和菓子屋たぬきつね

ゆきかさね

文字の大きさ
上 下
64 / 228
《第2期》 ‐その願いは、琴座の埠頭に贈られた一通の手紙。‐

   『物語との触れ方』

しおりを挟む



 ぱたん、と本の閉じられる音が控えめに鳴った。ひづりは読んでいた本から視線を上げた。見ると、ラウラが両目をギュッと瞑って両手を天井に伸ばしていた。
「読み終わった? 今日は何を読んだの?」
 ひづりが頬杖をついたまま小声で訊ねると、ラウラはパッと振り返って立ち上がり、読破したらしいその四冊の本を持ってカウンターの中に入って来た。図書委員じゃないんだから入っちゃ駄目だよ、と何度も言っているのだが、どうもこれだけは何故か聞き分けてくれなかった。
「今日は、本格的な登山の準備や山登りで得られる感動の類に関して書かれた本と、アメリカン・インディアンの歴史と今の生活ぶりがインタビュー形式で書かれた本と、株取引に関する怪しげな本と、日本の情報伝達媒体の進化について書かれた本を読みました。一番興味深かったのはアメリカン・インディアンの……あれ? 百合川が居ません? どこに行きましたか?」
 彼女はカウンター席に自分とひづりしか居ないことに今更気づくときょろきょろと辺りに首を回してから、おもむろに傾げた。やはり彼が途中で美化委員の役員仲間に連れていかれたのに気づいていなかったらしい。
「オウ。そうでしたか。じゃあ二人っきりですね。ふふ。たくさん感想聞いてくださいね」
 ラウラは百合川が座っていた椅子に掛けると、ニコニコとひづりに笑顔を向けた。
 その互いの距離が少しばかり離れた事をひづりは喜ばしく思っていた。先週までの彼女なら、その椅子をひづりのすぐそばまで引っ張って来て読んだそれらの本を開き、「ここの記述、著者の何らかの個性的な思想を出してしまってますね」とか「ここの言い回しがとても面白いんです。ちょっと読んでみてください」と肩も頬も寄せて来ていたところだったが、やはり朝に話し合った事を彼女はちゃんと理解し、真摯に受け止めてくれているようだった。
『不安がらなくていい。私も本が好きだから。君が本が好きなら、一緒にお話しよう。そこに、君がへりくだったり、無理やり私と距離を縮めようとする必要は無いんだよ』
 ひづりによって伝えられたそれを彼女は、やはり賢いのだろう、しっかり理解して、受け入れて順応してくれているようだった。
 でもカウンター席に入ってくるのはやめてくれない。賢く、適応力も高いが、わがままでもある。そういう子らしい、というのもまた、ひづりは理解に至っていた。
 そうしてしばらくまた、その登山とアメリカン・インディアンと株と日本の新聞などに関して書かれた本の感想をひづりは聞く事になった。ただ、これがひづりは嫌ではない。むしろ彼女の語り口はとても丁寧で分かりやすく、その分厚い本がつまるところ、どこからどこへ向けて綴られた物なのか、誰のための誰が書いた物なのか、また見所からつまらないところまで、とても簡潔に伝えてくれるのだ。ひづりが普段読まないジャンルの本であっても、彼女の感想を聞いた事によって「……ちょっと読んでみようかしら」と思わせるほどだった。
 ただ、この三日、ひづりはそれら読了した書籍の感想をラウラから聞かされてきたが、しかし彼女が図書室で選ぶ本にはまるで共通点というものが見られなかった。今日の四冊がそうであるように、そして木曜と金曜に読んでいた本のジャンルも同じく、著者も、国も、宗教も、学科も、創作も、全てがランダムであるようにひづりには見えていた。
 なので改めて聞いてみることにした。
「ラウラが読む本のジャンル、いつもバラバラなように見えるんだけど……何か、実は共通点があったりするの?」
 百合川は史実が元の創作が好きだ。ひづりは無からの創作の物語が好きだ。そういった分かりやすい書見へのこだわりが二人にはある。もちろん本を読む人誰もがそうだとはひづりも思わないが、ラウラのはあまりにも関連性が見つけられなかった。
「共通点は無いですね」
 すぱっ、と彼女は答えた。無いんだ。やっぱり。
「でも、目的はありますよ。ふふ。本と、著者を私は好きになりたいのです。好きになれる本と、著者を、私は探しているのです」
 ラウラは四冊の本を積み上げて、それを両手で整えるようにした。
「探してる……?」
 確かに、好みの作品を書く作家を見つけたい、という気持ちは、本を読む人なら誰にでもあるだろう。ひづりにもある。百合川にもあるだろう。
 けれど彼女が言っている事は少しニュアンスが違う気がして、ひづりは首を傾げた。
