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《第3期》 ‐勇者に捧げる咆哮‐
『貴様の心に従えばよい』 5/6
しおりを挟む二十一年前。電車の中で痴漢に遭った女と、それを助けた男が居た。けれど男は言葉も交わさずその場を去り、女は礼を言う事が出来なかった。女は男を自分の運命の相手だと思い込み、その日から男の周囲を調べまわるようになった。
そうして女は男に気づかれないまま実に一年もの間ストーカー行為に及んでいたが、しかし自身のその行いに苦悩もしていた。
男に面と向かってお礼を伝え改めてちゃんとした知り合いになりたいと思う自分と、そこに踏み切れずストーカーとして男の全てを知り尽くそうとばかりする《執着心》に縛られた自分。女は自身の中に持つその相容れない二つの心に葛藤し続けていた。
だがもうじき一年が経とうというその日、二人は再会を果たした。女は男が勤める大学のオープンキャンパスにこっそり忍び込んだ後、浮かれ気分のまままだ一度も行った事が無かった大学近くの町へと足を伸ばしていた。男は講義の後、自動車免許の更新のためにあまり行かない警察署の方角へ向かい、それから大学へ戻るところだった。
その年の梅雨最初の大雨が、二人の──西檀越雪乃と凍原坂春路の運命を一つのバス停へと引き寄せた。
凍原坂は雪乃と最初に会った電車での事を憶えていた。雪乃は自身がこの一年に亘って及んでいたストーカー行為が凍原坂に気付かれていないと知ると、これが最後のチャンスと思い、勢いのまま愛の告白をした。そこから互いに異性として意識するようになり、やがて雪乃の大学合格、そして渡瀬の仲介によってついに二人は恋人同士となった。
だがその過程には雪乃しか知らない一つの重大な《奇跡》があった。
雪乃は凍原坂の良き恋人となるために、ストーカーである自分……《執着心》を捨てる必要があると考えた。しかし自己啓発関連の書物などを読んで実践してみてもこれがどうにも上手くいかない。何故なら雪乃の《執着心》は父親譲りのもので、理論や気持ち一つで消せるような単純なものではなかったからだ。凍原坂に愛の告白をしたその日以降も雪乃はそれまで通り凍原坂の家の周りを徘徊し続けたし、彼が出したゴミ袋からこっそり盗んだ品々も結局捨てる事は出来なかった。真っ当な人間になろうと意識すればするほど、こんな自分が春路さんの恋人になんてなれるのだろうか、という焦りが強いストレスとなって心を追い詰め、雪乃の中で《執着心》を増長させていった。
そうした果てだった。雪乃は藁にも縋る思いで神頼みをする事にした。東京から遠く離れた大阪府にある石切様……そこは悪性腫瘍の治癒にご利益があると有名な神社だった。雪乃は自身の中に根深く育ったその《執着心》を悪性腫瘍に見立て、自分の中から切除して欲しい、と神様に願った。
結果、石切神社の祭神は雪乃の願いを叶えた。その日から雪乃は気弱で嫉妬深い《執着心》から解放され、快活で明るい女へと生まれ変わった。その後は渡瀬が明治大学で語った通り二人の交際は上手くいき、五年後、雪乃は凍原坂との結婚を前に両親と共に交通事故でこの世を去った。
そう。《火庫》はこの《雪乃がストーカーであった時の記憶》と《雪乃が石切神社へ参拝した時の記憶》を見た。そしてそれによって彼女の中で一つ、ある大きな不安が生じた。
それが今日彼女が筑波山神社と蚕影神社へ赴いた理由だった。
《火庫》は八月から《雪乃の記憶》を見るようになった。これらは大抵、かつて雪乃が見た物と現在の《火庫》が見た物が重なった時、再生されるようになっていた。生前の雪乃が通った場所へ《火庫》が行けば、《火庫》はその時の《雪乃の記憶》を思い出す、といったような具合だった。
であれば、雪乃と凍原坂が婚前旅行として赴いた筑波山神社や蚕影神社へ来れば《火庫》は当然その当時の《雪乃の記憶》を思い出すはずだった。
しかし。
《火庫》は思い出せなかった。筑波山でも、蚕影でも、《雪乃が凍原坂とそこへ訪れた時の記憶》が開く事は無かった。
この数日、《火庫》の頭の中では《雪乃の記憶》が凄まじい速さで蘇り続けていた。《火庫》が視界に入れた物全てが《雪乃の記憶》の再生に繋がったほどだった。
それなのに、そうした何百という《記憶》を見ても、雪乃が凍原坂と暮らした数年間の同棲生活の《記憶》も、互いの両親の元へ挨拶に行った《記憶》も、体の弱い幼い妹の病室へ通った《記憶》も、凍原坂からプロポーズをしてもらった時の《記憶》も、いつまで待っても、何を見ても、思い出す事は叶わなかった。
そして《火庫》は確信した。自分が大きな勘違いをしていた事を。
日曜日、渡瀬は仕事中の《火庫》にこんな事を言った。
