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《第2期》 ‐その願いは、琴座の埠頭に贈られた一通の手紙。‐
『長女、長男、次女』
しおりを挟む本家と言うだけあって、やはり建物自体は都内の一軒家とは思えないほどなかなかに広くて大きい。交通の利便だけが取り得で平均家賃が高い、そんな環状線周辺からかなり離れてこそいるが、それでもそうして抑えられた維持費を帳消しにしてしまうだけの敷地と立派な建物であるのは確かだった。
ただ、今から三、四十年ほど前まではそれで良かった、という話をひづりは甘夏から聞かされていた。当時はひづりの祖父母、つまり甘夏の両親の兄妹たちが一緒に暮らしていたり、大型犬や猫をたくさん飼っていたり、また両親兄妹の親戚がお盆や正月には集まって寝泊りなどしていたため、むしろ窮屈なくらいだったと言う。ひづりも祖父母が亡くなる二年前まではそこそこ賑わいがあったのを憶えている。
しかし現在は甘夏の両親の兄妹、そしてその当の両親も亡くなると、里帰りとして官舎本家へ戻って来る者はもはやひづりと幸辰、そして楓屋夫妻のみとなってしまっていた。ただまぁそれによって、集まるたびに父や母への陰口を言う親類共がこうして離れていったことに関して、ひづりはせいせいしていたわけなのだが。
まぁそれはとにかく、甘夏はそうして両親が死んで親族も集まらなくなってしまい無駄に広くなったこの土地を、その生来の《行動力》で以って、改めて隅から隅まで有効活用することにしたらしいのだ。
両親の葬儀が終わると、彼女はまず最初に両親の寝室をトレーニングルームに改装し、機材を買い揃えた。そうすることでジムに通う時間と月額利用料を節約し、また自宅なのですぐに運動後シャワーを浴びられるという利点を得た。
両親の遺品は全て空き部屋に、また掃除がしやすいよう綺麗にしまい込んだ。いつか掘り出し物があるかもしれないし、今は価値が無くてもいつかは価値が出そうなものがたくさんあったからだ。
そして、余りに余って年中自動掃除機械が稼動し続けていた二階の空き部屋には、甘夏自身の仕事部屋二号室と三号室を作り上げた。家が傾くほど所持していた本を全て一階の空き部屋にバランスよく並べると、その分空いた元々の自室周辺を完全にPC関係のための部屋にした。以前チラリと見ただけだが、巨大なデスクに並べられた四台のPCモニタに株取引きの画面らしきものが映りこんでいたのをひづりは見て、すぐにその部屋を離れた事があった。
……といった具合に、官舎甘夏はとても四十代後半には見えないほど若々しく運動能力も高いのと併せて、その頭の回転と行動速度も恐ろしく速いのだった。
父から聞いた話だが、彼女は両親の遺産を元手に当たりを付けたマンションを買うとそこの管理人になって定期的な収入を得つつ、時には株取引きで爆発的な収益を手にし、また「面倒だしあまりお金にならないから」という理由で最近はしていないそうだが、お金を貰って人に教えられるだけのちゃんとした柔術の資格も持っているのだという。
つまり彼女はどこまで行こうと決して食うに困らない、そういった背骨のしっかりとした処世術というものをあらゆる分野で修めているのだ。そのためひづりは今まで官舎甘夏が金策で困っているような様子を見せたところを一度たりとも見た事が無かった。何なら逆にやたらと父に金を渡そうとしている姿を見た回数の方が多かった。
家を売り、引っ越してもう少し値段の安いところにしよう、という発想にならないところが彼女らしいというか、家を両親から譲られた長女としての責任感というのか。とにかく、彼女は昔からそんな具合に凄まじい人だった。ひづりが彼女に懐き、憧れているのは、子供の頃に本を読み聞かせてくれたことなどに加え、現在ではそういった部分が実に大きい。
ただ悲しいことに、これも父の幸辰いわくであるが、彼女は昔から男運だけは悪かったとのことで、自身もひどく気にしていたらしいのだが、しかしある歳になるとすっぱりとその結婚活動を辞め、今の様な、独身でひたすら健康と金儲けと家の増改築に人生を投げ打つ様になったという。以来彼女はずっと明るくなって、幸辰は少々複雑ながらも、しかし異性の事で悩み続けていた姉が見据える方角を自身で定め、よく笑うようになったことにはやはり安堵したという。
