和菓子屋たぬきつね

ゆきかさね

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《第3期》 ‐勇者に捧げる咆哮‐

   『変な男の変な話』

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「なるほどねぇ。火庫ちゃんは、官舎家に恩返ししたいって言う凍原坂の代わりに《和菓子屋たぬきつね》で働き始めて、で、火庫ちゃんが働き始めたって聞いて心配になったリコちゃんもそれを追いかける形で働き始めた、と……」
 官舎家の話はもうすっかり置いておく一件になったらしく、それから渡瀬は夜不寝リコや《火庫》がどういう経緯でひづりと交友関係を持ったのかなどを実に興味津々に訊ねて来た。後は凍原坂を待つだけであったし、ひづりたちも先ほどよりはずいぶんリラックスした気持ちで受け答えをした。もちろん《魔術》や《悪魔》に関する項目はしっかり省略したり別の言葉に言い換えたりして誤魔化したが。
「しかし、何だねぇ。雪乃ちゃんの歳の離れた幼い妹さんが親戚の家に引き取られたって話は以前ちらっと聞いて頭にあったんだが、いや、会えばもう高校生とはね。浦島太郎じゃないが、久々に会う知人みんな年寄りになっていたり、子供が大人になっていたりする。時が経つのは早いねぇ」
 顔は別に赤くないのだが、一本丸ごとワインを飲みきった渡瀬はさすがに酔っ払ってしまったのか、そんな年寄り臭い事を言い出した。ひづりはついくすりと笑ってしまった。
「けど本当に羨ましいな、凍原坂のやつ。昔っから、なんでか子供に好かれるんだよな。俺なんか親戚のガキ共にまるで懐かれないのによ。……あぁ、あとそうだ、しっかりした女の子にもモテていたな。雪乃ちゃんなんか最たるそれだし、君ら三人も、何となく似た雰囲気がある」
 渡瀬は空になったグラスのふちを名残惜しそうに齧りながらぼやいた。ひづりが横目に見ると、夜不寝リコは不愉快そうな視線を返して来た。
「……姉さんと春兄さんって、どんな感じだったんですか」
 くだを巻きそうな雰囲気があったのを察したのか、夜不寝リコは少し踏み込んで訊ねた。
 渡瀬は眉をあげた。
「ああ、凍原坂には、ちょっと訊きづらいもんな。いいぜ、奉文お兄さんが懐かしい昔話、してやろうじゃないかよ」
 空のグラスを掲げて渡瀬は得意げに笑った。だいぶ出来上がってる感じがするけど、この人本当に一人で帰れるんだろうか。
「とは言っても、実を言うとリコちゃんのお姉さんとは別に俺、そこまで親しかった訳じゃないんだ。さっきは方便で可愛い後輩、みたいな言い回しをしちまったが、俺が担当した講義に出てた生徒の一人、って程度の認識しかなかったのが、本当なんだよな。だから彼女が亡くなったって知らせも、日本に戻ってしばらく経った頃に大学の知り合いからたまたま聞いたんだ」
 ひづりも夜不寝リコも、同時に小さく、えっ、と声を漏らした。
「更に言うと、確かに凍原坂は高校の同級生だったが、今みたいに話をするようになったのは十四年前からだ。それまでは俺、あいつに興味なかったしな。顔と名前を知ってるだけで、あいつも同じ大学へ入ったのか、くらいにしか思ってなかった」
「そうなんですか」
