浅い夜 蝶編

善奈美

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Ⅰ 月光蝶

一章

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 どうして、こんな事になったのだろう。生まれたときから、ずっと側にいて、当たり前で、ただ、求めるだけで満たされた。
 
 少しずつ、周りは大人になっていくのに、置いて行かれる焦燥感。目線が変わっていく度、募るのは居たたまれない気持ち。
 
「ベンジャミン様はお優しいから、言えないだけよ」
 
 どうして判らないのと、公衆の面前でルーチェンは辱めを受けた。言われなくても判っていた。ベンジャミンがルーチェンをエスコートするのは、昔からのことで当たり前だった。

 どんなに着飾っても、幼い容姿では滑稽でしかない。成長するのは、死んでいく細胞だけ。
 
 ルーチェンは気丈にもその娘達に顔を上げた。吸血族は皆、容姿端麗だ。この中に、ベンジャミンの相手が居る。ルーチェンではない、釣り合いのとれた、真実の花嫁だ。
 
「ベンジャミンはただ、私が危なっかしいから側にいてくれるだけよ」
 
 両手でスカートの裾を握り締め、小さく息を吐き出す。
 
「だから、もう、みんなの前に来ない。ベンジャミンが誰を選ぶのか、楽しみにしてるわ」
 
 心の内を隠すように微笑んだ。

 踵を返し駆け出す。ベンジャミンは黒の長と、カルヴァスに会いに行っている。大広間で待つように言われたが、とても、一人ではいられなかった。
 
 女性の数より男性の数の方が多い吸血族だが、誰一人、ルーチェンに救いの手を差し伸べてくれる者はいなかった。
 
 館内の使用人達が、泣きながら廊下を走るルーチェンに声を掛けてくれる。幼いときから、黒薔薇の部族長の館の使用人達は、ルーチェンと面識があったからだ。だが、ルーチェンはその手を振り切り、急いで自宅に戻った。

 一人で帰ってきたルーチェンに、母親のルビィは驚きの表情を見せた。しかし、ルーチェンはルビィを無視し、自室に飛び込むと、扉に鍵を掛け、更に、魔力で結界まで張ってしまった。
 
 ルーチェンの魔力はルビィより上だ。結果、ルビィは弾き出されることになる。
 
「ルー。どうしたの。ベンジャミンは」
 
 扉の外でルビィが問い掛けた。 
 
「ベンジャミンはお嫁さんを探すの。私以外のっ」
 
 自棄になったように叫んだ。引き出しに仕舞ってあった裁縫道具から、ハサミを取り出し、腰まである長い髪を、無造作に切り始めた。

 髪は伸びるのに、体は成長してくれない。最初は気にもとめなかったが、最近、それが重荷になっていた。
 
 足元に散らばっていく赤い髪。座り込み、うずくまると、声を殺して泣いた。昔も今も、これからだって、ベンジャミンが好きだと、大きな声で言える。
 
 だが、成長を止めてしまったルーチェンでは、ベンジャミンの隣に立つことは叶わない。
 
 ずっと先延ばしにしていた答えを、ルーチェンは出した。もう二度と、ベンジャミンには会わない。館の外にも出ない。

 両親が眠りに就くとき、一緒に《永遠の眠り》に就く。もう誰にも、迷惑を掛けたくない。
 
「ルーっ」
 
 ルーチェンの何時もと違う様子に、流石のルビィも気が付いた。
 
「一人にしてっ」
 
 ルーチェンは悲鳴を上げた。今は、誰にも会いたくない。会えば、八つ当たりをしてしまう。惨めな気持ちを味わうことになる。
 
 ルーチェンはただ、自分の切り落とした髪を握り締めた。体が成長しないならと、手入れを怠らなかった髪。今は無意味だったと、ただ、涙を流すしかなかった。

 
 
