9 / 40
Ⅱ 銀月蝶
四章
しおりを挟む
「予想通りだな」
そう、口を開いたのはアレンだった。
「基本的に俺と変わらないからな」
ゼロスは何とも言えない表情を見せた。
「まあ、予定外なのは、その子か」
ゼインの腕に抱かれた赤子に、アレンは笑みを見せた。
「お袋が連れて行けと言ってな」
「お前の口から、母親のことが出るのは初めてじゃないか」
「当たり前だ。言ったことはないし、カイファスも会ったことはないからな」
ゼインは驚きに、父親を凝視した。
「お袋は表に出たがらないんだよ。他種族の魔族となれば尚更な」
「カイファスは仮にも、お前の嫁だろうが」
ゼロスはこれ見よがしに肩を竦めた。
「仕方ないだろう。俺だって、初めて顔を合わせたのは、ある程度、成長してからだ」
「はぁ、何だそれは」
アレンはそこまで言うと、銀狼の特殊性に気が付いた。
「両親が揃っていても、特殊は特殊なのか」
アレンの問いに、ゼロスは頷くしかない。
「それが、連れ帰ってきた理由だ」
ゼロスの言葉に、アレンは目を見開いた。
「銀狼は普通になる必要がある」
アレンは驚きに息を呑んだ。
「それが、お袋の言葉だったんだよ」
カイファスとの結婚が許された理由も、母親であったと言い、アレンを更に驚かせた。
「お袋は少しばかり変わっていてな。銀狼のくせに、銀狼らしくないんだよ。変に合理的で、小さいときは、戸惑ったもんだ」
ゼロスは肩を竦めた。本当の母親である事実を知った時、当然、ゼロスは子供だったのだから、混乱も戸惑いも、特に間違いを正したいと思うのは仕方のないことだ。
前族長の第一夫人にして、第一子であるゼロスの産みの母親。狼の一族の出身で、銀狼の中で育った割には、まともな感覚の持ち主だったらしい。
「まあ、親父にそれなりの感情がなければ、絶対に肌には触れるなと、豪語した強者だ。変わり者だな」
銀狼からすれば変わり者だろうが、他から見れば、真っ当な感覚だろう。つまり、ゼロスの一途とも言える資質は、母親から受け継いだモノのようだ。
アレンは苦笑いを浮かべ、ゼインの腕から、赤子を受け取った。ゼインは驚いたように、アレンを凝視する。
「シアンは離れだ」
ゼインは小さく息をのんだ。
「ただ、今は就寝中だ。日中に活動しているからな」
ゼインはゼロスから、シアンは栽培の勉強中だと聞いていた。だからだろう。
「部屋は昔と同じ場所だ」
アレンの言葉に、ゼインは小さく頭を下げ、二人から離れて行った。それを見送り、ゼロスはアレンに視線を戻した。
「蟠りなしか」
「まさか。ただ、気持ちも判るからな」
二人は特殊だったために、擦れ違ったのだ。それに、アレンは事前にこうなることは判っていた。
しかし、アレンが視えるのはあくまで漠然としたことだけだ。特に血族や近しい者の情報は確実に判るというわけではない。
「後は二人の問題だからな。親がどうこう言うのも間違えているだろう」
アレンの言うことはもっともだが、父親としての感情は別問題だろう。
「確かにそうだが……」
ゼロスが戸惑うのもよく判る。
「結局は銀狼が招いたことだろう。何時かは変わっていかなくてはならないんだ」
変わらずきた事で変化に乏しい生活を送ることになったのだ。
アレンは穏やかな表情で、ゼインが立ち去った方向に視線を向けた。もし、ゼインが戻ってこなければ、シアンは一人のまま、黒薔薇の主治医の地下廟で眠りに就いただろう。
後は、ゼインがどれだけシアンの心を開くことが出来るかだ。腕の中の赤子を産んだ後から、感情を表すことがなくなった。ただ、淡々と日々を過ごし、アレンから栽培に関する知識を吸収することに終始している。
日中は庭師から、植物の手入れの仕方を習い、一日中そんなことをしていれば、疲れて眠るだけだ。
「……お前にはかなわないな」
ゼロスはぽつりと呟く。アレンは言われたことが理解出来ず、ゼロスに視線を向けると、首を傾げた。
「普通なら、最初の娘だ。あんな扱いを受けたと知れば、彼奴に対して怒鳴りつけても不思議じゃないだろう」
アレンは苦笑いを浮かべる。もし、一人娘であれば、違う感情を持つだろう。それに、娘達はすんなりいかないことも判っている。
「吸血族に生まれた不運だろう。それに、そんなことでは挫けないように育てたつもりだ」
シアンは一時的とは言え、吸血族を離れると判っていた。
詳細は判らなくとも、漠然と、どういった扱いを受けるかも知っていた。だから、あの言葉を贈ったのだ。何時でも帰ってこられるように、部屋もそのままにしておいた。
「それに、シアンはまた、家を出て行くからな……」
アレンは寂しげに微笑んだ。
「何を言っているんだ」
「考えなくても判るだろう。シアンとゼインが元の鞘に戻れば、親元から離れて行く」
居てもらっても構わないが、二人は親元から遠く離れることを前提に育てられているのだ。
「コロニーに戻るって言うのか」
「否。そんなことをすれば、シオンとお袋が騒ぎ出す。銀狼の元に、戻すつもりは更々ない」
アレンはきっぱりと言ってのけた。
「じゃあ……」
「今、うちには離れが三軒と、別邸になっている館が一軒ある」
ゼロスは目を見開いた。離れは判る。別邸とは、何処になるのか。
「判らないか。シオンの実家だよ」
シオンの父親が眠りに就くとき、黒の長に館の護りの徴を託していた。当然、継ぐべき権利を持つのは長男のシオンだ。
多額の借金も一緒に相続することになったが、アレンは全て返済を済ませている。家業はジュディの夫であるルディに託した。シオンも今更、家業に戻るつもりもなかったため、反対はしなかった。
土地と家屋のみシオンは引き継いだのだ。だが、シオンはアレンの妻で、当然、館は無人になってしまう。元々、シオンの館で働いていた者達を呼び戻し、館の手入れは万全で、何時でも住める状態にしてある。後は、主が決まれば問題はなくなるのだ。
ゼロスは呆れたように息を吐き出した。
何でもないことのように言っているが、実際は、簡単ではなかった筈だ。
「シオンとも話していた」
離れて行くのなら、所在が判る場所にいてもらいたいというのが、正直な気持ちなのだ。
おそらく、二人は銀狼族の元に戻ろうとは考えないだろう。かと言って、親に厄介にもなろうとは考えない。ならば、財産の一部を相続してもらえれば、黒薔薇の主治医の一族としても、助かるのだ。
元々、広大な土地を有し、更に増えると、面倒事が増えてしまう。