「ハイ。本の、文字の内容から、著者の思想を読み解くことは出来ます。時には感情もそこには乗っているでしょう。ただ、そこに真摯な気持ちがあったか、楽しんで書いたか、追い詰められて書いたか、そういったことは、あまり分かりません。ですから、私はそれを知りたいのです」
 ラウラは積み上げた本をくるりと回して四冊の背表紙をこちらへ向けると、その四名の著者の名前が記された部分をゆっくりと愛しそうな手つきでなぞった。
「もちろん本の内容も重要です。何故この人たちがこの文章を書いたのか。何を伝えたかったのか。そういった事は本というものの機能として最も重要ですが、私は読み終わった後、この文字を綴った人たちの事をインターネットで調べて、それからまた本の内容を思い返して、彼らが、彼女らが、どこでどんなものを当時食べながら、何時に起きて何時に寝て、ペットは何を飼っていて、誰を愛して……そうした人生をして、何故それらの文字を紡いだのか、それを知りたいのです。いえ、明確に知ることが出来る訳ではないので、想像に耽る、という表現が一番正しいでしょうか。つまり、ナンパをしてるのです。本を読んで、素敵な人を探しているのです」
 ラウラは振り返って、えへへ、と笑ってみせた。
 それを聞いて、「何と面白い楽しみ方をしているのだろう」とひづりは素直に驚いた。本や文字に対するその向き合い方が、自分では思いつきもしなかったことだったからだ。感服する、とはこういうことを言うのだろう。
「……すごいよ、ラウラは。そんな本の読み方もあったんだ、って、驚かされた」
 ひづりが正直に褒めると、ラウラはまたニッコリと笑顔になって頬を少し赤くした。
「うふふ。じゃあ本を戻して来ますね」
 彼女はまた、こそっ、とひづりに微笑むように耳打ちすると、席を立って本棚の陰に消えた。
 土曜日、ハナが言ったように、ラウラは妙なタイミングで不自然な嘘を吐く。それも頻繁に、日本という国へ来て寂しさからひづりに依存しようとしたこととは別に、彼女はクラスメイトらと言葉を交わす際などに、その端々に何かしらの偽っているものを仄かに見せる。それは今朝、今後のラウラと自分達の付き合いについて話し合って一旦の解決を見ても尚、無くなるものではなかった。
 声音が、表情が、その時だけ少しばかりの影を持つのだ。好きな食べ物、好きな芸能人、好きなタイプの異性。そう言った何気ない質問に対してさえ、彼女は嘘を吐いている。言葉選びが多彩なために巧みに誤魔化されるが、ひづりにもハナにも、辛うじてだがそれらが違和として感じ取れてしまう。
 そして彼女が何故そんな他愛の無い事に嘘を吐くのか、虚言癖を持っているのか、分からないが……けれど図書室でだけはそれが無い事を、ひづりは二日目の時点でうっすらと気づき、そして三日目の今日、確信に至っていた。
 彼女は、本に関することだけは全て本音で語るのだ。真摯に、嘘偽り無く語ってくれるのだ。今の話にしても、普段の無闇矢鱈な空元気のノリで誤魔化しもせず、その眼差しがどこへも泳いでいない、本音の態度で行われていた。彼女は本当に先ほどのような楽しみ方で本を読んでいるのだ。真剣に彼女は文字とその著者に向き合っているのだ。
 それだけが確かな真実としてひづりの眼には映った。
 疑っても良いかもしれない。今、このタイミングにかこつけて、普段なら嘘で誤魔化されそうな話題をそれとなく差し込んでみてもいいかもしれない。
 だがひづりは同じ本好きとして、そして今の話を聞いて、何よりこの本の蔵で、そのような無粋なことをしたくなかった。
「さっきの話の続きだけど、ラウラが最近……最近じゃなくても良い、とても好きになった作家さんって、誰?」
 だから、彼女の本音をもっと聞こうと思った。探るのでも疑うのでもなく、これから仲良くしていく一人のクラスメイトとして、彼女の本当に好きなものを知りたい。ひづりはそう思った。
「オウ。好きな作家ですか? 良いですね、そのお話、しましょうしましょう。私もひづりの好きな作家、知りたいです」
 四冊の本を棚に戻し終え、新たに今度は二冊の、やはりジャンルの違う本を持ってカウンターに帰って来たラウラはひづりのその問いにとても嬉しそうに答えた。その仕草に、声音に、やはり嘘の影は感じられない。
「私は、ハンス・クリスチャン・アンデルセン。彼の事がとてもお気に入りです」
 そっと肩を寄せ、ラウラは暖かい笑顔で嬉しそうにそう告白した。
 アンデルセン。ラウラの読書の幅は非常に広いため、知らない作家名を想定して覚悟もしていたが、びっくりするほどよく知っている名前で、ひづりは逆に少々面食らってしまった。
