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《第2期》 ‐その願いは、琴座の埠頭に贈られた一通の手紙。‐
8話 『宿題は計画的に、予想外に』
しおりを挟む8話 『宿題は計画的に、予想外に』
青梅市納涼花火大会から二日後の夕刻過ぎ。ひづりはリビングのテーブルで一人、夏休みの宿題と向き合って眉根に皺を寄せていた。
苦手な科目故に問題がなかなか解けない、というのもそうなのだが、そうして筆が止まる度にひづりの意識はついあの時の百合川の事を思い出してしまって、おかげであれから宿題は普段以上に捗らなくなって、ひづりは本当にお手上げ状態になってしまっていたのだ。このままでは本当に、夏休み前に計画していた宿題追い込み会でハナとラウラにかなりお世話になってしまう。いや、なる。何故なら二日に分けて企画していた宿題追い込み会の一日目はもうすでに明日に迫っているからだ。ひづりは今日の内に少しでも進めて見栄を張りたかったが、残念ながら虚しい努力に終わりそうだった。
「だあっ……」
ひづりは眼を閉じて奇声を零しつつ額を押さえ天を仰ぐようにソファにもたれかかった。やはり全然集中出来ない。シャーペンが重い。
昨日、ひづりは百合川にそれとない感じで、花火大会の時に聞きそびれた気がしてならない彼の言葉の続きをメールで促してみたのだが、しかし『何だよ蒸し返すのか? よせよ、恥ずかしくなるだろ。ありがとうなんて、そうそう何度も言わせるんじゃないよ』と返って来ただけで、ひづりが求めていた事については少しも触れてくれなかった。
「……何なんだよ……あいつ……」
今まで一度もこんな風に悩んだ事はなかった。当然だった。百合川臨があんな顔で、あんな声音でひづりに何かを打ち明けようとして来たのは初めてだったのだ。
一年半の付き合い。高校に入ってすぐに同じ委員になって、二年生になっても比較的親しい間柄だった。委員会の仕事もあって、学年の男子の中ではおそらく一番よく話す相手だった。軽口を叩き合えるくらいの仲になっていた。
そんな百合川が突然、まるで『自分はこれから居なくなるから』とでも言うような口ぶりで――。
「…………いやいや、駄目だそれは……」
ふと『天井花さんの《未来視》を使って百合川の《未来》を見て貰ってはどうだろう』と思いついて、しかしすぐにひづりはそれを否定するように頭を軽く横に振った。こんな事にいちいち天井花さんの《悪魔》の《能力》を使ってもらっていたら、姉の様なろくでもない大人になりかねない。
……しかしやはり分からない。宿題は行き詰る。百合川の事が気に掛かる。駄目で元々、と思いつつ明日の宿題追い込み会に誘ってみたりもしたのだが、やはり『悪い、その日は用事がある』と返されてしまっていた。
「はぁー……」
ひづりは大きなため息を吐きながら宿題を広げているテーブルに突っ伏した。鼻先に近づいたノートの匂いがひづりの頭の中に勝手に教室での光景を思い起こさせる。
アサカが居て、ハナが居て、百合川が居て、ラウラが居る。そんないつもの景色……。
「ああ、涼しい……」
その時、お風呂から上がったらしい父がクーラーの効いたリビングに入って来るなり幸せそうな声を出した。ひづりは顔を上げて背筋を伸ばした。落ち込んでいるようなところを見せたくはなかった。
そこで、あぁそうだ、とひづりは思い出してスマートフォンを片手に立ち上がった。ひづりが風呂から上がり、父が入れ替わりで浴室に向かってしばらくした頃、紅葉からメールが来ていたのだ。数件、そこに数十枚の写真を添付した状態で。
おそらくデータをパソコンに移すなりして厳選したのだろう、送られて来たその夏祭の時に彼女がノリノリで撮っていた花火やひづりたちの写真はいずれも綺麗に収められたものばかりだった。
