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《第3期》 ‐勇者に捧げる咆哮‐
12話 『黒猫の愛情』 1/5
しおりを挟む12話 『黒猫の愛情』
「……なんで……なんで……?」
足から力が抜け、ひづりは血飛沫が付着した《檻》の床にへたりと座り込んでうわごとの様に呟いた。靄に沈んで動かなくなった凍原坂の背中と天井花イナリの横顔とを交互に見比べる事しか出来なかった。
「駄目です!! 右脇から左肩に掛けて一直線に斬られていて、肋骨も心臓も肺も全部両断されています!! 背骨だけでどうにか上と下が繋がってるような状態です!!」
「御託はいいからさっさと治せ!! おい!! 《治癒》が使える奴は全員集まれ!! クソッ、冗談じゃない、冗談じゃないぞ……!! なんとしてでもこいつを治すんだ!! 早く!!」
「やってますよ!! でも、治せる治せないじゃなくて、もう死んでるんですよ!! 即死です!! 生きてる訳ないじゃないですか!! 人間が、《ボティス王》に斬られて……!!」
《檻》の外で《主天使》たちが凍原坂を囲みながら騒いでいた。《指揮》は額に大量の脂汗を浮かべ、《治癒》に当たる《副指揮》と激しく怒鳴り合っていた。凍原坂の周りに集った他の《主天使》たちも各々その手に《治癒魔術の魔方陣》を描いて彼の傷を診ていたが明るい表情の者は一人も居なかった。
もう死んでいる。《天使》たちの言葉が、天井花イナリの《剣》に斬られ真っ赤な血をそこら中に撒き散らしながら倒れてそれきり動かなくなった凍原坂の現実をひづりに突きつけた。
「おい《フラウロス》は!? 本当に……もうそこに居ないのか!?」
《指揮》は振り返ると悲鳴に近い声を包囲陣の方へ投げた。
包囲陣を指揮していた《副指揮》が遠くで首を横に振った。
「居ません!! 《眼》の良い者に探させていますが、やはり《認識阻害》や《不可視化》で隠れているわけではないようです!! 《フラウロス王》が《魔術》を使った瞬間も見ていません!!」
え……? と瞬きしてひづりもそちらを見た。包囲陣では《槍盾兵》と《弓弩兵》たちが皆困惑した様子できょろきょろと辺りを見回していた。《副指揮》の言う通りそこに《フラウ》の姿は見当たらなかった。
「ぐっ、く、くぅ、ううう……! そうかよ、そういう事かよ、《ボティス王》……!!」
呻き声を漏らしながら《指揮》は怨めしそうに天井花イナリを睨んだ。
「『フラウロス王を逃がした』な……!! 《契約者》を殺せば《悪魔》は強制的に《魔界》へ《転移》させられる……その《契約のルール》を利用して、お前は……ッ!! お前らが旧知の仲なのは知っていた。だから《檻》と包囲陣で遠ざけ、共闘出来ない様にしていたというのに……!! よくもよくもよくも……ッ!! 俺達が一体どれだけ準備したと思ってるんだこのクソ悪魔ッ!! 《あの方》はお前に用があるらしいが、俺達にとっちゃお前なんかより《フラウロス王》の方が重要だったんだ!! 《フラウロス王》だ!! あの悪名高い《悪魔》を殺しさえすれば俺達だって昇進が叶ったんだ!! それをよくも……!! お前如きの首一つじゃあ足りねぇんだよお!!」
《指揮》はわなわなと肩を怒らせながら正気を失った様に怒鳴り散らした。
そこでひづりはハッとした。凍原坂の死で頭が真っ白になっていたが、ようやく何がどうしてこうなったのか、おおよその事態を把握出来たようだった。
《召喚魔術》で定められている六つの要項、その四つ目。《契約》の期間中に《契約印》が破壊される、あるいは《契約者》が《悪魔》に攻撃されるなどして死亡した場合、《契約》していた《悪魔》は《人間界》でのあらゆる権限を即座に剥奪され、《魔界》へと強制送還させられる──。七月に《ベリアル》によってちよこの《契約印》が破壊された際、天井花イナリと和鼓たぬこが一時的に《人間界》から追い出されたあの現象。あれを今、どうやら凍原坂と天井花イナリは《フラウ》を護るために意図的に発動させた、という事らしかった。
