和菓子屋たぬきつね

ゆきかさね

文字の大きさ
上 下
53 / 247
《第1期》 ‐餡の香りと夏の暮れ、彼岸に咲いた約束の花。‐

   『約束の花』

しおりを挟む



 ただ、今回の事件でひづりは肉体的にも精神的にも疲れきって、たとえ傷は治り、精神も立ち直って見せたとはいえ、やはり父としては心配が収まらないらしく『少なくとも今日から三日間は学校を休んで安静にしておくこと。いいね?』と言い渡して家に三人を残すと長女がすでに入院手続きを終えているであろう病院へと出掛けて行った。ただこれは『あとはもう、自分は天井花さんと和鼓さんが居てくれるから平気だよ。その約束は守るから、だからそろそろ姉さんのところにも行ってあげて。けどサトオさんに怒ったりしちゃ駄目だからね。絶対だからね』というひづりに後押しされてだった。

 実際、姉のちよこは体に関しては並以下だが精神面に於いてのみ常識外の強さだとひづりは今まで見て来たし、今はそばに愛する夫も居る。傷自体も完治した。問題はあとは粉砕骨折の手術で後遺症が出ないかどうかという部分と、体力面だけだった。ひづりと違い、父が病室へ行ってもさして何かが変わることはないだろう。

 ただそれでも、あんな性格でも、姉も父から今日中に「おかえり」を言って貰わなければならない、父はそれを言わなければならない、とひづりはそう思ったのだ。加えて『ひづりが行けと言った』と伝われば、あれも多少は喜ぶ。

 そしてまた周到なことに、ひづりが帰るまでの間にちよこは父に『稲荷寿司と日本酒の貯蓄を数日分買っておくように』と伝えていたらしく、冷蔵庫とキッチン横にはそれらが積み、並べられていた。普段そんなに買わない冷凍食品やカップ麺、そしてお菓子などもひづり用にだろう、買い置きされているようだった。

「遅くなってしまいましたけど、お昼にしましょうか」

 ……ああそうか、これからは私が二人に食事を提供するんだ。そんな微笑ましい気持ちを実感しながら、ひづりはリビングでくつろいでいた二人の《悪魔》に声を掛けた。







 陽が少し傾いて来た頃、アサカとハナが出し抜けに官舎家へやって来た。父の幸辰からアサカの元へ連絡が入ったらしく、当然、《悪魔》に関する話は省いただろうが、『旅行中に姉のちよこが大怪我をした。今はもう怪我自体は大丈夫だが、そのことでひづりは少し消耗している。だから元気づけてあげて欲しい』という感じの旨を伝えられたらしい。

「お姉さん、もう大丈夫なの? ひづりんは怪我してないんだね? 大丈夫だったんだね?」

「ひぃちゃん。今日のアサカは何でもひぃちゃんのお願いを聞いてあげるアサカです。何でも言って下さい。さぁどうぞ」

 彼女たちはお菓子やらハチミツやら唐辛子やらニンニクやら、考え付く限りの元気が出そうな物をドラッグストアの袋いっぱいに提げて玄関の扉をくぐるなりひづりに抱きついて来た。……抱きつくついでにやけに腰や太腿辺りをまさぐって来る手が二本ほどあったが。

 しかしこうしてこの二人ともまた生きて再会出来た事を実感すると「帰って来たんだ」という気持ちがやはり改めてその胸いっぱいに湧いて来てひづりはついまた泣きそうになってしまった。そんな眼と鼻を赤くしたひづりを見るなりアサカとハナは再び「つらかったね。大変だったね」と抱きしめて慰めてくれた。……うん。ありがとう。……でもハナ、胸揉むのやめろ。アサカが真似しようかどうか葛藤し始めてるからやめろ。









 旅行より戻って二日目。天井花イナリ、和鼓たぬこと共にひづりは姉の病室へ出向いた。手術は明日に決まったらしい。

 ひづりが《魔術》や今後の《悪魔》二人との向き合い方に関して決めた心構えを告げると、姉は思いのほかあっさりと母から譲って貰ったというその《魔術》に関する本の保管場所を教えてくれた。