 ひづりはどちらも意外に思った。十四年前なら充分旧友と呼んで間違いないだろうが、しかしひづりは先ほど凍原坂から「あいつは高校の頃から妖怪が大好きだった」というような話を聞いていたし、また夜不寝リコや《火庫》を見た渡瀬が「雪乃ちゃんを思い出すよ」と懐かしそうに言ったのも聞いていた。だからてっきり、彼ら三人は高校や大学でとても仲が良かったのだろうな、と、そんな風に捉えていたのだ。しかし「大学時代に西檀越雪乃と親しかった」という態度を見せていた事自体、先ほど問答でひづりに探りを入れるために使った方便であったと言うのなら、話は少し違ってくる。それに彼が高校の頃「妖怪について調べたいから将来は民俗学者になるぞ」と言ったというのも、実は凍原坂と二人きりで語り合ったとかではなく、堂々と教室で叫んだりしていただけなのかもしれないのだ。この人ならありえなくもなさそうだった。
 けれどすっかり酔っ払ってしまったからだろうか、先ほどまでのまるで射抜くようだった眼差しはもうほとんどまどろみの中にあるようで、渡瀬はひづりたちの戸惑いを気にする様子もなく、《火庫》が運んで来た紅茶を一口啜るとそれをちょっとこぼしそうになりながらテーブルに戻した。
「卒業後は俺も凍原坂もそのまま大学に残っていたんだ。教授らの手伝いで小遣いが出たからな。右に倣えで企業に就職、なんてのもごめんだったし、大学でまだやりたい事も沢山あったんだ。で、それから一年後の夏だったな。社会科学の講義に熱心に出ていた一年生の女の子が講義の後、こっそり俺に話しかけて来たんだよ。『渡瀬先生は凍原坂先生と学生時代に親しかったんですか』ってな。それが雪乃ちゃんだった。美人だったんだが、ちょっと暗い子でね。七月に入って夏休みも来ようってのに、まだ周りとうまく馴染んでいないようだった。それだけに彼女の質問は意外だった。ただ俺も中々に人付き合いをしていたから、すぐに、ああこの子は凍原坂の事が好きなんだな、ってピンと来た。俺も若かったからね、悪戯心というやつさ。学生時代のアルバムを持って来るから空き教室で待っててくれ、なんて雪乃ちゃんに伝えて、俺は何も知らない凍原坂を引っ張って行ってやったんだ。何が何だか分からないって顔の凍原坂が教室に入るなり、雪乃ちゃんは顔を真っ赤にして挙動不審になっていたな。けどどうも話を聞くと二人はその数日前、どういう経緯だったか忘れたが、すでに知り合いになっていたらしくてな。なんだ馬鹿らしい、と思って俺は二人をほったらかして退散したんだ。そうしたらどうだ。結局二人は付き合い始めて、五年後には婚約まで行った。暗かった雪乃ちゃんは凍原坂と付き合い始めてから急に明るくなって、見違えるようにしっかりした子になっていった。年上の男に憧れる女子大生のほわほわした恋心が砕けるところを見たかった俺の身にもなって欲しいって話だよ」
 人間関係を引っ掻き回す趣味とあたかも自分が被害者の様なその物言いに関してひづりは全く何も思わないではなかったが、それでも話を中断するほどでも無いかと思い、口は挟まないでおいた。
 夜不寝リコは渡瀬の話を興味深そうに聞いていた。彼女にとって、己と凍原坂家を繋いでいるのは他でもないその実姉、西檀越雪乃なのだ。けれど先ほど渡瀬が言ったように、亡くなった婚約者である姉の事を直接凍原坂に訊ねるのはこれまでやはりどうにも気が引けていたのだろう。だから当時の人間がこうして語って聞かせてくれるとなれば、内容はどうあれ、彼女が気になってしまうのも仕方のない事だと思われた。
「二人が付き合い始めてから、四年後だったな。俺は神主の資格を取ったところで一つの区切りにと思って、仲間と一緒に台湾へ長期の妖怪調査に出たんだ。二〇〇二年の事だった」
 一瞬、しん、と部屋が静まり返った。翌年の二〇〇三年は、夜不寝リコの両親と姉が亡くなった年だった。
「二〇〇四年に俺は日本に戻った。ああ、悪く思わないで欲しいが、さっきも言った通り、その時雪乃ちゃんが亡くなったって聞いても、ああそうなのか、と思ったくらいだった。でも一応講義を受け持った生徒だったし、二人の恋愛が上手くいってんのは見てて気に食わなかったがそれでも俺もちょっとは寂しいなって思ったんだよ。だから、大学で三人顔を突き合わせて以来ほとんど話もしてなかった凍原坂にも、一応声だけは掛けておくかと思ったんだ。するとまぁ、俺も懲りないね、また肩透かしを食らったんだ」
