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《第2期》 ‐その願いは、琴座の埠頭に贈られた一通の手紙。‐
『信じたい』
しおりを挟む「お主らにとって、わしら以外の《悪魔》の印象というのは、まぁ、仕方のないことではあろうが、《ベリアル》、あやつであろう。いきなり襲い掛かって来て、無理難題を押し付けつつ、一方的に蹂躙しようとする。しかしのぅ、……ああ、あの時は丁度ひづりも千登勢もあの場に居ったな? ではわしが言うた事を憶えておるかの。……《ベリアル》は、あやつはイカレておるのじゃ」
天井花イナリはまずそう切り出した。
「あやつは《堕天使》になる以前はかなり位の高い《天使》だったと聞いておる。耳にしたことくらいはあるのではないか? 《ミハエル》とかいう《天使》じゃ。《ベリアル》はかつてその《ミハエル》よりも上位の《天使》であったそうじゃ。しかしあやつは《堕天》した。理由は知らん。《天界》で大失態を演じたか、あるいは同じ《天使》同士での謀に掛けられたのか……それはわしの知るところではないが、とにかくあやつは《堕天使》、《悪魔》となった。しかしあの境内で話した通り、あやつは《堕天》して尚《天界》を正しいと信じておった。そして上位の立場に立つ者であったが故に、《人間界》、《魔界》に立って尚、その立場を続けようとした。しかし《天界》、《人間界》、《魔界》の法などバラバラで纏まっておるはずがない。故にあやつの中にもはや正しい法など無かった。振って出たサイコロの目のように、あやつは眼をつけた者を《悪》として罰しようとする、面倒くさい台風のようなやつとなっておった。故に、まずはっきりと言うておく。あやつが、珍しいのじゃ。そもそもじゃ。考えてもみよ。わしらの食料はなんじゃ?」
急な問いかけにひづりは眼を丸くしたが、すぐに答えた。
「人間の……魂、ですよね……? …………」
『……天井花さんたちは母さんのせいでいろいろとその辺りの法則が書き換えられていますけど』とつい続けそうになったが、それは間違いなく彼女の機嫌を損ねるので言わない方が良いだろうと判断し、ひづりは口を止めた。
「ああ、その通りじゃ。ということは、じゃ。要するに《悪魔》同士で争う意味、それがまず無い。存在せぬ。そしてわしら《七二柱の悪魔》の王国民はの、決まった数以上に増えることがなく、また死ぬなどして減れば、翌日にはすぐに大地から生まれ、補填される……そういうものなのじゃ。食わねば死ぬし、斬られれば死ぬが、しかしその死生観は《人間界》の生物とはまるで違うものであると考えよ。故に《悪魔の王》同士稀に争う事はあっても、侵略する意味というのがまるで無いのじゃ。何せ人間と違って民の数が増え過ぎることは無い上、食い物は人間の魂以外にありえぬのじゃからな」
《レメゲトン》にも載っていなかったその内容にひづりも、当然千登勢も気後れして理解して飲み込むまでに少し時間が掛かった。
それを察し配慮してか、天井花イナリは少し間を置いたあと、軽い調子で続けた。
「……ただまぁ、《フラウロス》のやつは退屈しのぎだか、平和ボケするのを嫌ってだか、何かと理由をつけてはわしに突っかかって来ておったの。しかしそれにしても本当の殺し合いをしておった訳ではない。戦争では基本的に軍勢を引き連れて行うが、『その軍勢の数パーセントが死んだら負け。また、わしか《フラウロス》、その《角》が少しでも折れたり、《治癒魔術》が必要なほど致命傷を負った方が負け』といった具合にルールを決めて……。まぁ要するに、お遊びじゃな。わしも暇じゃったしの……。む、しかし誤解をするな? こういった遊びをしておったのはわしらだけではない。《人間界》に呼び出されぬ間は大体、皆そのような具合に暇を潰しておるのよ、現在の《悪魔》というのはな。毎日毎日、自国の民たちを拷問に掛けておるのは《ベリアル》くらいのものじゃ。何度でも言うぞ。あやつが、イカレておるのじゃ。一緒にしてくれるな」
続けざまに聞いたその、どちらかというと平和気味な《魔界》の現状というものにひづりも千登勢も驚かされてしまった。もっと毎日血しぶきが舞い散っている感じだと思っていた。勝手な想像だったらしい。申し訳なさを感じた。
