和菓子屋たぬきつね

ゆきかさね

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《第2期》 ‐その願いは、琴座の埠頭に贈られた一通の手紙。‐

   『ずっと伝えたかった言葉』

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「…………な…………」
 声にならなかった。見渡して、見上げて、それからまた正面に意識を戻した。
 結婚式場だった。無数の照明と蝋燭で必要以上に照らし上げられた室内。頭上のステンドグラスは厳かに輝き、その足元では身綺麗な衣装に包まれた一組の男女が肩を並べて寄り添っていた。振り返ると席いっぱいに、こちらも正装をした人々が笑顔だったり涙だったりを各々顔に浮かべ、拍手の格好で停止していた。
「一九九二年、一二月一日。扇万里子が、官舎万里子となった日。あの子が生まれて初めて、多くの人々から祝福された日……」
 輝かしい壇上を見つめ、グラシャ・ラボラスはどこまでも穏やかな声音で語った。
 しかしすぐにその顔を伏せると、冷たい眼差しを紅葉に寄越した。
「そして同時に、官舎紅葉が人生最大の失態を犯した日です」
 どきり、と紅葉の心臓が跳ね上がり、思わず眼を背けてしまった。
 人生最大の失態。その表現は誇張でも間違いでもなく、紅葉にとって事実そのものだった。
 三十八年間、数え切れないほどの間違いを犯してきた。素直な自分の意思を大事にせず、後悔を重ね、問題を先延ばしにしてはまた悔恨に打ちひしがれてきた。
 ただ、そんな過ちだらけの紅葉の人生の中でも特に苦く、どうあっても忘れようの無い大きすぎる悔悟が、これだった。
 兄の結婚式を、ちゃんと祝ってあげられなかった事。
 十代の紅葉がどんなみっともない妹になっても、兄の幸辰だけは味方でいてくれた。心配してくれた。家の中での唯一の居場所になってくれていた。
 そんな兄のハレの日を、当時の紅葉は子供じみた意地で出席を拒否し、祝ってあげられなかった。……でありながら、その翌日以降も兄は変わらず自分への態度を変えなかった。そこで紅葉はようやく、自分がとんでもない事をしてしまったと気づいた。
 兄は、妹の自分にも出席して欲しかったのではないのか。妹が、妻となる女性の事を良く思っていないと分かっていても、それでも、兄はたとえ形だけでも良いから祝って欲しかったのではないのか。日を追う毎に、そして歳をとって人生というものを知っていく毎に、その後悔は僅かも減る事無く紅葉の中でひたすらに膨れ上がっていった。
 グラシャ・ラボラスによって映し出されたこれがまさにその当日だった。紅葉にとって、永久に顔向けできない祝福の日……。
「さて。もったいぶる必要もありませんし、手短に済ませるとしましょうか。幸辰、その馬鹿を放って、そこに立っている皺の少ない自分のそばへ行ってください」
 と、仕事の指示でもするかのようにグラシャ・ラボラスはにわかに幸辰へ命じた。
 彼女の方を振り返ったが、兄はすぐにまた腕の中の紅葉に視線を戻し、心配そうな顔をした。
「さっきも言いましたがこれは紅葉のためです。さっさとして下さい。気が変わっても知りませんよ」
 露骨に苛立った様子でグラシャ・ラボラスは腕を組み声を張った。
「……行ってくるよ」
 幸辰は一つ紅葉の頭を撫でてから立ち上がり、壇上へと歩いて行った。
「もうちょっと前です。ああ、良いですねそこですそこで止まって動かないでください」
 グラシャ・ラボラスに指示されるまま、新郎の格好をした二十歳の官舎幸辰に、今の四十五歳の官舎幸辰がそのシルエットを重ねる。
「では次はひづり。恐ろしく気が乗らないかとは思いますが、幸辰と同じ感じに、それを持ったまま、万里子のところへ行ってくれますか」
 渡された母の魂に視線を落とし、それから過去の母を見やったひづりはそこで何かに気づいたらしくグラシャ・ラボラスを見たが、一つ深呼吸をするとちらりと紅葉を振り返ってから、そのまま二十歳の官舎万里子のところへと歩を進めた。
 二十五年前の式場。その壇上に二〇一七年の官舎幸辰と、娘の官舎ひづりが並ぶ。
 紅葉もいよいよ気づき、しかし全く以って信じられない思いでグラシャ・ラボラスの横顔を見た。
 まさかだろう。
 嘘だろう。
 こんな、こんな事をしたって――。