「もっとも、ゼインがシアンをどうにかしないことには、この話はなしになるな」
アレンはそう言った後、館の奥に視線を向けた。ゼロスは何事かと、アレンの視線の先を追う。飛び込んできたのは、女性達の姿。目的など、はっきりとしている。
「目聡いな……」
アレンの呟きに苦笑いを浮かべるしかない。突風のように赤子を攫って行くだろうと、容易に想像出来た。
「どこで感知しているのやら」
ゼロスは呆れるしかなかった。
†††
ゼインは滑り込むように、その部屋に足を踏み入れた。見慣れた室内。カーテンがしめられた室内は暗闇だったが、目的の場所に行くのに苦にはならなかった。
近付けば、シアンは深い眠りの中にいるのか、ぴくりとも動かない。少し日に焼けた肌が、事実を物語っているようだった。
それでも、肌も髪もぱさついてはいない。少し躊躇った後、ベッドに腰掛け、シアンの頬に触れた。銀狼族のコロニーに居た頃とは違う。柔らかな肉に包まれているが、動いているからだろう。程良く引き締まっているのは、触れた感じで判った。
シアンが身動ぎする。ゼインは触れていた手を離し、シアンを見詰めた。ゆっくりと開かれた瞳。琥珀を映したその色は、眠たいからだろう。何時になく、濡れたように見えた。
「……お母さん」
シアンが最初に口にしたのは、母親のシオンだった。おそらく、帰ってきた娘の姿に心配になったからだろう。その様子に、シオンが如何にシアンを心配していたかが伺えた。それなのに、アレンはゼインの背中を押してくれたのだ。
シアンは傍らに座る存在が、何時もと違うことに気が付いた。シオンならば、直ぐに反応を示してくれる。それなのに、何一つ、反応が返ってこない。シアンの動き、一つ一つを観察しているような視線。
ゆっくりと首を動かし、気配のする方に顔を向けた。闇の中に浮かび上がる姿は、シオンではなかった。シオンの姿は、全体的に薄い色で、少しの光にさえ、うっすら発光したように見える。
闇に目が慣れてくれば、傍らに座っているのが誰であるのか、はっきりと認識することが出来た。
離れると決めた存在。二度と、顔を、姿を見ることは叶わないと、覚悟を決めた。真実を、本心をひた隠しにした。一つ嘘を吐いたために、何も言えなくなってしまった。
「……して」
ゆっくりと身を起こし、無理だとは判っていても、後退ろうと無意識に体が動いた。ゼインは微動だにせず、ただ、シアンを見詰める。何を考えているのかが読めず、シアンは不安に胸が締め付けられそうになった。
産まれた子を銀狼族に託した。あの子の容姿では、誰が母親であるのか判ってしまう。
一つの望みが潰えたなら、もう一つの望みに賭けたかった。せめて、父親と共に居てほしいと。
「……銀狼族に帰って……。あの子と一緒に居てあげて」
シアンはか細い声で懇願し、俯いた。母親としての資格を、シアンは実質放棄したのだ。そのシアンに、どうこう言える資格はない。
「どうして」
ゼインは冷静に、冷たい感じの声音で返した。シアンはびくりと、体を震わせた。何時にない冷たい声音。感情を感じ取ることの出来ない、固い声。震える体を叱咤し、シアンは顔を上げた。
視線の先にあったゼインの表情は、声とは大きく違っていた。苦痛に歪んだ表情。シアンは息をのんだ。
「どうして、何も言ってくれなかった」
その言葉に含まれる大きな意味に、シアンは口を噤んだ。ゼインは表面的なことを訊いているのではない。銀狼族の中で同じ時を共にするようになり、シアンは自分のことを語らなくなった。尋ねようとしても、やんわりとはぐらかされた。
「気が付いていないとでも思っていたのか」
シアンはゼインを凝視した。気が付かれていないと、信じて疑っていなかったのだ。如何に、いっぱいいっぱいになっていたのかを、突きつけられたような気がした。
必死になって、呑み込んだ言葉の数々。心の奥底では、助けてほしいと叫んでいるのに、無理矢理押し込めた。自分の立ち位置を理解していたからだ。
もし、シアンのせいで、ゼインが銀狼族から離れたらどうなるのか。二代続けて銀狼族を離れるのは、一族として歓迎されないだろう。だから、何も言わずに我慢をしたのだ。
それでも、体内に新たな命が宿ったとき、このままではいけないと感じた。出した結論は至極単純で、でも、苦痛がなかったわけではない。勝手にゼインの側から離れるのだ。
二度と会えないという覚悟をもって、銀狼族から、両親の居る吸血族の元に帰ってきた。アレンの言葉に背を押されて。
「どうして、立場を考えたりしたんだ」
ゼインはゆっくりと、諭すように言った。
「やっと、手に入れた存在が、両の手からすり抜けていった。そのときの喪失感が判るか」
やっと、手に入れた、の言葉に、シアンは困惑した。ずっと、側に居たではないか。互いに認め合っていたし、将来も決まっていた。だから、ゼロスは二人を連れて、銀狼族の元に赴いていたのだ。
シアンはゼインを凝視した。判らなかったからだ。
「レイが好きだっただろう」
その言葉にシアンは困惑した。好きかと問われれば、好きであったと言えるだろう。だが、それはあくまで異性としてではなく、家族の愛情に近いものだ。レイとて、シアンに対してやましい気持ちなど、持ち合わせてはいなかっただろう。
「言っている意味が判らないわ」
「そのままだ。だから、邪魔をしていたじゃないか」
レイが館に滞在していた期間は短い。過去の事実を記録として残すために、黒薔薇の主治医の館に留まっていたのだ。
何時も優しい眼差しを向けてくれていた。それはシアンだけに限ったことではない。レイは、誰に対してもそうだったのだ。
「だって、レイは……」
「俺はずっと見ていたんだ」
自分では判っていなくても、第三者の目線では如実に判ってしまうものなのだろう。ましてや、ゼインはそういう目でシアンを見ていたのだ。
「レイが現れたとき、正直に言えば焦ったんだ。それまでは、周りにいた異性は吸血族だけだったから……」
銀狼は父親であるゼロスだけで、ライバルになるような存在はいなかったのだ。
レイが眠りに就いたとき、間違っているとは判っていても、安堵したのが正直な気持ちだった。
「結婚したときも、他の銀狼達が怖かったんだ」
シアンが心変わりするから怖かったのではない。銀狼の男達がシアンに目を付けるのではないか。だから、シアンがテントの外に出るとき、男達の目に晒されることを考えると、心配で仕方がなかった。
「そんなこと、ありえないわ」