《主天使》たちは《フラウロス王》を確実に殺したいから、《フラウ》を《人間界》に繋ぎ止めている凍原坂の命を先に奪う事はしない。だから凍原坂はそれを逆手に取って、天井花イナリに自分自身を殺してもらい、《フラウ》を《魔界》へ逃がそうと考えた。そしてそれに天井花イナリは協力した。《フラウ》は消え、《指揮》たちは出し抜けに標的を取り上げられた。
手も足も出ないほど追い詰められていた先ほどまでの状況下でなら、《フラウ》の父親として生きてきた凍原坂がその決断をした事も、旧友である《フラウ》を《主天使》に殺されたくなかった天井花イナリが彼女を護るために凍原坂を殺した事も、決して理解出来なくはない行動だった。
しかし、ひづりには少しも納得出来なかった。天井花イナリはさっき『この場の全員が無事に生きて帰る方法はある』と言った。凍原坂にそれを実現しろと言った。なのに、彼女は凍原坂を殺して、《フラウ》は《魔界》へと帰されてしまった。言っている事とやっている事が全く矛盾している。全員助かるなんて、これではまるきり嘘ではないか。
それにこれで《フラウ》が助かったとして、この後の事を天井花イナリは一体どうするつもりでいるのだろう。彼女は凍原坂に問いを投げかけた際、『最悪自分達だけなら助かる方法がある』などと言っていたが、けれどそんな手段があるだなんてひづりは一度も聞かされていなかった。加えて《指揮》は最初に、《フラウロス王》も《ボティス王》も今日この場で殺す、と宣言していた。そんな中で主目的だったらしい《フラウロス王》を殺し損ねたとなれば、きっと奴らはここからもう一切の油断なく《ボティス王》抹殺のためだけに全力を尽くして動くはず。今の様な不意打ちや搦め手は二度と使わせてくれないだろう。
戦力として期待していた《フラウ》さんを、たとえ本人が望んだとは言え凍原坂さんを殺してまで《魔界》へ逃がして、こうして追い詰められて……。天井花さんは何を考えているんだ。この状況をどう切り抜けるつもりでいるんだ……? ひづりは縋るように天井花イナリの横顔を見つめた。
すると視線に気付いたのか彼女は眼差しだけをひづりの方へ向けるとやけに落ち着いた様子ではっきりと言った。
「惑うなひづり。あやつは己の《王》を信じ、この選択をした。じゃからお主もわしを信じよ。息を整え、《防衛魔方陣術式》の準備をしておけ」
そしてそれきりまた《主天使》たちの方を向いて黙り込んでしまった。
ひづりはぐっと息を呑んだ。もちろん信じている。期待もしている。でも……あんなに簡単に凍原坂さんの命を奪うなんて……。そこだけはどうしても彼と同じ《契約者》の身であるひづりの胸に不安として付き纏った。
「すうー……はぁー……すぅー……はぁー……。……ああ、だが、まぁ……そうだ。《命令》は『ボティス王の無力化』だ。《封聖の鳥篭》に閉じ込めた時点で作戦の半分は成功している……。障害だった《フラウロス王》も、全く不本意な形ではあったが、こうしてこの《人間界》から排除出来た……。何も……そう、何も焦る必要は無い……。我々は主目的から外れていない。《ボティス王》一柱を捕らえただけでも戦果には違いない……。ふうー……すぅー……。…………はっ。ああ、驚かされたが、予定通りである事に違いは無いな。違いはない。しかし《ボティス王》。《悪魔》同士の友情のために《契約者》の親しい人間を迷い無く殺すとは、さすがは血も涙も無い事だな?」