すると不意に天井花イナリは視線を逸らし、その顔に微かな影を落とした。
「……しかし三千年前より昔は、そういった《加減》という考えが無かった。語り継がれておる話でも、その当時はお遊びという考え方が無かった。それこそ獣のように、一度戦争が起これば、たとえ不毛であろうと、相手の国の民を皆殺しにするまで戦っておったと聞く。《魔族》を殺して食ったところで腹は膨れぬし、結局翌日には死んだ者は皆復活するというのにな。……その無駄な争いに終止符を打ったのが《ソロモン》じゃった」
気に食わなさそうに、けれどどこか嬉しそうに、複雑な声音で彼女は言った。
「あやつと話をしてから、わしらは手加減というものをいつからか覚えた。効率的に、楽しく暮らしていく方法……そういったものをわしらにあやつは教えた。気に食わぬが、実際良いものであった。《悪魔の王》は死してもその《名》と《能力》と《思い出》が才能ある若き《悪魔》に引き継がれるが、育ちきっていない未熟な王では殺し合いの相手として張り合いが無い。じゃから、強い《悪魔》は遊び相手として重宝し、殺さずに寸止めをする。《フラウロス》も殺す気でいつも掛かって来ておったが、互いに致命傷を負えば、勝った方が即座に《治癒魔術》を掛けて死なせまいとするのが、以来当たり前となっておった。言うておくが、慈悲じゃとかそういうものではないぞ。遊び相手がいなくなってはつまらぬ、それだけのことじゃ。それに……」
ふと悲しげな顔をして天井花イナリは眼を細めた。
「《魔界》の王国民……《ヒガンバナ》やたぬこのような《下級悪魔》は、はっきり言ってその命も軽く考えられておる。戦争のお遊びで最初に死ぬのも大体《下級悪魔》じゃ」
天井花イナリは傍らでずっとおとなしく座っていた和鼓たぬこに手招きすると自身の膝枕に彼女の頭を乗せ、そのふわふわの髪の毛を撫でた。かわいい。
「《下級悪魔》も同じく、死んでも翌日には補填されるが、死んだ者が復活するのではなく、新たに別の者が誕生するだけなのじゃ。死んだ《悪魔》が蘇る訳ではない。わしはそれが嫌じゃった。故に、わしの代からは『《ボティス》の王国との戦争ゲームは、《悪魔の王》同士の一騎打ちだけ』と決めた。よほどのことがない限りはそうさせてもらう事にした。《フラウロス》も、あやつも勇猛さでは凄まじいが、あまり指揮が上手いとは言えなんだし、何よりあやつはわしとやり合うのが一番楽しいようであったからの。問題はなかった。わしの国に頻繁に喧嘩を売って来る馬鹿者は《フラウロス》くらいのものじゃったし、それにわしは強いからの。わしの決めたその一騎打ちのルールを破って攻めて来る者は、まず真っ先にその王を斬り殺してやった。《ベリアル》とかいうアホのことなのじゃがな」
ふふ、と彼女は笑ったが、ひづりは思わず背筋が少し冷えた。彼女のそれは、『《ベリアル》を殺したのはこの間が初めてではないし、それこそ二回や三回どころではない』という口ぶりだったからだ。
「少し話が逸れたな。要するに、《悪魔》同士で本当に殺し合おうとする《悪魔》というのは、今はもう本当に珍しいのじゃ。そして《グラシャ・ラボラス》もその例外ではない。あやつも戦争には強かったが、かといって《フラウロス》のように好戦的ではなかった。今もおそらくそれは変わっておるまい。《フラウロス》と同じく、わしにしょっちゅう嫌味を言うて来はするが、それも子供のわがままの様なものよ。可愛げすらある。少なくともわしの代では、この千年ほどは《グラシャ・ラボラス》と戦争をしておらぬ。故に《ベリアル》の時と違い、やはりあやつの今回の狙いはわしではなくひづり、お主であろうな」
じろり、と天井花イナリはひづりを見つめた。
「となれば、これまでは安全じゃと踏んでおったことも、話が少々変わって来(こ)よう。あやつがひづりにその正体を明かし、そして《契約者》の名まで教えた……。それはつまり、あやつの中でその計画とやらがおよそ後半に差し掛かった、という事じゃろう。……しかしじゃ。わしの見立てでは、おそらく《グラシャ・ラボラス》は《契約者》の百合川臨よりもひづり、お主の方を好いておる。優先順位はお主の方が上である様にわしには見える。お主は見た目が万里子に似ておるし、それにいつでも殺せたのに関わらず、昨日は正体を明かすのみで去った……。何より百合川臨を《契約者》であると打ち明けた。それは間違いなく百合川臨への裏切り行為じゃろう」