      †††
 
 
 ベンジャミンが黒の長とカルヴァスと共に大広間に姿を現すと、当然のように娘達が駆け寄ってきた。だが、何処を見渡してもルーチェンの姿が見当たらない。
 
 話を訊くと、ルーチェンは帰ったとの答えが返ってきた。ベンジャミンは直ぐにおかしいと感じた。ルーチェンは容姿こそ幼い少女だが、中身は成人した立派な女性だ。
 
 一言の断りもなく居なくなるのは、ルーチェンの性格上、絶対になかった。
 
「やれやれ。何時かは起こると思っていましたよ」
 
 黒の長は嘆息した。

 過去の因縁なのか、体の成長をルーチェンは止めた。黄薔薇であるシオンとは違い、今のルーチェンは両親ばかりではなく、沢山の愛情の中で育ったのだ。
 
 過去の紅薔薇の娘とは違い、想う者もいる。それでも、体が成長することはなかった。
 
「……長」
 
 ベンジャミンは低く唸るように黒の長を呼んだ。理由など問う必要はない。娘達は何食わぬ顔でベンジャミンの前にいるが、確実にルーチェンを傷つけたのだ。
 
 幼いときから垣根なしにベンジャミンを慕い、打算一つないルーチェンは、彼にとって、かけがえのない存在だ。

「何ですか」
 
 黒の長はベンジャミンの気配が変わったことに気が付いていた。
 
 穏和な者を怒らせると恐ろしいことは、誰もが知っていることだ。ベンジャミンは普段、滅多に怒りを露わにすることはない。そのベンジャミンが冷たい気配を身に纏う。
 
「……もう、こんな会には来ない」
「そうでしょうね。お前には既に相手が居るのですから」
 
 黒の長はあえて、相手が居ることを強調した。下手な恋心はベンジャミンの怒りに油を注ぐ結果になる。何時までも、娘達の暴挙をベンジャミンが許す筈はない。

 ベンジャミンは誰に声をかけるでもなく、さっさと退出してしまう。当然、娘達が後を追おうとしたのだが、黒の長が止めた。
 
「それ以上、怒らせたくないのなら、諦めるのですね」
 
 黒の長が冷たい視線を投げかけた。
 
「判っていないようですが、ルーを傷付けたのは判っていますよ。ベンジャミンだから、何も言わずに出て行ったんです」
 
 もし、これがアレンやゼロスなら、間違いなく容赦しないだろう。勿論、カルヴァスも例外ではない。
 
 ベンジャミンは特殊な環境下で育ったため、達観しているところがある。
 だからといって、大切な者を傷付けられれば、怒るのは当然だ。
 
「言っておきますが、ベンジャミンはルーが心配だから、側に居たのではありませんよ。お前達とは時間の長さが違います。ルーの想いとお前達の想いでは、天地ほどの差があります」
 
 黒の長は娘達を一瞥し、遠巻きに見ていた若者達に視線を投げた。
 
「お前達も同罪です。もし、ルーが思いもよらない行動をとったら、間違いなくベンジャミンは何をするか判りませんよ」
 
 それは脅しではなかった。少し考えれば判ることなのだ。

 勘違いは仕方ないだろう。ベンジャミンははっきりと、告げてはいなかった。だが、行動を見れば判った筈だ。それに気付かなかったのは、怠慢に過ぎない。
 
「お前達では、ベンジャミンの相手は務まりません。諦めるのですね」
 
 黒の長はそれだけ告げると、カルヴァスと共に退出しようとしたが、一言、付け加えた。
 
「薔薇の血族を甘く見ないことです。痛い目にあうのはお前達ですよ」
 
 静かに、だが、冷たい声音で、最後通告のように、黒の長は言葉を投げつけた。

 
 