何度も深呼吸を交えながら独り言をつらつらと並べた《指揮》はそうして以ってようやく冷静さを取り戻したらしく、胸を反らすと前髪をかき上げながら天井花イナリに声を投げた。凍原坂を診ていた他の《主天使》たちもそれを諦めの合図と取ったらしい、揃って立ち上がり、先ほどまで《フラウ》にだけ向けていた鋭い殺意の眼差しと各々の武器の先端を《檻》に閉じ込められているひづりと天井花イナリに向けた。緊張でひづりは思わず両手をぎゅうと握り締めた。
「ふっ」
しかし隣の天井花イナリは何を気負う様子も無く軽く顎を上げて鼻で笑い、言った。
「確かにお主の言う通り、このままではわしはひづりにも《火庫》にもリコにも恨まれてしまう。故に返してもらおう」
その言葉に《指揮》は眉根を寄せて微かに首を傾げた。
天井花イナリは一つ息を吸ってから淡々とした調子で声を張った。
「──《ウカノミタマの使い》が命じる。《火車》、《奪って》来い」
よく通る彼女の玉音が響いた後、りん、と俄に耳鳴りの様なものが空気を揺らした。
「何……? …………? ……は!?」
《指揮》は、そういえば《火庫》はどこへ行った? という風につい先ほどまで《火庫》を拘束していた《槍盾兵》の居る辺りを振り返り、それから何かに気付いたように再び足元へと視線を戻し、大きく眼を見開いた。
「えっ!?」
ひづりも思わず声を漏らした。《天使》たちの足元に倒れていたはずの凍原坂の遺体が、血痕だけを残し、いつの間にかそこからまるごと消え去っていた。
ひづりも《指揮》たちも慌てて周辺を目で探したがやはり彼はどこにも見当たらなかった。確かにそこに倒れ込んで、たった今まで《主天使》たちに《治癒》を試みられていたはずなのに。ひづりは眼を疑うようだった。
「どこに……!? だっ、おい、誰か動かしたのか!?」
「いえ! 我々は何も……!」
《指揮》が喚き、部下の《主天使》たちも何が起きたのか分からないという困惑の表情で自分達の足元をばたばたと捜し回った。
「……? 熱っ!?」
その時、どこからか車輪が空回りする様な軽快な音が聞こえて来たかと思うと、突然火傷しそうな程の熱風が背後を吹き抜け、ひづりは咄嗟に目を閉じて首の後ろを手で覆った。
「な……!?」
《指揮》たちが戸惑いの声を上げたのが聞こえ、ひづりは目を開けた。《指揮》たちの視線はいずれもこちらの背後に向けられていた。ひづりは「何かが私の後ろに居るのだ」とだけ承知して恐る恐る振り返った。
「え」
そして《それ》を発見した途端、また間抜けな声を出してしまった。
凍原坂がそこに居た。彼は先ほどまでと同じく血まみれでうつぶせの格好だったが、けれど何故かひづりと天井花イナリを閉じ込める《封聖の鳥篭》を挟んだ《指揮》たちの丁度反対側、それも《檻》のすぐそばに倒れ込んでいた。
一体何が起こったのか、と考え始めた矢先、ひづりは《もう一つの異変》にも気付いて視線を上げた。
「《火庫》さん……なんですか……?」
凍原坂の傍らに《大きな半透明の陽炎の様なもの》が揺れていた。それは輪郭も立体感も全く曖昧だったが、しかし確かに白い体と白い髪を持ち、周囲には輪を成す様に並んでゆっくりくるくると回る緋色の炎を従わせていた。
──《火車》。たった今天井花イナリが呼んだその名がひづりの中でその《陽炎》と重なった。
……ひづりさん……。
儚げな声が直接ひづりの脳に響いた。少し低かったが確かに《火庫》の声だと分かった。
……凍原坂さまを……助けてください……。
嘆くように、恨むように、《火車》は暗い藍色の瞳でひづりを見つめながらそう言った。
「ひづり、《盾》を張れ!! 二枚じゃ!!」
天井花イナリが叫んだ。ひづりはハッとして反射的に《指揮》の方を振り返り、突き出した両腕の先端に《防衛魔方陣術式》をそれぞれ一枚ずつ展開した。二メートルの直径を持つ大きな二枚の《魔方陣》がひづり達と《指揮》たちを隔てた。