「ほら、何してるんですか紅葉。さっさと立って下さい」
 しかしその悪魔は振り返ると「ちんたらしてるんじゃありませんよ」と言う顔で邪険な手招きをした。加えてひづりも幸辰も、すでにグラシャ・ラボラスの意図を理解した面持ちで、覚悟の決まった視線を紅葉に向けていた。
「待って……嘘、嘘でしょう……?」
 彼女達が本気と思えず、紅葉はつい頬が引きつってそのまま変な笑みを浮かべてしまった。
「いいえ嘘でも冗談でもふざけているのでもありませんよ馬鹿女。立てないんですか。じゃあしょうがないですね甘夏、その馬鹿女を立たせてここまで連れて来てください」
「ええ、仕方が無いわね」
 もうすっかり涙も引っ込んで話に耳を傾けていた実姉はどうやら兄や姪と同じくその考えはすでに纏まっている様子で、グラシャ・ラボラスに頼まれるまま迷いの無い足取りを紅葉の元へ向けた。
「ほら立ちなさい」
「嘘、嘘……」
 困惑のあまり普段通りの反論も突っぱねも出来ず、紅葉は柔道有段者の姉に腕を掴まれて立ち上がらされると、そのまま引きずられるようにして壇上の二人の前へと連れ出された。
 こ、こんな事があるか。
 あまりにも馬鹿げている。とても大の大人が、悪魔が、やるような事ではない。
 そのはずなのに。
「あ、千登勢も、自分がこの時座っていたところに行ってください。映像だけなので座れないですけど。市郎も、千登勢の隣に。扇家側がどうしても人を呼べませんでしたからね、ちよこと《ヒガンバナ》、あなたたちもその辺の空いてる所に。《ボティス》はこっちに来なくて良いです」
「あ? ……ふん、言われずとも誰が行くか。過去の映像であろうと、万里子のやつの結婚式を祝ってやる気なぞ端から無いわ」
 広場の空気がおかしい。これまでと何かが違う。紅葉だけを除き、理解出来ない一体感が、彼ら彼女らの中にあるのが分かる。花札千登勢に関しては何故かもう泣いている。何で泣いてるんだあの女。
「セッティングはこんなものですかね。《ボティス》はこっち来ないでくださいね」
「行かんと言うておろうが」
「では紅葉、ひづりと幸辰の前に来て下さい」
 心なしかグラシャ・ラボラスの態度も少しばかり柔らかいものになっていた。というより、花火大会でひづりの同級生ラウラ・グラーシャとして一緒に出歩いたあの時と同じ雰囲気すらそこにはある様に思えた。
 この悪魔がひづり達を使ってこれから何をしようとしているのか、紅葉はもはや確信を伴って理解に至っていた。
「ひづりに抱えてもらっている万里子の魂ですが、これは言葉通り、魂だけです。人間という動物が持つ、その生命力だけが形を成したものです。故に五感もありませんし、話しかけても当然返事しません。そもそも脳がないので思考も記憶もありません。言ってしまえば、肉体とは違って朽ちないただそれだけの、生物の残骸の様なものです。ですが、紛れも無くかつて官舎万里子という人間を構成していたものの一つです。そして唯一、今なお触れられる状態で《生きているもの》です」
 ひづりの傍らに立ち、彼女に持たせた官舎万里子の魂だという《白い球体》をそっと撫でながら、グラシャ・ラボラスはそう説明した。
 そして視線を紅葉に戻すとにわかにその軽い雰囲気を消し去った。
「紅葉。あなたはやり直したいと思っていましたね。この、自身が出席しなかった兄夫婦の結婚式というものを。これまで犯したどの失態よりも強く、何ならこれさえやり直せたら他に何もいらない、と、そう考えるほどに」
 心が読めるらしい、グラシャ・ラボラスははっきりと断言する声音で紅葉を追い詰める様に言葉を並べた。
 反論の余地は無かった。紅葉はうつむいて、その悪魔の言葉を受け止めるばかりだった。
 人生をやり直す事など出来ない。過去に戻る事など出来ない。そんな事は分かっている。故に、間違い続け汚れ続けたこの楓屋紅葉の一生が変わる事などこれからも有り得ない。
 けれど、それでも、ただ一つだけ。今グラシャ・ラボラスが言ったように、兄の結婚式の日に官舎紅葉が式場に足を運ぶ、ただそれだけのやり直しが出来たなら。あの日の兄に「おめでとう」と言えたなら。その願いが叶うなら、一体この心はどれほど救われるだろう。兄に、姪に対し、きっと今より少しくらいは後ろめたさというものを抱く事なく、穏やかな心根で接せられるようになることだろう。こんな自分でも、己の人生というものを今よりは多少大事に思えるようになるだろう。
