浅い夜 蝶編

善奈美

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Ⅰ 月光蝶

三章

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 翌日、ベンジャミンと共に部族長の館を訪れたルーチェンは、一昨日を思い出し、眉を顰めた。心無い言葉を投げつけられた場所。二度と姿を表さないと、啖呵を切った場所だ。
 
 ベンジャミンはルーチェンが逃げられないように、右腕で抱き上げていた。
 
 静かに開いた扉から顔を出したのは意外な人物。流れるような薄い色合いの金髪、水の色を宿した瞳。
 
「リムリスが待っているわ」
 
 そう言いながら、館に招き入れてくれたのはアリスだった。ベンジャミンは驚いたようにアリスを凝視する。

 静かに扉は閉められた。ベンジャミンはゆっくりとした動作でルーチェンを下ろす。
 
「意外って表情ね。最近、体調もよいし、リムリスからも、館と敷地内なら出歩いて良いと言われているのよ」
 
 アリスは言いながら、二人を促し歩き出した。何故、アリスは現れたのだろうか。ベンジャミンは探るようにアリスの背を見詰める。
 
「他意はないわよ。ただ、ルーチェンに会ってみたかっただけ」
 
 アリスは前方に視線を向けながら、ぽつりと呟いた。薔薇の事が解決した後、当然、ルーチェンの事が気がかりだった。

 アリスは薔薇のために生まれた。だから、薔薇が切り離された時から、元の流れに戻ったとき、月読みの能力を黒の長に封印してもらった。それは、半永久的に力を抑えつけ、二度と使えなくなってしまう方法だった。消し去る訳ではないので、魔力自体は消えない。ただ、月読み独特の魔力が抑制されるのだ。
 
「私はルーチェンが幸せになる姿が見たいの。幻の姿ではなく、この目で」
 
 アリスは立ち止まると振り返った。
 
「月読みの力が視せた不確かな未来ではなくて、現実を確かめたいのよ」
 
 ベンジャミンは目を見開いた。

 ルーチェンは驚きしか浮かばなかった。アリスが月読みとして生きていた頃、二人はまだ、幼かった。
 
 ルーチェンの両親とベンジャミンの兄夫婦が巻き込まれた出来事は、今でも鮮明に覚えている。アリスは必ずと言っていいほど、アレンを巻き込もうとしていた。
 
「おそらく、アレンも漠然と何かを視ているんじゃないかしら。私とは違うから、はっきりは視えていないでしょうけど」
 
 アリスはそう言うと再び歩き出した。
 
「過去は繰り返さない」
 
 アリスは静かに告げた。

「そうは思っていても、生があり、知恵をもつ者は愚かな過ちを繰り返してしまう。頭では判っていても、刻み込まれた癖はなかなか消えないわ」
 
 アリスはある扉の前で立ち止まる。振り返ると二人を見詰め、微笑んだ。
 
「過去の癖をもたない貴方は彼女にとって、かけがえのない存在でしょう。だから……」
 
 アリスは一旦、言葉を切った。
 
「……だからこそ、全てを変える力をもつわ。大丈夫よ」
 
 アリスは穏やかだった。もう一度扉に視線を向け、軽くノックすると、返事を待たずに扉を開く。

「どうしたんです」
 
 姿を現したアリスに黒の長は訝しむ。そして、アリスの後方にある気配に視線を向けた。其処に居る存在に目を細める。
 
「お入りなさい」
 
 黒の長は落ち着いた声音で二人を誘う。
 
「私は席を外すわね」
 
 いくら部族長の妻とはいえ、特殊な状況でなければ、《婚約の儀》を見ることは叶わない。だが、黒の長はアリスを呼び止めた。
 
「私以外の、証人が必要です」
 
 黒の長はそう言うと、三人が室内に入るのを確認し、入口近くに控えていたシンに扉を閉めるように指示した。

「では、始めましょうか」
 
 黒の長は黒い微笑みを二人に向けた。ベンジャミンは見慣れているが、ルーチェンはそうではない。本能的に恐怖を感じ取り、体が震えた。本当ならベンジャミンに縋りたい。でも、唇を噛み締めることで何とか耐えた。
 
