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43 馬車
しおりを挟む じっと騎士を見つめて告げた言葉に――彼も事の重大さは認識しているのだろう、「ご説明ください」と促される。
「そもそも、ソフィア様に不貞など無理なのです。この場には私がおりました。私とソフィア様の二人で、イェルク様に付き添っていたのですから」
「ご令息の付き添い、ですか? そもそも彼は、何故、あのような……」
騎士の視線がイェルクに向けられる。
相も変わらず正体をなくして全裸を晒す男に、騎士の眉間に皺が寄った。彼の指示で、若い騎士の一人がイェルクに近づく。彼の傍で匂いを嗅ぎ、その脈を取った騎士が、小さく首を横に振った。
「酒の匂いがします。意識はありませんが、寝ているだけのようです」
そう言って、イェルクの身体を上掛けで隠し、戻ってくる。
「若者が酒量も弁えずやらかした」ように見える状況に、部屋の空気が弛緩した。
なんとも言えない空気が漂い始めたところで、テレーゼがまた「嘘よ!」と騒ぐ。
「クリスティーナ! この大噓つき! 貴女がこの部屋にいたなんて嘘! 部屋にはソフィアとイェルクしかいなかったわ!」
「それは少々、難しいのではないですか? テレーゼ様たちがこの部屋に入られた時から、私はこの場におりました。それに、部屋の外には、ねぇ……?」
暗に、「カトリナたちが見張っていただろう」と告げると、テレーゼがグッと言葉を呑み込んだ。それから、彼女はハッとしたように窓を指差す。
「あそこよ! 貴女、窓から入ってきたんでしょう? 二人の情事を隠すために!」
鋭い指摘を受けて、わずかにテレーゼを見直すが、そんなことはおくびにも出さない。代わりに、令嬢らしく困ったように笑ってみせた。
「テレーゼ様、お忘れかもしれませんが、ここは二階です。窓からというのは、まさか、私が二階まで壁をよじ登ったとでも仰るのですか?」
「そんな馬鹿な」と鼻で笑ってやると、テレーゼの表情が面白いくらいに歪む。怒りのあまり言葉が出てこないらしい彼女に代わり、壮年の騎士が口を開いた。
「ご令嬢、一つ確認させていただく。我々は警報を受けてここへ来たのだが、何故、窓が割れているのだろうか?」
テレーゼほど単純ではない男の眼差しは厳しい。
彼の視線を避けるように俯いて、「申し訳ありません」と頭を下げる。
「部屋の暗さに慣れず、花瓶を倒してしまいました。その際、花瓶が窓ガラスに当たって……」
「花瓶を? ……部屋の灯りを消しておられたのですか?」
訝しげな男の視線にますます俯く。恥じらいを示すため、手で頬に触れ、「はい」と小さく答えた。
「その……、イェルク様があのようなお姿でしたので、部屋を明るくするのは憚られて……」
「……なるほど」
渋い顔で頷いた騎士が考え込む。
彼の視線が、イェルクに向けられた後、再びこちらを向いた。
「彼を介抱されていたというが、何故、貴女方がそんなことを? 誰か王宮の者を呼ぶことは考えなかったのですか?」
「ああ! それはもちろん、私たちも考えておりました!」
ここで、三人でいたことまで変に邪推されてはたまらない。騎士の指摘に大きく頷いて、「ですが……」と続ける。
「部屋の鍵が壊れておりまして。後で確認していただいても構いませんが、外から鍵を掛けると、内からは開けられないのです」
「鍵を掛けられ、開けられなかった? それでは、貴女方は閉じ込められていたということですか? 誰がそんな真似を……」
眉間に皺を刻んだ騎士に、ゆるゆると首を横に振る。
「ご安心ください、騎士様。閉じ込められたなんて大げさな話ではなく、これも手違いと言いますか、混乱の末のちょっとした誤りにすぎません」
騎士たちの後ろに視線を向け、背の高い彼らに隠れるように立つ少女を見つける。彼女の名を呼んだ。
「……ねぇ、そうよね、カトリナ? 貴女、ちょっと混乱していたのよね?」
「っ!?」
俯いた彼女の華奢な肩が揺れる。伏せられた顔は見えないが、彼女の怯えは手に取るように分かった。伊達に長い時間を共に過ごしてはいない。わずかに胸が痛む。
(……だけど、しでかしたことの責任は、自分で取らなくてはね)
感傷を振り切り、騎士に向かって「そもそも」と告げる。
「この部屋に私とソフィア様を連れてきたのはカトリナです。私は、偶然、ソフィア様を連れた彼女と行き会い、この部屋を訪れました。ソフィア様の身の潔白は私が保証いたします」
そう改めて伝えると、騎士は曖昧ながらも納得したように頷いた。彼の反応に、テレーゼが焦った声で「騎士様!」と彼を呼ぶ。
「お待ちください! この女の発言は全て出鱈目です。カトリナは私の友人、常に私たちと行動を共にしておりました。ほら、現に今も!」
名指しされたカトリナの肩が再び揺れるが、彼女は何も言わない。
ならば、こちらの好きにさせてもらおうと、テレーゼに向け、呆れたように笑ってみせた。