《悪魔》による《契約者》への裏切り。そんなことがあるのか、とひづりは思ったが、しかしよく考えてもみれば、天井花イナリという前例があったことを思い出した。母の万里子と姉のちよこにこき使われていた、《悪魔の王様》。死した今でも、天井花イナリは万里子への怒りの感情を忘れずにいる。《契約》は《契約》なのだ。奴隷になるわけではないし、その口に栓も出来ない。だから昨日、ラウラは自分に、百合川が《契約者》であると打ち明けた――。
「天井花さん……改めて、はっきりしておきたいんですが」
「む。何じゃ」
ひづりが神妙な面持ちで口を開くと彼女も少し体を上げて視線を返して来た。
「……百合川……あいつがラウラの……《グラシャ・ラボラス》の《契約者》っていうのは、本当に間違いないことなんですか……?」
この期に及んでだが、ひづりは今でもそれを信じたくない気持ちがあった。
ラウラは、『百合川が《契約》をしたのは官舎ひづりの存在が関係している』と言っていた。
だから、それがもし真実であるなら、百合川は自分のせいで死ぬ。《グラシャ・ラボラス》に魂を持っていかれてしまう。
そんなこと、信じたくないに決まっている……。
「……残念じゃが、事実じゃ」
ひづりの気持ちをおもんばかってか、天井花イナリは少し労わるような声で答えた。
「お主からラウラ・グラーシャという転校生の話を聞いたその日から、わしは《未来と現在と過去が見える力》であやつらを監視しておったし、今も《現在視》で見ておる。あやつらは、お主が居らぬところでは常に一緒に行動しておるぞ」
「今も、ですか……?」
「ああ、今もじゃ。そして《グラシャ・ラボラス》の奴も《現在視》が使えるわしに一方的に見られておることを承知で堂々としておる。しかし百合川の方はそうでもないようじゃな。場所は変わらずあやつの自室じゃが、昨日までと明らかにその様子が違う。ずいぶんと悪い顔色に戸惑いの表情を浮かべ、《グラシャ・ラボラス》に怒りや疑問をぶつけておるように見える……。《グラシャ・ラボラス》のやつはそれを気にもせず流しておるようじゃがの。あの顔は、あやつの思い通り計画が進んでおる時の顔じゃ。ただやはり百合川は落ち着かない様子でおる。推察するに、昨日ひづり、お主に『《契約者》は百合川だ』と打ち明けたこと、それについて動揺しておるのであろう。あやつにとって、まこと知られたくなかったことのようじゃな」
「百合川が……」
「しかし何にせよ分からぬ事は二つのままじゃの。万里子がどのような《契約内容》で《グラシャ・ラボラス》と《契約》したのか? そして百合川はどのような《契約内容》で《グラシャ・ラボラス》と《契約》したのか? この二つが分からぬ限り、今後のわしらの対応も難しい」
そうだ。分からない事はその二つの《契約内容》なのだ。そして前者は、知ってしまった時、ひづりと父との間に大きな亀裂が入る危険を孕んでいる……。それを近いうちに《グラシャ・ラボラス》は『打ち明ける』と言っていた。それが何のためなのか? 果たして誰のためにそれを行うのか? 分からない。
そして後者、百合川の《契約内容》。こちらは分かればまだ何か手の打ちようがあるかもしれないが……しかし、これも分かる手段は無い様に思える。花火大会の翌日からだが、電話もメールも百合川の携帯は受け付けてくれなくなっていた。それが百合川の願いなら、《グラシャ・ラボラス》もおそらくは彼とひづりが会うことを許してはくれないのだろう。
やはり、ラウラが、《グラシャ・ラボラス》が言っていたように、その《順序》というものを待つほかないのだろうか。天井花さんは《グラシャ・ラボラス》を信頼している様子だ。その口ぶりや態度から、今回の事はひづりが心配しているほど悪い結果にはならない可能性は高いと言っているように感じる。
彼女は「期待せよ」と言った。官舎ひづりは、自分は、そうするべきなのか……?