銀狼の男達がシアンに興味を示すなど、考えられなかった。コロニーに足を踏み入れ、最初に言われた言葉を、今でも鮮明に覚えているのだ。
「私は異質だったの」
「聞いたよ」
シアンが側から離れた真の理由を、ゼインは今日聞いたばかりなのだ。嫌いだったからではなく、その逆。ゼインを銀狼族を思っての行動だった。何より、体内に宿った命のためでもあったからだ。決して、自分本位の行動ではなかった。
「知らない振りをしていたんだ。シアンが苦しんでいることには気が付いていたのに」
理由は判らなくても、何かに悩んでいたことは判っていたのだ。それでも訊けなかったのは、訊くことでシアンを失うのではと危惧したからに他ならない。シアンに対して、臆病になっていたからだ。
「離れたかったからじゃないの」
判ってほしい、とシアンは言葉を零した。だから、生まれた子のために、銀狼族に戻ってほしい。
「連れて来たんだ」
ゼインは一言、簡潔に言った。シアンは更に困惑する。
「何を言っているの」
「あの子はアレンさんに預けてきたんだ」
シアンは目を見開いた。そんなことは、あってはならない。自分のようにしたくなくて、手放したのだ。ゼインも判っているのではないか。異質なのは、自分達だけで十分だと。
「勝手に連れて来たんじゃない。親父の母親、俺の祖母が連れて行くように言ったんだよ」
ゼロスが生まれたばかりの赤子を連れて現れたとき、ゼインは困惑したのだ。自分の子供だと言われ、シアンが離れた理由だとはっきりと告げられた。そこに現れた二人の女性。一人は父親の母親、もう一人は叔父の母親。
特殊である銀狼族を象徴しているような二人だった。
「どう言うこと」
「普通に戻るべきだと言われたんだ」
普通が一番難しいのだと、彼女は言ったのだ。その権利持つ子から、奪う理由も権利もないのだと。
ゼインはそう言った祖母を、驚きの眼差しで見詰めた。どちらかと言えば、優しそうな容貌。だが、瞳に宿るのは、意志を宿した光。もし、彼女が現れなければ、ゼインは此処には来なかった。我が子と共に生きていく道を選んだだろう。それが意思に反していたとしても、一人残してなど、いける筈がないのだ。
「それって……」
「親父の産みの母親。俺も知らなかったんだけど、シアンも一度、会ってると思う」
姿を垣間見ることがなかったことを考えると、普段は外にあまり出ないのだろう。あの場所に現れたのも、どうやら、呼び出されての事だったようだ。それは、前族長の言葉で明らかだった。そして、もう一人の女性。叔父の母親で、銀狼の女性達を纏めている存在であるようだった。
ゼインは正直に驚いたが、嬉しかったことも事実だった。シアンが子供を銀狼族に託す選択をした理由も判っていた。自分のようになってもらいたくなかったからだろう。反面、心に沸き起こったのは理不尽な感情。一人で何もかもを決めてしまったシアンに、憤りを感じていたことも、また、事実だったのだ。
「……でも」
「離れたかったのか」
シアンは目を見開いた。
「そんなこと、言ってないわっ」
「じゃあ、何を躊躇ってるんだ」
シアンは唇を噛み締める。銀狼達はゼインを望んでいた。それを奪うことなど、出来なかったのだ。どうして、判ってくれないのか。
ゼインは判っていてシアンに問い掛けている。本心が知りたかったからだ。銀狼族の元に身を寄せるようになってから、シアンは内に籠もるようになってしまった。だから、罵声であろうと、本心を本人の口から聞きたかったのだ。
「何を知りたいの」
「本心を」
シアンはゼインから視線を逸らせた。
「俺は手放す気なんて、更々なかったんだ」
それなのに、シアンはゼインの元からすり抜けて行ったのだ。あのときの気持ちをどう表現したらいいのだろうか。満月が過ぎても帰ってこないと祖父に告げられたとき、心を襲ったのは虚無感だった。
ずっと言いたかった言葉。呑み込んで、知られないように鍵を掛けた気持ちだ。それを、口に出してもいいのだろうか。
シアンは逡巡し、小さく息を呑んだ。ゼインはシアンに視線を向けたまま、口を噤んだ。言いたいことは言ったのだ。後はシアンがどう考えるか。今更、銀狼族の元に帰るつもりはない。帰ったとしても、誰かを娶るつもりもない。
「……気がついてほしかったの……」
シアンは搾り出すように、言葉を口にした。自主的にゼインに言うことは出来なかった。言ってしまえば、気が済むまで言い続けた筈だ。シアンは己をよく理解していたのだ。両親から、我が儘だと言われて育った。最初の子だからだというだけではない。
吸血族は良くも悪くも、女児を大切に扱う。我が儘だと言われても、言うだけで両親だけではなく、周りもシアンを甘やかしていた。成長し、それではいけないと思うようになってから、我が儘はなりを潜めた。しかし、それが本心を語らないという、悪い方向に向いてしまったのだ。
「言えなかった……。銀狼達がゼインに期待を寄せていることは知っていたし、私に対して、よく思っていないことも知っていたから……」
周りを気にするのは必要なことだろう。だが、シアンは気にしすぎたのだ。しすぎたせいで、自分を蔑ろにしてしまった。食事を与えられなくても、仕事を教えてもらえなくても、文句を言うのではなく、耐えることを選択してしまったのだ。
「私は逃げたの。宿った命を理由にして。自分一人が可哀想だなんて思ってないわ。でも、限界だったの。騙し続けていくには、私の神経がもたなかった」
医者の娘だからこそ理解していた。精神的に限界に達している。正常で居るには自分を騙し続けなくてはいけない。騙せているうちはいいだろう。だが、何かの拍子に気が付いてしまったら、精神の崩壊が始まる。見てみぬ振りをするには、環境がそれを許してはくれなかったのだ。
離れる覚悟と、失う覚悟を決めた。最愛の存在と、慈しむべき存在を諦めることを。そして、一人で生きて行くことを決めたのだ。ゼロスに口止めをし、前族長に伝言を頼んだ。銀狼族のために、何より、ゼインの立場を考えて。本来の族長一族の姿に戻るように。
おそらく、アレンは知っていたのだ。切っ掛けと、ほんの少しの決断が必要だと。
本来なら、片付けられていたであろう部屋。その部屋が、独身の時のまま残されていたことから、容易に想像出来た。
帰る場所が残されていた事実は、シアンの心を軽くした。同時に、ゼインを真に諦める決心にも繋がった。実家から出るつもりであったシアンに対して、父親と祖父は反対し、ゼロスには採集の仕事ではなく、栽培することを進められた。何かをしていないと、シアンの気持ちが落ち着かなかったのだ。
