和菓子屋たぬきつね

ゆきかさね

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《第1期》 ‐餡の香りと夏の暮れ、彼岸に咲いた約束の花。‐

   『好敵手の成れの果て』

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 凍原坂春路は幼い頃から《妖怪》が見える体質だった。ただ、見える、触れる、というだけで、それ以上に何か出来る訳でもなかった。
 お坊さんに聞いたところ、人間に悪さをする《妖怪》というのはそうそう居ないそうで、向こうから来るのでなければ君も無視していれば何も問題は起こらない。向こうから来たらお寺に来なさい、と言われていた。
 皆が見えていないものが見えている。中には深刻な霊媒体質だとかもあるそうだが、凍原坂は本当にただ見えているだけで、人生の中で《妖怪》と直接何かあった回数というのは十回ほどしかなく、また探し物だとか壊れた社を直して欲しいだとか、そんな些細なことばかりだった。
 だから二十九歳まで、その見えるという《妖怪》のことでひどく困ったというような事は特に何も起こらなかったし、比較的普通の十代と二十代を過ごし、直に三十代を迎えようとしていた。
 しかしその年の冬、都心で雪が降り、交通事故で婚約者が亡くなって、それから数週間後。事態は急変した。
 恋人であった女性との付き合いはとても長かった。大学で知り合った娘で、結婚式を挙げるには少し遅すぎるのではと思うくらい、長い期間を共に過ごしていた。だからその年、今更ながらのプロポーズをし、挙式の準備に取り掛かっていた凍原坂は、そして亡くなった彼女もそうであっただろう、二人の描いていた一年先、十年先、そうして添い遂げるまでに待ち受けていたであろう数多の未来が全て泡沫と消えた事で、まるで抜け殻のようになっていた。
 そんな人生できっとこれ以上無いほどの喪失感に苛まれていた凍原坂の前に、《それ》は現れた。
 夜道、大学からの帰りだった。婚約者の死後も、それでも凍原坂は仕事に出ていた。
 『あなたの人生を大切にして欲しい』とよく言ってくれていた亡き恋人の言葉を支えに、彼は歩いていた。
「……なんだ」
 二月の頭、溶け残った雪が路肩に小さな山になっていた帰路の先で、凍原坂は見慣れない物を発見して立ち止まった。
 明かりだった。丸い、小さな電球のようなものが無数に円の形に並んで、そしてくるくると回っていた。暗い夜道、それはとても明るく見えた。
 発光器具を用いたパフォーマンスでもやっているのか、と最初はそう思ったが、閑散としたその道のど真ん中でそれはありえないだろうと凍原坂が思い直したところで、それはおもむろに回転を止め、動いた。円の形に並んでいた電球がゆっくりと縦長になり、そして凍原坂から見て一直線の配列となった。
 そこで凍原坂は背筋に気温からくるものではない寒気を覚えて踵を返し、駆け出した。と同時に、その《円》は急速に回転を始めた。
 それは《車輪》だった。電球と思ったものは全て赤々と燃える炎で、それらが円形に連なった直径二メートルほどの《車輪》は道路を弾み、瞬く間に加速して、逃げる凍原坂の横へぴたりとくっついて並走した。
「ああ、どうしてお逃げになるのです? どうしてお逃げになるのです?」
 心臓が破裂しそうな傍ら、肺は二月の夜の冷え切った空気で凍てつこうとしていた。
 燃え、回転し続けるその《車輪》の真ん中には、どういう原理なのか考えるのも馬鹿らしい、一人の背の高い女が居て、逃げる凍原坂に何度も何度も何度も何度も語りかけて来た。
 真っ白い髪、真っ白い着物、真っ白な肌、頭から生えた猫の様な真っ白い耳。そしてそれらが炎に照らされて赤く光る中、不自然なほどに暗くまるで光の届かない深海のような藍色をした瞳――。