「二人の《契約者》はもうひづりになっちゃったからね。《悪魔》を従えるなら、その力が無くちゃいけないからね、本当は」

 凍原坂や千登勢のような例外は除いて、という話だった。だからひづりも頷いて、譲られたその権利と義務と覚悟をしっかりと胸に受け止めた。







 ……普通、《姉夫婦のベッドの下》なんていう、妹が取りに行きづらい場所にしまうかな、あの女……。《和菓子屋たぬきつね》に数日ぶりに戻ったひづりは気まずい想いで二階の姉夫婦の寝室に入り回収した《魔術書》を、現在は閉店中であるフロアの奥の方で広げていた。

「どうじゃ。捗っておるか?」

 にわかに天井花イナリが傍らへ来て、ひづりが開いている本の頁を覗き込んだ。

「《テウルギア・ゴエティア》か。確かに、お主にはまずその本の知識こそ肝要であろうな。……しかし《レメゲトン》を隠し持っておるのは知っておったが、複写と翻訳がされた物とは言えあのちよこが五冊とも大事に持っておったとはな。意外じゃった。……いずれ譲るつもりでおったからかのぅ」

 そう言って天井花イナリは優しげに細めた視線をひづりに向けた。そうかもしれない。実際、病室で姉は何の反対もせずこの本達を譲ってくれたのだから。

 天井花イナリが口にした、そしてひづりが今読んでいるこの《テウルギア・ゴエティア》は、彼の《ソロモン王》のその生涯に深く関わりのあった五冊の魔導の書、《レメゲトン》のうちの一冊で、内容は《悪魔》や《天使》についてと、またその《召喚魔術》に関する技術を中心に記されたものだった。当然あの日ちよこが使用した《防衛魔方陣術式》や《治癒魔術》、そして《契約印》などについても記されていた。

 《悪魔》から己の身を守る。《悪魔》の《契約者》としてちよこはその務めを立派に果たした。そしてひづりはそれを引き継ぐ覚悟をした。であればまず最初に読むべきはやはりこの《テウルギア・ゴエティア》をして他に無いと思ったのだった。

 宗教的な事に疎いひづりであったが、しかし内容が分かりにくい、ということは意外にも無かった。むしろ実体験したことがいくらかその文章の中にはあったため、どちらかというと学校の勉強より頭に入ってくるようだった。怪我の功名とはまさにこういう事を言うのだろう。

 そんな折にふと、読んでいる《テウルギア・ゴエティア》とは別に、隣に開いて置いていたもう一冊の《レメゲトン》にちらりと視線をやった。

 そちらの本の表題は《ゴエティア》。《ソロモン王》と、そして使役した《七二柱の悪魔》たちの活躍を描いた歴史的な記録の書らしかった。今ひづりが開いて置いているそちらの一頁は、他でもない《ボティス》について記されたものだった。

「これは《ゴエティア》じゃな。……相変わらずわしの挿絵が無いのは気に食わんが……まぁ他の連中の適当に大雑把に想像だけで書かれた醜い挿絵を思えば、むしろ無い方がマシか。ふは」

 《ゴエティア》の頁をいくつかパラパラとめくりながらおそらくは知己であろうそこに記された他の《悪魔》の王たちの挿絵を眺めつつ天井花イナリは笑った。

 蛇の悪魔、《ボティス》。白蛇神社の境内でその背丈が元に戻っていた時の彼女をひづりは思い出した。体色が異なっていただろうとは言え、《ボティス》はあんなにも美しい姿をしていた。どうやら過去に彼女を召喚した者たちはあまりにも絵心というものが無かったのだろう。あるいは美しすぎたが故に削除されたか。ひづりはそんな事を考えながら、縮んでなお、頁を見下ろしてめくるだけのその仕草にも王の風格と妖艶さを漂わせる天井花イナリの横顔を眺めては胸がドキドキした。

 ……しかし彼女と言えば、そうだ。白蛇神社である。

 あの後ひづりは《ベリアル》での一件のために白蛇神社がひどい風評被害になど遭っていないかと気になってしまって、山口県の特に岩国近辺のニュースを何度もインターネットで検索していた。