「此方にいらっしゃい」
 
 だが、ルーチェンは首を横に振った。もし、一線を越えてしまったら、取り返しがつかない。ベンジャミンを縛り付けることなど、出来る筈がないのだ。
 
 ルーチェンの様子に黒の長は溜め息を吐く。

 ベンジャミンはルーチェンを見下ろすと、徐に抱き上げ、黒の長の傍らにある、執務机の上に座らせた。流石のルーチェンも驚き、固まるしかなかった。
 
「いい方法ですね。よく見えます」
 
 黒の長は微笑み、いつの間にか手に短剣を持っていた。何の断りもなくルーチェンの左手を掴むと、躊躇うことなく薬指先に刃を走らせた。
 
 一瞬きたのは鋭い痛み。その後に指先にともったのは熱だった。ルーチェンは呆然と黒の長を見詰める。その先で、黒の長はベンジャミンにも同様に、左手の薬指先に短剣の刃を走らせていた。

「儀式を」
 
 黒の長は二人を交互に見詰め、一言言った。ベンジャミンはルーチェンの左手首を無造作に掴み、躊躇うことなく、血に彩られた指先を口に含んだ。慌てて、左腕を引いたのだが、空気に触れた薬指先が、ひやり、と冷たかった。
 
 ベンジャミンはルーチェンの顎を無造作に掴むと、強制的に口を開き、自分の左薬指を口にねじ込んだ。まるで、拒否することは許さないという、強い態度だった。
 
 しかも、黒の長もアリスも、扉近くに控えているシンも、ただ、その光景を見詰めているだけだ。

 拒絶したくとも、力で勝てる筈はない。魔力も、ベンジャミンに勝てる要素など、一つも持ち合わせてはいない。
 
「済みましたね。では、目の前で、治療なさい。判っていますね」
 
 黒の長はベンジャミンを凝視した。ベンジャミンは目を細めると、小さく頷く。徐に、左手首を露わにすると、いきなり噛み付いた。
 
 ルーチェンはただ、見ているしかない。ベンジャミンが何をしようとしているかなど、想像すら出来ない。
 
 ベンジャミンは自分の血を口に含むと、ルーチェンの顎を再び固定し、上向かせた。

 いきなり触れ合った唇。だが、それだけではなかった。こじ開けられた口から、甘い液体が注がれる。駄目だと思っても、体は本能に従順だった。反射的に飲み込んでしまったのだ。
 
 ゆっくりと離れていった唇に、ルーチェンは両手で自分の唇に触れた。
 
「見ましたね」
 
 黒の長はアリスとシンに視線を走らせると、そう、確認した。二人は小さく頷く。
 
「ベンジャミン、受理されましたよ。これからどうなるかは、お前達次第です。判っていますね」
 
 ベンジャミンは頷いて見せた。

「ですが、これだけは守ってもらいます」
 
 黒の長はすっと、目を細めた。ベンジャミンは探るように黒の長を見やる。
 
「ルーが成長を始めたら、両親の元に帰しなさい。判りますね」
 
 ベンジャミンはあからさまに顔をしかめた。何故だと、言葉にしなくとも、態度が表していた。
 
「今はまだ、少女の体です。お前と居たとしても微笑ましいで済むでしょう」
 
 だが、成長を始めたら話は別だ。必ず、いちゃもんを付ける輩が現れる。しかも、ルーチェンは紅薔薇の娘だ。

 体の成長が止まっているから、誰も気にしていない。では、成長し、大人の体を手に入れたらどうなるだろうか。
 
 女性として、何一つ問題がなくなれば、名乗りを上げる者が出てくる。今更だと言うかもしれないが、女性が少ない吸血族は、今までの心無い言動を無視してでも、ルーチェンを手に入れようとするだろう。
 
 薔薇の血は子孫を残そうとする。他の女性よりも、確実に子孫を残す血筋だ。だからこそ、両親の元に戻し、はっきりと言ってもらう必要がある。エンヴィならば、黒の長が言わんといていることに気が付くだろう。

「これは理屈ではないのですよ。一族の中で、ルーは未だに見た目で認識されています。年齢ではないのですよ。お前に対して勘違いをしていた娘達同様、ルーに対しても勘違いする若者が出てくるのは、考えなくとも判る事実です」
 
