うさぎと患者《クランケ》

SF

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雨と劣情

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 しばし沈黙が降り、雨の音がお互いの耳に流れ込む。
「君、名前は……ってごめんね。先に言わなくちゃね。僕は本条康之。君は?」
「あ、有坂スバル……です」
「う――ん、ごめんね。やっぱり聞き覚えがないや。どこで会ったの」
 夢の中で――――
 と咄嗟に答えてしまいそうになり、有坂は一旦唇を引き結んだ。
 有坂は、事故から毎日同じ夢を見る。それは見知らぬ男と過ごす夢だ。ある時はテーマパークでスナックを齧りながらアトラクションを満喫し、ある時は靴屋やスポーツ用品の店を周り、ある時は自宅で映画を見ながら身体を寄せ合った。どこも行ったことのない場所のはずなのに、細かいディテールまで鮮明に捉えることができ、匂いや温度、食べたものの味さえ朧げに感知できた。
「会ったのは、ショッピングモール、とか、海でバーベキューしたりとか、どこかのスキー場とか……甘酒が屋台で売ってるんです。ピンク色の桜柄ののぼりが立っていて」
 本条が息を短く吸った音が聞こえ、有坂はハッとした。気色悪いと思われただろうか。頭ひとつ分高いところにある本条の顔を窺えば、目を見開き唇を微かに震わせていた。
「他には? 何か覚えていることはない?」
 彫りの深い、美しい男の顔が有坂の目を覗き込む。色素の薄い茶色い目は戸惑う有坂の顔を映した。垂れた目尻をますます下げて口をパクパクさせている。そのうち濡れた服からぞくぞくと悪寒が這い上がり、小さくくしゃみをした。
「あ、また今度にしようか。……えっと連絡先交換してもらっていい?」
 有坂はコクコクと頷き、メッセージアプリのIDを交換する。可愛らしいウサギの写真のアイコンが画面に浮かんだ。男前と表現するに相応しい本条とのギャップに有坂の頬が緩む。
「かわいいでしょ? 今度見に来てよ」
「飼ってるんですか?」
「そう。"わたあめ"っていうんだ」
「かわいっ」
 有坂はクスクスと笑う。本条は愛おしげに目を細め、ストレートの猫っ毛に手を伸ばすも、有坂に気づかれる前に指先を引っ込め傘を掲げる。
「傘ありがとう。またね」
 本条はビニール傘を広げ、肩越しに小さく手を振る。そしてネオンと傘の群れに溶け込んでいった。

 有坂は帰宅すると、真っ先にシャワーを浴びた。これもいつものルーティンである。雨のように降り注ぐ熱いシャワーを浴びながら、本条の姿を思い出す。
 本条が実在の人物であり自身の妄想でないことに、まず安堵した。そして
「あ―― ……かっこよかった……」
 壁のタイルに額をつけ頬を上気させる。有坂は恋愛対象が男か女かというより、そもそも臆病な性質で、ごく限られた人物にしか心を開かない。
 だが夢の中の本条はどこまでも優しく、自分を大切に扱ってくれた。
 だから、ベッドを共にする夢を見た時も受け入れた。初めてその夢を見た時、抵抗がなかったと言えば嘘になる。しかし指先から体の芯までゆっくりと蕩かすような愛撫にも、挿入する時の気遣いにも、事後の優しい抱擁にも泣きたくなるほど愛が溢れていた。実際朝になれば有坂は涙を流しており、下着の中では夢精していた。