『人が妖怪に転生するには沢山の条件が必要とされているんだ。一流の呪術士を用意しても、世界がそれに応えなければ全く成立しなかったりする。しかしその一方で、神様の力を借りて転生した、なんていう出自の妖怪も各地に多く存在する。日本には色んな神様が居るから、中にはそういう人々の願いに手を貸してしまう気まぐれな神様もいる、って事なんだろうね』
……と。
蚕影神社の存在が示す通り、茨城県つくば市には養蚕の歴史がある。それ故に蚕を鼠などから守ってくれる猫は昔から蚕と同じくらい地域で大事に扱われて来た。そうして人々に奉られ、大切にされて来た猫達は、やがて蚕影神社の許で《神性の妖怪》へと生まれ変わり、各地の《神様》の下へ行って仕事を与えられる、そういう決まりだった。そしてその一つが、《火庫》が《フラウロス》と融合する前の《妖怪》としての本来の肉体、《火車》であった。
かつて神頼みをしてまで雪乃が切り捨てたと思っていた《執着心》は、しかし本当は消滅などしておらず、雪乃の中で小さく小さく押し潰されて眠っていただけだった。そして事故によって雪乃が死ぬと再び眼を覚まし、肉体から解放され、この《人間界》を漂った。それは肉体も思考力も無く、ただ凍原坂を求めて彷徨うだけの何も出来ない亡霊のようなものだった。そんな、後は消えていくだけだったはずの《執着心》に、ある日その《蚕影の神様》が気まぐれに声を掛けた。
《神様》は言った。
──喜田川の子孫よ。お前の祖先たちは特に此の地の猫達に良くしていた。もしお前が《火車》として仕事をするなら、お前に生まれたばかりの《火車》の肉体をくれてやろう──
「……お前達も気になっていただろう? 《火庫》は西檀越雪乃が《妖怪》に化けた存在のはずなのに、なぜ雪乃とまるで違う顔立ちをしているのか、と。これがその答えという訳だ。《フラウロス王》と融合する前の《火庫》の元の体、《火車》の肉体は、蚕影神社から誕生するはずだった一匹の《神性を持つ猫の妖怪》の器に、母方の先祖の行いを酌んだ《蚕影の神》から許しを得た雪乃の《執着心》が魂としてたまたま乗り移る事を許されたものだったんだよ。これが真実だ。《火庫》は凍原坂の恋人だった雪乃本人じゃあなく、二十年前に雪乃本人からも見放された、凍原坂をつけ回していたストーカーだった頃の雪乃の魂が肉体を得て偶然蘇ったもので……その継ぎ接ぎの体に相応しい、最初から何もかもが借り物、紛い物の存在だったんだよ」
語り終えると《指揮》は椅子の上で足を組み、見下しながら《火庫》を侮辱した。
《指揮》の話の最中、《火庫》は一度もその内容を否定せず終始うつむいて黙り込んでいた。彼女の体は震えており、横顔を覆う白髪の隙間から、ほろり、と雫が落ちるのが見えた。
「か、《火庫》! 君の……雪乃さんの昔がどうだとしても、今の君は私の──」
「娘だ。……と言うんだろう?」
《火庫》の傍へしゃがみ込んで彼女の手を握り言葉を掛けようとした凍原坂に、《指揮》は俄に張った声を被せた。
「お前にとってはそうかもしれないな。だが、そいつにとってはどうだろうか? もうお前との親子ごっこを続ける自信は無いようだぞ? くくく……」
凍原坂は《指揮》を振り返ってから《火庫》の顔をもう一度見た。《火庫》は身動き一つせず、その眼差しは遠く、目の前の凍原坂さえ見えていない様子だった。
「……どうして、なんで、こんな事を……」
ひづりは《指揮》を責めた。《火庫》が蚕影神社で突然凍原坂の許を去ると言い出し、そして先ほどは「皆には言わないで欲しい」と懇願した理由、そのどちらもが今はもう分かるようだったからだ。
《火庫》はこの話を凍原坂に聞かせたくなかったのだ。彼女は、凍原坂がかつての婚約者である西檀越雪乃との思い出をとても大切にしている事を知っていた。だから八月から蘇り続けていたその《雪乃の記憶》に苦悩し、凍原坂にさえ相談出来ないでいた。凍原坂の中にある西檀越雪乃との思い出を汚してしまう事を彼女を恐れていた。しかし先月半ばの明治大学訪問の折、凍原坂に打ち明けてその事情を受け入れてもらえた《火庫》は自身が雪乃の生まれ変わりである事実を前向きに受け止められる様になった。
けれど。あれから更に多くの《記憶》が思い出されていった結果、《火庫》は《指揮》が今語った様な二十年前の西檀越雪乃と自身の出生の真実を知ってしまった。
愛していたかつての婚約者は自身のストーカーで、そしてこれまで娘として扱って来た《白猫》はその《執着心》そのものだった──。凍原坂にだけは絶対に知られてはいけない、と《火庫》は思ったのではないか。だから蚕影神社では訳も話さず彼の許を去るなどと言い出した。
