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《第3期》 ‐勇者に捧げる咆哮‐
『猫の奇跡』 4/6
しおりを挟むスマートフォンの通話終了ボタンを押した後、ひづりは数秒間その場でゆっくりと長い深呼吸をした。そして気持ちの整理がつくと畳部屋の襖に向き直り、軽くノックしてから中へ戻った。
ひづりが通話している最中、畳部屋ではほとんど会話が無かった様で、待たせてしまっていた天井花イナリと凍原坂と《火庫》はひづりを見るなりどこか安心したような顔をした。
「それで、千登勢は何と?」
いつもの様に大量の座布団を崩して座り込んでいた天井花イナリは窺う様にひづりに訊ねた。
ひづりも自分の座布団に腰を下ろしながら、今しがた千登勢との通話で聞いたままを彼女らにも伝えた。
「市郎おじいちゃんの担当医だったお医者さんに今日も付き添ってもらって、火葬炉に入れるまで何度も診てもらったけど、やっぱり間違いなく亡くなってるって……。火葬、さっき無事に終わったみたいです」
「……そうか」
天井花イナリが短く答えた後、しん、と畳部屋は静まり返った。
葬儀から一夜が明けていた。木曜の定休日であったが《和菓子屋たぬきつね》の店内には今日も今日とて店主たちの姿は無く、しかし『とある理由』で集まる必要があったひづり達はこれ幸いにとこっそり皆でこの畳部屋を利用していた。
「では、ちよこらが戻って来て邪魔をされては面白くないからのう。早速、昨日の市郎の葬儀で起きたあの不可思議な現象の原因について、わしとひづりが調べ、考え至った推測を話すとしよう」
顔を上げ、天井花イナリはそう切り出した。
「はい、お願いします」
凍原坂と《火庫》は緊張した様子で居住まいを正した。《フラウ》はいつも通り座布団で丸くなって寝ていた。
天井花イナリが今言った通り、ひづりは昨日の式の後、市郎の棺が揺れたあの一瞬に一体何が起こっていたのかを彼女に《過去視》で見てもらっていた。密閉された棺の中で起きた出来事を後から確認する術など普通は存在しないが、しかし《未来と現在と過去が見える力》を持つ彼女にならきっとそれを突き止められると思ったのだ。
……結果、市郎の遺体はあの時ひとりでに動いて、棺の壁を一度だけ蹴っていた事が判明した。
医師が何度もその死を確認したにも関わらず一体何故そんな事が起きたのか? その原因について昨日ひづりと天井花イナリが図書館で調べ議論して出した推測を凍原坂たちに伝えるのが、今日集まった『とある理由』だった……のだが。
しかし凍原坂は既に自身でその推測に当てがついているのか、《火庫》と二人暗い顔をしていた。
天井花イナリも彼らの様子には気づいているようだったが構わず一つ息を吸ってから厳かに言った。
「昨日の葬儀で市郎の棺が動いたのは、この国に根ざした《猫檀家》の逸話が原因である可能性が最も高いのではないか……というのが、ひづりとわしの現時点での考えである」
……《猫檀家》。昔、貧乏な寺の和尚が一匹の猫を可愛がっていた。しかし食うに困るほど生活が困窮し始め、和尚はその猫と別れなくてはいけなくなった。
猫は和尚にこんな話を持ちかけた。『近いうち、長者の家で葬儀がある。そこであなたはあなたのすべき事をしなさい』と。
やがて猫の言った通り、村の長者の家で人が亡くなり、大きな葬儀が行われた。
すると葬儀が進む中、故人を納めた棺桶が突然ふわりと宙に浮き上がる。家の者は驚き、僧侶達は念仏を唱えたが、一向に棺桶は降りてこない。
そこで貧乏寺の和尚が念仏を唱えると棺桶はゆっくりと下りて来て、葬儀は無事に終える事が出来た。その後、功績を称えられた和尚の寺には多くの檀家がつき、永く栄えたという……。
《猫檀家》の物語は古今東西を人の口から口へと伝わり広められて来たため、物によっては『猫が跨いだ瞬間棺桶が動き出した』や『死者が立ち上がって踊り出した』という具合に、土地によってやや異なる内容で伝えられている事も珍しくなかったが、いずれにしてもそこには日本に根ざした『猫は死者を蘇らせる』という言い伝えを交えて語られる場合がほとんどだった。
