和菓子屋たぬきつね

ゆきかさね

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《第3期》 ‐勇者に捧げる咆哮‐

   『第二の活動拠点』

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 そうした事で、官舎ひづりが身につける二つ目の《魔術》は《滋養付与型治癒魔術》に決まり、実に多大な期待を背負ってしまった訳だったが、しかし天井花イナリの言いつけに従ってこの一ヶ月半毎日行っていた複数の《魔方陣》の描画練習に加え、また先月から始めた《防衛魔方陣術式》の展開練習の成果だろうか、ひづりは自身が思っていたよりずっと順調にその《二つ目の魔術》の習得に臨めたのだった。
「《魔術》のコツを掴んで来たのであろうな。お主に《魔術》の才能があると言うた万里子の言葉、出鱈目ではなくなってきたな」
 講義一日目の、それも開始から二時間程度でひづりが《滋養付与型治癒魔術》を成功させた事で天井花イナリはずいぶん気をよくしたらしく、ワークチェアにどっかりと腰を下ろすと肘掛けに頬杖をついて上機嫌に笑った。母の名を出しながら彼女がこんな風に嬉しそうにするのは珍しい事で、ひづりもますます嬉しくなってしまった。
「天井花さんのおかげですよ。私一人じゃこんな風になんて、とても」
 謙遜ではない。《レメゲトン》にも書いてあった事だが、一般的に《魔術》を扱うにはまず自身の体を《魔力》の貯蔵が可能な状態にまで鍛え上げなくてはならず、また一介の《魔術師》が一度に吸収して貯め込んでおける《魔力》の量もそう多くは無いという話だった。だからひづりのように、何度失敗しても《契約印》を通して常に天井花イナリから大量の《魔力》を得られる現状というのは、《魔術》を扱うに関して間違いなくこの上ないアドバンテージだった。もしひづりがゼロから《魔術》を学んで《防衛魔方陣術式》や《滋養付与型治癒魔術》を身につけようと思ったら、一体どれだけの年月が掛かるか分からない。
「それに《和菓子屋たぬきつね》でお仕事を教えてもらう時もそうでしたけど、やっぱり天井花さんの教え方はとっても分かりやすいです。教えてもらった言葉がそのまま行動に繋がる……って言ったら良いんでしょうか。初めての事でも迷わずに出来るようなんです」
 ひづりはイモカタバミの鉢を、窓辺に置いていたもう一つのイモカタバミの隣へ並べた。《滋養付与型治癒魔術》による成長促進の程度を見るため、比較用に同じ花屋で購入したものだった。
 天井花イナリは機嫌が良さそうに、垂れ下がったその長髪の先を尻尾のようにふらふらと揺らした。
「ふふふ、また可愛らしい事を言う。聞く耳と頭を持つ者であってこそじゃぞ。さて、少し早いが今日はこれで仕舞いとしようか。おい、紅葉」
 ちらと壁掛け時計を見てから天井花イナリは隣の部屋に向けて少々声を張った。針は十九時四十分を指していて、そろそろひづりも天井花イナリも戻らなくてはいけない時間だった。
「はい、どうしました?」
 すぐにガチャリと戸が開いて、袖まくりをした紅葉が顔を覗かせた。ひづりは背筋を伸ばした。
「見てみよ」
 椅子に掛けたまま天井花イナリは窓辺に並んだ二つの植木鉢を顎で指した。紅葉は言われるままそちらへ駆け寄ると腰を屈めてまじまじと見つめ、それから声を高めた。
「あ、本当。この花、さっきは蕾だったのに。ちょっとだけ開いてる。へええ……」
 すごい、すごいね、と紅葉はひづりの方を見て笑った。なんだか照れくさくてひづりは肩を竦めながら頷いた。
「初日にしては十分な成果だったのでな、予定より早いがじきにひづりを連れ帰る。今日は助かった。これからも頼むぞ」
 天井花イナリが厳かにお礼を言うと紅葉は姿勢を正して微笑んだ。
「いえいえ、あたしもひづりちゃんや天井花さんのお役に立てて嬉しいですし。何よりひづりちゃんがこうして山梨まで会いに来てくれることになったのは、本当にこの上なく幸せですから」
 紅葉はひづりを捕まえると抱き寄せてまた嬉しそうに笑った。
 ……あの後、ひづりが《滋養付与型治癒魔術》を習得するための修行場所として、山梨にあるこの紅葉の仕事部屋が宛がわれる事に決まった。
 提案したのは紅葉だった。これまで《防衛魔方陣術式》の練習をするたびに《和菓子屋たぬきつね》の休憩室の家具を片付ける必要があった事や、また今後はちよこに知られずに《滋養付与型治癒魔術》を学ぶ必要があるのでどうにか手ごろな場所を押さえたい、と話が進んだところで、紅葉がにわかに手を挙げたのだった。
 彼女には楓屋本家とは別に、空間デザイナーとして活動するための作業部屋があった。ひづりも何度か楓屋家には顔を出した事があって、その家屋の広さから使われていない部屋がいくつもあるというような話は耳にしていたが、しかし楓屋家の人々は紅葉が和裁以外の仕事をする事にあまり良い顔をしていないらしく、そのため本家との軋轢を生まないために紅葉は個人で一つ小さな家屋を借りて、そこで空間デザインの仕事の工作だの打ち合わせだのをしているそうなのだった。

