和菓子屋たぬきつね

ゆきかさね

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《第3期》 ‐勇者に捧げる咆哮‐

   『ひとまずの進展』

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「ここが学生食堂です。良かった、空いていました。明日は休日だからでしょう、やはり大部分の学生はもう帰っていたようです」
 扉を開けて入った凍原坂に続いて、ひづりもその天井が高く壁の一つがまるごと窓ガラスになっている広い空間へと足を踏み入れた。清潔感のある茶色のテーブルと椅子がきっちり部屋の端まで並べられていて、まばらに腰掛けた学生らは各々目の前の夕食に向かいながら、時折日の暮れた窓の外を見ては困った顔をしていた。
 大学見学の予定通り、行き掛けに前を通ったリバティタワーへとひづりは案内されていた。ここはその十七階にある学生食堂で、丁度夕飯時でもあり、凍原坂が奢りたいと言い出したのだ。
 外では激しい夕立が鳴っていた。研究棟を少し見てそれからリバティタワーに移り各階を案内をしてもらっていたところで不意に雨音が聞こえたかと思うと、もうあっという間にざあざあ降り始めたのだった。
 ひづりはもう少し構内を案内してもらう予定だったし、折りたたみではあるが一応傘を持って来ていたので雨が弱まった頃にでも帰れば良いだけだったのだが、しかしワイン一本しか持って来ていなかった渡瀬がいわく吉祥寺だという家まで無事に帰れたのか、そればかりはちょっと気がかりだった。
「ですが本当に残念です。せっかく来てもらったのに、今になって降り出すなんて。いつもは夕陽がよく見えて綺麗なんですよ、ここ。惜しい事です。渡瀬が変に時間を取らせなければ……」
 各々注文した料理を手にテーブルへ着いたところで凍原坂が悔しそうに声を低くした。ひづりが窓ガラスを打つ忙しない雨粒を眺めていたのをどうやら気にしたらしかった。
「いえ、濡れないなら、雨もあまり嫌いじゃありませんから。それに凍原坂さんが出ている時じゃなくて、本当に良かったです」
 気を遣ったばかりではなく、それは本心でもあった。実際晴れていたらこのちょっと恐ろしくなりそうなくらい大きな窓ガラスから望める夕暮れの景色は背の高い建物の多い東京都内でも中々見られない立派なものなのだろうが、それはそれとして、落陽に雨の降る本の街というのも、きっと悪いものではないだろうから。
「そう言って頂けると……。あぁ、それと帰りですが、雨足が収まらないようだったらやっぱりタクシーを呼びますよ。なかなか捕まらないかもしれませんが、これだと電車もきっと混んでいるでしょうから。それと念のため傘もお持ちになって下さい。うちはいつも《火庫》と《フラウ》の三人で入るので、大きくて頑丈なのを数本常備しているんです。後でリコちゃんの分と一緒に取って来ますので、それも使ってください」
 不愉快そうな顔をする夜不寝リコの傍ら、凍原坂は机に乗り出すようにして熱心にひづりに提案した。
「いえ、いえ、さすがにそこまでしてもらう訳には……」
 多少想像していなかったではないのだが、それでも急にこんなに明るく、またよく喋るようになるものだろうか、とひづりはちょっと辟易していた。
 渡瀬が帰った後、ひづりは早速《滋養付与型治癒魔術》を凍原坂に施した。《魔術》を使っているところを人に見られる訳にはいかないので、そのまま彼の事務室で《魔方陣》を描いた。
 《魔力》を供給してもらうため《和菓子屋たぬきつね》に居る天井花イナリに電話を掛けると、「始めるのは見て分かっておるのじゃから、わざわざ掛けて来んでもよい」とすぐに切られてしまった。
 一昨日、何が原因で使用不能に陥ったのか分からなかった彼女の《未来と現在と過去が見える力》は、昨日の朝、同じく何の弾みにかすっかり元通り使えるようになっていたとの事で、今日彼女は明治大学へ赴くひづりを店で働く傍ら《現在視》で見てくれていた。
 なので昨日も「魔術行使に際しては別に電話して来なくてもよいぞ」と言われていたのだが、しかしそれでもひづりは天井花イナリの声を一言でも聞いてからの方が、やはりずっと《魔術》に身が入る気がしたのだった。
 結果、初めて人体を対象にした《魔術》とあって最後まで緊張こそ拭えなかったし、また傍らで眼を皿の様にして見守る《火庫》と、そして彼女と共に何か怪しい動きでもしようものなら襲い掛かって来そうな眼をした夜不寝リコに監視されながらではあったが、それでも凍原坂への《滋養付与型治癒魔術》施術一回目はなんとか無事に成功した。
 《フラウ》はその時になっても眠りっぱなしだったので、《付与》する《魔力》は必然的に起きている《火庫》の方から受け取ることになった。《魔力》の質や扱いやすさは《ボティス》のそれとほとんど同じに感じられたが、けれど話に聞いていた通り《火庫》の体内を流れる《魔力》は《フラウロス》によって制御されていないせいかかなり循環の勢いが強く、ひづりは慌てて少量とりこぼしてしまうなどした。
「春兄さん、アレって今後も継続してやってもらうんでしょ? 別に今日だけでいきなり元気になる訳じゃないんでしょ? 落ち着いたら?」
 注文した天丼セットに少しも手をつけず両手で箸をぎゅっと握ったまま喋り続けていた凍原坂に、夜不寝リコは何だかもう見かねたという風にぐさりと言った。
 凍原坂はハッとなって恥ずかしそうに顔を赤らめると肩を竦め、天丼に箸を入れ始めた。
 小さくなった義兄を横目に確認すると、夜不寝リコは今度はひづりをじろりと見た。
「それと官舎さん、さっき施術中に何か、あっ、て顔してたじゃん。あれ何? 大丈夫だったの?」
 ひづりは思わずちょっと目を逸らした。夜不寝リコは《魔力》を感知出来ないそうだが、しかしひづりがうっかり《魔力》をとりこぼした瞬間の表情だけはしっかり見ていたそうだった。
「あれはその……《火庫》さんから貰った《魔力》がちょっと持て余すくらい強かったので……少しだけ手からぽたぽたと零れたと言うか……。いや、すみません、あの時も聞きましたけど、本当に《火庫》さん、大丈夫でした……?」
「…………」
「……《火庫》さん?」
 いつも通り凍原坂の左隣に座っていた《火庫》は、しかしぼんやりテーブルを見つめるだけで返事をしなかった。
 施術を行った直後は俄にかわいらしく嬉しそうな顔を見せてくれたものだったが、その後はすぐまた何か考え事をするように何も無いところを虚ろに眺めるようになってしまっていた。
「《火庫》?」
 凍原坂に肩を軽くぽんぽんと叩かれたところで《火庫》はふと顔を上げて瞬きした。
「え、あ、はい。どうされましたか、凍原坂さま」
 返事をしなかったのではなく、まるごと話が耳に入っていなかったらしい。彼女は凍原坂を見上げて首を傾げた。
「ひづりさんがね、さっき施術の時に《魔力》を少しこぼしてしまったけど、大丈夫でしたか、って。大丈夫かい? 眠気が来たかい?」
 凍原坂は体を屈めて、その小さな娘の顔をじっと心配そうに見つめた。
 《火庫》は一度に顔を赤くして、首を横に振った。
「いいえ、いいえ、大丈夫です。心配いりません。眠くもありません。大丈夫です」
 それからしゃっきりと背筋を伸ばし、いただきますと言って、凍原坂のより一回りほど小さい天丼の器をぐいと自分の方へ引き寄せて箸を割った。
 ……なんだろう。凍原坂と話す時の彼女は、確かにいつもこんな感じに顔をほんのり赤らめたりするのだが、しかし何となく今の彼女は普段と少し違うようにひづりには見えた。どうも話し方がぎこちないというか、変に余所余所しい畏まり方をしているような……気のせいかもしれないけれど……。
 いくらか弱まって来たのか、それとも耳が鳴れてきただけなのか、窓を打つ雨音はあまり気にならなくなっていたが、それでもひづり達くらいしか客の居ない学生食堂はがらんとしていて、引き続き寂しい雰囲気をそこに閉じ込めていた。
 ひづりは明大名物だというカレーライスをスプーンですくいながら、ちらと向かいの夜不寝リコを見た。