ゼインはシアンの呟くような言葉に、耳を傾けた。幼いときは考えなくても良かったようなことが、大人になり、考えるようになってしまう。それが、成長したということだとしたら、悲しすぎやしないだろうか。
「本心は」
ゼインは単刀直入に訊いてみた。何時までも、堂々巡りをしていては、埒が明かない。
「離れたいのか、そうじゃないのか。周りのことは考えずに、教えてほしい」
シアンは俯いたまま、息を呑んだ。何も考えずに答えるなら、側にいたい。それが正直な気持ちだ。種族など関係なく、ただ、ゼインの側に居られるのなら。
それが出来れば、苦労はしない。幼いときから、成人したら銀狼族の元で生きて行くのだと言われて育った。だから、何も言えなくなったのだ。
ゼインは強く握り締めているシアンの手に、自身の手を添えた。難しく考える必要はない。ただ、一緒に生きて行けばいい。互いの両親も、銀狼族の族長も理解を示してくれている。だから、柵など考えなくてもいいのだ。
「でも……っ」
「シアンの元に帰れって言われた」
シアンは驚きに、弾かれたように顔を上げた。誰がそんなことを言ったのだろうか。
「祖母さんが言ったんだ」
シアンは目を見開いた。
ゼロスの母親は銀狼にしては、かなり変わった感覚の持ち主であるようだった。零れ落ちた言葉は、到底、銀狼が口にしないような言葉だ。現に、叔父の母親は、生まれた子は銀狼族で育てるべきだと口を出してきた。当然、祖父と叔父、果ては、父親までもに否定され、身の置き場を失いそうになった。それに、救いの手を差し伸べるだけの、懐の深い人物だったのだ。
「俺も初めて親父の母親であることを知ったんだ」
ゼロスとよく似た容姿。銀狼族の特徴そのままの色。だが、考えは全くの別物で、ゼインは戸惑った。
「だから、言葉に背を押されて、戻ってきたんだ」
ゼインは静かにそう言った。
もし、あの言葉がなかったら、ゼインはまだ、銀狼族に居ただろう。シアンの元に行きたいとは思っていても、行動を起こす踏ん切りがつかなかった筈だ。
「あの時、誓ったように」
ゼインはアレンに、シアンを守ると誓った。それは、誓う以前の問題だったが、アレンには別の意味が込められていたのではないだろうか。ゼインはアレンの特殊なの能力を知っている。その力は、公にはされてはいないが、特殊な能力に違いない。
ゼインの母方の曾祖母が、その力を持っていた。吸血族でその能力を発揮出来るのは、シアンの父親のアレンだけなのだ。ただ、血族や近しい者を正確には視ることは叶わない。おそらく、本能的に視ないようにしているのだ。
「もう、守らせてはくれないのか。シアンの側に、俺の居場所はなくなってしまったのか」
シアンは視界が涙で霞んだ。なくなることなどない。離れて生きていくことになったとしても、シアンの一番はゼインだけだ。ゼインが勘違いしたレイへの想いとは違う。
シアンは小さく首を横へ振った。側に居てくれるのなら、何より、側に居てもいいのなら、側に居たい。握り締めた左手に添えられていたゼインの手を握り返した。
失ったと思っていたモノは、失っていなかったのだと思いたかった。ただ、独り善がりの勘違いだと、そう、思っても非難を浴びたりはしないのだろうか。シアンは躊躇いがちに口を開く。
「……側にいて………」
零れ落ちたのは、本心だった。家族の元に帰ってきても、自分が異質なのだと、無意識に思っている部分があった。アレンもシオンも、姉妹達も、昔と変わらず接してくれているが、シアンの中の何かが変化してしまったのだ。
一度持ってしまった違和感は、どうやっても拭えなかった。活動時間が日中に変わってしまったのは、植物の手入れは太陽があるうちが好ましいとアレンが言っていたからだ。だが、それは、シアンにとってありがたい言葉だった。何故なら、日中は家族は休んでいる。顔を合わせることが少なくなる。
シアンがそう感じていることを、アレンは気が付いているだろう。シオンも聡いので判っている筈だ。
だが、姉妹達は違うだろう。まだ、成人には達しておらず、無邪気にシアンを慕う。銀狼族の中で、隔離されていたシアンは、他との接触が苦手になってしまっていたのだ。
「……許されるのなら」
シアンは小さく呟くように言った。ゼインはシアンの手を握り、小さく揺すった。臆病になってしまったシアンを、怯えさせないように手を引くと、シアンは素直にゼインの腕の中に納まった。
「シアンは俺の唯一の妻だ」
代わりなど居ないと、ゼインは優しく抱き締める。シアンはきつく目を瞑ると、ゼインに抱き付いた。失ったと思っていた場所。諦めて、諦めを甘受した。その思いを払拭するように縋り付く。
「二人で生きて行こう。黒の長様に許可を貰って」
銀狼族に帰るつもりはない。帰ったところで、真にシアンを受け入れてはくれないだろう。今回のことで、あからさまな態度は取らないだろうが、表面を取り繕うだけで、根本的に変わる訳ではない筈だ。
シアンはゼインの言葉に頷く。あの場所に戻ることは出来ない。戻れば精神的な負担が大きくなる。何より、萎縮してしまうのは、火を見るより明らかだったからだ。
銀狼達は変わって行かなくてはならないが、今、それを求めることは無理だ。二人は切っ掛けでしかなく、変化は、次の世代が担う。
二人はただ、互いの存在を確認するように、抱き締めあった。
そう、口を開いたのはアレンだった。
「基本的に俺と変わらないからな」
ゼロスは何とも言えない表情を見せた。
「まあ、予定外なのは、その子か」
ゼインの腕に抱かれた赤子に、アレンは笑みを見せた。
「お袋が連れて行けと言ってな」
「お前の口から、母親のことが出るのは初めてじゃないか」
「当たり前だ。言ったことはないし、カイファスも会ったことはないからな」
ゼインは驚きに、父親を凝視した。
「お袋は表に出たがらないんだよ。他種族の魔族となれば尚更な」
「カイファスは仮にも、お前の嫁だろうが」
ゼロスはこれ見よがしに肩を竦めた。
「仕方ないだろう。俺だって、初めて顔を合わせたのは、ある程度、成長してからだ」
「はぁ、何だそれは」
アレンはそこまで言うと、銀狼の特殊性に気が付いた。
「両親が揃っていても、特殊は特殊なのか」
アレンの問いに、ゼロスは頷くしかない。
「それが、連れ帰ってきた理由だ」
ゼロスの言葉に、アレンは目を見開いた。