なのに……この《指揮》という《主天使》は、《火庫》にとって知られたくないであろう者達を集めたこの場でそれを話してしまった。加えて、語る直前にはこうも言った。『火庫が記憶を取り戻すようになったのは自分達の細工によるものだ』と。ひづりは理解に苦しんだ。何故、どうしてこんな、ただただ《火庫》を追い詰めるような事をしたのか。一体これに何の意味があると言うのか。ひづりは《檻》が無ければ今すぐにでも駆け寄って《指揮》の頬を殴り飛ばしてやりたかった。
すると他の《天使》たちに手厚く護られた椅子に掛けたまま《指揮》は悠々と答えた。
「どうして? 言っただろう、《フラウロス王》への手向けだと。また今のは我々が用意した《催し物》の前置きでもある。本題はここからだよ。今回の討伐に当たり、本質が《神性》に変化した《ボティス王》は《封聖の鳥篭》でどうとでもなるとして、問題は《フラウロス王》の方だった。脆弱な《妖怪》である《火車》との融合によってある程度弱体化していたが、しかし《ベリアル王》との戦いで判明した通り、片割れの《火庫》と同調した途端、《火庫》に分け与えていた《魔性》と《フラウロス王》の《魔性》は意志の統一によって正しく噛み合い、互いの《魔性》を爆発的に上昇させる。本来の力ほどではないにしろその瞬間だけは《上級悪魔》として十分な攻撃力を発揮していた。しかも《フラウロス王》は単純思考で、《火庫》の方は凍原坂以外どうでも良いと来ている。だから凍原坂を人質に取っても同調はむしろ高まるだろうし、《神性施条弩砲》による《空間爆破》対策も結局は我々前衛が命懸けになる。良い手とは言えなかった。だから我々は他の対策を考えた。それがこの《火庫》なんだよ」
《指揮》は肘掛けに頬杖をついて《火庫》を顎で指した。
「《ベリアル王》は整合性も協調性も無く勝手に《ボティス王》に挑んで勝手に敗れたが、しかし有益な情報を我々に遺してくれた。あの時、神社の縁の下に閉じ込められた参拝者の命を気にせず《フラウロス王》は《ベリアル王》に攻撃を仕掛けた。凍原坂が制止したのも無視してな。その瞬間呆気無く《火庫》との同調は外れた。たったあれだけのすれ違いでも二人の同調は崩れるのだという事を《ベリアル王》はあの時解明してくれた。そして我々は閃いた。《火庫》と《フラウロス王》の間に、確実に同調を妨害させるに足るだけの明確な軋轢を生じさせよう、とな」
「軋轢……?」
ひづりは眉を顰めた。今の《火庫》の前世や出生の話から、一体どう《フラウ》との軋轢に繋がるというのだろう。
一瞬眉を上げてから《指揮》は溜め息を吐いて見せた。
「頭が悪いな。もう忘れたのか? 《火庫》は雪乃が捨てた《執着心》そのものだ、と言っただろう? 《火庫》が比較的普通に人間と言葉が交わせるのは、そこに《フラウロス王》の理性が多分に入り込んだからだ。《火庫》は本当は凍原坂を自分だけのものにしたいんだよ。凍原坂に自分以外の女が近づくのが耐えられないんだ。しかし凍原坂が悲しむから《火庫》は他者を攻撃しない。《フラウロス王》にしてもそうだ、自分と同じく凍原坂に娘と定められた存在だから、《火庫》は《フラウロス王》を排除しようとしない。……今まではな。そこが狙い目だった」
《指揮》は広げた左手に、ぱん、と右の拳をぶつけた。
「《火庫》は《雪乃の記憶》を見て、本当の自分は誰からも必要とされていなかった穢れた魂だったと気付き、絶望した。そして同時にこうも思った。凍原坂と雪乃の思い出を汚したくない、この自分の出生の真実は隠しておかなくてはいけない、でも全て知ったままこれまで通り凍原坂の傍で娘として過ごせるだろうか、いつかまた凍原坂に甘えて打ち明けてしまうかもしれない、そんな事は絶対に駄目だ、だから自分はもう傍には居られない……と。だがそうなると《火庫》にとっては同じくらい受け入れ難い、『フラウロス王が凍原坂からの愛情を独り占めする』という状況になってしまう。凍原坂家にもう自分の居場所は無いと思う理性的な思考と、《フラウロス王》に凍原坂を明け渡したくないと思うその強烈な嫉妬心が、《火庫》の心の中で激しく対立したんだ」
うつむいていた《火庫》の瞳に光が戻り、その口が開いた。
「違います……! わっちは、《フラウ》を妬ましいだなんて……!」
彼女は声を荒らげ《指揮》の言葉を否定した。
しかし《指揮》はすぐに憎たらしい笑顔で返した。
「ほぉう? じゃあ何故先程の《フラウロス王》の炎は私の《槍盾兵》の大盾を一枚も貫けず燃え尽きたのだろうな? 知っていると言ったはずだぞ。七月の《ベリアル王》との戦い、あの時同調し合ったお前たちの炎は《ベリアル王》の羽の弾丸を弾くどころか、十分に打ち勝つ程の威力を持っていた。お前と《フラウロス王》の間に少しでも同調が成されているなら、《下級天使》の大盾を焼き貫くなんて訳無かったはずだ。ふっ。お前がどんなに口で否定しようが、炎はずっと正直だ。お前は《フラウロス王》と同調したくないんだよ。自分が去った後、凍原坂の愛情を《フラウロス王》に盗られるくらいなら、《フラウロス王》を《天使》に差し出して殺してもらいたい、と、そう思っているんだ。《執着心》以外何も無いお前に他者を想うなんて事、どうやったって出来やしないんだよ!」