「──ッ!! 状況を《蛇狩り》に移行!! 第一、第二討伐隊は包囲陣形を解除!! 直ちに護衛隊の両翼に展開!! 第一弩砲隊は第一討伐隊の後方に、第二弩砲隊は第二討伐隊の後方へ移動!! 総員移動の後、《弓弩兵》と《弩砲兵》は《ボティス王》に照準合わせ!!」
この事態に何かを感じ取ったらしい《指揮》が早口に部下達へ指示を出し、《主天使》たちはそれに応じて一斉に動き始めた。
「それでよい。立て」
尻餅をついた格好のまま《防衛魔方陣術式》を展開したひづりの腋に天井花イナリは腕を差し込んで立たせると、続いて反対の手で凍原坂の遺体と《火車》の足元に《転移魔術の魔方陣》を描き、二人を《檻》の中へと《転移》させた。
そして凍原坂の傍らにしゃがみ込み、先ほど自身が斬ったばかりのその傷口に触れ、言った。
「恐らく《天使》どもはこれからこちらへ向けて矢による長距離攻撃を仕掛けてくる。ひづりはそのままそこに《盾》を固定し、正面からの攻撃を防げ。お主の《盾》で覆えぬ範囲はわしが髪で防ぐ。凍原坂を《治癒》し蘇生させるまでの数分間、持ち堪えられればよい」
天井花イナリのその言葉と彼女の掌から広がった高位の物と分かる《治癒魔術の魔方陣》を見てひづりは思わず大声を出してしまった。
「いっ、生き返らせられるんですか!? 凍原坂さん、助かるんですか!?」
ああ、と天井花イナリは事も無げに答えた。
「わしが斬ったのじゃ。どこをどう治せばよいかくらい分かっておる。ただ時間との勝負である。ちと集中する。よいな、正面は任せるぞ、ひづり」
そう言い終わると彼女は凍原坂の傷へと視線を固定し、長い白髪は矢の迎撃のためにであろう触手のように無数に伸ばして周囲に待機させた。
「は……はいッ!!」
ひづりは正面を向いて強く返事をした。
助かる!! 凍原坂さんは死なずに済む!! それが分かっただけでひづりはもう泣いてしまいそうだった。天井花イナリが凍原坂を見捨てた訳では無かった事も心の底から喜ばしかった。
そうして安心し気持ちが落ち着いてくると次第にこの状況を理解する頭も働くようになって来た。
まず、姿が変わってしまった《火庫》の事。彼女は《火車》で、元から《人間界》に居る《妖怪》だった。だから凍原坂の心臓が止まって《フラウ》が《魔界》に帰っても、《妖怪》である彼女は《人間界》から居なくなったりはしない。消えてしまう訳ではないのだ。ただその体が《火車》に戻っているのは、きっと《フラウ》が《魔界》に帰った事で《契約》が解け、分け与えられていた半身を《フラウ》に返し、同時に《フラウ》から自身の半身を返してもらったからなのだろう。
そして凍原坂の遺体の不自然な瞬間移動。これも恐らく《火車》によるものだ。《火車》は死者の遺体を盗み出し《閻魔大王》の元へと連れて行く、そうした役職にある《妖怪》だと伝えられている。《ウカノミタマの使い》である天井花イナリに命じられた事で彼女は凍原坂の遺体をひづりにも《主天使》たちにも気づかれないよう盗み出し、ここまで連れて来てくれたのだ。
ひづりは期待に胸がドキドキしていた。天井花さんも凍原坂さんもここまで含めて行動を起こしたのだとしたら、全員無事に生還する、という、今の自分達の状況から考えれば奇跡の様な道筋も本当に目の前に開けてしまうかもしれない、本当の本当に皆助かるのかもしれない、とそう思えた。
ゆっくりと深呼吸して気持ちを引き締め、ひづりは《防衛魔方陣術式》の精度維持に集中した。最善の可能性が消え去っていないのなら、自分は彼女たちを疑ったり不安に思ったりなどしている場合ではないのだ。出せ得る限りの力を出し切って、皆で必ずこの場を切り抜けてみせる……!!