 渡瀬は《火庫》と、それから右隣のソファで寝ている《フラウ》を見て、困った様に微笑んだ。
「あいつは娘二人と元気に暮らしていた。それからひづりちゃんのお母さん、官舎万里子の話を聞いた。この辺りはもうさっき話したね」
 ひづりに視線を向け、渡瀬は肩を竦めて見せた。
「渡瀬さんが春兄さんと仲良くなったのはその後だって、さっき言っていましたけど……」
 夜不寝リコが探るように訊ねた。確かにここまでの流れから、この後彼が凍原坂と今の様な友人関係になるようには思えなかった。
 すると渡瀬はにわかに上機嫌になって膝をぱちんと叩いて見せた。
「おお、良い質問だねえ、リコちゃん。合いの手というのを分かっているなあ。その時なんだよ。凍原坂が俺に言ったんだ。妖怪の話をしてくれないか、ってな」
 キメ顔でそう言った渡瀬に、ひづりも夜不寝リコもぴたりと固まってしまった。
「……《妖怪》……ですか?」
「そう。特に《火車》って妖怪の事をあいつはやけに知りたがったんだ。君らはたぶん知らないよな。遺体を攫ってあの世へ運ぶって言われている、火の妖怪なんだ。あいつが妖怪に興味があるなんて知らなかったが、まぁでも妖怪全体に興味はなくても、龍が好き、とか、天狗が好き、とかって奴は結構居るからな。そんであいつが熱心に話を聞いてくれるもんだから、俺も熱が入ってな。結局一晩中その《火車》の話をしたんだよ」
 若干呂律が回っていないながらもそう溌剌と語る渡瀬の顔はどこまでも楽しげで、ひづりの眼にはまるで何歳も若返ったようにさえ映った。それほど彼にとって凍原坂と語り明かしたというその一夜は良い思い出なのだろう。ひづりは何となく二人の関係が見えてきたようだった。
 おそらく凍原坂は、官舎万里子によって《火車》の問題が解決した後、娘となった《火庫》や《フラウ》のために、二人の元となった《火車》の情報を集めていたのだろう。さながら子供のために育児書を読み耽ろうとする父親のように。だが《妖怪》としてあまり有名どころではない《火車》に関する情報なんて、それこそ渡瀬のような専門家でもなければ持ってはいないのだ。
 渡瀬は一晩中でも付き合ってくれる《妖怪トーク友達》が出来て、凍原坂は娘たちのために《火車》の情報をくれる《妖怪の専門家》を得た。二人は少しばかりすれ違っていただろうが、それでもこうして楽しげに思い出を語る渡瀬や、先ほど彼の身を案じていた凍原坂の顔を思い出すに、彼らが良い友人関係であった事は間違いないのだろう。
「それからも何度か一緒に酒を呑んだんだ。それまであいつとは気が合わなさそうだと思って、飲みに誘ったりはしなかったんだが……しかしあいつも雪乃ちゃんと付き合って……あるいは娘が出来て、変わったのかもしれないな。とにかく、あいつがあんなに《火車》が好きなんだったら、高校の頃から知り合いだったんだ、もっと早く友達になっておけばよかったと、本当にそう思ったよ」
 渡瀬は空になったワインのボトルを薄めた眼で眺めながらしみじみと言った。ひづりは悪い事をしたなと改めて思った。彼は今日、これを凍原坂と一緒にまた《妖怪》の話に花を咲かせながら飲もうと思って、大事に持って来たのだろうから……。
 と思ったところで、ちょっと待てよ、とひづりは思い直した。後日改めて会う気なら、別に今日一人で飲む必要は無かったのではないだろうか。寂しげな顔で語るからついほだされかけたけれど、ワインに関してはこの人、ただ呑みたかっただけなのでは……?