「違う……違う……!」
《火庫》は頭を抱えてうずくまった。
ひづりは思わずカッとなって《檻》の柱を乱暴に掴みながら大声で吠えた。
「黙れよクソッ!! 《火庫》さんの事知った風に言ってんじゃねぇ!! こっちに来い!! そのツラぶっ潰してやる!!」
様々な角度に力を込めてみたがしかし《檻》はほんの少しも曲がってくれはしなかった。ひづりは悔しくて思わず涙が滲んだ。《防衛魔方陣術式》が届く距離ならこんな奴、こんな奴……!! と右腕を《檻》の外へ伸ばした。
《指揮》は目じりをぴくりと揺らすと不愉快そうにこちらを見た。
「やかましいガキだな……。勘違いをするなよ、官舎ひづり。お前が《そこ》に居るのは《ボティス王の契約者》だからじゃない。本当ならお前は夜不寝リコと同じ檻に入れてやるつもりだったんだ。それを《ボティス王》が邪魔をしたもんだから、猿轡も枷も無い状態でそこに突っ立ってられるだけなんだよ。この《神のてのひら》の上で人間の小娘に発言を許した覚えは無いぞ」
そう言われ、ひづりはハッとなって夜不寝リコの檻を見た。この《封聖の鳥篭》の柱が落ちて来る直前天井花イナリが腕を掴んで引き寄せたのはそのためだったのか、と今更気付いた。
「用があるのは《ボティス王》だ。間違ってもお前じゃない。そこでじっと静かにしていられないなら、後でお前の家族にも夜不寝リコと同じ目に遭ってもらうが?」
冷たい声音で続けた《指揮》にひづりはぐっと言葉を呑み込んだ。《指揮》は鼻で笑った。
「そもそもお前の価値は我々の《夢》の啓示を真に受けた夜不寝リコを《和菓子屋たぬきつね》に関わらせるための仲介役、ただそれだけだったんだ。今回の《火庫》と夜不寝リコの家出にしてもそうだ。平日だぞ? まさか高校をサボってまで《ボティス王》について来るとは──」
「……夢……?」
ふと《火庫》が何かに気付いた様にぽつりと零して顔を上げた。ひづりもその《指揮》が口にした《夢》という単語が気になっていた。
《指揮》は、あぁそういえばこれも話し忘れていたか、という風に頭を掻いた。
「そうか、《火庫》は一昨日、夜不寝リコ本人から相談を受けていたんだったな? そうだ。夜不寝リコが先月半ばから見始めた《天使の夢》、これも我々の干渉によるものだ。《夢》で官舎ひづりへの敵対心を煽り、《火庫》と共に《和菓子屋たぬきつね》で働かせ、互いに姉妹としての感情を強めさせ……そうして人質としての値打ちを上げる必要があったんだ」
そう言って背後の夜不寝リコの檻を顎で指した。
九月の半ばに夜不寝さんが学校でケチをつけて《和菓子屋たぬきつね》に突撃して来た、あんな些細な出来事さえ《主天使》の計画に組み込まれ発生していた工程の一つだったと……? ひづりは《主天使》たちのそのもはや狂気とも言える執念の計画力に言葉を失った。これでは向こうが知らないこちらの情報なんてもう無いのではないか。監視され、あらゆる選択肢を虱潰しに排除され、今日まで蓄え備えて来た何もかもがこんな風に見透かされ利用されているのだとしたら、自分達がこの状況から生きて地上へ戻れる可能性なんてもうどこにも無いのではないか……。
ひづりの途方にくれた顔や、先ほどから《火庫》の隣で何も言えず立ち尽くしている凍原坂を見ると、《指揮》は如何にも「さぁもう自分に口答えをする者など居なくなったぞ」という風に明るい表情になって《火庫》に向き直り改めて先ほどの問いを投げ掛けた。
「さて《火庫》。そろそろ答えを聞こうか。さっきも言ったように、お前が我々に協力するなら、《フラウロス王》を殺した後、《悪魔》と融合させられて宙ぶらりんになっていたお前が元の《地蔵菩薩所属の火車》に戻れるよう、《蚕影の神》に口利きをしてやる。お前の恋敵だった《フラウロス王》は死ぬし、お前は安心して凍原坂の許を去れるんだ。良い話だろう? まぁ、お前の過去全てを調べ上げたように、この日本国担当の《主天使》である我々にはお前の思考や感情などは手に取るように分かるんだが……それでもはっきりと言葉に出してもらいたいんだよ。ほら、あそこに居る《フラウロス王》に、はっきり聞こえるようにな……!」
《指揮》は《火庫》に右手で手招きして見せた。
「……げぇっ、ぐ、ええっ……!」
《火庫》が嘔吐した。靄で覆われた地面に膝をつき、体を丸めながら酷く何度もえずいた。《火庫》、《火庫》、と凍原坂が心配そうに彼女の名を呼びながらその背を撫でた。ちっ、という《指揮》の舌打ちがひづりのところまで聞こえて来た。
「まぁいいさ。時間ならたっぷりとある。いくらでも悩んでくれよ。だが……お前の妹にとっては、たぶん楽しくない時間になるだろうがな?」