移動が終わったらしく《主天使》たちの動きが止まった。《封聖の鳥篭》から十メートルほど離れた場所に《指揮》と護衛の《天使》たちが居り、その両翼には先ほどまで包囲陣形を構成していた《槍盾兵》と《弓弩兵》たちが二手に分かれ、それぞれ壁のように密集して武器を構えていた。
「《ボティス王》……何を考えてるのか知らないが、これ以上お前の好きにはさせない。《フラウロス王》の首を取れなかった分、お前だけは絶対になんとしてでも全力で確実に殺す……!! 《弓弩兵》!! 《ボティス王》への継続斉射攻撃準備!! ──撃て!!」
《指揮》の号令の直後、大勢の《主天使》たちで構築された二つの壁から黒く細い影が無数に空へ放たれ、風を切る音を膨らませた。
そして。
「ぐっ……!!」
ドドドドドドドド、と豪雨の如き勢いでひづりの《防衛魔方陣術式》を殴りつけ始めた。衝撃や重量自体は《魔方陣》の持つ防御効果で大きく軽減されていたが、しかし一枚の《魔方陣》を隔てた向こうに自分の体を容易に引き裂いてしまうであろう鋼鉄の矢が絶え間なく降りしきっていると思うとひづりは足が竦んでしまうようだった。
けれど幸い、天井花イナリからしっかりとやり方を教えてもらい、また日々描画の練習もしていた甲斐あってであろう、《盾》は矢の一本も侵入を許さず弾き飛ばし続ける事に成功していた。大丈夫だ、大丈夫だ、とひづりは呼吸を落ち着けつつ自身の体調を確認した。これなら十分から二十分程度の維持は問題なさそうだった。
凍原坂の《治癒》に当たる天井花イナリを横目に見る。彼女の体は先ほどから少しも動いていなかったが、代わりにその美しい白髪は何度も機敏に跳ね上がり、ひづりの《盾》の防御範囲から抜けた矢を全て精確に叩き落していた。曰く《蛇の悪魔》である彼女の鼻の辺りには蛇のピット器官に類する特殊な体組織が存在していて、それが周囲の熱や《魔力》を敏感に察知し、視界外からの攻撃などの対処を可能にしている、との事だった。それを教えてくれた際、《能力》と言うほどのものではない、と本人は言っていたが、しかし実際こうして難しい《治癒》に専念しつつ目視しないまま飛来する矢の対応をする彼女の姿はやはり人間や《下級天使》では逆立ちしたってどうこう出来る相手ではないのだろうと思わせるだけのものがあり、ひづりは頼もしく感じて内心ほっと胸を撫で下ろした。
加えて、偶然であろうが、《主天使》たちが自発的にとったあの密集陣形も実はひづり達にとって僥倖と呼べるものだった。ひづりは以前百合川に勧められて読んだ歴史小説の中に『敵軍の武装や得意な戦闘方法等に応じて陣形は逐次変更する』といった描写があったのを思い出していた。
銃がまだ主流ではなかった時代に於ける兵同士の戦いでは、前列に槍と盾を持った兵が密集してずらりと横に並び、その後方に弓兵が随伴する、という、敵軍の攻撃を後ろに通さないための陣形が基本とされていたが、しかし相手軍が大砲を大量に用いてくる場合は槍兵も弓兵も横に間隔を開け、砲弾を受けた際の損害をなるべく減らす、という対策がとられていた。《フラウ》を包囲していた時の《主天使》たちの陣形がこれに近かった。包囲しつつも《槍盾兵》たちは常に互いの距離を保つよう《副指揮》の指示で上手く立ち位置の調整を行い、まともに受ければ兵同士の体で燃え移る危険のある《フラウ》の炎を終始強く警戒していた。
そして天井花イナリを相手取った今度は、打って変わっての基本的な密集陣形。《上級天使》の大盾すら切断してしまう鋭い《剣》に、九メートルほど先まで届く自由自在の長髪。だが飛び道具がない彼女には、《フラウ》の様に炎を遠くへ飛ばす事も、広範囲の制圧なども出来ない。故に《封聖の鳥篭》から出られないと分かった《ボティス王》は《弓弩兵》の矢で削りきるのが正解で、無闇に《槍盾兵》を近づかせて損害を出すのは悪手だ、というのが《指揮》の見解らしかった。それでも《槍盾兵》を腐らせず《弓弩兵》や自身の前に密集させているのは、何かの間違いで《ボティス王》が《檻》から抜け出て来た際、自身や《副指揮》が逃げるための時間稼ぎの壁として使おう、という意図によるものなのだろう。
