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《第3期》 ‐勇者に捧げる咆哮‐
『お主の魅力』
しおりを挟む「……天井花さん。今更ですが、昨日《火庫》ちゃんと話したとき、私と一緒に姉さんの悪巧みを止めようとしてる、って言ってくれて……嬉しかったです」
《滋養付与型治癒魔術》でほんの少しばかりだが葉の色艶がよくなったパキラの写真を嬉しそうに撮影する父親の姿を眺めつつ、ひづりはぽつりと隣の天井花イナリに告白した。
和鼓たぬこに膝枕をしてあげていた彼女は仄かに眉を上げてひづりを見た後、薄く目を細めた。
「まこと、今更であるな。言うまでも無いことであろう。わしはちよこの奴が気に入らぬし、お主はちよこの企みを防ぎたい。《契約》の関係の身、この程度の協力は当然であろう」
眠ってしまっている和鼓たぬこの頭を優しくすりすりと撫でながら天井花イナリは小声で答えた。用事はもう終わったので店に戻っても良かったのだが、しかし『ちよこが一人で掃除に必死になっているのを思えば気分が良いし、それにたぬこの体を休ませるなら、やはりあやつが近くに居らん方が良い』との事で、彼女は今日もう少しだけ官舎家でひづりたちと過ごすつもりらしかった。ひづりとしてもそれはとても嬉しかった。
「たとえそうでも、当たり前には思わないようにしたいと思います。姉さんへの責任は、やっぱり妹の私が背負わないといけないものですから」
リビングのテーブルに広げた学校の宿題を進めつつ、ひづりはその昔から変わらない考えを口にした。
「そうか」
天井花イナリは静かに穏やかな声音でそう答えただけだった。
ひづりの携帯が振動した。見ると凍原坂からのメールで、帰宅したので通話可能です、との事だった。
「凍原坂さんからです。電話して来ます」
和鼓たぬこを起こさないようひづりはそっと立ち上がって廊下に出た。
『……そういう話になっていたのですか』
《火庫》から凍原坂の体調不良の事で相談を受けた事、その体調不良の原因はどうやら七月の《ベリアル》の襲撃で凍原坂が《治癒魔術》を酷使したせいであるらしい事、解決策として天井花イナリの指導によってひづりは《滋養付与型治癒魔術》の習得を始めた事、そしてそれが思いの外順調で、明日にでももう凍原坂への施術を始められるという事。
少々長い話になったが、ひづりは凍原坂に昨日と今日で進展した状況を一通り説明した。
「繰り返しになりますが、説明したとおり、この事は何があっても姉さんには秘密にしておいてください。姉さん、間違いなくまた何か悪い事企んでいるので」
そして最後にひづりは強くそう付け加えた。ひづりの言えた事ではないが、これまでの付き合いから凍原坂もあまり嘘が上手なタイプには見えなかったため、今後姉からどう問い詰められても絶対に口を割らないでください、と念を押す必要があった。
少しの間の後、電話口の凍原坂はぽつりぽつりと返事をした。
『……分かりました、ちよこさんには秘密、なのですね。……体調の事はいずれ治るものだと思って、隠していたつもりだったのですが……《火庫》はそんなにも思い詰めていたのですね……。ひづりさんと天井花さんにもお話を進めていただいて……。お恥ずかしい……。何から何まで……』
ひづりはそこでハッとして、失敗しただろうか、と気づいた。凍原坂は亡くなった恩人、官舎万里子への恩返しの形としてひづり達の味方をしてくれていた。それがこうして逆に自分のために段取りを整えられていたとなると、立つ瀬が無くなってしまうのではないか。
「いえ、いえ! 姉さんではありませんが、《火庫》ちゃんはもう《和菓子屋たぬきつね》の従業員ですし、支え合うべきだって私も思って……。《火庫》ちゃんが居てくれるおかげでお店はとっても助かっていますし、《フラウ》ちゃんは可愛いですし、《天界》の事だって、お二人が居てくれるから私たちも安心して働けるんです。……お二人が凍原坂さんのことをとても大事に想っているのを見てきて……ですから私も何か、したくて……。……すみません、凍原坂さんの居ないところで全部決めてしまって……」
良かれと思ってやった事が必ずしも相手に喜ばれる訳ではない。懸命に頼みこんで来た《火庫》に報いたくてひづりはここまで来たが、当の凍原坂がどう思うかについてはあまりちゃんと考えられていなかった。
すると凍原坂も慌てた様子でやや声を大きくした。
『あっ、いえ! すみませんそういうつもりは! ただどれも急な事でしたから、驚いてしまって……。ご用意して頂いたお話、本当に有り難いと思っています。《火庫》の相談に乗ってくださった事も、後日改めてお礼をさせてください』
真摯な声音で凍原坂は言った。結果として今回は良かったが、次からは気をつけよう、とひづりは戒めた。
すると俄に背後の扉が開いて天井花イナリが顔を覗かせ、ひづりのスマートフォンを奪って勝手にスピーカー通話のボタンを押した。どうも少し前から扉越しにひづりたちの通話具合を聞いていたらしい。
「まごまごと鬱陶しい。此度の事は《火庫》に心配させたお主の責じゃぞ。黙ってわしらの提案を受け入れれば良いのじゃ」
『て、天井花さん!? は、はい!!』
彼女が急に通話に入って来るとは思っていなかったのだろう、凍原坂はいきなり畏まった硬い調子で返事をした。
「良い。で、どうなのじゃ。明日、ひづりの施術を受けるのか」
さっさと話を纏めたいらしく、天井花イナリは少々早口にまくし立てた。
『はい、是非お願いしたく思います。明日は十六時には大学の用事も終わりますので、それからお店へ向かわせて頂きます』