冷たい声でそう言いながら《指揮》は徐に片手を挙げた。先ほど夜不寝リコの足を刺した《天使》が再び槍を構え、その血に濡れて鈍く光る切っ先に怯えた視線を向けた夜不寝リコの体が、がしゃん、と激しい音を立てて檻を揺らした。《火庫》の肩がびくりと跳ね上がった。
「次も、その次も、動脈はちゃんと外させるつもりだ。死なせはしない。死なせはしないが……一刺し一刺し、どれも半端な《治癒》では完治の叶わない傷にしていく。ま、女として使い物にならなくなるまでに、何回も刺す必要はないだろうがな? ふはははははははは!! さぁ!! 如何でしょうか《フラウロス王》!? 民を愛する貴方が、利己的な愛のために民から裏切られる!! あるいは、貴方の愛する民同士が貴方のために自らの愛する者を見捨てる!! どちらでも素敵な結末でしょう!? 我々が用意したこの《催し物》!! ご満足!! 頂けているでしょうか!?」
最後に《指揮》は《フラウ》を振り返ってそう声を高めた。他の《主天使》たちもゲラゲラと下卑た笑い声を上げ、一帯の空気を揺るがした。
「くそ……くそ……っ!」
ひづりは《檻》の柱に、がつん、と額をぶつけた。悔しくて頭がどうにかなりそうだった。
いつになるか分からなかったとは言え、それでも《ベリアル》の時と違って今度は必ず敵が来るとラウラの助言によって最初から分かっていた。なら、自分にはもっと出来る事があったのではないのか。何を企んでいるか分からない姉の悪事を神経質に気にしたり、市郎の死に落ち込んで何もしなかったあの時間を使って、《魔術》の勉強なり、《天界》への対策なり、何か、もっと……。
《天使》から狙われている天井花さんや《フラウ》さんのために、自分はどうしてこの数ヶ月もっと真摯に努力して来られなかったんだろう。ひづりは自分が情けなくて、うつむいた両目からぼろぼろと涙が零れるのを止められなかった。
「……良い。《火庫》、面を上げよ」
《主天使》たちの笑い声の中、よく通る声が俄に響き、辺りがしんと静かになった。
その場の全員の視線が《フラウ》に向けられていた。
《フラウ》は腕を組んだ堂々とした佇まいで《指揮》の方を向いていたが、その眼差しは真っ直ぐ《火庫》を見つめていた。
「貴様は《勇気》を示した。とーげんざかの体を治すため、慣れぬ給仕の仕事を、よりにもよってあの気難しい《ボティス》の許で務めた。見ておったぞ。家族のため働いた貴様はまこと立派であった」
それから檻に囚われている夜不寝リコの方も見た。
「それはリコもだ。貴様は昔から少々臆病の気が強いと思うておったが、やはり成長とは面白い。先にはとーげんざかや《火庫》の身を案じるなり《ボティス》の城へと乗り込み啖呵を切って見せた。護ってやらねばならん幼き民草の一人と思うておれば、どうやら《ボティスの契約者》と同じく、親しき者のためであれば己を奮い立たせられる気高き《勇者》の素質を育んでおったらしい。わっちは貴様ら姉妹の《王》であれて誇らしい」
彼女は眼を閉じて空を見上げるととても美味しい空気を楽しむかのように深呼吸をし、それから眼を開け、再び《火庫》の顔を見て言った。
「《火庫》。貴様とは半身を分けた間柄ではあるが、貴様は貴様だ。わっちではない。故に此処までだ。《天使》どもがこうして舞台をあつらえて、わっちと《ボティス》に用事があると言うのなら、それに応えるのが《悪魔の王》の務めというもの。臣下は、そうした《王》の姿を眼に焼き付けておくものだ」
そう言って、凍原坂と《火庫》に買ってもらったというその秋物のパーカーを脱いで足元にぱさりと落とし、《主天使》たちに護られた《指揮》を正面に見据えた。
「おや……《催し物》はお気に召しませんでしたか? 存外落ち着いていらっしゃるのですね? 噂では愛情深い王であると聞き及んでいましたが……家臣がどのような扱いを受けようと《フラウロス王》には些細な事でしたか?」
動じた様子の無い《フラウ》のその態度が鼻についたらしく《指揮》は眼を細めながらそう煽った。
すると《フラウ》は珍しく難しそうな顔をして顎に手を触れた。
「そうではないが、内容にがっかりしたのは確かだ。それもそうであろう? 《ボティス》とわっちをこうして招き、その上これだけの《天使》を用意したのだ。期待くらいはするではないか」
「……? 何をでしょう?」
片眉を上げて見せた《指揮》に《フラウ》は答えた。
「わっちと《ボティス》、どちらがこの場に集まった《天使》をより多く殺せるか……催し物とは、そうした類のものかと思ったのだ」
《天使》たちは一斉に眼を剥いた。息を呑んだ者も居たようだったが、ほとんどは憤怒の色をその顔に浮かべていた。
僅かだがただの一言で兵の統率を乱されたのが気に障ったらしい、ぴく、と《指揮》の眉根が寄った。