しかし不意を衝かれて《フラウロス》を逃した故だろうか、《主天使》たちがとったそうした守りの姿勢そのものが、僅かではあるがひづり達の側に有利な状況を与えていた。
そう、本当に天井花イナリを殺す事に専念するなら、《弓弩兵》たちには《フラウ》の時と同じ包囲陣形をとらせるべきなのだ。《滋養付与型治癒魔術》を経てひづりが同時に二枚の《防衛魔方陣術式》を扱えるようになった事まで仮に調べ上げていたのなら、《盾》で防ぎやすいこんな正面からだけの攻撃ではなく、ひづりの背面や上空にも《天使》を配置し、全方位から攻撃を行って、天井花イナリへの攻撃射線を増やすべきなのだ。
天井花さんが最初に言っていた通りやはりこの《主天使》たちは戦慣れをしていないのだろう、とひづりはそう受け止めるに至っていた。攻める事より自分の身を守る方に意識が向き過ぎている。無論、ひづりも天井花イナリもそれを《指揮》たちに指摘してやったりはしない。不意打ちの奇襲を受けたのはこちらなのだ。相手の弱さから出たこちらに有利な状況は自分達が生還するための道具として最大限利用させてもらうだけだった。
とはいえ、今のままではひづりも天井花イナリも《主天使》たちに対して反撃らしい反撃が出来ない事に変わりは無かった。《防衛魔方陣術式》なら《封聖の鳥篭》を壊せるのではないか、という淡い望みは、先ほど発動したタイミングでこっそり《防衛魔方陣術式》の外縁部分を《檻》の柱部分に触れさせた時、《魔方陣》の方がガリガリと削られ始めたため、あっさり潰えていた。《封聖の鳥篭》の構造が分からない以上想像するしかないが、ひづりの《魔力》はほぼ全て天井花イナリから貰っているものなので、そこにもやはり《神性》は伴っている、という事なのかもしれなかった。《主天使》たちが天井花イナリの《剣》や髪の攻撃可能範囲まで入って来る様子はないし、《魔術》によって精製されているらしい《弓弩兵》たちの矢は撃ったそばからその手に出現している。あちらの《魔力》が切れるまでは少なくともこのまま距離を取られて延々矢による攻撃を受け続けるのだろう。
それにこれまで用意周到な動きを見せてきた《指揮》たちの事である。最初から《ボティス王》の攻略方法としてこの状況を想定していたのなら、今もただ持久戦のみに勝算を見出しているとは考え難い。こちらが考え付かないような手を《主天使》たちはまだどこかに隠している、と見るべきだった。ひづり達は依然不利なままだった
だが希望が全く無くなった訳ではなかった。先ほど天井花イナリが『凍原坂を蘇生するまでの数分で良い』と言ったその言葉の意味をひづりは《盾》を張り続けながら考え、そして一つの可能性に行き着いていた。
そうなのだ。天井花イナリと凍原坂の今回の行動は、思い違いでなければ、凍原坂が蘇生されるところで終わりではない。彼女たちが考えた作戦の最終地点は恐らく、『フラウロスの再召喚』。これが最も濃厚であろうとひづりは睨んでいた。
《契約印》は《契約者》の死でその効力を失うが、しかし物理的に破壊されない限り《契約者》の肉体から勝手に消滅する事は無い。凍原坂の右肩にはまだ《フラウロス》と繋がっている《契約印》が停止状態で存在し続けている。純粋な《妖怪》に戻ったはずの《火車》が薄っすらながらも今尚ひづりの眼に映っているのがその証拠だった。もし彼女と《フラウロス》の《契約》が完全に切れていたなら、きっとこんな風にひづりが《火車》の姿を見たり会話したりなんて事は一切出来ないはずなのだ。
だから、このまま天井花イナリの《治癒》によって凍原坂の蘇生が成功した時、恐らく彼の《契約印》は再稼動する。凍原坂と《フラウ》の間には十四年間の十分な《縁(えにし)》がある。《縁(えにし)》による再召喚……《レメゲトン》曰く《連関召喚》と呼ばれるその方法でなら、《召喚魔術》の工程も必要なく、あの日天井花イナリがひづりの呼び声に応えてくれたように、《フラウ》もまた息を吹き返した凍原坂の声に応えてくれるはずなのだ。