 ベンジャミンの表情が険しくなる。
 
「……正式に婚約をしても」
 
 ベンジャミンは唸るように詰問する。
 
「正式、とは言っても、治療が目的だと判りますからね。それに、ルーは薔薇の娘で薔薇ではありません」
 
 薔薇ならば、皆は諦めるだろう。

「お前は医者です。吸血族の現状を誰よりも理解しているでしょう。お前の親の代より前の男達でさえ、婚姻していない者達も居ます。誰もが自分の血を残したいのですよ」
 
 そんな中、薔薇と言う存在が現れ、子孫を残す能力に長けていると知れば、何としても血筋に連なる者を手に入れたいと考える。利己的と言われればそれまでだが、そうなってしまったのは、吸血族が犯した過ちの代償なのだ。
 
「今回のことで、感に障ったのでしょうが、いつものお前なら、言われずとも判った筈です」
 
 黒の長は冷静に言ってのけた。

「……みんな、僕を買い被ってるだけだ」
 
 ベンジャミンは唸るように言った。確かに、幼いときから、かなり特殊な環境で育った。兄嫁は普段は男性体で、満月期のみ女性となる。
 
 生まれたときからだったし、兄嫁だけではなく、他にも居たのだ。違和感など感じることもなく育った。両親からの愛情も、兄弟からの愛情も、有り余るほど注がれた。
 
 そんな環境で育ったベンジャミンは、やはり、少しばかり普通の子供と違っていた。だからといって、感情がないわけではない。

「独占欲も執着心も当たり前のようにあるし、諦めだってよくない。人並みに欲望だって持ち合わせてる」
 
 黒の長はベンジャミンを凝視する。温厚だから、何もかもが穏やかだとは限らない。その証拠に、ベンジャミンの怒りはおさまっていないのだ。
 
「判っていますよ。誰も否定はしていません」
「みんながみんな、僕は温厚だと言う。違うと、僕自身は言い切れるのにっ」
 
 憤ったように、言葉を吐き捨てた。何時だって、言いたいことはあったが、アレンが先に言ってしまう。

 だから、言う必要がなかったのだ。それを、温厚で怒ることがないという誤解を招く結果になったのだ。
 
「ベンジャミン」
 
 穏やかに名前を呼ばれ、ベンジャミンは声の主に視線を向けた。
 
「私は言ったわ。この目で見たいと。そして、更に言った筈だわ。貴方は過去の癖をもたないと」
 
 アリスは静かに言葉を紡ぐ。
 
「もう、月読みの力はないから、新たに視ることは叶わない。けれど、過去に視たことは鮮明に覚えているわ」
 
 月読みとして生きていた長い時。当然、視えたのは薔薇のことだけではない。

「貴方達は同じ時の中で、同じだけの時を生きる。付かず離れず。それの意味するところ、詳しく言わなくても判るでしょう」
 
 アリスは遠回しに言った。直接的な言葉ではないが、理解は出来る。
 
「私の視たものは、はっきりと断定出来るものではないわ。何故なら、吸血族は薔薇が本来の流れに戻ったことで、過去とは違う道を歩み始めているから」
 
 その過程で、当然、アリスが視た未来が変わってしまった可能性は否定出来ない。だからこそ、はっきりと言い切れないのだ。

「未来は今の有り様で全てが変わっていくわ。過去にあった出来事が全ての道筋を決めていく。それは、自分自身で責任を持って行かなくては行けないということよ」
 
 アリスはすっと、水の瞳を細めた。
 
「確かに、ルーチェンは過去の存在に振り回されているわね。薔薇ではなくとも、薔薇に連なる者として、最も強い業を背負ったのは、紛れもない事実だわ」
 
 けれど、とアリスは続けた。
 
「引き寄せた未来は、その存在は間違いなく、貴女が望んだものよ」
 
 アリスはルーチェンを見詰め、言い切った。

「どう言うことです」
 
 黒の長は困惑した。
 
「私はフェルトにファジールの元に生まれるの子は四人と告げたわ。でも、正確には三人だったのよ」
 
 其処に居る者、全てが固まった。
 
「一瞬、流れていった情報。ほんの少しだけ掠めていったものよ」
 
 最初は三人だと思ったのだ。だが、違うことに気が付いた。アレンの後ろにもう一人、隠れるように存在していた。更に後ろに、もう一人。だが、その一人はファジールに連なる者ではないとはっきりと判った。

