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《第3期》 ‐勇者に捧げる咆哮‐
7話 『土地に根ざした神性』 1/6
しおりを挟む7話『土地に根ざした神性』
そこそこな距離がありながら新宿から東大井までに必要な乗り換えは一回のみで、また過去に訪れた事があるという父のおかげで迷うような事もなかった。大井駅を出て大通りを東へ歩いていると、電車の中で確認した地図では海までまだずいぶん距離があるはずだったが、それでも仄かに潮の香りが街の空気に混じり始めた。
東京は今朝から晴れていた。何の特別さもなく、昨日と同じ様に晴天だった。五月に母が死んだと知らされた日もこんな風によく晴れていたのをひづりは思い出していた。
九月二十五日の十六時過ぎ、ひづりたちは花札家に到着した。海に近い東大井の一軒家に父と暮らしている、という話は、七月の旅行の際に千登勢から聞いてひづりも知っていた。ただ実際に足を運ぶ機会をこれまでなかなか作れず、細かな住所を知ったのも今日になってだった。
花札家は大通りを逸れた車一台分くらいの細い小道の先に在った。辺りは民家が密集していたが、しかしその小道だけは背の高い街路樹や丁寧な作りの植え込みが設けられていたため幾らか見晴らしがよく、それらに包まれる様に佇む真っ白な外壁の花札家は際立った上品さを纏って見えた。
幸辰がそっと呼び鈴を押した。家の中から微かにベルの音が聞こえ、それから玄関扉のすり硝子の向こうに人の動く気配が見えた。心臓がどきりと跳ね上がり、決めたはずの覚悟が脆くも剥がれ落ちていくのをひづりは感じた。
「来てくださって、ありがとうございます」
玄関の戸を開けた千登勢は、朝に電話で聞いた痛々しいしゃがれ声のままひづり達にそう言ってぺこりと頭を下げた。
朝、千登勢から伝えられた市郎の訃報にひづりは酷く取り乱した。当然だった。昨夜駐車場で別れた時の市郎は、昼過ぎに店へ訪れた時よりもずっと明るい顔をしていた。ひづりの手も借りず一人で助手席に乗り込むくらい、体調だって良さそうだった。あれからほんの九時間程しか経っていない。
耳に当てたスマートフォンを両手で握り締め、何がどうして、とても信じられない、とひづりが問うと、千登勢は市郎が患っていた病と、それから昨晩市郎と共に帰宅した後に起きた事について静かに語ってくれた。
市郎は四年前から狭心症という心臓病のために通院をしていた。加齢によって古くなった心臓周辺の血管が血液の流れを阻害し、悪化すると血流が止まって死に至る、恐ろしい病だった。半年前には一度、無事に回復こそしたが、心筋梗塞も起きていた。
そしてその半年前の心筋梗塞の直前に確認されていた狭心症特有の胸の痛みが、一昨日の晩、市郎の体には見られていた。
痛み自体はやがて治まったが、けれどそれから一晩経った昨夜、千登勢と共に帰宅した市郎は入浴の直後から再び胸の痛みを訴え始めた。痛みは瞬く間に増し、千登勢は急いで救急車を呼んだ。
病院に運ばれてから数時間、市郎は緊急治療を受け続けた。しかし深夜の三時を過ぎた頃、医師の努力も虚しく息を引き取ったという。
ひづりも、市郎が心臓を患っている事は一応話には聞いていた。だがそんなに深刻な状態にあるなどとは、まして一昨日の晩にその様な危険な発作が出ていた事など知りもしなかった。
千登勢の話を聞き終わったひづりの背中は冷たい汗で濡れていた。
からからに渇いた喉でひづりは言った。
「……私の……せいかもしれません……」
昨日一日の自身の行動を、ひづりは絶望的な気持ちで振り返っていた。
墓掃除の時だった。草むしりや花筒に入れる重い水は老人の足腰には良くないだろうと思い、市郎には墓石の拭き掃除をお願いしたが、けれどその直前、霊園に着いた時点で彼はあまり顔色が良くなかった。昨日は風が強かった。九月末の冷たい風の中、濡れた雑巾を扱わせたせいで市郎の体はあの時ひどく冷えてしまったのではないか。市郎がどんなに大丈夫だと言っても、墓掃除なんて全部自分一人でするべきだったのではないか。いやそもそも東秋留までの電車での長旅、あれもきっと良い判断ではなかった。乗り換えは多かったし、階段の昇り降りも七十代の人間には平気なはずがなかった。電車の長旅が彼の体に大きな負担となる事くらい、分かるべきだった。
市郎おじいちゃんが笑ってくれたから、千登勢さんが笑ってくれたから、上手くいったと思ってしまっていた。ひづりは自分のあまりの愚かさに悔しくてたまらなくなり、床に座り込んで涙を零した。
全て、はしゃいで周りがよく見えなくなっていた自分のせいだ。市郎おじいちゃんを死なせてしまった。千登勢さんに残されたただ一人の肉親を、私の我侭で奪ってしまった。私が花札の二人と仲良くなりたいなんて思わなければ、こんな事にはならなかったのに…………。