 何かあったら寺に逃げ込め、と坊さんは言ったが、今は田舎に住んでいた頃とは違う。都心に越して長いが、どこに頼れる寺があるかなど分かるはずも無かった。
 しかもその《車輪》の女は、明らかに《妖怪》であるその女は、凍原坂が今まで出会った《妖怪》と一線を画していた。
 大きいのだ。今まで見てきた《妖怪》というのは、せいぜい大きなぬいぐるみくらいが限度で、言葉もしゃべるものは少なく、とことこ歩く姿など可愛らしくすらあった。
 しかし今凍原坂を追い回しているそれは違った。丁寧だが、しかしまるで虚ろな物言いでオウムのように「止まってください。どうしてお逃げになるのですか」と繰り返しながら、必死に走る凍原坂の耳元にその青白い唇を寄せて語りかけて来るのだ。
 やがて凍原坂が力尽きて倒れ転がると、何故か女は消えていた。
 幻覚でも見ていたのかと思った凍原坂だったが、しかしその翌日も、その翌々日も、その女は現れた。
 逃げれば追いかけられの日々が数日続いたが、やがて走って逃げなければ彼女も極端に近づいてはこず、話しかけて来る事も、決して無い訳ではないが、減る事が判明した。戦果ではあったが、しかし解決はしておらず、夜になると必ずいつまでもその女は凍原坂に付きまとってきた。
 その女が《火車(かしゃ)》という《妖怪》だということは比較的早い段階で調べて分かっていた。よく居る、枕を足元に移すとか、暗がりで人間を驚かすだとか、そういった日本の《妖怪》によくある、彼女も《人間の遺体を持ち去る》という妙な《妖怪》らしかった。
 だが、遺体と言っても、凍原坂の恋人の葬儀は既に済んでいて遺体は焼かれ、骨となって埋葬されていた。だから凍原坂にはあの《火車》が付きまとってくる理由が分からなかった。
 触れなければ何もしてこない、という日もあったが、逆にある日夜中に明るくて目が覚めると部屋の中に居た時などは心臓が止まるかと思った。だが凍原坂が目覚めると彼女はニタリと笑い、ふっとその炎と共に消えていなくなる。
 そんな日々が続いて、婚約者を亡くしたばかりの凍原坂の体と心が耐えられる訳がなく、日に日に体重は落ち、睡眠時間は減り、精神科に通い詰めることになった。
 だがそれでも大学で講義をしたり研究に没頭する間だけは、その日中だけは安らかでいられたため、彼はよほど体が悪くない限り心のよりどころを職場に求めていた。
 そんな時だった。やや高齢だがそれでも元気に教壇に立っていつも生徒らを笑わせるユニークな冗談を言うため人気があった世界史の鍵山教授が、凍原坂と同い年くらいの女性と話しているのを見かけた。
 大学生、という感じではなかったが、鍵山と話しているのは間違いなく世界史の内容で、単にOGが鍵山に会いに来ているのだろう、と思ったのだが、廊下をすれ違おうとしたところで、彼女はにわかに凍原坂を呼び止めた。
『あなた、何かに付きまとわれてる?』
 そう訊ねた彼女の顔を、凍原坂は今でも忘れられない。黒く短い髪、目つきは鋭くもぱっちりとしていて、平凡な体つきではあるがそこから滲み出る凄みは同世代とは思えないものがあった。
 彼女は普段イギリスのケンブリッジで祖父の知人と共に《悪魔》の研究をしていると言った。頭がおかしい人かと思ったが、実際に《妖怪》が子供の頃から見える自分が言えた義理ではなく、精神的にも参っていた凍原坂は精神科医に語るような調子で彼女に《火車》の事を話した。
 すると彼女は少し考え込んでから凍原坂の連絡先だけ受け取って、そしてその数日後には凍原坂を苦しめ続けたこの《火車》の問題を一撃で解決してしまったのだった。
 その作戦はこうだった。
 まず、夜になると現れるというその《火車》を、凍原坂を使って誘い出す。それと同じタイミングで官舎万里子が《悪魔》、《フラウロス》を召喚する。事前に用意していた《とある契約内容》を唱える事で《フラウロス》と《契約》を結ぶ。
