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山下2
山下2-7
しおりを挟む撮影当日は、迎えに来てくれた神崎さんの車に乗った。事前にあらゆる準備を済ませてはあるが……昨日の夕食を抜いた所為か、先程飲んだゼリー飲料では誤魔化しきれない空腹感が残っていて、なんとなく心許ない気持ちだ。
朝起きて、まず花に水をやった。この花は乾燥気味に育てるといいらしいので、土が乾いてからすこしだけ水をやる。施肥もたまに液体肥料を水に混ぜるくらいで、基本的にあまり構わなくても平気だ。
畳に大きなコンビニ袋を敷いて鉢皿を置き、神崎さんと買いに行った小さな鉢植えをその上に乗せてある。日当たりのいい窓際でたくさん咲くこの赤い花の名前は、なんて言うんだっけ。花の名前なんて聞き慣れないからか、何度確かめてもすぐに忘れてしまう。スマホのメモ帳アプリを開くと、「ゼラニウム」と書いてあった。ああそうだ、そんな名前だったな。
なぜ神崎さんがおれに「花を育てろ」と言ったのかは分からないが、でも何だか、実際一緒に暮らしてみると悪くない気分だった。鑑賞目的の園芸用品種は、花の香りも大してしなくて、今までのおれの生活を邪魔してこないところがいい。
神崎さんが、「植物には音楽を聞かせるといい」とかいう、嘘みたいな話をしてくるから、おすすめされたクラシック音楽を流してみるようになった。神崎さんが言うには、結構そういう実験がされてるってことで真偽は定かではないらしいが……おれは植物に音楽を聞かせても意味はないと思う。でも、なんとなく花のそばにスマホを置いて、曲を流してみている。絶対意味はないと思うけど。
買ってやった花を枯らしていないかどうかを監視するつもりなのか、神崎さんが花の写真を撮って見せてくれと言うから、できるだけ綺麗に見えるように考えて撮るようになった。写真の明るさを調節する機能のことも覚えた。
音楽も流せて加工した写真も撮れる……おれは今までこのスマホとかいう文明の利器を、大して使ってこなかったんだなあと改めて実感した。
今日は良い天気だった。窓際の、一番日の当たるところに鉢を置いてきたから、花も喜んでるんじゃないか。既にすっかり黄ばんでしまった畳が更に焼けるのは、花の成長に比べればどうでもいいことだ。
車を運転している神崎さんの方から、ふわりといい匂いが漂ってきた。今まであまり気にしたことはなかったが、神崎さんはどんなにちょっとした用事でもきっちりと香水をつけてくる。これもすっかり嗅ぎ慣れた匂いかもしれない。神崎さんに覆い被さられているとき、ふとこの匂いが鼻孔を擽る。今日は誰とどれだけすることになるのか分からないけど、たぶん、神崎さんより香りに気を遣ってる人間はいない気がする。
以前聞いた通り、まずは抱かれに行けと言われた。その後はできれば一回くらいタチをやって、後はウケに回ればいいとのことだった。ただ流れもあるから、無理はしなくていいとも言われた。
今日もコンタクトをしている。眼鏡の方が慣れていて落ち着くから、できればコンタクトはしたくないが……おれはそこそこ視力が悪いし、撮影中ずっと眼鏡をかけているわけにもいかないから、ケースに入れて鞄にしまってある。
「夜なに食いたいか考えとけよ」
「うーん……お腹は空いてますけど、具体的に何かって言われても……今は何でも食べたい気分なんで……」
「そうか……じゃあ大通り方面にある良い寿司屋にでも行くか」
「え……いいんですか? あの辺って軒並みレビューも良いし、すごく高いんじゃ……」
「いーよ。今日は特別だしな」
返済への第一歩なので、もちろんやる気がなかったわけではないけど、高級寿司店のひと言で更に気合が入ったのは事実だ。終わったら寿司。頑張ろう。
「あの……さっき聞いた流れ以外に、こうしたらいいとか、なにかアドバイスはありますか?」
「んー……? アドバイスね……」
ちょうど信号に引っかかったところで、神崎さんは車のハンドルに腕を乗せ、クラクションを鳴らさない程度に体を預けて、分厚い唇を尖らせた。
