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14.星雨

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「・・・手を出さないと、言ったのにな」

顔を離すと、楓は自身を嘲笑するように言った。

「・・・いいよ、そんなの」

いや、よくはないけど、や、そういう意味じゃなくて・・・
と、豊高はぼそぼそ呟いていた。
中腰の姿勢が辛くなり、楓の座る椅子に片膝を乗せる。余計に身体が密着し、楓の肌の匂いが鼻に届いた。不思議と嫌悪感は感じなかった。唇の感触が、未だに残っているのみだ。
ただ、どうにも楓の顔を見られずにいた。
頭の中はパニックを通り越し、妙に 冷静だった。ただ恥ずかしさに首筋が熱くなる。楓の鼓動も熱く、また速かった。

「すまなかったな」
「もういいよ」
「好きな奴が、いるんだろう?」

豊高の心臓が、どくんと跳ねた。
にかっと歯を見せて笑う無邪気な笑顔が浮かんだ。
豊高は目の前の美しい人物へと目を逸らす。楓のことは嫌いではなかった。それだけで充分だった。
恋と呼ぶにはまだ淡すぎる思いだったのだから。

「いいんだよ・・・」

それでも、バスタブに一滴青いインクを落としたような淡い想いだったとしても、インクが落ち続ければ水は色づき始める。

「カノジョ、いるんだって」

無理矢理頬に力を入れ口角を上げた。楓を、自分の気持ちを必死に誤魔化す。

ーーー付き合ってるって、言い切れないから

吉野の顔が浮かび、胸が痛んだ。

ーーーでも、卓・・・あいつのこと、取っちゃダメだよ

「わけわかんねぇ・・・・・っ」

豊高は歯を食いしばる。
楓の手が、頭を、頬を何度も撫でる。手のひらも眼差しも暖かい。気が緩みそうになり、豊高は息を止める。楓はそっと呟いた。

「辛いな」

息を吸った瞬間、堰が切れた。
豊高は一瞬何が起ったのかわからなかったが、滲む視界と頬を伝う冷たさに涙を流していることに気づいた。必死に拭うが溢れてポロポロと学生服の袖を転がり落ちる。嗚咽が這い上がり喉を震わせるが、唇をきつく閉ざし食い止める。
楓は腫れる瞼を擦る手を取り、声を押し殺して泣く豊高をそっと自分に引き寄せた。
楓の胸に豊高の額がつく。そのまま癖のある髪に手を埋め、優しく髪を梳いていった。楓の温度に包まれ、苦しさが少しだけ和らいだ。

「・・・センパイは、カノジョのことめっちゃ好きなんだ。でもっ、カノジョの方が、付き合ってるって言えないって」
「ああ」
「でも、センパイは、女が好きで、俺じゃ、ダメで・・・」
「ああ」
「楓っ、・・・俺、ずっとこんなんかな。
ずっと、独りの気がするんだ・・・・・・誰も、好きになれないまんま。
男が好きとか、女が好きとか・・・よく分かんなくて・・・」

楓は、根気よく豊高の話を聞いていた。
溢れる想いを、抱えていた苦しみを身体ごと受け止める。返事の代わりに、頭や背中をぽんぽんと柔らかく叩いた。
文脈は支離滅裂で、半分も理解できたか怪しかった。
鋭い感受性で受け止めてきた痛みは、聞いている側も身を切られるようで心が痛んだ。
性や愛や心といった主題は、大人でも途方もない話だった。
楓は、最後まで聞き届けた。

豊高は泣き過ぎたためか、頭蓋の中に靄がかかったようにぼうっとしていた。目の奥は熱く脳が痺れている。感情のたがが筈れてしまい、未だに涙が染み出し冷たくなった楓の服に染み込んでいく。

「・・・楓、」

豊高の声は掠れていた。

「楓・・・・・・」

囁きながら、甘えるように首に手を回した。ただ、ボロボロになった心に支えが欲しかった。
楓は微笑み、豊高の髪に口付けた。短い髪を掻き分け、耳や頬、詰襟から僅かに覗く首筋にも唇を落とす。
豊高が顔を上げれば、顎の先端を支えてキスをした。何度か角度を変えて唇を啄ばんだ後、舌で唇の間を割って入り、豊高の舌先に触れる。
顔を離して反応を伺うと、濡れた焦点の定まらない瞳で楓の顔を見つめている。
楓の仄暗い目の奥に微かな光が灯った。熱い吐息を吐き、一度きつく抱きしめる。
そしてゆっくり立ち上がり、

「ーーーおいで」

甘い声で手を差し出す。
豊高は妖艶に微笑む楓に眩暈がした。
深い瞳に引き寄せられる。光の粒が煌めく夜空の瞳に。
豊高は楓の手を取る。
星に手が届いた、とぼんやり思った。