 そしてその《とある契約内容》というのが、《召喚魔術》の世界に於いてかなりの異端行為で、本来用いられないし、誰も思いつきもしないであろう、それもリスクの高いものだった。
 その《契約》とは以下の通りだった。

『偉大なる《悪魔》の王、《フラウロス》様。我が願いは一つ。この《火車》という《妖怪》と融合して一つの存在となった後に、再び二つの存在へと分裂して欲しいのです。ただしその分裂の際、あなたの理性と知性を八割、そして《魔性》を五割、この《火車》へとお譲りください。そして一方のあなたは《火車》よりその《神性》の五割と、《火車》がこの凍原坂春路に抱く愛情の半分を受け取って頂きたい。その後に、二人で……えー、縄跳び、そうだな、縄跳びを、ただの一度も失敗せずに一億回、成功させてください。それが果たされた後、《契約》に従って魂を差し出す事を、ここに誓います』

 見ても聞いても分かる通り、それは滅茶苦茶なものだった。だが成功すれば凍原坂に降りかかっている問題は全て解決すると万里子は確信していた。そして何より官舎万里子にとっては《貴重な実験成果》として残り、次に繋がるのだ。
 そう、理解していたのだ。その《火車》という《妖怪》。それが何故凍原坂に付きまとうのか。凍原坂からの証言を元に万里子は既に答えを出していた。

『《火車》は、凍原坂、あなたに恋をしているのよ。けどそれが初恋で、加減が利かなくて、暴走してしまっている。分かってると思うんだけど、これはいわゆる、ストーカーってやつなのよ。相手が《妖怪》、っていう、ちょっとだけやっかいなだけのね』

 つまり、凍原坂は好かれに好かれていたが、けれど相手の《火車》はおぼこ過ぎて、その気持ちを如何に伝えれば良いか分からずに暴走している、というものだったと言うのだ。それは勘でしかなかったが、けれど実際に正解だったのである。
 当の《フラウロス》もその条件を呑んでしまった。《フラウロス》、彼女は不運にも、そして万里子にとっては幸運にも、非常に律儀な性格だったのだ。
 そうして《フラウロス》と《火車》は《契約》によって一度ひとつの存在となった後、再び二つの存在へと分裂した。
 《フラウロス》であった者は、その理知的な頭脳の八割を失い、自分の衝動にひどく正直になり、また《火車》から受け取った一般的な人間が他者に抱く程度の愛情を凍原坂春路に抱くようになった。しかし理性のほとんどを失ってしまったがために、万里子と交わした《契約》の内容を全て忘れてしまい、自分が何故《人間界》に居るのかすらも分からないまま、愛するようになってしまった凍原坂のそばで日々をまるで猫のように気ままに暮らす事になってしまった。
 《火車》であった者は、通常の人間の四倍以上の理性を手に入れ、また《フラウロス》にその凍原坂への愛情の半分を譲った事で客観的に自分を見る事が出来るようになり、しっかりと凍原坂に想いを伝える術を得て、危険なく彼のそばに寄り添うようになった。
 かつて《悪魔》の王であった《フラウロス》は、そして《妖怪》としてはそこそこ迷惑であった《火車》は、そうしたギャンブルに近い《召喚魔術》の抜け道を使った結果、現在こうして凍原坂の《猫》となったのだった。
 『いやまさか本当にうまくいくとは。我ながら実に見事な落としどころだった。ぶいぶい』と万里子本人は大満足していたらしい。
「二人を融合させる事もそうでしたが、本当に偶然でした。万里子さんはいつもイギリスにいらっしゃるそうでしたし、あの時偶然廊下で出会えていなかったらと思うと、今でも背筋が凍るようです。……ただ、私は当時《悪魔学》なんて分かりませんでしたから仕方なかったんですが、あの時、《契約印》は勝手に私の体に描かれていて、だからもし召喚された《フラウロス》が《フラウ》になってもまだちゃんと《契約》を憶えていて、しかも願いを叶えちゃったら、どうも《契約》を口にした万里子さんではなく、《契約印》を持っている私の方が死んでたみたいなんですよね」