「別にねえな」
「えー……」
「んな顔すんな。特に最初は笑顔でいけって言ったろ。ほら、ニコッてしてみろ」
言われるまま神崎さんに微笑んでみせると、向こうも笑顔になる。満足そうな顔だ。
「かわいいかわいい。まあそうだな……強いて言えば、山下が普段俺とヤッてるときのこと忘れねえなら……カメラの向こう側のやつらは、気が付くとたまに映るお前ばっかり探すようになってるはずだ。最終的にはカメラが映してるのも山下だけになってるんじゃねえかな」
「そう……なんですか……?」
「俺が言うんだから間違いねえよ」
おれは釈然としなかったが、エロ方面で神崎さんの言うことを疑う理由もない。信じきれないのは、おれが自分の見た目のことを周りが言うほど良く思ったことがないから、なんだろうか。
「ほら着いたぞ。ニコニコ愛想良くしてろよ」
「はい」
顔に笑みを貼り付けて車を降りる。今回は乱交モノだというから、スタジオもかなり大きい。簡易な組み立て式のようだがベッドも複数準備してあって、スタッフが慌しくシーツを被せている。
「監督」
「アラ♡神ちゃん♡オハヨ~♡」
「お、おはようございます」
「山ちゃんも、オハヨ♡今日はよろしくね♡」
「こちらこそよろしくお願いします」
態とらしいくらいにこやかに挨拶をしたあと、神崎さんが息を潜めて監督に小声で話し始める。
「……で、誰っすか」
「ちょうどあそこにいるわ。松原良太くんよ」
「へえ……マジでデカいですね」
「学生時代にちょっとボディビル齧ってたことあるんですって。タチ寄りって話だから、いいんじゃないかしら」
「おー、ボディビル……たしかにそれっぽいな。オイ山下」
「はい」
神崎さんはおれを引き寄せ、耳打ちしてくる。
「最初はあのリョウタってヤツに抱かれろ。今から挨拶して仲良くなって来い」
「……わかりました」
「本当に従順ねぇ」
「いいか、ちゃんといつも通り監督以外には〝シュウ〟って名乗れよ」
「はい」
「よし行ってこい」
我ながらまるで犬のようだなと思いながら、おれはトコトコとリョウタの方へ歩いて行った。途中ですれ違うスタッフさんたちにも、ニコニコと挨拶をする。スタジオの様子を見て、一旦控室の方へ出ようとするリョウタに声をかけた。
「おはようございます」
「えっ? あ、はよざいます……えっと……」
「おれ、今日出演するシュウって言います!」
昔は保険会社で営業をやってたこともある。こんな声掛けは、飛び込み営業で最初から邪険にされたときよりはずっとマシだ。
会話も、自分が喋るか相手に喋らせるかを考えて、態度を変えればいい。おれがちらりと上目で聞きたそうにすると、すぐに向こうから笑顔で返事がきた。結構話しやすい人かもしれない。
「オレも出演者です! リョウタです。よろしく」
「よろしく。リョウタくんって呼んでいいかな」
「も、もちろん! ぜひ」
「おれのことは呼び捨てでシュウって呼んで。良ければ敬語もナシにしよう」
「シュウ……」
リョウタがジッと見下ろしてくるから、神崎さんに言われた通りにニコッと微笑んでみた。
「しゅ、シュウは……シュウも、初めてなの? 今日は素人大集合ってタイトルらしいけど」
「うん、初めて……撮影って、こういうところでやるんだね」
ちらりとスタジオの方を見ると、リョウタの視線もそちらへ向かう。今日スタジオとしてレンタルされているのは普通のフローリングの一室で、そこそこ広いという以外はシンプルな部屋だ。
リョウタからごくりと息を呑む音が聞こえてきた。どうやらずいぶん緊張しているらしい。おれはすっかり冷えている大きな手を取った。
「……冷たいね。緊張してる?」
「え、あ……う、うん……いつもは熱いくらいなんだけど……」
「服の上からでも分かるくらい筋肉すごいもんね。鍛えてる人って体温高いんでしょ? おれもひと月前くらいからジムに通い始めたんだけど、まだ全然筋肉つかないな」
「ひと月じゃ変わんないよ! こっから続けんのが大事。あ、そうだ、プロテインはちゃんと飲んでる?」
「不味いやつ飲んでる……なんか飲みやすいオススメ知らない?」
