和菓子屋たぬきつね

ゆきかさね

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《第3期》 ‐勇者に捧げる咆哮‐

   『懐かしいお風呂』       5/7

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『すぐに戻って来て何かと思えば、なかなか気を利かせるじゃないか、《ボティス》』

 頼朝が寝ぼけ眼のままのんびりアインの脚を冷やし終えた頃、温泉へ行ったはずのアサカ達がぞろぞろと味醂座家へ戻って来た。どうしたのかと頼朝が訊ねると、どうもいつも行く温泉施設が今日は休業だったそうで、仕方ないから引き返して味醂座家の風呂に入ろう、という話になったのだという。
 「わしらはあまり汗を掻いておらん。お主らが先に入って参れ」と《ボティス》に押され、アサカと官舎ひづりは先ほど二人で風呂場へ行った。その後キッチンで昼食を用意し始めた頼朝に《ボティス》は「たぬこと共にアインの相手をしてくる」と言ってアインを連れ中庭へと出た。

『お前、今日あの風呂屋が閉まっていると最初から《未来視》で見て気づいていたな?』

 《サキュバス》はどうもアインをかなり気に入ったらしい。《契約》の際の影響か体はずいぶん大きいようだが《下級悪魔》らしく精神は未熟なようで、人間の子供のようにきゃあきゃあと笑いながらアインと戯れていた。《ボティス》から聞かされていないのだろう、アインの中に《俺》が居る事もまるで気付いていないようだった。
 その様子を窓を開けた中庭の縁側に座って眺めながら《ボティス》は俺の問いに答えた。

『ふっ。分かるか。お主との話し合い、もう少し尺を取るかと思うておったのでな、あやつらには悪いと思うたが、しかし事情が事情じゃ、こちらの都合を優先させてもらった。とはいえ、近頃あのアホウドリの転入や《和菓子屋たぬきつね》の新たな従業員の事でアサカは気を揉み続けであろうからな、そろそろひづりと家で二人きり、ゆっくり湯船に浸かる時間でも持たせてやろうと思うたのも本音じゃ。温泉に入れんのは少々面白くないがな』

 俺は思わず苦笑を漏らした。

『まったく、本当にお前はそういうやつだな。これほど聴き心地の良い二枚舌、他にそうそう居ない』

 味醂座家は都内の一軒家としてはかなり大きいものだ。頼朝が書く本はあまり売れていないという話であったから、味醂座家を支えているのはかつてマラソン選手として活躍し現在は現役選手達の指導をしているという撫子の収入によるものなのだろう。浴室も立派で、人間三人と大型犬が入ってもまだ狭苦しさを感じないほどの広さがあった。入ろうと思えばアサカ達と一緒に《ボティス》と《サキュバス》もどうにか入れただろうが、それをしなかったのはやはりそうした配慮からだったらしい。
 今日、アサカも官舎ひづりもよく笑っていたが、しかしどちらも少し無理をしているのが隣で見ていて俺にも分かった。アサカはこの半年で母親と祖父を亡くした官舎ひづりに対し掛ける言葉が上手く纏められず、官舎ひづりはそうしたアサカの調子に気付きながらしかし初めて散歩に参加する《ボティス》と《サキュバス》の方にも意識を向けなければというそれを自身の気まずさを誤魔化す言い訳にしている……そんな感じだった。
 《ボティス》も俺と同じく、アサカと官舎ひづりはちゃんと二人きりの時間をとるべきだ、と思ってくれていたらしいが、しかし俺と違って彼女はそのための流れを実際に計画し、そして実現していた。その器用さにはもう頭が下がる思いだった。

『さて、たぬことアインを遊ばせてやりたい故ゆっくり入って来い、と念を押して来たからの、あやつらが出て来るまで少なくとも三十分はかかるであろう。喋れぬ飼い犬の身では気になる事も多いのではないか? たぬこを楽しませてくれた礼じゃ。何でも訊くが良い』

 《ボティス》は引き続き機嫌が良さそうにアインと《サキュバス》を眺めながら《交信》で俺にそう言った。
 家に着いた時点でもう《ボティス》との《交信》の時間は終わりなのだろう焦って会話のペースをかなり早めてしまった俺としてはこの確保してもらえた三十分は本当にありがたく、《犬の悪魔》として確立した己をこの上なく自覚する程に舞い上がってしまった。

『それなら、それなら、そうだ、まずお前が働いているという和菓子屋の事を聞かせてくれないか。アサカがとても美味しかったと……あぁ、いや、これはだめだ。人間の菓子を食べられないこの身では、聞くだけつらいような気がする。やめておこう。じゃあそうだ。子猫になっているという例の《フラウロス》の話が聞きたいな。お前が《俺》に気付いたのは、あいつがアサカから《俺》の匂いを嗅ぎ取ったのがきっかけだと言っただろう? あいつは俺を憶えてくれているのか。今のあいつの様子を知りたいんだ。頼むよ《ボティス》、そんな面倒くさそうな顔をしないでくれよ』