 凍原坂は笑い話として言ったが、ひづりは肩をすくめて頭を下げた。
「……すみません、そうなんですよ、あの女、そういう女なんですよ……」
 ひづりはもう凍原坂の事をほとんど疑っていなかった。万里子絡みの話ではあった。確かにそうだった。
 しかし、凍原坂の話には《実験》という言葉が何度も出ていた。母はどうも、その十四年も前から、いや元々、ちよこが生まれた二十二年前から、そういった《召喚魔術》の抜け道のようなものについて調べていたらしいということが、今回の凍原坂の話ではっきりしたのだ。
 確かに彼は、《火車》という《妖怪》からのストーキング行為に悩まされ、それを万里子が解決した結果になったのだろうが、実際に万里子がやったのは、《召喚魔術》の抜け道を探すための人体実験に、赤の他人であるこの凍原坂を利用した、という事なのだ。
 この人もまた、官舎万里子の被害者なのだ。ひづりは恥ずかしくて頭を上げられなかった。
「あ、えっ、どうなさったんですか、よしてください、頭を上げてください!」
 何故謝られたのかすら理解していない凍原坂の言葉に、余計ひづりは申し訳なくなった。
 そうなのだ。今回、今日、この凍原坂はまた被害者になろうとしているのだ。今度は万里子ではなくその長女……今はひづりの隣で「大変でしたね~」みたいな顔をしている吉備ちよこの、まだ形こそはっきり掴めていないが、確実にそのドス黒い腹のうちに隠しているであろう計画の被害者に――。
「もう話はついたようじゃな?」
 にわかに声が掛けられ、ひづりは思わずびくりと肩を震わせた。いつの間にかふすまが開いており、天井花イナリはその柱の影にもたれてこちらに横顔の視線を投げていた。
「あ、あなたは先ほどの……」
 凍原坂も気づいて振り返り、天井花イナリを見つめた。
 ……その彼の視線から、ひづりは何となく気づいていた。おそらく、いや間違いなく。
「その角と耳、もしかして、あなたも……?」
 やはり見えている。《契約者》である吉備ちよこと《次期契約者》である官舎ひづり以外の者には、その《悪魔》に掛けられた《認識阻害魔術》によって視覚や認識が歪められ、天井花イナリは欧州人の普通の少女として映るはずだった。しかし今、彼、凍原坂春路のその眼に映っているのは、どうも天井花イナリの現在の正しい姿の方らしいのだ。
「あら~、やっぱり凍原坂さんにも見えてました?」
 振り返るとちよこが「やっぱりそうか~」という顔で手を合わせていた。
「いやね、同じく《悪魔》と《契約》してる人間同士なら、《悪魔》に掛かってる《認識阻害》の《魔術》も効かないって、母さんから貰った本に書いてあったし、実際私たちにも《フラウ》ちゃんたちがそう見えてたから」
 ひづりはハッとなった。確かにそうだ。この《フラウ》と《火庫》の姿は明らかに普通ではない。街中を歩いていて良いのはせいぜいハロウィーンの渋谷辺りだろう。
 当然、天井花イナリや和鼓たぬこと同様に、《フラウ》と《火庫》にも《認識阻害魔術》が掛けられているはずなのだ。
「……なるほど。万里子さんのお子さん達ですから、《フラウ》と《火庫》の本当の姿が見えているのかと思っておりましたが、そういう事情でしたか」
 ちよこが天井花イナリと和鼓たぬこがうちの店で働いている経緯などを説明すると凍原坂は得心が行ったという顔で再び天井花イナリの方を振り返った。
 彼女はひづりとちよこの隣でも、まして凍原坂の隣でもなく、長い机の端に腰を下ろして眼を伏せ、黙り込んでいた。たまに、ちら、と《フラウ》と《火庫》の方を見てこそいたが。
 ひづりはいつ訊ねるべきか、と悩んでいた。凍原坂が入店した時、彼女が何故いきなり斬りかかろうとしたのか。凍原坂は被害者だと分かった。では何故、あんなにも殺意をむき出しにして……?