「アレンが薔薇の夫であるのは、生まれる前から判っていたわ。ただ、貴方のことだけが視えなかった。確かに存在は有るのに、私ですら判らなかった」
 
 だから、ジゼルが懐妊したことが判ったとき、ある事実に気が付いた。視えなかったのではない。視ることが叶わない存在だったのだ。
 
 ルビィとエンヴィが薔薇の運命の輪に絡め捕られ、初めて判った。視えなかったのは視てはならない者だったからだ。
 
「貴方を確定させたのはルーチェンよ。ルーチェンが貴方を作り上げた」
 
 ベンジャミンは目を見開き、ルーチェンを凝視した。

「存在する筈がなかった。在ってはならなかった。それでも、貴方は命を授かった。その意味を、よく考えて」
 
 ルーチェンは昨日、アレンが言っていたことを思い出す。アリスと同じようなことを言っていたのだ。最後は漫才のようになり、三人娘に連れて行かれたので、その後、どういった話をしたのかは判らない。
 
「……アレンさんが……」
 
 ルーチェンは呟くように言った。
 
「アレンが何かを言っていたのかしら」
 
 アリスは落ち着いた口調で問い掛けた。ルーチェンは小さく頷く。

「同じようなことを言っていました」
「やれやれ、月読みとは、厄介な存在ですね」
 
 黒の長は嘆息する。知り得たことは、余程でなければ語りたがらない。そのアレンがルーチェンに言ったと言うことは、必要だったからだ。
 
「いいでしょう。必要なことは終わりましたから、帰ってもいいですよ。でも、私が言ったことは守って下さい」
 
 黒の長はベンジャミンに釘を差した。ベンジャミンは鋭い視線を黒の長へ向けたが、向けられた本人は面っとしている。いくら凄んだところで、黒の長では効果は薄い。

 
 
      †††
 
 
「今の意味は」
 
 黒の長はルーチェンとベンジャミンを見送った後、アリスに問い掛けた。
 
「だんまりは無しですよ。今は必要な情報です」
「私が視たものは、変化しているかもしれないわ」
 
 黒の長は目を細める。
 
「知りたいのは、薔薇が元の状態に戻る前。つまり、ベンジャミンが誕生したときのことです」
 
 アリスは怪訝な表情を見せた。その当時、アリスは吸血族でありながら、月読みの力を発現させているときだ。当然、ありとあらゆる情報が、アリスの頭の中に入り込んでいた。

「存在が有り得ない者、とは」
「器となるべきモノを獲られて初めて実現するわ」
 
 アリスは遠い目をした。ベンジャミンを真に望んだのはルーチェンだ。そして、手を貸したのはアレン。
 
「何ですって」
 
 黒の長は目を見開く。
 
「おそらく、アレンが視たのは自分とルーチェンの姿だと思うわ。ただ、判っていないのではないかしら」
 
 つまり、ジゼルが子供を望んだとき、アレンは無意識にルーチェンに手を貸したのだ。ルビィとエンヴィが流れに取り込まれたときに、意識していなかった月読みの力がアレンの何かを動かした。

「今のアレンでは、無理でしょうね。あの当時、彼が月読みである事実を、誰も知らなかった」
 
 ただ一人、認識していたのは、過去の存在だ。無意識だからこそ、手を貸すことが出来たのだ。
 
「一番に必要なのは器よ。その器はジゼルの体内に宿っていた。後は促せばいい」
 
 黒の長は目を細めた。月読みだからと言うには、アレンの存在は異質すぎる。
 
「……アレンは何者です」
「アレンはアレンよ。何者でもないわ」
 
 アリスは微笑みを浮かべた。

「私が訊いている意味を理解していて、そう答えますか」
「アレンはアレンよ。それ以上に何を求めるの」
 
 黒の長は妻を探った。絶対に何かを隠している。
 
「もし、アレンが特殊な存在だったとして、今が変わるかしら。何も変わらないわ。知れば見方が変わる。ならば、公にする必要はないわ」
 
 黒の長は息を吐き出した。アレンが月読みだったという事実だけでも、かなりの衝撃だった。ファジールは納得したようなのだが、それにしても、黒薔薇の主治医の一族は普通の血筋ではないらしい。

「ルーチェンは無意識に解放を求めたわ。側にいた特異な存在を味方に。そして、あの日、初めてベンジャミンと接触した」
「ルーが生まれた日のことですか」
 
 アリスは首を横に振った。違うというのだ。
 
「両親の《婚礼の儀》当日に。ベンジャミンはルビィから祝福を受けているわ」
 
 あの日、ベンジャミンはルビィを認識し、宿る筈の命の何かを読み取った。
 
「全ては、あの日から始まったのよ」
 
 始まりは些細で、それでいて自然に始まったのだ。穏やかな時の中で、全ては決められていたのだ。

 
 