「テレーゼ様、あまりいい加減なことを仰らないで。夜会場には、カトリナがソフィア様を連れ出す姿を見た方もいらっしゃるはずよ。ソフィア様には、確か、護衛もついていたでしょう?」
「っ!? カ、カトリナは、イェルク様に頼まれてソフィア様をここにお連れしたのよ!」
先ほどの発言をあっさり覆したテレーゼは、今度は、「密会の協力」という罪をカトリナに着せようとする。
「カトリナ! 正直に言いなさい。貴女、イェルク様に頼まれたのよね? 彼の頼みを断れなくて、二人の橋渡しをすることになったんでしょう?」
半ば脅しのようなテレーゼの言葉にも、カトリナは反応を示さない。
膠着した二人のやり取りを尻目に、「騎士様」と呼んで、壮年の騎士の注意を引く。
「カトリナは少し臆病なところがあるのです。彼女、イェルク様があのようなことになって、ひどく動転して。それで何故か、医者ではなく、ソフィア様を頼ってしまったのです」
「……なるほど。では、貴女方が部屋に閉じ込められたのは?」
「カトリナです。改めて、彼女に医者を呼びに行かせたのですが、慌てていたのか、部屋の鍵を掛けていってしまって……」
騎士にそう告げ、テレーゼに向けてニコリと微笑む。
「ですから、テレーゼ様がカトリナを連れて戻ってくださって、本当に助かりました。私たち、とても困っておりましたから」
「っ!? 何よ、なんなのあんた! あんた、その女のせいで殿下に捨てられたんでしょう? なのに、なんで庇うのよ!」
「庇う? いえ、私はただ真実を述べているだけで。ああ、でも……」
言って、今度は騎士に笑みを向ける。
「ソフィア様と利害関係にない、むしろ、対立の立場にあるからこそ、私の証言は信用してもらえるのではないでしょうか?」
「ええ、それはもちろん……」
同意を示す騎士の言葉は、テレーゼの「そんなわけないでしょう!」という言葉に遮られる。
「見なさいよ、イェルク様を!」
彼女の差す先、上掛けがあるとはいえ、彼の痴態など今更見たくもない。表情を消して無言を貫く。
「あんな姿で、介抱なんて言い訳が通るわけないでしょう! 情事の後に決まっているじゃない!」
(まぁ、確かに……)
全裸で意識のない姿を見られては、「何もなかった」とするのは難しい。せめて、服を着せる時間があれば良かったのだが。
チラリと、他の人間の後ろで小さくなったままのカトリナに視線を向ける。
これから自分が口にすること――他者の人生をくるわす発言に不快を覚えるが、ここまで来て後戻りはできない。
「……イェルク様のお相手は、ソフィア様ではありません」
「なっ! あんた、まさか、『自分が』なんて言い出すんじゃないでしょうね!?」
短絡的な発言をするテレーゼに、これ見よがしに嘆息する。
「違います。今の発言は私に対する侮辱です。二度と仰らないでください。……先ほどから言っているでしょう? 私たちがここに来るより前、私たちにイェルク様の窮状を訴えた者がいると」
「っ!? なんてこと! あんた、カトリナにその女の罪を着せるつもりね!」
テレーゼの叫びに、漸く、カトリナが反応する。ゆっくりと、周囲を窺うように顔を上げた彼女の顔面は蒼白だった。揺れる瞳がこちらを向く。
「……ねぇ、カトリナ? イェルク様のお相手が誰なのか、貴女、答えられるわよね?」
犯した罪から逃げることは許さない――
たとえ、それが彼女の望まぬところであろうと、抵抗が許されぬ状況であろうと。
ソフィアの信を得ていたカトリナなしに、今回の企みは成功しなかった。それ故に、彼女の罪は重い。
「罪を認めろ」と向けた視線に、その唇が震える。彼女の口から、微かな声が零れ落ちた。
「……私です。……イェルク様のお相手は、私です」
両手をきつく組み、そう告げたカトリナ。真っ直ぐにこちらを見つめる瞳に、満足にも似た安堵を覚える。
その満足をかき消すように、テレーゼが耳障りな叫び声を上げた。
「黙りなさい、カトリナ! あんた、私を裏切るつもりっ!?」
「裏切る……? 一体、なんのことでしょうか?」
テレーゼに向き合うカトリナの声に、既に震えはない。
こちらを一瞥した後、彼女は騎士の面々へ頭を下げた。
「……お騒がせしてしまい、申し訳ありません。保身から、すぐに真実を申し上げることができず、皆さまにご迷惑をお掛けしました」
「では、その、本当に、貴女が……?」
「はい。二人で過ごしていたところ、イェルク様が気をやってしまわれて。お恥ずかしい話、混乱して、ソフィア様とクリスティーナ様を頼ってしまいました。……本当に、浅はかでした」
カトリナの言葉に、騎士たちもそれ以上の言葉を失う。
真偽はどうあれ、未婚の令嬢であるカトリナが情事を認めたのだ。ここで、これ以上の追及は難しい。
騎士に、「別室で話を」と連れていかれそうになったカトリナに、テレーゼが詰め寄る。
「妄言も大概になさい! あんたはイェルク様に捨てられたの! 今更、相手になんてされるわけないでしょう!」