      †††
 
 
 ベンジャミンは部族長の館を後にし、直ぐに向かったのはエンヴィの館だった。ルーチェンが帰る場所は、両親の元以外考えられない。
 
 躊躇いもなく館に入り、数人の使用人達と当たり前のように挨拶を交わした。ルーチェンの部屋へ足を向けると、ルビィがオロオロと扉の前で狼狽えていた。
 
 遠目から扉に視線を投げ掛けると、ルビィの狼狽えている理由が判ったのだ。結界が張られていては、ルビィでは破れないだろう。ルビィに歩み寄り、ベンジャミンは扉を睨み付けた。

「……壊してもいい……」
 
 低く、唸るような声に、ルビィは驚き、振り仰ぐ。いつになく険しい表情のベンジャミンに、言われた内容が、理解出来なかった。
 
「修理代は後で払う」
 
 ベンジャミンはただ、扉を睨み付けた。普通に結界を解除することは可能だが、何故だか、怒りの方が大きかった。
 
 あの場に居た吸血族に、ルーチェンに、何より、自分自身に対して。こうなることを、予測していなかったわけではない。それでも、気が収まらなかったのだ。ルビィは扉とベンジャミンを交互に見、小さく頷いた。

 ベンジャミンは目の端に許可を認めると、一歩、前へ出た。
 
「……ルー」
 
 決して大きくはない声で、唸るように呼んだ。当然、返事など来ないことは判っている。
 
 次に聞こえてきたのは、有り得ない音だった。閉ざされていた扉がベンジャミンの目の前から消失した。ルビィは一瞬、何が起こったのか判らなかった。
 
 無造作に部屋に入ろうとしたベンジャミンが、押し返される感覚に、苛立ちを募らせた。無理矢理解除することは、術者の体に負担をかけるが、構ってはいられなかった。

 何かの弾ける音が響き、ルビィは思わず、両耳を塞いだ。
 
「出てってっ」
 
 室内から上がった叫び声に、ルビィは慌ててベンジャミンの後を追う。
 
「もう、会わないって決めたんだからっ」
 
 体が成長していないルーチェンの声はやはり、幼かったが、ベンジャミンは声よりも内容に最後の最後に残っていた、我慢の糸が切れた。
 
 ルビィは最初、ルーチェンの髪の毛に悲鳴を上げそうになったのだが、隣に立つベンジャミンの気配の冷たさに、声が凍りついた。

「……勝手なことばかり言うなよ」
 
 冷めた声にルーチェンは漸く、顔を上げた。今まで見たことも感じたこともないベンジャミンの冷たい気配。
 
 ベンジャミンは大股で近付き、無造作にルーチェンを担ぎ上げた。一瞬にして変わった視界に、ルーチェンは慌てた。
 
 だが、体格も、何より魔力で勝てる筈はない。
 
「おろしてっ」
 
 ベンジャミンは扉へ視界を向けた。其処に佇んで居たのはエンヴィだった。部屋の中を見渡し、ルビィを次いで、ベンジャミンに視線を向けた。

 何かを察したように溜め息を吐き、真っ直ぐ、ベンジャミンの瞳を見詰めた。
 
「責任はとってくれるのか」
 
 エンヴィはただ、一言、ベンジャミンに問い掛けた。ベンジャミンは、ゆっくりと頷いて見せた。
 
「好きにしたらいい。ただ、目を瞑るのは今回だけだ。次はねぇからな」
 
 ベンジャミンは判っていると、更に頷いて見せた。
 
「修理代は必要ない。ルビィ、ルーの生活必需品をバックに詰めて、後で主治医の館に届けてやれ」
 
 そう言うと、傍らに居たセルジュを伴い、館の奥に歩いて行ってしまった。

「ちょっ……、エンヴィっ」
 
 ルビィはオロオロとベンジャミンを見詰め、エンヴィの後を追った。追い付くと、呼び止める。
 
「目を瞑るってっ……」
 
 息を吐き出しながら、ルビィは問い掛けた。
 
「そのまんまだ。遅かれ早かれ、こうなるんじゃねぇかって思ってたしな」
 
 エンヴィは冷静に言葉を紡ぐ。
 
「どう言うこと」
「髪を切ったのはルーだろう。まあ、俺は女じゃねぇから、よくは判らねぇけど、何かを断ち切るときに切るんだろう」
 
 特にルーチェンは、髪を大切にしていた。

「泣いて帰ってきたことは知ってる。あの現状と状態を総合して考えると、気に病んでいたことを、言われたんじゃねぇか。だとすると、ルーはベンジャミンと決別しようとしたんだろうな」
 