 のだが。

 検索していると、ひづりが生まれるより以前からあるという大手掲示板のオカルト系の話題を取り扱うその一つで、それらしき、というか、まさにそれに関するスレッドを発見してしまったのだった。



『白蛇神の御業!? 参拝客が集団幻覚&全員が病気完治!!』



 この手の掲示板というのは大抵そうそう賑やかになるものではないとひづりは聞いたことがあったが、ことそれに関しては話と違った。いや、実際それが事実だったのだから、仕方はないのかもしれないが。

 あの時、天井花イナリは『境内中に《治癒魔術》を掛けた』と言った。それゆえ、《ベリアル》によって生かさず殺さずの状態にまで痛めつけられていた彼ら参拝客の傷どころか、彼らが元々抱えていた、たとえば癌や腫瘍、果ては心の病まで治してしまっていたようで、それでそのオカルト掲示板は盛り上がっているようなのであった。

 内容は懐疑的ながらも、しかしあそこに押し込められていた人数はそこそこ多かったため、被害を受けた人……いや恩恵を受けた人、というべきか……? ……とにかく彼ら当人の書き込みと思しきものがなかなかに多く散見されており、少なくとも悪い方の話題にはなっていないらしいと見え、ひづりはひとまず胸を撫で下ろしていた。参拝客が減るようなことにだけなっていなければ後腐れも無い。

 それと白蛇神社と言えば、ついでであったが、ひづりたちを抱えて宿へ《転移》する直前、天井花イナリは《ベリアル》と《契約》していたらしいあの藤山とかいう緑の上着の中年女に、その強力な《神性》を用いて一生ものの《認識阻害魔術》を《二つ》掛けていた。

 一つは『《和菓子屋たぬきつね》に関連する人物、従業員、客、そして建物そのものを今後一生知覚出来なくなる』というもの。

 そしてもう一つは、こちらは天井花イナリによる完全な私怨ではあったが、藤山のその味覚を《認識阻害魔術》によって『完全に破壊』しておいたらしい。

 いつか商店街で気が狂ったように「ここに在ったのに! 見えてるんでしょ!?」と喚いたのち、最終的に心の病院の方へご家族と共に通う彼女の姿が遠くない未来に都内のどこかで見られることだろうとひづりは他人事のように思った。

 ただそれがあってか、《契約印》がちよこからひづりに移ったからか、はたまた今は店に三人しか居ないからか、やけに今日の天井花イナリは機嫌が良いようだった。

 そう、彼女は今日とても機嫌が良かった。まだ日程的には旅行の最終日、休日としてとっていたはずで、だから休んでいても構わないというのに、彼女は和鼓たぬこと共に店の掃除をしてくれていた。その合間に《レメゲトン》に眼を通すひづりの質問に答えたり、こうしてたまに顔を見せに来てくれていたのだ。

 お休みなんですからお掃除なんてしなくて良いんですよ、とひづりは言ったのだが、いわく《白蛇の神》になった時の《神性》がまだ多少体の中に残留しているらしく、力が有り余っていてどうも体を動かさずにはいられないとのことだった。本当かどうかは分からないが、しかしこうして彼女が、天井花イナリが《和菓子屋たぬきつね》で働いている姿を見ていると、ひづりはやはり胸に安心感が芽生えてついそれに甘えてしまいたくなったのだった。







「――でもどうして私あの時、天井花さんを再召喚できたんでしょう? 《ヒガンバナ》さんに言われるまま名前を呼んだだけだったんですが……」

 また近くを通りかかるついでに勉強の進捗を見に来てくれた天井花イナリに、ひづりは今更ながらの質問をぶつけてみた。

 《テウルギア・ゴエティア》をこうして読み進めるうち、ひづりはより不思議に思っていっていたのだ。やはり召喚には充分な供物と《魔術》の知識と膨大な《魔力》が必要だと記されていた。しかしあの時、境内にそんなものは一つとして無かった。

 そんな中で《ヒガンバナ》が『名前を呼んで差し上げてください』と言った。それを信じてひづりは彼女の名を、天井花イナリという名を呼んだ。すると実際に再召喚が成功したのだ。