「……確かに、私たちの婚約は解消されました。ですが、私は今でもずっとイェルク様をお慕いしております。今宵、イェルク様がその想いを受け入れてくださり、私たちはこの部屋で結ばれたのです」
真っ向から否定したカトリナに、テレーゼの顔が醜く歪む。テレーゼが何かを言うより先に、カトリナが「証拠もあります」と右手を差し出した。握り締められた手が、ゆっくりと開かれる。
「……この部屋の鍵です。この部屋に自由に出入りできたのは私だけ。クリスティーナ様とソフィア様を誤って閉じ込めてしまったのも私です」
「馬鹿なこと言わないで! あんた、私を馬鹿にしてるでしょうっ!? その鍵は私が……っ」
言いかけた言葉の先がマズいと気付いたらしい。テレーゼが不自然に言葉を切る。それで、漸く、決着がついた。
効果的な証拠の提示。テレーゼの発言を封じ込めたカトリナの手腕に、胸中で賛辞を贈る。
(結局、カトリナの善性に助けられたってことか……)
己の発言を彼女が否定すれば、ここまで上手く事を収められなかった。彼女が自身の罪を認め、こちらの誘導を受け入れたからこその結末だ。
だが、カトリナのこれからの苦難を思うと、手放しで喜ぶことはできない。
(……贖罪として受け入れてくれればいいけど)
救いがあるとすれば、相手がイェルクだということ。それこそ、上手くやれば、彼と婚約を結び直すこともできる。カトリナの片恋が成就する可能性もあるが――
(後は二人と、……王家の問題ね)
身の破滅という状況でのんきに寝こけていた男の言い分などどうでもいいが、ソフィアが関わる以上、己とカトリナの発言が覆されることはない。それをしてしまうと、ソフィアの貞操が再び疑われることになる。王家としても、避けたいところだろう。
騎士に連れられ、カトリナが部屋を出ていく。彼女が部屋を出る直前、こちらに向けた碧の瞳に応え、私は小さく頭を下げた。
◆ ◆ ◆
王宮の王太子執務室。長椅子に座する王太子殿下を前に直立する。
「……失態だったな」
「申し開きのしようもありません」
吐き捨てられた言葉に、謝罪の言葉を口にして深く頭を下げた。
殺伐とした空気に耐えかねたのか、殿下の隣に座るソフィアが口を開く。
「あの、二人とも、ごめんなさい。私が迂闊だったから。だから、イェルクだけのせいじゃなくて……」
己を庇う言葉に、奥歯を噛み締める。
彼女の優しさが、今は屈辱でしかなかった。
下げたままの頭の向こうで、殿下の嘆息が聞こえる。
「それで? お前の目から見た真実は? ソフィアと騎士団から報告は受けたが、お前自身の口から真実を聞きたい」
問いに、「はい」と答えて顔を上げる。羞恥に暴れ出したくなる言葉を、なんとか口にした。
「……バルデ子爵夫人に嵌められました」
「バルデ? ……子爵家の未亡人か」
「はい。彼女と部屋に入り、すすめられた酒を口にしました。……ですが、それ以降の記憶がありません」
己の発言に、殿下の眉根に皺が刻まれる。
「薬物だろうな。睡眠薬でも飲まされたか……」
自身と同じ結論に達した殿下の言葉を、黙って受け入れる。過去に関係を持った相手とはいえ、よく知りもしない女を信用した己の愚かさに腹が立った。
(油断していた。……クソッ、なんて馬鹿な真似を!)
カトリナから解放され、脇が甘くなっていたのだと自省する。
目を覚ました時には、事態は既に自身の手を離れ、のっぴきならない状況に陥っていた。
残された選択肢は二つ。「主の婚約者と不貞を働いた反逆者」となるか、「捨てた婚約者に手を出した愚か者」となるか。
(クソ、クソ、クソッ! 何故、あんな女の誘いに乗ってしまったっ!?)
結果、未婚の令嬢に手を出した責任として、己に執着し続けるカトリナと再び婚約を結び直す破目になった。
愚か者の烙印を押されただけでなく、あの女の執着に搦め捕られてしまうとは――
「……イェルク。バルド夫人の背後にいるのは誰だと見る? テレーゼか、クリスティーナか」
「それは……、おそらく、テレーゼ・リッケルトかと」
意識のない間の話ではあるが、騎士団の報告とソフィアの話からある程度の推測は立っている。
自身とソフィアの不貞を主張したのがテレーゼ・リッケルトである以上、子爵夫人が彼女の手先であることは間違いない。
(カトリナに嵌められた可能性もないとは言えないが……)
あの女に、それほどの知恵も度胸もない。
ただ、気になるのは、クリスティーナの存在だ。
彼女とカトリナは示し合わせたように、テレーゼの発言を否定している。まるで、ソフィアと己を庇うかのように――
(……何故だ? カトリナが私との婚約を画策したのだというなら分かる。だが、だとしても、クリスティーナに益はない)
カトリナは一度、クリスティーナを裏切っている。クリスティーナが彼女を利する理由がない。
(では、だとすれば、やはり、クリスティーナはソフィアを庇った……?)