 有坂は熱い息を漏らす。実在の本条は、夢の中より歳を重ねていた。今は二十代半ば頃だろうか。テノールとバスの中間の声は鼓膜を直接震わせ、捕まれた肩からは熱が伝わった。シトラスの爽やかな香りの中にほんの少しだけ麝香のようなセクシャルな芳香が混じっており、より生身の人間の存在感が増していた。現実世界に具現化した本条は、有坂が恋に落ちるのに充分な魅力を湛えていた。
 有坂は芯を持ち始めた陰茎をなぞる。夢の中で本条が触っていたように。自分の肩を抱いたあの大きな手を思い出すと、本条の手の幻が自身の手に重なって見えた。
 ゾクゾクと快感が背筋を撫でて、手の中にある自分自身はたちまち反り返った。
「はぁっ……本条、さ……」
 夢の中で有坂に囁いてきた声が、現実の本条の声と重なり頭に響く。本条の声や愛撫を身体に再現し続けるも、やがて自分の気持ちいいところを手は追い求める。本能のままにひたすら扱き続け、無意識に腰がカクカクと動いた。
 やがて目の前に白い光が点滅し始め、きつく目を瞑って本条の声や顔を思い浮かべる。
「うぅ……っ……は……ぁ……」
 真っ白な欲望が風呂場のタイルを汚した。有坂の肌は背中から肩にかけて薄っすら紅色に染まり上下している。
 多幸感に包まれていたが、段々と罪悪感も芽生えてくる。熱いシャワーを浴びているはずなのに身体から熱がひいていく。
 だがどうにもやめられず、本条のことを想って自慰行為をするのも、有坂のルーティンのうちの一つだった。

 本条からの連絡は直ぐだった。日付を越えないうちに都合のいい日時を教えてほしいとメッセージアプリに届いており、有坂はすぐアルバイト先に電話した。平日の夜は比較的人が多く、休みを取るのは容易であった。
 そして週が明けて直ぐの月曜日の夜、有坂と本条はターミナル駅の中にあるファミレスで落ち合った。
 本条はこの前と同じようなスーツ姿だった。客がまばらなファミレスの中を有坂が歩いて行くと、本条はにこやかに手を軽く上げた。
「こんばんは。学校だった? お疲れ様」
「あ、いえ、本条さんも、お仕事お疲れ様です」
 有坂はぎこちなく会釈をし、緊張しながら向かいの席に座った。
「好きなもの頼んでいいよ。この前傘を買ってもらったしね」
 本条はメニューを広げる。
「いやっ、そういうわけにはっ……ホント、気にしなくていいんですみません……」
「じゃあドリンクバー奢るね」
 本条はメニュー表に目を落とした。有坂はぐるぐると目が回るような思いだった。少しでも安くて腹の膨れるメニューを探す。手術やリハビリの費用は保険金や貯蓄でなんとか賄えたが、現在有坂の家の経済状況は芳しくないのだ。
 なにより、ずっと焦がれていた人物が、実在して目の前にいて喋っている。
「決まった?」
「あっ、まだですすみません」
「そっか。じゃあ決まったら教えて」
 本条はビジネスバッグからスマートフォンを取り出した。有坂は慌ててメニュー表に目を走らせると、一番安価なドリアを選ぶ。
 呼び出しボタンを押すと、店員がテーブルにやってきた。
「ラムステーキとライス大盛り、あとドリンクバー二つ。君は?」
「あ、シーフードドリアで……」
「あ、待ってこれ美味そう。一緒に食べてくれる?」
「い、いいですよ」
「じゃあミックスグリルと生サラミ、バラ肉のトマト煮込みも追加で」
 注文をした後、本条は有坂に世間話を振った。どこの大学に通っているのか、アルバイトは何をしているのか、好きな飲み物は何か、酒は飲める方かなど流れるように尋ねる本条に、有坂はアップアップしながら答えた。
 やがて料理が運ばれてきた。本条は最初に頼んだラムステーキとライスを平らげると、エビフライと付け合わせのポテトをいくつか取り、お腹いっぱいになったからと追加したメニューを有坂の前に並べる。
 有坂はありがたくペロリと平らげた。本条はその様子をニコニコと眺めていた。なんかパパ活みたいだなと有坂は頭の隅で思ったが、本条の気遣いのスマートさに舌を巻いた。
 会計の時も、有坂が追加分の料理の料金を払おうとすると、頼んだのは自分だからと本条が支払った。それでも有坂が食い下がると、
「じゃあ千円頂戴」
と手を出した。有坂は考える間も無く出してしまったが、後から落ち着いて計算するとどう考えても足りなかった。
 ファミレスを出て有坂はこれからどうしようかと考えながら本条の半歩後ろを歩く。本条はコンビニの前で足を止め振り向いた。
「僕の家、行くでしょ?」
 ニコリと笑いかけられ、有坂は心臓が跳ねた。
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