 決別を決めた後の行動など、考えなくても判る。館に閉じ籠もり、誰とも会わなくなるだろう。最終的には《永遠の眠り》に就くことになる。
 
「目を瞑るのは一種の賭だ。これで、ルーの体が成長しなければ、多分、もう、成長することはない」
 
 ルビィは目を見開き息をのんだ。

「それに、ベンジャミンも無体は出来ねぇだろう。彼処には、アレンもファジールさんも居る。ジゼルさんやシオン、ちびっ子も居るんだ。間違いが起こる筈はねぇ」
 
 それに、エンヴィはベンジャミンに問うたのだ。責任を取ってくれるのか、と。ベンジャミンは躊躇うことなく頷いた。
 
「まあ、嫁に出したと思ったら、気が楽になるんじゃねぇか」
 
 エンヴィは面っと言いながら、セルジュと共に歩いて行ってしまう。ルビィは納得出来ないように息を吐き出し、ルーチェンの私室に戻った。

 室内に戻ると、ルーチェンとベンジャミンの姿はなかった。部屋の惨状に溜め息しか出ない。入り口には扉であった残骸が散乱し、ルーチェンが座り込んでいた場所には、赤い髪が無造作に捨て置かれている。
 
 ベンジャミンは普段、穏やかな性格だが、怒らせると手がつけられなくなることを、ルビィは知った。ルーチェンがこれ以上、ベンジャミンの怒りに油を注がなければ良いのだが、と内心心配しつつ、ルビィはクローゼットから鞄を取り出した。
 
 エンヴィに言われたように生活必需品を詰め込み、数着の服と下着も詰め込む。

 後はエンヴィが言うように、成り行きに任せるしかないのだろうか。とは言っても、ルーチェンは大切な娘なのだ。
 
 小さく首を振ると、ルビィは更に数着の服を詰め込んだ。もしかしたら、ルーチェンはこの部屋を使うことはなくなるのかもしれない。何ともいえない気持ちになるが、仕方ないと苦笑を漏らした。
 
 ルーチェンは最初から、ベンジャミンしか見ていなかった。だから、過去のしがらみのせいで全てを失ってほしくない。自分達が幸せを貰ったように、苦しんだ分、幸せになってほしい。それが、正直な気持ちだった。

 
 
      †††
 
 
「ベンジャミン様っ」
 
 館に戻ると、ルーチェンを肩に担ぎ上げたベンジャミンの姿を確認し、驚いた声を上げたのはレイスだった。更にルーチェンの髪の毛がざんばらに切られていて、何があったのか、軽い混乱状態に陥っているようだった。
 
 そんなレイスを無視し、ベンジャミンは階段を登り始めた。ルーチェンはと言えば、エンヴィがベンジャミンの暴挙に目を瞑ったことに、衝撃を受けている最中だった。父親は口数が少ないが、愛情が薄いというわけではない。

 それなのに、冷静に視線を走らせ、落ち着いた声音でベンジャミンに責任について問い掛けた。
 
 ルーチェンは小さな嗚咽を漏らす。抵抗さえ出来ず、連れてこられ、これからどうなってしまうのか、全く想像出来なかったからだ。
 
 いきなり、何処か柔らかい上に無造作に下ろされ、短くなった髪を一房、摘まれた。ルーチェンは驚いたように顔を上げる。
 
 そこにあるのは見慣れた筈のベンジャミンの顔。だが、刻まれているのは、見たことがない冷たい光を宿す菫の瞳。

 ベンジャミンは一瞬、目を細め、ゆっくりとした動作でルーチェンから離れ、一人、部屋を出て行った。
 
 ルーチェンは追い掛ける事が出来なかった。問うことも、同様だった。何時もは柔らかな雰囲気のベンジャミンが、鋭い気配を纏っていた。間違えたことはしていない。そう思うのに、無言で責められているような気になった。
 