「銀狼は普通になる必要がある」
アレンは驚きに息を呑んだ。
「それが、お袋の言葉だったんだよ」
カイファスとの結婚が許された理由も、母親であったと言い、アレンを更に驚かせた。
「お袋は少しばかり変わっていてな。銀狼のくせに、銀狼らしくないんだよ。変に合理的で、小さいときは、戸惑ったもんだ」
ゼロスは肩を竦めた。本当の母親である事実を知った時、当然、ゼロスは子供だったのだから、混乱も戸惑いも、特に間違いを正したいと思うのは仕方のないことだ。
前族長の第一夫人にして、第一子であるゼロスの産みの母親。狼の一族の出身で、銀狼の中で育った割には、まともな感覚の持ち主だったらしい。
「まあ、親父にそれなりの感情がなければ、絶対に肌には触れるなと、豪語した強者だ。変わり者だな」
銀狼からすれば変わり者だろうが、他から見れば、真っ当な感覚だろう。つまり、ゼロスの一途とも言える資質は、母親から受け継いだモノのようだ。
アレンは苦笑いを浮かべ、ゼインの腕から、赤子を受け取った。ゼインは驚いたように、アレンを凝視する。
「シアンは離れだ」
ゼインは小さく息をのんだ。
「ただ、今は就寝中だ。日中に活動しているからな」
ゼインはゼロスから、シアンは栽培の勉強中だと聞いていた。だからだろう。
「部屋は昔と同じ場所だ」
アレンの言葉に、ゼインは小さく頭を下げ、二人から離れて行った。それを見送り、ゼロスはアレンに視線を戻した。
「蟠りなしか」
「まさか。ただ、気持ちも判るからな」
二人は特殊だったために、擦れ違ったのだ。それに、アレンは事前にこうなることは判っていた。
しかし、アレンが視えるのはあくまで漠然としたことだけだ。特に血族や近しい者の情報は確実に判るというわけではない。
「後は二人の問題だからな。親がどうこう言うのも間違えているだろう」
アレンの言うことはもっともだが、父親としての感情は別問題だろう。
「確かにそうだが……」
ゼロスが戸惑うのもよく判る。
「結局は銀狼が招いたことだろう。何時かは変わっていかなくてはならないんだ」
変わらずきた事で変化に乏しい生活を送ることになったのだ。
アレンは穏やかな表情で、ゼインが立ち去った方向に視線を向けた。もし、ゼインが戻ってこなければ、シアンは一人のまま、黒薔薇の主治医の地下廟で眠りに就いただろう。
後は、ゼインがどれだけシアンの心を開くことが出来るかだ。腕の中の赤子を産んだ後から、感情を表すことがなくなった。ただ、淡々と日々を過ごし、アレンから栽培に関する知識を吸収することに終始している。
日中は庭師から、植物の手入れの仕方を習い、一日中そんなことをしていれば、疲れて眠るだけだ。
「……お前にはかなわないな」
ゼロスはぽつりと呟く。アレンは言われたことが理解出来ず、ゼロスに視線を向けると、首を傾げた。
「普通なら、最初の娘だ。あんな扱いを受けたと知れば、彼奴に対して怒鳴りつけても不思議じゃないだろう」
アレンは苦笑いを浮かべる。もし、一人娘であれば、違う感情を持つだろう。それに、娘達はすんなりいかないことも判っている。
「吸血族に生まれた不運だろう。それに、そんなことでは挫けないように育てたつもりだ」
シアンは一時的とは言え、吸血族を離れると判っていた。
詳細は判らなくとも、漠然と、どういった扱いを受けるかも知っていた。だから、あの言葉を贈ったのだ。何時でも帰ってこられるように、部屋もそのままにしておいた。
「それに、シアンはまた、家を出て行くからな……」
アレンは寂しげに微笑んだ。
「何を言っているんだ」
「考えなくても判るだろう。シアンとゼインが元の鞘に戻れば、親元から離れて行く」
居てもらっても構わないが、二人は親元から遠く離れることを前提に育てられているのだ。
「コロニーに戻るって言うのか」
「否。そんなことをすれば、シオンとお袋が騒ぎ出す。銀狼の元に、戻すつもりは更々ない」
アレンはきっぱりと言ってのけた。
「じゃあ……」
「今、うちには離れが三軒と、別邸になっている館が一軒ある」
ゼロスは目を見開いた。離れは判る。別邸とは、何処になるのか。
「判らないか。シオンの実家だよ」
シオンの父親が眠りに就くとき、黒の長に館の護りの徴を託していた。当然、継ぐべき権利を持つのは長男のシオンだ。
多額の借金も一緒に相続することになったが、アレンは全て返済を済ませている。家業はジュディの夫であるルディに託した。シオンも今更、家業に戻るつもりもなかったため、反対はしなかった。
土地と家屋のみシオンは引き継いだのだ。だが、シオンはアレンの妻で、当然、館は無人になってしまう。元々、シオンの館で働いていた者達を呼び戻し、館の手入れは万全で、何時でも住める状態にしてある。後は、主が決まれば問題はなくなるのだ。
ゼロスは呆れたように息を吐き出した。
何でもないことのように言っているが、実際は、簡単ではなかった筈だ。
「シオンとも話していた」
離れて行くのなら、所在が判る場所にいてもらいたいというのが、正直な気持ちなのだ。
おそらく、二人は銀狼族の元に戻ろうとは考えないだろう。かと言って、親に厄介にもなろうとは考えない。ならば、財産の一部を相続してもらえれば、黒薔薇の主治医の一族としても、助かるのだ。
元々、広大な土地を有し、更に増えると、面倒事が増えてしまう。
「もっとも、ゼインがシアンをどうにかしないことには、この話はなしになるな」
アレンはそう言った後、館の奥に視線を向けた。ゼロスは何事かと、アレンの視線の先を追う。飛び込んできたのは、女性達の姿。目的など、はっきりとしている。
「目聡いな……」
アレンの呟きに苦笑いを浮かべるしかない。突風のように赤子を攫って行くだろうと、容易に想像出来た。
「どこで感知しているのやら」
ゼロスは呆れるしかなかった。
†††
ゼインは滑り込むように、その部屋に足を踏み入れた。見慣れた室内。カーテンがしめられた室内は暗闇だったが、目的の場所に行くのに苦にはならなかった。
近付けば、シアンは深い眠りの中にいるのか、ぴくりとも動かない。少し日に焼けた肌が、事実を物語っているようだった。
それでも、肌も髪もぱさついてはいない。少し躊躇った後、ベッドに腰掛け、シアンの頬に触れた。銀狼族のコロニーに居た頃とは違う。柔らかな肉に包まれているが、動いているからだろう。程良く引き締まっているのは、触れた感じで判った。