確信が持てずに沈黙すると、殿下が口を開いた。
「テレーゼに関しては方が付いている。あの女の不敬に対し、王家から正式な抗議を入れた。……少なくとも、ソフィアが卒業するまで、あの女が表に出てくることはない」
そう告げる殿下の眉間の皺は消えず、問題が片付いたとはとても言えない表情だ。
「厄介なのはクリスティーナだ。あの女、一体、何を企んでいるのか……」
己と同じ疑念。捨て置くわけにはいかない問題に、思案する。
沈黙の中、ソフィアが「あの」と口を挟んだ。
「もしかしたら、クリスティーナさんも反省して、私に歩み寄ろうとしてくれたんじゃないかな?」
「反省? まさか、あの女が?」
殿下の「あり得ない」と言わんばかりの声音に、ソフィアが「でも!」と反論する。
「確かに、『お友達にはなれない』って言っちゃったけど、私とクリスティーナさんって、一応、和解してるでしょう? それで、私が困ってるのを見て、助けてくれたんじゃないかなーって……」
しりつぼみになったソフィアの言葉に毒気が抜かれたのか、殿下の口から笑い声が零れた。
「ハハッ! 全く、お前という奴は、気が良すぎるというか、なんというか……!」
「えっ!? ちょっと、アレクシス! キャァ!」
殿下の腕が傍らのソフィアに伸び、引き寄せられた彼女の身体が長椅子に沈んだ。
戯れる二人の姿を横目に、先ほどのソフィアの言葉を反芻する。「和解」や「窮状を見かねて」など、あり得ぬ推論に、自然と眉間に力が入った。
己の知るクリスティーナは、他者の甘えを許さず、他者に阿ることもしない。ソフィアに許しを与えられたとはいえ、それを恩に着るような性格では決してない。
だからこそ、彼女の行動原理が見えずに悩んでいるのだが――
「……殿下」
「なんだ?」
「今回の件、やはり、情報が少なすぎます。このままでは埒があきませんので、一度、クリスティーナ嬢に直接問い質したいと思います」
己の提案に、ソフィアを腕に抱いた殿下が渋面を浮かべた。
「お前が直接、か? 今回の騒動は事件ではないのだぞ? ……大事にするつもりはない」
「はい。それは承知しております」
ソフィアの体面、名誉を守るため、騒動の収束を急ぐ殿下の判断は理解する。
(だが、このまま、今のままでは……!)
己の心が納得しない。
この身が、汚辱にまみれたままでは――
「……カトリナを使います」
彼女の名にソフィアがピクリと反応したが、特に口を開くことはなかった。
「カトリナとの婚約を報告するという建前で、クリスティーナ嬢に接触します。『カトリナとの仲を取り持ってくれた礼だ』とでも言えば、拒否はされないでしょう」
「なるほど」と頷いた殿下は思案の末、クリスティーナとの接触を認めた。
殿下の隣でソフィアがもの言いたげにしていたが、気付かぬ振りで早々に暇を告げる。
要らぬ邪魔をされては困る。
クリスティーナの企み、その尻尾さえ掴めれば、今度こそ、カトリナごと叩き潰すことができるのだから。
(……必ず、後悔させてやる)
己の名を貶めたことも、望まぬ婚約を押し付けたことも。必ず――
ヘリング家に乗り付けた馬車。立ち上がる気になれず、座席で動かずにいると、扉が外から開いた。
馭者の開けた扉から、着飾った女が乗り込んでくる。弾むような足取りで、顔を紅潮させて。
「……なんです、その恰好は? まさか、愛し愛される婚約者のつもりですか?」
己の発言に、対面に座ろうとした女――カトリナの顔から表情が消えた。静かに腰を下ろした彼女が口を開く。
「……本日は、公爵令嬢であるクリスティーナ様を訪問すると伺っています。彼の方に相応しい装いを選びました」
言い訳めいた発言に、鼻で笑って返す。それきり、カトリナは口を閉じた。
走り出した馬車の中、沈黙が支配する。
会話に煩わされることのない状況は歓迎するが、本命との対峙前に、ある程度の情報は掴んでおかねばならない。
「……貴女とクリスティーナ嬢はグルですか?」
カトリナの視線が一瞬こちらを向くが、すぐに窓の外に逸らされた。
「クリスティーナ嬢は何を企んでいるのです? わざわざ、裏切り者の貴女を使ってまで」
「裏切り者」という言葉に、凡庸な碧の瞳が再びこちらを向く。
「……私ごときに、クリスティーナ様のお考えが分かろうはずもございません。ですが、私があの方を裏切ることは二度とありません」
「フン。そうやって殊勝な態度を見せて、また、あの女に取り入るつもりですか?」
相手の怒りを煽って失言を狙う言葉に、しかし、カトリナは表情を崩さない。
そのまま、また窓の外に顔を向けた女の態度が苛立たしく、腹立ち紛れの言葉を口にする。
「そんな浅はかな考えが、クリスティーナ嬢に通用するとでも? 彼女も馬鹿ではありません。一度でも自分を裏切った人間を傍に置くわけがない」
「……重々、承知しております。私に、あの方のお傍に侍る資格はありません」
窓の外に向けられた暗い双眸。そこに好機を見て、彼女の名を呼ぶ。
「……カトリナ。我々につきなさい」
それは、いつかと同じ言葉。彼女に「諾」と言わせる術は既に心得ている。
「私に従えば、アレクシス殿下の庇護を得られます。今まで通り、ソフィア様に侍ることもできる。クリスティーナ嬢にも、ウィンクラー家にも、手出しはさせないと約束しましょう」
外を見つめるカトリナが目を閉じた。痛みに耐えるかのような表情を浮かべるが、返事はない。
致し方なく、更に言葉を重ねる。
「それに、私も。……婚約者として、貴女を尊重すると約束しましょう」
そこで漸く、カトリナがこちらを向いた。笑んでみせると、彼女の口からため息が零れる。
「……お断りいたします」
「何故ですっ!? 貴女にとっても、ヘリング家にとっても、決して悪い話ではない。私は、伴侶として貴女を生涯大切にすると……!」
「先ほども申し上げました通り、私がクリスティーナ様を裏切ることは二度とありません。……それに、イェルク様のお約束に、一体どれほどの価値があると?」
冷め切った瞳で告げられ、頭に血が上る。
(このっ、調子に乗った愚か者が……っ!)