 何だか妙な事になったな、とひづりは湯船の中で抱えた自身の膝小僧を見つめながらぼんやりしていた。
 別段そこまで何かが気になるという訳ではない。目的地だった温泉施設が休業日だった以上、「近くに他の銭湯が無いならアサカの家の風呂に入るしかあるまい」と言った天井花イナリの提案は理にかなっていたし、他に良い案も出なかった。
 アサカと二人で先に入って来い、と風呂場に押し込まれたのも、まぁ分かるのだ。実際かなり汗を掻いていた自分達と違って天井花イナリと和鼓たぬこは《悪魔》だからなのかまるで涼しげな顔をしていたし、それに店で何度か顔を合わせているとはいえいきなり家のお風呂に四人で入るのはアサカと和鼓たぬこが落ち着かないだろうしな、とひづりも思ったのだ。
 だから特別不自然な事は何も無かったのだが、しかし何だかドミノ倒しの様にぱたぱたと綺麗に今の状況まで転がし込まれた様な気がしていて、ひづりはよくわからないながらその小さな違和感を行き場も無く掌の中に握っていたのだった。
「……ひぃちゃん、本当にごめんね、温泉のこと……。和鼓さんたちもとっても楽しみにしてくれてたのに……」
 同じく膝を抱えた格好で扉の方を向いて湯船に浸かっていたアサカがぽつりと言った。小声だったが浴室なので彼女の声はよく響いた。
 ひづりはハッとして顔を上げ、慌てて否定した。
「いや、アサカのせいじゃないよ。さっきも言ったけど、私も浮かれ過ぎてたんだ。営業日かどうかだって、言い出した私が調べておけばよかったんだし……。それに、和鼓さんもアインと遊ぶの楽しそうだったし、天井花さんもそれで満足そうにしてたから、きっと二人とも気にしてないよ。だから本当、アサカも気にしないでよ」
 ひづりが言い終えるとアサカは首を傾げるようにこちらを見て「そう……?」と呟いた。幼馴染のその赤らんだ困り顔にひづりはドキリとして顔をまた正面の扉の方へ向けた。
「う、うん。私も、今日はアサカや天井花さん達と一緒に走れて、とっても楽しかったよ」
「…………そっか。それなら、良いんだけど……」
 それから数秒、気まずい沈黙があった。ひづりが少し身じろぎするとその弾みでぱしゃっとお湯が小さく跳ね、生まれた波紋がアサカの方にも流れていった。
「……子供の頃以来だよね、アサカの家のお風呂に一緒に入るの。今でも銭湯とかはよく一緒に行くけど」
 天井花イナリには「ゆっ……くりと入って来い」とやけに強く言われていた。ひづりは肩を竦め、無難な話を振った。
 するとアサカは少し表情をほころばせて頷いた。
「うん。ひぃちゃんがうちに泊まりに来てくれるの、嬉しかったなぁ。……だから、今日温泉がお休みで一緒にうちのお風呂に入れることになったの、実は嬉しくて……ごめんね……」
 それからまたアサカは小さくなった。なんだなるほど、それでさっきからずっと申し訳なさそうな顔をしていたのか、とひづりは可笑しくなった。
「ふふ、私もそうだよ。数年ぶりにアサカの家のお風呂に入れて、とっても懐かしく思ってるんだ。だから一緒」
 昔はアサカの家はどこもかしこも大きく見えた。勿論今でも実際かなり立派な家だと思うのだが、それでも高校生になって改めて味醂座家のお風呂場の記憶よりずっと低く感じられるようになった天井を見れば「自分もやっぱり大きくなったのだなぁ」と感慨深くなった。「風邪を引いたらいけないから」と入浴の許可を出してくれたアサカと、それから味醂座家へ戻って事情を話すなり「わぁ残念だったねぇ」の一言で風呂を沸かしてくれた頼朝には感謝の気持ちでいっぱいだった。
 そこでひづりはふと今日アサカに話しておこうと思っていた事があったのを思い出した。ジョギングの楽しさや温泉施設が閉館日だったショックなどですっかり忘れていた。
 ひづりはアサカの横顔に声を掛けた。
「アサカ、ちょっと真面目な話をしても良い?」
「う、うん……? なぁに?」
 アサカは膝を抱えたまま背筋を伸ばし、体を少しこちらへ向けてくれた。
 ひづりは喉を整えてから始めた。