「この状況に置かれて尚その様な言葉が出てくるとは、さすがは《悪魔の王》と言うか……正直理解が出来ませんね。それともまさか、まだ勝てるとでもお思いなのですか? 本来の《魔性》の大部分を封じられて、本気で我々に勝てると? 名の知れた《王》として自信過剰なのは結構ですが……」
《フラウ》は、いや、と首を横に振った。
「これは自信ではない。そうだな。焦がれ、のようなものだ。あの大戦から三千年。《人間界》に於ける《天使》と《悪魔》の戦いはもはや先代たちの《思い出》の中にしか存在しておらん。あれより後に生まれたわっちにはもう《天使》どもと戦う未来は来ないものと思うておった。故に、貴様らの階級が何であれ、どのような目的であれ、こうして戦いを申し出てくれた事。それだけでわっちは嬉しいのだ」
これから殺されるのにおかしいんじゃないか、と《主天使》の誰かが小さく笑ったのが聞こえた。
「いえ《フラウロス王》。その様なお言葉、身に余ります」
《指揮》もどこかニヤついた表情で受け答えをした。
「それにわっちには一つ、大きな心残りがあってな」
「心残り、ですか?」
《指揮》が問うと《フラウ》は懐かしむように語った。
「ああ。と言うても三千年前……先祖の《フラウロス》の心残りであるがな。《わっち》は《ソロモン》と約束をしていたのだ。『貴様が望むなら力を貸そう。その代わり、いずれ貴様の《勇気》をわっちに見せよ』、とな。……しかし、その約束を果たす前に《ソロモン》は死んでしもうた」
《フラウ》の体から《魔力》が漏れ、その金色の眼差しが《指揮》を射抜いた。《悪魔の王》の殺気に当てられたらしい、《指揮》は両手を体の前に構えて「ひっ……!」と悲鳴を漏らした。
「わっちは《ソロモン》の《勇気》を見損ねた。その邪魔をしたのは当時の人間と、貴様ら《天使》だ。貴様、さっきわっちに勝てる勝てないなどと論じたな? 可笑しな事を言うではないか。あの時人間と《天使》の同盟軍を骨も残さず焼いた《悪魔の王》の名を忘れる者が、よもや《天界》に居ろうとはな」
それから改めて《フラウ》はお礼を言った。
「ほんの数体でもこうして《人間界》へ降りて来てくれた事、感謝しているぞ。貴様ら《天使》は須らく灰に成って死なねばならん。昔も、今も、わっちの炎でな」
《角》と髪の先端で紫苑色の炎が激しく燃え上がり、舞った火の粉が彼女のイエローダイヤモンドの様な右目をぎらりぎらりと輝かせた。
「……はっ」
《指揮》は我に返った様にぱちぱちと瞬きをして、それから体の前に持ち上げていた両手をさっと下ろした。周囲の《主天使》たちは、んん、と各々咳払いなどしながら落ち着かない様子を見せた。先ほどの《指揮》の小さな悲鳴と怯えの仕草に気付かなかったフリをしているのだと分かった。
がたん、と乱暴に椅子から立ち、《指揮》は怒りで顔を真っ赤にしながら叫んだ。
「結構な心残りだ!! 望み通り串刺しにしてやろうじゃないか!! 護衛の《弓弩兵》!! お前らも《フラウロス王》の包囲に参加だ!! 上空へ行って奴の頭を確実に抑えろ!! 《副指揮》は合図の後、予定通り兵たちに《獅子狩り》開始の指示を出せ!! いいな、しくじった奴は俺が殺す!!」
《指揮》の周囲を護っていた五人の弓と弩の《天使》……《弓弩兵》と呼ばれたその者達は一瞬困惑した様子を見せたが、しかしすぐに言われるがまま羽ばたいて離れ、包囲されている《フラウ》の十メートルほど頭上へ行って弓を構えた。同時に、《フラウ》包囲陣の一画に居た、《指揮》の次に大きな《光輪》を持つ《天使》──どうやら《副指揮》というらしい──も《指揮》に頷きを返し、包囲陣を構成する《槍盾兵》と《弓弩兵》に「戦闘用意!!」と号令を出した。
「ふぅー……。……《フラウロス王》、最後に言い残す事はありますか?」
《指揮》は自身を落ち着ける様に深呼吸し、それから徐に右手を挙げ、これが最後の会話だ、と言う風に冷たく問うた。
総勢恐らく五十を越える槍と盾、弓と弩の《天使》たち。全方位からの殺意に囲まれ、この後ただ一つの《指揮》の合図で以ってその一方的な攻撃が開始されるであろう中、《フラウ》は変わらず胸を張って立っていた。
彼女は静かに言った。
「……《火庫》、約束してくれ。わっちがこやつらに勝ったら、貴様はとーげんざかの許に残る、と」
《主天使》たちの壁を隔てた向こう、凍原坂に体を支えられていた《火庫》は《フラウ》の言葉に顔を上げたが、しかしすぐその両目に涙を湛え、うつむいた。
「ごめんなさい……《フラウ》……」
「──《槍盾兵》、前進開始!!」
《火庫》の言葉は《主天使》たちの武器が鳴らす金属音に掻き消された。