「凍原坂は、あいつは、俺の妖怪の話を聞かないとダメなんだ……。この間だって急に電話を寄越してきて、人間が妖怪になると人間だった頃の記憶はあるのか、とかなんとか聞いてきてさ。俺も別に暇じゃあないんだが、あいつに熱心に頼まれちまったら、どうも悪い気はしないからさ……」
 眠たくなって来たのか、渡瀬はふにゃふにゃした喋り方になっていた。凍原坂が戻って来る前に寝てしまいそうだな、毛布とか置いているのかな、とひづりはそんな事を気にした。
 するといきなり《火庫》が勢い良く立ち上がった。
「あのっ……。渡瀬さん、その、その今のお話……わっちに詳しく聞かせてくださいませんか」
 ひづりは驚いて《火庫》を見上げた。どうしたのだろうか、彼女は青い顔をして、部屋にはもう己と渡瀬しか居ないかのような切羽詰まった眼をしていた。
 そんな《火庫》に、今度は渡瀬が元気良く立ち上がった。
「なぁんだい火庫ちゃん! 君も妖怪に興味があるのかい!? 初耳だが! いいよ構わないさ、なんだって聞いておくれよ!!」
 眠気などどこかへ飛んで行ってしまったというヒマワリのような笑顔になって渡瀬はテーブルに身を乗り出した。その際、がんっ、と膝がテーブルの角にそこそこ強めにぶつかったように見えたが、《妖怪トーク仲間》が増えたと思ったからなのか、渡瀬はまるで意に介していない様子だった。
 さておきひづりは《火庫》の方が気になった。確か『人間が妖怪になると記憶が──』といったような話だったが、彼女は一体何がそんなに気になったのだろう。夜不寝リコも不思議そうな顔をして姪の横顔を眺めていた。彼女にしても今の《火庫》の発言は不意の事だったらしい。
「いいかい火庫ちゃん、妖怪にはね、人間の強い感情によって産み出される、と考えられているものも多く存在するんだ。怨みや怒りを抱いて死んだ人の魂がそのまま妖怪になる、という訳だから、そういった部分では怨霊に近いかもしれない。けれど往々にしてそうした妖怪は人だった頃の記憶の大部分を失ってしまうんだ。記憶は肉体に宿り、思い出は魂に宿る、という考え方があってね。人としての記憶は肉体と共に失って、けれど攻撃的な衝動だけは魂に残り、それが妖怪として生まれ変わった新たな体を動かしている、という訳なのさ」
 子供の様に眼をキラキラ輝かせながら渡瀬は少々聞き取りづらい早口でそう捲くし立てた。たぶん凍原坂と話したという夜も彼はこんな顔をしていたのだろうな、とひづりは思った。
「……凍原坂さまは他に、何を渡瀬さんにお聞きになろうとしていましたか……?」
 難しい顔で考え込む様にうつむいた後、《火庫》はまた渡瀬に訊ねた。
「いや、電話で訊いて来たのはそれだけだよ。本腰を入れては、会ってから話そうと思っていたみたいだからね。しかし嬉しいな。火庫ちゃんまで妖怪に興味があるとはね。今後気になる事があったら、いつでも連絡をしてくれよ。今は日本を離れる予定もないからね」
 ニコニコと嬉しそうにする渡瀬を脇に、《火庫》は静かにソファへ腰を戻すと、また一人、思い詰めたように虚空を見つめた。
「火庫、どうかしたの?」
 何をそんなに気がかりにしているのか、触れるべきだろうか、とひづりが躊躇っていると、夜不寝リコが《火庫》の顔を覗き込むようにした。
 《火庫》はハッと顔を上げると首を横に振った。
「いいえ……大丈夫です。何もありません。少し、気になっただけですから……」
 そう言いつつもしかし彼女はやはりどうも心此処にあらずと言った具合だった。夜不寝リコはまだ気になるようではあったが、体調が悪いならすぐに言ってね、と伝えるに留めていた。