 何度、見下ろしても幼い体。両手で顔を覆い、肩を震わせ小さく泣いた。両親から突き放され、ベンジャミンに冷たく見下ろされ、ルーチェンはただ、無力な自分を実感するしかなかった。

 ベンジャミンは静かに扉を閉めると、魔術を掛けた。ルーチェンを逃がさないためだ。
 
「随分と思い切ったことをしたもんだ」
 
 背後から掛けられた声に振り返る。扉に体を預け、腕を組んで見詰めているのはアレンだった。
 
「兄さん」
「許可は貰ってきたんだろうな」
 
 アレンは鋭い視線をベンジャミンへ向けた。ベンジャミンは躊躇うことなく頷く。
 
「何があった」
 
 一瞬、ベンジャミンは躊躇をみせ、だが、知り得た事実を話した。アレンは盛大な溜め息を吐く。

「お前が切れるとはね」
 
 ベンジャミンは苦笑いを浮かべる。
 
「僕だって、怒りもすれば泣きもするよ」
「我慢強いことは認めるけどな。どうする気だ」
 
 ベンジャミンは思案する。結局、最大の問題を解決しないことには先には進めないのだ。
 
「……どうしてルーは成長しないんだと思う」
 
 ベンジャミンはアレンを真っ直ぐ見詰め、疑問を投げかけた。アレンは一瞬考え、ベンジャミンの背後の扉をちらりと見やる。態度でベンジャミンを促し、部屋を出て行った。

 ベンジャミンは一瞬、ルーチェンが居る部屋に視線を向けると、アレンの後をついて行った。足を運んだのは一階にある仕事部屋だ。
 
 アレンは長椅子に腰を下ろし、ベンジャミンはアレンと背中合わせになるように、背もたれに体を預けた。
 
「色々、努力はしたんだけどな」
 
 アレンはぽつりと呟くように言った。シオンが成長した後、当然、ルーチェンの話になった。だが、ルーチェンとシオンでは、状況が違う。おそらく、ルーチェンの体が成長しないのは、過去の因縁だろう。