「ん……むにゃ……ふぅんっ」
 その時、おもむろに《フラウ》がもぞもぞと声を漏らしながら凍原坂の膝から頭を上げて頬を手ですりすりとした。……急なことだったが、完全に猫の仕草のそれにひづりは思わず「可愛い……」と意識が完全にそちらに傾いて頭の中がからっぽになってしまった。
「おはよう、《フラウ》」
「んにゃ。とーげんざか。にゃはん」
 挨拶を落とされると、彼女は凍原坂を見上げて眼を細め、ご機嫌な声音で鳴いた。
「……あら、《フラウ》の方が先に起きましたのね……? 嫌だわ、今度こそ先に凍原坂様におはようを言って貰うつもりでいましたのに……」
 続いて、凍原坂の左足に寝転がっていた《火庫》が頭を上げて、こちらはあまり猫っぽくない、むしろ色っぽい大人の女のような仕草で髪を指で梳きながら凍原坂の頬へ顔を近づけるとにわかにキスをして、それから彼の胸に頭をすりすりとこすりつけ始めた。
 わお。とひづりは思わず赤面してしまった。凍原坂の体に自身の匂いをつけるかのように頬や頭をすりつけるその様は確かに《フラウ》と似た猫の特徴に見えたが、どうもこちらは理性がついた分か、やけに愛情の形が違っているようだった。
「起きたか」
 そこでにわかにハッとするようなよく通る声が響いた。天井花イナリだった。彼女はいつの間にか立ち上がっており、着物の袖を組んで仁王立ちしていた。
「にゃ!?」
 気づいて《フラウ》が顔を上げ、鳴いた。その視線は入店時と同じく、天井花イナリへと熱意を込められて向けられていた。
「ここで会ったが百年――」
「それはもう聞いた」
 立ち上がって叫ぼうとした《フラウ》に被せるように天井花イナリが言った。
「あれ? 言ったのか? わっち、もう言ってた? そうか……まあ良い! いざ尋常に勝負! 我らが因縁、ここで――」
「それも聞いたわ」
 再び《フラウ》の言葉を天井花イナリは遮った。そこには明らかに苛立ちが込められているようで、ひづりはハラハラしてきた。
「むう……? なぜだ?」
「もう、既に、さっきやりあったじゃろうが。勝負ならしたじゃろうが」
 首を傾げる《フラウ》に天井花イナリは返した。すると《フラウ》はぴんと耳を立てて眼を見開いた。イエローダイヤモンドのような明るい右目がきらんきらんと光る。
「なんと! では、ではどちらが勝ったのか!? わっちか!? それとも貴様か!?」
 前を横切るようにしてずんずん踏み出した《フラウ》のショートパンツを掴んで凍原坂が引き止めた。それでも構わず彼女は天井花イナリに問い詰めるように畳をずりずりと踏みしめる。
「たわけが。お主の負けじゃ。……なんたることか。自分で勝負を挑んでおいて、よもや挑んだ事も、負けた事すらも忘れるとは……」
 天井花イナリは《フラウロス》と知り合いだったらしい、ということは察していた。《フラウ》の口ぶりから、《魔界》では敵対していたのだろうな? ということも、何となくは。
 ただ天井花イナリのその珍しく本気の嘆きすら窺える表情を見るに、本来の《フラウロス》という《悪魔》はもっとずっと知的な存在で、この今の《フラウ》という少女の有様とはどうやらかなりかけ離れているらしかった。
「わっちが負けたのかー! そうかー! くやしい、くやしいな! 次は負けぬぞ! えーと……えーと……」
 びしり、と天井花イナリに指を差しつつも、彼女はにわかに表情を曇らせて少し首を傾げた。指差した際に、ちりん、と彼女の左手の大きめの鈴が強く鳴ったのを見て、入店時に聞いた接近する風鈴の音はこれだったか、とひづりは今更になってようやく気づくのと同時に、どうしたのだろう、と思った。彼女は眉根を寄せて考え込むような眼で天井花イナリを見つめていた。
「……貴様、名前なんだったか?」
 そこまで!? ライバルだったんじゃないんですか!? ひづりは思わず天井花イナリの方を勢いよく振り返った。予想通り彼女の眼は見開かれ、驚愕や哀れみどころか悲しみの色にすらその表情は沈められていた。
 うつむいてから長い長い息を吐くと、天井花イナリはゆっくりと顔を上げて答えた。そのどうしようもない幼児に対して。