廊下の窓からは、一粒の星の光さえ届かず暗かった。楓の持つランプだけが頼りだ。
壁に取り付けられた燭台は蝋燭がついておらず、鎌首をもたけだ蛇のような黒いシルエットだけが浮かび上がる。
どこか別の国にいるような心地だった。この屋敷はまるで幻想を生み出す装置だ。
廊下を歩くうち、豊高の脳に酸素が巡る。意識がはっきりしてきて、幻想は霧散していく。

「楓、どこいくの?」

未だ熱に浮かされる声で聞いた。
振り向かず、力強く手を引く楓に不安を覚える。
黒いカーディガンが揺れ、楓の姿は暗闇に溶け込んでしまいそうだった。闇の奥へ奥へと誘われているようで、段々怖くなる。

「楓っ・・・・・・」

悲痛な声が空気を裂く。楓は何も答えない。
背中がざわついた。顔から血の気が引いていく。

「なあ、ごめん、帰らなきゃ、俺」

ぴたりと、楓が止まった。
そして振り向く。なんの感情も感じさせない表情だった。豊高は言葉を間違えたと瞬時に悟った。

「だめだ」

抗う間もなく壁に押し付けられ、噛み付くようなキスをされる。
目を剥き思わず突き飛ばした。
が、大して距離は開かず、わずかに身体が剥がれただけだった。呼吸が浅く、早くなるが、恐怖より驚愕が勝っていた。
豊高のほほを風が掠める。壁に打ち付けられた楓の拳が震えていた。何かに必死に堪えている事がわかった。楓の身体は熱かった。
普段は中性的な雰囲気で柔らかな物腰だが、やはり男性なのだと改めて認識した。

「帰したくない・・・っ・・・」

楓の声は少し震えていた。
痣になった部分を親指の腹で撫ぜられる。
豊高は、あの時読み取れなかった楓の感情の正体を理解した。大切な人間を傷つけられた、悲しみと怒りだったのだ。
滅多に感情を出さない楓がここまで自分のために怒り、傷ついていることに衝撃を受けた。
暴れる感情を押さえつける楓とは対象的に、豊高は冷静さを取り戻していった。

「楓、・・・大丈夫、だから」

そう言うのがやっとだった。

「大丈夫」

それしか、言えなかった。楓は顔を覆う。声は震えていた。

「・・・・・すまない」
「・・・・・・ううん」
「帰せない。帰したくない」
「だから、」
「だめだ!」

吠える楓の整った歯並びが見え隠れする。
獰猛さを感じ、剥き出しの男性の部分を垣間見た気がした。

「お前を、

・・・立花康平には渡せない」

「え・・・」

なぜ、父親の名前を知っているのか。なぜ、その名前が今出てくるのか。
次から次へと想像や予測が脳から這い出てきて、頭の中で絡まっていく。楓の顔が手の影からゆっくり現れる。眉間に刻まれた溝、黒く濁った瞳。震える唇から言葉が落ちる。

「・・・・・すまない」

苦悶の表情だった。

「・・・俺は、酷い嘘吐きだ」

楓は俯いてしまった。

「・・・・・なんで?」

楓は答えなかった。

「とりあえず、落ち着けよ、どっかで座って」

近くの部屋のドアを開ければ、調度よさそうなソファが見えた。しかし部屋の奥のベッドに目を止めると、豊高は閉口しドアを閉める。が、楓が扉に手をかけ阻止した。豊高の手を引いてベッドまで連れて行き、抱き締めてそのまま倒れこんだ。整えられた真新しいシーツに身体が沈む。
ランプの光は遠い。楓の姿は黒い影になる。得体の知れない怪物に襲われている気がして、震えが止まらなくなる。

「・・・・・やめろよ」

声を搾り出す。身体は硬直していた。

「楓、どいて・・・・・」

楓の手が豊高の髪を梳いた。そんな些細な動作にさえも、声にならない悲鳴が上がる。抱擁は息苦しいほど強く抜け出せない。
そして、ゆっくり楓の上体が起こされる。
顔は見えない。ベッドに磔にされた豊高は、楓の一挙一動に神経を張り巡らせる。

「最初から、犯すつもりだった。ユタカを」

豊高の中で、何かが音を立てて崩れた。

「だが、できなかった」

徐々に目が慣れ、ぼんやりと身体の輪郭が見えるようになってきた。

「馬鹿だな、俺は」

淋しげな言葉が通り過ぎた。

「・・・・・?」
「俺が怖いか?」

楓の髪がさらりと揺れる。気配がした。少し、豊高の顔に近づいたようだ。豊高は泣きそうになりながら顎を引く。

「手遅れ・・・だったのか?」

豊高は怪訝そうな顔をする。
楓の表情も、言っていることも分からなかった。

「関係を持ったのか?」

わからない。
その一言が出ず、口をパクパクさせた。
楓は音もなく豊高にのしかかる。心臓が口から飛び出しそうになった。
だが、それだけだった。
身体を重ね、体温や鼓動や身体の奥に隠された気持ちを探ろうとしているようにも思えた。