 ひづりが開いているのは分厚い《テウルギア・ゴエティア》のまだ序盤の辺りだが、《十の智慧の指輪》を用いて自由に《悪魔》を使役した《ソロモン王》という例外を除き、一介の《召喚魔術師》がその様な方法で《悪魔》を召喚出来た、というような記載はまだ見受けられなかった。

「……なるほど、そういえばぼんやりとじゃが、そんなことを《ヒガンバナ》のやつが言うておったような……。あやつ、《下級悪魔》にしておくには惜しいのぅ。丈夫じゃし。いずれの運命で共にあるような事になろうものなら、特例の扱いでそばに置くのも考えておくべきじゃな」

 天井花イナリはかたわらの格子にもたれかかって思い出すように視線を中空に投げつつ、おそらく今その頭に浮かべているであろう《ヒガンバナ》に対しての、聞いているひづりも嬉しくなるような評価を口にした。当人がここに居たらきっと泣き崩れていただろうな、とひづりは今日の昼前頃に「無事に回復していっていますわ!」と連絡をくれた千登勢の顔と共に、あの時見つめて来た《ヒガンバナ》の茜色の瞳を思い出した。

 理屈は分からないが、彼のあの瞳と言葉、そしてあの《彼岸花》の手のひらにひづりは助けられたのだ。

「……しかしひづり、お主は質問をするタイミングが絶妙じゃのぅ。自覚しておるか? 独特であるぞ」

 と、不意に天井花イナリは視線をひづりに戻して言った。どきっ、としてひづりは居住まいを正し、彼女に向き直った。

「そ、そうでしょうか」

「む、いや、悪いと言っておるのではない。ただ……あぁ、ふふ、しかしまたずいぶんと愛いことを聞いてくれたな、と思うての。どうじゃ? 口吸いでもするか? 構わぬぞ」

 ……口吸い? ……なんだっけそれ…………あっ。と、思い出してにわかにひづりは顔が燃えるように熱くなった。しかし時すでに遅し。ひづりの肩をがっしりと掴んだ天井花イナリの顔はまさに《悪魔》めいた色っぽい表情を浮かべており、その小さくも艶かしい笑みを湛えた唇はもうすぐ目の前まで迫って来ていた。長く綺麗な白髪がさらりと提灯の明かりの下で煌めいてひづりの意識を現実から切り離そうとする。

 しかしひづりは耐えた。どうにか耐えた。

「ままま待ってください! 構います! 構いますから! 光栄ですけどさすがに! さすがに……っ!!」

 腕力では抵抗出来ない差があると理解していたのでひづりはやんわりと断るべく両手を体の前にそっと差し出して顔を背けた。

「…………ふふ」

 すると彼女は唇が触れ合う寸でのところで体をぴたりと止め、そして意地悪そうな笑い声をおもむろに零しつつゆっくりとひづりから手を離した。

「ふふふ、ふふふふ、ふふふふふ…………」

 可笑しくてたまらない、という顔で彼女は笑った。愉快そうに、しかしそれは今まで見たことがないくらい、その背丈に似合うような子供っぽい笑顔だった。無邪気とも言えるほどの、そんな……。

 突拍子も無い《悪魔》のいたずらの終了を認め、ひづりはにわかに肩から力が抜けた。

 あぁもうドキドキする! この《悪魔ひと》は! もう!! ひづりは真っ赤になったまま収まらない顔を手でぱたぱたと扇いだ。その様を見て天井花イナリはよりいっそう愉快そうにした。