「……イナリじゃ。天井花イナリ。忘れるでない」
 おや? とひづりは意外に思い、ついそのまま彼女の顔を見つめてしまった。
 《フラウロス》と《魔界》で知己であったというなら、名乗るのは元の、自身が《悪魔》であった頃の名前の方であるべきではないのか? と思うと同時に、これはようやく彼女の口から本当の名前が聞けるかもしれないぞ、とひづりはそんな期待もしていたので、だからその返答は意外で、思わずじっと彼女の面持ちを注視してしまったのだった。
「イナリ……イナリ……? そんな名前だったか……? まぁ良い! そうか今日はわっちが負けたか! ではイナリ、次はわっちが勝つぞ! 震えて待っておれ!」
 この小学生並の言動を繰り返す《フラウ》にいよいよ天井花イナリも慣れてきたのか、「ああ、そうじゃの、またいずれ戦うとしようかの」と雑に返しつつ「疲れた……」という様子で座り込んだ。心中を察し、ひづりは胸が痛むようだった。
 そんな彼女の姿が悲しげだったのもそうだが、いよいよ今こそ訊ねるタイミングではと見て、ひづりはいそいそと天井花イナリのそばへと移動してこっそり訊ねてみた。
「あの、《フラウロス》さんって、そんなに、その……?」
 訊ねあぐねている事を察してか、また大きくため息を吐くと天井花イナリは頷いて見せた。
「ああ。驚くほど劣化しておる。もはや別物じゃ。これほどまでに弱体させられるとは。この様な事がこの現代で可能とは、万里子め。……ただ……」
 天井花イナリはにわかに、その失望と怒りで満ちた顔の中に微かながら暖かい色を取り戻し、毛づくろいを始めた《フラウ》の顔を見つめた。
「確かに、あれは《フラウロス》だったものじゃ。《ソロモン王の七二柱の悪魔》の一柱にあって、《天界》、《人間界》、《魔界》とすべてにその獰猛さを知らしめた、このわしを相手どってようやく対等な勝負になる程に強力な《魔性》と戦闘力と精神力を持ち合わせた、その猛々しい名に恥じぬ《悪魔》――。本来の《悪魔》じゃった頃は、何かと理由をつけてはわしの国に攻め込んで軍勢同士やり合い、またわしとの一対一の勝負をしたがっておったが……。何にせよ生真面目で、しかし結局のところ目的はわしと競う事じゃったように思う。それを、わしもやつも……。……ふ、そこだけは、残ったらしいのう……おかしな、本当におかしな事よ……」
 懐かしむように、嬉しそうに、そして切なそうに天井花イナリは言った。
 ひづりはようやく、彼女が凍原坂に激怒したその理由が分かった気がした。
 その《フラウロス》という《悪魔》はきっと、この天井花イナリにとって――。
 その時、にわかに、こんこん、と襖の端をノックする音が響いた。部屋中の視線がそちらへ集まる。
「ああ、良い。たぬこじゃ」
 そう言って天井花イナリは立ち上がると自分が通れるだけ襖を開け、隣の休憩室へと降りていった。
「……ああ、すまぬがもう酒を開けておれ。わしは先に頂いてしもうたからの。すまぬな。助かったぞ。客も喜ぶことじゃろう。よくやったの」
 襖の隙間からそんな声が漏れ聞こえて来た。ひづり達の位置からは天井花イナリの背中が少し見えるだけだったが、それでも彼女が柱の陰で和鼓たぬこの頭を撫でて褒めている様子が容易に頭に浮かべられた。少し、ひづりは先ほど胸に抱いた痛みが和らぐのを感じた。
 しかし、凍原坂のような大人に対して《恐怖症》を持つ和鼓たぬこを休憩室に残そうとする理由に、もう一つ、何かは分からないが訳がありそうな、そんな響きが今の天井花イナリの声音にはあったのをひづりは感じ取っていた。明確にそれが何かは分からない。ただひづりは、珍しく彼女が和鼓たぬこに嘘、というか、そういった「何かを隠そうとしている」態度を見せたのは初めてのように思えたのだ。
 だから、少しだけ嫌な予感がひづりの胸には残った。よくわからないが、ただどうも良からぬ事が起きそうだと感じさせる、そんな不安の影が。
 和鼓たぬことの会話を終えると再び天井花イナリは少し襖を広めに開け、お盆を二つ持って戻って来た。一旦降ろし、襖を閉めると、彼女はそれを凍原坂の側へまず、それからひづりたちのそばへ運んだ。普段、フロアでやるように手際よく。