置かれた状況を理解しない女は、こちらの提示した最善の選択を無価値なものとして払いのけた。話の通じぬ女への苛立ちが募る。
まずは、この愚かな女に自身の立場を理解させねば――
「……いいですか、カトリナ? 勘違いされては困りますが、私が聖夜祭での貴女との関係を認めたのは、他に選択肢がなかったからです。婚約は私の意思ではありません」
返す言葉がないのか、カトリナが沈黙する。それにため息をついて、「だから」と続けた。
「いくらそうやって着飾ってみせても、そんなもので私の気は引けません。貴女が、私の歓心を買いたい、私の隣に立ちたいと望むのなら……」
言いかけた言葉は、カトリナの一言で遮られた。
「そもそも、ソフィア様に不貞など無理なのです。この場には私がおりました。私とソフィア様の二人で、イェルク様に付き添っていたのですから」
「ご令息の付き添い、ですか? そもそも彼は、何故、あのような……」
騎士の視線がイェルクに向けられる。
相も変わらず正体をなくして全裸を晒す男に、騎士の眉間に皺が寄った。彼の指示で、若い騎士の一人がイェルクに近づく。彼の傍で匂いを嗅ぎ、その脈を取った騎士が、小さく首を横に振った。
「酒の匂いがします。意識はありませんが、寝ているだけのようです」
そう言って、イェルクの身体を上掛けで隠し、戻ってくる。
「若者が酒量も弁えずやらかした」ように見える状況に、部屋の空気が弛緩した。
なんとも言えない空気が漂い始めたところで、テレーゼがまた「嘘よ!」と騒ぐ。
「クリスティーナ! この大噓つき! 貴女がこの部屋にいたなんて嘘! 部屋にはソフィアとイェルクしかいなかったわ!」
「それは少々、難しいのではないですか? テレーゼ様たちがこの部屋に入られた時から、私はこの場におりました。それに、部屋の外には、ねぇ……?」
暗に、「カトリナたちが見張っていただろう」と告げると、テレーゼがグッと言葉を呑み込んだ。それから、彼女はハッとしたように窓を指差す。
「あそこよ! 貴女、窓から入ってきたんでしょう? 二人の情事を隠すために!」
鋭い指摘を受けて、わずかにテレーゼを見直すが、そんなことはおくびにも出さない。代わりに、令嬢らしく困ったように笑ってみせた。
「テレーゼ様、お忘れかもしれませんが、ここは二階です。窓からというのは、まさか、私が二階まで壁をよじ登ったとでも仰るのですか?」
「そんな馬鹿な」と鼻で笑ってやると、テレーゼの表情が面白いくらいに歪む。怒りのあまり言葉が出てこないらしい彼女に代わり、壮年の騎士が口を開いた。
「ご令嬢、一つ確認させていただく。我々は警報を受けてここへ来たのだが、何故、窓が割れているのだろうか?」
テレーゼほど単純ではない男の眼差しは厳しい。
彼の視線を避けるように俯いて、「申し訳ありません」と頭を下げる。
「部屋の暗さに慣れず、花瓶を倒してしまいました。その際、花瓶が窓ガラスに当たって……」
「花瓶を? ……部屋の灯りを消しておられたのですか?」
訝しげな男の視線にますます俯く。恥じらいを示すため、手で頬に触れ、「はい」と小さく答えた。
「その……、イェルク様があのようなお姿でしたので、部屋を明るくするのは憚られて……」
「……なるほど」
渋い顔で頷いた騎士が考え込む。
彼の視線が、イェルクに向けられた後、再びこちらを向いた。
「彼を介抱されていたというが、何故、貴女方がそんなことを? 誰か王宮の者を呼ぶことは考えなかったのですか?」
「ああ! それはもちろん、私たちも考えておりました!」
ここで、三人でいたことまで変に邪推されてはたまらない。騎士の指摘に大きく頷いて、「ですが……」と続ける。
「部屋の鍵が壊れておりまして。後で確認していただいても構いませんが、外から鍵を掛けると、内からは開けられないのです」
「鍵を掛けられ、開けられなかった? それでは、貴女方は閉じ込められていたということですか? 誰がそんな真似を……」
眉間に皺を刻んだ騎士に、ゆるゆると首を横に振る。
「ご安心ください、騎士様。閉じ込められたなんて大げさな話ではなく、これも手違いと言いますか、混乱の末のちょっとした誤りにすぎません」
騎士たちの後ろに視線を向け、背の高い彼らに隠れるように立つ少女を見つける。彼女の名を呼んだ。
「……ねぇ、そうよね、カトリナ? 貴女、ちょっと混乱していたのよね?」
「っ!?」
俯いた彼女の華奢な肩が揺れる。伏せられた顔は見えないが、彼女の怯えは手に取るように分かった。伊達に長い時間を共に過ごしてはいない。わずかに胸が痛む。
(……だけど、しでかしたことの責任は、自分で取らなくてはね)
感傷を振り切り、騎士に向かって「そもそも」と告げる。
「この部屋に私とソフィア様を連れてきたのはカトリナです。私は、偶然、ソフィア様を連れた彼女と行き会い、この部屋を訪れました。ソフィア様の身の潔白は私が保証いたします」
そう改めて伝えると、騎士は曖昧ながらも納得したように頷いた。彼の反応に、テレーゼが焦った声で「騎士様!」と彼を呼ぶ。
「お待ちください! この女の発言は全て出鱈目です。カトリナは私の友人、常に私たちと行動を共にしておりました。ほら、現に今も!」