「お礼を……さ、ちゃんと言わなきゃって思ってたんだ。七月に姉さんが怪我した時、家にハナと様子見に来てくれたでしょ。先月はラウラの事で私のわがままも聞いてもらってさ。……たぶんもうなんとなく気付かれてると思うから言っちゃうんだけど、私今ちょっと新しい事を始めてて。それで結構慌しくて、余裕なくて……。だからアサカが心配してくれたり、電話で相談に乗ってくれたり、お店にも来てくれたりするの、本当に嬉しいんだ」
 アサカは目を丸くして顔をいっそう赤くした。
「ど、どうしたの急に……」
 ひづりもちょっと恥ずかしくて、いいから聞いて、と押し切った。
「アサカのおかげで、どんなに新しい事を始めても不安にならなくて済む、っていうか。だからその、アサカに何かお返しをしたかったんだけど……今度は母方のおじいちゃんの事で、また心配掛けちゃってさ……。駄目だよね、私。でもこの間電話でも言ったけど、一応もう大丈夫なんだ。向こうの家の親戚の人達と話をしたりして、今までうちはほとんど関わりもなかったのに、葬儀にも呼んでもらえて……。だから気持ちの整理だけはついてるんだ。私はもう大丈夫だよ。ありがとう。だから、アサカももうそんなに不安に思わないで欲しいんだ。これまで通りにして欲しい。それで、これからは私からのお返しを楽しみにしてて欲しい。……それを伝えておきたかったんだ」
 ひづりの話をアサカは時折控えめに頷きながらじっと聞いてくれていた。そして話が終わると一度視線を下げて、それからまたひづりの顔を見た。
「……そう、なんだね。そっか。うん、わかったよ。でも、お返しなんて、そんな特別に考えてくれなくていいよ。私もひぃちゃんと電話でお話したり、学校やお店で会えたら、もうそれだけで幸せだから。……それに、今日もそうだけど、アインの散歩を高校生になっても続けてくれてるの、本当に嬉しいんだ。ひぃちゃんが思ってる以上に、私はいつもひぃちゃんから色んなものをもらってるんだよ」
 アサカはにっこりと笑って真っ直ぐにそう言った。ひづりは思わず泣きそうになってつい顔を背けたが、この距離である、きっと隠し通せてはいなかった。
「……ありがとう、アサカ。でも、お返しはいつかちゃんとするからね。私、恩知らずにはならないからね」
 ひづりは一度すんと鼻を啜ってから微笑んで見せ、改めてその決意を口にした。
 するとアサカはふと何か思いついたように視線を泳がせて、それから控えめにちら、とひづりの方を見た。
「あ……ね、ねぇ、そのお返しなんだけど……今お願いしても、良い……?」
 思わぬ申し出にひづりは上機嫌になって少し身を乗り出した。
「なになに? 言って言って!」
 アサカはまた俄に顔を赤くして、落ち着かなさそうに扉の方を気にしたりしながら、今日一番小さな声でぽつりと言った。
「……昔みたいに髪の洗いっこ……とか、駄目……?」
 ひづりは思わず、ぽかん、としてすぐに返事が出来なかった。
 確かに小学生の頃、こうして一緒にお風呂に入るとよく二人で髪の洗い合いをしていた。当時ひづりはまだクセ毛が出ておらず真っ直ぐな髪質で長さも今のアサカと同じくらいあり、幼いアサカは子供ながらその長いひづりの髪をとても丁寧に洗ってくれていた。ひづりも、周りの誰より可愛いと思っていたアサカのその繊細な髪を毎回緊張しながら泡立てていた。とても懐かしい、微笑ましい記憶だった。
 しかし。
「それは全然良いけど……でもそれ、別にお返しにはならない気がするよ?」
 洗いっこ、という事は、ひづりがアサカの髪を洗うだけではなく、ひづりもアサカに髪を洗ってもらうという事だ。それでは何のお礼にもならないのではないか。
 するとアサカはカッと目を見開き、ざばりと右手を湯船から出して胸の前で握り締め、そして。
「いいえ! ひぃちゃんに髪を洗ってもらうのも、ひぃちゃんの髪を洗うのも、昔から最高のご褒美です!!」
 と、とても元気に主張した。それがもう昔からよく知る普段通りのちょっと様子のおかしいアサカそのままで、ひづりは何とも嬉しくなって胸の中がぽかぽかと暖かくなった。
「ふふ、分かったよ。じゃあお返しの手始めとして、まずは髪の洗いっこ、しようか」
 ひづりが頷くとアサカは目じりにちょっと涙を浮かべ両手を真上に突き出しながら、やったあー!! と中庭まで聞こえそうな大声で叫んだ。



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