「いや、それはならん。店には来るな。ちよこに悟られる訳にはいかんと言うたであろう。明日以降であれば仕事終わりに《火庫》らを迎えに来た際、わしとひづりでお主らを駅まで送るという体で店を離れ、それから紅葉の作業場に移り施術をする、という形を採るが、明日《火庫》は休みであろう。故に、明日はお主の勤め先へひづりを行かせる」
『…………大学へ、ですか……?』
予想通り、スピーカーからは戸惑いの問いが返って来た。
「ああ。ひづりも来年は受験生であるし、一度大学のキャンパスというものを歩いてみるのも良かろうと思うてな。何か問題があるか?」
天井花イナリは遠慮も何も無く、呑むのが当然であろう、という調子で言った。ひづりは慌てて割り込んだ。
「あの、凍原坂さん、無理なら無理って言ってくださって、良いんですからね?」
事前の話し合いで、凍原坂に施術の話をするにあたってはこの提案もしてみてはどうか、と言い出した天井花イナリに、ひづりも確かに大学には興味があったので、可能ならお願いしてみましょう、と言いはした。……のだが、もうちょっとこう、言い方ってあるじゃないですか、天井花さん。
『いえ、そういう事でしたら、はい、大丈夫です』
凍原坂はいつも通りの二つ返事で承諾した。たぶん大丈夫じゃないのだろうな、とひづりは申し訳ない気持ちになった。
「それと明日、お主の大学の近くまでで良い、ひづりを迎えに来られるか。わしは店番があってな、一緒には行けんのじゃ。離れておっても《契約印》さえあればわしから《魔力》は引き出せるゆえ、施術には問題ないが……ただひづりは神保町の辺りは疎いようなのでな」
『あ、でしたら《フラウ》と《火庫》を迎えに行かせますよ。明治大学は駅からすぐですけど、ひづりさんお一人だと入りづらいかもしれませんし』
大人二人が何から何まで話をつけてくれていて、ひづりは頭が下がる思いだった。
「すみません、ありがとうございます。御茶ノ水のあたりまでは行った事があるのですが、そちらは分からなかったので……とっても助かります」
加えて《フラウ》ちゃんと《火庫》ちゃんの二人が連れて行ってくれるとなれば、それはますます嬉しいお話だった。もしかしたら途中で眠くなった《フラウ》ちゃんを背負えるかもしれない。チャンスである。
「あぁそうじゃ、《火庫》といえば、具合はあれからどうかの? 伏せてはおらぬか?」
思い出したように天井花イナリは訊ねた。昨晩、凍原坂が迎えに来る頃には《火庫》はもう半分くらい夢の中に意識が入ってしまっている様子だった。
『いえ、昨日は帰宅途中で《フラウ》と一緒に眠ってしまっていましたが、今朝はいつも通りの早起きで、すっかり元気ですよ。ですが《火庫》があんなに深く眠るのは久々で。本当に大変だったみたいですね。……あっ、それで、今日リコちゃんと一恵さんがそちらへご挨拶へ行ったそうですが、大丈夫でしたか? 急に押しかけるような形になってしまったと聞いていましたが』
声だけで分かるくらい緊張した様子で凍原坂は訊ねた。もしかしたら今日、お話があります、とひづりからメールを受けた彼は《和菓子屋たぬきつね》で働き始めた義妹の事で少々悪い想像をしていたのかもしれなかった。ひづりは安心させるようになるべく優しい口調で答えた。
「いいえ、問題はありませんでしたよ。私も夜不寝さんと養母さんが来るって知らなかったので、ちょっと驚きましたけど。でも特に変わったことも無く普通に挨拶に来られて、姉さんとも楽しそうにお話をされて行かれましたよ」
『そうでしたか……。……リコちゃんは、彼女は少し意地っ張りなところがあって、誤解もされやすいみたいなのですが……でも昔から家族思いの優しい子で……。どうか、今後もよろしくお願いします』
夜不寝リコの養母からも同じような事を言われたのをひづりは思い出した。
「家族思い、というのは、なんとなく分かります。……正直、私は夜不寝さんとはあまり仲良い方ではないですが、でも、同じ職場の従業員として、ちゃんと支え合おうとは思っています」
気を遣うなら嘘でも『任せてください』くらい言うべきだろうかとは思ったが、しかし夜不寝リコと自分の性格を思えば本当にただの嘘になってしまいそうなので言えなかった。どうしようもなく仲良く出来ない人間というのは居るものだから。
「そういう事じゃ。では切るぞ」
もう用はないな? という天井花イナリの視線にひづりは頷き返した。
『はい。明日、細かな時間が分かりましたら、また連絡を下さい。今日はありがとうございました。おやすみなさい』
「急にすみませんでした。おやすみなさい」
通話を切り、待ち受け画面に戻ったスマートフォンの液晶を見下ろすと、ひづりは一つ溜め息を吐いた。
明日、凍原坂さんに対して──人間に対して《魔術》を行う。しかも天井花さん不在の状況で。その上、未知の大学という場所に足を踏み入れる。初めての事ばかりで今から緊張してしまうようだった。
「気負うなよ。出来る様になった事を、ただ見せてくればよい」
察したように天井花イナリはひづりの顔を見上げて微笑んだ。
「はい。頑張って来ます」
凍原坂さんの許可も得た。明日、身につけたばかりの《滋養付与型治癒魔術》で早速彼の治療を開始する。どれくらい日を跨ぐか分からないが、ちゃんとした結果が出れば《火庫》ちゃんも安心してくれるだろう。そうして彼女の信頼も勝ち取る事が叶えば、姉さんが今企んでいる何かだって、きっといくらか思ったようにはいかなくなるはずだ。
やれる事をやる。官舎ひづりが出来るようになったことを、姉に見せつけてやる。
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