「…………やはり、そう、だったのですか」
凍原坂はうな垂れ、体を小さくした。
「その口ぶり、お主も同じ推測をしておったのか。ひづりもかなり早い段階で気づいたようであったし、やはり日本人のお主らにはその言い伝え、自力で頭に思い浮かぶ程度には馴染みがあるようじゃな」
ひづりの顔をちらと見て天井花イナリは納得した様子を見せた。《猫の妖怪》である《火車》と、《黒豹の悪魔》である《フラウロス》。高い《神性》と《魔性》を持つこの二匹の猫であればもしかしたら《猫檀家》のような現象を引き起こしてしまうのではないか、というこの推測に最初に思い至ったのは、日頃猫に関する書物をよく読んでいたひづりだった。
凍原坂は、いいえ、と首を横に振った。
「先に気づいたのは、《火庫》なんです。昨晩、ひづりさんからお招きの電話を頂いた後、《火庫》が話してくれたんです。……《火庫》、あの時の説明、天井花さんとひづりさんにもしてくれるかい」
父親と同じ様に縮こまっていた《火庫》は小さく頷いてから口を開いた。
「……実は、昨日の市郎様の葬儀……凍原坂さまと共に焼香台の前へ来た時、ほんの微かなものでしたが、わっちと《フラウ》との間に、それまで味わった事の無い妙な感覚が走ったのです。種類としては、七月にあの《ベリアル》という《悪魔》と戦った折、《フラウ》と同調して互いの《魔力》を強く通わせたのとよく似ていましたが……ですが七月のあれは明確に、わっちと《フラウ》の感情の共有によって起きていた、と憶えています。昨日のあれは、全く、わっちが意識した事でもなければ、《フラウ》の方からその意思が流れて来た訳でもなく、勝手にわっちらの《魔力》が俄に形を持ち、体の外でよくわからない《何か》になって、そのままどこかへ行ってしまったのです。あの時は、その直後に起きた棺の振動に驚いて、しばらくその事を忘れてしまっていて……。それを、昨日ひづりさんからお電話を頂いた後に、ふと思い出したのです。そして凍原坂さまにお話しして、その、《猫檀家》のような事が起きてしまったのではないか、と……。申し訳御座いません、白狐様、ひづりさん……。《猫》であるわっちや《フラウ》が参列すれば、いつか葬儀の席であの様な事になるのでは、と、もっと早くに気づくべきでした……」
《火庫》は天井花イナリとひづりの方を向いて深く頭を下げた。すると続いて凍原坂まで同じ様に額を畳にくっつけた。
「意図しての事ではないとは言え、私達のせいで市郎さんの葬儀をあの様に穢す形になってしまって、本当に、申し訳御座いませんでした」
ひづりは慌てて否定した。
「いえっ、今日お呼びしたのは決して《火庫》さんや凍原坂さんを責めようとか、そういうのではなくて……! ……私も凍原坂さん達も、私の母の身勝手に巻き込まれて、よく分からないままほったらかしにされた身です。だから、分からない事があったら話し合って共有して、上手くやっていきたいなって、そう思ってて……。……それと、もしこの推測が本当だったら、凍原坂さんたちにはお願いしたいなって思っていた事があって。……千登勢さん。花札の人達には、絶対に知られないように……言わないようにしてもらいたいんです。千登勢さん、きっとショックを受けると思うから……」
天井花イナリと共に図書館でいくら文献を読み漁ってみても、この《猫の奇跡》を元に死者が生者になった、という記録は一つも見つけられなかった。市郎が元気に生き返る訳でもなく、偶然とは言え遺体が弄ばれる結果になってしまった以上、この件はどうあっても千登勢に伝えるべきではないと思えた。
「はい、それはもう、必ずその様に致します……」
凍原坂はそう約束してくれた。
二人に顔を上げてもらい一旦落ち着いたところで、ひづりはこの《猫檀家》の推測が正しかった場合の当然抱くべき疑問について思い出し、二人に訊ねた。
「そうでした。もしこの《猫檀家》の推測が正しいとしたら、一つ引っかかる事があったんです。凍原坂さん。《火庫》さんと《フラウ》さん、お二人と暮らし始めてから、これまで一度もお知り合いの方の葬儀へ三人一緒に参列されたこと、無かったんですか?」