シアンが身動ぎする。ゼインは触れていた手を離し、シアンを見詰めた。ゆっくりと開かれた瞳。琥珀を映したその色は、眠たいからだろう。何時になく、濡れたように見えた。
「……お母さん」
シアンが最初に口にしたのは、母親のシオンだった。おそらく、帰ってきた娘の姿に心配になったからだろう。その様子に、シオンが如何にシアンを心配していたかが伺えた。それなのに、アレンはゼインの背中を押してくれたのだ。
シアンは傍らに座る存在が、何時もと違うことに気が付いた。シオンならば、直ぐに反応を示してくれる。それなのに、何一つ、反応が返ってこない。シアンの動き、一つ一つを観察しているような視線。
ゆっくりと首を動かし、気配のする方に顔を向けた。闇の中に浮かび上がる姿は、シオンではなかった。シオンの姿は、全体的に薄い色で、少しの光にさえ、うっすら発光したように見える。
闇に目が慣れてくれば、傍らに座っているのが誰であるのか、はっきりと認識することが出来た。
離れると決めた存在。二度と、顔を、姿を見ることは叶わないと、覚悟を決めた。真実を、本心をひた隠しにした。一つ嘘を吐いたために、何も言えなくなってしまった。
「……して」
ゆっくりと身を起こし、無理だとは判っていても、後退ろうと無意識に体が動いた。ゼインは微動だにせず、ただ、シアンを見詰める。何を考えているのかが読めず、シアンは不安に胸が締め付けられそうになった。
産まれた子を銀狼族に託した。あの子の容姿では、誰が母親であるのか判ってしまう。
一つの望みが潰えたなら、もう一つの望みに賭けたかった。せめて、父親と共に居てほしいと。
「……銀狼族に帰って……。あの子と一緒に居てあげて」
シアンはか細い声で懇願し、俯いた。母親としての資格を、シアンは実質放棄したのだ。そのシアンに、どうこう言える資格はない。
「どうして」
ゼインは冷静に、冷たい感じの声音で返した。シアンはびくりと、体を震わせた。何時にない冷たい声音。感情を感じ取ることの出来ない、固い声。震える体を叱咤し、シアンは顔を上げた。
視線の先にあったゼインの表情は、声とは大きく違っていた。苦痛に歪んだ表情。シアンは息をのんだ。
「どうして、何も言ってくれなかった」
その言葉に含まれる大きな意味に、シアンは口を噤んだ。ゼインは表面的なことを訊いているのではない。銀狼族の中で同じ時を共にするようになり、シアンは自分のことを語らなくなった。尋ねようとしても、やんわりとはぐらかされた。
「気が付いていないとでも思っていたのか」
シアンはゼインを凝視した。気が付かれていないと、信じて疑っていなかったのだ。如何に、いっぱいいっぱいになっていたのかを、突きつけられたような気がした。
必死になって、呑み込んだ言葉の数々。心の奥底では、助けてほしいと叫んでいるのに、無理矢理押し込めた。自分の立ち位置を理解していたからだ。
もし、シアンのせいで、ゼインが銀狼族から離れたらどうなるのか。二代続けて銀狼族を離れるのは、一族として歓迎されないだろう。だから、何も言わずに我慢をしたのだ。
それでも、体内に新たな命が宿ったとき、このままではいけないと感じた。出した結論は至極単純で、でも、苦痛がなかったわけではない。勝手にゼインの側から離れるのだ。
二度と会えないという覚悟をもって、銀狼族から、両親の居る吸血族の元に帰ってきた。アレンの言葉に背を押されて。
「どうして、立場を考えたりしたんだ」
ゼインはゆっくりと、諭すように言った。
「やっと、手に入れた存在が、両の手からすり抜けていった。そのときの喪失感が判るか」
やっと、手に入れた、の言葉に、シアンは困惑した。ずっと、側に居たではないか。互いに認め合っていたし、将来も決まっていた。だから、ゼロスは二人を連れて、銀狼族の元に赴いていたのだ。
シアンはゼインを凝視した。判らなかったからだ。
「レイが好きだっただろう」
その言葉にシアンは困惑した。好きかと問われれば、好きであったと言えるだろう。だが、それはあくまで異性としてではなく、家族の愛情に近いものだ。レイとて、シアンに対してやましい気持ちなど、持ち合わせてはいなかっただろう。
「言っている意味が判らないわ」
「そのままだ。だから、邪魔をしていたじゃないか」
レイが館に滞在していた期間は短い。過去の事実を記録として残すために、黒薔薇の主治医の館に留まっていたのだ。
何時も優しい眼差しを向けてくれていた。それはシアンだけに限ったことではない。レイは、誰に対してもそうだったのだ。
「だって、レイは……」
「俺はずっと見ていたんだ」
自分では判っていなくても、第三者の目線では如実に判ってしまうものなのだろう。ましてや、ゼインはそういう目でシアンを見ていたのだ。
「レイが現れたとき、正直に言えば焦ったんだ。それまでは、周りにいた異性は吸血族だけだったから……」
銀狼は父親であるゼロスだけで、ライバルになるような存在はいなかったのだ。
レイが眠りに就いたとき、間違っているとは判っていても、安堵したのが正直な気持ちだった。
「結婚したときも、他の銀狼達が怖かったんだ」
シアンが心変わりするから怖かったのではない。銀狼の男達がシアンに目を付けるのではないか。だから、シアンがテントの外に出るとき、男達の目に晒されることを考えると、心配で仕方がなかった。
「そんなこと、ありえないわ」
銀狼の男達がシアンに興味を示すなど、考えられなかった。コロニーに足を踏み入れ、最初に言われた言葉を、今でも鮮明に覚えているのだ。
「私は異質だったの」
「聞いたよ」
シアンが側から離れた真の理由を、ゼインは今日聞いたばかりなのだ。嫌いだったからではなく、その逆。ゼインを銀狼族を思っての行動だった。何より、体内に宿った命のためでもあったからだ。決して、自分本位の行動ではなかった。
「知らない振りをしていたんだ。シアンが苦しんでいることには気が付いていたのに」
理由は判らなくても、何かに悩んでいたことは判っていたのだ。それでも訊けなかったのは、訊くことでシアンを失うのではと危惧したからに他ならない。シアンに対して、臆病になっていたからだ。
「離れたかったからじゃないの」
判ってほしい、とシアンは言葉を零した。だから、生まれた子のために、銀狼族に戻ってほしい。
「連れて来たんだ」
ゼインは一言、簡潔に言った。シアンは更に困惑する。
「何を言っているの」
「あの子はアレンさんに預けてきたんだ」