そうなれば形勢は一気に逆転する。《火車》と同じく本来の《フラウロス》としての完全な状態に戻った彼女は、これまで《主天使》たちから受けた傷も自身の《治癒魔術》で治し、世界中に名を轟かせたというその《魔性》と炎で《主天使》たちを一掃してくれるだろう。
それに白蛇神社での戦いの時、天井花イナリは境内の入り口で《契約印》を破壊され退去させられたが、しかし再召喚の折には拝殿の正面に出現していた。《契約印》の停止で退去させられた時に居た場所と、《連関召喚》で再召喚される時の場所は同じではないらしいのだ。それが『再召喚される時の座標を悪魔自身で選べる』なのか、それとも『契約印を持つ者のそばに召喚される』なのか、ひづりには分からないが、たとえ後者であっても今なら凍原坂の傍、つまりこの《封聖の鳥篭》の中か、すぐ近くに再召喚が成される。そうすれば再召喚された《フラウロス》によって《檻》は破壊され、二柱の《悪魔の王》が《主天使》たちの前に放たれる。囚われている夜不寝リコは《フラウロス》に対し依然人質として有効かもしれないが、それで天井花イナリまで止められるとはひづりには思えなかった。
前者、『再召喚される時の座標を悪魔自身で選べる』ならもっと良い。《主天使》たちは今、《ボティス王》を倒すために陣形を替え、包囲陣形を崩している。この状況で《指揮》の背後に再召喚出来るなら、《フラウロス》にとって《指揮》と二人の《副指揮》の首を取るのなんて本当に一瞬だろう。その後夜不寝リコを檻から助け出してもらい、同じく《檻》まで来てもらえれば、それでやはり勝負はつく。
勝算はまだあるのだ。天井花イナリが最初に言った通り、これが成功すれば本当に誰一人欠ける事無くここから生還出来る。この状況で一度殺した凍原坂を天井花イナリが命懸けで蘇らせようとする理由を考えればいずれ《主天使》たちもこちらの目的が《フラウ》の再召喚である事に気付くだろうが、だとしてもひづりの《防衛魔方陣術式》と天井花イナリの防御を突き崩せない限りあちらに凍原坂蘇生を阻む手段は無い。最善の未来はまだひづり達の前から消え去ってはいないのだ。
ただ。ひづりは未だぴくりとも動かない凍原坂の体を横目に見た。
心肺停止した人間に残される時間は僅か十分のみ。それを過ぎると蘇生は絶望的だと言われている。天井花イナリは十分以内に凍原坂の傷を《治癒》し、心肺蘇生を成功させ、彼の魂を肉体に引き戻さなければならない。咄嗟の事で腕時計を見ていた訳ではないから分からないが、体感では既に二分半程が過ぎている様に思われた。
『わしを信じよ』。ひづりは《治癒》に当たる彼女の横顔を見つめ、その言葉を頭の中で繰り返した。
信じている。信じるしかない。全員で助かるためには彼女に期待し、自分は凍原坂さんが息を吹き返すまでひたすら防御に徹底するほか無いのだ。必ず護り抜く。天井花さんに教えてもらったこの《盾》で、天井花さんも、凍原坂さんも、《フラウ》さんも《火庫》さんも、夜不寝さんも。絶対に皆で生きて帰る──。
────。
「…………っ? ぅ、ん……?」
ひづりが改めて決意を固めつつ呼吸と二枚の《防衛魔方陣術式》に意識を集中させていたところ、《主天使》たちの矢の攻撃が突然止んだ。
何だ……? ひづりは思わずちょっと顔を上げ、壁の様に並んでいる《主天使》達を端から端まで眺めた。たった今まで空を陰らせるほど視界いっぱいに馳せていた大量の矢は何故か《弓弩兵》たちの弓に番えられた状態で静止し、にわか雨が過ぎ去った後のように、しん、と不気味なほどの静寂を辺りに立ち込めさせていた。
「どうしたんでしょう……?」
ひづりは《主天使》たちの方を向いたまま天井花イナリに訊ねた。彼女は返事をしなかったが、矢の迎撃のために《檻》の中へ広げていたその髪束からはひづりと同じ戸惑いと緊張のようなものが感じられた。
「──うっ」