そこでふとひづりは一つ気づいたことがあってにわかに顔を上げた。
《グラシャ・ラボラス》という《悪魔》についてずっと気になっていたことがあったのだ。
「……あの、天井花さん」
「何じゃ?」
「天井花さんは、《グラシャ・ラボラス》を《グリフォンの悪魔》って言いましたよね……? 確かに昨日見たラウラ……《グラシャ・ラボラス》も、その姿は《グリフォン》っぽい感じではありました。……でも、《ゴエティア》には『《グラシャ・ラボラス》は《グリフォン》だ』、なんて書いてなかったんですけど、それは何でなんでしょうか……?」
ひづりのその問いに天井花イナリは一瞬固まっていたが、にわかに眉根を寄せて体を起こした。
「……何じゃと?」
その赤い瞳から発せられた気迫に押されて思わずひづりは少し身を引いたが、続けて訊ねた。
「ですから、その……確か《ゴエティア》には、《グラシャ・ラボラス》は『グリフォンのような翼の生えた犬』って書かれてた気がするんです。犬、って書いてあったんです。鳥ではなくて……」
ひづりがそう言い終えると彼女は無言で、すっ、と立ち上がり、それから足早に畳部屋を出て階段の方へと駆けて行った。
「ひづりちゃん……? て、天井花さんはどちらへ……?」
「あ……たぶん、《レメゲトン》を置いてる三階かと思います……」
千登勢の問いにひづりが答えると、階段を上っていった足音はすぐに戻って来て襖を勢いよく開けた。
再び畳部屋に上がると彼女は《レメゲトン》のうちの一冊、《ゴエティア》をどさりと机の上に広げてぱらぱらとめくり、《グラシャ・ラボラス》の頁でその手を止めた。
「…………」
しばらく彼女は無言でその《グラシャ・ラボラス》の挿絵や記述に眼を通していた。ひづりも反対側から控えめにその文章を追う。
《ソロモン王》と《七二柱の悪魔》の活躍が描かれた《ゴエティア》。そこに記されていた挿絵は完全に『犬に翼が生えた生き物』で、やはりそれはとても『ワシの上半身にライオンの下半身を持つ幻獣、《グリフォン》』と呼べるものではないように思えた。記載にもやはりひづりが言ったように、「翼が生えた犬」とある。
もしかすると、これも嘘なのか? ラウラはまた嘘を? もしかしてラウラは《グラシャ・ラボラス》と名乗ったけど、実は別の《悪魔》だとか……?