凍原坂は《火庫》と目を見合わせた。
「全てでは無いですが……三回程……でしょうか、三人での参列は確かにありますが……」
「その時は、その知人の方の棺が揺れたりなんてこと、無かったんですよね?」
ひづりの考えを察したようで、凍原坂は口元に手を当てて少し考え込む様にした。
「はい。もし昨日の様な事が二人との暮らしの中で頻繁に起こっていたら、さすがに私も《猫檀家》のような現象の可能性を疑っていたと思いますし……そうなれば、以降二人を葬儀の場に連れ出すのはきっと避けたと思います」
「じゃあ、どうして昨日だけ急にあんな事になったんでしょう……?」
ひづりと凍原坂と《火庫》は揃って首を傾げ、それから縋る様に天井花イナリの方を見た。彼女は困った様な顔をした。
「わしは日本の《神性》については詳しくないと言うたであろうが。……しかしまぁ考えはしておる。昨日になって急に不可思議な出来事が起きたとするなら、それも同じく、お主らの間で流れておった《フラウロスの魔力》の循環にここ数ヶ月で大きな変化が生じた事を起因としておるのではないのか? 《猫檀家》発生の引き金となったのは恐らく《フラウロス》ではなく、日本の《妖怪》である《火車》……《火庫》の方であろう。七月の《ベリアル》との戦い以前までお主らは互いの《魔力循環》に対し無頓着であったと言うたな? 同調する事で互いの《神性》と《魔性》の底上げが出来る事は知っていても、実際にあれほどの戦いに臨み、動けなくなるほど《魔力》を消費したのは初めてだったのであろう? であれば、あの《ベリアル》との戦いがきっかけで、以前よりずっと多くの《魔力》が《火庫》の方にも巡るようになったのではないか? 加えて今は、ひづりの《滋養付与型治癒魔術》で幾らか補填されてはおるが、それでもこれまで当たり前に存在しておった凍原坂という《魔力の発散先》を失っておる。《フラウ》と《火庫》双方の総量で言えばそこまで代わっておらんのかもしれんが、《火庫》の方に割り振られておる《魔力》の量は以前より遥かに多くなり、持て余し、それが今回の様に土地に根ざした《昔話》に誘発されて勝手に外へ漏れ出てしまった……という事ではないのか?」
「それは些か考え違いだな、《ボティス》」
天井花イナリの推測に「なるほど……」と思っていたひづりは驚いて《フラウ》を振り返った。他の三人も同じく、俄に眼を覚まして口を挟んで来た彼女に見事に虚を衝かれていた。ちゃんと起きて喋る《フラウ》を見たのは随分久しぶりに思えた。
目を細め、やや体を前のめりにしながら天井花イナリは訊ねた。
「お主、起きておったのか。考え違いとは何じゃ、言うてみよ」
《フラウ》は丸めていた体を起こすと、にゃあ、と一つ大きなあくびをしてからまた天井花イナリを見た。
「ふふふ、《ボティス》がわっちに智を求めるとは気分が良いな。よかろう。あの海が見渡せる町での《ベリアル》との戦い、あれが《火庫》にとって《悪魔》との初陣であったのは確かだ。しかしあれが原因で《火庫》の《魔力量》が上がった訳では無い。わっちが最近になって《火庫》に《魔力》を分けてやっておるのだ。それだけの事よ」
分け与えている……? 思いもしなかった彼女の発言にまた一同呆気に取られた。
「何ゆえ……その様な事をしておる?」
天井花イナリに訝しげに訊ねられると、《フラウ》はにんまりと良い笑顔を返した。
「決まっておろう。わっちの《魔力》を《火庫》に渡せば、そのぶん《火庫》の『一日に寝なくてはならん時間』は、ぐっと減る。日中の活動時間が増える。《火庫》。貴様は今、とーげんざかのために《ボティス》の許で働かねばならんのであろう? 眠い眠いと言うてはおられんのであろう?」
振り返り言われた《火庫》はここ数日で一番驚いたという顔をした。
「《フラウ》……あなた、そんな事をしていたの……?」
得意げに胸を張って《フラウ》は「うむ!」と笑った。
そういう事だったのか、とひづりも腑に落ちていた。《火庫》ちゃんは店で働き始めてからというもの、めっきり眠気らしいものを見せなくなっていた。出勤日には朝から夕方まで働き詰めだというのに。
