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《第4期》 ‐鏡面の花、水面の月、どうか、どうか、いつまでも。‐
『最初からそこにあった』 4/6
しおりを挟む「くっ……のっ……待って、待ってったら!!」
教室棟の屋上。アサカはついにテトを追い詰めた……が、しかしメルという荷物を咥えているのにも関わらずテトは素早く、伸ばしたアサカの両腕の隙間を風のようにすり抜け、アサカの背後へと走って行ってしまった。
「くそ、くそ、くそ……!」
やはり人間の身で猫から獲物を横取りするのは困難だった。それにこんな危険な場所ではアサカも転落を避けるため全力で動き回れない。
だが。
メルは生きていた。テトにずっと首根っこを咬まれてこそいるが、近づいた時、彼女はアサカと確かに目が合い、小さく鳴いた。これは良いニュースだった。
それに。
「いい加減にしなよ。あんたの逃げ場は限られてるんだから……」
アサカにも全く勝算が無い訳ではなかった。テトが一体どこから屋上に上ったのかは分からないが、さすがにネズミとしては柄の大きいデグーのメルを咥えたままでは校舎の壁伝いに一階まで降りるのは危険なはずで、現にテトは屋上の隅に追い詰められた時、飛び降りようとしなかった。
だからアサカはとにかくテトを追い掛け回す事にした。以前ひづりから、猫はあまり体力が無い生き物なのだ、という話をアサカは聞いた覚えがあった。人間では猫に追いつけないとしても、全校生徒の中で一番足が速く体力もある自分なら「追い掛け回す程度のこと」なら出来る。そうしてテトの体力を削り、メルを諦めさせられれば、この勝負は味醂座アサカの勝ちなのだ。
「観念しなさいってばっ!」
アサカは姿勢を落として駆け出し、一気に距離を詰めた。テトがちらりと振り向き、逃げ出す。
教室棟の屋上を半分ほど走った辺りでテトは方向を変え、中央棟の屋上へと向かった。逃げ場としてはそちらしかないのでアサカも予定通り速度を落とさないまま方向転換し彼女を追った。
しかし。
「あっ!」
中央棟の真ん中に差し掛かった辺りで急にテトが右手に飛んだ。
屋上から、飛び降りた。
「あ、あ、あ」
そこでアサカも思い出した。そう。中央棟を挟んだ中庭の反対側、校庭へと繋がるそこには、二本の背の高い木と、生徒らが昼食の場に使ったりする小さな東屋があった。テトはまず木に飛び移ったあと、傍にある東屋の屋根へと着地し、メルを咥えたまま一階へと逃げ切ったのだった。
テトは屋上のアサカを振り返った。追って来られないだろう、と言っているようだった。彼女はそのまま特別教室棟の裏手へ走って行った。
アサカはテトと同じように飛び降りようとして、すぐに思いとどまった。
無理だ。あんなの人間に真似出来る芸当じゃない。やり直しは出来ない。失敗したら確実に死ぬ。
けれど今から特別教室棟の屋上に向かってフェンスを登り校内へ戻ったのではどう考えてもテトを見失ってしまう。テトに、メルを殺して食べる時間を与えてしまう。
迷う時間さえ無い。やるなら今しかないのだ。でもどうやって──。
「……!!」
その時、アサカは『今日が何の日だったか』、それを電撃のように思い出した。
そこからの行動は早かった。アサカは駆け出し、全身、爪の先に至るまで、鋭く神経を研ぎ澄ました。
やれる。私ならやれる。私が人より運動神経が良いのはこういう時のためのはずだ。今こそラミラミさんとメルちゃんに報いるんだ。ひぃちゃんの隣に胸を張って立てる自分になりたいなら、自分の得意分野でだけは絶対に負けるな。やれ。やれ! やれっ! アサカは呪文を唱えるようにそう心の中で自分に言い聞かせた。
そして中央棟の屋上を馳せ、特別教室棟のフェンスが目の前まで迫ったところで、アサカはその身を一気に宙へと投げ出した。
中庭側へ向かって。
「うおおおおっ!!」
──今日は文化祭。特別教室棟の中庭側の外壁には、三階からぶら下げられた数本の長い垂れ幕があった。