「お、紅葉からか。よく撮れてるな。酔っ払ってるにしては」
「うん、手ブレ補正機能ってすごいね」
現代科学技術の有能さをまず最初に親子で褒めたのち、ひづりは画面をスワイプして、タオルで頭を拭く父に写真をいくつか見せてあげた。
「良いね。アサカちゃんもハナちゃんも浴衣とても似合ってる。何より撮ってる紅葉が楽しそうな感じがする。お勧めして正解だったかな?」
父は液晶画面に向けていた微笑ましげな視線をひづりに移して訊ねて来た。
楽しかった。もちろん。……ただ一つ、最後に引っかかってしまったものはあったが。それでも良い思い出にはなった。
「うん。とても良いところだった。ありがとう」
「ふふ。どう致しまして」
笑顔でそう返しながら父はドライヤーを手に取った。
しかしそこでふとその動きがぴたりと止まった。
「……ひづり? ちょっと、さっきの、二つほど前の写真を見せてくれるかい。白っぽい浴衣の、ミックスっぽい子が写ってる……」
そう言って父は一度持ち上げたドライヤーを置き、再びスマートフォンの画面にその視線を向けたまま一度離れかけたひづりのそばに戻ってきた。
ミックス……ラウラのことか? かたわらで画面を見つめる父の少しばかり緊張した横顔をちらりと見上げてひづりは仄かに首を傾げた。
そこで、あぁそういえばそうだ、と気づいた。話を聞かせたことはあったが、まだ父は一度もラウラに会った事が無いのだ。見慣れない薄いブロンドの美少女が同行しているのを見てつい気になったのだろう。ひづりは画面を戻してそのラウラが写っている一枚を表示して携帯電話を差し出し、父によく見えるようにしてあげた。
「ラウラだよ。前に話したでしょ、オーストラリアからの留学生で――」
そう説明しながら再度父を振り返ったところで、ひづりは思わず言葉を失った。
ラウラとアサカがチョコバナナと綿飴を食べさせ合いっこしている写真。別に何もおかしいところなど無い、映りとしては実に良い一枚だった。
しかしそれを見つめる父の横顔は眉根に深く皺を刻んだ酷く神妙な面持ちへと変わっていた。
「……父さん? どうしたの?」
無言のままただならぬ様子で写真のラウラを見つめている父に、ひづりはおずおずと声を掛けた。
父はハッと我に返った様子で瞬きすると娘を振り返って咄嗟にその眉間の皺を解いたが、しかしすぐにまた引き寄せられる様に画面に視線を戻すと真剣な表情と声音で訊ねて来た。
「ひづり、ラウラちゃんの苗字、何て言うんだ? 彼女、どこの出身って言った?」
ひづりは戸惑いつつも、自身もちらりと液晶画面のラウラの笑顔を見て、そして答えた。
「グラーシャ、だよ。ラウラ・グラーシャ。あ、でもかなり日本人の舌で発音しやすいようにしてるって言ってたかな。一回、ネイティブな正しい発音で聞かせて貰った……確か、んん……『リゥラ・グラッシャ』……? みたいな感じ。出身はオーストラリアの……あれ、どこだったかな? ごめん、ちょっと忘れた。……ねぇ、どうかしたの? もしかして知り合い……とか?」
訊ねてみたが、しかし父は難しそうな顔をしたまま何か思案に耽っている様子でひづりの言葉に意識がちゃんと向いていないようだった。
「すまないひづり。他の、このラウラちゃんが写っている写真、全部見せて欲しい」
「良い、けど……」
一体急にどうしたんだ? ひづりは先ほどからやけに切迫した様子の父を横目にちらちらと見つつ、自身のスマートフォンを操作した。
確かにラウラは大変な美少女だが、父はそういう若い娘に鼻の下を伸ばすタイプではない。今でも三ヶ月前に亡くなった母と、……そして少々恥ずかしいことだが、次女にべったりだった。
それに何より今、父の眼には微かだが何らかの《恐れ》のような色がある様にひづりには見えていた。冗談を言うような場面には思えなかった。
「じゃあ、ラウラの写ってるやつだけ、父さんの携帯に送るよ?」