名指しされたカトリナの肩が再び揺れるが、彼女は何も言わない。
ならば、こちらの好きにさせてもらおうと、テレーゼに向け、呆れたように笑ってみせた。
「テレーゼ様、あまりいい加減なことを仰らないで。夜会場には、カトリナがソフィア様を連れ出す姿を見た方もいらっしゃるはずよ。ソフィア様には、確か、護衛もついていたでしょう?」
「っ!? カ、カトリナは、イェルク様に頼まれてソフィア様をここにお連れしたのよ!」
先ほどの発言をあっさり覆したテレーゼは、今度は、「密会の協力」という罪をカトリナに着せようとする。
「カトリナ! 正直に言いなさい。貴女、イェルク様に頼まれたのよね? 彼の頼みを断れなくて、二人の橋渡しをすることになったんでしょう?」
半ば脅しのようなテレーゼの言葉にも、カトリナは反応を示さない。
膠着した二人のやり取りを尻目に、「騎士様」と呼んで、壮年の騎士の注意を引く。
「カトリナは少し臆病なところがあるのです。彼女、イェルク様があのようなことになって、ひどく動転して。それで何故か、医者ではなく、ソフィア様を頼ってしまったのです」
「……なるほど。では、貴女方が部屋に閉じ込められたのは?」
「カトリナです。改めて、彼女に医者を呼びに行かせたのですが、慌てていたのか、部屋の鍵を掛けていってしまって……」
騎士にそう告げ、テレーゼに向けてニコリと微笑む。
「ですから、テレーゼ様がカトリナを連れて戻ってくださって、本当に助かりました。私たち、とても困っておりましたから」
「っ!? 何よ、なんなのあんた! あんた、その女のせいで殿下に捨てられたんでしょう? なのに、なんで庇うのよ!」
「庇う? いえ、私はただ真実を述べているだけで。ああ、でも……」
言って、今度は騎士に笑みを向ける。
「ソフィア様と利害関係にない、むしろ、対立の立場にあるからこそ、私の証言は信用してもらえるのではないでしょうか?」
「ええ、それはもちろん……」
同意を示す騎士の言葉は、テレーゼの「そんなわけないでしょう!」という言葉に遮られる。
「見なさいよ、イェルク様を!」
彼女の差す先、上掛けがあるとはいえ、彼の痴態など今更見たくもない。表情を消して無言を貫く。
「あんな姿で、介抱なんて言い訳が通るわけないでしょう! 情事の後に決まっているじゃない!」
(まぁ、確かに……)
全裸で意識のない姿を見られては、「何もなかった」とするのは難しい。せめて、服を着せる時間があれば良かったのだが。
チラリと、他の人間の後ろで小さくなったままのカトリナに視線を向ける。
これから自分が口にすること――他者の人生をくるわす発言に不快を覚えるが、ここまで来て後戻りはできない。
「……イェルク様のお相手は、ソフィア様ではありません」
「なっ! あんた、まさか、『自分が』なんて言い出すんじゃないでしょうね!?」
短絡的な発言をするテレーゼに、これ見よがしに嘆息する。
「違います。今の発言は私に対する侮辱です。二度と仰らないでください。……先ほどから言っているでしょう? 私たちがここに来るより前、私たちにイェルク様の窮状を訴えた者がいると」
「っ!? なんてこと! あんた、カトリナにその女の罪を着せるつもりね!」
テレーゼの叫びに、漸く、カトリナが反応する。ゆっくりと、周囲を窺うように顔を上げた彼女の顔面は蒼白だった。揺れる瞳がこちらを向く。
「……ねぇ、カトリナ? イェルク様のお相手が誰なのか、貴女、答えられるわよね?」
犯した罪から逃げることは許さない――
たとえ、それが彼女の望まぬところであろうと、抵抗が許されぬ状況であろうと。
ソフィアの信を得ていたカトリナなしに、今回の企みは成功しなかった。それ故に、彼女の罪は重い。
「罪を認めろ」と向けた視線に、その唇が震える。彼女の口から、微かな声が零れ落ちた。
「……私です。……イェルク様のお相手は、私です」
両手をきつく組み、そう告げたカトリナ。真っ直ぐにこちらを見つめる瞳に、満足にも似た安堵を覚える。
その満足をかき消すように、テレーゼが耳障りな叫び声を上げた。
「黙りなさい、カトリナ! あんた、私を裏切るつもりっ!?」
「裏切る……? 一体、なんのことでしょうか?」
テレーゼに向き合うカトリナの声に、既に震えはない。
こちらを一瞥した後、彼女は騎士の面々へ頭を下げた。
「……お騒がせしてしまい、申し訳ありません。保身から、すぐに真実を申し上げることができず、皆さまにご迷惑をお掛けしました」
「では、その、本当に、貴女が……?」
「はい。二人で過ごしていたところ、イェルク様が気をやってしまわれて。お恥ずかしい話、混乱して、ソフィア様とクリスティーナ様を頼ってしまいました。……本当に、浅はかでした」
カトリナの言葉に、騎士たちもそれ以上の言葉を失う。
真偽はどうあれ、未婚の令嬢であるカトリナが情事を認めたのだ。ここで、これ以上の追及は難しい。
騎士に、「別室で話を」と連れていかれそうになったカトリナに、テレーゼが詰め寄る。
「妄言も大概になさい! あんたはイェルク様に捨てられたの! 今更、相手になんてされるわけないでしょう!」