同時に両親の介護などもありはしたが、しかしそれからというもの彼女は実に楽しげに笑うようになって、おそらくこの現代日本で未婚の人生をこれだけ楽しんでいる人もそうは居まい、と思わせるだけの行動力を官舎甘夏は見せつけ続けていた。それがまたひづりの眼にはとてもかっこよく映るのだった。
『でも、ひづりちゃんまで私のようになる必要は無いのよ? いつか良い相手が見つかったなら、自分を信じてね。何せ、ゆーくんの娘なんだから。あなたの眼は、ちゃんと人を見られる眼をしているわ。《幸せ》っていろんな形があってね、そしてそれは、あなたと出会う日をずっと待っているのよ』
しかし恋愛の話になると彼女は決まっていつも念を押すようにそうひづりに語ってくれるのだった。彼女はいつもそうなのだ。ひづりが前を向いて歩いていける自信の言葉をくれる。分からないことに気づかせてくれる閃きの言葉をくれる。ちょっとだけ頑張ってみよう、と思わせてくれる勇気の言葉をくれる。だからひづりは彼女の事が大好きなのだ。
しかし改築の件、官舎本家を彼女は自身が暮らしやすいように改造し尽くしたとは言ったが、『必要な分だけ』はちゃんと残されていた。要するにひづりや幸辰、楓屋夫妻が訪れ、宿泊するための部屋だ。そこだけは確実に確保して、そして冷暖房完備の非常に過ごしやすい空間としてまた改築、維持してくれていた。本当にありがたいことだと思う。
ただ、同時にやはり甘夏は現実的な人であった。今年の一月、ひづりの母がまだ生きていた頃は、父のために割り振られたその部屋はツインのベッドだったが、今はシングルの物に取り替えられていた。それを父、幸辰がどう受け取るにせよ、甘夏はその判断をその頭で考え、決めたのだろう。こればかりは複雑な話だとひづりは思った。
しかしだからと言ってその幸辰用のシングルベッドの部屋に、狭苦しく新たなツインのベッドを持ち込んで、しかもそれを自身とひづり用の寝具として主張したのは、さすがにどうなのだろうかとひづりは思った。
どうなんでしょうか甘夏さん。
「いいえ? 私は本気だし、ことこれに関しては一切何があっても変更するつもりはないのよ、ひづりちゃん? 私はひづりちゃんと一緒に寝たいし、ゆーくんとも久々に同じ部屋で寝たい。……聞いてくれるよね、お姉さんの、お、ね、が、い」
官舎甘夏はそのほどよく筋肉の引き締まった腕を少々色っぽく組み、形の良い両脚を肩幅に開いて、その寝室に於ける仕様変更の一切を拒否する姿勢を強く示した。
そこへ来てようやくひづりも幸辰も『ああ、官舎本家(ここ)はもう、この人の巣なのだな』と気づいて諦めることにした。
ひづりと父の幸辰が官舎本家に着いてから二日後の昼過ぎ。ひづりは軽く図書館のようになっている甘夏の書斎で学校の宿題を進めていた。《魔方陣》の方の練習は甘夏が車で出かけている間にだけ行っていた。
ただ、幸辰のお盆帰省の期間に合わせて甘夏もこの一週間、充分に休暇の予定を確保しているらしく、食料の買出しなど以外では常に家に居てひづりの宿題を見てくれたり家事をしたり「ゆーくんもお姉ちゃんに甘えて欲しい~」とわがままを言ったりしていた。それは毎度の光景ながら『父さん、相変わらず上からも下からも愛されてるなぁ』とひづりにいつもそんな微笑ましい感情を抱かせるのであった。
今は二人とも洗濯物を干しているようだった。先ほど洗濯機が止まる音が聞こえた。ひづりも手伝うと言ったのだが、「ひづりちゃん、夏休みの宿題、いつも最後の方になって焦ってるの、ゆーくんから聞いてるんだぞ~?」と言われてしまい、そのままこうして書斎に宿題と共に放り込まれてしまった訳だった。