『今はその部屋をまるごと使うような依頼は来てないしね。ラウラちゃんの使ってたあの転移魔術っていうのが天井花さんも使えるなら、二人でこっそりそこへ行って、その魔術の練習っていうのに使ってもらったら、どうかな?』

 それは願っても無い提案で、またその作業部屋だという家屋の内装などを写真で見せてもらえば《和菓子屋たぬきつね》の休憩室と同じくらいの広さがあると分かり、だからひづりは店で会うなり楓屋紅葉が《してあげられること》と申し出てくれたそれを、早速ではあったが、すぐにその作業部屋の貸し出しに決めたのだった。
「でも、自分で言い出した事だったけど、本当にこんな事で良かったの? 今日はちよこちゃんの依頼の片付けがあったからあたしもここに居たけど、こっちの仕事が無い時はほとんど留守にしてるし……だから明日以降は何もしてあげられないと思うんだけど……」
 紅葉はひづりを抱きしめたまま不安そうに言った。
「いえ、充分過ぎますよ。確かに今天井花さんに教えてもらって覚えようとしてる《治癒の魔術》はあまり場所を取らないものなので、やろうと思えばきっと家でも出来るんですが……でも今後、他に覚えようと思った《魔術》が必ずしもそうとは限りませんし。それにここを使わせてもらえるなら、私はいつでも《防衛魔方陣術式》の練習が出来ます。八月の間は営業停止中だったので店の休憩室も自由に使えましたが、営業再開した今じゃそうもいかないので。ですからこの部屋を貸してくれたこと、本当にとってもありがたいんですよ」
 ひづりも紅葉の体を優しく抱きしめ返した。
「そう……? うん、だったら良いんだけど。あ、でも他の部屋とか、押入れとか見ちゃ駄目だからね? 紅葉お姉さんも恥ずかしい物の一つや二つあるんだからね」
「あ、大丈夫です。見ないので」
「…………。あそこの戸棚なんかは、特に個人的な物とか色々入ってるから、紅葉お姉さん、見られると困っちゃうな~」
 ちら、と小さな衣装箪笥の方を見ながら紅葉は繰り返した。……何ですか見て欲しいんですか。
「では戻るぞひづり。忘れ物はないか」
 行きの時と同じように足元へ《転移魔術》の《魔方陣》を描くと天井花イナリはひづりに手招きした。
「あっ、はい、大丈夫です。じゃあ紅葉さん、今日はありがとうございました。次も、使わせてもらう時は連絡しますので」
 スマートフォンや鞄等持って来た物を確認しつつ、ひづりは紅葉に手を振った。
「うん。じゃあねひづりちゃん。気をつけて帰ってね。天井花さん、よろしくお願いします」
 紅葉も手をひらひらと振って、暖かい笑顔で見送ってくれた。
 天井花イナリの濃い紫色の《魔方陣》が煌めいてひづりの視界は瞬く間に眩く塗りつぶされた。