「……確かに、私たちの婚約は解消されました。ですが、私は今でもずっとイェルク様をお慕いしております。今宵、イェルク様がその想いを受け入れてくださり、私たちはこの部屋で結ばれたのです」
真っ向から否定したカトリナに、テレーゼの顔が醜く歪む。テレーゼが何かを言うより先に、カトリナが「証拠もあります」と右手を差し出した。握り締められた手が、ゆっくりと開かれる。
「……この部屋の鍵です。この部屋に自由に出入りできたのは私だけ。クリスティーナ様とソフィア様を誤って閉じ込めてしまったのも私です」
「馬鹿なこと言わないで! あんた、私を馬鹿にしてるでしょうっ!? その鍵は私が……っ」
言いかけた言葉の先がマズいと気付いたらしい。テレーゼが不自然に言葉を切る。それで、漸く、決着がついた。
効果的な証拠の提示。テレーゼの発言を封じ込めたカトリナの手腕に、胸中で賛辞を贈る。
(結局、カトリナの善性に助けられたってことか……)
己の発言を彼女が否定すれば、ここまで上手く事を収められなかった。彼女が自身の罪を認め、こちらの誘導を受け入れたからこその結末だ。
だが、カトリナのこれからの苦難を思うと、手放しで喜ぶことはできない。
(……贖罪として受け入れてくれればいいけど)
救いがあるとすれば、相手がイェルクだということ。それこそ、上手くやれば、彼と婚約を結び直すこともできる。カトリナの片恋が成就する可能性もあるが――
(後は二人と、……王家の問題ね)
身の破滅という状況でのんきに寝こけていた男の言い分などどうでもいいが、ソフィアが関わる以上、己とカトリナの発言が覆されることはない。それをしてしまうと、ソフィアの貞操が再び疑われることになる。王家としても、避けたいところだろう。
騎士に連れられ、カトリナが部屋を出ていく。彼女が部屋を出る直前、こちらに向けた碧の瞳に応え、私は小さく頭を下げた。
◆ ◆ ◆
王宮の王太子執務室。長椅子に座する王太子殿下を前に直立する。
「……失態だったな」
「申し開きのしようもありません」
吐き捨てられた言葉に、謝罪の言葉を口にして深く頭を下げた。
殺伐とした空気に耐えかねたのか、殿下の隣に座るソフィアが口を開く。
「あの、二人とも、ごめんなさい。私が迂闊だったから。だから、イェルクだけのせいじゃなくて……」
己を庇う言葉に、奥歯を噛み締める。
彼女の優しさが、今は屈辱でしかなかった。
下げたままの頭の向こうで、殿下の嘆息が聞こえる。
「それで? お前の目から見た真実は? ソフィアと騎士団から報告は受けたが、お前自身の口から真実を聞きたい」
問いに、「はい」と答えて顔を上げる。羞恥に暴れ出したくなる言葉を、なんとか口にした。
「……バルデ子爵夫人に嵌められました」
「バルデ? ……子爵家の未亡人か」
「はい。彼女と部屋に入り、すすめられた酒を口にしました。……ですが、それ以降の記憶がありません」
己の発言に、殿下の眉根に皺が刻まれる。
「薬物だろうな。睡眠薬でも飲まされたか……」
自身と同じ結論に達した殿下の言葉を、黙って受け入れる。過去に関係を持った相手とはいえ、よく知りもしない女を信用した己の愚かさに腹が立った。
(油断していた。……クソッ、なんて馬鹿な真似を!)
カトリナから解放され、脇が甘くなっていたのだと自省する。
目を覚ました時には、事態は既に自身の手を離れ、のっぴきならない状況に陥っていた。
残された選択肢は二つ。「主の婚約者と不貞を働いた反逆者」となるか、「捨てた婚約者に手を出した愚か者」となるか。
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結果、未婚の令嬢に手を出した責任として、己に執着し続けるカトリナと再び婚約を結び直す破目になった。
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「反省? まさか、あの女が?」
殿下の「あり得ない」と言わんばかりの声音に、ソフィアが「でも!」と反論する。
「確かに、『お友達にはなれない』って言っちゃったけど、私とクリスティーナさんって、一応、和解してるでしょう? それで、私が困ってるのを見て、助けてくれたんじゃないかなーって……」
しりつぼみになったソフィアの言葉に毒気が抜かれたのか、殿下の口から笑い声が零れた。
「ハハッ! 全く、お前という奴は、気が良すぎるというか、なんというか……!」
「えっ!? ちょっと、アレクシス! キャァ!」
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だからこそ、彼女の行動原理が見えずに悩んでいるのだが――
「……殿下」
「なんだ?」
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己の提案に、ソフィアを腕に抱いた殿下が渋面を浮かべた。
「お前が直接、か? 今回の騒動は事件ではないのだぞ? ……大事にするつもりはない」
「はい。それは承知しております」
ソフィアの体面、名誉を守るため、騒動の収束を急ぐ殿下の判断は理解する。
(だが、このまま、今のままでは……!)