「あの、これは?」
 お盆に乗って来たその和菓子とお茶を並べ終えるなり再び机の端へと座り込んでしまった天井花イナリに凍原坂が控えめに問うた。
 彼女はその長い耳をぴくりと震わせると片目を開けて彼の事を面倒くさそうに見た。
「……わしはのう、客かそうでないかの区別はつけるべきじゃと言うたのじゃ。しかしの、たぬこのやつが『誰であれ客人にはもてなすべきだ』と言うのでな。凍原坂、《フラウロス》、それと白いの。たぬこの寛厚なる心意気に感謝し、しかと賞玩せよ。お主らの眼前に並ぶそれこそはこの地上にあって至高の一品。その舌に永久に記憶し、そしてその雅味を残りの人生すべてで以って語り継ぐが良い」
 淡々と、けれど尊大な態度で天井花イナリはそう謳った。
 凍原坂、《フラウ》、《火庫》。三人分の和菓子が、それぞれの前に並んでいる。
 凍原坂はひづりとちよこ、それから天井花イナリに礼をすると手を合わせて頂きますと唱えた。習慣なのか、両隣の《猫たち》も同じく手を合わせて「いただきます」と言った。
 出されたのは、当店特製のわらび餅だった。三人は黒文字を手に取って、まず最初に凍原坂がそれを口に運んだ。
 彼は眼を見開いて呆気に取られるように唇から黒文字を離すと、にわかにもう一切れ突き刺して口に入れた。
 それはひづりがこの一週間でもうずいぶんと見慣れた表情で、そしていつ見てもつい嬉しくなってしまう、そんな幸福の色に満ちたものだった。
「美味しい……! とても美味しいです!!」
 凍原坂はひづりとちよこと天井花イナリに慌しく視線を投げながら、歳を思わせないような子供っぽい笑顔で主張した。それに対し、やはり一番反応したのは天井花イナリだった。
 彼女はそれまでぶっきらぼうな態度で眼を伏せていたが、凍原坂が絶賛する感想を述べ始めるなり俄かにその耳と視線をそちらへ向け、幸せそうな顔で咀嚼する彼へ、まるで札束でも投げるようにふんぞり返って言った。
「そうであろう。良いぞ。存分に賞味し、賛美せよ」
 それはもう実に本当に嬉しそうで、こういう時の天井花イナリの表情がひづりも好きで、同じく嬉しくなってしまうのだった。
「凍原坂様、切り分けましたわ。口をお開けになってくださいまし」
 左に座っていた《火庫》がそのように言いながら上品な仕草で切り分けたわらび餅を凍原坂の口元へと差し出した。彼はありがとうと言いながらそれをぱくりと口にした。「じゃあ私からも」と言って彼は自分の分を今度は《火庫》の口に運んでやった。
「とーげんざか! 上手く切れん! 切り分けてわっちにも食べさせよ!」
 その長い猫のような爪では黒文字を上手く扱えないらしく、《フラウ》の方は自身の皿を凍原坂の前へ滑らし、口を開けて待機した。こちらも当たり前の様に凍原坂はわらび餅を一切れ持ち上げて彼女の口へと放り込んでやった。
「……おお! うまいではないか! 良いな! うまいぞとーげんざか! もう一口食べさせよ!」
「《フラウ》ばかりずるいわ。凍原坂様、わっちの分、まだまだありますゆえ、召し上がってくださいな」
 和鼓たぬこが作った菓子を美味しそうに各々楽しみつつ食べるその様を、少々複雑そうながらも天井花イナリは静かに見つめていた。喜びより冷静さを取り戻した様子であるようにも見えたが、けれどそこにはやけに感情を故意に圧しとどめようとするかの様な不自然な固さがあり、ひづりは仄かな違和感を覚えた。
「ああ、とても美味しかった……! あ、《フラウ》、こんなにこぼしてしまったのかい」
 食べ終えるなり凍原坂は鞄の中からお手拭を取り出して《フラウ》の胸元や口周りについた蜜やきな粉を拭いてあげていた。さらっと鞄からそういう道具が出てくる様に思わず「完全に父親のそれだな」とひづりはちょっと微笑ましく思った。
「ごちそうさまでした。あの、すみませんちよこさん、少し、こちらのお店のお品書きを見せて頂けませんか」
 《フラウ》の世話を終えると凍原坂はにわかにちよこを振り返った。
「ええ、構いませんけど、どうかされました?」
