うさぎと患者《クランケ》

SF

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有坂スバル

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 心は何処に宿るのだろう。

 有坂スバルは毎朝思う。
 六時に起きて顔を洗い、髭を剃り、パジャマのまま洗濯物を干して朝食に牛乳をこれでもかといれたカフェオレを飲み干す。
 大学に入学すると同時に一人暮らしを始めてから、かれこれ三年は続けているルーティンだ。自分の匂いのするパジャマ、髭の生えるサイクル、ストレートで猫っ毛の髪質も変わらない。
 だが、洗面台の鏡に映った自分の顔や身体は、いまや"ほとんど他人の身体でできている"。
 今の医療の発展は凄まじい。二年前トラックに轢き潰された身体さえ再生させてしまった。その時内臓も、皮膚も、血管も神経も血液もごっそり入れ替わった。
 その手術は人相さえ変えた。吊り目気味だった目尻は少し下がり、顎の骨を整えるため削られた輪郭はシャープになり、取り替えられた角膜は虹彩の色をほんの少し明るく変え、鏡の中にはかつての有坂によく似た穏やかそうな青年が映っている。
 行動パターンも思考も匂いも声も変わっていない。だが鏡の中にいるのは自分の顔ではない。
 もちろん臓器の提供者には感謝しているし、死ななくてよかったと思っている。けれども、借り物の肉体に乗り移っているような感覚はいつまで経っても抜けない。
 しばし鏡の中の見慣れた他人と視線を交わし、有坂はいつも着ているデニムジャケットを引っ掛け、スポーツブランドのリュックを背負って大学に向かった。
  玄関を開ければ雨雲が空にのし掛かっており、空気が湿っていつもより重い。大学へ向かう足取りまで重くなる。
 その道順はいつも決まっている。最寄駅から七時四十五分発のバスに乗り、ICカードで料金を払う。途中コンビニに寄りおにぎりとコーヒーを買うのも忘れない。
「おはよ」
と声をかけてきたのは同じゼミの同級生だ。名前は覚えていない。有坂は事故で休学していたため、気づけば年度が変わって講義やゼミの面子はごっそり入れ替わっていた。
 大して話もしたことがないのに人懐こくまとわりついてくる青年を、有坂は正直煩わしく思った。
「またそれ?」
 青年は有坂の持つ鮭おにぎりとブラックコーヒーのボトルを見て言った。またとはなんだ、いつも人の買うものをいちいち見ているのかと不快感が顔を出す。
「い、いつもと同じのがいいから」
 言い返すも久しぶりに誰かに話しかけた為、最初の一言が喉に引っかかった。
 いつもの道のり、いつもの服、いつものメニュー。そうやって"いつもの"を積み重ねていけば、いつかそれが"自分"になる気がしていた。逆に、"いつもの"から外れると、自分でない何かになってしまうようで怖かった。ただでさえ、この身体はほとんどが自分のものではない。
「でもさ、」
「いいだろ別に」
 噛み付くように言えば、青年はなんだよぉ、と困ったように眉を下げる。有坂は苛つき始めた。
 変わったのは外見だけではない。味覚や心地よいと感じる音の大きさや風呂の温度、そして夜毎見る夢――――

 単に嗜好が変わっただけと言えばそれまでだが、それらの転機はすべて事故の後からだった。身体の回復とリハビリに努めている間に同級生たちは一つ上の学年になっており、ますます"いつもの"から取り残された。有坂は、自分を保つのにいつだって必死なのだ。
 青年は別の同級生に話しかけられ、有坂からすっと離れる。有坂もまた背を向けて、レジに並びいつもの値段の小銭を財布から取り出した。

 それからも、有坂はその日決まった講義を受けていつものアルバイト先へ向かい、深夜までパンの工場で働いた。焦げた食パンや形が歪なロールパンをベルトコンベアから弾く作業だ。こうした単純作業は有坂の心を落ち着かせる。すぐ辞めてしまう人間が多いらしく、一年近く続けている有坂の評判は悪くない。
 工場から駅に向かう途中に雨が降ってきた。有坂はいつもリュックに折り畳み傘を入れておりそれを広げる。
「すみません! ちょっと入らせて」
 何者かが有坂の肩を掴んだ。有坂は声に出さず驚き足がもつれる。しかし肩を掴んだ手がよろめく有坂の身体を支えた。
 有坂は傘に入ってきた男の顔を見た。彫りが深く鼻梁が高い顔はハーフのようで、髪質もパーマをかけているのか癖がある。二重瞼の大きな目が有坂の目とパチリと合った。
 有坂の頭の中に稲妻が落ちた。それは恋に落ちる音ではなく衝撃と動揺をもたらした。なんで、どうして、という疑問が嵐のように吹き荒れる。半開きになったままの口の中が乾いていく。
 スーツ姿の男は有坂の肩を抱いたまま、商店の軒下にたどり着くと
「ごめんね、びっくりしたよね」
と苦笑し抱えていたA4サイズの茶封筒をジャケットの内に挟む。大事な書類でも入っているのか、濡れたら困る代物らしい。
 有坂の心臓は、鼓動が脳に届くほど強く脈打っている。いつものことじゃない、早くいつもの道に戻らなければと思う焦りと、この機を逃してはならないという直感が脳内で火花を散らす。
「……待っててください」
 有坂は男に声をかけ、三軒先のコンビニに走った。そして数分もせず走って戻ってくる。
「これ…………」
 有坂は透明なビニール傘を男に差し出した。
「わざわざ買ってきてくれたの?! ありがとう」
 男は戸惑いより喜びを露わにしており、有坂はその笑顔にホッとした。そして確信を持つ。

「あの、俺、あなたと……会ったことがある気がします……」

 
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