その一方で《フラウ》ちゃんの方の睡眠時間は驚く程増えていた。店に来る時はいつも凍原坂さんに背負われて届けられ、その後もほとんどの時間を畳部屋で寝て過ごし……起きている時間なんて、たまに出て来て天井花さんに絡むほんの数分くらいのものだった。以前は二人とも大体同じタイミングで眠そうにして、凍原坂さんの両隣で昼寝をしていたのに。
どうやらこういう事だったらしい。生命にとって高い滋養効果があるという《魔力》を大量に譲られた事で《火庫》ちゃんは日中頻繁に眠る必要が無くなり、一方で《魔力》を明け渡した《フラウ》ちゃんは《火庫》ちゃんの分、ほぼ一日中寝て過ごすようになった、と。
「確かに……最近全然眠くならないと思っていたけれど……そんな事……」
その《フラウ》の行動はすんなり受け止められない程意外なものだったらしく、《火庫》は途切れ途切れに言葉を漏らしていた。
《フラウ》は《火庫》を見つめ、眼を細めた。
「《火庫》、貴様の眼にはとーげんざかしか映らぬ。そんな貴様が、この人の世で《ボティス》やその《契約者》らと共に何か新たな事を始めると言う。であれば家族の願いを聞いてやるのも《王》の務めというものよ。気にするでない、にゃふふはは!! ……ぐぅ」
盛大に高笑いした直後、《フラウ》は急にぱったり座布団に倒れこんでいびきを掻き始めた。畳部屋がまたしいんと静まり返った。
「……ありがとう、《フラウ》」
凍原坂は微笑み、再び眠り込んでしまった娘の黒髪を優しく慈しむ様に撫でた。
「やるならやると最初にそう言っておけというのじゃ。人騒がせなやつめ」
天井花イナリは座布団の中に沈み込んで毒づいた。ひづりは相変わらず仲の良い二柱の《王》を前に思わずクスッと笑ってしまった。
《フラウロス王》は凄まじい炎の力を与えられた《悪魔の王》であると同時に、家族に対する深い愛情を持った親愛の王でもある──。以前、そんな風に天井花イナリが話していたのをひづりは思い出していた。
《フラウロス》、六十四番目の悪魔の王。彼女は《勇猛》を愛するが、しかし意外にも自身の王国民に強さというものを求めない。それどころか兵隊としてすら扱わない。戦の折にはいつも必ず自分の身一つで出陣する。我々も戦場について行かせて欲しい、と申し出た王国民に随伴の許可は出すが、しかし《フラウロス王》が戦場でその《紫苑の炎》を身に纏う限り、彼らが戦う機会はいつも皆無に等しかった。
《フラウロス王》は己の王国民を全て『私が庇護すべき家族だ』と思っている。彼女の《王》としてのあり様は、『強き王が統べる国は何人にも侵されず、家族が戦で命を散らす事も無い』という、とても単純な理屈が中心になっているのだそうだ。
だから彼女は《勇猛》を愛する。家族を護るために強くあり続ける姿勢、そこに最上の価値を見出す。
ひづりは初めてその話を聞いた時、やはり彼女も猫なのだな、という感想を抱いた。以前読んだ本に、『猫というのはどうやら一緒に暮らしている人間の事を「護ってあげないといけない家族」と思っていて、来客があると真っ先に玄関へ向かったり、ねずみや鳥を捕まえて飼い主に見せに来たりするのは、自分の家族を襲いに敵が来たのではないかという警戒だったり、食べ物を捕ってきて人間に与えようとしているからなのかもしれない』という説が綴られていたのだ。
もしそれが本当なら、《フラウロス王》の行動原理はやはり《猫らしい》と言える。ラウラもそうだったが、どうやら《悪魔》であってもその体に鳥や猫といった動物の身体的特徴を有していると、その性格にも色濃く影響が現れるようなのだ。
しかしそんな事を微笑ましく思い出していたところで、ひづりはふとまた気づいた。
動物の身体的特徴を有していると性格にもその動物の傾向が出るというなら、では《蛇の悪魔》である天井花さん……《ボティス王》の性格は、一体どの辺りが蛇っぽいのだろうか……?
以前ラウラは『《ボティス》は《尊敬》を重要視する』と言っていた。爬虫類は人間に慣れることはあっても懐くことはないと聞く。自分を適切に扱える相手……《王》に正しく《敬意》を示せる者にのみ、彼女は寛大な態度で接する……とか、そういう事なのだろうか?