『違います!!』
その時、耳をつんざくような千登勢の大声がスマートフォンのスピーカーから飛び出してひづりの頭を大きく揺さぶった。めそめそ泣いていたひづりはそれでハッとして数回瞬きをした。
『違います、違いますわよ、ひづりちゃん、聞いてください』
スピーカーは千登勢の声を鳴らし続けていた。どうやら自分はさっきの大声で言われるまで彼女の声が聞こえない状態にまで陥っていたらしい、とひづりは気づいた。父も隣にしゃがみ込んで「ひづり、大丈夫かい、パパの声が聞こえているかい」と心配そうに声を掛けてくれていた。
「き、聞こえます。大丈夫、です」
ひづりは父に、意識はあるよ大丈夫、と頷いて見せながら千登勢に返事をした。
電話口の向こうで安堵するような溜め息が聞こえた。
『良かった……。……父の事は、本当にひづりちゃんのせいではありません。悪いのはわたくしです。急な仕事が入ったからといって、発作の事も何も伝えずにひづりちゃん一人に高齢の父を任せたわたくしの……。ごめんなさい、ひづりちゃん……つらい想いをさせて……』
「どっ、どうして千登勢さんが謝るんですか!? 私っ、私は……!」
ひづりは情けなくてまた涙が溢れて来た。花札家のために何もしてあげられなかったどころか、千登勢から父親を奪ってしまった。その罪悪感が胸を締め付けていた。
千登勢は幼い子供に言い聞かせる様に、なだめすかす様に、一つ一つ丁寧に話してくれた。
『ひづりちゃん、どうか気に病まないでください。昨日、父はどうしてもひづりちゃんに会いたかったんです。だから前日に発作が出ても、明日絶対に行くんだ、発作が起きた事は秘密にしておいてくれ、って言って……。わたくしも、姉さんの誕生日をひづりちゃん達と過ごしてみたくて……。だから、昨日の事はわたくしと父のわがままだったのです。それに、ひづりちゃん。わたくし、こうなる覚悟は、もうきっと出来ていたんですの。先月、《グラシャ・ラボラス》さんが語ってくれた、もし近いうちに父が亡くなったら、というあのお話です……。あれはきっと、あの場きりの遠い未来の例え話ではなかったのでしょう。あの方はきっとわたくし達の《未来》を見ていたんだと思うんです。わたくしや父に、今日という日が来る、その覚悟をさせてくれていたんじゃないか、って……。父は昨日帰りの車内で、ひづりちゃんとのお墓掃除の事を何度も何度も、まるで子供みたいに嬉しそうに話してくれたんですのよ。ひづりちゃん。最期に父を姉さんの誕生日に誘ってくれて、本当にありがとう』
ひづりは思わず胸の前でぎゅう、と拳を握り締めた。違う。私はあなたにそんな言葉を言わせたくて昨日の会食を提案したんじゃない。それに今慰められるべきは私じゃなくて千登勢さんだ。父親を亡くした貴女なんだ。その嗄れた喉だって、一晩中泣いて潰してしまったものだろう。
けれどひづりは声が出なかった。悲しさと申し訳なさ、そして後悔と不甲斐なさに両目は先ほどから涙が全く止まってくれず、咽び上がった喉はもうまともに声を発さないでただ変な唸り声の様なものを零すだけになっていた。ずきんずきんと痛む頭痛がし始めるとひづりは次第に何も考える事が出来なくなっていった。
それからの事は記憶がおぼろげだった。ひづりがどうにかスマートフォンを返すと、父は依然心配そうにしながらもそれをスピーカー通話にし、千登勢との通話を再開した。二人が葬儀の話などしているのを、ひづりはうずくまったまま意識の端でぼんやりと聞いていた。
やがて、今日通夜を行うが、恐らく昼過ぎまでは慌しくなりそうなので日が暮れる前くらいに来てくれると嬉しい、という様な事を千登勢が言った。
「私、学校に行こうか……?」
千登勢との通話が終わった頃、立ち上がってとにかくと朝食の準備に取り掛かった父の背中に、ひづりはそんな質問をした。
父は眼を丸くして振り返り、それから泣きそうな顔をしながら「いいんだ、今日は学校も勉強も休んで、それから千登勢さんに会いに行こう」と言ってひづりの頭を優しく撫でた。……ああ、そうか、普通身内が亡くなったら学校を休むんだ、とひづりはその後で気づき、思考力が極端に低下して何もかも駄目になってしまっている己を自覚した。なんだ、「学校に行こうか」って……。
昼過ぎまでひづりは寝巻きのままだった。着替えなくてはいけないと思っても体が動かなかった。父がブランケットを持って来て体に被せてくれたり、代わりに学校へ休む旨を連絡してくれたり、また事情を伝えられた天井花イナリが家まで来てくれたりもしたが、やはりひづりは立ち直れなかった。
何も言えず何も出来ず、思い出した様にぼろぼろ泣いては父や天井花イナリを心配させるだけの時間が、どうしようもなく昼の二時頃まで続いた。
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