 だから、シオンの時に、黒の長に調べてもらった過去のルーチェンのことを、詳しく調べた。
 
 ルーチェンは祖父が眠りに就くときに、一緒に眠りに就いたと記録が残っていた。結局、幼い姿のまま、吸血族の男性を拒絶したまま、眠りに就いたのだ。
 
 しかし、今のルーチェンは拒絶などしていない。生まれ落ちてから直ぐ、ベンジャミンにのみ異常な興味を示した。ゼインやカルヴァスもいたにも関わらずだ。
 
 考えられるのが、ベンジャミンが過去と全く違った生まれ方をしたためだったのではないだろうか。

「姉さんが成長したから、ルーも成長出来ると思ってた」
「まあ、俺もそう考えてたんだけどな」
 
 アレンは息を吐き出す。
 
 ルーチェンとシオンの違いは何なのか。はっきり違うのは、未婚か既婚か、と言うことだ。
 
「……やっぱり、血か」
 
 アレンはさんざん考え、出していた答えを口にした。ファジールとも話していたのだが、行き着く答えは血液だった。
 
 過去のルーチェンは男性を拒絶し、血液を摂取していたかは謎なままだ。だが、吸血族の体に劇的な変化を与えられる材料など限られてくる。

「お前に覚悟があるなら、誰も反対はしない」
 
 アレンはちらりとベンジャミンに視線を走らせる。
 
「覚悟……」
 
 ベンジャミンは怪訝そうにアレンを見返した。
 
「もし、成長しなくても、子供を得る機会を失うことになっても、ルーをとるって言う覚悟だよ」
 
 つまり、ルーチェンにベンジャミンの血液を摂取させるという事だ。それは、賭で博打に近い。
 
「覚悟がつかないなら、この話はなしだ」
 
 アレンは小さく息を吐き出した。生半可な覚悟では、無理なのだ。

 覚悟なら当の昔に出来ている。ルーチェンが慕ってくれていた時間の長さだけ、ベンジャミンも見続けていたのだ。
 
「父さんは」
「お前を尊重すると言っていた」
 
 ベンジャミンは少しの躊躇いを覗かせる。アレンの代わりに主治医の称号を継ぐのだ。当然、後継者の話になる。
 
「気にしてるのは後継者のことか」
 
 アレンは気配で察し、問い掛けた。
 
「僕で潰えるのは……」
 
 ベンジャミンの様子に、アレンは溜め息を吐いた。そんなこと、気に病む必要はない。

「気にする必要はない。こう言っちゃあなんだが、爺さんの代で潰えていたかもしれないそうだ」
 
 アレンはファジールから聞いた話しを、ベンジャミンに語った。
 
 ファジールの父親のフェルトは、母親のジュレートが積極的に行動しなければ、結婚はしなかったようだ。前黒の長に直接交渉をし、実現したといってもいい。
 
 ちなみに、ジュレートも黒の長の婚約者の一人だったが、きっぱり、フェルト以外のところには嫁がないと言ったらしい。何とも、気の強い女性であったようだ。

「じゃあ……」
「それに、娘達が何人か産むだろう。相手がいないわけじゃないし」
 
 つまり、ルーチェンが成長せず、子供を得られなくても、アレンとシオンの娘達が男子に恵まれたら、跡を継がせればいいとアレンは言っているのだ。
 
「それに、絶対、成長しないとは決まっていない。賭けや博打に近くても、悲観的になるような状況じゃない」
 
 少なくとも、ルーチェンはベンジャミンを慕っている。ただ、体が成長しないために、ルーチェンはベンジャミンを諦めようとしているのだ。

「此処に居たのか」
 
 扉が開く音の後、ファジールの声が聞こえてきた。二人は視線を向ける。そして、ファジールの後ろに佇む姿を視界に納め、アレンは軽く目を見開いた。
 
「ルビィ」
 
 アレンは立ち上がる。ファジールはルビィを促し、室内に誘うと、扉を閉めた。
 
「……エンヴィに言われて……」
 
 ルビィは手に大きめの鞄を持っていた。それを床に置き、深々と頭を下げた。その行動に、三人は驚きの表情を見せる。
 
「娘をよろしくお願いします」
 
 ルビィは顔を上げないまま、小さな声で言った。

「本音は連れて帰りたいんだ。でも、エンヴィが言うことも理解出来るし……」
 
 ルビィはきゅっと唇を噛み締めた。
 
「彼奴がなんて言ったんだ」
