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6.涙雨

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目に、雨水が染みる。
胸がズキズキと鈍く痛む。化膿した傷のような熱を持っている。

豊高は結局傘を持たずに帰路についた。
今はマンションの廊下を、うな垂れてとぼとぼと歩いている。
エメラルドグリーンの磨かれた床には、眉間に皺を刻み、唇を結んだ、今にも泣きそうな自分の顔が映り込む。びしょ濡れになった髪から雫が滴り、時折床に映った自身の顔を濡らす。
二人の後姿が目に焼き付いている。

愛されている。愛している。
誰からも非難されることなく。

自分はあんな風になれない。
どうしようもなく焦がれた。
だが、そんな女々しい部分を豊高の小さく脆いプライドが許さなかった。
故に、豊高は精一杯強がるのだ。

いつものように無言で帰宅する。
手がかじかんで上手く力が入らず、扉は重かった。
家の中は至る所に照明が点いており明るい。珍しいこともあるものだ、と感じながら豊高は靴を脱ぐ。大抵は真っ暗か、キッチンの明かりだけが点いているかのどちらかだ。
耳を澄ませば応接間から明るく談笑する声がかすかに聞こえる。
ふと、足元に目をやれば、見覚えのない男物の革靴が置いてあることに気づいた。
きっちり揃えられた靴には雫一つついていない。
なるほど、来客か。
だが自分には関係ない。関わりたくない。早くこの冷たくまとわり付く服を脱ぎ捨てたい。
そう思った豊高はなるべく音をたてぬように自室へ向かう。
特に、応接間の前を通る時は慎重に。
ドアが閉まっていることが救いだ。
しかし、豊高の努力は無意味だったらしい。

「豊高、帰ってきたの?」

母親の声だ。
豊高はピタリと歩みを止めた。
いや、身震いをした。
軽快な足音が扉越しに近づいてきて、応接間にいた人間に自分の姿が晒し出された。
コーヒーの匂いがふわりと鼻をくすぐった。応接間は清潔で明るく、みすぼらしい自分のいる寒々しい廊下とは別の世界のように感じた。

「帰ってきたのならお客様にご挨拶しないと・・・・・」

母親は相変わらずおどおどした態度だった。豊高はそれが気に食わず、余計なことをするな、という苛立ちも手伝って、苦々しい顔でじろりと母親を睨みつけた。

「なんだ、その格好は」

威圧感のある篭った声が耳に届いた瞬間、豊高は冷水を浴びたように硬直した。
目が見開かれ苦々しい表情が弾け飛ぶ。
声の主はソファに座る壮年の男性だった。
ゴツゴツした岩が積み上げられたようながっしりした体格で、自宅だというのに一遍の隙もなくグレーのスーツを着ている。
白髪交じりの太い眉を吊り上げぎょろりと豊高を睨む。
この男性が立花家の法律であり、豊高の父親である、立花康平であった。

「京香」

豊高の母親の名前である。彼女ははい、と応える。
母親の肩がビクリと震えたのを、豊高は見逃さなかった。

「挨拶はいい。かえって失礼だ」

わかりました、と母親はドアをゆっくり閉める。豊高はその間に客に仏頂面で会釈した。単に反抗心からだったが。父親の向かい側に座る若い男性は苦笑いしながら会釈を返した。
垢抜けない雰囲気から、おそらく余程優秀な会社の新入社員か、父の大学の後輩か誰かだろう。
時折若い社員を連れてきては自慢話や説教じみたことを言う悪癖によって、さぞ周りの人間に煙たがられていることだろう。
そんな考察を巡らせる頃にはドアが閉まり、コーヒーの匂いは寸断される。
いてもいなくても変わりなかったのに。
豊高は大袈裟に溜息をつき自室に向かった。
身体がすっかり冷えてしまった。
早く温かい格好に着替えたいという願望に思考がシフトする。

談笑する声が、場を取り繕うための単なる話し声に変わったことに、豊高は気づかなかった。
溜息があちらの人たちに聞こえたかどうかは定かではない。

立花家でただ一室、豊高の部屋だけが暗かった。
豊高は電気をつけ、きっちり整頓された部屋を浮かび上がらせた。
勉強机に椅子は直角に揃えられ、洋服の一枚、ペンの一本に至るまで居場所が決まっているようだった。
豊高の几帳面な性格がよく現れている。
それとも、やや神経質と言うべきか。
豊高は学生鞄を床に放り、替えのTシャツを黒の衣装箪笥からから引っ張り出す。
衣服が床に散らかるが、今の豊高にとって着替える方が優先するべき事項だった。
豊高は上半身裸になり、Tシャツを着ようとしてはたと気づいた。
タオルがない。
確か洗面所にストックがあったはずだ。
どうせ応接間にいるのだから、と豊高は何も羽織らずに廊下に出る。
だが、玄関で先程の男性と鉢合わせてしまった。
お互い一瞬ぎょっとしたが、男性はすぐ笑顔を作りお邪魔しました、とドアに手をかける。
豊高も会釈をし、早足で洗面所に向かう。
が、豊高はふいに引き返した。
男性の手に、あの黒い傘が握られていたからだ。