槍と盾を構えた一列目と二列目の《槍盾兵》たちが一斉に一歩だけ前進し、止まる。《フラウ》を囲む輪の内径が狭まり、槍と《フラウ》の距離が近づく。その工程が一回一回、《副指揮》によってマーチの様に進められていく。
「ッ!!」
《フラウ》が動いた。疾風の如く駆け、真正面にいた《槍盾兵》に額の《角》を突き立てた。《角》は盾を貫通し、先端の炎が盾の持ち主の腕と顔を焼いて悲鳴を上げさせた。
「この……ッ!!」
すかさず左右と後方の二列目に居た《槍盾兵》たちが槍を突き出した。《フラウ》は身を翻してその全てを回避した。
──だが。
「ぐっ!」
上空に待機していた五人の《弓弩兵》たちが放った矢の一つが《フラウ》の右肩を真上から貫き、姿勢を崩させた。それを好機と見て正面の《槍盾兵》たちは続けて槍を持った腕を伸ばした。
《フラウ》は咄嗟に飛び退いて《槍盾兵》たちの攻撃をかわしたが、再び包囲陣の真ん中へと追いやられてしまった。
負傷した《槍盾兵》は後ろに下がり、包囲陣の外へと退避させられた。空いた穴にはただちに後列に居た《槍盾兵》が宛がわれた。
《副指揮》の号令で再び《槍盾兵》たちが前進し、また少し包囲陣の内径が狭まった。
「《フラウ》さん……!」
ひづりは今にも叫び出してしまいそうだった。
目の前の《槍盾兵》の相手をすれば死角である頭上から矢が降って来る。逆に頭上を対処すれば今度は正面の《槍盾兵》の槍が迫る。このまま包囲陣が小さくなっていったら、最終的には《槍盾兵》たちの槍が三百六十度全ての方位から同時に《フラウ》の体を攻撃範囲内に捉える事になってしまう。打開するにはどうにかしてこの包囲陣を抜け出すしかないが、しかし《槍盾兵》たちの背後には同じ数の《弓弩兵》たちが全員揃って弩を空へ向けている。弩はその構造上連射が利かないが、しかし弓より初速が速く、また命中精度も高いという。そんな強力な武器を持っている《弓弩兵》たちの大部分が未だ戦いに参加せず《槍盾兵》たちの背後で斜め上方へ向かって弩を構え続けているとなれば、その目的は痺れを切らした《フラウ》が《槍盾兵》たちの頭上を跳び越えようするタイミングを狙って一斉射撃を仕掛けるために待機している以外に考えられない。包囲した状態で水平に撃てば高確率で同士討ちを引き起こすが、その瞬間であれば《弓弩兵》たちが放つ弩の矢はいずれも空中の《フラウ》にしか当たらない。
対応も脱出も出来ない。《指揮》の自信は偽りではない。同調が不可能となった《フラウ》を確実に殺す方法を《主天使》たちは用意していた。そのうえ《治癒魔術》が不得手で自分の傷を治す事さえ難しい現在の《フラウ》が今の接触で右肩の負傷と引き換えに脱落させられた包囲陣の《天使》は《槍盾兵》たった一人だけ……。どう考えても最悪の状況だった。
どうにか《治癒魔術》だけでも《フラウ》さんに届けてあげられたら……!
「……あっ!」
そこでひづりはハッと気付き、声を潜めて天井花イナリに耳打ちした。
「天井花さん……! 天井花さんの《転移魔術》で《フラウ》さんをあの包囲の外に出す、というのはどうでしょうか……!?」
最初に《指揮》は「《ヒガンバナ》を《転移》で呼び出してみてはどうだ」と言っていた。という事は、自身はこの《檻》から出られなくても、天井花さんはこの《檻》の外にある人や物を《転移魔術》で自由に移動させられるのかもしれない。
《転移魔術》で《フラウ》さんをあの包囲から脱出させられれば。例えば《指揮》のすぐ近くに《転移》出来れば、頭である《指揮》を倒し、夜不寝さんを救出する事だって、きっと──。
「……無理じゃ」
天井花イナリは眉を顰めてそう答えた。
「どうしてですか……!?」
ひづりが食い下がると彼女はそっと指を差した。その先には包囲陣の《天使》たちを動かしている《副指揮》の姿があった。
「あやつ、《指揮》の代理だけであそこに居る訳ではないらしい。あの周囲一帯、《魔力》の流れが歪んでおるのが見えるか?」
「《魔力》の……流れ……?」
ひづりはじっと目を凝らした。すると確かに《魔術》を使う時に可視化する《魔力》に良く似た《紫色の霧》のような物が包囲陣を中心にうっすらと漂っているのが見て取れた。
「あやつが作り出しておる《結界》なのであろう。あの包囲陣の内側に連れて来られてからというもの、《フラウロス》の体にはほんの僅かも《魔力》が流れて行っておらん。《結界》に遮られ、まるで《フラウロス》を見失っておるかのように周囲を漂っておる」
「それって……」
「ああ。強度は同調が叶わぬ《フラウロス》の炎球で穴を空けられる程度のものらしいが、しかし《魔術》に加工される前の、物理的にも魔術的にも作用を持たぬ《魔力》では、どうあってもあの《結界》を越えられんらしい。《魔方陣》を描くインクは《魔力》じゃ。その侵入が阻まれるとなれば、わしの位置から《フラウロス》の元へは《転移》であっても《治癒》であっても《魔術》を届ける事は出来ん。恐らく《フラウロス》が現在でも自力で《転移魔術》を扱えた場合を想定して用意されたものなのであろうが……」