「あ、ああっ、そうだね、そうしてくれるかい? 助かるよ」
ひづりの提案に頷くなり父は自身のスマートフォンを素早く手に取ってひづりのそばで待機した。父は髪を乾かすことを完全に忘れてしまっている様子だった。ひづりはなるべく手早く操作して、そのラウラが写っている画像を全て父の携帯へと送信した。
「ありがとう」
受信すると父は再び、今度は自身のスマートフォンの液晶画面を食い入るように見つめた。じぃ、と睨みつけては画面をスワイプし、また別の写真を睨んではスワイプし、と繰り返して……まるで何かを確かめるようにしていた。
「ラウラ……グラーシャ……? この子が、ラウラ・グラーシャ……?」
険しい表情のまま下瞼を痙攣させつつ父は小さく呟いた。風呂上りのはずの彼の顔が瞬く間に青ざめていくのをひづりは見た。
「ねぇ、父さん。本当にどうしたの? 顔色悪いよ? ラウラと知り合いなの?」
携帯を操作するその手がおもむろに止まり、液晶を睨みつけていた父の眼が考え事をする様に虚空を見つめ始めたところで、ひづりはようやくはっきりとその疑問を投げかけてみた。
「あ……い、いや、昔の知り合いに、す、少し、似ていた気がして……。ああ、たぶん、たぶん気のせいだろう」
視線を泳がせながら明らかに嘘と分かるその返答を口唇から零しつつ、父はふらつく体を支えるようにシンクにもたれかかってまたどこともない場所をぼんやりと見つめ始めた。
嘘が下手なのは父譲りだろう、とは常々思っていたが、ひづりはここまで動揺を隠せていない父を見たのは初めてだった。
「天井花さんは、ラウラ、ちゃんのこと、何か言っていたかい?」
「…………え?」
出し抜けに転がされたその質問にひづりは呆気に取られた。
どうして今、天井花さんの名前が出てくるんだ? なんでラウラが、天井花さんと関係あるんだ?
父は視線を逸らしたまま何の説明もせず、ただひづりの答えを待っていた。
ひづりは一つ息を呑んで、それから父の隣に、同じようにシンクにもたれかかって答えた。
「天井花さんとラウラに面識は無いよ。うん、たぶん無い、はず。少なくとも私はまだラウラをお店に連れて行ってない。和鼓さんとも会わせてないよ。でも、ラウラについての話は、天井花さんたちには何回かしてる」
すると父は余計に濃い戸惑いの色をその顔に浮かべ、視線をひづりに戻した。
「天井花さんには、確か、《未来と現在と過去が見える力》が、あるはずだね? そうだね?」
父は、ずい、と少し身を乗り出してひづりに問いかけて来た。
「う、うん。《未来と現在と過去が見える力》、それはあるよ。お盆休みで私達が官舎本家に帰っていた時も私達のこと見てくれてたらしいし……あの時、千登勢さんや市郎さんの時もそうだし……。でも、ねぇ、どうして? 何で今、天井花さんの名前が出て来たの?」
今度はひづりが問い質すようにすると、父はおもむろに少し屈んで目線を同じ高さにしてから、その大きな手のひらで両肩をそっと掴んで来て、言った。
「すまない、ひづり。今、質問の優先権は父さんに譲って欲しい。天井花さんはラウラちゃんの事を《見る》ことは出来る訳だね? ひづりから、ラウラちゃんの話を、天井花さんは今までに何度か聞いている訳だね? ラウラちゃんについて、天井花さんはひづりには何も言っていない……そういう事だね?」
父が会話を一方的に押し進めて来るのは本当に珍しい事だった。だからひづりはより戸惑いが増した。
「そのはずだけど……『ラウラについて』って、何? どういうこと?」
「…………」
前半の回答によって更に濃い困惑の色をその顔に見せた父の耳には、もう残りのひづりの質問は届いていないようで、彼はもう自身が家に居る事すらも忘れているかのようだった。
いよいよ耐えかねてひづりは父の顔を両手で左右からがっしりと捕まえると眼と眼を合わせ、そしてかなり大きめの声で訊ねた。