近づいてきた豊高に男性は少々面食らっているようだった。

「どうしましたか?」
「すいません、それ、家の傘なんスけど」
「あ、ああ。立花さんが持って行っていいと仰ってくださったんです」

男性は傘を軽く持ち上げる。
顔には早く帰たそうな色が浮かんでいた。
ーーー人のものを勝手に
豊高は父の傲慢さに腹が立った。

「すいません、それ、人から借りたヤツなんで」

豊高は傘の柄を乱暴に掴み引ったくろうとすると、男性は驚き傘を抱え込んだ。豊高は更に荒々しく引っ張り、男性と揉み合う形になった。

「離しなさい!」
「だからテメェのじゃねえっつってんだろ!」

男性がふいに豊高を突き飛ばすと、豊高の剥き出しの背中と後頭部が思い切りフローリングの廊下に打ち付けられ、鈍い音が響いた。
男性はこれには反省し

「悪い!大丈夫か!?」

と豊高の肩を掴み起き上がらせようとする。
しかし豊高の視点からは、まるで男性が上から覆いかぶさろうとしているように見えた。
昨日の光景がフラッシュバックする。
豊高は叫び突き飛ばすと、男性は玄関の扉に身体をぶつけた。
その音に父と母が駆けつけると、玄関にしゃがみ込む男性と廊下で上体を起こす半裸の豊高が目に飛び込んできた。
母親は口を両手で覆い、父親はカッと目を見開いた。
そして豊高を睨みつける。
怒りを押し殺した声で唇を震わせた。

「恥晒しが・・・・・」

そして足音荒く男性に近づき

「うちの倅が大変失礼なことをしてすまなかった」

と頭を下げた。
お互い軽く挨拶を交わし、男性は苦々しい表情で豊高を一瞥し帰っていった。
ドアが閉まり、しんと静まりかえった玄関に、沈黙がゆっくりと、重苦しくのしかかってきた。
父親は、くるりと豊高の方に振り返り、剥き出しの腹を蹴り上げた。
豊高は目を白黒させた。呻き声すらあげる間も無く何度も蹴り続けられる。

「そんなに、私に、恥をかかせたいのか!?」

胃液が逆流しそうになり、口を塞ぐ。
それでも容赦無く足が腹に捻じ込まれる。

「お前は、うちの恥だ!
汚らわしい、汚物だ!殺されないだけマシと思え!」

豊高は閉ざされていた目をゆっくり開き、全身の緊張を少し解くと激しくむせた。

「ふん、また男を誘惑でもしようとしていたのか?」

嘲る声が鼓膜に触れると同時に、豊高は跳ね起き父親を殴り飛ばした。
傘に足を取られかけたが、それを掴み外へ飛び出した。父親の怒鳴り声が身体を駆け抜ける。
悔しさと怒りがこみ上げ、振り払うよう全速力で走った。
雨がひらすら無防備な背中に雨粒を撃ち込むが、豊高の身体は熱かった。

「畜生畜生畜生畜生畜生畜生!!!」

豊高は千切れそうなほど手足を酷使して、雨の中でもがき続けていた。足元で激しく飛沫が跳ねる。

「俺は悪くない、何も悪くない!俺のせいじゃない!!俺の・・・せいじゃ・・・」

豊高は走り続けた。
そうしなければ、押しつぶされてしまいそうだった。

身体が鉛のように重くなり、鈍い痛みが腹部に甦ってきたころ、豊高はふらふらと見知らぬ所を歩いていた。
手には黒い傘。
何故こんなもののために、と情けないやら腹が立つやらで地面に叩きつけたい衝動に駆られた。だがとっくに体力は尽き手はかじかんでいた。
頭がぼうっとする。気持ちが悪くて今にもしゃがみこんでしまいそうだ。

突然、雨が背中を叩くのをやめた。

止んだのだろうか、と顔を上げる前に、唐突に手を掴まれ身体が引っ張られた。
掴まれた部分を確認しているうちに走らされ、気がつくと雨が止んだ。
いや、建物の中に入ったようだ。薄暗くてよく見えない。
パッと明かりがついて豊高は顔を歪める。
そして傘を閉じる誰かの後ろ姿が目に留まった。

濡れ羽の黒髪、白い肌、すらりとした体躯に見覚えがあった。そして、その人物がこちらに振り向いた時はっきりと分かった。
端正な顔立ちと切れ長の吸い込まれるような瞳。
口角を数ミリ吊り上げて微笑む仕草。

まさしくあの時の、美しい屋敷の主であった。
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