シアンは目を見開いた。そんなことは、あってはならない。自分のようにしたくなくて、手放したのだ。ゼインも判っているのではないか。異質なのは、自分達だけで十分だと。
「勝手に連れて来たんじゃない。親父の母親、俺の祖母が連れて行くように言ったんだよ」
ゼロスが生まれたばかりの赤子を連れて現れたとき、ゼインは困惑したのだ。自分の子供だと言われ、シアンが離れた理由だとはっきりと告げられた。そこに現れた二人の女性。一人は父親の母親、もう一人は叔父の母親。
特殊である銀狼族を象徴しているような二人だった。
「どう言うこと」
「普通に戻るべきだと言われたんだ」
普通が一番難しいのだと、彼女は言ったのだ。その権利持つ子から、奪う理由も権利もないのだと。
ゼインはそう言った祖母を、驚きの眼差しで見詰めた。どちらかと言えば、優しそうな容貌。だが、瞳に宿るのは、意志を宿した光。もし、彼女が現れなければ、ゼインは此処には来なかった。我が子と共に生きていく道を選んだだろう。それが意思に反していたとしても、一人残してなど、いける筈がないのだ。
「それって……」
「親父の産みの母親。俺も知らなかったんだけど、シアンも一度、会ってると思う」
姿を垣間見ることがなかったことを考えると、普段は外にあまり出ないのだろう。あの場所に現れたのも、どうやら、呼び出されての事だったようだ。それは、前族長の言葉で明らかだった。そして、もう一人の女性。叔父の母親で、銀狼の女性達を纏めている存在であるようだった。
ゼインは正直に驚いたが、嬉しかったことも事実だった。シアンが子供を銀狼族に託す選択をした理由も判っていた。自分のようになってもらいたくなかったからだろう。反面、心に沸き起こったのは理不尽な感情。一人で何もかもを決めてしまったシアンに、憤りを感じていたことも、また、事実だったのだ。
「……でも」
「離れたかったのか」
シアンは目を見開いた。
「そんなこと、言ってないわっ」
「じゃあ、何を躊躇ってるんだ」
シアンは唇を噛み締める。銀狼達はゼインを望んでいた。それを奪うことなど、出来なかったのだ。どうして、判ってくれないのか。
ゼインは判っていてシアンに問い掛けている。本心が知りたかったからだ。銀狼族の元に身を寄せるようになってから、シアンは内に籠もるようになってしまった。だから、罵声であろうと、本心を本人の口から聞きたかったのだ。
「何を知りたいの」
「本心を」
シアンはゼインから視線を逸らせた。
「俺は手放す気なんて、更々なかったんだ」
それなのに、シアンはゼインの元からすり抜けて行ったのだ。あのときの気持ちをどう表現したらいいのだろうか。満月が過ぎても帰ってこないと祖父に告げられたとき、心を襲ったのは虚無感だった。
ずっと言いたかった言葉。呑み込んで、知られないように鍵を掛けた気持ちだ。それを、口に出してもいいのだろうか。
シアンは逡巡し、小さく息を呑んだ。ゼインはシアンに視線を向けたまま、口を噤んだ。言いたいことは言ったのだ。後はシアンがどう考えるか。今更、銀狼族の元に帰るつもりはない。帰ったとしても、誰かを娶るつもりもない。
「……気がついてほしかったの……」
シアンは搾り出すように、言葉を口にした。自主的にゼインに言うことは出来なかった。言ってしまえば、気が済むまで言い続けた筈だ。シアンは己をよく理解していたのだ。両親から、我が儘だと言われて育った。最初の子だからだというだけではない。
吸血族は良くも悪くも、女児を大切に扱う。我が儘だと言われても、言うだけで両親だけではなく、周りもシアンを甘やかしていた。成長し、それではいけないと思うようになってから、我が儘はなりを潜めた。しかし、それが本心を語らないという、悪い方向に向いてしまったのだ。
「言えなかった……。銀狼達がゼインに期待を寄せていることは知っていたし、私に対して、よく思っていないことも知っていたから……」
周りを気にするのは必要なことだろう。だが、シアンは気にしすぎたのだ。しすぎたせいで、自分を蔑ろにしてしまった。食事を与えられなくても、仕事を教えてもらえなくても、文句を言うのではなく、耐えることを選択してしまったのだ。
「私は逃げたの。宿った命を理由にして。自分一人が可哀想だなんて思ってないわ。でも、限界だったの。騙し続けていくには、私の神経がもたなかった」
医者の娘だからこそ理解していた。精神的に限界に達している。正常で居るには自分を騙し続けなくてはいけない。騙せているうちはいいだろう。だが、何かの拍子に気が付いてしまったら、精神の崩壊が始まる。見てみぬ振りをするには、環境がそれを許してはくれなかったのだ。
離れる覚悟と、失う覚悟を決めた。最愛の存在と、慈しむべき存在を諦めることを。そして、一人で生きて行くことを決めたのだ。ゼロスに口止めをし、前族長に伝言を頼んだ。銀狼族のために、何より、ゼインの立場を考えて。本来の族長一族の姿に戻るように。
おそらく、アレンは知っていたのだ。切っ掛けと、ほんの少しの決断が必要だと。
本来なら、片付けられていたであろう部屋。その部屋が、独身の時のまま残されていたことから、容易に想像出来た。
帰る場所が残されていた事実は、シアンの心を軽くした。同時に、ゼインを真に諦める決心にも繋がった。実家から出るつもりであったシアンに対して、父親と祖父は反対し、ゼロスには採集の仕事ではなく、栽培することを進められた。何かをしていないと、シアンの気持ちが落ち着かなかったのだ。
ゼインはシアンの呟くような言葉に、耳を傾けた。幼いときは考えなくても良かったようなことが、大人になり、考えるようになってしまう。それが、成長したということだとしたら、悲しすぎやしないだろうか。
「本心は」
ゼインは単刀直入に訊いてみた。何時までも、堂々巡りをしていては、埒が明かない。
「離れたいのか、そうじゃないのか。周りのことは考えずに、教えてほしい」
シアンは俯いたまま、息を呑んだ。何も考えずに答えるなら、側にいたい。それが正直な気持ちだ。種族など関係なく、ただ、ゼインの側に居られるのなら。
それが出来れば、苦労はしない。幼いときから、成人したら銀狼族の元で生きて行くのだと言われて育った。だから、何も言えなくなったのだ。
ゼインは強く握り締めているシアンの手に、自身の手を添えた。難しく考える必要はない。ただ、一緒に生きて行けばいい。互いの両親も、銀狼族の族長も理解を示してくれている。だから、柵など考えなくてもいいのだ。
