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《第1期》 ‐餡の香りと夏の暮れ、彼岸に咲いた約束の花。‐
10話 『花札千登勢と彼岸花』(後編)
しおりを挟む10話 『花札千登勢と彼岸花』(後編)
「千登勢叔母さん!!」
《和菓子屋たぬきつね》から駅前へ続く、商店街から逸れる脇道の一つ。自販機が数台並んでいるばかりで人通りの少ないその狭い通りに、一人こちらに背中を向けてしゃがみこんで居る花札千登勢らしき姿を認めると、ひづりはすぐさま立ち止まって声を投げ掛けた。
その肩をびくりと揺らすと、店内で見た時よりずっとめそめそと泣き潰したその顔がにわかにこちらに向けられた。指摘するのもはばかられるくらい、美人のお化粧が完全に台無しになっていた。
「ひづり……さん……」
高いヒールでふらつきながら花札千登勢は立ち上がると、わずかにだが確かに後ずさりした。
「待って! 逃げないでください!」
追いかけるのは容易い。勉強の方は自慢出来る線ではないが、運動方面では、いやアサカほどではないが、それでも四十三歳に走って追いつくくらいの自信はひづりにもあった。
だが、違う。確かに呼び止めて訊ねたい事もあったのだが、ひづりは嫌な予感が当たっている気がして、呼び止めたのだ。
「うあっ」
踵を返して逃げようとした千登勢がつまずき、転びそうになった。予感が的中し、ひづりも思わず声が出たが、その瞬間にわかに空中から小さな《魔方陣》が現れ、にゅっと伸びた赤い腕が彼女の体を支え、それから優しく座らせると、またにわかに消え去った。たぶん、《ヒガンバナ》の手だ。
へたり込んだ千登勢のそばに駆け寄り、ひづりは彼女の両足を見た。やはり、彼女は左の足首を手で押さえてうつむいていた。彼女はそれなりに高めのハイヒールに足を通していたので、たとえその靴を履きなれていたとしても、若干凹凸が目立つレンガ造りの商店街など急に走って、安全な訳がなかったのだ。おそらく先ほどしゃがみこんでいた時点でもうすでにくじいており、痛みでうずくまっていたのだろう。
「乗ってください」
ひづりは叔母の正面に立って背を向けるとしゃがみこんで言った。
「え……」
「足、くじいちゃったんでしょう? 薬局、結構近いですから、運びます。だから乗ってください」
日中とは言え、こんな人気の無いところに足をくじいた女性を置いていける訳がない。少し戻ったところに薬局があるので、そこで湿布を買って、後はタクシーでも拾って帰らせる。
もちろん、ひづり自身の用事を済ませた後で。
「だめっ、だめですわ。わたくし、結構重いんですのよ……」
そう恥ずかしげに言いつつ「必要ありませんわ」というアピールをしようとしたが、しかし彼女は今度は、すてん、と尻餅をついてしまった。
ため息を返事にすると、ひづりは彼女のくじいていない方、右足の靴を引っこ抜いて奪って、にわかに立ち上がった。
「あ、あ……」
やめてください、返してください、という感じに声を漏らす千登勢に、ひづりは真面目な顔で見下ろしたまま言った。
「あなたには聞きたい事があります。答えて貰う必要があることです。そしてあなたはその話をする場所を、以下の二つから選べます。一つは、私に引きずられてその高そうなスーツをずたずたにしながらまた《和菓子屋たぬきつね》に連れ去られて、足に湿布を貼ったあとで洗いざらい父と姉の前で話す方。もう一つは、私に背負われてすぐそこの薬局で湿布を買った後、ここに戻って来て湿布を貼りながら二人きりで話す方。……どっちが良いですか」
彼女の靴を片手に掲げたまま、ひづりは淡々と訊ねた。ほぼ敵対行為に近かったが、《ヒガンバナ》の《魔方陣》が出てくる気配は無かった。それを以って、「やはりそうなのだろうか」という予感が、ひづりの中で色濃くなった。
「…………二人きりで、お話、致しますわ……」
やがて観念した様子で彼女は肩を落として言った。はい、それで良いんですよ、それで。
「…………」
しかし。
肩を貸すには少々身長差があったので背負うという方を選んだひづりだったが、叔母をその背に乗せるなり思わず無言になってしまった。先ほどの宣言どおり、おそらく千登勢は七十キロ近くあるようだった。
そうでなくても覚悟はしていた。何せ、靴のヒールを抜きにしても身長百七十はありそうなその長身に、和鼓たぬこと並ぶほどの豊満な胸と、頑丈に張り出した骨盤からなる腰周りの丸い曲線。スカートから覗く、くびれつつもその体を支えるべく適度に太さを持ったふくらはぎ。
先ほど運動には少々自信があると自負したばかりだが、ひづりはすでにちょっと後悔していた。
ひづりは叔母を背負い、少々ふらつきながらも周囲の眼を無視してドラッグストアへと向かって湿布を買うと再び自販機横のレンガの花壇に座らせて彼女の左足首の手当てを行った。
幸い、歩くと痛むということと、若干色がついて腫れているくらいで、それほど大事には至っていないようだった。無理に歩かずに帰宅して冷やして休めれば、それこそ二日もすれば……いや、歳的にもうすこし掛かるかもしれないが、きっとちゃんと良くなるだろう。こういう怪我に関してだけはひづりもそこそこ知見があった。
湿布がはがれないよう包帯を巻いて手当てを終えると、ひづりは立ち上がって一息ついた。
「さて、約束は守ってくれますよね」
見下ろした格好のまま訊ねる。千登勢は包帯の巻かれた左足を軽くさすっていたが、見上げると、もうさすがに落ち着いたのか、正直に頷いてみせた。
「まず、謝らせて欲しいんです。ごめんなさい……」
彼女と同じく自販機横の花壇をベンチ代わりにしてその隣に腰を下ろすと、まずひづりは謝罪の言葉を受けた。
「あんなひどい騒ぎにするつもりも……それこそ《ヒガンバナ》を出すつもりも、本当は無かったんですのよ……本当ですのよ……」
凍原坂も大概、歳の割に控えめな態度の中年男性ではあったが、今この隣に居る叔母はそれよりさらに気が弱く、しょぼくれているようにひづりには見えた。
「それは、何となく分かります」
ひづりの返答に、千登勢が振り返る。
「今日も、いつも通り、ただ店に来て、和菓子を食べて、お茶を飲んで、帰る。それだけのつもりだったんでしょう? 本当なら、次に来店する時も、その次も」
言うと、千登勢は眼をぱちくりさせて分かりやすいくらいに驚きの表情を見せた。と同時に、やはり、今回のあの養子縁組の話は突発的に口から出たものだったのだな、と悟った。
「ど、どうして分かりますの……?」
さも不思議そうに問う彼女に、もう逆に可笑しくさえ思えたが、ひづりは丁寧に答えた。
「だって、いつも通りでしたから。叔母さんはいつも通りに来て、いつも通りに注文して……。ただ今日違ったのは、全部、私たちの方でした。私が最初に、……その……」
そこまで言ってから、改めて正直に言うと恥ずかしいな、と思い、ひづりは歯切れが悪くなった。
「……あの時は千登勢叔母さんだと気づけてなかったんですけど、でも、叔母さんはいつも来てくれてて、またいつも静かで、お店の雰囲気を大事にしてくれてるのがやっぱり分かったので。だから、良い常連さんだなって思って、声を掛けてみたくなったんです。ただ、それから急に父が来て、姉も出て来て……それでてんやわんやになって、それで、驚いた、んですよね?」
確かめるように問うと、千登勢は視線を正面に戻して控えめに頷いた。申し訳なさそうな顔をしていた。
「ひづりさん、とっても観察眼、というのか、秀でていらっしゃるのね。姉さんもそうでした……」
その言い様を、ひづりは静かに受け止めた。
「……そうなんです。あの時は、ひづりさんから話しかけて貰えるとは思っていなくて……それで急に幸辰さんもいらっしゃって、ちよこさんも出ていらして、それで、ひづりさんにバレてしまって……そうしましたらもう、頭の中が真っ白になってしまって……」
頬を押さえ、恥ずかしそうに彼女は吐露した。
「……あの養育権のお話は、本当にごめんなさい……。おっしゃられた通り、本当に、本気で言ったんではないんですの……。わたくし、その、お恥ずかしいのですけれど、急な出来事に出くわして頭がパニックになってしまうと、思ってること思ってないことが、ついつい口をついて出てしまったり……。あっ、いえっ、その……今回の養子に来て欲しい、っていうのは、ちょっぴり、本音と言いましょうか……願望、というか……。でっ、でも本気ではなかったんですのよ!? 本当に幸辰さんからひづりさんを奪うなんて、そんなことするつもり、無いんですのよ……。本当ですのよ……」
しょぼくれたり、恥ずかしそうにしたり、慌てたり、そしてまたしょぼくれたり。今まで店でお客さんとして見ていた時とは想像もつかないほど彼女は表情豊かだった。
そして先ほどの彼女の言葉でひづりは確信を得て、なるだけ優しい声音を心がけつつ、訊ねた。
「……千登勢叔母さん。あなたの眼から見ても、私、そんなに似ていますか。若い頃の母に」
しかしそれでも、びくり、と千登勢の肩は震えた。
ああ、やはりそうなのか……。ひづりは彼女の胸のうちを知ってしまった事を、わずかながら悲しい気持ちで受け止めた。
……父いわく、この花札千登勢という女性は、三ヶ月前に亡くなった母の事を誰より溺愛していたという。母は年に二回帰国すると、そのたび決まって一泊、花札家へ泊まりに行っていた。実妹と実父が居る、その花札家へ。
母は父への愛情はこれでもかと見せ付けて来たが、それ以外の話を特にしてくるタイプではなかった。少なくともひづりに対しては。
だが、愛していたのだろう。この花札千登勢という実妹を、それこそ夫の幸辰と同じくらい、とても大切に。
死んだ時、こんな綺麗な女性を、あんなにも恥も外聞もなく泣かせてしまうくらいに。
そして母の万里子とひづりは、以前からずっと、親類だけでなく誰からも「そっくりだねぇ」と言われ続けて来た。いわく、胸はひづりの方がだいぶ大きいが、その平均的な体格や、大きいのに鋭い目つき、短い髪が似合う種類の顔の輪郭、生意気そうな鼻……あ、いやこれは悪口か。従兄弟を殴った時の事が一瞬脳裏をよぎった。
とにかく、目元も鼻も輪郭も短めの髪型も体格も身長も、年齢以外はまるで同一人物であるかのように極端にそっくりなのだという。
実際ひづりも、以前父の幸辰に、相手をするのはひどくめんどくさかったが、母との思い出のアルバムを、相手をするのはひどくめんどくさかったが、広げて見せつけられた時、まるきり自分とそっくりな十代の母の姿をそこに認め、驚いたことがあった。
まるで生き写しと言われても不思議でないくらい、同じ顔立ちをしていた。……ただ、薄着の写真では傷痕の有無という差はあったが。
とにかく、そっくりなのだ。ひづりと、万里子は。
だからきっとこの人は、花札千登勢は、先ほど《願望》という言葉を用いたのだ。
母が亡くなったのは今からまだほんの三ヶ月も経ってない頃である。あまりに若く、早すぎる死だった。そしてその万里子の葬儀で初めて見かけた、若い頃の姉そっくりな姪の姿を見て、彼女は何を思ったのか、決して想像に難くない。むしろ、分かってあげたいとすらひづりは思うほどだった。
母のために、あんなに泣いてくれる人が居た事を、ひづりはあの時、やはり少し嬉しかったから。そして最近は凍原坂たちとの出会いで、その気持ちがより大きくなっていたから。
「怒ってなんていませんよ。それこそ昔から言われ慣れてますし。……それに叔母さんにそういう気持ちで想われていたなら、私はこの顔で生まれて良かったと思います」
ひづりは立ち上がって千登勢の前に再びしゃがみこむと、その手をとって、眼をまっすぐに見つめて言った。
「良かったら、これからも店に来て下さい。今は姉にもちゃんと裏で仕事をやらせていますし、今日みたいな日もありますが父もそうそうあんな時間に来たりはしません。……ただ、《ヒガンバナ》さん、でしたよね。あの方を店の中で《出す》のは、もう二度とやめてください。私にとって、あのお店は大切な場所なんです。大切な人の、大切な場所なんです。だから、叔母さんにもそうして欲しいと思っています」
真面目な声音で伝えるひづりに、千登勢はまためそめそ泣き始めた。
「……また、来て良いんですの……? わたくし、あんなに迷惑を掛けてしまったのに……? それに、これからもわたくし、ひづりさんの中に、きっとずっと姉さんの面影を見てしまいますのよ……?」
べそを掻きながら訊ねる千登勢に、ひづりは笑って返した。
「ええ、もちろん。母のこと、私も最近、実はそこまで嫌いじゃなくなってきたというか。あはは、……そんな具合なので、ですから、今言った《ヒガンバナ》さんのことだけ気をつけていただけるならですけど、……これからも常連さんでいてくれますか?」
千登勢はひづりの手をぎゅっと握ると涙でぼろぼろの顔を真っ赤にして、うん、うん、と頷いた。
……可愛い妹が居たんじゃないか。ずっと、可愛がっていたんだろう。愛していたんだろう。泣かすんじゃないよ、まったく。……仕方の無い人だ、本当に、あの人は。
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