「……アンデルセン。……ちょっと意外……」
「あれ? そうですか?」
「あぁ、ごめん。気を悪くしないで。ラウラは、いつも分厚い難しそうな本読んでるから、著名な童話作家が一番好き、って聞いて、ちょっと驚いたんだ」
「あぁー、そういうことですか。というか、彼はやはり日本でも有名なのですね?」
 彼女はまた嬉しそうな顔で首を傾げた。そうか。そこからまず、知らない可能性もあるのか、と気づいてひづりは自身の感覚が「当たり前」に縛られていることを自覚して恥じた。
「うん、そうだよ。日本でも、知らない人は居ないってくらい、アンデルセンは有名だよ。私も子供の頃、伯母によく読んでもらってた」
「オウ。そうですか。じゃあ彼の本については、わざわざ語るべくもないですね」
 ラウラは受け付けカウンターの上にその両腕を枕のように組んで置くと、そこへひづりに視線を向けたままの頭をそっと乗せて、続けた。
「彼は七十歳で亡くなりました。生涯、独身だったそうです」
 アンデルセンの童話そのものは何冊も読んだことがあったが、詳しい人物像などについてひづりは知らなかった。だからラウラの知る、彼女のお気に入りだという彼に関する話に、ひづりも少し肩を寄せて耳を傾けた。
「子孫を残す行動、というのは、あらゆる生物が、誰に言われた訳でもなく知っていることで、馬鹿でも理解出来る理屈です。それと同時に、動物でも植物でも、その生殖が果たされないケースが、それはもう当たり前に存在します。天敵に捕食されたり、異性に好まれなかったり……またそもそも集団で生活し、競って勝ち残ったオスしか生殖行為が許されない、そういう動物も居ます。あるいはその逆、強いオス弱いオスなど関係なく、とにかく適した季節に一同で集って、誰彼構わず交じり合う、そういう種の生物も居ますね」
 ラウラはいきなり生殖の話をした。話の切り口が斬新だ、とひづりは感心しつつ、しかしちょっと落ち着かない気持ちにはなった。
「そんな動物の一種である人間の一人、アンデルセンは、最期まで子を成しませんでした。話によれば彼は厭世家で、またその自身の容姿へのコンプレックスやプライドの高さから、普通の女性とはどうも相容れなかったそうです。そのため彼の血はそこで途絶えました。ですが」
 淡々と語っていたラウラの声がにわかに、ただ図書室という事をちゃんと配慮した声量で、仄かに高まって続いた。
「彼の残した童話は、その文字は、二百年経とうという今なお世界中で愛され続けています。子供達はその文字を、ひづり、あなたもそうであったように、語って聞かされて育つのです。血は途絶えても、その文字は二百年、生き続けているのです。彼は武人でも王でもありません。ですが彼の脳が産み出し、その手が綴ったものは今も、そしてきっとこれからも、人の文明が続く限り永久に絶えることはないのでしょう。私はそれをとても素晴らしいと感じます。そこに私は人の文字というものの尊さを感じます。自身はその生涯を異性に愛されないながらも、しかし死して尚、世界中からその文字を、物語を愛される人。デンマークの童話作家、ハンス・クリスチャン・アンデルセン。だから私は彼のことが大のお気に入りなのです」
 ウィスパーボイスながらそれはもう情熱的に彼女は語った。
 それから自身の胸に触れて落ち着かせるように一つ深呼吸すると、今度は静かな調子で続けた。
「……昔、私が『本が好きだ』と話すと、とても喜んでくれた人が居ました。その時あの人が喜んでくれた理由が最近、わかるようになったのです。幼い私には難しくてよくわかりませんでしたが、きっとあの人は、そういうことを私に語ってくれていたのだと思うのです。だから私は本がもっと好きになりましたし、文字を綴る人の事も好きになりました。この世界にもっともっと、本が、文字を書く人が増えてほしいと願っています。あの人のことをいつでも思い出して幸せな気持ちになれる本が、図書室という場所にはこんなにたくさんあります。私は、ひづりと百合川の任されているお仕事、とても羨ましいと思います」
 眉間に皺を寄せ、けれど口角は上がっている。ラウラはそんな冗談っぽく不貞腐れた表情で嫉妬の言葉を吐いて来た。ひづりも笑いながら返す。
「悪いねラウラ。来年もこの座は狙ってるんだ。まぁ、私と他のクラスになれば、別曜日で担当にはなれるかも、だけどね」
「嫌です! クラスも一緒で、図書委員も一緒が良いです!」
 ……仕方ねぇな。百合川には消えてもらうか。などと冗談を考えているとラウラが、ちょいちょい、とひづりの腕をつついた。
「次は、ひづりが好きな作家を語ってくれる番ですよ」