そんなことをひづりが一人考えているとおもむろに天井花イナリは笑い始めた。
「いぬ……? ふは! 犬ぅ!? ふはは!! ふははははは!!」
そのまま腹を抱えて座布団ソファに倒れ込むと彼女は天を仰いで爆笑した。
呆気にとられ、ひづりと千登勢は笑い転げる天井花イナリを見つめたり、互いに視線を合わせたりした。
「あれがっ、ふははははは!! 犬! 犬と来たか!! ははははは!! あぁあぁ確かに《犬》じゃったのぅあれは! おい誰じゃこのような上手い事を書きおったのは! あぁあやつらか! いつも《ソロモン》の活動を記録しておったあの付き添いの者共か! 命がけの冗談とはまっこと恐れ入ったわ!! ふはははははは!!」
可笑しくてたまらない、という風に天井花イナリは初めて見るくらいに大笑いしていた。ひづりと千登勢はしばらく彼女が落ち着くまで待つ以外の行動が取れなかった。
やがて、ひぃ、ひぃ、と笑い疲れたところで彼女はようやく、その目じりに笑い涙を浮かべたまま語り始めた。
「あやつは間違いなく《グリフォン》の《悪魔》よ。鳥の種類としてはハゲワシのな。……しかし、ふ……あれを見て、《犬》と記した者がおったか、ふ、ふふふふはは……」
一度は抜けたツボにまたハマり直したらしく、彼女はうずくまって机に額を押し付け、低い声で笑いながら悶えるようにした。長い狐の耳がふるふると震えていた。
「……あ、あの、えーと、さっぱり分からないんですが。どういうことでしょうか?」
置いてけぼりのひづりはいよいよ質問を転がした。
天井花イナリは今度こそもう満足がいった様子でゆったりとその頭を起こすと、ゆるりと机に頬杖をついてニマニマと笑みを浮かべながら語った。
「《グラシャ・ラボラス》はのぅ、《ソロモン》の奴に懐いておった《悪魔》の中でも、特にそれが顕著であったのじゃ。ほれ、書いてあろう。『グラシャ・ラボラスは人文科学の知識に富む』と。これは少々間違いじゃ。あやつは《ソロモン》と出会った後、《人間界》の知識に対し、どの《悪魔》より強い興味を示した。そして《ソロモン》の奴の書庫、図書館に毎日のように入り浸って、その読書の感想を《ソロモン》と交わし、そうして《ソロモン》と劣らぬほどの人類の智慧を得た。それがそのまま《能力》と謳われるまでになったのじゃ。そしてそれは今尚変わらず、《人間界》へ訪れる度にあやつは本に手を伸ばしてはその脳に智慧と知識を溜め込み続けておる。そういう奴故に、あやつは智慧の王である《ソロモン》を愛しておった。あやつの図書館を《グラシャ・ラボラス》めは甚く気に入っておった。《魔界》での王としての役目も忘れるほどにそこへ入り浸って、《ソロモン》の後ろをいつもついて回っておった。《ソロモン》が呼べば駆け寄り、《ソロモン》が玉座に腰を下ろせばその隣に座り込み……。ふ、ふふふ、それを見て、よもや《犬》と書かれるとは……ふふ、ふふふふ……」
これ以上に面白い事があるか、という具合に天井花イナリはまた笑い始めた。
この調子だとちょっと会話になりそうにないなと判断し、ひづりはやや押し切る感じでいくことにした。
「えーとその、つまり、《グラシャ・ラボラス》は本当に《グリフォン》の《悪魔》だけど、当時《ソロモン王》のそばで《ゴエティア》のための資料を書いていた書記官の人たちが、《ソロモン王》のそばを駆け回る彼女を見て、比喩として《犬》って書いた、って、ことですか」
「ああ、それ以外になかろうなぁ。ふふ、ふふふ……」
天井花イナリは未だに口角を上げた状態で笑みを零しながら額を押さえつつ答えた。
彼女の笑い転げ様には少し困ったものだったが、しかしひづりは何となく彼女が少し前に語った、『可愛げすらあった』という言葉がここへ来て理解出来た気がした。
彼女は三千年前から本が好きで、そして知恵の王であった《ソロモン王》の図書館に入り浸って、彼にとても懐いていた。
つまり、彼女は今も三千年前からまるで変わっていないのだ。そう思えば、天井花イナリがこれまで静観を決めていた事にも実感として納得がいった。
彼女は《グラシャ・ラボラス》で、ラウラ・グラーシャなのだ。嘘偽り無く本が好きで、また本が好きな人が好き。そういう《悪魔》なのだ。だから彼女は自分に親しくしてきたのだろう。だから《契約者》の百合川とも上手くやっているのだろう。
官舎ひづりも、百合川臨も、本が好きだから。