確かに書斎は素晴らしい空間だった。ただ本がある、という訳ではなく、その壁一面に並べられた本棚は甘夏本人だけでなく初めて足を運んだ誰でも利用しやすいような配置がされ、現にひづりもその苦手な英語の科目に於いてかなり分かりやすく解説してくれる参考書と出会うに至っていた。本の縒れ具合から見るに持ち主である甘夏も相当読み返したことが窺えたので、実際にそこから得られた知識は役立ったのだろう。そう考えると、この本棚に並べられた中で縒れ気味の本ほど甘夏がよく活用したものということになり、必然的におよそ眼を通す価値のある本、という事にもなる。
後でそうした本を探してみるのも良いなぁ、とひづりが考えていたところで、不意に玄関のチャイムが鳴った。
「お?」
ひづりは顔を上げて玄関の方を見た。そこで今日が何日だったかをふと思い出し、すぐに立ち上がって少し駆け足に戸口へと向かった。
玄関扉のすり硝子の向こうに心当たりのある人影が見え、ひづりはすぐに靴を履くとサムターン錠を捻った。
「酔っ払いですか?」
チェーンを掛けたまま扉を開けてひづりが訊ねると、向こうに立っていた人物は浮かべていた笑顔を、にわかに悲しげな色に変えた。
「酔ってないよぉ~! 今日はあたしが運転してきたもん~!」
そう言って彼女は車庫にしまわれた赤い軽自動車を指差しつつ、ポケットから車のキーを取り出して見せた。彼女の後ろで少々かっぷくの良い同年代の男性が一人、くすくすと笑っていた。
ひづりは一度扉をしめてチェーンを外すと改めて扉を開き、彼女らを出迎えた。
「冗談ですよ。おかえりなさい、紅葉さん」
今日は八月十二日の土曜日。『楓屋夫妻はひづり達より二日遅れで官舎本家へ来る』、事前にそういう話になっていた。電話では「午後になりそうだ」と言っていたが、まだ十三時前である。思いの外早いご到着だった。
「わはー! 先週ぶりだねひづりちゃん! ただいま! 可愛い! えへへへへ~」
紅葉はそう言いながら出し抜けに腕を広げてひづりに抱きついてきた。……おう、ほんとにシラフ? ほんとにお酒入ってない? いや、酒の臭いがしないので本当なのだろうけども。
紅葉とひづりにはほぼ十センチもの身長差があった。それ故に抱きつかれると相変わらず彼女の胸元にひづりの顔が押し付けられる形になるのだが、しかし彼女の胴回りはひづりと似ていて細く、バストサイズもほとんど差が無かった。なので和鼓たぬこや花札千登勢ほどの、安心感より逆に恐怖を抱くようなサイズもカップも彼女には無いので、ひづりは平常心のまましばらく彼女の気が済むまで抱きしめられておくことにした。彼女達は山梨からはるばるこの東京まで車を飛ばして来たのだ。これくらいは許してあげよう、という気持ちにもなる。
「お、やっぱり紅葉来てたのか。佳代秋くんも、ひさしぶり」
洗濯を終えたのか、のれんをくぐって幸辰が玄関に現れた。一応玄関のチャイムは裏庭でも聞こえていたらしい。
「お久しぶりです、お義兄さん」
《呉服楓屋》の主人でありまた紅葉の夫である楓屋佳代秋はその両腕にやけに大きな荷を抱えたまま義兄である幸辰に挨拶をした。
「ただいま兄貴~。へへ~ひづりちゃんゲット中~」
そのついでという感じで紅葉は顔を上げると、引き続きニコニコしながらひづりの顔を自身の胸に押し当てた。玄関でクーラーも無いので、さすがにひづりはちょっと暑くなってきた。
「おいずるいぞ。パパもゲットする」
すると父はおもむろに低めの良い声を出すや否や、一体何を考えているのか、玄関に下りて来て妹と一緒になってひづりを抱きしめてきた。
「……いや、『ずるい』とか無いから……。紅葉さん一人ならともかく、父さんまで抱きつくのはやめて。割と……いやかなり暑苦しい……。やるならせめてクーラーついてる部屋でやって。…………だぁー! 暑いんだってば! 離れて!!」
呆れつつ二人を引き剥がそうとしたところ、少し遅れて甘夏も到着した。
「あらあら、何してるの? 楽しそうね? 私も混~ぜて♪」
そしてそんなことを言いながら彼女は妹と弟に便乗し、ひづりに抱きついて来た。
……なんなんだこの三兄妹。だらだらと顔や背中から汗が湧いて来るのを感じてひづりは諦念し、脱力してしばらくその体を三人のしたいままにさせておくことにした。
傍らで佳代秋が笑っていた。おい見世物じゃねーぞこら。
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