「今回、成長出来ないと、もう、成長しないだろうって」
 
 アレンとファジールは顔を見合わせた。
 
「甘やかして育てちゃったし、ちょっと、後悔してるんだ」
「まあ、甘えただけどな。我が儘じゃないだろう」
 
 幼いときのルーチェンは、確かに我が儘だった。祖父母だけではなく、両親にも甘やかされ、守られ育てられたのだ。

 外見年齢が幼いので、ついつい、甘やかしてしまう。ルーチェン本人はそのことに対して自覚はないが、年齢を重ねるうちに、我が儘はなりを潜めた。
 
「嫁に出したと思えばいいって」
 
 ルビィは小さく呟くように言った。
 
「じゃあ、嫁にもらう」
 
 アレンはルビィを見据え、きっぱりと言い切った。ルビィは弾かれたように顔を上げ、目を見開く。
 
「ありとあらゆる方法を試した。それでも成長しない。後残された方法は一つしかないんだよ」
 
 アレンは小さく溜め息を吐いた。

「ベンジャミンに話したのか」
 
 ファジールは落ち着いた声音でアレンに問い掛けた。
 
「今、確認していたところだ」
「何かがあったみたいだな」
 
 ファジールはベンジャミンに視線を向ける。
 
「それで、ルビィが荷物を持ってきたと言うことは、ルーがうちにいるのか」
「ベンジャミンが自分の寝室に閉じ込めたよ」
 
 アレンは事実をさらりと口にした。その現場をアレンは目撃しているので、間違えてはいない。閉じ込めた、の言葉に、ファジールは大きく息を吐き出した。

 ルビィは固まった。
 
「切れたんだな」
 
 ファジールは判っていたように言った。普段、大人しく、物腰も柔らかで、決して怒ったりはしないのだが、たがが外れると危ないだろうと、想像はしていた。
 
「怒らせたのは誰なんだ」
 
 ファジールはベンジャミンを見据える。
 
「ルーだけに怒ったわけではあるまい」
 
 ベンジャミンはすっと目を細めた。ファジールと同じ色合いの瞳に、冷たい光が一瞬、宿った。
 
「……もう、あの手のイベントに参加しないと言ってきた」
 
 ベンジャミンは低い声音で事実だけを告げた。

 本来なら参加しなくとも良いのだが、ベンジャミンが参加すると女性の出席率が高くなる。仕方なく出席していたのだが、ベンジャミンは必ずルーチェンと共に参加していた。それは、暗に相手はいるのだと、牽制してのことだった。
 
 ルーチェンが成長せず、幼い少女の姿でも、長い時を共に過ごしていたベンジャミンには、障害にもならなかったのだ。
 
 上辺だけを取り繕う、あの手のイベントに参加する女性に、ベンジャミンは何一つ魅力を感じなかった。近付いてくるのは主治医の後継者だからだと判っているからだ。

 それなのに、何も判ろうとせず、自分達の考えを押し付け、ルーチェンを傷付けたのだ。よく、暴れなかったと、ベンジャミンは自虐的に笑う。
 
「父さんが許してくれるなら、ルー以外と結婚するつもりはないんだ」
 
 ファジールは腕を組むと、思案する仕草をみせた。
 
「判っていたことだからな。最悪、ジゼルに頑張ってもらうしかない」
 
 三人はファジールの言葉に固まった。
 
「……何考えてるんだ」
 
 アレンは父親の言葉に耳を疑った。素直に解釈するなら、ファジールはもう一人、子供をつくると言っている。

「今更、何を驚いてるんだ」
「驚くに決まってるだろうがっ。下手したら曾孫と同じ年代だぞっ」
 
 規格外とよく言われるアレンだが、ファジールとジゼルは更に規格外だ。ベンジャミンが生まれたときだって、周りを驚かせた。
 
「離れも使えるようになったんだし、問題ないだろう」
 
 ファジールはどうやら、吹っ切れたようだ。息子夫婦には娘しか産まれない。ベンジャミンがルーチェンと婚姻し、子供が出来るかはルーチェンの成長にかかっている。ならば、覚悟を決めた方が楽だというのだ。

「それに、最悪、と言っているだろう」
 
 アレンは脱力した。確かに、そう言えば、ベンジャミンの気は幾分楽になるだろう。ジゼルにしても、喜んで産むと言うに違いない。自分の両親だが、この部分に対してだけはアレンも理解出来ない。
 