「……私も、ラウラの事を信じたいです、天井花さん」
ようやく愉快な気分が落ち着いてきたらしい天井花イナリに、ひづりはぽつりと伝えた。
「母さんや百合川と一体どんな《契約》をしたのか……それはまだ分からないし、これからどうなるか、想像もつきません……。……それでも、きっとラウラは私や天井花さんが悲しむ結果を求めてない……。今の話を聞いて、私もそれが分かった気がしました。だから、私も天井花さんと一緒にラウラを、《グラシャ・ラボラス》を信じたいです」
ひづりのその真剣な眼差しを受け止めると天井花イナリは再び真面目な雰囲気を取り戻し、《ゴエティア》をぱたんと閉じて机の端に退けた。
「……良(よ)いな。今の決意、わしとしては非常に好みじゃ。まこと愛らしい。ひづり、今宵も泊まってゆけ。ただし今晩同衾するはたぬこではなくこのわしじゃ。王と寝床を共にするのは初めてであろうが、何、心配も恐れも要らぬ。《サキュバス》の真似事くらいは上手くやってみせよう。お主ももう十七じゃ。特別早いという事もなかろう」
出し抜けに彼女は色っぽい笑みを浮かべて机の上にずいと身を乗り出し、ひづりの顎にそっと触れて来た。……やめてください、真面目な話してたでしょ、やめてください……。ひづりは眼を閉じて赤くなった顔を逸らした。
「…………まぁそれはそれとしてじゃ。ひづり。信じる、という判断をするのであれば、つまりは『このまま何もせずに《グラシャ・ラボラス》の行動を待つ』という事であるのと同時に、『《グラシャ・ラボラス》を心の底から信じる』ということでもあるのじゃぞ。分かっておるのか。あの子供っぽくも残虐な《グラシャ・ラボラス王》の思惑に、脆弱な人間の身と心で真摯に向き合う……。その覚悟が必要である、ということじゃぞ?」
脅かすように、案ずるように、彼女はひづりの頬を優しく撫でた。
ひづりはまだ顔の熱が下がらなかったが、視線を戻して眼前の《悪魔》の朱の瞳を見返すと、はっきりと答えた。
「天井花さんはよく私に『期待せよ』って言ってくれます。だから私もやっぱり言いますよ。『期待してください』、天井花さん。ご存知無いかも知れませんが、私、《悪魔》を見る眼はあるんですよ」
そうして暖かい気持ちを胸に微笑みを浮かべると、天井花イナリは微かに眉を揺らした後、またニマリと笑った。
「……ふはは。ではその《約束》、決して違えるでないぞ」
すり、と一つひづりの頭を撫で、それからそっと額に口づけをすると、天井花イナリはゆっくりと体を離して座布団のソファに腰を戻した。
「幼くも勇ましき《契約者》の覚悟、無下にするは《悪魔の王》の名折れよ。故にこの《ボティス》、一切の助言を惜しまぬ。心して聴くがよい、我が《契約者(ひづり)》よ」
座布団の山で優雅にくつろいだまま、彼女は尊大な王の風格で以って語り上げた。
「《グラシャ・ラボラス》は昨日、お主が動揺することを理解した上であのような事を打ち明けて来た。あやつがああした態度を取る時はの、決まって『真剣に向き合ってもらいたいことがある』という時なのじゃ。ただ今回は珍しく、《執着》のようなものがあやつを動かしておるようにわしは捉えておる。しかしじゃ、やるべきことは何も変わらぬ。あやつが言うたという通り、あやつにはひづり、お主に聴いて貰いたい、それはもう重大で、何より大事な話があるはずなのじゃ。お主はそれを聴いてやれ。お主は賢く、また良き魂を持っておる。《グラシャ・ラボラス》もお主にだけは正直になろう。お主が真摯に向き合うならばあやつも必ずやそれに報い、お主や幸辰らが悲しまぬ最良の結末へと事を運ぶであろう。しかしひづり、お主が少しでもあやつの想いを踏みにじるのであらば、あやつはお主を《嫌い》、生かす価値の無いものとして牙を剥くであろう。その時わしは即座に《転移魔術》を用いてお主と《グラシャ・ラボラス》の間に、剣を手に割り込むこととなる。お主に害を成すなら例え《グラシャ・ラボラス》であろうとわしは斬る。あやつが死ねば二つの疑問の答えは得られずに終わり、またお主はラウラ・グラーシャという友人を失うことになる。百合川もお主と友人では居られなくなる。故にその心、強く持て。期待しておるぞ、ひづり」
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