「おかえり、ひづり。天井花さんも、お疲れ様でした」
「おかえりなさい、ひづりさん、イナリちゃん」
 《転移魔術》による移動が終わり、ひづりと天井花イナリの体が南新宿にある官舎家のリビングへ戻って来ると、予めこの時刻に戻るからと言って出たからであろう、すぐに幸辰と和鼓たぬこの出迎えを受けた。
「ただいま、父さん、和鼓さん」
「うむ。結果は上々であったぞ。ひづりはやはり筋が良い。……それでたぬこ、どうじゃ、体の具合は。休めたか?」
 和鼓たぬこは天井花イナリの顔を見るなり嬉しそうにそのたぬきの尻尾を左右に振ったが、しかし天井花イナリは一方で心配そうな顔をした。ひづりも思い出し、ハッとなって和鼓たぬこの顔を見た。
「うん、大丈夫だよ。お酒もちゃんと飲んだし。それにひづりさんの匂いがするからかな、ソファでさっきまでずっと寝ていたんだよ」
 彼女はほんのりと頬を赤らめて恥ずかしそうに笑った。連日のハードワークのせいで昨日はもうふらふらしていた彼女だったが、定休日の今日は幸いいくらか体を休められたようだった。……しかしそれはそれとしてひづりは昨日の今日だったため「私ってやっぱりそんな、分かるくらい臭いするの……?」とまた己の手の甲など嗅いでしまった。相変わらず自分では分からない。
「そうか。確かに多少顔色は良くなったか……? 幸辰、すまぬな、これからもしばらくこうしてたぬこを預かってもらう事になる。先に渡しておいた分が足らなくなったらすぐに言え」
 和鼓たぬこの頬に手を添えて大切そうにその顔を眺めたあと、天井花イナリは幸辰を振り返って言った。
「いえそんな、ひづりのためにしてもらっている事ですし。……それと、さっき頂いたお金も、本当に大丈夫なんですけれど……」
 父は困った様に肩を竦めた。今日、事情を話すに際して天井花イナリは彼に結構な厚みの封筒を手渡していた。ひづりと一緒に紅葉の仕事部屋へ赴く間、連日の仕事の疲れが溜まってしまっているたぬこを頼むので、必要な物があればそれで買え、と言って押し付けていたのだ。
「構わぬと言うたであろう。今後もお主には世話になろうし、あって困るものでもなかろう。それでも気にするというなら、此度の口止め料と思うておけ。この事はちよこには秘密なのじゃからな」
 それ以上の問答を面倒に思ったのだろう、天井花イナリは声を強めてそこできっぱり話を終わらせた。それでようやく父も諦めがついた様で「分かりました」と背筋を伸ばした。
「しかしちよこがまた何かやっていたとは……。それも凍原坂さんやひづりの同級生まで巻き込むなんて。ちよこは昔から私にそういう話をしてくれませんでした。加えて今は嫁に行って……。恥ずかしながら最近はもうひづりから話を聞くばかりで……」
 お茶を淹れながら父はまた申し訳なさそうにした。確かに、父は憶えている限り一度も長女の悪行に気づいた事がなかった。どちらかというとひづりの方がよく気づいて、叱っていた。とは言え実際姉はその企てを巧妙に隠すため、ひづりが見抜けなかった悪行だってそれこそ無数にあるはずだった。
「恥じる事はない。あれはどうしようもなくああいう生き物じゃ。死ぬまで変わるまいよ。それに今回こちらは順調に対抗手段を揃えていっておる。次女の成長をこそ喜ぶべきじゃぞ、幸辰」
 ティーカップを片手に天井花イナリは微笑んだ。改めて父や和鼓たぬこの前で褒められるとひづりはどうにも照れ臭くて顔もまた熱くなってしまうようだった。
「そうだ、その例の《滋養付与型治癒魔術》……だったかい? パパ、まだひづりが《魔術》を使っているところ、一度も見ていないよ。少しやって見せてくれないかい?」
 父はにわかに明るい子供の様な笑顔で言った。次女が《魔術》の世界に足を踏み入れる事自体は今も憂いているらしいが、それはそれとして娘の成長が嬉しい父親の心理もあるようだった。
 ひづりは天井花イナリを振り返った。
「構いませんか?」
「よい、やって見せてやれ」
 手遊みに和鼓たぬこのくりんくりんの長髪を弄りながら、彼女はすぐひづりの《契約印》をぱかんと開けて《魔力》を流し込んで来た。十七年の人生でつい最近まで一度も味わった事のない感覚ではあったが、しかしやはり体に流れるメレルズ家の血のおかげなのだろう、今では何の抵抗もなくその《魔力》の受容が可能になっていた。


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