「そうだなー……シュウは甘いの好き?」
「結構好き!」
相変わらず笑顔でそう言いながら、手を握る力を強める。スタジオの外へ誘導しながらちらりと神崎さんの方を振り返ると、神妙な顔で頷かれた。おれが神崎さんに紹介された人に笑顔で挨拶するとき、大抵「誰だコイツ」みたいな表情をされるんだけど、別にそんな心配せずとも全部山下修平ですよ。愛想良くしないと、例えアルバイトでも接客業はできないから。
まあ普段のテンションとちょっと離れてるのは、自覚しているところではある……
ちなみにプロテインは、神崎さんが買ってくれる、値段も効果も高くて美味しいヤツを飲んでいる。
◆
おれは身長が一七〇もないから、一八〇近くあるというリョウタと並ぶと体格差がそこそこ目立つ。
撮影が始まると、先にパッケージ用の写真を撮ると言われた。集合写真を撮り、それから個人のバストアップと全身を撮る。動画の撮影が始まってもすぐにセックスするわけじゃなくて、まずはひとりずつ簡単に自己紹介を撮られた。今日参加しているのは九人。奇数なのがいやらしい感じだ。複数人で絡めよという制作側の意図を感じる。自己紹介は本当に名前と年齢を言うくらいだが、おれは神崎さんの指示で三歳くらいサバを読んだ。
みんな同じジョックストラップを穿いている。布面積が極端に少ないパンツで、穿き方に戸惑ってる子もいた。おれは神崎さんにこういうときに使う下着や道具についてはひと通り教わっていたから、挨拶がてら控室で何人かに教えてあげた。
さあいよいよ絡みの撮影開始だ。今更恥ずかしがってまごついているヤツもいるが、おれは違う。ちらりと隣りにいるリョウタを見上げた。おれはともかく、皆の自己紹介が正しいなら、おそらくリョウタはおれのことを年下だと思っているはずだけど、実際にはこちらの方が二歳ほど年上だ。
相変わらず緊張してるらしい。ベッドは三つをくっつけて並べてあるが、九人もいるなら早めに乗っかって場所を取るに越したことはない。
「……リョウタくん」
「あっ、う、うん」
小声で名前を呼んで、部屋の真ん中に置かれているベッドに近寄る。手を伸ばしてリョウタを引き寄せ、怯える唇に吸い付いて、素早く舌を入れた。緊張してるみたいだから心配だったけど、思いの外簡単に硬くなったリョウタのペニスを薄い布地の上から形を確かめるように揉む。そのままベッドに座らせて、パンツをおろしてやった。
「わ、おっきぃ……♡」
カメラが一台近寄ってくる。聞こえてくる音や声からして、周りでも始まっているらしかった。神崎さんたちのことは信じたいけど、果たしてこの中から本当におれが一番人気になるんだろうか?
リョウタのを咥えて、できるだけ硬く育ててやりながら、でも焦らす。簡単にイかせるわけにはいかない。
「ぅ、ああ……ッシュウ……!」
「んっ、ん……♡」
神崎さんとは違う、蒸れた男の匂いがする。
「ねえ、おれのも、して……」
「うん……」
リョウタと抱き合って絡んでいるところを、一台のカメラがほとんど付きっきりで追い掛けてくる。さきほどの神崎さんの言葉によればおれはたまに映るっていう話だったはずだけど、一体どんなふうに映像が使われるんだろう。
適当なボトルに詰め替えられているローションを使って、リョウタが恐る恐る指を入れてくる。タチ寄りという話だが、そもそもあんまり男性経験はないのかもしれない。一体彼はどんな経緯でここへ迷い込むことになったのだろう。
ぎこちない手付きの割に、リョウタは慎重な訳でもなくて、中に侵入してきた指先はすこし乱暴だった。おれも慣らしてきたから……というか神崎さんに朝からちょっとからかわれてきているから、別に痛いわけじゃない。でも弱いところを預けるには不安になる態度で、おれは迷った挙げ句にもう挿れてほしいと懇願した。
突き挿れられると初めは苦しかったが、すぐに慣れた。流石に立派なものを持っているだけあって、動きが拙くてもまあまあ気持ち良い。おれの乱れた演技も嘘ばかりじゃない。ベッドに転がされ、後ろから押し潰されるようにされると、カメラがもう一台寄ってきた。顔と、結合部の辺りを丹念に撮られる。緊張はしなかった。羞恥心ももうない。ただ、鏡じゃない本物のカメラに撮られることに、どきどきした。おれはどうも撮影自体に興奮しているらしかった。