 何を押しても、あの日の自分は兄の結婚式に立ち会うべきだった。ずっと紅葉はそう悔い続けてきた。
 何度も、過去の自分に教えてやりたいと思った。四十を前にしたこんなだらしない妹に対して尚、兄は変わらず優しい笑顔を向けてくれるのだということを。そして兄夫婦の結婚から数年後、とても可愛らしい姪が出来るのだということを。もしそれが分かってさえいれば、きっとどれほど兄の結婚相手が気に食わないとしても、当時の自分は式場へ行ったはずなのだ。嘘でも、あの女にだって「おめでとう」と言ってやることが出来たはずなのだ。
 ……そんな、叶うはずの無いたらればをずっと……。
 それを……。
「だから、やり直しをさせてやると言っているんですよ、紅葉。あなたが逃げ出し、そして悔やみ続けたこの結婚式のやり直しを、今、この場の全員で」
 この悪魔は、実現しようとしている。
「紅葉さん」
 母の姿に重なるように立っていたひづりが声を投げて来た。
「正直なところ、この位置に立つのすごく凄まじく気乗りがしないので、出来れば早めに済ませてくれると嬉しいんですが」
 それは……そうだろう。確かにそうだろう。彼女は今日、グラシャ・ラボラスが明らかにした数々の過去によって自身の母親というものの事をたくさん知ったようだが、それでも「母は駄目なやつだった」というその認識自体は微塵も揺らいでいないらしいのだ。それを、《ごっこ》とは言え母親役で父親の隣に並ばされている。いくら顔が似ているからと言って、これはあんまりな配役だった。
 それでもこうしてそのやりたくもない役をしてくれている理由は、このグラシャ・ラボラスを、ラウラ・グラーシャという友人を信じているからなのだろう。
 そして。
 こんなどうしようもない叔母のために、なのだろう。
 ……なら。
「あたし……あたしは……」
 気づけばまた両頬を溢れ出した涙が伝っていた。咽び上がった喉は上手に音を発してくれなかったが、しかし優しい姪が、兄が、そしてこの場に集った善意がこうして用意してくれた《やり直しの機会》を、もう無下になどする訳にはいかない。取りこぼす訳にはいかない。絶対に逃がすわけにはいかない。
 紅葉はごしごしと目元を拭い、顔を上げた。
「ごめんなさい……あの日……言えなくて……。あたし、言わなきゃいけなかったのに……。いつだって、言えたのに……」
 兄に、そして姪が抱える義姉の魂に、これまでずっと伝えたかった、楓屋紅葉が伝えるべきだった言葉を、未だ上手く纏まらない頭で、どうにか一つずつ形にしていく。
 後悔まみれの人生だった。こんな《ごっこ》などで、取りこぼしてきた何かが戻って来る訳はないだろう。
 それでも、二十五年前の祝福の代わりがこんな事でも、兄が笑ってくれるなら。姪が、こんな叔母を変わらず愛してくれるなら。
 あたしは、勇気を持って伝える事が出来る。
「兄さん……万里子さん……。ご結婚、おめでとう……ございます……。万里子さん、ちよこちゃんを、ひづりちゃんを産んでくれて……本当に、本当にありがとうございます……」
 ……ああ、これを言いたかった……。ずっと、ずっと……。
 官舎万里子を許せなくても、これだけは、官舎ひづりの叔母になることが許された自分には、どうあっても彼女に伝えねばならないことだった。
 目の前に居るのは官舎万里子ではない。彼女の物言わぬ魂を抱いた、その娘のひづりだ。
 けれど。これがただの《ごっこ》だとしても。
 紅葉の心の中にずっと痞えていた何かが、絡まっていた糸が、するりと一本だけ解けたのを感じた。
 何かに、誰かに、許された気がした。
「……ありがとう、紅葉」
 あの頃よりもうずっと歳をとって皺も白髪も増えた兄が、その眼に涙を湛えて微笑んだ。
 だから紅葉はまた気づかされた。兄も、きっとこの一言を妹に言いたかったのだろう。
 置いていかれていたのは、時間が止まったままだったのは、自分だけではなかったのだ。
「……ごめん、ごめんね兄さん……今まで……」
「いいよ、いいんだよ、紅葉……」
 壇上を降りた幸辰は紅葉を正面からしっかりと抱きしめ、泣き止まない妹の頭をまるで子供をあやすように優しく撫でてくれた。


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