「なぜ、そんなに怯える?」

吐息が首筋をくすぐった。豊高は呻き声を漏らし反対側に首を捻じる。楓はため息をつき、身体をずらして豊高の横に寝転がる。そのまま豊高の身体を腕の中に包み込んだ。

「暫く我慢してくれ」

豊高はきつく目をつむり、身体を強張らせる。

「・・・何もしない」

それだけ言うと、楓はじっとしていた。豊高は暫く身構えていたが、楓の動く気配はなかった。勝手に怯えている自分が馬鹿馬鹿しくなり、身体の力を抜く。
身じろぎすると、楓の腕が柔く緩んだ。
眠ってしまったのだろうか。

「楓・・・・・・」

頭の上から、ん?と柔らかな声が降る。

「楓が、怖いんじゃない。昔、その、嫌なことがあって・・・」
「そうか」

楓の胸が、ほっとしたように膨らむのが分かった。

「悪かった」
「うん」

豊高は、その場から動けずにいた。どうしたらいいのかわからなかった。また、暖房もない部屋は寒く、楓の体温が心地よかった。
豊高はそのまま微睡み、眠ってしまった。
豊高が目を覚ますと、まだ夢の中にいるのかと錯覚した。
壁紙も絨毯も淡いグリーンで統一され、朝日に照らされる部屋は、木漏れ日が差し込む森の中のようだった。
眼鏡をかけたまま眠ってしまい瞼が重い。
しばらくベッドに座りぼぅっとしていたが、ここは楓の家であり自分は眠ってしまっていたことを思い出した。よくもまあ熟睡できたものだと自分に呆れた。
そして、学校の事を思い出した。また、家に帰っていないことも。
携帯電話を開ければ画面は黒く塗りつぶされており、電源は落ちていた。吉野に会った際、アプリに繋げたままだったことを後悔する。
豊高はベッドから飛び出し廊下に出た。
並んだ窓に切り取られた朝日が、等間隔に長方形の陽だまりを作っていた 。
豊高は美しい光の回廊を歩きながら、自分がどちらから来たのか、ということに頭を悩ませていた。
しばらく歩くと、楓が正面から歩いてきた。白いシャツが眩しく、彫刻のような顔立ちがこの風景と溶け合い、絵画や映画のワンシーンを思わせる。

「ユタカ」

楓は豊高の姿を目に止めると微笑んだ。

「起こそうと思った」
「今何時?」
「8時だ」
「遅刻だこの野郎」

豊高は楓を睨む。

「俺はお前の母親ではない」

と返され黙り込んだが。
しかし、母親、というキーワードで昨夜のことを朧げに思い出す。父親の名前を知っていたこと、そして、帰せないという言葉。
抱き締められたまま眠ったことやキスをされたこと、楓の前で涙を流したことも蘇り、声が出そうになるほど恥ずかしさが込み上げた。どうかしていた、と頭を抱える。

「どうした?」

いや、あの、としどろもどろになっていると

「昨夜のことか?」

と図星を突かれた。

「なんか、ごめん!忘れて!」

豊高は走って楓の横をすり抜ける。と、絨毯から急にフローリングの床になる。その先には階段があり、豊高の上体が傾く。落ちる寸前で、楓が豊高の体を引き戻したが。背中がひやりとする。

「気をつけろ」

少し厳しい口調だった。未だ心臓がどくどくと激しく動く。

「これは、落ちるよな・・・」

豊高は楓の顔を見た。楓は瞬きし、

「・・・・・ああ、そうだな」

と口角を上げる。
その間に疑問を覚えた。
ーーー俺は、酷い嘘つきだ
もしや、階段から落ちたというのは、と思考を掘り下げようとしたがハッと我に帰り

「ごめん、行ってくる」

焦燥感が先に立ち、全速力で学校に向かうのだった。
豊高が飛び出して行った後、楓はキッチンに降り2人分用意した朝食を見て溜息をついた。しかし、バケットが一つなくなっているのを見てクスリと笑う。
だが、口角が徐々に下がっていき、ぽつりと漏らす。

「・・・・どうかしていたな」

楓も、昨夜のことを思い出していた。危うく、何もかも曝け出してしまうところであった。

「知らない方がいい・・・」

楓は、包帯が巻かれた部分に手を当てる。身震いし、自身の腕をさすった。少し乾いた楓の唇から、豊高の名前が零れ落ちた。
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