己の心が納得しない。
この身が、汚辱にまみれたままでは――
「……カトリナを使います」
彼女の名にソフィアがピクリと反応したが、特に口を開くことはなかった。
「カトリナとの婚約を報告するという建前で、クリスティーナ嬢に接触します。『カトリナとの仲を取り持ってくれた礼だ』とでも言えば、拒否はされないでしょう」
「なるほど」と頷いた殿下は思案の末、クリスティーナとの接触を認めた。
殿下の隣でソフィアがもの言いたげにしていたが、気付かぬ振りで早々に暇を告げる。
要らぬ邪魔をされては困る。
クリスティーナの企み、その尻尾さえ掴めれば、今度こそ、カトリナごと叩き潰すことができるのだから。
(……必ず、後悔させてやる)
己の名を貶めたことも、望まぬ婚約を押し付けたことも。必ず――
ヘリング家に乗り付けた馬車。立ち上がる気になれず、座席で動かずにいると、扉が外から開いた。
馭者の開けた扉から、着飾った女が乗り込んでくる。弾むような足取りで、顔を紅潮させて。
「……なんです、その恰好は? まさか、愛し愛される婚約者のつもりですか?」
己の発言に、対面に座ろうとした女――カトリナの顔から表情が消えた。静かに腰を下ろした彼女が口を開く。
「……本日は、公爵令嬢であるクリスティーナ様を訪問すると伺っています。彼の方に相応しい装いを選びました」
言い訳めいた発言に、鼻で笑って返す。それきり、カトリナは口を閉じた。
走り出した馬車の中、沈黙が支配する。
会話に煩わされることのない状況は歓迎するが、本命との対峙前に、ある程度の情報は掴んでおかねばならない。
「……貴女とクリスティーナ嬢はグルですか?」
カトリナの視線が一瞬こちらを向くが、すぐに窓の外に逸らされた。
「クリスティーナ嬢は何を企んでいるのです? わざわざ、裏切り者の貴女を使ってまで」
「裏切り者」という言葉に、凡庸な碧の瞳が再びこちらを向く。
「……私ごときに、クリスティーナ様のお考えが分かろうはずもございません。ですが、私があの方を裏切ることは二度とありません」
「フン。そうやって殊勝な態度を見せて、また、あの女に取り入るつもりですか?」
相手の怒りを煽って失言を狙う言葉に、しかし、カトリナは表情を崩さない。
そのまま、また窓の外に顔を向けた女の態度が苛立たしく、腹立ち紛れの言葉を口にする。
「そんな浅はかな考えが、クリスティーナ嬢に通用するとでも? 彼女も馬鹿ではありません。一度でも自分を裏切った人間を傍に置くわけがない」
「……重々、承知しております。私に、あの方のお傍に侍る資格はありません」
窓の外に向けられた暗い双眸。そこに好機を見て、彼女の名を呼ぶ。
「……カトリナ。我々につきなさい」
それは、いつかと同じ言葉。彼女に「諾」と言わせる術は既に心得ている。
「私に従えば、アレクシス殿下の庇護を得られます。今まで通り、ソフィア様に侍ることもできる。クリスティーナ嬢にも、ウィンクラー家にも、手出しはさせないと約束しましょう」
外を見つめるカトリナが目を閉じた。痛みに耐えるかのような表情を浮かべるが、返事はない。
致し方なく、更に言葉を重ねる。
「それに、私も。……婚約者として、貴女を尊重すると約束しましょう」
そこで漸く、カトリナがこちらを向いた。笑んでみせると、彼女の口からため息が零れる。
「……お断りいたします」
「何故ですっ!? 貴女にとっても、ヘリング家にとっても、決して悪い話ではない。私は、伴侶として貴女を生涯大切にすると……!」
「先ほども申し上げました通り、私がクリスティーナ様を裏切ることは二度とありません。……それに、イェルク様のお約束に、一体どれほどの価値があると?」
冷め切った瞳で告げられ、頭に血が上る。
(このっ、調子に乗った愚か者が……っ!)
置かれた状況を理解しない女は、こちらの提示した最善の選択を無価値なものとして払いのけた。話の通じぬ女への苛立ちが募る。
まずは、この愚かな女に自身の立場を理解させねば――
「……いいですか、カトリナ? 勘違いされては困りますが、私が聖夜祭での貴女との関係を認めたのは、他に選択肢がなかったからです。婚約は私の意思ではありません」
返す言葉がないのか、カトリナが沈黙する。それにため息をついて、「だから」と続けた。
「いくらそうやって着飾ってみせても、そんなもので私の気は引けません。貴女が、私の歓心を買いたい、私の隣に立ちたいと望むのなら……」
言いかけた言葉は、カトリナの一言で遮られた。
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