「じゃあ、僕は長に説明してくる」
 
 ファジールはそう言うと、さっさと出て行ってしまった。残された三人は呆然とするしかない。
 
「本当に実行しそうな勢いだと思うのは、僕の気のせいかな」
 
 ルビィはぽつりと呟いた。

 アレンは盛大に息を吐き出す。せめてもの救いは、ジゼルがこの場所に居なかったことだ。
 
「……兄さん」
 
 ベンジャミンは不安げにアレンを見やる。
 
「明日か明後日には《婚約の儀》だ。後には引けないぞ」
 
 ベンジャミンは小さく頷く。
 
「ルビィも、帰ったらエンヴィに説明してくれ。もし、成長しなくても、花嫁として、嫁いでもらうと」
「でもっ……」
 
 アレンはゆっくりと首を横に振った。
 
「もう、これしか手は残っていないんだ」
 
 アレンは目を細めた。

「親父と話していて、行き着く先は血液だったんだよ。それも、想っている者の」
 
 ルーチェンは過去をなぞらえてしまったのだ。普通に成長してもおかしくない環境に身を置きながら、意志とは反した反応を体が起こしてしまった。
 
 シオンの場合は両親という理由があった。それさえ取り除き、本人が納得出来れば、成長する。
 
「本当に成長させたいなら、突き放してもらえるか。短い間でいい」
 
 アレンはルビィにそう言った。ルビィはエンヴィを振り返る。あの行動は実質、突き放したのだ。

「……僕は納得出来ないんだけど、エンヴィはそのつもりなんだと思う」
 
 ルビィはポツリと呟いた。誰よりもルーチェンを可愛がっていたのはエンヴィだ。セルジュは性別を確定させていないが、エンヴィの中では後継者として育てるのだという意識がある。そのせいか、ルーチェンと接するときと、セルジュでは微妙に違うのだ。
 
「そうなのか」
「今日だって、ルーじゃなくて、ベンジャミンに話していたし。多分、僕に生活必需品を用意するように言ったのも、そうだと思うんだ」
 
 ルビィは瞳を伏せた。

「だから、エンヴィは納得すると思うけど、成長しなかったら、責任だけで花嫁にって言ってほしくない」
 
 アレンは呆れたように息を吐き出した。責任だけでベンジャミンは怒ったりはしない。
 
「……責任じゃないよ。ルーは生まれたときから、僕のものなんだから」
 
 ベンジャミンは静かな声音で告げた。初めて見たときから、ルーチェンはベンジャミンを選んでくれた。互いに生まれたばかりの赤子だったが、判らないほど鈍感ではない。
 
「だから、姿なんて関係ないんだ」
 
 ベンジャミンは穏やかだった。

「此奴は見た目と雰囲気に反して頑固なんだよ。思い込んだら曲げない」
「ゼロスじゃないんだから」
 
 ルビィは呆れたようにアレンを見詰める。
 
「ある意味、ゼロスより質が悪いんだよ」
「兄さん。それは酷い言い方だよ」
「違うって言うのかよ」
 
 確かに否定のしようがない。
 
「まあ、悲観的に考えるな。成長を始めたら知らせる」
 
 ルビィは戸惑いながらも頷いた。今は任せるしかないのだ。ルーチェンをただ生きているだけの存在にはしたくない。

 そう思ったのは、間違いなく本心なのだ。ならば、少しくらい、ルーチェンを突き放すことは出来る。ただ、心配なのはルーチェンの心だ。見捨てられたと思いはしないだろうか。
 
「お袋とシオンとちびっ子がまとわりつくだろうし、無体なことは絶対ない。まあ、密室では約束出来ないが」
「約束するところはそこでしょうっ」
 
 ルビィは慌てたように小さく叫び、ベンジャミンに視線を走らせた。ベンジャミンはといえば、ただ、にっこりと、当たり障りのない微笑みを向けるだけだった。
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髪の色と出自から差別されてきた騎士さまにベタ惚れされて愛されまくる王女のお話。 性描写激しめですが、甘々の溺愛です。 ※原文(♡乱舞淫語まみれバージョン)はpixivの方で見られます。

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