「そんな……」
事態は思っていたよりずっと悪いものだったらしいと分かりひづりは絶望した。
こちらから《転移》や《治癒》による救助は出来ず、またあの包囲陣の内側に居る限り《フラウ》には《魔力》が補給されない。《魔力》は《魔族》にとって人間で言う酸素や熱量のようなものだと聞く。この《神のてのひら》に連れて来られてからすでに数十分が過ぎており、身を護るための炎を使うのにも《魔力》を消費するとなれば、元々活動時間の短い彼女の体はきっともうあと数分だって……。
「うおおッ!!」
「来るぞ構えろ!!」
《フラウ》が再び《槍盾兵》たちに突撃した。彼女は先頭に居た《槍盾兵》から盾を一枚奪い取るとそれを傘の様に掲げて陣の中心へと退避し、それから頭上の《弓弩兵》たちへ向けて炎を数発投げ飛ばした。まだいくらか距離のある《槍盾兵》たちから離れ、盾で矢を防ぎながら、頭上の《弓弩兵》をまずは落とす。かなり良い案に思われたが、しかし同調がなされていないせいかあるいは負傷した身で重い盾を担いだまま攻撃を行ったせいか彼女の放った炎はいずれも速度が遅く、上空の《弓弩兵》たちは五人とも寸でのところで避け果せ、傷らしい傷を負った者はいなかった。その間も《槍盾兵》たちの進軍は進み、その矛先と《フラウ》の体との距離はついに二メートル程にまで迫っていた。
「ああっ!!」
《フラウ》の背中に《槍盾兵》の槍が届き、ひづり達は悲鳴を上げた。深く刺されるのを避けようとした《フラウ》は盾を取り落とし、そこへ間髪を容れず矢が降って来て内の二本が彼女の胴体を貫いた。
「ぐ、う、ぐ……!!」
どす、どす、どす、と立て続けに周囲の《槍盾兵》たちの槍が《フラウ》の体に押し込まれた。槍が引き抜かれると血と腸が零れ出し、彼女の体を赤黒く汚していった。
「おおお……ッ!!」
《フラウ》の両腕から一際大きな炎が吹き出し、近くに居た《槍盾兵》たちの槍を数本焼いて焦がした。動揺の声が広がり、《槍盾兵》たちは少しだけ後退して盾を構え直した。死傷した《天使》は居らず、焼かれた槍や盾は用意していたらしい新しい物にすぐ取り替えられた。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
飛び出した腸を手に取って体の中に押し込むと《フラウ》はそこを焼いた。裂けた皮膚が無理矢理くっつけられどうにか形だけは傷を塞いでみせたがしかし彼女の眼はもう虚ろで先ほどから地面についたきりの左膝などはもうそこから少しも動かせない様子だった。
「ふは! あはははは! 大口を叩いても結局このザマだ!! 惨めだなぁ汚らしいなぁ《フラウロス王》!? 今どんな気分なんだよおい!?」
《指揮》がけたたましいほどの大声を上げて笑った。
「喜べ!! お前の名は今日、この永き《天使》と《悪魔》の歴史の中で初めて《下級天使》に負けた《上級悪魔》として歴史に刻まれる!! そして我々はその恐ろしき《フラウロス王》を討ち取った勇敢な《主天使》として《名》を賜り、彼の《ミハエル》や《イオフィエル》と同じように《天界》に《魔界》に《人間界》に、未来永劫名を語り継がれるんだ!! 死ね!! 死ね!! 《フラウロス王》!! 俺達のために醜い肉の塊になって死ね!!」
そして頬を高揚させながら酔った様にそう叫んだ。
「ちくしょう……ちくしょう……!」
本当に何も無いのか、今の私に出来る事は。ひづりは《檻》の柱にしがみついたまま必死に考えを巡らせた。
一か八か使ってみるか、《防衛魔方陣術式》を……! 対策はされているかもしれないが、それでも《防衛魔方陣術式》はまだ絶対に無意味だと確定していない。《フラウ》さんの居る場所まで届ける事は出来なくても、それでも発動させてどうにかこの《封聖の鳥篭》を破壊できれば、天井花さんをここから出せれば、あんな包囲だってきっとすぐに崩せるはず。
そうだ、やるべきだ。もう《フラウ》さんの体がもたない。やる。やってみせる──。
「……え?」
その時、《魔力》を使おうとしたのを察したのか天井花イナリが制止するようにひづりの体の前へ右腕をそっと差し出した。
彼女と視線が合う。相変わらず諦めの色の見えないその眼差しがひづりを見つめ、それから何も言わず別の方角へと向けられた。
そして。
「────ッ!!」
天井花イナリは突然、ある名を叫んだ。
それは自分達を襲撃して来た敵の名ではなく、また窮地に追いやられた知己の名でもなかった。
焦れたように、我慢ならんとばかりに彼女が声を張り上げて呼んだのは──。
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