《弓弩兵》たちの矢を生み出す《魔力》が尽きたのだろうか? しかしそれにしては随分息切れが早い気がするし……などと考えていると、突然何かに強く左腕を引っ張られるような重い衝撃があり、ひづりは一歩前につんのめって姿勢を崩した。
「ひづり!?」
天井花イナリが大きな声を上げた。出し抜けの事で何が起きたのか分からなかったひづりはとにかく慌てて体勢を立て直した。
それから彼女の方を振り向こうとして、そこで気付いた。左手で張っていた方の《防衛魔方陣術式》が何故か消滅し、視界の左半分が全く見晴らし良くなってしまっている事に。
まずい、私の馬鹿、どうして消してしまったんだ、急いで張り直さなければ……!! そう思いひづりは慌てて左腕を持ち上げた。
その時だった。
ぶらん、と左腕の肘から先で何かが乱暴に揺れ、同時に飛沫の様な物が散って顔に掛かった。
え? と思い、ひづりは視線を少し下げて《それ》を見た。
「は、あ…………?」
そこには、物心ついた時から今日まで当たり前に携えていた五本の指を失い、筋肉と脂肪と骨を剥き出しにしてすっかり短くなってしまった自身の左腕があった。骨格を失った肘の先の肉はひづりの意思に関係なく垂れ下がり、そこを傷口から一定のリズムで噴き出す血が伝い滴り落ちて左足の太腿に赤い染みを広げていた。
ひづりの脳内にあった全ての思考が霧散した。
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釧路太郎
キャラ文芸
名門零楼館高校はもともと女子高であったのだが、様々な要因で共学になって数年が経つ。
文武両道を掲げる零楼館高校はスポーツ分野だけではなく進学実績も全国レベルで見ても上位に食い込んでいるのであった。
そんな零楼館高校の歴史において今まで誰一人として選ばれたことのない“特別指名推薦”に選ばれたのが工藤珠希なのである。
工藤珠希は身長こそ平均を超えていたが、運動や学力はいたって平均クラスであり性格の良さはあるものの特筆すべき才能も無いように見られていた。
むしろ、彼女の幼馴染である工藤太郎は様々な部活の助っ人として活躍し、中学生でありながら様々な競技のプロ団体からスカウトが来るほどであった。更に、学力面においても優秀であり国内のみならず海外への進学も不可能ではないと言われるほどであった。
“特別指名推薦”の話が学校に来た時は誰もが相手を間違えているのではないかと疑ったほどであったが、零楼館高校関係者は工藤珠希で間違いないという。
工藤珠希と工藤太郎は血縁関係はなく、複雑な家庭環境であった工藤太郎が幼いころに両親を亡くしたこともあって彼は工藤家の養子として迎えられていた。
兄妹同然に育った二人ではあったが、お互いが相手の事を守ろうとする良き関係であり、恋人ではないがそれ以上に信頼しあっている。二人の関係性は苗字が同じという事もあって夫婦と揶揄されることも多々あったのだ。
工藤太郎は県外にあるスポーツ名門校からの推薦も来ていてほぼ内定していたのだが、工藤珠希が零楼館高校に入学することを決めたことを受けて彼も零楼館高校を受験することとなった。
スポーツ分野でも名をはせている零楼館高校に工藤太郎が入学すること自体は何の違和感もないのだが、本来入学する予定であった高校関係者は落胆の声をあげていたのだ。だが、彼の出自も相まって彼の意志を否定する者は誰もいなかったのである。
二人が入学する零楼館高校には外に出ていない秘密があるのだ。
零楼館高校に通う生徒のみならず、教員職員運営者の多くがサキュバスでありそのサキュバスも一般的に知られているサキュバスと違い女性を対象とした変異種なのである。
かつては“秘密の花園”と呼ばれた零楼館女子高等学校もそういった意味を持っていたのだった。
ちなみに、工藤珠希は工藤太郎の事を好きなのだが、それは誰にも言えない秘密なのである。
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