リョウタもノってきたみたいで、おれたちは時折体位を変えながらしばらく絡んでいた。
二人で絡んだあとはいよいよ他の人たちに混ざって本格的な乱交になった。時折カットがかかり、そのままの体勢で写真を撮られたりした。こういうのも、パッケージに使われるのだという。
おれは基本的に抱かれる側に回るようにしていたが、神崎さんの指示通りにふたりほど抱いておいた。覚えたテクニックが通用することを確かめるのは、純粋に面白かった。特に神崎さん仕込みのフェラは人気で、このお陰で三人以上の絡みもこなすことができた。流石に神崎さんとの練習でもここまでの人数で絡んだことはなかったけど、それなりにちゃんとできたんじゃないだろうか。代わる代わるほぼ全員を相手して、最終的に複数人に周りを囲まれたときに……神崎さんたちに言われた言葉がちらりと頭を過ぎっていく。
……今、画面の向こうで息を荒げている人たちはみんな、おれを見ているんだろうか。
激しい抽送のあと、引き抜かれたペニスを顔の前で扱かれたので、おれは黙って口を開け、舌を出した。そこ目掛けて何人かが射精する。遅れてタイミングが合わなかったヤツにはおれから吸い付いた。出されたものを口から態と零しながら、何とか飲み込んだように見せて……そこでカットがかかった。
「ん、いいわ。カット! お疲れ様! みんな良かったわよ!」
最後にまたカメラマンが入って何枚か絡みの写真を撮り、それが終わるとみんなのろのろとベッドから離れていく。我先にと体を洗いに行く者、まず自分の荷物へと向かうスマホ中毒者……そして疲れて動けないおれ。リョウタは元気そうだったが、ぐったりとするおれをジッと見下ろしている。
「……シュウ……」
「ん……なに? どうしたの」
「いや……シュウって……一体……」
リョウタの質問に体を起こし、精液を拭いながら首を傾げて問いの続きを待っていると、それが来る前に別から声をかけられた。声の方を見やると、神崎さんがタオルを持って近付いてきている。
「〝シュウ〟、お疲れ」
「あ……おつかれさまです」
神崎さんにわざとらしくシュウの名前を使われた。リョウタが近くにいるからだと思うけど……おれの方はどうすればいいんだろう。神崎さんのことをこの場で普通に呼んでいいのか分からない。なのでおれはとりあえずぺこりと頭を下げた。当然と言えば当然だけど、リョウタは神崎さんが何者なのか分からず戸惑っているみたいだった。神崎さんは厳つい見た目だから、結構圧があるだろうな。リョウタは困惑しつつも、神崎さんに挨拶を試みていた。
「あ、あの……お、おつかれさまです……?」
「あぁ、おつかれ。ほらシュウ、行くぞ」
「はい……あの、リョウタくん……何か言いかけてたけど……」
「あっいや、大丈夫。何でもない……っす」
「…………そう。おつかれさま」
「お、おつかれさま…………です…………」
微笑んでベッドから下り、大きなタオルを渡されるまま羽織った。リョウタはそれ以降すれ違ったときにも、事務的な挨拶以外は特に何も言ってこなかった。オツカレサマデシタ……って、敬語ナシでって、言ったのにな。
神崎さんからシャワールームの場所を教えられ、差し出された小さなソープのパックを受け取る。それを使用し、シャワールームで全身を洗った。ああそうか、たしかに撮影のときにはこういう物があると便利だよな……と使いながら思った。
おそらくおれが一番精液を浴びたから、至るところにこびりついている。髪も洗ってワックスも取れてしまったことだし、もうコンタクトも外してしまって、持ってきていた眼鏡をかけた。それだけですっかり誰だか分からなくなるらしく、それ以降はどこにいても監督以外に声をかけられることはなかった。
「山ちゃん、よかったわよ♡絶対また撮らせてもらうわ!」
「ほんとですか。ありがとうございます」
「ビデオができたら連絡するわね。またよろしくね~♡今日は美味しいもの食べて、ゆっくり休んで頂戴!」