 《火庫》ちゃんは一体、何が気になったのだろう? そもそも凍原坂さんは何でそんな《妖怪》の記憶に関する質問を、《火車》の一件から十四年も経った今になって、渡瀬さんにしようと思ったのだろう? ひづりもそこが気になったが、けれど今の《火庫》に何かを訊ねるのはひどく気が引けた。それくらい、彼女はずっと何かを一心不乱に考え込んでいるように見えた。
「あぁ、これは、俺の個人的な想像というか……願望みたいなもの……なんだがね……」
 すると渡瀬はソファにすとんと腰を落とし、急に静かになって、ぽつりぽつりと零し始めた。急に立ち上がって早口に喋って一気に酔いが回ったのか、彼は先ほどより一段とぼんやりした眼でテーブルの何も無いところを見つめていた。
「凍原坂には……あいつにはたぶん、俺達には見えていないものが、見えているんじゃないか。……あいつは、本物の《火車》に、出会ったことがあるんじゃないか」
 ぎくり、としてひづりは思わず眼が泳いだ。ちらと見ると、夜不寝リコも緊張した顔をしていた。
 彼には、凍原坂が《妖怪》を視認出来ていることを秘密にしておかなくてはならない。ひづりたちはここまでそうした話の流れにならないよう話題選びにも気をつけていただけに、渡瀬の口から急にこんなにもはっきりとした言葉で話を持ち出されるとは思っておらず、内心ひどく焦った。
「い、いやですよもう、どうしたんですか渡瀬さん。凍原坂さんに《妖怪》が見えているだなんて……」
 ひづりがはぐらかす様に笑うと、しかし渡瀬は相変わらずこちらの狼狽には気づいていない様子で「まぁいいから聞いてくれよ」と酒に震える片手を真っ直ぐに突き出して見せた。
「そもそも、あいつは数学者だぜ……。なんで、妖怪の事なんて気に掛けると思うだろう。……だからあいつはたぶん、十四年前に本物の《火車》とばったり出くわしちまって、そんで、それまでの自分の常識が崩れるようなとんでもない経験をしたんじゃないかと、俺は睨んでいるんだ。《火車》と出会って、とても親しい間柄になったとか、そんなさ……。《火車》の話を俺に訊ねる時の凍原坂ときたら、なんて真面目なことだろうかよ。まるで学生みたいに眼をぎらぎらさせて、ノートまでとるんだぜ。……でもあいつは、その《火車》の話を俺にはしてくれない。俺に話したら、良くないことになると、思ってやがるんだろう……」
 そして彼は最後に寂しそうな顔をした。
 彼らの関係について何も言える事など無いとは思いながら、しかしそれでもひづりは少し悲しくなった。
 ひづりも最近、何か隠し事をしていないか、とハナに訊ねられた事があった。勿論答える訳にはいかなくて誤魔化したが、ハナがそう感じ取ったなら、アサカにも当然気づかれていると考えるべきで……。
 自分はもうすでに彼女たちに心配を掛けてしまっている。その自覚がひづりの胸に蘇り、小さな痛みとして刺さった。
「渡瀬さん、やっぱり呑み過ぎですよ。春兄さんが妖怪と友達なんて、そんなことあるわけないじゃないですか。それとも本当に妖怪が居るって、本気で思っているんですか?」
 夜不寝リコが、馬鹿馬鹿しい、という風に言った。確かに一般的に考えて渡瀬の話は荒唐無稽であったし、それにこちらとしても凍原坂が《妖怪》の居る世界を見ているという話もこれ以上続けたくなかったので必要な応答ではあったが、しかし民俗学者相手には少々棘がありはしないだろうか、とひづりはちょっと気にした。
 しかし渡瀬は腹を立てるでもなく、うなだれた様な格好のまま膝の上で手を組むと、ふふ、と笑っただけだった。
「いや、俺も高い確率でこれは無いと思っているんだ。俺もこの道長いが、妖怪と出会った事は、一度も無いしね。……でも、ほとんどの人が見た事がないとしても、それでも何百年も言い伝えられているものを『居ない』なんて、言い切れないだろう……? せいぜい、『たぶん居ない』と濁す程度だ。だから俺は、『たぶん居るんじゃないか』と思って……調べて、聞いて、想像する日々を送るほうが、楽しいと思うんだよ。俺は妖怪が好きで、人生の全てだからね……」