「でも……っ」
「シアンの元に帰れって言われた」
シアンは驚きに、弾かれたように顔を上げた。誰がそんなことを言ったのだろうか。
「祖母さんが言ったんだ」
シアンは目を見開いた。
ゼロスの母親は銀狼にしては、かなり変わった感覚の持ち主であるようだった。零れ落ちた言葉は、到底、銀狼が口にしないような言葉だ。現に、叔父の母親は、生まれた子は銀狼族で育てるべきだと口を出してきた。当然、祖父と叔父、果ては、父親までもに否定され、身の置き場を失いそうになった。それに、救いの手を差し伸べるだけの、懐の深い人物だったのだ。
「俺も初めて親父の母親であることを知ったんだ」
ゼロスとよく似た容姿。銀狼族の特徴そのままの色。だが、考えは全くの別物で、ゼインは戸惑った。
「だから、言葉に背を押されて、戻ってきたんだ」
ゼインは静かにそう言った。
もし、あの言葉がなかったら、ゼインはまだ、銀狼族に居ただろう。シアンの元に行きたいとは思っていても、行動を起こす踏ん切りがつかなかった筈だ。
「あの時、誓ったように」
ゼインはアレンに、シアンを守ると誓った。それは、誓う以前の問題だったが、アレンには別の意味が込められていたのではないだろうか。ゼインはアレンの特殊なの能力を知っている。その力は、公にはされてはいないが、特殊な能力に違いない。
ゼインの母方の曾祖母が、その力を持っていた。吸血族でその能力を発揮出来るのは、シアンの父親のアレンだけなのだ。ただ、血族や近しい者を正確には視ることは叶わない。おそらく、本能的に視ないようにしているのだ。
「もう、守らせてはくれないのか。シアンの側に、俺の居場所はなくなってしまったのか」
シアンは視界が涙で霞んだ。なくなることなどない。離れて生きていくことになったとしても、シアンの一番はゼインだけだ。ゼインが勘違いしたレイへの想いとは違う。
シアンは小さく首を横へ振った。側に居てくれるのなら、何より、側に居てもいいのなら、側に居たい。握り締めた左手に添えられていたゼインの手を握り返した。
失ったと思っていたモノは、失っていなかったのだと思いたかった。ただ、独り善がりの勘違いだと、そう、思っても非難を浴びたりはしないのだろうか。シアンは躊躇いがちに口を開く。
「……側にいて………」
零れ落ちたのは、本心だった。家族の元に帰ってきても、自分が異質なのだと、無意識に思っている部分があった。アレンもシオンも、姉妹達も、昔と変わらず接してくれているが、シアンの中の何かが変化してしまったのだ。
一度持ってしまった違和感は、どうやっても拭えなかった。活動時間が日中に変わってしまったのは、植物の手入れは太陽があるうちが好ましいとアレンが言っていたからだ。だが、それは、シアンにとってありがたい言葉だった。何故なら、日中は家族は休んでいる。顔を合わせることが少なくなる。
シアンがそう感じていることを、アレンは気が付いているだろう。シオンも聡いので判っている筈だ。
だが、姉妹達は違うだろう。まだ、成人には達しておらず、無邪気にシアンを慕う。銀狼族の中で、隔離されていたシアンは、他との接触が苦手になってしまっていたのだ。
「……許されるのなら」
シアンは小さく呟くように言った。ゼインはシアンの手を握り、小さく揺すった。臆病になってしまったシアンを、怯えさせないように手を引くと、シアンは素直にゼインの腕の中に納まった。
「シアンは俺の唯一の妻だ」
代わりなど居ないと、ゼインは優しく抱き締める。シアンはきつく目を瞑ると、ゼインに抱き付いた。失ったと思っていた場所。諦めて、諦めを甘受した。その思いを払拭するように縋り付く。
「二人で生きて行こう。黒の長様に許可を貰って」
銀狼族に帰るつもりはない。帰ったところで、真にシアンを受け入れてはくれないだろう。今回のことで、あからさまな態度は取らないだろうが、表面を取り繕うだけで、根本的に変わる訳ではない筈だ。
シアンはゼインの言葉に頷く。あの場所に戻ることは出来ない。戻れば精神的な負担が大きくなる。何より、萎縮してしまうのは、火を見るより明らかだったからだ。
銀狼達は変わって行かなくてはならないが、今、それを求めることは無理だ。二人は切っ掛けでしかなく、変化は、次の世代が担う。
二人はただ、互いの存在を確認するように、抱き締めあった。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
【R18】もう一度セックスに溺れて
ちゅー
恋愛
--------------------------------------
「んっ…くっ…♡前よりずっと…ふか、い…」
過分な潤滑液にヌラヌラと光る間口に亀頭が抵抗なく吸い込まれていく。久しぶりに男を受け入れる肉道は最初こそ僅かな狭さを示したものの、愛液にコーティングされ膨張した陰茎を容易く受け入れ、すぐに柔らかな圧力で応えた。
--------------------------------------
結婚して五年目。互いにまだ若い夫婦は、愛情も、情熱も、熱欲も多分に持ち合わせているはずだった。仕事と家事に忙殺され、いつの間にかお互いが生活要員に成り果ててしまった二人の元へ”夫婦性活を豹変させる”と銘打たれた宝石が届く。
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
【R-18】クリしつけ
蛙鳴蝉噪
恋愛
男尊女卑な社会で女の子がクリトリスを使って淫らに教育されていく日常の一コマ。クリ責め。クリリード。なんでもありでアブノーマルな内容なので、精神ともに18歳以上でなんでも許せる方のみどうぞ。
連続寸止めで、イキたくて泣かされちゃう女の子のお話
まゆら
恋愛
投稿を閲覧いただき、ありがとうございます(*ˊᵕˋ*)
「一日中、イかされちゃうのと、イケないままと、どっちが良い?」
久しぶりの恋人とのお休みに、食事中も映画を見ている時も、ずっと気持ち良くされちゃう女の子のお話です。
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子
ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。
Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる