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《第1期》 ‐餡の香りと夏の暮れ、彼岸に咲いた約束の花。‐
『与えられたもの』
しおりを挟む母の旧姓が扇(おうぎ)という事は、ひづりも知っている。それから父、官舎幸辰と結婚して官舎万里子となった。しかし叔母の千登勢が未婚でありながら扇ではなく花札という苗字なのは、二人が幼い頃に両親が離婚し、母の許へ万里子が、婿養子だった父の許へ千登勢が預けられたからなのだ、と、ざっとだがそんな説明を父から以前受けたことがあった。
あの時、父はどこかそれらをどうも話しづらそうにしていた、とひづりは記憶していた。
まさに今と同じような、真剣な表情で。
「……千登勢さん、まず、座っていただけますか」
指差され見下ろされたまま、幸辰は神妙な面持ちで千登勢に言った。
しかし彼女は赤らんだ目元や鼻はそのままに、指を差すのこそやめたが、座る気はないようだった。
「いいえ、いいえ。話し合うつもりはありませんわ。ひづりさんはわたくしが連れて帰りますので!」
腰に手を当て、そのように断固とした返答をするのみだった。そう、断固とした態度の。
態度の……。
……って、ちょっと待って欲しいな!? 久しぶりに会った叔母のことや急に来店した父のことを全部頭の外に一旦追いやり、ようやくそれが自分の人生の話だと実感したひづりは、にわかに立ち上がって訊ねた。
「な、何を言ってるんですか千登勢叔母さん? いったい、何の話をしてるんですか?」
にわかにひづりにそう問い詰められるなり急に弱気な顔になって、しかし改めて決意の色をその眼に宿すと彼女は返した。
「当然、貴女のお話でしてよ、ひづりさん。貴女を花札の家に迎え入れ、今後はわたくしが、貴女を、むす、む、娘としてお育て致します!」
一箇所、やたら噛みに噛んだが、幸辰の方をちらりと見下ろしたあと、再びひづりに向き直って彼女は続けた。
「今、お二人で暮らしていらっしゃるそうですね? 幸辰さんも、ひづりさんも働いていらっしゃるようで。家事は一体どなたがなさっているのですか? ひづりさん、学校の方の成績は大丈夫なのでして? もしかして幸辰さん、ひづりさんに一人で食事をさせているのではなくて? ……ねぇ、ひづりさん、うちへ来れば、豪邸とまではいきませんが、少なくとも官舎家よりは何倍も大きく立派なお家で、毎日家族で食卓を囲んで、最高の食事が出来ますのよ。アルバイトなんてしなくったって、好きなだけお小遣いを差し上げますわ。貴女が望むものなら何だって叶えてあげられるだけのものが、我が花札の家には既に充分に用意されていましてよ!!」
早口に、堂々と、そんなことを叔母の千登勢はのたまった。
ひづりは思わずカチンと来た。叔母とは言え、何故うちの事情にそんな口出しをされねばならないのだ。
「家事は二人で話し合い、交代だったり、それぞれだったりで、上手くやっています。夕飯は毎日一緒とはいきませんが、朝食はいつも二人で摂っています。ひづりのアルバイトも、絶対に成績に響かないよう、テスト前や店が忙しすぎる時期には働かせない事を、長女のちよことも話し合って決めています。確かに花札さんのご家庭と比べればうちはそう裕福とはいきませんが、ちゃんと二人で、真っ当な生活は出来ています」
言い返したのは幸辰だった。冷静な父にひづりも少し頭が冷え、そっとその隣に腰を下ろした。
「……千登勢さんが今日、一体何を思って、急にそんな事をおっしゃったのかは分かりませんが、娘は絶対に手放しません。たとえ相手があなたであったとしても」
幸辰はひづりの手をそっと握り、強い口調で言った。店内でこっそりとだが歓声があがった。
やや照れくさくも、ひづりはやはり嬉しくて、同じくそっと父の手を握り返した。
ぬうう、と千登勢は悔しそうな顔をしていた。何か、何か他に手は無いか、と思案を巡らせている顔をしていた。
実のところ、何となくひづりにも分かっていた。彼女の今日のこの発言は、ほとんど何も用意せずのものだったのに違いない、と。こっそりと店に来て、私の様子を見つつ過ごし、いつか適切なタイミングで、この話題を出そうと思っていた、そういう類の……。
…………あれ? と、ここでひづりは一つ疑問が浮かんだ。
叔母の、千登勢の顔をもう一度見上げる。
……どうしてこの人は、私を養子にしたいなんて思ったんだ?
彼女は今でも未婚のはずだった。先ほども自らを花札と名乗っていたし、可能性として婿養子を貰ったという線もありはしたが、しかし彼女の左手の薬指にそれらしい形跡は無い。
結婚はしたが子供に恵まれず、養子縁組を結ぶという家庭が存在するのはひづりも知ってはいるが、未婚である彼女が、ただの姪でしかない、ついこのあいだ顔を合わせてそれっきりの自分を養子に欲しがる理由など、とてもあるようには思えなかった。
だから訊ねてみた。
「千登勢叔母さん。どうして、私を養子にしたいんですか?」
すると、ひづりが思った以上に彼女はひどく取り乱した。最初に眼を見開き、それから顔を真っ赤にしながら背けて、そのスーツからやけに飛び出している和鼓たぬこと同じくらいあるだろうかという胸の前でくりんくりんの垂れた髪の毛を落ち着かなさそうに触り、しまいには腋に挟んでいたキャスケット帽をうっかり取り落として、それをあわあわと取り乱しつつ拾い上げるなどした。
落ち着いていれば静謐な雰囲気の美人だが、こうしていると何だか、確かに、身内の情の様なものを感じてしまうようにひづりは思った。その必死さは可愛らしいとさえ思えた。
けれど彼女が主張したものを自分は受け入れるつもりは無い。
「ありがとうございました~。またいらしてくださいね」
ふと気づいて振り返ると、入り口の近くでちよこが客を見送っていた。見れば店内に客は居なくなっており、はっとなって確認した腕時計は昼休憩の時間に突入しようとしていた。
理由は依然として不明だが、これは込み入った家族の話である。ちよこは面倒だと思ったのか、あるいは自分の《弱み》につながるものを他人に見せたくないと思ったのか、さっさと会計を済ませて客を帰らせたようだった。こういうところでは本当に手を回す早さがすごいな、とひづりは感心した。普段レジ打ちなどしないくせに。食器洗いは済んだんだろうな。
また、話が面倒になると思ってか、天井花イナリの姿も今はその店内に無かった。和鼓たぬこと共に休憩室に、また稲荷寿司をネタに追いやられでもしたのだろう。
「わっ、わたくしは……」
千登勢がおもむろに口を開いた。が、再びそのまま黙り込んでしまった。
ひづりはふと隣の父の顔を見た。その横顔は何かに気づいている様子だった。何か、今回の花札千登勢の発言に関する原因、理由を、父は理解している様子だった。それも、何もかもを。
ひづりには分からない何かを。
「……千登勢叔母さん」
ひづりは父と手を繋いだまま、静かに立ち上がって言った。千登勢と幸辰、二人の視線がひづりに集まる。千登勢は少々背が高いため、立ち上がってもなおわずかにひづりは見上げる形になる。
「叔母さんがどう思おうが、私の父はこの人ですし、保護者も養育者もこの人です。母の官舎万里子は少々、いやだいぶ問題のある母でしたが、ただ何にせよ、家で私が一緒にご飯を食べるのは、やはりこの父です。少なくとも、今はそれを変えるつもりはありません」
「ああ……ああ! そうだぞ! 私がひづりのパパだ! 愛してるよひづり!」
「……父さん、今大事な話してるから黙ってて」
千登勢を見つめたまま、握っている手を少々強めに乱暴に握り締める。
「……第一、千登勢叔母さん。どういうつもりか知りませんが、そういう、いきなりで、身勝手な物言いをしているから、そんな歳まで行き遅れるんじゃないんですか?」
「なっ!!」
和鼓たぬこ並のスタイルの良さや、その色の白い端正な顔立ちから三十代くらいにも見え、実際今日身内だと気づくまではそれくらいの若さに見ていた訳だが、しかし彼女、花札千登勢は母の二つ下、四十三歳であることをひづりは知っていた。
父の事を悪く言われ少々頭に来ていたひづりは「やらいでか」とついに言ってやったのだった。
不意をつかれたように驚愕していた千登勢だったが、少々時間を掛けて姿勢と心の持ちようを立て直すと、一つ咳払いをして反論した。
「……ず、ずいぶんと良い口の利き方をするようになりましたのね。昔はあんなに……その、……子供でしたのに!!」
千登勢はひづりをまっすぐ睨みつけて、おそらくひづりが幼かった頃に一度だけ会った事があったのか、言葉をほとんど用意しないままそう言い放った。
「ええ。うちは、そちらのご家庭と違って、良い父親の許で、良い教育を受けていますので」
淡々と、しかし気迫を込めてひづりは即答した。……加えて、地上にあって最上級の反面教師もひづりの人生には添えられていたわけだが、割と一族の恥なのであえて口に出すのはやめておいた。
「ああ、そうだぞ。ひづりはパパの事が大好きだし、パパもひづりのこと大好き」
「…………父さん、次何か喋ったら、私出て行くから……」
え? 出て行くって店を、ってことだよね? 家を出て行くって意味じゃないよね? といきなり盛大に取り乱し始めた幸辰がひづりのエプロンにしがみついて来た。
「…………らちが明きませんわね」
千登勢がぽつりと言った。ひづりはやはり即答する。
「明くわけがありません。答えはもう出ているんですから。私は官舎の苗字を、少なくともあなたを理由に捨てるつもりは微塵もありません」
だよねー! よかったあ! と父がエプロンにしがみついたままビロウドの座席に寝転がってガッツポーズを決めた。ひづりは無視した。
千登勢は悔しそうに胸の前でキャスケット帽をぐしゃぐしゃにしていたが、やがて眼を閉じて天を仰ぎ一つ深呼吸すると、またそのやたらによく飛び出した胸を張って見せた。
「お二人の主張は、十分に分かりましたわ。では実力行使もいたしかたがない、という訳ですわね……」
幸辰を引き剥がそうとしていたひづりだったが、千登勢がそう言い放った途端、彼女の背後にある漆喰の壁がにわかに《真っ黒い何か》で覆われたのを見て、思わず体が硬直した。
ひづりは知っている。このひどく嫌な感じをすでに何度も眼にし、体感していた。
この恐怖の具現を――。
「おいでなさい、《ヒガンバナ》!!」
叫ぶと同時に、彼女の背後の壁に巨大な《魔方陣》が咲くように現れた。紫色に光り輝くその紋様からじんわりと浮き出し始めた《白い何か》は、やがて形を伴い始めた。
咄嗟に足を上げ、机の上を転がるように身を翻すとひづりは通路側に降り立ち、そのまま父の服をひっぱってその席から距離を取り、出入り口の方に居るちよこの元へと一気に退避した。
「姉さん! あれ!」
「…………ふぅん?」
それは予想外だったわ、という冷静な眼でちよこは叔母を見つめていた。
「ふふ、驚かれているようで何よりですわ。わたくしの忠実な僕にして究極の一手……。こうして人前で見せたのは、ずいぶん久しくてよ?」
瀟洒な足取りで廊下へと出て来た花札千登勢のその背後、輝く《魔方陣》から現れたのはおよそひづりが想像だにしなかった《招かれざる来訪者》の姿であった。
天井の梁に届くほどの長身で、廊下を塞ぎきるほどの巨躯。またその高い位置にある額からは二本の小さな角が生えており、今は畳まれているがおそらく広げれば空を飛ぶためのコウモリのようになるであろう翼を背中に携え、更には人間にはおよそ到達できないほどに長く太い腕を持ち、その先端には猛獣の様な分厚い爪をあつらえた巨大な掌が厳しくぶら下げられていた。
しかしその《悪魔然》とした体躯を包むのは、かなり大きめの寸法で縫われた和服で、極め付けにその顔には稲荷神社の白狐のお面が被せられていた。
《悪魔》に無理やり和の格好をさせたらこうなるのでは、という、まさにそんな異様な風体の存在が、花札千登勢の背後で圧倒的な存在感と、何より強烈な殺意をこちらに対し振りまいていた。
「千登勢さん、何ですか、それ?」
ちよこが訊ねる。《何》であるかは明らかだったが。
千登勢は、ふふん、と笑って手を伸ばし、その巨体の白い狐面を撫でてみせた。
「これは《ヒガンバナ》と言います。姉さんに譲ってもらった、強力な《悪魔》でしてよ……。疑っていらっしゃいますか? でも、本物の《悪魔》なのでしてよ。そして私の忠実なるしもべ……。本当は奥の手中の奥の手なのですけれど、もう、面倒だから使ってしまうことに決めましたわ。……では《ヒガンバナ》、どちらに主導権があるのか、彼らに教えてあげてください。適度に加減はしてね?」
そして《ヒガンバナ》と呼ばれたその狐面の《悪魔》は、狭い通路を、ずしん、ずしん、と歩き、ひづりたちの元へと迫り始めた。その肉体はやはり幻覚でも何でもなく、完全に現実の物として動いており、床はひどく軋み、翼の先が触れる格子はみしみしと歪む音を立てていた。
……だが、そんな異質さを詰め込んだ巨躯の化け物を前に、やはりちよこは涼しげな顔をしていた。ひづりも別の理由で恐れてはいるが、心の底からその《悪魔》を恐怖してはいなかった。
「なるほどねぇ。母さんに譲って貰ったんですか。そうなんですかぁ」
ひづりはちら、と視線を休憩室の方へと向けた。たった今、その暖簾が揺れたのが見えたからだった。
「――奇遇ですねぇ。私もなんですよ」
気づけば、こつ、こつ、と、《彼女》はひづりたちの前に歩を進め、やがてその長い白髪を一つ揺らして立ち止まった。
「騒がしいと思えば、何じゃこれは」
《ヒガンバナ》とひづり達の間に、天井花イナリが立っていた。稲荷寿司がまだ入っているのかその口がちょっともぐもぐしているが、ひづりは指摘しないことにした。
これは人間同士の意見のぶつかり合いのはずだった。だが互いに、予想外にも両陣営は有してしまっていたのだ。
――《悪魔》を。
あの女、一体どれだけ《悪魔》を他人に売り歩いていたんだ。ひづりは場違いだと思いつつも、たぶん地獄に落ちたであろう母に改めて内心悪態をついた。
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