      †††
 
 
 目の前に見えるのは暗い闇だった。だが、その闇は何一つ、感情を宿していない。ただ、闇、としてそこにあるだけなのだと、ルーチェンは認識した。
 
――貴女ハ何モ判ッテイナイ
 
 耳に聞こえてきたのは憤った声だった。鋭い視線を感じ、振り返る。其処に在るのは同じくらいの体つきの女の子。
 
――吸血族ノ男ナド二、何故心ヲ許スノッ
 
 ルーチェンは驚きに、目を見開いた。その存在の色に、背を冷たい何かが這い上がる。

 同じ赤い髪。だが、瞳は冷めた薄い水の色。纏う気配は見た目に反して、どこまでも冷ややかだ。
 
――ドウシテ救イナド求メタノ……。幼イ姿ノママ、最初二望ンダヨウニスレバヨカッタジャナイッ
 
 ルーチェンは体の震えが止まらなかった。
 
 もう一人の自分。
 
 それは、間違いのない事実だった。
 
――折角、体ノ時ヲ止メタノニ、ドウシテ、成長ヲ望ノッ
 
 今の言葉で理解した。体の成長が止まったのは目の前の存在のせいだと。だが、何故、今現れたのだろうか。

「どうして、そんな事したのっ。お母さんがずっと、苦しんでいたのにっ」
 
 ルーチェンは叫び声を上げた。ルビィがずっと悩み、苦しんでいたことは知っている。授かった子が全て特殊で、憔悴しきった様子も目にしていた。
 
――ソレデモ、阻止シタカッタノヨ
 
 暗い気配が、ルーチェンの体を強ばらせた。
 
――モシ、貴女ノ体ガ生命活動ヲ停止シタラ、ソレデモ、貴女ヲ選ブト思ウノ。男ナド、己ノ欲二忠実ナ、哀レナ生キ物ジャナイッ
 
 目の前の存在に有るのは憎しみだけだ。

「……それでも、私はベンジャミンが好きなの。ずっと、ずっと……」
 
 ルーチェンはキュッと唇を噛み締める。
 
「もし、ベンジャミンが別の誰かを選んだとしても、恨むつもりはないわ。誰だって、心には忠実でありたいもの」
 
 目の前の存在は悲しげな表情をした。何にたいしてなのだろうか。
 
――ゼロスニハ会ッタノ……
 
 急に出てきた名前に、ルーチェンは困惑する。今のゼロスの筈はない。では、前の存在のことを問うているのだろうか。真意が読めなかった。

――ゼロスハ吸血族カラ離レテ尚、私二干渉シタワ
 
 目の前の存在は、苦渋に顔を歪めた。
 
――自分ダッテ苦痛ヲ強イラレタノニ、沢山ノモノヲ失ッタノニ、最後ニハ笑ッテタッ。ドウシテヨッ
 
 ルーチェンは初めてしっかりと目の前の存在を見詰めた。ルーチェンが失った長い髪、氷を思わせる薄い水の瞳。頑なに全てを拒絶し、それでも、何かに飢えていた。
 
「私はベンジャミンが幸せなら、身を引いてもいいと思ってる」
 
 ただ、静かに語り掛けた。成長を止めたのが自分の意志でなかったにしろ、現実は変わらない。

「誰かの不幸を望めば、自分に返ってくる。それが判らないほど子供じゃないわ。だから、私は貴女が心安らかに眠ってほしいって思ってる。でも、この体はあげない」
 
 目の前の存在は目を見開いた。
 
「この体は、お父さんとお母さんが私に授けてくれたものだから。貴女には貴女の両親が居たんだもの。だから、完全に明け渡す気はないの」
 
 でも、一緒にありたいのなら、居てもらってもかまわない。それで、体が成長しないというのなら、仕方のないことだ。いくら諭しても、感情は簡単には変えられない。

 目の前の存在は瞳に涙を溜めた。零れ落ちそうな雫を見詰め、ルーチェンはただ、静かに待った。
 
――男ナド……
「今は違うって言えるわ。だって、両親も他の同じ境遇だった人達も、幸せそうよ。貴女が言っていたゼロスさんも、納得して眠りに就いたって言っていたわ」
 
 レイはただ、静かな水面のように、代わりとなった存在達を、短い期間だったが見詰め、そして、穏やかな気持ちで眠りに就いた。
 