「はい。おつかれさまでした。お先に失礼します」
「おつかれさま♡神ちゃんもまたねん♡」
「……おつかれさまでーす。行くぞ山下」
「はい……」
スマホでちらりと時計を見ると、結構遅い時間になっていた。もう店はどこもやってないんじゃないだろうか。そう思いながら車に乗り込んだ後、神崎さんが何処かへ電話をかける。
「えっ……本当に大丈夫ですか? すみません、ありがとうございます……はい、失礼します」
「………………」
「よし、約束通り寿司行くぞ」
「え……でも、こんな時間ですよ」
「大将が二人前だけ握ってくれるってよ。今から準備始めるっつーから、急ぐぞ。シートベルトしろ」
「は、はい」
S駅近くの大通りから一本細い道へ曲がったところには、寿司屋を始めとする和食の店が集結している地区がある。その一角に目的の高級寿司店はあった。神崎さんによれば、ここは基本的に紹介でしか入れない店らしく、予約を取るのがそもそも困難だという。しかし顔の広い神崎さんはどうも大将と知り合いのようで、頼み込むと今日の残りの食材で握ってくれることになったそうだ。
「いらっしゃい!」
「遅い時間に無理言ってすみません」
「いえいえ、神崎さんの頼みなら構いませんよ。ただ、本当に今あるネタになってしまうので、そこは勘弁してください」
「とんでもない。ありがとうございます」
店内は明るいが小ぢんまりとしていて、座席も七席ほどのカウンターのみ。既に準備を始めていたからだろう、寿司は熱い緑茶と共にすぐに出てきた。
大将が一貫ずつどの魚か説明してくれるけど、寿司屋に来た経験がほとんどないので、寿司ネタを見てもいまいち分からない。知っている魚の名前が出ても出なくても、とりあえずうんうんと頷くことしかできなかった。
「……いただきます」
「はいよ! お口に合うといいんですが」
「どうだ山下」
「お、おいひいれす……!」
程よい温度の寿司ネタが、シャリと絡んでほどけていく。明らかに質のいい脂が乗っていたのだと分かる。控えめにつけた醤油とさっぱりした酢飯、それと中のわさびがネタの脂っこさを消していて、寿司っていう食べ物の完成度の高さに思わずしみじみとしてしまったくらいだ。熱い緑茶も香ばしい。はあ。本当に日本に生まれて良かった。
神崎さんは大きな口で簡単に一貫ずつ食べてしまうが、おれがそうするのは口がいっぱいになって中々に大変だった。でも空腹に急かされるまま美味しさに夢中になっているうちに、寿司下駄の上はすっかり綺麗になっていた。腹が減ってたのもあるけど、本当にあっという間になくなってしまった。
「いい食べっぷりですね! よろしければこちらもどうぞ」
寿司下駄の上に追加で乗せられた一貫に、神崎さんが目を丸くする。
「え、いいんですか大将……」
「まあこれ以上はもうないんですけどね」
「いえ、本当にありがとうございます」
「…………あ、ありがとうございます……」
「お前これが何か分かってるか?」
「………………」
多分マグロ系だと思うが、答えずに黙っていると大将が笑顔で説明してくれた。
「こちら、大間産天然本鮪の大トロでございます」
「……お、大トロ……」
「食べたことないだろ」
「ないです……」
神崎さんは神妙に大トロを見つめるおれを誂うように笑って、自分の寿司下駄に置かれた分をまた一口で食べた。
「ん~! んまい!」
「いただきます……」
たしかによく見ると、身が白っぽいなと思ったのは全部脂だったんだと分かる。つけた醤油がほとんど弾かれる……
おれもひと息に口へ入れると、何がなんだか全く分からないうちに、強烈な旨味が舌を襲ってきた。本当に身はたちまち溶けてなくなってしまった。後はその脂と旨味が絡んだシャリが口の中に残り、それを噛み締めていると、なんだろうな……幸福を感じる……気がする。
「はぁ……美味しい……」
呆然と呟くおれを神崎さんと大将が笑顔で眺めていて、寿司は美味しかったのに、最後はどうにも複雑な気分だった。
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