「ともあれ、《一時的な蘇生の奇跡》などというものがあの様に偶発的に生じるとは、日本とは妙な国であるな。《火庫》。改めて訊くが、《死者の蘇生》は昨日まで一度も経験が無かったというのは真か?」
ひづりが首を傾げて考えているとその天井花イナリが話を戻した。ひづりは背筋を伸ばして話し合いに頭を切り替えた。
「はい。少なくともわっちは身の周りで死んだ人が蘇ったのを見たことはありません。棺が揺れるのを見たのも……昨日の、市郎様の時が初めてです」
こちらに配慮してだろう、《火庫》は丁寧に言葉を選んでくれている様子だった。
「ふむ……。もし《火庫》が今後訓練次第で意図的な《死者の蘇生》が可能となるなら《天界》に対してわしらが有する抑止力も一段階上昇するのでは、と少々期待しておったが……しかし文献にこの《猫の奇跡》を用いた《完全な死者の蘇生》についての記述は見られず、また《フラウロス》から大量の《魔力》を分け与えられるのが発動条件であり、それで遺体が揺れ動く程度というのであれば、やはり手としては弱いかの。仮に《フラウロス》からすべての《魔力》を譲られた状態であったとしても、心停止から数日が経った死者がそのまま無事に息を吹き返すとは到底思えぬ。《猫の奇跡》が《時空観測術》に関わりある様にも思えぬしな。……《火庫》よ、あの《猫檀家》のような現象を今後も制御出来ぬなら、当分お主は人の葬儀への参列を控えた方がよかろう。凍原坂の周りに妙な噂が立つのはお主も望むところではあるまい」
《火庫》は「はい……」と少し悲しそうな顔で頷いた。
「では異論無くば此れはこの場に居る者限りの話とする。よいな?」
締めくくる様に天井花イナリは全員の顔を見渡した。ひづりも凍原坂も《火庫》もそれに頷き返した。
「あの、天井花さん、ひづりさん。ひづりさんや私の体にあるという例の《契約印》について……改めて詳しく教えて頂く事は出来ないでしょうか?」
しばらく間が空いてしまっていた凍原坂への《滋養付与型治癒魔術》の施術を、ついでだから、とそのまま畳部屋で行った直後だった。凍原坂はひづりに施術のお礼を言うと徐に少し下がって天井花イナリとひづりの方へ向き直り、膝を揃えて何やら思い詰めた様子でそう言った。
特に興味も無さそうにひづり達の様子を見ていた天井花イナリは座布団の山の中で頬杖をついたまま片眉を上げた。
「ほう? それは何ゆえ?」
凍原坂は自身の娘たちの方をちらと見て、それからもう一度こちらに顔を向けた。
「……私には、これまで永らく目を背け続けてきた、大きな懸念があります。市郎さんを亡くされたばかりのひづりさんの前でこの様なことをお訊ねするべきでは無いとは思いましたが……もし構わないと言って頂けるなら、今、訊いておきたいのです。……懸念とは他でもありません、私が死んだ後の、《火庫》と《フラウ》の事なのです」
ひづりは、どきっ、として体が硬直した。《火庫》も目を皿の様にして父の横顔を見つめていた。
「……市郎の死を見て、遠くない我が身の事と思うた、と、そういうことか?」
天井花イナリは言葉を遊ばせるでもなく真っ直ぐにそう訊ねた。凍原坂は緊張した様子で一度だけ頷いた。
「私はもう四十三です。日本人男性の平均寿命にはまだ三十年はありますし、私自身もまだ死ぬつもりはありません。ですが、そろそろ何があるか分からない歳である事にも、代わりはありません。動けるうちに、調べられるうちに、《火庫》たちのために出来る事をしておきたいのです」
「……なるほどのぅ」
天井花イナリはめんどくさそうに身じろぎをした。
ひづりは胸の内で凍原坂の言葉を受け止めていた。自分がもし、覚悟も準備も無いまま明日死んだとしたら、周りの皆はどうなるのだろう。ひづりもこれまでにそうした憂いを抱いた事は何度かあったが、けれどそれは想像ばかりのことで、そのために何かを備えた事はなかった。
凍原坂には娘が居る。血の繋がりは無くても、この十四年を親子として暮らしてきた二人の娘だ。自身の死後取り残されるであろう彼女達を想う凍原坂に対し、まだ十七歳で、子供を持つという事が実感として理解出来ないひづりには、何か掛けてあげられる言葉があるようには思えなかった。
「まぁ、良かろう。どうせ万里子はお主に細かい説明なぞしておらんかったであろうし、《フラウロス》はボケておろうし、こちらの手元にある《レメゲトン》は今後もひづりが使うゆえ貸してはやれんしの、今後のためにもいずれわしから話してやらねばなるまいと思うておった。良い機会じゃ、説明してやろう。ひづりもそれで良いな?」
天井花イナリはすっくと立ち上がって着物の袖を組んだ。ひづりはハッとして慌ててそれに頷いた。それから天井花イナリは《火庫》に命じて、前回凍原坂たちに《滋養付与型治癒魔術》について説明した折にも用いたブラックボードをフロアから持って来させた。
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