 ただ、最後にルーチェンに会いに来た。成長を止めてしまった存在に心を痛めていた。

「それに、吸血族は罰を受け続けていたんだよ。女の子が生まれないの。今は少しずつ回復し始めたけど、でも、生まれにくいんだって」
 
 ベンジャミンと会うとよく、愚痴っていたので覚えている。相変わらず男性人口は女性人口を上回り、結果、結婚どころか普通の恋愛もままならない。
 
 同性愛傾向は強いままだが、それに対しても、吸血族は柔軟だった。過去を鑑みれば、当たり前だ。何かを否定すれば、歪みが広がっていく。否定されれば、頑なになり、拒絶しようとする。

「貴女は頭から否定してる。過去と現在は違うし、吸血族だって愚かじゃない。過去と向き合って、正していかなきゃいけないことは、正そうとするだけの気持ちがあるのよ」
 
 だから、恨むつもりはない。過去のルーチェンが負った傷がどれほど深いのか、ルーチェンでは推し量れない。ならば、受け入れるしかないのだ。結果、ベンジャミンを失い、自分自身が成長出来なかったとしても、受け入れようと心に決めた。
 
 髪を切り落としたときの、あの悲しい思いに比べれば、原因が判っているだけ、マシだと思いたかった。

 だから、成長の止まってしまった体を慈しもう。切り落とした髪も、また、綺麗に伸ばそう。たとえ、それが無意味なことだとしても、何もかもを諦めようとしていたあの時に比べれば、目の前の存在が心安らかに過ごせるように努力しよう。
 
――……私ヲ受ケ入レテクレルノ……、苦シメテイタ私ヲ……
 
 ルーチェンは小さく頷き、微笑んだ。この選択が導き出す未来は、どちらに流れていくのだろうか。幼いまま眠りに就く未来か、アレンとアリスが漠然と口にした未来か。だが、ルーチェンは不思議と心が穏やかなことに気が付いた。

 
 
      †††
 
 
 ベンジャミンが目覚めたとき、ルーチェンはまだ、隣で寝ていた。おかしい、と思った。まだ、数日しか経っていないが、ルーチェンは必ずベンジャミンより先に目覚めていた筈だ。
 
 慌てて身を起こし、息が止まるかと思った。ルーチェンの息が止まっていたからだ。
 
 慌てて部屋から飛び出し、両親の部屋に飛び込んだ。いきなり遠慮なしに開かれた扉に驚き、ファジールは飛び起きる。
 
 扉の前で仁王立ちしているベンジャミンを認め、首を傾げた。

 青冷めた顔色に、何かがあったと、察するのは容易だった。
 
「何かあったのか」
「ルーが息をしてないっ」
 
 切羽詰まった様子で、口早に小さく叫ばれた言葉に、ファジールは固まった。当然、隣で休んでいたジゼルも同様だ。
 
 考えられる要因は血液だが、吸血族が血液に拒絶反応を示すなど、考えられない。
 
「お前は戻れ。すぐに行く」
 
 父親の言葉に頷き、踵を返すと、ベンジャミンが出て行った。
 
「どう言うことなの」
 
 ジゼルは明らかに動揺していた。

「判らない。ルーも薔薇並に不可解な存在だからな」
 
 ファジールの物言いに、ジゼルは眉を顰めた。確かに特殊な存在だが、特別視してもらいたくない。
 
「差別してるんじゃない。ただ、普通と違うことは理解しているだろう」
 
 ジゼルは頷くしかなかった。ファジールがベッドから抜け出し、着替えている間も、ジゼルは身動ぎしなかった。
 
「すんなりいかないことは判っていた。簡単に解決するなら、とうの昔にルーは成長してる」
 
 確かにそうかもしれないが、悲しすぎるのではないか。

「想定の範囲内……、とは言えないが、必要なことなんだろうな」
 
 ファジールはそう言いおき、部屋を出て行った。ジゼルはただ、眉を顰める。もう、十分に苦しんだではないか。これ以上、苦しむ必要がないほどに。それでも、まだ、足りないというのだろうか。
 