 あ。ああ、そうだったそういう話だった、とひづりは我に返った。ラウラの語りがあまりに熱烈だったため、ひづりは自身の事の方をすっかり忘れてしまっていたのだ。
 しかし実はちょっと困っていた。ラウラのことをもっと知りたいと思ってこの話に快く乗りはしたのだが、一つ問題が、いや実に大きな問題があったのである。
「……えーと。そうね。好きな、好きな作家だよね……」
 しかし隠せるものでもない。嘘もつきたくない。図書室でだけは嘘を吐かない彼女の前でなら尚更。
 なのでひづりはラウラに正直に答えることにした。
「ごめん、実を言うと私、好きな作家、っていうものが……そう言えるだけ著書を読破出来てる作家が居なくてね……。自分で言っておいてなんだけど、私も大概、著者にこだわらずにいろいろ読むタイプだからさ……好きな作家、って言われると、かなり広く居るんだけど、一番って言われると、どうも……」
 そうなのだ。ひづりは創作の物語なら色んなジャンルを読むが、『これだ』という著者と、未だ出会えていないのだった。感動した本はたくさんある。好きな本も。けれどいずれも別々の作者で、またその感動した本の著者の別の作品を開いてみるも、悲しいかな肌に合わず途中で読むのをやめてしまったり、ということが頻繁にあったのだ。
 だがひづりは熱く語ってくれたラウラの手前、しばらく記憶を整理して、その中であえて語るとするならば、という一人の名前をどうにか捻出した。
「……私は、『星の王子さま』……あの本が、とても好き、だね。きっと一番好きな本。……だから、そうだね。私が一番好きな作家は、強いて言うなら、になってしまうけど、彼のアントワーヌ・ド・サン・テグジュペリになるのかな。けどごめん。さっきラウラがアンデルセンのことを話してくれたみたいな、サン・テグジュペリについての生涯とか、私は全然知らなくて……」
 何とも申し訳ない気持ちになり、ひづりは顔を押さえて頬杖と一緒にため息をついた。
「いいえ。良いんです。好きにだって、いろいろありますから。私はアンデルセンの事は好きですが、著書に関してはそこまで大好きという訳でもないので」
「え。あれ。そうなの?」
 ひづりは驚きのあまりパッと顔を上げ、間抜けな表情のままラウラを振り返ってしまった。
「ええ。ですからひづりの好きも、きっとそれで良いんだと思いますよ? 物語を好きになっても良い。そこにある思想を好きになっても良い。言葉選びや、文字の綴り方を好きになっても良い。著者本人を好きになっても良い。本って、そういうものじゃないですか」
 呆気にとられてしまった。まさにその通りだ、と、ひづりもそれを分かっていたからだ。だが今の自分は、ついラウラと話を合わせようとして、無理に分かりやすい答えを出そうとしていた。ラウラの普段の嘘について頻繁に意識を向けていたことをひづりは恥じ入るようだった。
 本が好きだという気持ちは、今ラウラの言ったように、本当にただそれだけで良いはずなのだ。
「……その通りだ。なんだか、本当にすごいなぁ、ラウラは」
 再び心の底から感服し、ひづりはまるでラウラがずっと年上の立派な大人であるように思えるようだった。……いや、自分が、あまりにしっかりしてないだけなのかもしれないが……。
「そうですか? うふふ、褒められて悪い気はしません」
 彼女は胸を張って冗談っぽく微笑んだ。
 しかし、本当にすごい、とひづりは思う。彼女はオーストラリアの、それも同い年の少女でありながら、こんなにも流暢に日本語で会話が出来る上、日本語のめんどうくさい文字まで完璧に理解しているようなのだ。でなければあのハナがやっきになって授業中に手を上げて自主的に発言したりしない。
 そうした言語能力や学力もそうだが、その抱いている思想にしても、ちゃんと纏まって形になったものを持っている。
「本当にすごいよ。こういう時、私はラウラの『爪の垢でも煎じて飲むべき』っていうところなんだけど……あぁ……もしかしてこういう諺も……」
「はい。知ってますよ。立派な人を指して、何でもいいからその人から何かあやかりなさい、という意味ですよね」
 すっげぇ。ひづりは思わず天井を仰いでしまった。
「どうしましたひづり? 天井に何かありますか?」
「……私の自尊心が浮いている……」
「それは諺ですか?」
「ポエム」
「ポエム。ひづりは詩人を目指していますか?」
「悪くないね。中々に貴重な体験もしてきたし、ありかもね」
 ははは、と切ない笑い声と一緒にひづりは相変わらず天井を見つめてそんな適当なことをその口から漏らした。


しおりを挟む

処理中です...