「許せひづり。お主があまりに気恥ずかしい事をさらりと言うものじゃから、興が乗ったのじゃ。ふふ、ふふふ、許せ、ふふ……」

 まだツボに入っているらしく彼女は口角を上げっぱなしにしていた。しかしやがて一呼吸入れて落ち着きを取り戻したことをひづりに見せると、そっと語り始めてくれた。

「境内でのあれはおそらく……というよりほぼ間違いなく、《えにし》による再召喚だったのであろう」

「……《えにし》、ですか?」

 単語の意味自体はひづりにも分かったが、あまりに《召喚魔術》との関わりを感じられない言葉に思え、つい聞き返してしまった。

 天井花イナリはそこでようやく手にしていた布巾を椅子の背もたれに掛け、ひづりの向かいの席にそっと腰を下ろした。

「然様。その《テウルギア・ゴエティア》に書かれておる通り、通常、《召喚魔術》には供物や《魔術》の下準備など、様々な手順が必要とされておるし、実際にそれがなければ《悪魔》の王の召喚なぞ一介の人間には叶わぬこと。じゃが、結局それは《出迎えのための儀式》なのじゃ。さも《召喚魔術》のための準備、と言えば仰々しいが、言うてしまえばただ『初対面の相手をもてなす』というそれだけの事に過ぎぬ。……じゃがな、ひづり。《ヒガンバナ》の言うておった通り、《召喚魔術》に於いて最も重要なもの……それはやはり《尊敬》なのじゃ。わしとお主のように《契約印》が結ばれる以前から互いを認め合い…………ふふ、かつて《ソロモン》の抜かしておった《友》という間柄となったわしとお主であれば、そこにはもはや《出迎えの品》なぞ必要ないのじゃ。ふふふ……でなければ――」

 天井花イナリは頬杖をつき、そしてニヤリと笑みを浮かべたまま、互いの間に積まれている《五冊の書》を見下ろして言い放った。

「――三千年も《羊飼いのせがれ》など、憶えておるものか」

 彼岸の彼方へ憎まれ口を叩いた天井花イナリに、しかしひづりはそれを聞いて思わず涙が零れ、溢れ、止まらなくなった。拭うがそれでもどんどん後から後から流れ出て来て、どんなに抑えようとしても駄目だった。

 急に泣き出してしまったひづりに天井花イナリは虚を衝かれた様子で顔を上げた。

「どうしたひづり、何故泣くのか」

 自分がまた恥ずかしいくらい目も鼻も赤くしてベソを掻いているのを自覚しながらもその止まらない涙にひづりはどうにか呼吸を整えつつ彼女に答えた。

「私は……ずっと、天井花さんたちと一緒にやっていくには、どうしたらいいかって……人間と《悪魔》はどうやったら、一緒に、暮らしていけるのかって……ずっと考えてて……だから……だから…………」

 ひづりの涙の訳はそれだった。《人間じぶん》と《悪魔かのじょたち》の間にある《垣根》。この一ヶ月ずっと考えていたそれを、その答えを、今天井花イナリ本人が教えてくれたのだ。

「……馬鹿じゃのぅ。何度も言うておったのを、ちゃんと聞いておらなんだのか?」

 仕方の無いやつめ、と、彼女はとても優しい声音で言った。

「ことこれに関してだけはわしは何度でも言うぞ、ひづり。この今の《人間界》に於いて、《契約印》がどうこうなる以前より、お主はわしの一番のお気に入りなのじゃ。共に暮らす……そこに、それ以上の理由が必要なのか?」

 天井花イナリの穏やかな声。ひづりはもう涙で何も見えなかったがそれでもどうにか「いいえ、いいえ……!」と声を絞り出した。

 官舎ひづりはもうとっくに《垣根》など超えていたのだ。自分はすでにこの天井花イナリという《悪魔》に、一人の大切な《友達》だと思って貰えていたのだ。

 『お気に入りだ』。彼女のその言葉の意味を、ひづりはやっと理解出来たのだった。

「……ひづり。わしはお主に期待しておる。じゃからお主もわしに期待せよ」

 泣き止まないひづりに、天井花イナリは袖口から取り出したハンカチをそっと机に差し出すとそのまま優しい声で続けた。

「わしがまた、何らかの不慮の事態によってこの《人間界》を去ったとしても。そしてたとえお主が地の果てで一人凍えていたとしても。仮に醜悪な《天界》へと攫われたとしても。あのちよこの道連れに不幸にも《冥界》へ堕ちたとしても。それでも、その時お主がただ《呼び》さえすれば、わしはお主のその隣に《無二の友》として駆けつけるであろう」