 ジゼルもベッドから抜け出し、着替えた。居てもたっても居られなかったからだ。それに、ルーチェンは預かった大切な娘さんなのだ。不測の事態だけは絶対に避けなくてはいけない。
 
 慌てたように部屋を出、ファジールの後を追った。

 
 
      †††
 
 
 二人は対峙し、しばらく互いを見詰めていた。今ならば、判る。ルーチェンの中に、もう一人は居たのだ。ただ、気が付いていなかっただけ。だから、ルーチェンの気持ちは判っている筈だ。
 
 気が付いていなかったルーチェンとは違い、もう一人はずっと、見続けていた。見ていることしか出来なかったのだ。
 
――ジャア、貴女ノ中二住マワセテクレル……
 
 沈黙を破り、彼女は言った。ルーチェンはただ、頷く。言葉など必要ない。必要なのは、心を開くこと。感情の無い闇は、明け透けなく全てを晒す。

 もう一人は一度きつく両目を瞑る。拒絶し、他を周りを見ようとしていなかった彼女とは違う。ルーチェンは現実をありのままに受け入れようとしている。
 
 それは、そう育てられたからだ。両親や、周りにいた大人達から学んだからだ。何をしなくてはいけないのかを、無意識に選び取るだけの能力がある。
 
 彼女はゆっくりとルーチェンに近付く。柔らかく抱き付き、耳元で小さく囁いた。
 
 ルーチェンは軽く目を見開き、顔を見ようと視線を向けたときには、その姿は薄くなり、淡い光を放っていた。

 光の粒子に姿を変え、ゆっくりと、ルーチェンの体に吸収されていった。
 
 囁かれた言葉。
 
 それは、意外な言葉だった。
 
――……一緒二成長シタイ……
 
 ルーチェンが心を寄せ、好意を寄せる相手を信じたい。一度だけでも、信じてみたいと。
 
 ルーチェンはゆっくりと自身を抱き締める。そして、ふわりと頬に触れる存在に体が固まった。失った髪がそこにあったからだ。左目に感じる違和感に、咄嗟に触れたが、見えない以上、確認のしようがない。

 足元に波紋が広がる。それは、ルーチェンを中心に広がり、淡い光が灯る。
 
 何かに導かれるように上空に視線を向けた。広がるのは澄んだ暗闇。何にも汚されていない純粋なる漆黒。無垢な闇は最初に感じたように感情を宿してはいない。
 
 ただ、鏡のようにルーチェンを映し出し、だが、何一つ、映し出してはいない。
 
 そして、感じる変化。体が何かに悲鳴を上げている。今まで感じたことのない負荷を感じ、泣いている。痛みはルーチェンの魂にまで届き、漠然と理解した。

 体の時が動き出した。無理矢理せき止められていた、時の流れに、体の時が戻された。
 
 動かしたのは、命の雫。もう一人が現れたのは、ベンジャミンの血を感じたから。だから、ルーチェンを諭すために現れた。
 
 でも、ルーチェンの思いに、決意に、考えを少しだけ変えてくれた。失った筈の髪も、きっと、元通りになっている。違和感を感じた左目も、変化している筈だ。
 
 一人ではなく、二人で幸せになる。拒絶していた過去を振り返り、考えを改め、未来を手に入れる。

 縛られた考えを変えるには勇気がいる。彼女はその勇気を振り絞ってくれた。だから、ルーチェンも頑張らなければいけない。二人分の想いで、ベンジャミンに接するのだ。
 
 冷たいまでに、機械的にルーチェンに接していたベンジャミンはきっと、傷付いている。何時も最大限の愛情を示してくれていた存在。
 
 だから、正面から向き合おう。背けていた全てをさらけ出してしまおう。他の女性達と話している姿を見るのは辛かったし、羨ましかった。隣に立つには、ルーチェンの姿は幼すぎた。

 アレンが強く言っていたように、成長出来るように努力をしよう。体は成長出来るように準備を始めた。後は、ルーチェンの気持ち一つだ。
 
 ずっと、大人になりたかった。年だけをとるのではなく、見た目も心同様に成長したかった。
 
 ルーチェンに出来ることは一つだけ。揺らぐことのない、強い思いを持つこと。後のことなど、後で考えればいい。今は願いが叶うように、強く祈り続けるだけだ。
 
 ルーチェンは両目を瞑り、ベンジャミンを想った。ずっと、焦がれていた存在を手に入れるために、努力をすることを、自分自身に誓った。
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