を聞きたいわ」
セイラのはっきりとした答えに、セルジュは微笑んだ。
「仕事も大事だけど、アンを寂しがらせたら承知しないわよ」
セイラは去り際に、そんな言葉を残し、館を後にした。
セルジュの元を後にしたセイラは、次の日にファーダの元を訪れた。ヒューラに訊く前に、どうしても、確かめたかったのだ。セルジュが言っていたことが本当なのか、再確認をしに行ったと言った方が正確なのかもしれない。
ファーダの口から語られた事実は、セルジュの言っていることと寸分の違いもなかった。
吸血族に蔓延した困った事実が、セイラには理解出来なかったが、アレンにそのことを言うと、女性の少ない吸血族では仕方のない事実なのだと言われた。
家族の中で、男性よりも女性の多いセイラは、吸血族の感覚とはかけ離れている。それ故に、納得出来ない部分も多いが、確かに、女性の友人はベンジャミンの花嫁であるルーチェンだけしかいない。
ヒューラは必ずセイラの元に現れる。それは、期限を突きつけたので、どんな結果であろうと、一度は訪れると確信しているからだ。
自室の窓から外を眺める。視線の先にあるのは、色とりどりの薔薇達。風に身を委ね香りを運び、月の光の下淡い光を放っている。
「何時まで待つつもり」
そんな声が掛けられた。セイラは声の主に体ごと視線を向ける。其処に居たのは双子の姉のアーダ。
「もう少し」
「もう少しって」
アーダはイラついた様に訊いてきた。セイラは苦笑いを浮かべる。
「ヒューは必ず来るから」
アーダは呆れたように息を吐き出した。セイラがヒューラのことを調べたことは本人から聞いている。
吸血族内で、どういったことが起こっているのかも確かに聞いたが、だからといって、セイラを悩ませた理由にはならないとアーダは考えている。
「その後は」
「どうしようかと思ってて……」
問題はヒューラは単にセイラを利用しただけなのか、それとも、セイラを信用し、想ってくれているからの行動なのか。
「どうしても、ヒューが読めないの」
それは素直な心の吐露だった。
「……流石に長様の曾孫よね」
アーダがポツリと呟いた。セイラは目を見開く。
「あれが全部演技だったとして、それをやりきるにはそれなりに計算高くなければ無理よ。カイファスさんとは確実に性質が違うし、ゼロスさんとも全く違うわ」
アーダはヒューラが両親ではなく、曽祖父の黒の長に似たのではないかと考えた。そう、部族長の後継者であるカルヴァスより、腹黒いのではないかと感じたのだ。
「そうだと思う。でも、それは必要なことだったんだと思ってるわ」
「だからよっ。黙って利用したことが許せないじゃないっ」
アーダは勢い込んで叫び、眩暈を起こしたように壁に凭れ掛かった。
「無理をしたらお父さんに怒られるわよ」
アーダはまだ、本調子ではない。当然、アレンに大人しくしているように言い渡されている。
「私のことはいいのよ。こんなのはそのうち治るんだから。問題はセイラでしょう」
確かにそうだが、無理をすれば自身に返って来るのだ。
「利用されたのは事実だけど、自分本位でのことではないし。責めるのはどうかなって」
セイラが困っているのはそこなのだ。何より、あの日から、ヒューラは沈黙を保ったままだからだ。どうするつもりなのか、セイラには全く判らなかった。
セイラが突きつけた期限は一ヶ月だ。もし、ヒューラが黒の長並みに一癖二癖あるのなら、必ず、沈黙している期間に何かをしているのだ。
その何かについて、セイラでは知りようがない。ただ、セルジュとファーダは口を揃えて言っていたことがある。それは、ヒューラは黒の長より性質が悪い、と言うものだった。
セルジュは性別が確定していなかったが、両親には後継者として、男の子として育てられていた。当然、黒薔薇の主治医宅で育てられていたときも、両親の意向を尊重していた。
そのせいだろうか。どうしても、ファーダとヒューラの二人と居ることが必然的に多かったのだ。そうなると、セイラ達には判らない繋がりが出来て当然なのだ。
「……ヒューがもし、私を必要としていなかったら……」
セイラはそこまで言うと口を閉ざした。アーダは優れない顔色で、セイラに言葉の先を促す。
「誰とも一緒になるつもりはないわ」
「やっぱり、そうなるのね」
アーダは確認するような視線をセイラへ向ける。セイラは小さく頷いた。
セイラは良くも悪くもアレンとシオンの娘だ。仲の良い両親と祖父母を見て育ち、当然、心に住まわせた者意外との婚姻は良しとはしない。それは、心を無視することで生まれる不幸を、無意識に避けていることに他ならない。
それは、セイラの名を持っていた母方の祖母が受けた苦痛を、知っているせいでもあったのだ。
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