「父さん!! 何なの!! 一体何がどうしたっていうのさ!? ちゃんと話して!!」
次女の怒号に父はようやく冷静になったのか眼を丸くして、その青白かった顔に少しばかりだが生気を取り戻した。
しかしまたすぐ難しそうな顔に戻るとゆっくりと立ち上がり、頭を掴む娘の両手に自身の手をそっと添えて、そして静かな声音で言った。
「……ひづり。今から言う事を、父さんのお願いを聞いて欲しい。父さんはこれからすぐに天井花さんに電話をする。急を要することで、またとても重要な話なんだ。そして同時に、ひづりにもやってもらわなくてはいけない事がある。今から二時間ほどの間、絶対に彼女……ラウラ・グラーシャに連絡を入れないで欲しい。またあちらから連絡が来ても、絶対に反応してはいけない。何より、父さんがこれから天井花さんに連絡を入れることだけは、彼女に絶対に教えてはいけない。……まるで意味が分からないと思う。すまない。けど、これは本当に、本当に重要なことなんだ。父さんが天井花さんと話す内容も、何も教えることは出来ないが、それでも、父さんとこの約束をしてくれないかい……?」
父はひづりにそのように懇願した。まったく以って理解出来ない、何の説明もない、ひどく一方的な約束の提示だった。だから当然ひづりもすぐに返事など出来なかった。
しかし、かつて父がこれほど真剣に娘に何かを頼み込んできた事など一度も無かった。加えてそれは、あの天井花さんにも関わることだという。
それならば。戸惑いこそすれ、ひづりに迷いは無かった。
「分かった。天井花さんに電話して。私は今から二時間、ラウラに連絡をしちゃいけないし、ラウラからの連絡に反応をしてもいけない。父さんが天井花さんに連絡を入れることも、誰にも話さない。携帯の電源を切って、二時間、リビングで宿題したり寝る準備をしていればいい。……それでいいんだね?」
ひづりが真っ直ぐに眼を見つめて返すと、幸辰は苦しげに顔を歪めて、それからにわかに優しく抱きしめて来た。
「すまない。ありがとう」
「いいよ。それより急ぐんでしょ。天井花さんに連絡しないといけないんでしょ」
父の胸をやんわりと手で押してひづりは離れた。
「父さんの考えてる事、全然分からない。でも父さんが私に秘密にしたがってることがあるのは分かってる。それが何かまでは分からないけど……。でも、きっと今回は、それと何か関係があることなんでしょ? たぶんだけど。まぁ、普段だったらちょっと考えたかもしれないけど、でも天井花さんと話すっていうなら、私は止めない。だって天井花さんはたぶん父さんより正しい判断をしてくれるだろうから。天井花さんは絶対、私と父さんにとって一番良い答えを出してくれる、って、私は信じてるから。だから、ごめんね。どっちかっていうと父さんより天井花さんの方を私は信じて、今回のことを約束するんだ」
嘘偽りない本音を付け足し、ひづりはスマートフォンの電源を落としてテーブルにそっと置いた。
「じゃあほら、電話してきて。その通話の内容も私には聞かれたくないんでしょ。さ。でも、父さんまだ髪乾かしてない。すぐに戻って来ないと風邪引く。だから早めにね」
ひづりは踵を返してリビングの方へと戻りソファの手すりに腰掛けると、ふ、と父に微笑んで見せた。
「……敵わないな。あぁ、行ってくるよ。すぐ戻る」
父は苦笑して、それからまた真面目な顔になると携帯電話片手にリビングを飛び出して玄関の方へ駆けて行った。
「いってらっしゃい」
ひづりはひらひらと手を振って、それからリビングのテーブルに置いたままの宿題に視線を戻し、深いため息を吐いた。
さて、自分は自分で向き合わなければならない問題がある。しかしどうしたものやら……。
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