『──君自身なんとなく彼女を警戒してるようだけど、事態は思うより深刻かもしれないね──』

 去り際に渡瀬がひづりにだけこっそりと言った、あの言葉。一人でワイン一本空けた自称嘘発見器の彼の発言を一体どの程度真に受けて良いものなのか分からないが、けれどひづりはあれからすっかり気がかりになってしまっていた。
 別に、彼の言う通り夜不寝リコが姉の様に、あるいは姉と手を組んで何か悪い事を企んでいるのでは、なんて思っている訳ではない。夜不寝リコがちょっと……いやだいぶ性格が悪いのは知っているが、けれど渡瀬の言うような深刻な事態というのは、どうも想像がつかなかった。
 実際こうして凍原坂や《火庫》と並んで座っている姿にしても、やはり親族間特有の温かみのようなものが彼女からは感じられる。少なくとも凍原坂や《火庫》を陥れる事を彼女は良しとはしないはずだ。常にこちらへ向けられる彼女の攻撃的な眼差しの数々がそれを証明している……と思う。
 だとしたら個人的に彼女が、クラスメイトであり今は同僚である自分に対して何か悪い事をしようとしている、という方面で考えるくらいしかひづりには出来ないのだが、しかしそれも、どちらかというと理性的なタイプの彼女には考えられない気がしていた。
 夜不寝リコは、夏休み明けのラウラ・グラーシャ転校を聞いて喜んでいた一人だった。在学時、彼女はかなり攻撃的な眼でラウラを睨んでいた、とひづりは記憶していた。しかしトイレでラウラに水をぶちまけた件の女子グループと、夜不寝リコが普段行動している女子グループは別だった。結局転校するまで彼女がラウラに何かをしたという話は一度も聞かなかった。
 先日、やつれた凍原坂や《火庫》の身を案じて《和菓子屋たぬきつね》に殴りこんできた様に、彼女は凍原坂や家族のためなら勇気を搾り出せるタイプらしいが、しかし悪事に関しては案外そこまで積極的に動くタイプではないのだろう、というのが、数日彼女を見てきたひづりの分析だった。
 今はもう全くの他人という立場でもないし、また今日は渡瀬の前で責任があると啖呵を切った以上、これからも彼女とは同僚としてうまくやっていきたい。人として気に食わないとしても、喧嘩をしたい訳じゃない。
 やはりあれは酔っ払いの戯言だろう、と思うことにして、ひづりは静かに一つ深呼吸をした。それから隣で眠っている《フラウ》に何となく視線を下ろして、帰る時までに一回くらいお話出来たらいいな、とそんな事を思った。


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