 天井花イナリは机に少し身を乗り出すようにして片肘を乗せると、仄かな笑みを湛えたそのきらきらと輝く朱の瞳でひづりの瞳を真っ直ぐに見つめながら言った。

「――お主がまた、《あの名》で呼んでくれるならの」

 ひづりは胸の内にまた暖かい火が灯るような優しい感覚を得ていた。抑えきれないほどの喜びの感情が、涙で崩れていたその顔に自然と笑顔を引き出し、そして口から我知らず飛び出した言葉はひどい涙声で、また短いながらも、それでもそのひづりの心からの想いをしっかりと形にしてくれた。

「はい、これからもずっと期待しています。《天井花イナリ》さん――」







 ひづりの愛するいつもの日々は少しずつ元に戻り、また新たな《未来》へと進んでいく。

 この和菓子屋と、そしてそこで共に働く二人の《悪魔》たちと一緒に――。








しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

憧れの先輩とイケナイ状況に!?

暗黒神ゼブラ
恋愛
今日私は憧れの先輩とご飯を食べに行くことになっちゃった!?

えふえむ三人娘の物語

えふえむ
キャラ文芸
えふえむ三人娘の小説です。 ボブカット:アンナ(杏奈)ちゃん 三つ編み:チエ(千絵)ちゃん ポニテ:サキ(沙希)ちゃん

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

だんだんおかしくなった姉の話

暗黒神ゼブラ
ホラー
弟が死んだことでおかしくなった姉の話

百合系サキュバスにモテてしまっていると言う話

釧路太郎
キャラ文芸
名門零楼館高校はもともと女子高であったのだが、様々な要因で共学になって数年が経つ。 文武両道を掲げる零楼館高校はスポーツ分野だけではなく進学実績も全国レベルで見ても上位に食い込んでいるのであった。 そんな零楼館高校の歴史において今まで誰一人として選ばれたことのない“特別指名推薦”に選ばれたのが工藤珠希なのである。 工藤珠希は身長こそ平均を超えていたが、運動や学力はいたって平均クラスであり性格の良さはあるものの特筆すべき才能も無いように見られていた。 むしろ、彼女の幼馴染である工藤太郎は様々な部活の助っ人として活躍し、中学生でありながら様々な競技のプロ団体からスカウトが来るほどであった。更に、学力面においても優秀であり国内のみならず海外への進学も不可能ではないと言われるほどであった。 “特別指名推薦”の話が学校に来た時は誰もが相手を間違えているのではないかと疑ったほどであったが、零楼館高校関係者は工藤珠希で間違いないという。 工藤珠希と工藤太郎は血縁関係はなく、複雑な家庭環境であった工藤太郎が幼いころに両親を亡くしたこともあって彼は工藤家の養子として迎えられていた。 兄妹同然に育った二人ではあったが、お互いが相手の事を守ろうとする良き関係であり、恋人ではないがそれ以上に信頼しあっている。二人の関係性は苗字が同じという事もあって夫婦と揶揄されることも多々あったのだ。 工藤太郎は県外にあるスポーツ名門校からの推薦も来ていてほぼ内定していたのだが、工藤珠希が零楼館高校に入学することを決めたことを受けて彼も零楼館高校を受験することとなった。 スポーツ分野でも名をはせている零楼館高校に工藤太郎が入学すること自体は何の違和感もないのだが、本来入学する予定であった高校関係者は落胆の声をあげていたのだ。だが、彼の出自も相まって彼の意志を否定する者は誰もいなかったのである。 二人が入学する零楼館高校には外に出ていない秘密があるのだ。 零楼館高校に通う生徒のみならず、教員職員運営者の多くがサキュバスでありそのサキュバスも一般的に知られているサキュバスと違い女性を対象とした変異種なのである。 かつては“秘密の花園”と呼ばれた零楼館女子高等学校もそういった意味を持っていたのだった。 ちなみに、工藤珠希は工藤太郎の事を好きなのだが、それは誰にも言えない秘密なのである。 この作品は「小説家になろう」「カクヨム」「ノベルアッププラス」「ノベルバ」「ノベルピア」にも掲載しております。

処理中です...