「お代を払わせて頂きたい!」
 凍原坂はそう声を張り上げて主張した。なんとまぁ、とひづりは少し感嘆するようだった。
「そんな、いけませんわ。これはただ、母が生前お世話になったお方にお出しした菓子に過ぎません。どうしてお代など頂けましょう」
「いいえ、いいえ、これほどの上等な甘味を口にさせてもらっておきながら対価を払わないというのはおよそ私の信条に反します! ですからどうか!」
「…………そうですか? では……」
 ちよこは棚から予備のお品書きを取り出して凍原坂に差し出した。
 本当はこの場では無償で和菓子を食わせる事で店の事を気に入らせ、今後もそういった積み重ねで凍原坂を丸め込み、やがて《弱み》を得ようとしていたのだろう。ちよこの顔は「今回は失敗だ」という顔をしているようにひづりには見えた。代金を払うという凍原坂の主張には少々驚いたが、それと同時にひづりは姉に対して「ざまを見ろ。そういつも上手くいくものか」と思った。
 凍原坂が受け取ったお品書きよりわらび餅三人分の代金をしかとちよこに支払う間に、《フラウ》と《火庫》はまた眠くなってしまったのか、再び凍原坂の太ももに頭を転がしてめいめいお昼寝に戻ってしまった。……一匹、こっち側に来てくれないかな、とひづりはそんな事を考えながらその様子を内心指を咥えて見ていた。








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名門零楼館高校はもともと女子高であったのだが、様々な要因で共学になって数年が経つ。 文武両道を掲げる零楼館高校はスポーツ分野だけではなく進学実績も全国レベルで見ても上位に食い込んでいるのであった。 そんな零楼館高校の歴史において今まで誰一人として選ばれたことのない“特別指名推薦”に選ばれたのが工藤珠希なのである。 工藤珠希は身長こそ平均を超えていたが、運動や学力はいたって平均クラスであり性格の良さはあるものの特筆すべき才能も無いように見られていた。 むしろ、彼女の幼馴染である工藤太郎は様々な部活の助っ人として活躍し、中学生でありながら様々な競技のプロ団体からスカウトが来るほどであった。更に、学力面においても優秀であり国内のみならず海外への進学も不可能ではないと言われるほどであった。 “特別指名推薦”の話が学校に来た時は誰もが相手を間違えているのではないかと疑ったほどであったが、零楼館高校関係者は工藤珠希で間違いないという。 工藤珠希と工藤太郎は血縁関係はなく、複雑な家庭環境であった工藤太郎が幼いころに両親を亡くしたこともあって彼は工藤家の養子として迎えられていた。 兄妹同然に育った二人ではあったが、お互いが相手の事を守ろうとする良き関係であり、恋人ではないがそれ以上に信頼しあっている。二人の関係性は苗字が同じという事もあって夫婦と揶揄されることも多々あったのだ。 工藤太郎は県外にあるスポーツ名門校からの推薦も来ていてほぼ内定していたのだが、工藤珠希が零楼館高校に入学することを決めたことを受けて彼も零楼館高校を受験することとなった。 スポーツ分野でも名をはせている零楼館高校に工藤太郎が入学すること自体は何の違和感もないのだが、本来入学する予定であった高校関係者は落胆の声をあげていたのだ。だが、彼の出自も相まって彼の意志を否定する者は誰もいなかったのである。 二人が入学する零楼館高校には外に出ていない秘密があるのだ。 零楼館高校に通う生徒のみならず、教員職員運営者の多くがサキュバスでありそのサキュバスも一般的に知られているサキュバスと違い女性を対象とした変異種なのである。 かつては“秘密の花園”と呼ばれた零楼館女子高等学校もそういった意味を持っていたのだった。 ちなみに、工藤珠希は工藤太郎の事を好きなのだが、それは誰にも言えない秘密なのである。 この作品は「小説家になろう」「カクヨム」「ノベルアッププラス」「ノベルバ」「ノベルピア」にも掲載しております。

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