アサカはその一本に掴まってぶら下がると、大きく揺れたところで離して隣の垂れ幕にしがみつき、また揺れたところで離して隣にしがみつき、を繰り返し、複数のターザンロープを渡るようにして一階中庭へと着地した。
心臓がばくばくと鳴っていたがアサカはそのまま中庭を駆け、渡り廊下を飛び越えた。
「居た! もう逃がさない!」
校舎の角を曲がると、いつかの様に、花壇の並ぶ校舎裏にテトは居た。彼女は鉢合わせたアサカを見るなりメルを咥えたまま身を翻して走り出した。アサカも、地上なら遠慮なく全力で追い掛けられる、と足に力を込めた。
しかし突然、足首に微かだが痛みが走った。右の足首だった。上手くやったつもりだったが、どうやら先ほどの着地で少し関節を痛めたようだった。
決して走れないほどの痛みではない。だが、元々こちらが不利なこの猫との追いかけっこで、このダメージは──。
テトとの距離が広がる。せっかく、せっかくここまで追い詰めたのに。焦りからアサカは本来の自分のランニングフォームすら頭から抜け落ちていた。
と、その時だった。
犬走の先、テトが向かうちょうどその角から、ひづりと天井花イナリがひょっこりと顔を出したのだ。
「ひぃちゃんお願い!! 捕まえて!!」
アサカは咄嗟に叫んでいた。ここで逃したら今の私じゃもう捕まえられない。メルちゃんを助ける事が出来なくなってしまう。だから──。
──だが。
「あ、あれ、え? テト?」
ひづりを正面に捉えたテトは、しかしどこかへ方向転換するでもなくそのまま減速し、やがてひづりの足元でぴたりと立ち止まった。
「…………え、え……?」
アサカは呆気に取られた。
「ど、どういう事……? なんで……?」
ひづりとテトのところへ到着したアサカは、相変わらず訳が分からず首を傾げっぱなしだった。
メルは無事だった。しかもテトはメルをひづりの手のひらに渡すとそのままひづりの足元に、でん、と座り込んで毛づくろいを始めた。
「チュッ!」
メルはアサカとひづりに手を振って見せた。アサカもひづりもお互い顔を見たりメルとテトを見つめたりして、そこでやっと理解した。
「テト、もしかして、メルちゃんを私のところに連れて来ようとしていたの……?」
メルを手のひらに乗せたままひづりはテトに訊ねた。テトは特に何か答えるでもなく大きなあくびをして見せた。
アサカは思わず尻餅をついた。
なんだそれは。でも他に理由が見当たらなかった。
テトは日頃からひづりによく懐いていた。そしてメルはこれまで何度もひづりと接触があった。つまりメルにはテトのよく知るひづりの匂いがついていた。
ラミラミとはぐれたメルを発見したテトは、メルからひづりの匂いがするのに気づき、彼女を咥えてひづりの元へ向かおうとしていた。どうやらただそれだけだったらしい。
「食べようとしてたんじゃ……無かったんだぁ……」
アサカは全身の力が抜けてしまうようだった。
「テト、賢かったねぇ。ありがとうね。本当に助かったよ」
ひづりがテトの頭を撫でまわした。テトはそのなでなでを気持ちよさそうに受けていた。
「…………」
気持ちと心臓の鼓動が徐々に落ち着いていく中、アサカはその幼馴染のいつもの姿を眺め、急に頭の中がさっと晴れていくのを感じた。
そして、これまで上手く心の持ちようが分からなかった事のいちばん真ん中が見つかった気がした。
そうか。私は、ひぃちゃんと一緒に、こんな風に何かをして笑っていたいんだ。ひぃちゃんのそばで、ひぃちゃんと一緒に何かを見て、成長していくこの人生が好きなんだ。追いつこうとするんじゃなくて、ただこうして一緒に何かが出来れば、私はそれで良かったんだ。
他の道なんて最初から無かった。自分にはひぃちゃんと一緒の未来以外ありえない。こんな当たり前のことを、何で今まで自分は……。アサカは自分のあまりの馬鹿さ加減に何だか笑ってしまうようだった。
「二人とも、ゆっくりもしていられませんよ。ラミラミのところへ急がないと」
天井花イナリが言った。そこでアサカもひづりもハッとなって、テトにお礼と別れを言ったのち、みんなで体育館へと走り出した。
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