 初めて歳相応な落ち着いた男の声音で渡瀬はそう言った。
 それからひづりたちに謝った。
「悪かった。今の、凍原坂が《火車》を見つけたんじゃないかって話は、本当にただの俺の妄想で、願望なんだ。……だってそんな事でもなきゃ、俺みたいなのと凍原坂が友達になれる理由なんて、一体どこにあるのかって、思っちまうだろ……」
 そう言って彼は自嘲気味に大きな溜め息を吐くと、ぱっと壁の掛け時計を見上げ、それからよっこいしょとにわかに腰を上げた。いつの間にか凍原坂が出て行ってから四十五分ほども経っていた。
「そろそろあいつも戻ってくる頃だろうし、俺も帰り支度をするかな。今日は長々話を聞いてくれてありがとう、女子高生たち」
 彼が言うなり、《火庫》と《フラウ》の耳が揃ってぴくりと動いて通路の方を向いた。二人の行きつけの弁当屋らしいとは言え、そんなぴったりに凍原坂が行って帰って来る時間が分かるものなのか、とひづりは驚いた。
「そして最後に打ち明けてしまうが、今日こんな話をしたのは……さっきも少し言ったが、君たち三人、何となく雰囲気が雪乃ちゃんに似ていたからなんだよ」
 渡瀬はハンガーに掛けていた上着にえっちらおっちら腕を通すとひづりたちの方に向き直り、それから首をかしげて困った様に笑った。
「凍原坂は……あいつは、びしっと叱ってくれる女の子がそばに居てくれないと、たぶんダメな奴なんだ。しょうがない奴だよな……。……だから、火庫ちゃん、リコちゃん、それと出来ればひづりちゃんも、凍原坂が気の抜けたこと言い出したりしたら、びしっと、どうか叱ってやってくれないか。その役ばかりは、俺じゃあ駄目なんだよ」
 鍵の外れる音がして、その後すぐにガチャリと扉が開き、息を切らした凍原坂が部屋に戻って来た。
「悪いな凍原坂。ちょっと遅かったみたいだが」
 にっかりと笑いながら渡瀬はナイロン袋に入った弁当を凍原坂から受け取った。
「ちゃんとお前の言う通りの弁当、買って来てやったんだから……はぁ、中身くらい確認しろ……。ああ、ひづりさん、すみません遅くなってしまって……ぜぇ……大丈夫でしたか。変な事されませんでしたか」
「い、いえ、全然大丈夫でしたよ」
 ちょっと変な人ではありましたけども。
「疑うよなぁ、お前はさ。ま、今日は若い子とたくさん話が出来て満足したし、約束通りこれで帰るぜ。見送りは要らない。じゃあな」
 渡瀬はそれだけ言うと片手をひらひらと振ってさっさと扉の方へ歩いて行ってしまった。
「……ああ、そうだ、ひづりちゃん。言い忘れていた事があったんだ。ちょっと」
 本当に見送らなくていいのだろうか、とひづりが呆れ顔の凍原坂を見上げていると、にわかに渡瀬がくるりと振り返ってこちらに手招きした。
「はい、なんでしょう」
 凍原坂たちから離れて彼の元へ駆け寄ると、渡瀬はひづりの耳に顔を近づけてこそりと言った。
「……俺が嘘を見抜けるって言った事だがね。どちらかというと、リコちゃんにこそ何か後ろ暗いものがあるように俺は見ている。あれはたぶんここ一ヶ月くらい、人に打ち明けられないことを隠して行動してる、そんな顔だ。君自身なんとなく彼女を警戒してるようだけど、事態は思うより深刻かもしれないね」
「…………え」
 ひづりが驚いて顔を離すと渡瀬は微笑んで、それからまた凍原坂に「明日また来るからな」と手を振り、扉を開け、酒にふらつく足で出て行ってしまった。
「ひづりさん、さっき渡瀬に何か言われましたか? 大丈夫ですか?」
 凍原坂がそばへ来て神妙な顔をした。
 ひづりはちらりと夜不寝リコの方を見て、それから「いいえ何でもありません」と首を横に振った。



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